愚慫空論

知識

理性に叛旗を翻す(笑)、2009年冒頭のエントリーです。

〔知る〕ことと〔識る〕こと。「知」と「識」の文字は合わさって「知識」という言葉になります。現代では、「知識」は〔知る〕ことの基礎的なもの、〔知る〕側の言葉として捉えられがちですが、もともとの「知識」は違うのではないか? 〔知る〕と〔識る〕はどちらも人間の精神作用ですが、似て非なるもの。その区別がつかなくなって、〔知る〕の側に大きく傾いてしまったのが、“我思う、故に我あり”に端を発した理性万能主義の近代ではないのか? そして、近代的理性が〔識る〕ことを抑圧し、人が人として〔生きる〕ことへの意義を見失わせてしまった...のではないでしょうか? 

〔生きる〕ことの意義は、決して〔知る〕ことはできず〔識る〕しかないもののように私には感じられます。


〔知る〕と〔識る〕について具体的に話を進めましょう。私は樵ですから、樹木の伐倒を例にとります。

伐倒方向立木を伐倒するには、まず伐倒方向を定めなければなりません。伐倒方向は、間伐で伐り捨ててしまって山の中へ放置するようなときは別ですが、搬出する都合を第一に考えて、伐倒方向を定めます。 右の図は、コチラの中からお借りしてきたものです(図そのものをクリックしていただくと、お借りしたページに飛びます)が、申し訳ないがこれは初心者向けと言わざるをえないもので、我々の作業では「作業困難」とされている方向へ伐倒するケースが多い。また、そちらへ伐倒することが出来ないようでは、一人前とは見てもらえません。

 ちなみに、上向き(山側)に伐倒するのが困難なのは、枝を張り出す都合で立木の重心はどうしても下向き(谷側)になってしまうからです。林には幾本もの木が立ち並んでいます。ある立木の上にも下にも、別の木がある。木の高さがすべて同じだとすると――針葉樹の人工林は、通常すべて同じ高さの木が並ぶ――上にある木は、下にある木よりも梢が高い位置に来ることになる。すると木は、上向きに枝を伸ばそうとしても上の木に光が妨げられ、逆に下向きに枝を伸ばすと下の木を受光を邪魔する形で伸ばすことが出来る。なので、木は斜面下向き方向に枝が多くなり、その枝の重みで立木の重心は下向き(谷側)に傾くことになるのです。

また、上側に倒すこと――我々はそれを“伏せる”と言いますが――には大きなメリットがある。出しひとつは、図で下向きが「不可」となっていることに関係するのですが、上向きだと伐倒した後着地するまでの距離が短いのです。すると、その分、木に掛かる衝撃が少なくなる。下向きだと衝撃が大きくなりすぎて、せっかく倒した木がバラバラに砕けてしまう恐れがあるのです。 もうひとつは、上向きだと木が軽くなること。上向きに倒してしばらく置いておくと、葉より水分が蒸散して乾燥します。これが下向き――木の元が上に、梢が下に――だとなぜか蒸散しない。それに着地の衝撃で枝が飛んでしまって、葉が少なくなるというのもある。現在は機械動力を使って搬出するので少々重くても出してしまいますが、昔、人力で搬出した頃には木が乾燥していなくて重いということは、非常に困ったのです。ですから、木を伐り倒すのは、“伏せる”のが決まりでした。


方向を定めたら、次は伐り込みの手順です。今はチェーンソーを使います。伐倒手順

まず、伐倒方向に向かって「受け口」を入れます。「受け口」の切り口は伐倒方向に対して垂直になるようにします。受け口を直径の1/4ほど伐り込んだら、今度は反対方向から「追い口」を伐り込んでいきます。

伐倒方向と立木の重心の傾きが同一方向である場合、「追い口」を伐り込むに従って立木は傾いてゆき、ついには傾く荷重に耐えられなくなって、木は伐り倒されます。ですが、“伏せる”ときのように、伐倒方向と重心の傾きが反対の場合、「追い口」を伐り込んでゆくと、追い口の方向に木が傾いてきます。そうなると、チェンソーは木に詰められてしまって、伐り進めることも、刃を木から抜くことも出来なくなってしまう。

クサビ そのような場合には、クサビを使います。右の黄色いのがクサビ。少しずつ伐り進めながら、少しずつクサビを打ち込んでゆく。この時に重要なのが「つる」の残し加減です。クサビを打ち込みつつ伐り進めても、ある限度以上に伐り進めて「つる」を少なくしすぎてはなりません。クサビを打ち込むことは、伐倒方向への力の加重をかけると同時に、木の梢の方向への力も加えることになります。「つる」が細いと、梢方向への荷重に耐えられなくなって「つる」が切れてしまい、そうなると伐倒方向への力の加重も無くなってしまって、立木そのものの重心の傾く方向へ倒れてしまい、事故の元です。また逆に「つる」を残しすぎるのも危険で、倒れていかないばかりか、無理にクサビを打ち込むと、梢方向への加重に木の幹が耐えられなくなって、幹が真っ二つに割れて裂け上がっていきます。そうなると、幹は木の加重に耐えられなくなるまで裂け上がって、耐えられなくなったところで折れて落ちてきます。こうした現象は逃げる間もなくあっという間に起き、また、どちらに落ちてくるか予想もつきませんから、非常に危ない。捻れの少ない素性の良い木ほど裂けやすいですから、困りものなのです。

これまでの説明で、立木の伐倒について理解していただけたでしょうか? 私の説明がつたないこともあるでしょうが、自信をもって“理解できた。もうすぐにでも木を伐れるぞ!”なんていう人は、おそらくいないだろうと思います。せいぜいのところ、“手順はだいたい飲み込めたが、実際にできるかどうか自信はない”といったところでしょう。それで当然です。

では、こちらの動画をご覧ください。ハーベスタと呼ばれる高性能林業機械です。


もちろん、ハーベスタだって素人がそう簡単に扱えるものではありません。しかし、これはベースになる機械は土木・建設に用いられるパワーショベルですから、パワーショベルを扱った経験がある人だったら“ちょっと慣れたらできるかな”くらいに思うかもしれません。ハーベスタを使えば、「つる」の残し具合だとか、「追い口」へのクサビの打ち込み加減だとか、そういったことに熟練する必要もなく比較的安全に作業できます。もし、林業に従事しなければならないとしたら、ハーベスタを使って作業をしたい――そう考える人が多いのではないでしょうか? 肉体的に、こちらの方が楽だと直観的にわかるでしょうし。


伐倒方法の手順などの知識を頭脳に仕込むことは、〔知る〕ことです。ですが、〔知る〕だけではなかなか大きな立木を上手に伐り倒すことは難しい。それには経験を経て〔識る〕ことが必要です。〔知る〕ことは、記述された言葉を理解することで得られます。では、〔識る〕ことは? 単に経験だけでは不足です。〔識る〕ためには【対話】が必要なのです。

では、【対話】とは? 立木の伐倒ひとつをとってもいろいろな場面で【対話】はできますし必要ですが、もっとも精妙な【対話】が要求される場面は、やはり「つる」の残し加減、クサビの打ち込み加減、うまく言語化することが困難な、「加減」が要求されるところでしょう。ハンマーでクサビを打ち込んだ時の手応えとか、ハンマーの一撃ごとにクサビが「追い口」に潜り込んでいく距離、立木の軋む音、傾き具合、時には風が吹く様子――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していく。こうしたことが、言語化することがそもそも不可能な【対話】であり、そうした【対話】を為すことを【仕事】というのです。

【対話】を為すことを【仕事】とは、また妙なことを。言葉を解する人間相手の仕事ならば対話が仕事ということもあるだろうけども、木は言葉を解しないのに対話はおかしい――そんなふうに思われる方もおられるでしょう。しかし、これは「仕事」という言葉を考えてみれば、それほどおかしなことではありません。

【仕事】とは“事に仕える”ということです。“仕える”のは、もちろん「私」、仕事を為す私です。では、「事」とは? 仕事は、そもそもが「私」が外部に働きかけを行ってなんらかの成果を得るための行為です。その「行為」を「事」と称する。してみれば“事に仕える”とは、「私」よりも「事」を上位において、そこに没入していくということになります。「事」に没入していくこと――様々なことを感じながら、微妙な感覚で様々な加減を調整していくこと――は、相手が言葉を介す介さないなど関係なく、「私」の相手への行為から生じる相手の応答を感じつつ、さらに相手に行為していく、そうした「私」と相手との間の「行為-応答」の「やりとり」です。その「やりとり」を【対話】と呼んだだけのこと。この呼称は、言葉を解する「私」を上位とする思い込みからは出てこない発想かもしれませんが、「私」を下位に置く【仕事】の精神からは遠いものではないと思います。


ハーベスタを使用することは、肉体的な負担が少なく、比較的安全であり、さらには作業の生産性が上がり、良いことずくめのようですけれども、同時に〔識る〕ことができる機会が奪われてしまうことにもなります。もちろん、ハーベスタを扱うことはハーベスタと【対話】しなければなりませんから、ハーベスタについて〔識る〕機会は新たに生まれます。ハーベスタといったような機械との【対話】は、それはそれで素晴らしいことです。ときに機械の設計者が想定した以上の性能、機能を発揮することもある。ですが、基本的に機械といったものは、それが進歩すればするほど――進歩させるのは科学技術――人の〔識る〕範囲を狭くしていく。たとえば、さらに機械の能率を上げるため、またオペレータの熟練――オペレータが機械を〔識る〕こと――に依存しないように、機械の自動化を推し進めれば? もしくは、作業の過程を細かに検討し分業化を進めれば? そのような「進化」が進むごとに作業能率は上がるかもしれませんが、【対話】の機会は奪われ、人間は〔識る〕ことが出来なくなっていきます。そうして多くの【仕事】がたんなる作業になりさがってしまう。

ハーベスタのような機械を設計開発するには、科学によって積み重ねられた成果――〔知る〕ことの体系――が必要であったことはいうまでもありません。設計者は、機械の目的に合わせて〔知る〕ことの体系と【対話】をしつつ、設計を行う。また、設計されたものを形にするには、エンジニアたちのノウハウ――これも【対話】によって捉えられた〔識る〕こと――も必要です。機械の設計者、エンジニアたちの作業は【仕事】でありえるかもしれません。「私」を「事」の下位に置くことができるかどうかはいささか疑問ですが、彼らにとって、その作業は自己実現の方法となりえるでしょう。

しかし、そうした【仕事】は、機械に従って作業をしなければならない人たちから【仕事】を奪い、仕事人をたんなる作業員にしてしまいます。マルクスが唱えた「疎外」というやつですね。マルクスは労働者を疎外する主犯を資本としましたが、これまで見てきたような視点に立つと、疎外とは、〔識る〕が〔知る〕によって抑圧されること、とすることも出来そうです。


ヨキ

これは私が使っている道具です。一般的には「斧(オノ)」という方が通りがよいかもしれませんが、我々は「ヨキ」と呼び習わしています。ヨキの語源は、刃に施されている4本のスジにあるという話です(画像からも、見づらいですが見て取れます)。刃の反対側には3本のスジも施されてあるので、「ミキ」となってもおかしくはなかったはずですが、なぜがこれは「ヨキ」です。

ヨキは、樵にとっては武士の刀のような存在です。樵の世界でも今の世の中、さすがに機械化が進み、ヨキが活躍する場面はほとんどありません。木を伐るための道具は、もっぱらエンジン動力のチェーンソーか、さもなければハーベスタのような大型機械になってしまっています。ヨキは木を伐るための道具としてよりも、刃の背でクサビなんかを打ち込むための道具として使われることの方がはるかに多くなっています。

ヨキは、ノコギリという道具が発明されて以来、木を伐るための道具としての役割の主役からは降りてしまっています。それでも、ヨキが特別な存在である理由――明確にはわかりませんが、それは刃に施されたスジにあるのかもしれません。

斧という道具は、木材を建築物等に利用した文明には広く見られるものです。しかし、刃に3本、4本のスジを施すのは日本独特のもの。その意味は、1本1本のスジは「気」を表し、3本のスジは「ミキ」すなわち神酒、4本のスジは「ヨキ」すなわち4つの気――地・水・火・風――から生まれる五穀を表すもの。木を伐るのは今でも深い山中のこと、昔はなおのこと供え物を運ぶことなど出来ず、その気持ちを表すものとして斧の刃にスジを刻んで伐り倒す木に祈りを捧げた、ということらしいのです。

木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)木に学べ―法隆寺・薬師寺の美 (小学館文庫)
(2003/11)
西岡 常一

商品詳細を見る
そうした意味を、私はこの本で知りました。樵になる前の話です。そのときには、「ヨキ」の意味を頭には仕込んで〔知る〕ことは出来たかもしれませんが、木に供物を捧げようとした昔からの樵たちの心まではとうてい〔識る〕ことは出来ませんでした。樵に鞍替えして、多少は木との【対話】の経験もした現在は、少しはその心がわかるような気がします。

以前、知り合いのベテラン樵から、奈良の平城京大極殿復元に使う樹齢300年に近いヒノキの伐ったときの話を聞いたことがあります。吉野のとある山中にあったその木を伐るに当たって、仲間といろいろ伐り方について相談――適切な伐倒方向、倒れ具合の予測、倒した後の搬出の段取り等々だと想像しますが――したあと、いざ、木に刃を入れるという段になると、やっぱり足が震えたと言っていました。その心境はよくわかります。たかが木といえど、それを伐り倒すことを生業にしているといえど、自分よりも遙か齢を重ねたそのヒノキは、単なる樹木ではないのです。供物を捧げ祈りたい気持ちになっていくのは、ごくごく自然なことだと感じます。

木を伐り倒すことから、木へ供物を捧げようという心へ至る過程。こんなものは、とてもとても、論理的に説明できるものではありません。そうしたことを明確にしようとするときには、言葉の伝達力の乏しさに絶望を覚えざるをえない。しかし、では、言葉でそれらを表現することは全く不可能なのかというと、それはそうでもない。読み手の想像力、共感力に期待を託しつつ、自分の感覚をさまざまな方法で言葉に載せて【対話】するのであれば、もしかしたら理解してもらえるかもしれない。そうした期待は、言葉には十分持って良いのではないかと思ってもいます。


悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
(2008/05/16)
姜尚中

商品詳細を見る
姜尚中は、この著作の第3章のタイトルを「知っているつもり」じゃないか、としています。私の文章をここまでお読みいただいた方は想像つくかもしれませんが、「知っているつもり」をこのエントリーの表現の仕方で言い換えると、「識っているつもり」です。また姜尚中は、トルストイを引用しながら「科学は何も教えてくれない」とも言います。科学はわれわれが何をなすべきかということについて教えてくれない。教えてくれないだけならまだよいのですが、それに留まらず、人間の行為がもともともっていた大切な意味をどんどん奪っていくと言う。私もそれに全く同感です。

われわれはみな、自分たちは未開の社会よりはるかに進歩していて、アメリカの先住民などよりはるかに自分の生活についてよく知っていると思っている。しかし、それは、間違いである。われわれはみな電車の乗り方を知っていて、何の疑問も持たずそれに乗って目的地へいくけれども、車両がどのようなメカニズムで動いているかを知っている人などほとんどいない。しかし、未開の社会の人間は、自分たちが使っている道具について、われわれよりもはるかに知悉している。したがって、主知化や合理化は、我々が生きる上で自分の生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。

これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』の孫引きです。

自分が使う道具を含め、自分自身が住んでいる世界について知悉すること、〔識る〕ことは、自分が何者であるか、ということを〔識る〕ことにつながっていきます。いくら科学的な知識や、社会の仕組みについて理解し〔知る〕ことを重ねても、生きている意味などつかめないように私は思います。〔知る〕ことで出来ることは、せいぜい知らない者を下に見て、相手と比較することで自分の位置を確かめる程度のことです。それは、オレは金持ちだからエライとか、社会的に高い地位にいるからエライと考えるのと大して違わないように私には思える。そうした比較を知性だとか理性だとかというならば、そんなものを少しも欲しいと思いません。

私自身が何者であることを〔識る〕ことは、むしろ理性的でないところからもたらされるように思います。「我思う、故に我あり」ではなく、「我感じる、故に我なし」です。

「我なし」は間違いではありません。私自身を〔識る〕ことを「我なし」とは矛盾していますが、これはこれで正しいと思います。ただ、どのように正しいのか、そこを語る言葉を残念ながら私は未だ持ち合わせていません。語れるときが訪れたら――いつ訪れるかわかりませんし、訪れない可能性も高いですが――、エントリーをあげたいと思います。
  

コメント

いい記事ですね

とてもいい記事を読ませていただきました。さまざまのことが思い当ります。ハーベスタの高性能にも驚きました。
 学生時代にブライス師から「(小文字の)knowと(大文字の)KNOWは違う」と言われたことを思い出していました。禅についての話でしたが、たとえば人を知るとは、どういうことか。KNOWには「性交する」意味がある、と説いて、女子学生たちのヒンシュクを買っていました。私は後にこの教えで、今の妻を得ました。

一句できてしまった

大賢は 愚樵と称し 山に住む

「悩む力」では

宗教に関して、夏目漱石の著書にそって語っていた部分が興味深かったです。
「門」の前に永遠にたたずむしかない現代人…。
わたしたちはプチ宗教を楽しみ、スピリチュアルを玩ぶ。しかし、永遠に信仰の門に入ることは出来ない。
実に身につまされる表現でした。

それにしても今、新興宗教団体の大半が、憲法改正運動推進派であり、田母神論文の擁護派であり、あまつさえ自己責任と小泉改革推進擁護派であるというのは、どういうことなのでしょうね。

志村さん、naokoさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

*****

それにしても、志村さん。記事をお褒めいただくのは大変嬉しいのですが、その句はちょっと...(苦笑)。最初見たとき、思わずコメント削除させてもらおうかと思ってしまいました。私は志村さんほどユーモアのセンスに長けていませんので、ちと恥ずかしいです。

それと「(小文字の)knowと(大文字の)KNOWは違う」。大文字のKNOWについては初耳です。これに触発されてマイケル・ポランニーを思い起こしました。

ポランニーは「明示的知識 explicit knowledge」だけが知識を成り立たせているのではなく、その背後に作動する「暗黙に知ること tacit knowing」の重要性を繰り返し指摘したという話です。後者は、knowledgeではなくknowingになっているところがミソで、これはKNOWに通じるところがあるような気がします。

*****

naokoさん

>わたしたちはプチ宗教を楽しみ、スピリチュアルを玩ぶ。しかし、永遠に信仰の門に入ることは出来ない。

これは私の勝手な推測ですが、かつての日本人はそれで十分だったのだと思います。漱石の悩みは知識人の悩みであり〔知る〕側にいってしまった人です。当時日本の大半を占めていた〔識る〕側の人には、それで十分に満たされていた。自然とともにあった人たちにとっては【遊び】と【仕事】のあいだにさほど大きな違いはなかったように思いますし、そうした心性を今の私たちも幾分かは引き継いでいます。

>それにしても今、新興宗教団体の大半が...

その疑問は私も共有しています。新興宗教だけでなくて、多くの、特に若者たちが右傾化していく理由ですね。

今、「右傾化」と書きましたが、同じ兆候を見て、それを「左傾化」と感じる人もいる。不思議ですが、私にはここらが鍵だと思っています。

日本人が喪失したのが〔識る〕ことによって得られる何かだとします。〔識る〕ことは、曖昧な感覚に依存するもので、これは今〔知る〕ことによって抑圧されている。だもので〔識る〕ことによって失った何かを〔知る〕ことによって得ようとしている。それが「万世一系」であるとか「武士道」とかいった形で、〔知る〕ことができる形になって求められているんですね。「万世一系」「武士道」は一見、右側ですからこれは右傾化に見える。

しかし、そもそも〔知る〕というのは理性的なもので、そちらに傾いていくというのは、これ、「左傾化」なんですよ。右傾的なものを左傾的に把握しようとしている。

宗教の場合、理性を表看板にすることは出来ません。それをすると、だれも宗教だと認めてくれなくなってしまいますから。けれども、今の日本の新興宗教は中身は宗教ではないんですね。本来、宗教とは〔識る〕ためのものでしょう。けれど、そこが〔知る〕に置き換わってますから、カルトになってしまう。どのような宗教も多かれ少なかれカルト化する要素はあるんですが、それは〔識る〕が〔知る〕に置き換わっていくときに起こるんではないかと思うんですね。

右傾化と左傾化

「左右の境界線」がよくわからない上に、基準が人それぞれです。なので、「右傾化」「左傾化」と言われても、私には説明ができない。
ともに、「自分たちが好ましいと思う思想から、自分たちが嫌悪する思想へ、若者や社会が移行していく」ということを指しただけの言葉ですが、この言葉の怖ろしいところは『自分たちが嫌悪する思想は全否定されるべき』という前提での「聞く耳を持たない、啓発すべき対象」「本来短所であり、留意すべき点すら、正当化してしまう」ということにあります。

戦前と戦後の価値観やレジームについて、各々の正当性と不当を述べることは、今回は控えますが、どちらにしても人々の歩み(=歴史)の中で、紆余曲折がありながらも徐々に醸成されていったものであり、ともに、検証して探っていくべきものだと思うのですが、「全肯定・全否定」という『宗教』的な思考パターンが多いことが気になるところですね。

ということで、今回はここまで。

自己レッテル

>「左右の境界線」がよくわからない上に、基準が人それぞれです。

はい。ですから、自分に自分でレッテルを貼るのです。「私の基準はココ!」と宣言して、基準線を示す。そのことは、その基準でしか見ない、見られないと言うことではありません。それはご理解いただけると思いますが。基準を示すことで、周囲に理解してもらいやすくする。そのためのもの。だから、あくまで「方便」でしかありません。

それにね、自己レッテルを貼り替えてみて思いましたが、立ち位置をはっきり自覚すると文章も書きやすい。論理を組み立てる順序がはっきりするんですよ。そんな効果もあります。

あけましておめでとうございます

いやぁ、面白かったです!
グイグイと引き込まれました。
伐採のしかたも、ハーベスタのスゴさも、ヨキも・・・。
思わず2回読んでしまいました。

そして、
>こうしたことが、言語化することがそもそも不可能な【対話】であり、そうした【対話】を為すことを【仕事】というのです。
・・・・・・・・・・・・
「我感じる、故に我なし」です。
<
また、
>本来、宗教とは〔識る〕ためのものでしょう。けれど、そこが〔知る〕に置き換わってますから、カルトになってしまう。
<
まさに、まさに。
とても腑に落ちました。

愚樵さんの感じてらっしゃる(のではないかと思う)「・・故に我なし」と、僕が感じている「・・故に我なし」とが、どこかちょっと違う気がするのですが、それこそうまく言葉に出来ません。
そのあたりのニュアンスを、これからだんだん「識る」ことが出来たらいいなぁと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。m(_ _)m

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/188-38a7e81d

エコロジカル・ニューディール10年目の勝利 -新年のあいさつにかえて-

 昨年9月のリーマン破たんを契機に、あれよあれよという間にエコロジカル・ニューディール的なコンセプトは急速に求心力を得て広まりました。ついにパン・キムン国連事務総長まで「グリーン・ニューディール政策」と言い出し、オバマ次期政権の中でも、米国経済を救うに...

素直に「過去」の過ちは認めようよ

「確かな野党」と自ら言っている以上、政権に入ることは100年ぐらいなさそうな共産党。 でも、その共産党の議席が増えない、支持が広がらない...

2009年初夢大胆予想、オバマはリンカーンになれるか。?

第16代米大統領エイブラハム・リンカーン(51歳で当選)の生誕200周年にあたる2009年の1月20日に第44代大統領となるバラク・オバマ氏(47)は奇しくも同じイリノイ州スプリングフィールド選出である。 ともに長身やせ形で、演説上手で、政策的に未知数

剣山

今回は、愚樵さんのこのエントリ http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-188.html に、触発されて思い出したことをつらつらと・・・ (ちょっと、痛い、はなしです) 何年か前、沖縄のある高校で学園祭に合わせてひとつの試みをしたというニュースがありました。 そ...

愚樵さんの『知識』

ニケさんにせかされて(違?)さっそく愚樵さんのところに遊びに行ったのですが・・・。 特に元旦の記事が とても心動かされるものでしたので、ここを訪れる皆さんにも 是非是非読んでいただきたくて。。。 ま、お裾分けみたいなもんです♪ 『知識』 かなり長い....

知っていることと識っていること

今日6日の午後、実家から帰ってきました。 お正月のラッシュには無関係かと思いきや

「泡瀬干潟で餅つき大会」&デモ協力&署名のお願い

泡瀬干潟の保護を求める署名は紙媒体、ウェブ(日本語、英語)版全てが泡瀬干潟を守る連絡会に集められ集計中です。ご協力ありがとうございました。さて沖縄関連のいくつかのイベント、そして新たなる署名のご案内です。ミュージシャンのKEN子さんからの情報です。◆「泡瀬...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード