愚慫空論

情報の価格

今日は少し理性的な話を(笑)。

昨年末から年明けにかけて、ブログ界隈で起こった出来事のなかで少し驚かされたのが、天木直人氏のブログ廃止&有料メルマガ移行。天木氏はブログ廃止はなんとか思いとどまったようで更新は続けられているが、有料メルマガも発行するということで、いわば2本立て体制になったということですね。


(同時期に『世に倦む日々』も有料メルマガに移行したらしいので、一応、触れておきます。ときどきは閲覧していたので残念という気持ちはありますが、ま、どっちでもいい(笑))

私は一応クレジットカードを持てる身分なので――いや、これは私的には結構な事件なのですよ(笑)――有料メルマガの購読を申し込みました。すると、「購読いただいた皆様へ」というメールが送られてきまして、そこには天木氏が有料メルマガ発行に至った経緯と覚悟が記されていました。そこについては天木氏個人の決断ですから、私などが意見を述べる必要はないでしょう。

ただ、気になったのは、天木氏の有料メルマガ発行がブログ論壇――そんなのが最近あるらしいのですが――に与える影響です。天木氏のメルマガにはそのことも記されていて、ブログでは1万人を超えていたであろう読者が、メルマガ購読申し込みでは300人ほどになってしまった、と。

“それは今まで多くの読者に発信してきた事が多少なりとも影響力があったとしてそれを失うという事です。”

天木氏の主張に対しての評価はさまざまあるでしょうが、そのさまざまな評価も、読まれていればこそ。それが1万人から300人に減少することは、たとえその300人には質の高い情報が与えられるにしても、もしブログが廃止されていたら、天木氏の言論の影響力が低下することは避けられなかった。2本立て体制にしたことも、影響力という観点から見れば未知数です。

それに、質の高い情報とはいっても、その価値の判断基準は曖昧です。天木氏の有料メルマガ月額525円ですが、525円を支払って得られる情報がその価格に値するかどうか、正直、私ごときには判断がつかない。正直言って、私にとって天木氏のメルマガ購読は、質の高い情報を得たいという動機よりも天木氏を応援したいという動機の方がずっと大きい。

誰々を応援したい、という動機は、それはそれで構わないと思います。けれど、注意しなければならないと思うのは、そうした思い入れが、自らの考えに少なからぬ影響を与えるということ。いえ、影響されるのはいいのですが、度が過ぎて偏ってしまうと芳しくない。けれど、質の高い情報がどんどん有料化されるという方向へ進んでしまうと、偏向への圧力が大きくなりかねないと思います。というのは、有料化ということは、それだけ情報に接するハードルが高くなるということ。たった500円ではないか、言いますが、それが10人になると5000円です。自省心を発揮して自分の考えが偏らないようにしようと思っても、有料化の方向へ進んでいくと、そのハードルが高くなる。行き着く先は、経済力と情報量・質とが比例してしまうという事態。そうなってしまうと「言論の自由」は危機に瀕することになります。

図書館という施設が設けられているにも、その目的は「言論の自由」を守るため。いえ、それが主目的ではないのかもしれませんが、市民に広く低いハードルで知識を提供することが、「言論の自由」を下支えすることになっています。

知識に接するハードルという観点で見ると、ブログやメルマガ等を含むWebの能力は書籍のそれとは比較になりません。ネットワーク環境というインフラ整備が前提ですが、そこがクリアされれば情報伝播力は、書籍とは比べものにならないものがある。しかし、そのWebの能力は、情報の発信側、書き手にとってはあまりありがたくない能力でもある。仮にWeb図書館といったものを想定しますと、いえいえ、想定も何も、すでにWebそのものが図書館ですね。Webの中に一旦流れ込んでしまった情報は、Webにアクセスできる者なら誰でも自由に、そして基本的に無料でアクセスできる。情報が書籍のような物理的制約から自由になっている。いえいえいえ、自由という言葉では足りないかもしれない。デジタルコピーの技術と相まって“過剰な自由”とでも表現した方が良いでしょう。特に情報発信者にとっては。だもので、現状ではまだまだWebより書籍の世界の方が情報の質が高い。過去からの膨大な蓄積がある上に、今でも質の高い情報発信は書籍の方が高いものある、といっていいでしょう。

モノの製作であれ、情報の製作であれ、世の中何をするにもコストがかかります。ウェブの過剰な自由の世界において、個人あたりが趣味の範囲でコストを負担して情報を製作・発信するには、ウェブの過剰な自由なありがたい。しかし、コストを回収したいと考える発信者にとっては、過剰な自由は大変厄介な問題です。それは言論という部門でも同様で、さまざまな情報を集め分析し、高度な判断を下すにはやはりコストがかかります。そこをどの程度個人で負担するか、そうした問題に直面したとき、やはり個人(ないしは組織)の経済力に依存するという状況にならざるを得ない。この状況は、「言論の自由」を妨げはしないにしても歪めてしまう可能性がある。現に歪んでしまっていると私などは思うわけですが、その意見に同調してくださる方は少なからずおられるでしょう。


ここで少し、知的所有権について話をします。知的所有権といった概念・権利が根本的なところで矛盾を孕んでいるということは、さまざまな方が指摘されていますし、さまざまに議論もされています。矛盾をごく簡単に言ってしまうと、情報は共有されることが前提というところにあると言っていいでしょう。その前提が崩されしまっていることが根本矛盾の原因になっている。

モノですと、所有の前提は共有ではなく専有です。つまり、モノは独占されてこそその価値を発揮することができる。例として土地を考えてみますと、ある範囲の土地を専有することが許されてはじめてその土地で耕作をしたり、建物を建てたりといったことが可能になる。これらを共有としてしまうと、さまざまに問題を生じることとなる。所有=専有の原理は、資本主義の根本原理であるといってもいいかもしれません。

しかし、情報は専有されていたのでは意味を為しません。情報を専有されている状態とは、情報制作者以外誰も知らないということです。この状態では、工業所有権のようにモノのあり方に直結するような情報は別ですが、情報が情報として消費される著作権にかかるような情報には、そもそも情報としての意味がない。その手の情報は、共有されなければ意味がない。

ところが著作権といった概念が組み立てられているのは、情報にもモノと同様の原理を適用してのことです。つまり、情報もまた専有されることが前提になっている。しかし、これは情報そのものの原理に反する。情報が、書籍やレコード盤といったモノに付随するものでしかなかった時代にはそれでも良かったのですが、Webの時代になって情報がモノの制約から自由になると、情報そのもの原理が露わになった。ここがWeb時代の知的所有権の根本問題です。情報には所有の概念は上手く適応できないようなのです。

「情報は共有物である」という原理から、妄想を膨らませますと――この原理は、民主主義とは親和性が高い。しかも、これは資本主義――「モノは専有物」が原理――の成熟のなかで露わになってきた。高度情報化社会というわけですね。Webによって〔情報=共有〕の原理が民主主義とさらに親和性を高めつつ、〔モノ=専有〕の原理を圧倒していくようになると、その先にあるのは...共産主義? 繰り返しますが、妄想です(笑)


ウェブは資本主義を超える 「池田信夫ブログ」集成ウェブは資本主義を超える 「池田信夫ブログ」集成
(2007/06/21)
池田 信夫

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(有名な「池田信夫ブログ」は閲覧してますが、この本は読んでません。お薦めでリンクを張ったわけではなくて、洒落のようなものです。池田氏が著作権には批判的なようですが、共産主義は擁護しないでしょう(笑))。


さて、話を戻して焦点を絞りますと、Webの〔情報=共有〕の原理を実現させる場である。〔情報=共有〕は「言論の自由」の基礎だけれども、Webの場は自由が過剰すぎて、却って情報の質を高める個人の動機――専有への欲望――を奪ってしまっている。

話の方向としては、「これからの時代は情報の原理に従うべき、専有の欲望を捨てよ!」というのもアリなんでしょうが、ここは理性的に(?)Webは専有への動機と情報原理とを上手く調和させることができるか、言い換えれば、Webは情報に適正な価格をつけることができるか、という方向で考えてみます。


現在、ウェブにある価格付けの方式は、情報発信者が一方的に価格設定をするという方法です。その上で、過剰な自由を制限するためにDRMといったような技術が開発されいます。しかし、こうした技術は情報伝播のあり方を妨げ、ひいては経済の発展にも足枷になる――私は内容を詳しくは知りませんが、そういった議論もあるようです。このあたりの混乱も、情報原理とモノ原理と上手く整合していないことの表れなのでしょうし、また、情報受信者も現在のような情報価格の設定に不満を感じている。なぜなら、モノの再生産と違い、ウェブ上での情報の再生産のコストは極めて低いものであることを誰もが知っているからです。現在の情報価格は適正な価格とはとうてい言えないでしょう。

情報の適正価格。この方向で話を進める前に、また、進めるために、再度寄り道です。ここまでは情報発信者、あるいは受信者としてのメリット・デメリットといった観点からWebとの対照に書籍を取り上げましたが、もうひとつ、マスメディアを考慮に入れてみます。

一口にマスメディアと言ってもその形態には幅があって、一方の極はTV、もう一方は新聞でしょうか。それぞれが発信する情報の質にもかなり違いはありますが、情報受信者にとって情報対価の支払い方という観点から見たときも、この両者は対極にあります。TVはウェブ的、新聞は書籍的です。つまり、TVには情報受信者は対価を(直接)支払わない、新聞は支払うという違い。もちろんTV番組製作にコストがかかることは周知されていますし、それを支えているのはスポンサー制度だということも知られている。つまり、直接対価を支払っているわけではないけれども、スポンサーを通じて間接的には支払っている。そして、そのスポンサー制度は、直接対価を支払っている新聞でも機能していて、その比重は決して小さくない。

寄り道ついでに触れておきますが、昨年、トヨタの奥田相談役が“スポンサーを降りる”発言で物議を醸したことがありました。この発言はさんざん批判されましたが、これは発言という行為で問題が露わになったから非難を浴びたのであって、そうした「突出行為」がなければなかなか非難することは難しい。もちろん、ジャーナリストなりが個々の企業のスポンサーとしてのあり方を取り上げて分析して、批判することは出来ます。しかし、その批判はせいぜいモラルに欠けているといった程度のことに留まるを得ないわけで、実際にはスポンサーは、情報発信のあり方へ影響力を行使できる力を手にしてしまう。これは、スポンサー制度という構造上どうしても避けられないことです。

スポンサー制度は間接民主主義に似たところがあって、そもそもは消費者(国民)が支払ったカネであるのに(税金)、その配分を一時的に握った者が力を持つ。そのが民主主義を支える「言論の自由」を歪める。あってはならない、とは言ったって、そのような構造になっている以上、どうしようもないところがある。スポンサー制度に支えられないメディアということでNHKの重要性が語られたりしますが、こちらとて、法という強制力で徴収されるわけだから、結局、強制力を握っているところが力を得てしまう。「言論の自由」を保障するのは、制度としては、力を持った者のモラルに依るしかないということになってしまい、権力者へのモラル批判が起こる。しかし、権力者は権力者でモラル批判を誤魔化すために、タダで情報を受け取る者たちの意識を誘導しようとする。そうすると、メディアリテラシーが求められて――と、まあ、収拾のつかない自体になる...
(まださらに視聴率を取り上げて話を続けることも出来そうですが、やめておきます。)

...どうも脱線が過ぎますが、話を整理しますと、情報受信者にとって、マスメディアと書籍の対価の支払い方の違いとは、書籍の場合、個々の情報発信者に直接対価を支払っている。対してマスメディアの方は、支払い方法の直接間接は関係なく、情報の集合体にまとめて対価を支払っている。新聞は新聞社によってそれぞれ言論のあり方に違いがあって、受信者はその傾向を大枠に選択することは出来ますが、個々の情報発信のあり方まではなかなか立ち入れないし、まして個々の情報にそれぞれ価格を設定することなど出来ない。TVの場合は視聴率という指標があってスポンサーをも縛っていますが、その視聴率がそのまま情報価格として適切かどうかというと、大いに疑問があるところです。

しかし、対価をまとめて支払うことにはメリットもあります。そのメリットは。ホテルの朝食などでよくあるバイキングを思い浮かべてもらうとわかりやすいでしょう。ある枠全体に対価を支払うと、人間は、なるべくその枠を自分の好みに従って効率的に活用しようとする。バイキングで提供されるメニューひとつひとつに価格がつけられていると、食い散らかす(笑)ことができるのは支払いを気にしないでよい者だけですが、バイキングなら、バイキングの料金を支払えば誰でも食い散らかすことができる。あとは、食い散らかした後に、自分が支払った料金の枠の範囲内で、それぞれのメニューに対価を直接支払うことができるか――情報をウェブを通じてやりとりするのなら、技術的に可能なのではないか。これが長い長い前置きの末、私が主張したいことなのです。


実は、私は以前、この問題について考察したエントリーをあげたことがあります(→『私論暴論 Web 3.0』)。こちらではいささか考察範囲の風呂敷を広げすぎたきらいがありますので、ここは政治に関する言論に範囲を限定しましょう。具体的には次のようなことを構想します。

1.政治言論のためのウェブ空間を設ける(以下、【Web】と表記)。
  有権者は原則として、そこに参加する。

まず大問題は、ネットを扱えない人はどうするのか、ということですが、この問題からは卑怯にも背を向けることにします(苦笑)。こう書いた瞬間に今までの与太話になってしまうのですが、ぜ~んぶが与太話でもないと思いますので、まあ、問題提起ということで受け止めてくださるとありがたいです...。気を取り直して続けますと、

実施主体は、どこかが独占して行うなら国ということになるでしょうが、技術的に可能なら、さまざまある民間のWeb運営会社を有権者が自由に選択できるとした方が望ましいと考えます。その場合でも、国による認証機関は必要でしょうが、有権者は好きな企業でIDを取得して、そのIDを認証機関に登録することで、【Web】内における権利を取得する。もちろん、有権者1人につき登録できるIDは1つです。

2.有権者は【Web】で自由に言論を展開することができる。

3.有権者は【Web】で自由に譲与・受領できる一定量のポイントを支給される。

ポイントの発行主体は国でしょう。有権者はさまざな言論を読んで、保持するポイントを賛同できる言論を展開する者に譲渡することが出来ます。ポイント配分は、当然、各有権者が自由に裁量できます。

4.有権者は【Web】で得たポイントを換金することができる。

ただし、換金できる資格には制限が必要でしょう。

以上が構想の基本的なところです。このような制度が設けられれば、例えば冒頭に取り上げさせていただいた天木氏などは、有料メルマガ発行といった選択をする必要がなくなるだろうと予想できます。天木氏は【Web】のなかで言論を展開して読者の支持を得て、ポイントを受領する。それを換金して自らの政治活動に費やすことができるようになる。また、自ら直接的な政治活動まで展開をしない者でも、自説を展開してポイントを受領し、自分のポイントも合せて自ら支持する政治家の譲与することができる。そうなると、Webは自由で活力ある言論の場になるだけでなく、有権者は直接に政治活動を支えることができる手段を得ることとなり、健全な民主主義を育む、とバラ色に(笑)考えるのです。

この構想には、まだまださまざまな要素を考慮する必要があるでしょう。思いつくまま列挙しますと、

例えば、【Web】会費支払いの問題。国民の権利として、国から有権者に無条件で与えられるとすることもできますが、それぞれの所得に応じて会費を支払うようにしてもよいでしょう(もちろん、支払額にかかわらずポイントは一定でなければなりません)。

また、ポイントと通貨との換金率。これは制度運営の予算枠にも関わってきます。現在政党助成金として年間1人あたり250円の金額が計上されていますが、その額は【Web】に登録した有権者の数だけ減額するとか。さらに【Web】には1人あたりの金額をさらに上積みすることが望ましいように思います。この制度は、政治家として当選している人だけでなく、当選はしていないが政治家として志のある人も支援できる制度だからで、また、その分だけ、予算は増やさなければなりません。また、そのように制度設計すると、1.で基本的の有権者全員参加とした制約は外すことができ、ネットを扱えない人の問題とも調整がつくかもしれません。


ああ、そうそう。情報の適正価格の話を忘れていました。タイトルは「情報の価格」なのに(笑)。といって、これ以上続けるのも疲れたので、簡単に。

Webでの情報価格の設定は、ある一定の情報の総枠に対価を支払うことと、枠内のでの支払いの配分をWebの技術によって情報受信者が自らの裁量で決定することで実現するだろうと考えました。すなわち、ある情報の価格とは、

「情報受信者ひとりの情報総枠への支払額」×「情報受信者の裁量による配分率」の、情報受信者全員の総和
(上記【Web】の方式)

になります。これは、「情報が共有物」という原理が正しいならば、共有物である情報全体に価格がつけられ、あとはその配分ということになりますから、論理的にも整合すると考えます。

ただ『私論暴論 Web 3.0』では、上記の配分方法以外の配分方法との併存方式になっています。それは情報の総枠を、情報受信者が情報を得られるのは一日24時間であるというところから導き出したものですが、それは、

「情報受信者ひとりの情報総枠への支払額」×「情報受信者の情報アクセス時間/「一日24時間」の、情報受信者全員の総和

人間は1日24時間情報にアクセスすることは不可能ですので、余りの時間分を上記の受信者の裁量で配分する、といったものです。この併存方法なら、とにかくアクセスされれば情報発信者は基本的な報酬は得られます。その情報に付加価値を認めるのは、情報受信者の判断ということになります。

他にも、Webはデジタル情報ですから、時間ではなくアクセスしたデータ量とすることもできるでしょう。その場合、情報総枠は一定量のデータ容量とすることになります。


さてさて、以上長々と「理性的」な考察を進めて参りました。自分ではめいっぱい理性的だった(途中、妄想が混じりましたが(笑))と思いますが、いかがだったでしょう? 

コメント

池田 信夫は駄目ですよ

主題とは関係が薄いのですが、池田 信夫は駄目ですね。竹中平蔵と全く同じで、経済がまるっきい分かっていないのか。?其れとも分っていて騙しているのか。?
何れかでしょう。
つい最近も自身のブログで経済学の自分のお師匠様の中谷 巌の『資本主義はなぜ自壊したのか』に対して『著者には学生時代からお世話になったので、こういう記事を書くのは心苦しいが、率直にいって8年前の本あたりからおかしくなったといわざるをえない』
(8年前と言うと橋本竜太郎の構造改革(新自由主義)で日本経済が本格的に壊れかけ出した頃)
中谷 巌は8年前頃から現在の状態に気付き始めていたが、この人物は未だに自分の目の前で起こっている事が理解出来ないらしい。この辺も竹中平蔵の同類で同じ種類の人間。よほど悪魔の碾き臼で有る『新自由主義』に心酔しているのでしょう。

ドル札印刷によるシニョレッジ(通貨発行益)に対して『為替』で繋がっているので日本円と同じとの考え。(世界の通貨は全て為替で繋がっており、そういう意味ではジンバブエドルさえドルと繋がっている)
池田信夫氏は『外為市場は何のためにあるのか。ドルを印刷するだけでインフレになるのなら、アメリカのデフレはとっくに終わっているだろう』とトンデモナイ事をのたまう。
ドルであれ円であれ印刷経費は額面の金額より格段に小さく、元々はただの紙。違いは円は日本国内のみでドルは世界全部。
日本でも印刷すれば簡単にデフレがインフレになる事が分っていたので『インフレターゲット論』なる主張も出てきたが制御不能に陥りハイパーインフレを起こす危険性も有るので日本政府は我慢している。
この人の脳内では住宅バブルのアメリカが、なんと!日本と同じように今まで『アメリカはデフレ』だったのでしょうか。?
確かに今の日本は世界的に珍しいデフレが10年近く続いていますが、世界中でそんな状態なのは日本だけ。
この人物にかかっては、かっての日本のバブル経済もインフレではなく『デフレであった』と言いかねない。
いやはや可哀相に。完全なる妄想世界の住人ですね。

天木氏と倦む日々

なぜか護憲派は天木氏を天まで持ち上げる傾向が有るようですが、レバノン大使時代に小泉政権に反論したことでみなさん実力以上に買い被っているようです。
もちろん外務省キャリア組みの中では最も善良な人物であるとは思われる。
私も天木氏の外務省の内幕とかレバノン情勢とかなら大いに信用したいと思いますが、政治なんかは・・・・・あれでは駄目ですよ。
つい最近の参議院選挙では新社会党と組んで筆頭候補になるなどは政治家としては自殺行為に近い愚かな行い。
選挙に参加するだけに意味を見出していたのかも知れないが政治は勝たないと意味が無いが、あれでは当選するはずが無い。
まるっきり先が読めていないが、その事を分ってやっているのか。?それとも分かっていないのか。? 甚だ疑問。
新社会党は旧社会党最左派の社会主義協会系なんですが、一部地方組織は解同系で、日本共産党とは其のことで反目している。
彼の周りに誰も止める人がいなかったのか。止めても聞かなかったのか。?
民主党入りの話も有ったらしいが一部議員の猛烈な反対で潰れたらしいが、民主党議員だけではなく色々と敵を作って如何するんですか。

天木氏のブログは百倍は「世に倦む日々」よりは値打ちが有るとは思いますが、氏の政治や経済其の他の話が金を出してまでわざわざ読む程度のものであるかは疑問。
「倦む日々」が日本共産党は社会民主党に党名変更を - 名を捨てて実を取れ」「共産党は党名を変えるべき」との記事が有りましたが面白かったのはあれだけ。党名が社民党で同じなら自動的に両党の合併ができるとの オフザケ記事。
いくら思い付きが良くても『倦む日々』は司馬遼太郎程度の低俗な俗物歴史観が立派に見えるらしいから、まああの程度で仕方が無いでしょう。
天木氏も『極々例外的な超人的人物を除いて、ある分野の超一流であっても、他の分野では素人同然ということはあるだろう』と言う原則に残念ながら当てはまります。

池田信夫氏について

私の池田氏の評価は、ある部分は高く、ある部分は低い。

私の表現流儀に従いますと、高い部分は「知」、低い部分は「識」です。

面影さんは「知」の部分の評価も低いような印象ですが、私は氏の思考には見るべきところはあると思います。だが、全面的に信頼を置くのはもってのほかで、氏に信頼を置いてしまうと人間として大切な部分を見失ってしまう。そんな感じ。

それは、湯浅氏の『反貧困』の評価に如実に表れていましたね。氏の評価は、正しいでしょう。フランスのようになるぞ、という警告も、正鵠を射ていると思います。でも、いくら正しくても氏の主張通りの世の中が幸福な世の中とは思えない。

私にとって池田氏は、正しいことがいかに不幸なことをかを示す存在、つまり、現代のシステムの誤りを象徴する存在です。

ちなみに

新自由主義という考え方を標榜する人にも、ホンモノとニセモノがあると思います。

そこを見分けるのは、ベーシックインカムや負の消費税を支持するか、あるいは著作権をどう考えるかあたりがポイントになってくると見ています。

ニセ新自由主義者は、あくまで私権を拡大することにしか頭にありませんから、ベーシックインカムとは不支持、著作権は全面支持。対して真・新自由主義者は私権よりも市場原理を重く見ますから、健全な市場の発展のためにベーシックインカムを支持し、著作権に制限を加えるべきだと考えているようです。

真・新自由主義は、それはそれで筋の通った考え方であり、ただ私権拡大のためのニセ・新自由主義よりずっと評価は出来ますが、それでも新自由主義そのものが人間を幸福にはしない思想であることに変わりはありません。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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