愚慫空論

教育

教育の「教」と「育」。【おのずから】と【みずから】。前回、コメントを流用したエントリーは、最後にこの4つの言葉を付け加えたところで終わりました。今回はそこにもう少し付け加えたいと思います。

戦争という仕事戦争という仕事
内山 節

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例によって、内山節著『戦争という仕事』から。



かつて日本の人々は、すべてのことのなかに「おのずから」の働きがあると考えていた。たとえば、春が来て、夏が来て、秋が来るのも「おのずから」である。春には山の木々が芽吹き、秋には紅葉するのも、幼木が大木になり、いずれ枯れていくのも「おのずから」である。それと同じように、村人は畑を耕し、山の恵みを受け、共同体とともに暮らすなかに「おのずから」を感じとっていた。「おのずから」展開していく世界が守られているのが無事であり、それが守れない状態が発生することに、不安や異常、禍を感じていた。そして、「おのずから」展開していく世界を守ろうとすると、そこに、それぞれの人の役割が生まれる。「おのずから」が損なわれていない村を維持しようとすれば、田畑や祭りや共同体や村の自然を守っていかなければならないし、そのための一人ひとりの役割も生じるのである。
 「仕事」は、この役割をこなすことと結ばれていた。役割をこなすのは「みずから」である。ただし「みずから」は、人間の一方的な意志によるものではなく、「おのずから」展開する世界での自分の役割をはたす、という意味で「みずから」であった。だから「おのずから」と「みずから」は、漢字で「自(か)ら」と書いてあってカナがふってなければ、どちらで読んだらよいのかわからない。
 このことは、竹内整一の『〈おのずから〉と〈みずから〉』(春秋社)に詳しいが、かつての日本の人々は、「おのずから」を感じ取りながら「みずから」生きることを理想としていた。「おのずから」の世界を捨てることは、ヤクザな生き方を意味したのである。
〈おのずから〉と〈みずから〉〈おのずから〉と〈みずから〉
竹内 整一

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【おのずから】の世界のなかで、人は【みずから】役割を果たす。その役割が【仕事】であるならば、教育という【仕事】の役割とは何なのでしょう? 

それは、生まれてきた子供たちが【みずから】役割を果たして【おのずから】展開する世界の一員となること、でしょう。ここで重要なのは教育の「育」です。【おのずから】の世界観では子供もまた【おのずから】の一部。なので、【おのずから】を見守り育ててやればいい。

人間は他の動物たちのように本能的に受け継いでいる行動だけでは生存が不可能は生き物。生存のための技術は不可欠で、そこを教育するのが「教」でしょうが、それはあくまで手段であり目的ではない。目的を教える――のではなくて、【みずから】見つけ出すことを促すのが「育」。けれども、今の教育はどうでしょう? 【おのずから】生きていくだけでは不足とばかりに奪い合うための競争に走る。そのための競争の手段の獲得にばかり教育の比重がかかっている。そこでは本来子供に必要な「育」が十分与えれていないのではないのか...。

それにまた、民主主義という思想は【おのずから】とは背反する思想でもあります。民主主義は【おのずから】生まれてきたものではなく、人間理性が獲得した成果だと捉えられています。ということは、民主主義での教育は勢い「かくあるべき」になる。真の民主主義の達成には、民主主義を支える市民ひとりひとりが成熟することが必要だといわれます。成熟した市民とは「かくあるべき」をだれからも強いられることなく【みずから】実践できる者のことでしょう。が、それが難しい。民主主義社会が成熟することはまず不可能だとも言われていますが、その理由は、「かくあるべき」と【みずから】の矛盾にある。【みずから】は【おのずから】に支えれて育まれるが、民主主義の根本思想は【おのずから】と背反する。なので市民は余計に子供たちに「教」を施す。その「教」が「育」を抑圧する。さらに「育」の抑圧によって出てくる歪みを「教」を施すことによって矯正しようとする...。今の教育はそのような悪循環に陥ってしまっているのではないでしょうか?

その歪みを感じているのか、昨今は道徳教育の重要性が唱えられている。しかし、その道徳もまた、「かくあるべし」の「教」なのですね。愛国心を“涵養する”などといいますが、もはや今の社会には子供たちを“涵養する”能力など失われてしまっている。なぜそんなことになったのか、足下を見つめることをせずに国旗国家が良いの悪いのといった「教」の視点に立った議論ばかり行われる。
私たちがなにげなく使っている「仕事」という言葉には、異なった二つの意味合いがあるのだと思う。ひとつは自分の役割をこなすということであり、もうひとつは自分の目的を実現するための働きである。たとえば、「それは私の仕事です」というときの「仕事」は、自分の役割をさしている。それに対して、「自分の能力を活かせる仕事」といったときの「仕事」は、自分の目的をかなえられる労働を意味している。

これもまた『戦争と仕事』からです。私が【仕事】と表記するのは、自分の役割としての「仕事」のことです。つまり【みずから】すすんで【おのずから】展開される世界の一員となる方策としての「仕事」。これが【仕事】です。

が、この【仕事】が今の日本社会で顧みられることは少なくなってしまった。「自分の能力を活かせる仕事」に【仕事】は席巻されてしまいました。そしてそんな「仕事」を独占しているのが「勝ち組」です。「勝ち組」の「仕事」には【みずから】は確かにあります。しかし、そこには【おのずから】はない。その「仕事」は【おのずから】も「かくあるべき」も破壊する資本主義の原理に忠実に則ったものです。

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)ハイエク 知識社会の自由主義
池田 信夫

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【おのずから】は資本主義からも民主主義からも脅威に曝されています。しかし、わたしたちが良い社会だと感じるのは、おそらくは【おのずから】が展開される社会のはず。それは新自由主義の高祖たるハイエクが目指した社会でもある。「自律分散の思想」です。が、新自由主義は【おのずから】の社会を実現するか? 今蔓延っている新自由主義はニセモノですが、ホンモノであったとしても難しいでしょう。新自由主義――これこそが最も民主主義的な資本主義経済思想――は「人間としての権利」のみを保障しますが、「労働者の権利」「労働の権利」は保障しません。が、【おのずから】は「労働の権利」と共にあるのです。


ここでもう一度、上の引用に戻ります。そこにはこうあります。
「おのずから」展開していく世界が守られているのが無事であり、それが守れない状態が発生することに、不安や異常、禍を感じていた。

これは、最初に『戦争と仕事』を紹介したエントリーにも似たような記述が出てきます。
そのとき、ものづくりのなかに、無事な営みを感じ平和を感じることが出来なくなっていったのだと思う。だから、私たちの社会は、無事でも平和でもない。現実に戦争が行われているから、という理由だけではなく、日々の経済活動も仕事も、無事でも平和でもないからである。「いのち」をみつめることを仕事のなかでやめたとき、私たちは無事や平和の原点にあるものを捨ててしまった。

【おのずから】は平和の原点でもあるのです。それが私が「護憲保守」に鞍替えした理由です。

追記:いうまでもなく、教育の「教」と「育」は知識の〔知ること〕と〔識ること〕に対応します。

コメント

要点。

 労働の権利・識る=私という存在が自然、人類、人間と一体になる事に仕える。労働者の権利・知る=私という存在が自然、人類、人間と一体になる事に仕えることを犠牲にした分配を巡る闘争。現代における「私」についての問題は、上に述べた意味での「労働の権利」・「識る」を犠牲にして、「労働者の権利」・「知る」を獲得しようと「競争」する「私」にある。それゆえ「現代における「私」についての問題を解決するには「私」という存在が自然、人類、人間の「あるがまま」=現実と一体となること、すなわち、「おのずから」となることを「みずから」生きていくことになる。それは「私」という存在が善く生きるということであって、性善説の信仰としての護憲保守の生き方であるといってよい。

 こんな感じに読解しましたが違いますかね?笑。

「私」の問題から見ますと

> 労働の権利・識る=私という存在が自然、人類、人間と一体になる事に仕える。

【仕事】によって一体に誰もが自然と一体になれる、というのは少し違います。人はそんな簡単に自然と一体にはなれません(笑)。そうじゃなくて、逆に自然と向き合うことで「私」の立ち位置を〔識る〕とでも言った方がよいでしょう。これと同様に

>労働者の権利・知る

もまた「私」の立ち位置を〔識る〕ための方策であるわけです。「闘争」もその方策。

闘争するには、まず「私」にレッテルを貼らなければならないでしょう? 私はプロレタリア、あいつはブルジョア。闘争はそのレッテルをアイデンティティに高めようとする行為でもある。闘争の結果はあまり関係ないように思える。闘争そのものに意味がある。

そしてですね、闘争によってある程度にまで確保されたアイデンティティをさらに高めようとすると、闘争のなかにさらに闘争を呼び込んでしまう。「内ゲバ」というやつですね。

ですので、「分配」なんておそらく二の次。分配の問題は、生きていけなくなるまで取り分を減らされるとさすがに闘うしかないでしょうが、それ以上では「分配」は闘争のための大義名分でしょう。

私が言いたいのはこうした意味のことです。つまり「私」の存在をどこに位置づけるかということ。他者との比較でしか位置づけられないのは問題であり、それは理性万能主義の「近代」の構造に基づいている、そういう主張です。

>それゆえ「現代における「私」についての問題を解決するには「私」という存在が自然、人類、人間の「あるがまま」=現実と一体となること、

別にそれでなくてはならないと主張しているわけではないです。そこはそれぞれの「風土」から培われたやり方に従うのが、もっとも無理がないだろうというのです。西洋式に世界を創造したという「神」を想定して、そこに倫理の基準を設けてもよい。

>こんな感じに読解しましたが違いますかね?笑。

う~ん、唯物史観に基づいた読解という感じがしましたです、はい。

またまた記事とは関係ないのですが

昔は如何だたったかは知りませんが、池田 信夫は駄目ですよ。
喜八さんも怒っているようですが、今では科学的知見とか知性の欠片も放棄して妄想の世界に逃避している様で未だに小泉改革を天まで持ち上げて、失敗したのは取り巻きが悪かったとか何とか弁解している。
可哀想に現実の世界が見えていないのでしょう。
そういえば、彼にとっての科学とは我々一般人の科学とは別物ですよ。自分のブログのコメント欄で、

科学と宗教 (池田信夫) 2007-06-11 01:34:50
『科学と宗教に本質的な違いがないということは、特に人間原理にからんで物理学者も認めています。』

、と言い切っていますが凄まじい反科学的な意見ですね。
勿論幾等正しい『科学』でも健全な懐疑心を無くし妄信すれば『宗教』と同じような論理の落とし穴にはまり込む事は色々な例が示しているが、宗教と科学の同一性を物理学的に証明できるとするのは池田 信夫ならではの芸当ですね。少しでもマトモ科学に対する態度とか常識が有れば到底こんな発言は出来ません。


Re: またまた記事とは関係ないのですが

> 昔は如何だたったかは知りませんが、池田 信夫は駄目ですよ。
> 喜八さんも怒っているようですが、今では科学的知見とか知性の欠片も放棄して妄想の世界に逃避している様で未だに小泉改革を天まで持ち上げて、失敗したのは取り巻きが悪かったとか何とか弁解している。
> 可哀想に現実の世界が見えていないのでしょう。
> そういえば、彼にとっての科学とは我々一般人の科学とは別物ですよ。自分のブログのコメント欄で、
>
> 科学と宗教 (池田信夫) 2007-06-11 01:34:50
> 『科学と宗教に本質的な違いがないということは、特に人間原理にからんで物理学者も認めています。』
>
> 、と言い切っていますが凄まじい反科学的な意見ですね。
> 勿論幾等正しい『科学』でも健全な懐疑心を無くし妄信すれば『宗教』と同じような論理の落とし穴にはまり込む事は色々な例が示しているが、宗教と科学の同一性を物理学的に証明できるとするのは池田 信夫ならではの芸当ですね。少しでもマトモ科学に対する態度とかな常識が有れば到底こんな発言は出来ません。

「19世紀には労働者はみんな「派遣」だった」

これもヒドイですね(笑)。すごくイビツな歴史と宗教の認識だと思いました。

けど、それでいいんですよ、私にとっては。イビツなところは多々あれども、正しい部分も少なからずある。その正しさは、イビツであるがゆえに正しいかもしれない、なんて思っているわけです。もしそうなら、氏の経済認識の正しくなるのは、経済の法則そのものがイビツであるためだ、という具合にも考えられる。私はそうした目で氏を眺めているわけです。

氏は、正しくもイビツな近代社会のバロメーターみたいなものでは?

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