愚慫空論

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 作品110

生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい

この詩を目にするたび、歌を耳にするたび、私の脳内レコーダーが反応して automatic に再生を始めてしまう音楽がある。それがタイトルの音楽。俗にベートーヴェンの後期3大ピアノ・ソナタなどと呼ばれるもののなかの1つ。

この音楽は、他のベートーヴェン後期の曲と同じく、たいてい“深い精神性”だとかいうご大層な看板がぶら下げられているのが常である。その看板に難癖をつけるわけではないのだけれども、最近私は、この音楽ほど陳腐なものもないと思うようになってきた。陳腐の真髄を突き詰めた音楽。陳腐なものにつきものの夾雑物を丁寧に取り除き、じっくり熟成させたかごときの音楽。他のものに例えるなら、最上級の貴腐ワインあたりが適当かと思われるような音楽。
(高価な貴腐ワインなど、ビンボな私には無縁だけどね。私の勝手なイメージだけ)

森山直太朗の新曲も、同じく陳腐熟成路線。でも、まだシャトー・ディケムの域にまでは達していない。まあ、それは無理からぬことだけれども。しかし、十分賞味に値すると思う。


*****

ベートーヴェンの作品110が奏でる世界を一言でいってしまうと、“挫折からの再生”。つまり、躓いた人間が立ち直ってハッピーエンドなのだ。陳腐なのだ。

最終楽章の、『嘆きの歌』といわれている哀切の旋律。
嘆きの歌
嘆くとはいっても、ここにいるベートーヴェンは、もはや何ものにも憤ってはいない。かの有名な“ジャジャジャジャーン”の音楽を創作した頃のように、身に降りかかる「運命」と果敢に格闘しようというような気概はすでにない。ここにあるは運命との闘いに破れ、運命がもたらすものを従容と受け入れようとしている哀れな男の姿。運命を受け入れようとし、しかし受け入れられきれず、どうしても心からはみ出してしまう分が哀しみとなって滴り落ちているような、そんな旋律。

しかし、なぜか男は立ち上がる。哀しみに打ちひしがれていたはずなのに。失くした力の源泉を再発見したわけではない。何処かから誰かから力を注入されたわけではない。そのさまは、男をして地面に這いつくばらせていた自身の重さが滴り落ちる悲しみとなって流れ去ってしまったかのよう。軽さゆえに男は立ち上がる。
楽譜:再生の歌1
男の心の中に重さはもう何もない。空っぽになった心。けれど、壊れない。空になったが壊れなかった心を満たすのは「歓喜」――だがそれは何かの因果があってものではない。因果があると、それは重みになる。“ただ生きている”というよりももっと軽く、“ただそこに在ること”の喜びとでも表現すればいいだろうか。
楽譜:再生の歌2

*****

私には、この『再生の歌』にちょっとした思い出がある。

20年ほど前、大学へ潜り込んだはいいが自分の足元を見失って山へばかり逃げ込んでいた頃。夏休みに山へ入りこみ、そこで知り合った伝を頼り仕事を見つけ、試験も放り出して山へこもってしまった。そのとき持参していたCDの中に、この音楽があった。
〈ゼルキンのCD〉
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番、31番、32番ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番、31番、32番
(2008/01/23)
ゼルキン(ルドルフ)

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(拝借した音源は、このCDから。楽譜をクリックすると再生されます)

その仕事とは、山小屋を建て替える建設工事。田舎の大工さんたちと一緒に仮設の飯場に泊まり込んで仕事をしてた。建前が済んで屋根ができるまでは雨の日は仕事は休みで、そんな日はオッチャンたちと朝から酒を飲んで、バカ話をしながら博打して過ごしたりした。合間に音楽を聴いたり、本を読んだり。本は『罪と罰』を読み込んでいたことを憶えている。今から思い返すと、奇妙な時間だったような気がする。

ある日、前日の雨がやんで作業が再開され、下っ端の私は上の人に言われて山の斜面を切り開いて作った平地の整地を一人でしていた。でこぼこをならし、大きな石をどけ、運び上げてあったバラスを撒く単純作業。私は体を動かしながら、前日読了した『罪と罰』の最終場面を思い返していた。突然何かに突き飛ばされたようにベンチに座っているソーニャの前に跪き、ソーニャの膝を抱えて泣いたラスコーリニコフ。その場面の上に『再生の歌』が重なった。

そのとき私はひとつのことを理解した。すなわち「理解」とは、空っぽになった心の中に湧き上がってくるものなのだ、と。

通常、「理解」とは、知識を重ね合わせてつなぎ合わせた集合体の基盤の上に成り立つものだといった具合に理解されている。その「理解」についての理解が誤りというわけではない。通常はそれでいい。だが時にそうした通常の「理解」が危機に瀕することがある。いままで重ねてつなぎ合わせた「理解」が土台から揺さぶられることがある。

そんな事態は、人間にとって不幸なものだ。苦しいものだ。壊れてしまった「理解」にすがり付くのも苦しければ、今までの「理解」を放棄するのも苦しい。

危険な事態でもある。「理解」が壊れたことに気がつかずしがみつき、心まで壊してしまう人もいる。逆に「理解」が壊れたこと気がついて洗い流そうとしたはいいが、その過程で心を壊してしまう人もいる。

ここでいう「理解」を価値観と置き換えてもいい。自分がこれまで生きてくるのに基礎としてきた価値観を否定し洗い流すことは、誰にとっても苦痛を伴うことだ。生きていることが辛くなることだ。価値観を壊して取り払ってしまうことは、死にすら例えることができるだろう。

価値観を取り払ってしまっても、心が壊れなければ小さな死で治めることができる。逆に心まで壊れてしまうと大きな死、すなわち通常言うところの死につながる。大事なのは心を壊さないことだ。価値観と心の境目――私はこれを【virtual】と【real】の境目と呼びたいのだが――を見切ることができれば、自由になれる。何ものにも属さないでいられる人になることができる。

ラスコーリニコフは、ソーニャがいたお陰で心を壊さずに済んだ。だが、ベートーヴェンはどうだったのだろう? その答えが、作品110のなかにある。

*****

作品110は、第一楽章、次のようなテーマで始まる。
楽譜:再生の歌1
どこか懐かしさを感じさせるようなテーマは、3小節目のトリラーで一度身をかがめた後、左手がリズミカルに刻む和音の上にのって流れ出し、その懐かしさをさらに際立たせる。まるで昔の写真でも見つけたときのように、懐かしい風景からそのときのエピソードが次々と脳裡に浮かんでくるような、そんな音楽。

この懐かしさは、続く展開部でさらに際立つ。冒頭で提示されたテーマが何度も何度も、微妙に響きに変化を加えながら奏でられる。たゆたう響きは、心の中に蘇る懐かしき思い出の揺らめきをそのまま音にしたかのようだ...。

そう、出発点はノスタルジーなのである。上で作品110を一言で表すと書いた“挫折からの再生”は、通過点あるいは終着点である。過去の懐かしい思い出が大切に仕舞いこまれていて、それが心をしっかりと形作る器になっていたからこそ、中身がすっかり洗い流されてしまっても心は壊れることはなかった。

心を形作る器となるノスタルジーは、ひとりでは作り上げることはできない。親や兄弟や友人などといった周囲からの承認がなければできない。周囲の者たちの手によって捏ね上げられていく。だから器なのであり、こね上げられていった感触の記憶がノスタルジーなのだ。もちろん、心の中身たる価値観だってひとりで積み上げられるものではない。文化や伝統や習慣といった人間の価値観の基礎となるものは、社会の営みのなかでしか生れてこないもの。人はそれらを吸収しながら成長し学習し、自己の独自の視点も加えながら心の中身を積み上げていく。吸収するのに甘かった、辛かった、苦かったといった食感はあるだろう。だがそれは、こね上げられていくときのスキンシップの感覚とは異なるものだ。

*****

人との触れ合いがの心が壊れてしまうことを防ぐ。こんな話は、古今東西どこにもでも転がっているありふれた陳腐な話でしかない。ベートーヴェンの作品110も、そうした陳腐なもののひとつでしかない。だが、そうした陳腐な話のなかにこそ真理がある。この音楽が抱えているとされる“深い精神性”とやらは、そのことを指し示している。

コメント

『罪と罰』はおもしろかった

でも、あの面白みが‘理解’できないのが、今の子の最大の闇なんじゃないかな。
現代日本の一般的な青少年の心性じゃあ、ラスコーリニコフじゃなくて、八神ライト(『デス=ノート』)になっちゃう。
そして『再生』はありえない(?)…。

どう関わればいいのだろう?
自分自身の壊れた‘器(うつわ)’を抱えたままで。
どう受け取り、どう伝えればいいのだろう?
触れようとしても互いに届かない、やっかいな距離を。
何を伝えたい、それとも隠したい?

ただひとつ、おぼろげに感じること。
こんな風には死にたくない、生きたくない…。
では、どうしたい?

そして、まだ諦めていないなら、聞こえるはずだ。
「おまえが立ちすくんでいるのは、ただ、ほんのちょっぴりでよいのに、そうして何かを信じる勇気を持たないためなのだ」と耳元でささやく声を。

勇気が必要

naokoさん

何かを信じるのに勇気が要るのでしょうか? いえ、要るのですね。要るようになってしまったのでしょうね。

でも、『再生』がありえないなんてことはないと思います。今の若い人たちのほうが、私たちなどより(ってnaokoさんはお若いのでしょうが(笑))ずっとずっと『再生』を望んでいるような気がします。そして、それが思いのほか近くにあるらしいということに感づいている人も多いみたい。ただ、それを見つけるのに教育が邪魔をしているのじゃないかなと疑っている。大人たちの施した教育が、身近な再生を見つけるのにフィルターをかけてしまっているのではないかと。

当たり前の話だけど、教育ってのには「教える」と「育む」の両面がある。今の教育は「教える」が中心で「育む」がおろそかにされているような気がしてならないんです。

「教える」は器の中身に関することですが、その器は「育まれ」なければ出来上がらない。「教える」ことは自分自身で勝手に学習しますが、自分自身を「育てる」なんてのはほとんど不可能。周囲の者が育んでやるほかないんです。関わってやるしかない。

けれど難しいですね。言ってもなかなか伝わりません。器には響きません。言葉っては所詮は中身ですから。言葉以外の何かも含めて関わるしかないでしょう。

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