愚慫空論

信仰 あるいは左翼批判

当エントリーは手抜きでして、前エントリー『「知的フレーム」を壊せ!」にいただいたコメントとその応答を再掲載しただけのもの。でも、それだけの価値があると思うので、新たにエントリーにしておきます。

‘あるがまま’はつらいものです

そのつらさにどう耐えうるのか…。
今の世の中は、『進歩』を旨としていますから、一歩も進まない自分に直面し続けるのはなかなか骨です。
結局、フレームはいつも中途半端で放り出されます。
「決意」も「信仰」もない人間のもろさと未熟さ…。
このまま、ただ老いていくだけなのでは、という漫然とした不安…。

やはり、大切なことは、「信じること」という気がします。それは、「識ること」へ向かうという決意なのかもしれませんが…。
なめぴょんさんじゃないけど、ここはロック・スピリットが必要だな(爆)。
(by naokoさん)


左翼批判の理由

naokoさん

> そのつらさにどう耐えうるのか…。
> やはり、大切なことは、「信じること」という気がします。

はい。そのつらさに耐えには「信仰」が欠かせません。昨年末、私は「保守回帰」を宣言(?)しましたけれども、その肝要は「信仰」なのですね。非理性的なものへの信仰。「科学信仰」批判も、今から思えばその立場からのものでした。

信仰は【対話】から生まれるのだと私は思っています。自然との【対話】、あるいは自然を超越した神との【対話】。これらは人が暮らすそれぞれの風土と密接に関係していると思う。だから「保守」になる。理念を掲げる革新に叛旗を翻すことになる。
(by 愚樵)



>知的探求とは、そもそもが「知的フレーム」を組み上げることです。どこにも隙間のない枠組みを組み上げること
<
僕がジジェクやラカンを通して面白いなと思っていることは、知覚したものから「どこにも隙間のない枠組み」を組み上げるためには、切り落とさなければならない「もの」が必ずある、ということです。
それを落とさなければ「どこにも隙間のない枠組み」は現れないし、だからこそその枠組みは その落とされ隠された「もの」に依拠し、実質的に支えられている。

この落とされ隠された「もの」の方へ近づく術(すべ)が分かってくると、知的フレームに振り回されにくくなるんだろうな、と。

切り落とさなければならない「もの」

> 僕がジジェクやラカンを通して面白いなと思っていることは、知覚したものから「どこにも隙間のない枠組み」を組み上げるためには、切り落とさなければならない「もの」が必ずある、ということです。

まだジジェクとラカンは読めてません (^_^; 本は買ったのですけど、時間がとれない...。けども、仰ることはとてもよく分かるような気がする。

> それを落とさなければ「どこにも隙間のない枠組み」は現れないし、だからこそその枠組みは その落とされ隠された「もの」に依拠し、実質的に支えられている。

もし仮に「知的フレーム」の中に「世界」をもらさず網羅することができたとしても、そこには決定的に欠如するものが出てきますよね。それは「信 仰」なんですが、ここでいう「信仰」とは、〔自分と世界との結びつき〕のこと。そこを【対話】を通じて〔識る〕ことをここ観る営為が「信仰」なんだと思い ます。ですので、完璧な「知的フレーム」がもたらすのは自身が何者であるかを喪失してしまう「虚無」ですね。

> この落とされ隠された「もの」の方へ近づく術(すべ)が分かってくると、知的フレームに振り回されにくくなるんだろうな、と。

御意。
(by 愚樵)

知的フレーム

おっしゃっていることは、世界(他者を含め)を認識あるいは理解するための「知的フレーム」が、むしろ認識あるいは理解を狭めてしまうように機能する、ということだと思います。

例えば、ネットでもしばしば、自分の理解できないことに対して怒りや苛立ちを表明する人に遭遇します。
これは、「知的フレーム」が人の理解力の健全な(?)発展を阻害する実例だと思います(愚樵さんの記者の例もそうですね)。

しかし、ここで重要なのは「知的フレーム」を壊すことではない、と思っています。
むしろ、よりよい「知的フレーム」を得るために、既存の「知的フレーム」を脱構築・再構築することだと思っています。

しかし、自分の「知的フレーム」の狭量さを自覚するのは難しい。
おっしゃるように、「知的フレーム」は完全なものではあり得ない(ゆえに、常に修正を必要とする)ということを強調することでしょうか。
(by quine10さん

Re: 知的フレーム

> おっしゃっていることは、世界(他者を含め)を認識あるいは理解するための「知的フレーム」が、むしろ認識あるいは理解を狭めてしまうように機能する、ということだと思います。

はい。

> 例えば、ネットでもしばしば、自分の理解できないことに対して怒りや苛立ちを表明する人に遭遇します。
> これは、「知的フレーム」が人の理解力の健全な(?)発展を阻害する実例だと思います(愚樵さんの記者の例もそうですね)。
>
> しかし、ここで重要なのは「知的フレーム」を壊すことではない、と思っています。
> むしろ、よりよい「知的フレーム」を得るために、既存の「知的フレーム」を脱構築・再構築することだと思っています。
>

それは、「知的フレーム」の捉え方によると思います。新聞記者が書く記事程度の「フレーム」であるならば、それは仰るように脱構築・再構築が適切 な方法でしょう。そこに新たにより網羅的な「フレーム」を組み上げる。quine10さんの捉え方において、quine10さんのお考えは正しいと思いま す。

ですが、そうでない捉え方もあります。naokoさん、アキラさんの捉え方ですね。私もどちらかというと、こちらの捉え方です。

こちらの捉え方ですと、更新された「フレーム」も「知的フレーム」であることには変わりなく、その「フレーム」はアキラさんが指摘されたように、 構造的に決定的なものを取りこぼす。それは“ありのまま”であり「信仰」であるわけですが、それがあるが故に、「知的フレームを壊せ!」となるんです。

> しかし、自分の「知的フレーム」の狭量さを自覚するのは難しい。

「知的フレーム」がその人のアイデンティティとなっている場合は、特に。

悩む力 (集英社新書 444C)悩む力
姜尚中

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最近の事例で典型的なのは、『悩む力』の姜尚中でしょう。姜尚中のいう「悩む」とは、私には「知的フレーム」を壊そうとするものだと受け止められ ます。その「悩み」は、“自分はなにものか”という問いに向かうことになり、その問いの答えは「知的フレーム」の中からは絶対に導き出せないものなのだ、 と。このエントリーの意味は、そこのところにあります。

ちなみに、「知的フレーム」がその人のアイデンティティとなっている人を、「インテリ」というのだと思います。インテリはすべからく啓蒙主義者ですが、それは彼らの自身のアイデンティティによるのですね。

姜尚中はインテリの壁をぶち破りましたが、それは悩ましいことだったでしょうね、きっと。
(by 愚樵)



私たちが暮らす「近代社会」とは、社会のアイデンティティが「知的フレーム」にある時代です。それは教育のあり方をみれば分かります。ネコも杓子も高学歴、資格だスキルだMBAだ...。重点は「教」です。

「教」が「育」を妨げる。これが現代の「教育」のありかたです。「教」とは、つまり知育のこと。行きすぎた知育が、子供たち――だけではなくて、大人も――を素直に育むことを阻害している。民主主義の基礎となる「人権」の本当の意味は、おのおの人間が他の人々との交わり、自然や神との交わりのなかで【おのずから】捉えられていくものです。けれど、今の教育は、教育そのものが【おのずから】を抑圧してしまっている。これでは社会が良くなるはずもないのです。

【おのずから】把握した人間は、【みずから】行動を起こしていく。これを“〔志(こころざし)”〕といいます。「教」重視の近代社会で認められるのは、「知」に志をおいた者のみ。いえ、のみ、は言い過ぎですが、そうした傾向に拍車がかかっていく。そして〔志〕とは「労働の権利」でもあるのです。

コメント

空の上にひとり

タイトルに深い意味はありません。が、やはりこうなってしまいます。どうしましょう。弱ったな。
ワタシがこの世に存在しだしてから、「前提」として刷り込まれてきたこと、取り入れてきたことをその蓄積から離脱して眺めてみなければならないのか、それとも一気に燃やしてしまうか……。
何が棄てるもので、何をとっておくべきだ?
じゃあ、とっておくものは、本当にワタシ自身の知的フレームなのか? それともフレームの具材なのか?それは何だ。

カンも内山もジジックもラカンも読んでしまっては、ワタシの知的フレームの前提になってしまうのだろうか? そやつらのフレームに取り込まれるではないか? それとも具材にできるのか……。
ああ、孤独だ。
ん、なにが孤独なんだ? 「対話」しろよ、かぁ?
「対話」かぁ。
「対話」だべ。
「対話」だよね。
あれ、これは愚樵的知的フレームかしら?
ああ、どうどうめぐりだ。



朝から戯れ言です。
失礼しました。爆!!!!!!!!



興味深いです

>これらは人が暮らすそれぞれの風土と密接に関係していると思う。だから「保守」になる。理念を掲げる革新に叛旗を翻すことになる。
<
僕は、これとまったく同意見でもって「改憲保守」です。 (^_^;)
(宮台チルドレンだし♪)
けれど、ご紹介いただいた内山氏の『戦争という仕事』を読んで、教えられるところがありました。
ので、目下 時間をかけてまた考え中です。

こうして読んでいても、やはりどこかに「分からなさ」があるんですよねぇ。 (^o^)
そこが面白いなぁと思います。
そうして愉しみでもあります。
ずっと分からないでいたいです。

はじめまして

いつも楽しく拝見しています。
風屋や合川D、宮川Dなんかでよく釣りをしています。
林業の盛んな宮崎の山奥なんかにもよく仕事で
いくので樵さんの知り合いもいます。
大変なお仕事ですよね。

生きるって本当に大変ですけど
自分は子供が出来て一生懸命
一瞬一瞬を完全燃焼しながら
生きている赤ちゃんを見ていて
いろいろと救われましたね。

自分はなんて余計なこと(過去や未来やら人間関係のこと諸々)を考えてこのかけがえのない瞬間をないがしろにして生きてんだろ、と思いました。

またもっとも尊敬しなければいけない
人間が自分の親なんだなという
ことも生まれてはじめてわかった気がしました。

子供ができてから何か新しい人生が
始まったような気さえしています。

いつの日にか管理人さんの子育て
エントリーを拝見したいです。

以前の児やらひは大変参考になりました。

自分は年に何回か宮崎の山奥までいって夜釣りをするのですが、真夜中一人で水辺にいると不思議と気持ちよくなって時間が経っているのを忘れてしまうような経験が度々ありました。もしかしたらこういう経験が信仰につながっていくのかもしれないなぁ、管理人さんの文章を読ませていただいてるとふとそんな考えがことが頭をよぎりました。ちなみにそのエリアは有史以来神道一色です。

まとまりがないコメントで失礼いたしました。

それでは。







Re: 空の上にひとり

> タイトルに深い意味はありません。が、やはりこうなってしまいます。どうしましょう。弱ったな。

あはは。かなりニヒルはいってますね、dr.stoneflyさん?


> ああ、孤独だ。
> ん、なにが孤独なんだ? 「対話」しろよ、かぁ?

まずは、奥さんと息子さんと「対話」すればどうですか?
「対話」ってなにも言葉を使うだけじゃない。一番の「対話」はスキンシップ。
ほら、志村さんが大文字の「KNOW[とかって言ってたじゃないですか(笑)

そんな「対話」をしても、そんでもdr.stoneflyさんはまだ孤独ですか?

たとえ「対話」をしても、相手のことは「分かりません」。でも、いいんです、分からなくったって。受け入れる「決断」さえしていれば。ね、アキラさん。

> あれ、これは愚樵的知的フレームかしら?

はい。でも、破れてるでしょ。分からないでいいって言ってるんですから。

破れかぶれで行きましょう(笑)

Re: はじめまして

metさん、はじめまして。

> 風屋や合川D、宮川Dなんかでよく釣りをしています。

ほうほ。でしたらすれ違っているかもしれませんね。

> 林業の盛んな宮崎の山奥なんかにもよく仕事でいくので樵さんの知り合いもいます。

それはそれは(^o^)

>生きるって本当に大変ですけど自分は子供が出来て一生懸命一瞬一瞬を完全燃焼しながら生きている赤ちゃんを見ていていろいろと救われましたね。

原点ですね。

またもっとも尊敬しなければいけない人間が自分の親なんだなということも生まれてはじめてわかった気がしました。

それは「仁」ですね。儒教。私のところでもいつか取り上げてみたいと思ってますけど...、できるかな?

> いつの日にか管理人さんの子育てエントリーを拝見したいです。

それは...。子は授かりものですから、ね。

> 自分は年に何回か宮崎の山奥までいって夜釣りをするのですが、

人間はそういうもののようです。個人差はありますが。けれども、そういう能力をだんだん失いつつあるようでもありますね。大切にしたいものです。

どうか、またお越しください。

カラを破るときに消えたもの

ごめんなさい愚樵さん、またまた軒をお借りして、

アキラさん、お久しぶりです。

>僕は、これとまったく同意見でもって「改憲保守」です。 (^_^;)

あたしは、何だかよくわからないけどこれだけは変えちゃいけないんじゃないかと思ってるような日本国憲法原理主義者だから「改憲」って言葉にはやたらと極悪なイメージをなすり付けてるとこがあるのかもしれない。

でも、アキラさんの「改憲保守」なら聞いてみたいな、と思うから不思議なんだよね。(ちなみに宮台さんのは読んだことがない。だからこの場合は先に宮台さんのに当たるのが筋だろうけど。せっかちでごめんね)

もしかしたら、アキラさんのブログを丹念に読んでるとそれは自明だったりするのかな。

そうすると、あたしが心の奥で感じてるアキラさんは怖い(悪いふうにとらないでね、って無理か 笑)、っていうのとつながっているのかもしれないね。

あたしが日本国憲法を選んだ、そのときに切り捨てたもの、の存在。

わたしはやっぱり護憲保守だなあ

改憲の種類にもよるという気がする一方、今の日本には、憲法を改良する力があるのか、という点で恐ろしく不安。
どうも改悪になりそうな気が…。
その理由は、‘祈り’の欠如(!)です。

誤解されると何なので

形而下での孤独は感じていません。
家族との対話は深くしています。
以上。

ごんさん、こんにちは♪

>たとえ「対話」をしても、相手のことは「分かりません」。でも、いいんです、分からなくったって。受け入れる「決断」さえしていれば。ね、アキラさん。
<
はい。 (^o^)
愚樵さん、軒先お借りします。m(_ _)m

ごんさん、お久しぶりです。
あ、悪いふうにとってませんから、だいじょぶです。 (^o^)

僕の「改憲保守」については、自分のところでそのうち記事にして考えたいと思っています。
愚樵さんが紹介してくださった内山氏の本を読んで、今また考え中なので、考え方が変わる可能性があるからです。
でも、今んところのポイントだけ記してみますね。
僕の「改憲」はわりと単純で、天皇制と軍備に関しての「改憲」派です。
軍備に関してだけ書いてみます。

僕は日本が誇りを持って独自の意見や行動を世界の協調のために示していくには、
きちんと国として自立をしている必要があると思っています。
現行のような、アメリカの核の傘の下に入った、アメリカの一属州のような立ち位置から脱することが出来なければ、その自立は不可能だと思ってる。
自立が出来なければ、一人前の意見や振る舞いもまた不可能でしょう。

現在の世界の中では、そのためには重武装化をするか、高度な外交技術(諜報技術も含む)を駆使するか、その両方か、そういう選択をするしかない、と思っています。
「非武装の状態を維持したまま 高度な外交技術のみを駆使する」という選択肢をとるには、それを可能にするだけの卓越したリテラシーが必要になってきますが、それが日本にあるとは思えないし、今の延長線上でそのうち出来るとも思えない。
よって、自立するためには重武装化は避けられない、という意見です。

しかしそれは、「使うため」ではなく極力「使わないため」に持つ、という方向で、ですが。
そのために、法律で厳密にコントロールする、シバらなければならない。
ところがnaokoさんも仰るように、「今の日本には、憲法を改良する力があるのか、という点で恐ろしく不安」。 (^_^;)
ゲバルトを厳密にコントロールできるような議論を、現状 出来るとも思えない。
だから、それやこれやのリテラシーが全体的に上がってくるまでは、今のまんまでしょうがないかなー とも思ってます。
しかしそうなると、沖縄を見放してしまうことにもなる。。。
今はこの苦しさの悪循環です。

「フレームの破れ」としての9条

>僕は、これとまったく同意見でもって「改憲保守」です。

ここですね。そうなる理由を勝手に&飛躍をもって推測させてもらいますと、それはアキラさんが一神教的なもの、私が多神教的なものにシンパシーを感じている、その差なんだと思います。

タイトルの書いた「フレーム」、これは立憲主義のこと。立憲主義と9条、そして天皇制は、どうみても矛盾するんですね。そもそも立憲主義ってのは、主権があっての話なんだけど、9条はその主権を明らかに制限している。また1条は、天皇を象徴としているけれども、これは元首であるという意味でもある。元首が象徴で、しかも基本的人権すら守られていないなんて、どう考えてもおかしいんですよ。

一神教的メンタリティーに近い「知的フレーム」的発想だと、これは矛盾するから「改正」して正そうとする。それはそれで正しい方向なんです。けれど、多神教的メンタリティーからすれば、そうした「フレームの破れ」こそが大切なんです。だから9条に手を入れることは「改悪」でしかない。

これは美的感覚なんかにも影響していて、たとえばアチラはシンメトリーなところに「神の創造」に近しいものを観てとり尊重するけれども、コチラはむしろ、シンメトリーは「静止」「停止」であり、「死」に近いイメージに映る。生的なものは破れていて、その破れの中に美を観る。そういう差があります。

これは立憲主義そのものの見方にも関係していて、「フレームの完成」を求める向きには立憲主義は疑いようのないものだけども、「フレームの破れ」に価値を求める者にとっては、立憲主義もまた歴史の過程のひとつでしかない。で、どちらの見方が「歴史」という視点から見て正しいかというと、私にはどう見ても後者だと思うんですね。

もっとも、こうした考え方は特異です(笑)。左翼は立憲主義を完成した者として見ながら、9条を守ろうとする。だからどうしても情緒論になるんです。“ひとりひとりの命はかけがえのないもの”って、まちがいなく正しいのだけど、それが情緒論の域から脱することが出来ないんですね。

沖縄を内に抱えればよいだけのこと

アキラさんが、アメリカ軍基地を抱える沖縄を考えると9条改正に傾くという意味のことをおっしゃっている(気がする)。
しかし、一端陵辱されてしまったものは元には戻らないです。
逆に、‘沖縄を見捨てない’ということは、自らもまた内に沖縄を抱えるというだけのことです。
それは、それほど難しいことではありません(たぶん・笑)。

現状三像

アキラさん、
>天皇制
日本は、天皇制、なのですか?

>非武装の状態を維持したまま 高度な外交技術のみを駆使する

高度な外交技術は持っているはずですよ。日本
だから重武装の自衛隊があまり意味を持っていないように振る舞うことができる。そうしてきた。
少し話は逸れますが、専守防衛の自衛隊が「旧式の」クラスター爆弾をたくさん所持しているというのは不思議なことです。でも、あたしはちょっと考えて、自衛隊は国土をただ守るだけでない、他の役割があることを示しているんではないかと思うわけです。アメリカのお得意様としての。

経済的な役割ですね。

別の話をしましょう。海兵隊の基地はアメリカのお荷物です。刑務所に行くか、沖縄に行くか、それが海兵隊の入隊の言葉です。沖縄の基地はそういう役割も受け容れています。貧乏で騒音の下でしか生きられない人々は、同じように貧乏で、銃と麻薬の世界を抜け出してきた人々の受け皿となって両国の経済を支えている。支えてきた。

そのことはもっと誇りたい、誇っていいはずだけど、誇れない。日本人も沖縄が頑張ってくれているおかげだとは、言わない、言えない。心ある人ならそんなことは言えないし、そうでない人はそんなことは言わない。

なぜか。あたしらの血税が、世界中の人々を実際に殺しているから。だよね。

そこからの脱却は、専守防衛を貫きつつ、そして、他国間の戦闘には決して参加しない、むしろ戦闘状態のその両国を非難するという形の意思表明が一番賢明だと思う。日本は九条と自衛隊でそれをやってきた。アメリカへの「経済援助」は他の方法ですればいい。「経済援助」だとわかる形でやればいい。

その前に、

発展途上「の」地域の水道と病院と学校をメイドインジャパンに染め上げるのが一番賢いやり方だと思うのだけど。

アメリカの経済を援助するのは青息吐息の軍産ヴァンパイアの息の根を止めたあとで(断末魔の咆哮は怖いけど、聞かないふりをするのはうまいじゃない。日本)

そうですねぇ

>愚樵さん

>それはアキラさんが一神教的なもの、私が多神教的なものにシンパシーを感じている、その差なんだと思います。
<
そうなのかなぁ・・・そうなんでしょうね、おそらく。 (^o^)

僕は個人的に、誰かの犠牲(生け贄)の上に立って、自分は無傷で安穏としているってのが、基本的にイヤなんですよ。 (^_^;)
ただ乗りしないように、それなりのリスクを引き受けるべきなんじゃないか、と思ってるんです。
だから、天皇制に関しても軍備に関しても考えてしまうって感じですかね。
そういう意味では、確かに西欧的なものの考え方をしているのかもしれません。 (^_^;)

>naokoさん

>‘沖縄を見捨てない’ということは、自らもまた内に沖縄を抱えるというだけのことです。
<
沖縄を考えると九条改正に傾くということではないんですが (^_^;)、愚樵さんへのコメントにある感覚があります。
僕が「自らもまた内に沖縄を抱える」ことを考えると、そういう感覚になるようです。

>ごんさん

>日本は、天皇制、なのですか?
<
はい、僕は十分に機能しているというか、そこに支えられていると思ってます。

ごんさんの仰ることは分かっているつもりです。
しかし今の日本のそれを可能にしているのは、その基盤に天皇とアメリカがあるからこそ、という気がしています。
そこに乗っかる格好で廻ってればいいというのなら、それでいいのかもしれないのですが、はたしてそれでいいんだろうか?と思うんです。

例としては適切でないかもしれませんが、自分の家族を守るために、自分で(誰かを)殺すのと、ヤクザに金を渡して殺させるのと、家族みんなで死ぬ覚悟をするのと・・・そんな違いを想像します。
「家族みんなで死ぬ覚悟(でも死なずに済む)」が一番理想的なのでしょうが、僕はほかの家族にまでそれを求められないのです。
そういう感じでしょうか。

じゆう

あたしは、戦争責任、についてもそうなのだけど、本人の自由意志ってのがそこに存在できたのか。ということにこだわります。よそさまのことに対しては。

たとえば、拒否できる(つまりは自由意志は存在し得る)のならその生き方を否定して一般に馴染めばいい。現行憲法はそこに制限を加えてはいないはずです。

ところで「自由意志で動いたわけではなかった」という連合国の裁定(手打ち)に従うとすれば、天皇は条項自体が憲法の理念に抵触することになる。平等ではないですよね。

このコンフリクトにあたしは、当時の人々の、ぎりぎりの決断を見るわけです。

日本国憲法のオオトリテエはそこに選択する余地をおいたのではないのですか。

あの大戦での罪業について、わたしは「日本軍の誤りを確認し、自らの意志に従って、そのとおりに戦争に抗った人」だけが正しい、あるいは罪を免れるとは思いたくないのですよ。

それともうひとつ、現在の沖縄の選択が「詰まるところアメリカと天皇制に乗っかってる」と思わせたいという意図が存在するとしたら、それは怖いことです。

そこからの脱却は「民主国家としての自立」なんてできもしないことではなくて「日本国憲法の理念」を追い求めることでしか、なされないのじゃないか。

と、ふと思ったりするのです。

相変わらずわかりにくいので

あ~、あたしは何でこうなのかね。

>それともうひとつ、現在の沖縄の選択が「詰まるところアメリカと天皇制に乗っかってる」と思わせたいという意図が存在するとしたら、それは怖いことです。

↑この部分に続けて以下の挿入↓

現在のわたしの選択、つまりは日本国憲法が「詰まるところアメリカと天皇制に乗っかってる」というよくある話しに矮小化されてしまうから。憲法の価値が貶められることは、わたしにとって怖いことです。たとえ、わたしの選択が間違っていて、その「よくある話し」が真実だったとしても。

んで、ここも。

>そこからの脱却は「民主国家としての自立」なんてできもしないことではなくて「日本国憲法の理念」を追い求めることでしか、なされないのじゃないか。

↑に続けて↓でお願いします

今のアメリカを見れば、武力による均衡を前提とした「民主国家としての自立」なんてものは絵に描いた餅だということがわかります。(そもそも国家という大規模な人間集団が自立する、というのはそれ自体かなり大きなディレンマを抱えているように思うのです。そこを見落とすと「日本は単一民族の神の国」みたいな荒唐無稽なことを言い出す人間が増えるのじゃないかな)このことは「沖縄の自立」についても同じことが言えます。「国家の悲願としての自立」なんかより、この時の決意をあたしは推すということです。九条に込められたこの思いを。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

「知的フレーム」

トラックバックありがとうございます。
どちらにコメントしようかと迷いましたが、コメント欄の賑わっているこちらにします。

まず、僕の基本的な立場についてですが。
僕はもう確信犯的に「理性主義」という立場をとっています。
この点では愚樵さんとは対極に位置しているかもしれません。
一応、予防線を張っておくと、理性であらゆる領域を覆いつくせるとは思っていません(「完璧な知的フレームなどない」と言い換えられるかもしれません)。
人間の行動・行為において情が深くかかわっている(というか必要不可欠である)ということは、広く知れ渡ってきたでしょう(行動経済学など)。
しかし、理性によって対応できることは理性的に対応した方がよいだろうと。
そして、理性によって対応できるかどうかは、実際に理性を行使してみないとわからない(そこで理性的に対応できないことについてはあきらめればよい)。
僕のいう「理性主義」とはこのような意味です。
僕は科学を信頼していますし、科学的知識の有意義さを認めますが、疑似科学批判の必要性は必ずしも認めない。これも僕流の「理性主義」の表れかもしれません。

で、「知的フレーム」ですが。
どうも「知的フレーム」に「完璧さ」や「正しさ」を求めがちなのですが、それは悪しき理性主義と思っています。
ローティ流にいえば、それは「知的フレーム」を「世界を映し出す鏡」として捉える発想です。
僕はそれに対して、「世界に対処するための道具」として「知的フレーム」を提唱したい(まさにプラグマティズムということですが)。
道具ならば「正しさ」とか「完璧さ」に拘る事から人々を解放するでしょう(通常は道具を評価するのは、「目的に対する有用性」でしょうから)。

ごんさん

基本的な背景の問題については、ごんさんの仰ってることに異論はありません。
僕もそう思います。
それを踏まえた上で、僕は日本の現状は天皇とアメリカに乗っかって廻っているということを、否定しがたい事実だと捉えています。
そこが違う点なのでしょう。

そうして、そこからの脱却は「日本国憲法の理念」を追い求めることでしかなされないのじゃないか、というごんさんの主張も理解できます。
そう出来たら一番いいとも思う。

んで、最初に戻るわけですが、その「理念」を追い求めるにあたって、誰かを犠牲にし続けながらじゃないとそれが出来ない、というのは基本的にイヤなんです。
ただ乗りしながらの追求ではなく、自分がリスクを引き受けながらやらんといかんのじゃ?と思う。
生け贄になる人たちが「いいんだよ、わたし(わたしたち)はそれで」と心から言い続けられるのではあれば、それでもいいのかなとは思いますが・・・。

そういうあたりをどうしたらいいのか、それを考え続けています。
ですから単に改憲すれば、現状に見合うとか、今より良くなる(改正)とは思ってないんです。
むしろ、改憲すれば全体のリスクは格段に増えるでしょう。
でも、汚い仕事は誰かにやらせておいてきれいなところに住み、そうしてどうしたら汚い仕事がなくせるか そこで考えようというような感じは、僕はちょっと違う気がしてるんですよね。
きれいなところに住むなら、そのために必要なあれこれは自ら引き受けようよ、と思う。
そんな感じでしょうか、今は。

Re: 「知的フレーム」

> 僕はもう確信犯的に「理性主義」という立場をとっています。
> この点では愚樵さんとは対極に位置しているかもしれません。
> 一応、予防線を張っておくと、理性であらゆる領域を覆いつくせるとは思っていません(「完璧な知的フレームなどない」と言い換えられるかもしれません)。

なるほど。理性の限界を承知した上での「理性主義」なので、確信犯的なのですね。じゃあ、私と逆だ。私は確信犯的共感主義ですので(笑)。

といって、私も「共感」が完璧だなんて主張するつもりはさらさらない。むしろ「悪しき理性主義」にたいするアンチテーゼとして確信犯的に掲げているといってよいだろうと思います。なのでむしろ確信犯的理性主義者とは話が出来るのかもしれません。互いに互いの限界を承知しての話ですから。

> 僕は科学を信頼していますし、科学的知識の有意義さを認めますが、疑似科学批判の必要性は必ずしも認めない。これも僕流の「理性主義」の表れかもしれません。

科学への信頼は私とて同じ。疑似科学批判も悪いとは思いませんが、勇み足の嫌いが多々あるというレベルの話。“科学的に誤りです”はいいが、“信じないでください”はイケマセン、ということですね。

> 僕はそれに対して、「世界に対処するための道具」として「知的フレーム」を提唱したい(まさにプラグマティズムということですが)。
> 道具ならば「正しさ」とか「完璧さ」に拘る事から人々を解放するでしょう(通常は道具を評価するのは、「目的に対する有用性」でしょうから)。

御意。

アイデンティティ

>僕は日本の現状は天皇とアメリカに乗っかって廻っているということを、否定しがたい事実だと捉えています。

わたしにとってもそれは事実です。疑いようもありません。そしてもちろん、事実だと捉えることからはじめないと、というアキラさんのお気持ちも十分承知しているつもりです。リスクを引き受ける「改憲」だと。

なので、以下はアキラさんへのレスではありません。

大国の干渉と天皇制。戦前の日本の、特に軍部はそこから抜け出そうとしてあの泥沼に引きずり込まれたのではなかったのですか。日本の自立、アジアの植民地の独立、大東亜共栄圏の樹立というタテマエに流されて。

問題は、現状で天皇とアメリカに乗っかっているその日本が、日本に生きる日本人が、主権者である国民が、その双方の側から憲法を否定する今の風潮です。

わたしには、なぜ、今、改憲なのかがわかりません。(わかろうとしないだけだと言われればそれまでですが)

自主独立?国としての矜持?

国とは誰の?
沖縄もそこには含まれていますか?
基地に反対する人々も、
天皇条項に反対する人々も、
みんな含まれているのですか?

働いて税金納めて武装して人殺しして
「日本国」の自立に付き合えば、
沖縄は今度こそ自立させてもらえるのですか?

改憲論者は、憲法に保障されている、拒否権を剥ぎ取ろうとしているのではないのですか。差別はいやだ、戦争はいやだ、そんなことに荷担するのはいやだ。人々の自然な感情。その口を封じようとしているのでは、ないのですか。

それが現在のわたしの最大の危惧です。(このリスクは引き受けられません)

そうでなくとも、不真面目な国内の現状に合わせて国の約束事を変えていくというのは国としてあまりにも節操のないことだと思います。わたしには今の日本が敗戦当時ほど賢くなったとはとうてい思えません。

不真面目な現実を改めるのなら、改憲以外の方法でやってください。世界の人々は、嘘で塗り固められた日本の内情などより、日本国憲法に書かれてあることを支持するはずです。そのことをもっと誇りましょう。

ありがとうございました

>わたしには今の日本が敗戦当時ほど賢くなったとはとうてい思えません。
<
同感です。
むしろ劣化している気もします。

自分の立ち位置が少しハッキリした気がします。
ごんさん、ありがとうございました。m(_ _)m

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コミュニケ外伝 その4 ~ 「信仰」についてのビミョーな違い ~

「それが何を意味するのか分からないけれど、“分からない”ということだけは分かる、引き受ける」という謙虚な接近法の、一番端的なのが「信仰」だ。 これについて 書き表してみたいのですけれど、宗教に対して耐性がなかったり、それがために弁別するリテラシーを持...

イスラエルの『戦争犯罪』は旧約聖書に由来

イスラエル極右政党党首、「ハマスには第2次大戦での日本と同様の対処を」 【1月14日 AFP】イスラエル極右政党「わが家イスラエル」のアビグドル・リーバーマン党首は13日、イスラエル政府は第2次世界大戦で日本を降伏させた米国の例に従うべきと発言した。 同国英字紙エ...

アカ、ダメ、イヤの茶色の朝に

ペットの毛色を茶色に統一するというばかげた法律です。なぜ茶色かといえば、科学的な「選別テスト」によって、「茶色がもっとも都市生活に適していて、子どもを産みすぎず、えさもはるかに少なくてすむ」という結果が出たからだといいます。ファシズムでは定番といえる似...

1/16、泡瀬干潟情報

こあらいふさんからの情報です----------------------------------------------------昨日と今朝の泡瀬干潟埋立関連報道が動画で見られます。動画をアップしてくださったWebサイトの管理人さん(JAWAN,Yさん)によると、1月いっぱい公開予定、ということです。みなさま、是

「善の研究」から

1911年、1月30日。 西田幾多郎の「善の研究」が刊行されました。 今では青空

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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