愚慫空論

蟲師

タイトルにまた「蟲」の字を登場させてしまいました。そして、今回もまたマンガの話。

といって、今回はマンガの話をダシにして、いろいろわけのわからないようなことを話しようというのではありません。ストレートに、マンガの紹介&感想を綴ってみようと思います。

蟲師 (1)  アフタヌーンKC (255)蟲師 (1)
(2000/11)
漆原 友紀

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『蟲師』。ご存知の方も多いでしょうが、訳のわからない、摩訶不思議な、恐ろしいような、懐かしいような、そして妙なリアリティを感じさせる、そんなマンガ。それとも幽玄的とでも言いいましょうか。


蟲(むし)とは、もちろん架空の存在です。字の作りから虫(=昆虫)を連想させますが、少し違う。“動物でも植物でもない、生命の原生体”といったような位置づけですが、イメージとしては「霊」に近い。それも意識を持った人の霊や動物霊ではなくて、確固とした意志はないが生命力溢れる植物の「霊」といった感じ。いや、もっと単純に生命力そのものの「霊」といったほうがよいか。物質的な存在を持たないこの世のものならぬ存在だが、その生命力で現世(うつしよ)と関連を持っている霊的存在。

そして蟲師とは、そうした蟲の退治を職業とする者のこと。

並べ立てた形容的な語句から、『蟲師』はファンタジーなのだと想像されるでしょう。確かに空想的な作品であることには間違いないのですが、妙なリアリティがある。それはおそらく、蟲という存在が意志的なものがないことと関連するように思います。西洋的なファンタジーに登場してくるこの世ならぬ存在の者たちは、それでもあくまで意志的です。ところが蟲は、例えばカビ――今の時期なら鏡餅に張り付いています――のように、なんらかの害悪はもたらすけれども、カビそのものに意志は感じられない。自然に発生する生命力――そこから物質的な存在感が削ぎ落としたもの。

抽象的な言葉だけではイメージしづらいでしょうから、少しストーリーを紹介して...と思いましたが、その摩訶不思議さを上手く文章では表現できそうにない。やはりこれは作品にご自分であたっていただくしかない。

幸いといいますか、遅きに失したといいますか、『蟲師』はNHKのBS2で放映されているようです(リンクは→コチラ)。

『蟲師』は原作はマンガですが、TVのアニメ番組としても制作されています。また昨年は実写版の映画にもなったそうな。実は、私の見たのはアニメだけ。マンガもまだ見ていません。しかし、このアニメがいい。リンクを見ればわかりますが、もうすでに1~4話は放映済みのようです。ですが、大丈夫。1話完結のスタイルですので、最初から見なければストーリーの展開が飲み込めないといったことはありません。

このアニメ、まず感じるのは、映像が美しい。舞台は日本の農村、里山が主。懐かしい日本の風景のなかで、摩訶不思議な物語がゆっくりした感じで展開されていきます。

物語の主人公はギンコという名の蟲師(男)ですが、このキャラクターの役所(やくどころ)はヒーローではありません。人に悪さをする蟲をギンコが退治ことがストーリー組み立ての柱なのですが、ヒーローというより狂言回しといった印象を受けます。主人公は、蟲師でも蟲でもなく、各々のストーリーに登場してくる素朴な庶民たち。彼らの感情の機微こそが、『蟲師』の一番の見所でしょう。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
(2007/11/16)
内山 節

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その感情は、キツネにだまされていた日本人のそれのように私には思えます。蟲は、日本人の伝統的な自然観――その象徴は、かつては八百万の神だったわけですが――を表現しているかのようです。庶民は、蟲がもたらす災いから逃れようと蟲師であるギンコにすがり治療を依頼しますが、といって、蟲を敵とは認識はしていない。そう、蟲には善悪はないからです。ですが、そうした感覚は今の日本人にも薄い。上で蟲をカビに例えましたが、今の私たちにとってカビは敵という感覚が強い。

『蟲師』の世界が立脚しているのは、神が世界を創造したこと善とし、神が創造した世界をかき乱すことを悪とする善悪二元論ではありません。自然を“ありのままに”善悪未分化のものとして受け止める心です。蟲によって個々人にもたらされる災いは、そこから逃れ祓おうとするものではあっても、根絶すべき悪ではない。ですから、蟲に遭った庶民は、そこから逃れることができたときは生を喜び、逃れられないときには哀しみとともに死を受け入れる。善悪未分化は、生と死の境界線をも曖昧にしている――そんな感じすらします。

苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫)苦海浄土―わが水俣病
(2004/07)
石牟礼 道子

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もうひとつ、私が『蟲師』を見ながら連想するのは、石牟礼礼子。



ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」 風の谷のナウシカ
(2003/10/31)
宮崎 駿

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マンガ・アニメというジャンルでは、宮崎駿の『ナウシカ』『トトロ』『もののけ姫』『千と千尋』あたりと通底するものあることも指摘できると思うけれども、それらよりも、まず思い起こしたのは『苦海浄土』です。この文学作品は水俣でなされた犯罪が巻き起こしたドキュメントとして出たものですが、もはや単なるドキュメントとして見る人はいないでしょう。『苦海浄土』を文学作品たらしめているのは、チッソを悪と見る視点をも超えた庶民の心――『蟲師』に描き出されている庶民の感情の機微――のように思われる。私が『苦海浄土』を読んだのはもうずいぶん前のことなので、その推測が当たっているかどうかに自信はないのですが。

それにしても面白いと思うのは、『蟲師』という現象そのもの。作者の漆原 友紀(うるしばら ゆき)は1974年生まれと言いますから、私よりも若い世代です。そんな世代の人が、先祖返りをしたような作品をマンガ・アニメという新しい表現手段を得てを創作し、それが世に出に多くの人たちの支持を受ける。日本だけではなく、海外でも人気があるとか。この現象をどのように捉え、どのように判断するべきは今の段階では軽率なことは言えませんが、変化の兆しと見ることは差し支えないでしょう。

めぞん一刻 (10) (Big spirits comics)めぞん一刻
(1993/04)
高橋 留美子

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『蟲毒』のエントリーでキャラクターをお借りした高橋留美子なども、描いているのはファンタジーです。ヒューマンな暖かみから「生きる」ことの大切さを訴える。けれども、ここにはやはり善悪二元論――というより二元感覚がある。高橋留美子の『めぞん一刻』などは、悪の要素が少なく――そこはコメディとして毒消しがなされていた――「生きる」ことの善が取り上げられた作品でしたが、ここにもまだ善悪二元感覚が基礎になっています。ところが『蟲師』には、それがない。にもかかわらず、まぎれもなく「生きる」ことを描き出した作品になっている。これはいったいなんなのか? 関心が尽きません。

願わくは、ただただ「生きる」心が人の世のさまざまな「闘争」を溶かしてしまわんことを。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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