愚慫空論

神の効用

次も経済についての愚考エントリーをあげるつもりだったのだけど、予定変更。

そういえば、ちょちょんまげさんに約束した「科学=宗教」エントリーも宿題になっているんだけれども(タイトル『科学は技術である』もしくは『科学者は技術者である』で構想中。タイトルが約束と違うじゃないかって? まあ、それはお楽しみということで(笑))。当エントリーは、そこと少し関係がなくはない。

予定を変更して問うエントリーをあげることにした理由を記しておく...のは、面倒くさいからやめて、わかる人にだけわかるというエントリーにします。どうしてもわけが知りたいという方は、

dr.stoneflyの戯れ言:「水伝、教育現場に導入」(1)…ばかばかしさを見抜け!!
dr.stoneflyの戯れ言:「水伝、教育現場に導入」(2)…怒りの矛先は何処?
光るナス:私信のような 余計なお節介です (^_^;)
dr.stoneflyの戯れ言:「欺瞞的教育へ陥る罠」…ポストモダンおやじか、それとも

の順番でご覧になってください。コメント欄まで読まないと流れはつかめませんよ。


で。問題は「権威主義的オヤジ」はもちろんダメだし、かといって「ポストモダン的非権威オヤジ」も上手くない。むしろポストモダンの方が陰険で罪深いかもしれない。だけど、いまさら封建的権威主義的オヤジに戻れるわけもなし...といったところ。そこへの私の答えは「そんなの関係ないでしょ。一個の人間として対等に接するのなら」というもの。

一個の人間として対等に接する。使い古された文言で、誰もがわかったような気になっているのだが...本当にそうなのだろうか? 


ここに信心深い親子がいたとする。朝に夕に神への祈りを欠かさない。

親はごく普通のこととして、教養のある立派な社会人であり、社会生活の熟達者。子は当然未熟者である。親は当然のこととして、子に教育を施す。さまざまな社会の中で生きていくための知識や技術、あるいは自然から恵みを得るための知恵などを子に授ける。こうした教育は、教育のなかの「教」の部分。ここでは親は教える者、子は教えられる者であって、親が上位・子は下位となる。

だが、親子が揃って神の前に祈るときには、親子の上下関係はなくなる。神の前では親も子も平等。祈りの場では、神の前において対等な人間関係が現出する。
教育の「育」とは、この平等空間を共有することだといえるように思う。

さて、この親子に何らかのきっかけがあり、神に絶望し棄教するといったことがあるとしよう。そうしたときに、この親子は引き続き“人間同士として”の平等空間を共有することができるだろうか? ここが問題であり、またこれは神なき世界に住む私たちも同様に抱える問題でもある。

この親子に残されているのは、社会を生きていくあるいは自然から収穫を得る熟達者としての親と、未熟者の子という上下関係だけに限定されてしまう。だが建前としての「人間同士対等」は残る。こうした状況が、ポストモダン非権威主義オヤジを生むのではあるまいか? 子の内的な自由を尊重しているように振舞いつつ、自らの経験によって予め子が自由に出すべき答えを先回りして暗示してしまう。対等であるつもりが実は上下関係から抜け切れていない、欺瞞的な平等。


この欺瞞的平等は、今日の無神教市民社会のモラルを蝕む病巣にもなっている。

ある者たちは欺瞞的平等に耐えられず、権威にすがろうとする。その権威の代表がまず【カネ】。が、【カネ】という権威は誰にも平等に恩恵を与えてくれはしないので、そこからあぶれた人間が次にすがるのが国家。

また別の者たちは、あくまで平等を守ろうとし、神なき世の平等の根拠を人間理性に求める。神を信仰していた世界からの脱却を人間の進歩・人間理性の勝利と位置づける。そして、人間の平等が憲法という形で明記されていることに誇りを感じている。だが、これらの人たちは理性を尊重するあまり、十分に理性的でない人たちを一段低い存在だと見なしてしまう傾向がある。ことに科学を理性の昇華物として最重要視し、さらには個々人の良心の中身でさえ科学的でないと非難の対象にしてしまう者もいる。

こんなことなら、絶対の神にひれ伏す方がよほど人間にとって幸せではなかろうか?
もっとも神を信じたら信じたで“神との距離”による上下関係が生まれるし、その上下関係をすべて取っ払ってひとり神の前に立とうとすると、キルケゴールみたいに「死に至る病」に罹ってしまうし...。ほんとうにやっかいだ。


おっと、文章がかなり横滑りしてしまった。強引に元に戻すと、神を抑圧的道徳と読み替えれば、道徳こそが欺瞞的でない真の平等・対等の人間関係を生み出すのではないのか、ということ。一部の者が道徳を他者の抑圧の道具として使うなどといったことは以ての外だけれども。

(こんなの文章、いつもならボツだけど、今日は、ええい、逝ってしまえ~(爆))。

コメント

わたしも道徳は大切と思うけど

この『道徳』ですが、『信仰』の裏づけ無しにはうまく機能しない代物ではないでしょうか。少なくともわたしはそのように感じています。
ここで言う信仰は、必ずしも一神教や多神教の具体的な神や仏教的な仏への信仰でなくともよいし、具体性あるスピリチュアルな世界を意味する訳ではありません。
最低限、‘なにものかを仰ぎ信ずる心’であればよい、と思っていますが。

それでも、非科学的な心であることは間違いありません(笑)。

どうも、ありがとう

>そんなの関係ないでしょ。一個の人間として対等に接するのなら

かぁぁぁ、言われちまったぜぇぇ。
でも、忘れていたことを思い出させて頂き感謝します。
引用が面白かったので取り上げたのですが、結局それを面白がるとこに嵌まっていたことを自覚。子どもが保育園時代にはあ、こだわっていた「共育」ってのを思い出しました。

>社会を生きていくあるいは自然から収穫を得る熟達者としての親と、未熟者の子

それ以外の本当に大事なことは子どもから教えられているという自覚ができればいいと思っています。これは、子育てだけじゃないかもしれないな。
何かを教えているようで教えられているという自覚で、上下関係は解消できませんか(笑)

>道徳こそが欺瞞的でない真の平等・対等の人間関係を生み出すのではないのか、

「神を抑圧的道徳」これを倫理と言ってもいいのかもしれない、とチラッと思いました。

>こんなの文章、いつもならボツだけど、今日は、ええい、逝ってしまえ~(爆)

ほんと、すみません。
でもね、計算され完成されたエントリーより勢いで書かれたエントリーのが伝わるものがあるってこともあるわけで、沁み入ります。このエントリー、戯れ言を読んで頂いてる方にも読んで欲しいのでTB頂けると有難いのですが……お願いします。


隻眼

ん~と、ね。この人とかどうですか?

 曇りなき心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く   伊達政宗

あばたで、隻眼の、伊達男。天下のへそ曲がり。

 仁に過ぎれば弱くなる。
 義に過ぎれば固くなる。
 礼に過ぎれば媚となる。
 智に過ぎれば嘘をつく。
 信に過ぎれば損をする。

この人はまた、こんなことも言ってるみたい。

 この世には、客で来たと思え。

お客人。ひとつ頼みがある。隣で立ち見をしてる、ってのはちょっと遅れただけなんだが、もとの世界があまりにも居心地が良かったんだろうな、この様子じゃあ、・・・とにかく、あんたの隣にいて、申しわけなさげに突っ立ってる、そのお客、この子たちにも、その舞台を演じさせてくれまいか。ああ、大丈夫、わかってるって、確かにあんたは賢い。応分の努力をしてそこにいらっしゃる。そう、あんたがそこに座って、静かにその舞台を楽しむ権利はある。それはわかった。でも、後生だ。頼むから、ネタバレはなしにしてくれ。

好きにやらせてくれないか。俺には、いや、他の誰にも、あんたの人生をなぞることはできないんだ。もちろん、黙れってんじゃない、

すまんが、あんたの人生は、はたから見ててちいとも面白くなさそうなんだよ。

教えてもらいたきゃこちらから行く。ちゃんと礼を尽くして、こちらからお願いする。だから、あんたは、あんたで楽しんでておくんなさい。

どうかよろしくお頼み申します。

ごんさん
悪かったよ。ただ、過干渉気味なのはお互い様なのじゃないの?だから、第三者からどっちもどっち的なこと言われるんじゃないの?的外れなコメントだったらごめんなさい。
見透かしたつもりで、ぜんぜん見透かせてない部分(誤解)があるんだと思う。誰もが。だから、誰もが暴れたくなるんだと思う。
センスも、面白みもないコメントで申し訳ないけど。

愚樵さん
>こんなことなら、絶対の神にひれ伏す方がよほど人間にとって幸せではなかろうか?
…私も本当にそう思います。
…暴れてごめんなさい。

感傷ギミック?

UMAさん、

干渉気味ってのは「?」です。だから、「的外れ」なのかもしれませんが、あやまってもらうとこちらが困ります。あやまってもらう意味がわかりませんので。

それにつけても、

>どっちもどっち

ですよね。

いい感じです。何の問題もありません。「お互い様です」いい言葉じゃないですか。ちなみに、この前のUMAさまとのやりとりは、楽しかったです。正直に。なので今後ともよろしくお願いします。ご迷惑でなければ。

ごんさん
あ、あれれ…、私、またしても一人で相撲を取ってしまいました。すみません。実はリアルでも喧嘩が割合多いUMAです。(最近減ってはきましたが)某所で、「喧嘩しなくてもよいのに」というようなコメントをしたことがあります。あれは本音ではあるのですが、コメント後、自分のことを棚にあげてしまったなぁと反省しました。
分かってほしいと思っていろいろ言ってるうちに、いつの間にか罵倒合戦になっているのを見るのは嫌です。って、よけいなお世話だろうけど、言わずにおれんのはなんでだろ。
>楽しかったです。正直に。
うれしいです。こちらこそ、よろしくお願いします。あ、でも呼ばれてすぐ出てくるような素直な人ではなかったりします。UMAには未確認物っていう意味もあったような…。こんなんでよければぜひ。

愚樵さん
なんだか、うれしいです。なんだか、甘ったれたコメントで申し訳ないんですけど、こんなようなコメントしか今出てきません。
おじゃましましたm(_ _)m

ほほえましいコメントの後で(笑)

ちょっとエントリー内容を読み違えていたかな?
「神を抑圧的道徳と読み替えれば」という文章の、『抑圧的』という言葉の意味を、重く捉えすぎて、神の前にひれ伏すという意味を、宗教による精神的抑圧という感じに受け止めてしまいました。
その上にキルケゴールも出てくるし…。

そのため、わたしの上のコメントは、愚樵さんのエントリーに対して、後から見ると、とんちんかんな感じです(苦笑)。
ちゃんと愚樵さんも信仰の上に立った道徳とおっしゃっているのに(汗)。

コメントを返すのが難しいなぁ...

う~~~ん、どうやってコメントをお返ししたものでしょうねぇ? 特にごんさん。

UMAさん、暴れてくださってぜんぜん結構です。ここは
過疎地ですから(笑)。過疎地の原野なかで暴れていたって、誰にも迷惑をかけないでしょ。ただ、ネットというのは、過疎地であっても容易に他所とつながるんだということだけ留意してもらえれば。人格攻撃になると他へ飛び火しますからね。

naokoさん。そう、大切なのは信仰です。もちろん、懐疑も大切ですけど、懐疑ですべてがわかるかというとそうじゃない。信じなければわからないものもあります。

dr.stoneflyさんには、そちらへお邪魔してコメントさせていただきましたので、こちらでは改めてひつようありませんね。

...で、さて、ごんさん。

>すまんが、あんたの人生は、はたから見ててちいとも面白くなさそうなんだよ。

私は私の人生を十分に楽しんでますけどね。ただ、傍から見て楽しそうじゃないというなら、そう見えるんでしょう。私はこれまでもごんさんの見立ては信用してきましたから、このように言われると少し凹みます。
(ごんさんの語法が私には少し合わないこともあって、今まで絡むのは遠慮気味だったんですが...)

まあ、それでも。過干渉だろうがお節介だろうが、私はたぶん他人と関わることをやめないでしょう。いえいえ、やめたくなることは多々あるんですよ。重たいし面倒くさいし。もっと軽やかにできないものかといつも思うけど、それがどうもできそうにない。

でも、他人と関わることは、結局自分と関わることでもあるんです。他人から逃げても自分からは逃げられない。だから他人からも逃げない。逃げないことがどんな結果をもたらそうとも、ね。

たぶん、もう、覚悟はできてます。重たい私自身を振り回して他人を傷つけてしまうことを。そして、その傷が私自身の傷になってしまうことを。

が、その傷こそが生きている証。

こんにちは

>信じなければわからないものもあります。
<
そうなんですよねぇ、ホント そう思います。
「上下関係」を、例えば「師弟関係」と考えてみれば、まさに「信じなければわからないものがある」の端的な例となる気もします。

呪縛テロ

あらあら的外れが別の的に当たったみたいね。いつもの「誤爆」です。なので、まず、あやまっちゃいます。あらぬ方面に不快な思いをさせてしまったことについて。

ごめんなさい。

あたしは、このエントリ、ご紹介の教育の話しの続きかなと思ったんですよ。それで、最初のコメントをしました。議論するつもりだったから。というのも、あたしは子どもの心情って、よくは知らないけど、子どもらの思いってのは、つくづく無視されてるなぁ、と思ったんです。というか、常々、無視されてるよな、と思っているんです。この国では。
だからこれは、

>すまんが、あんたの人生は、はたから見ててちいとも面白くなさそうなんだよ。

バカな子どもををたたき直して、ほんの少し賢く(もちろん自分より賢くなどしてやるもんかと思ってる)してやることが世の中のためになる、と思っていらっしゃる方々に申し上げているのです。

ヲイヲイおとっつぁん。どんなバカでも、自分自身が「つまんないこと」のためにその大事な脳と限りある体力と純粋な心を使ったりしないですよ、と。子どもらに何かを伝えたいなら、まず、あなた自身が楽しく生きることでしょう。ということは、われわれ大人が世の中を楽しんでいればいいのですよ。生まれて食べて死んでいくだけのこの世を楽しむ。それが、究極の知恵でしょう。

だけどその「楽しみ」は、ある種の「特権階級に属する方」がやるような、蔑み、嘲笑、なぶりやいたぶりとは違うわけです。それで、ややこしいことになる。

机上の食う論

まず、泰然と楽しむ。

だけど、それが難しい。この社会ではなかなかそれができない。できないことがわかれば、これからの人、子どもたちに期待する部分も変わってくるはずでしょう。かれらがわたしらより上手にやってくれないことには、いつまで経っても世の中はつまんないままなわけですから。そこで、教育でしょう。寝ている赤ん坊に「テーブルの上なんて見ても、今は何にも乗ってないよ、全然つまんない」と教えることができたとして、それが何になるんでしょうか?

そういうことが上手い「教育」だったら、誰も立ち上がってテーブルの上なんて見ようと思わないですよ。寝てた方がマシでしょ。テレビでも見ながら。だから、子どもたちが部屋から出たがらないのは、今の「教育」が上手くいっているからですね。

少子化の問題もそうですね。子どもを生んでも育てる時間がない。育ててもらっていない子どもたちにはわかる。それがどんなにつまんないことかすでにわかってる。そんなふうに大人になった子どもたちに、つまんなくても我慢しろ、義務だ、産め。なんてことが「教育」によってしっかりと伝わって、子どもを生む気になる「親」の方があたしは怖いです。

推理小説をつまんないものにする方法は、誰にだってわかってますよね。

読む前に犯人を教えてやることです。そうすれば子どもたちは「陰謀論」なんてくだらないものに「うつつ」を抜かしたりせずに、よろこんでわたしらの中の「賢い」人々の「介護」をするようになるんじゃないですか。もちろん金のために。

こんな世の中なんだから。

わたしらは、一緒に生きる仲間を求めているのか、それとも、都合良くはたらいてくれる奴隷を求めているのか、そのことを今一度学び直しておく必要があるんじゃないかしら。

子どもたちに強烈な反撃を食らう前に。

事後承諾

愚樵さん
いつもお世話になっています。
今回の私のブログで愚樵さんを利用させていただきました。事後承諾です。

http://www.avgas-bb.com/wp/?p=260
関連記事をエントリしましたので連絡です。

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