愚慫空論

知的フレームを壊せ!

『光るナス』が面白い。

『光るナス』とはずっと交流があるから(一時、かなり長く中断しましたけど)、ここで紹介するのは今更なんだけど、とにかく面白い。

『コニュニケ外伝その1』
『コニュニケ外伝その2』
『コニュニケ外伝その3』
(IEで見るのがオススメ)


その3で出てくる話は、「分からないけど受け入れるという決断」。”分からない”というのは「他人」のことです。「他人」なんてものは、どこまでいってもわからない。

分からない他人をどう受け入れるかは、『光るナス』の方をご覧いただくとして、ここで記すのは、受け入れることを妨げるもの。それが「知的フレーム」です。

新聞記者が、ある事件を取材するとします。これは推測ですが、「優秀な」記者ほど取材する前にすでにもう記事の概略が頭の中にできあがっている。あとは、その概略に適応する事実をピックアップするだけ。

こうした記者が優秀ではなく、カッコつきの「優秀」と表記すべきなのはおわかりいただけると思います。そして、前もってできあがっている概略こそが、「知的フレーム」です。

しかし、知的探求とは、そもそもが「知的フレーム」を組み上げることです。どこにも隙間のない枠組みを組み上げること――これが目標。でも、私も最近分かってきました。「ゲーデルの不確定性原理」ではないけれども、自己完結した完璧なフレームなどありえない。むしろ、そうしたフレームを追い求めることは、「優秀」な記者になるようなもので、決してものごとの”あるがまま”を見ることは出来ない。私が欲するのは、「知的フレーム」を探求することか、それとも“あるがまま”を観ることか? 

もちろん、後者です。いくら立派な「知的フレーム」ができあがっても、それは〔識ったつもり〕になるだけのこと。分からない他者に近づくことは出来ません。ならば「知的フレーム」などブチ壊せ! きっとその後になにか見えてくるはず...。

といって、それはなかなか難しい。「知的フレーム」を組み上げるためにそれなりの代償も払ってきたし、知らずのうちに組み込まれてしまっている部分も多々ある。もしかしたら、どこまでいってもできないかもしれない。

ただ、方法はさまざま有ると思う。たとえば複数の「フレーム」をもつこと。もともと「知的フレーム」は完結することを目指すものだから、それが複数存在すること自体が「フレーム」の破れになる。破れた「フレーム」を抱えつつ進むと...そこのあるのは「識的フレーム」なのかもしれない。

コメント

‘あるがまま’はつらいものです

そのつらさにどう耐えうるのか…。
今の世の中は、『進歩』を旨としていますから、一歩も進まない自分に直面し続けるのはなかなか骨です。
結局、フレームはいつも中途半端で放り出されます。
「決意」も「信仰」もない人間のもろさと未熟さ…。
このまま、ただ老いていくだけなのでは、という漫然とした不安…。

やはり、大切なことは、「信じること」という気がします。それは、「識ること」へ向かうという決意なのかもしれませんが…。
なめぴょんさんじゃないけど、ここはロック・スピリットが必要だな(爆)。

紹介してくださってありがとうございます。

>知的探求とは、そもそもが「知的フレーム」を組み上げることです。どこにも隙間のない枠組みを組み上げること
<
僕がジジェクやラカンを通して面白いなと思っていることは、知覚したものから「どこにも隙間のない枠組み」を組み上げるためには、切り落とさなければならない「もの」が必ずある、ということです。
それを落とさなければ「どこにも隙間のない枠組み」は現れないし、だからこそその枠組みは その落とされ隠された「もの」に依拠し、実質的に支えられている。

この落とされ隠された「もの」の方へ近づく術(すべ)が分かってくると、知的フレームに振り回されにくくなるんだろうな、と。

知的フレーム

どうも、こちらではお久しぶりです。
精力的な記事更新ですね。
先日はトラックバックありがとうございました。TB頂いた記事ではないですが、思ったことをいくつか。

おっしゃっていることは、世界(他者を含め)を認識あるいは理解するための「知的フレーム」が、むしろ認識あるいは理解を狭めてしまうように機能する、ということだと思います。

例えば、ネットでもしばしば、自分の理解できないことに対して怒りや苛立ちを表明する人に遭遇します。
これは、「知的フレーム」が人の理解力の健全な(?)発展を阻害する実例だと思います(愚樵さんの記者の例もそうですね)。

しかし、ここで重要なのは「知的フレーム」を壊すことではない、と思っています。
むしろ、よりよい「知的フレーム」を得るために、既存の「知的フレーム」を脱構築・再構築することだと思っています。

しかし、自分の「知的フレーム」の狭量さを自覚するのは難しい。
おっしゃるように、「知的フレーム」は完全なものではあり得ない(ゆえに、常に修正を必要とする)ということを強調することでしょうか。

では。

左翼批判の理由

naokoさん

> そのつらさにどう耐えうるのか…。
> やはり、大切なことは、「信じること」という気がします。

はい。そのつらさに耐えには「信仰」が欠かせません。昨年末、私は「保守回帰」を宣言(?)しましたけれども、その肝要は「信仰」なのですね。非理性的なものへの信仰。「科学信仰」批判も、今から思えばその立場からのものでした。

信仰は【対話】から生まれるのだと私は思っています。自然との【対話】、あるいは自然を超越した神との【対話】。これらは人が暮らすそれぞれの風土と密接に関係していると思う。だから「保守」になる。理念を掲げる革新に叛旗を翻すことになる。

切り落とさなければならない「もの」

> 僕がジジェクやラカンを通して面白いなと思っていることは、知覚したものから「どこにも隙間のない枠組み」を組み上げるためには、切り落とさなければならない「もの」が必ずある、ということです。

まだジジェクとラカンは読めてません (^_^; 本は買ったのですけど、時間がとれない...。けども、仰ることはとてもよく分かるような気がする。

> それを落とさなければ「どこにも隙間のない枠組み」は現れないし、だからこそその枠組みは その落とされ隠された「もの」に依拠し、実質的に支えられている。

もし仮に「知的フレーム」の中に「世界」をもらさず網羅することができたとしても、そこには決定的に欠如するものが出てきますよね。それは「信仰」なんですが、ここでいう「信仰」とは、〔自分と世界との結びつき〕のこと。そこを【対話】を通じて〔識る〕ことをここ観る営為が「信仰」なんだと思います。ですので、完璧な「知的フレーム」がもたらすのは自身が何者であるかを喪失してしまう「虚無」ですね。

> この落とされ隠された「もの」の方へ近づく術(すべ)が分かってくると、知的フレームに振り回されにくくなるんだろうな、と。

御意。

Re: 知的フレーム

> どうも、こちらではお久しぶりです。
> 精力的な記事更新ですね。

仕事がなくて暇なもんで(苦笑)。けれども、昨日から仕事にありつけましたので、ペースは落ちます。
>
> おっしゃっていることは、世界(他者を含め)を認識あるいは理解するための「知的フレーム」が、むしろ認識あるいは理解を狭めてしまうように機能する、ということだと思います。

はい。

> 例えば、ネットでもしばしば、自分の理解できないことに対して怒りや苛立ちを表明する人に遭遇します。
> これは、「知的フレーム」が人の理解力の健全な(?)発展を阻害する実例だと思います(愚樵さんの記者の例もそうですね)。
>
> しかし、ここで重要なのは「知的フレーム」を壊すことではない、と思っています。
> むしろ、よりよい「知的フレーム」を得るために、既存の「知的フレーム」を脱構築・再構築することだと思っています。
>

それは、「知的フレーム」の捉え方によると思います。新聞記者が書く記事程度の「フレーム」であるならば、それは仰るように脱構築・再構築が適切な方法でしょう。そこに新たにより網羅的な「フレーム」を組み上げる。quine10さんの捉え方において、quine10さんのお考えは正しいと思います。

ですが、そうでない捉え方もあります。naokoさん、アキラさんの捉え方ですね。私もどちらかというと、こちらの捉え方です。

こちらの捉え方ですと、更新された「フレーム」も「知的フレーム」であることには変わりなく、その「フレーム」はアキラさんが指摘されたように、構造的に決定的なものを取りこぼす。それは“ありのまま”であり「信仰」であるわけですが、それがあるが故に、「知的フレームを壊せ!」となるんです。

> しかし、自分の「知的フレーム」の狭量さを自覚するのは難しい。

「知的フレーム」がその人のアイデンティティとなっている場合は、特に。

最近の事例で典型的なのは、『悩む力』の姜尚中でしょう。姜尚中のいう「悩む」とは、私には「知的フレーム」を壊そうとするものだと受け止められます。その「悩み」は、“自分はなにものか”という問いに向かうことになり、その問いの答えは「知的フレーム」の中からは絶対に導き出せないものなのだ、と。このエントリーの意味は、そこのところにあります。

ちなみに、「知的フレーム」がその人のアイデンティティとなっている人を、「インテリ」というのだと思います。インテリはすべからく啓蒙主義者ですが、それは彼らの自身のアイデンティティによるのですね。

姜尚中はインテリの壁をぶち破りましたが、それは悩ましいことだったでしょうね、きっと。

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