愚慫空論

蟲毒

犬夜叉

画像は本文とは直接関係ありませんが、これを見てわかる方は「蟲毒(コドク)」とはなにか、おそらくご存知でしょう。わからない方は→こちらをどうぞ。
(なお、画像のリンク先は全く内容とは関係ありません。画像をお借りしたので貼っておきました)。

当エントリーでは、妖怪といったものも登場します。妖怪とは何なのか? 何を指すのか? それは、こちら↓をご覧ください。


『「新自由主義な経営者」…今を生きるの妖怪』(dr.stoneflyの戯言)

犬夜叉は、dr.stoneflyさんちで出ていたので、ちょっと乗ってみただけ。半分以上は、私自身が好きだからだけど...わはは。

妖怪の具体例は、dr.stoneflyさんところにも引用されているけれど、私のところでもリンクを貼っておきます。こちら↓。

『今の経営者様方のお言葉』(村野瀬玲奈の秘書課広報室)


現代の妖したちの活動場所は、貨幣経済というところ。そして貨幣経済は、消費社会に暮らす私たち庶民の住む場所でもある。妖しの活動域と私たちのすみかは重なるのですね。
私たちは、貨幣経済をすみかとする以上、多かれ少なかれ妖したちの食い物にされているわけですが、その被害がひどくなると生存すら危うくなってしまう(→リンク)。また、生存が危うくなるところまで行かなくても、妖怪たちの食い物にされた被害は「生きづらさ」を感じたりする症状となって現れます。

生きさせろ! 難民化する若者たち生きさせろ! 難民化する若者たち
(2007/03/13)
雨宮 処凛

商品詳細を見る

「生きづらさ」ということを、別の言葉表現すると、「リアリティに飢える」ということもできそうです。

『なぜ「リアリティ」に餓えるのか』(H-Yamaguchi.net)

「リアリティ」とは、素直に解すると「現実」ということになるが、山口先生はもちろんそのような意味で「リアリティ」の言葉を使っていません。
だからもちろん、人々が「餓え」ているのは、そうした意味の「現実」ではない。そうあってほしい、本来そうあるはずだと考えられる何かだ。むしろ「現実感」に近いだろう。これを以下、仮に「リアリティ」と呼んでみる。つまり、今目の前に見えている「現実」は「リアリティ」ではない、現実感が感じられない、というわけだ。本当の自分はもっと別な姿、別の状態にあるはずだ、リアリティが感じられるのは、今見ているものでないもっと別の何かだ、と。
山口先生に、ミスター弾がからんでいます。
『リアリティって何ぞや?』(404 Blog Not Found)

H-Yamaguchi.net: なぜ「リアリティ」に餓えるのか
だってさ、リアリティって、目の前にあるじゃん?
ちがうお、山口先生。
目の前にあるだけじゃ、駄目なんです。
手応えが、なくっちゃ。

「手応え」ね。
リアリティ、とはなにか。
目の前にある世界が、自分が関わることで変わっていくことだ。

うん。「派遣村」という形になることで、遅まきながらも変わる兆しは見えてきましたね。
それはいいんです。

けれども、この【手応え】がくせものだと私は思っています。このような【手応え】ばかり追い求めていると、魑魅魍魎の世界に紛れ込んでいってしまう。「勝ち組」は妖怪変化し、「負け組」は妖怪の食い物に墜ちる。魑魅魍魎の世界とは、弱肉強食の競争の世界のことでもあります。

おカネを出せば、モノが手に入る。サービスが受けられる。これは確かに【手応え】です。でも、この【手応え】は【対話】(←前エントリー参照)とは、似ているが異なるもの。【手応え】は偽の【対話】です。人間の感性は【対話】を求めるように出来ているが、その受容体は【手応え】にも反応する。【手応え】ばかり受容している人間は、【対話】への受容性をなくして魑魅魍魎の世界に墜ちる。そう、【手応え】とは麻薬のようなものです。【手応え】という麻薬が広がってしまった世界。これが今の社会の現状――とは、少し喩えが過ぎるでしょうか?

山口先生が表現した「リアリティに飢える」を【手応え】【対話】という言葉を使って表現し直すと“【手応え】に禁断症状を示し始めた人たちが、【対話】を求めだした”ということができるように思います。そうした人たちは「緩やかな連帯」などといったことを唱えます。それは、無意識のうちに【対話】を求めていることの現れだ――というのは、私の解釈です。ですが、まだまだ自分の求めるものを意識しているとは思えません。彼らが要求しているのはあくまで【手応え】です。

企業や行政に【手応え】を要求することは、正しいことだと思います。所詮、企業や行政が与えられるのは【手応え】でしかない。そういった組織と【対話】しようと思っても、それはハナから無理な話。たとえどこかの企業に正社員になることが出来たとしても、それは【手応え】でしかない。その【手応え】に満足してしまったら、戻るのはまた魑魅魍魎の蟲毒の壺の中です。さらなる【手応え】を要求し、自分が妖怪変化するか、妖怪の食い物になるか、そんな世界です。現在の経済社会が正社員のポジションを得たからといって安穏と暮らしていられるものではないことは、ご存知でしょう。

では、妖怪の親玉を退治すればいいのか? 退治するのは大変ですが、退治したとてハッピーエンドというわけにもいかないでしょう。蟲毒の壺からでない限り、退治した者が別の形の妖怪変化になるだけ。その例に「一党独裁」を挙げるのは極端ですけれども、そうした現実は間違いなくあったわけですし、今もある。近代国家は妖怪ならぬリヴァイアサンという怪物だというのは、もう数百年も言われてきたことです。だから立憲主義や民主主義が悩みの種になる

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」
(2008/11/21)
ダン アリエリーDan Ariely

商品詳細を見る

こちらの本は、ミスター弾のところでも山口先生のところでも紹介されていました。私も読んでみました。この本で書かれてあることは、人間はかならずしも【手応え】ばかりを求める存在ではない――そう読むのは、的外れでしょうか? 仮にそう読めたとしても、この本では人間は【手応え】よりも【対話】を求める存在であるとまでは書かれていませんが、私にはそう言い切って良いように思われます。

【手応え】より【対話】の方がずっと大切だ、と。


もうひとつ、他所様から引用させてもらいます。ミスター弾のところのリンクから
『新しい年。生きるリアリティはどこにあるのか?』(ディスカヴァー社長室blog)
人は、人との関係の中でしか、自分の存在を認識(実感)できない
私は、この言葉にミスター弾の言葉をお借りして 「ちがうお」と言いたい。むしろ、そう思い込んでしまうから【手応え】の世界の中に飲み込まれてしまう。【仕事】から意味を見失い、【仕事】が単なる稼ぎを得るための労働に墜ち、カネを中心とした世界の【手応え】しか感受できなくなっていく。人間は、自分の存在を〔識る〕ことによって自分の存在を認識(実感)するには、人間以外の世界と【対話】することが必要だと考えます(←前エントリー参照)。その、人間以外の世界との対話法こそが、各々の民族なりが遙か昔から時間をかけて培った文化なのだと思います。


高橋留美子のマンガ『犬夜叉』の主人公・犬夜叉は、「半妖」という存在として描かれています。これは偶然でしょうが、「半妖」は、実際の問題として魑魅魍魎の世界である貨幣経済から抜け出すことが大変困難な私たちに、ひとつのヒントを与えてくれているような気もしないではありません。貨幣経済で生きているという現実からは、どうしても妖怪に変化しようとする圧力を受けてしまう。そこに流されないようにするには「人間の心」を忘れないことが大切になってくる。貨幣の自由な振る舞いを制するのに近代国家という怪物の力に全面的に頼っていてはいけない。あくまで「半妖」でなければならない――と、ほんとうにマンガのような話ですが、いまどきマンガだからといってバカにしてかかるのも時代遅れというものでしょう。妖怪でありながら人間の心を失わない「半妖」であれば、蟲毒の壺の中でも完全に妖怪変化しないでいられるでしょう。


そういえば、「半妖」の心のふさわしい記事をひとつTBしていただいていました。こちらの記事で示されている方法に従えば、蟲毒の壺を壊すことができるかもしれません。
    
『エコロジカル・ニューディール10年目の勝利』(代替案)

コメント

まさに

「貨幣」が「四魂の玉」かもしれない、と思った。と、こう書き始めるとマンガを読んでいる人にしか解りませんね(笑)。まあ、いいか。……穢れるか、浄化されるか、変化(へんげ)するか、人間でいるか。
犬夜叉の「揺れ方」の解釈も面白いなぁ。先が楽しみだ(今のとこ20巻まで読みました)

このエントリーの「対話」ってのを読んでいて、宇宙と会話していて、宇宙の中での「孤独」なのだ、その孤独とは人間社会のなかのチマチマとした孤独ではなく、天上天下唯我独尊なのだ、という池田晶子の言葉を思い出した。もちろんその言葉にまだワタシは「リアリティ」をもてません。その境地に立てた時ワタシは存在の「手応え」を感じるのかもしれません。

そうそう、前のエントリーでコメントし損ねたのですが、「樹齢300年の木を切る」くだりはすごい。何かに震え吸い込まれそうになりました。

dr.stoneflyさん

おはようございます。

>「樹齢300年の木を切る」くだりは

ありがとうございます。そう言っていただけると、言葉に絶望せずにいられます。

>このエントリーの「対話」ってのを読んでいて、
>もちろんその言葉にまだワタシは「リアリティ」をもてません。

そこ! そこなのです。「リアリティ」をつかむための方法論なんです。

この方法論には様々あると思います。アチラの人たちは、神様を深く信仰することで「リアリティ」をつかもうとする。私たち日本人は、世界を想像した者のことなど考えず、世界と【対話】して「リアリティ」を得ようとする。【対話】の手段だっていろいろある。手段として使うならば、お茶だって花だって、武術だって、ロケンロールだって、科学だって、いろいろなものが使える。その手段を「道」と言った。

でもね、この方法論は、非理性的なものなんです。論理を追っかけたってつかまえられない。さらに始末の悪いことに、自分ではなかなか方法論は選べない。自分で選ぶのは絶対不可能とは言いませんが、どうしても幼いころから自然と吸収した方法論に従ってしまうし、それが近道でもある。

日本人に生まれたなら、日本の方法で。西欧で生まれたなら、そちらの方法で。南の島に生まれたなら、その場所で育まれてきた方法で。どれが優れているなんてことはないと思います。それぞれがそれぞれの方法と手段で「リアリティ」をつかんできた。西欧の啓蒙主義はさまざまな方法を「未開」といった言葉で片付けますが、これこそ蒙昧なものでしょう。「私が生きている」という「リアリティ」をつかむことができるほどには、生まれながらにして人間は賢いと思います。いや、いや、人間だけではない。そういう意味では、生きている者はみな賢いんです。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/189-d7b50b70

「世界征服」は可能か?

岡田 斗司夫 (著) ちくまプリマー新書 悪の組織の「世界征服」に関するおそらく世界初の考察。 世界征服を思いつくところから、成し遂げた後までを仮想シミュレーション。 悪の組織は、何の為に「世界征服」を企むのか。? 世界制服を成功させるためには何が必要なのか

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード