愚慫空論

上手な人・下手な人

過疎地に棲息している私には、生活に自動車が欠かせない。

自動車に乗らない日はまず、ない。仕事に出かけるのに車なしでは不可能だし、生活必需品を手に入れるのも難しい。車はたしかに便利。だけど、その便利さに依存している社会は危ういとも思う。思いながらも、その社会のなかに組み込まれてしまっている以上、他の選択肢をとることは難しい。

...おっと、今日は車社会について書きたいのではない。車を扱う個々の人間のことに触れてみたい。車の運転は、上手な者もいれば下手な者もいる。人間にだって個体差はあるのだ。


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自動車の運転の基本は、進む、止まる、曲がる。アクセルを踏めば進むし、ブレーキを踏めば止まる。ハンドルを切れば曲がる。現在はオートマチック者が主流なのでミッションのギアチェンジという操作が省かれることが多いから、この3つの基本操作の組み合わせで車の運転は可能になっている。車の運転は簡単になっているのだが、それでもやっぱり、車の運転が下手な者は多い。毎日のように車を運転している者は経験的に知っている事実だ。

自動車運転の初心者が下手なのは仕方がない。操作に習熟していないのだから。ところがなかには、運転の格操作には習熟しているが、それでも車の運転が上手にならない者も、少なかず存在する。そういった者たちの運転を眺めていると、ある共通した特徴があることに気がつく。――車を体得していないのだ。言ってしまえばマニュアル道理の運転。

アクセル、ブレーキ、ハンドル。これらの操作で自動車は動く。それは間違いない。車の運転を他人に教えようと思うと、この3つの操作を仕方を教える以外に方法はない。だが車の運転に習熟した人なら誰もが知っていることだが、車の運転は、この3つの操作に習熟しただけでは間に合わない“何か”がある。そしてこの“何か”を言葉で伝えることは難しい。それぞれの運転者が、車を動かす3つの操作を通じて、それぞれに体得するしかない“何か”がある。その“何か”が体得できない者、これが運転の下手な者で、そうした人間は間違いなく存在する。

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生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい

評判の森山直太郎の歌と詩を知ったのは、最初はお玉さんのところの記事で。
(『生きていることが辛いなら』・『生きていることが辛いなら2』)
それからしばらくして、TVからも流されているのを耳にするようになった。また大津留さんからもTBを頂いたりした。

この詩と歌の存在と同時に知ったのは、歌詞を巡って議論があるということ。この歌を自殺誘導歌だと捉える人が一部に存在するらしい。

それは存在するだろうと思う。自動車の運転においても存在するように。そういう人は、下手な人なのである。

「生きていること」「辛い」「いっそ」「小さく」「死ねばいい」

下手な人でもこれらの言葉の意味を解することはできる。そして、これらの言葉が指し示す意味の主要な部分をまとめると、

“生きているのがいやなら死んでしまえ”という意味のように組み立てることが出来る。それは正しい。アクセルを踏めば進み、ブレーキを踏めば止まり、ハンドルをきれば曲がるように、正しい。だが体得していない。言葉の集合としての文章が、単なる言葉の集合以上の意味を持ちえることを理解できない。

そんな人には、言葉を尽くしても無駄である。車運転にまつわる“何か”を言葉では上手く伝えられないように、言葉でいくら文章を説明しても上手く伝わることはまずないといっていい。そもそも説明とは、分解である。下手な人は、つなぎ合わせるのが下手なのであって、かえって分解することには長けていたりする。そんな人に文章の意味を分解して見せたところで、かえって混乱を招くだけ。体得してくれるまで辛抱強く待つしかない。

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自動車の運転は、当然のことながら、運転技術にだけ習熟すればよいというものではない。交通ルールに習熟することも大切。ところが、この交通ルールというものが、実は難物である。上手な人と下手な人とでは、把握の仕方が違ってくる。

交通ルールとは、まずは法規だろう。標識等の指示に従って安全運転すること。これが交通ルールというものの基本。運転技術に関して言えば、基本的な操作に当たる。

では、交通法規を忠実に守る人が上手な運転をする人かというと、これは違う。違うというのが経験上から来る実感。こうした人は、実際の道路上では順調な車の流れを妨げている人であることが多い。

交通ルールが必要なのは、道路上に自分以外の者も多数存在するからである。交通ルールの目的は、安全にかつ円滑に多くの者が道路上を走行できるようにするためにある。自分ひとりだけで走るのであれば、交通ルールは必要ない。安全に自動車を操作する技術だけで十分。交通ルールとは多数の人間の意志を統一するための基準なのであって、上手な人はそのことをよく知っている。

だから上手な人は、周囲とコミュニケーションを図ろうとする。自分が何を意図しているのかを他者に伝え、他者が何をしようとしているのかを察知しようとする。高速度で走行する車を操りながら、次の展開を予測し、または他者に予測させるように仕向ける。周囲とのコミュニケーションで安全と円滑な通行とが両立できるように意図し、なおかつ、コミュニケーションの失敗があることも計算に入れて車を操る。道路上には、コミュニケーションが不可能な下手な人もたくさんいることも知っているから。

下手な人は、暗黙的なコミュニケーションよりも明示的なルールを重視する。車の流れよりも定められた制限速度を守ったりする。その法規遵守が円滑な交通を妨げ、引いては安全を脅かす事態を引き起こしていても意に介することはない。彼らにとって問題なのは、自分が上手か下手なのかということよりも、自分が正しいか誤っているかなのである。明示的なルールを基準とする限り、彼らは正しい。が、迷惑な存在であることも間違いない。

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このような上手・下手は、俗に言う頭が良い・悪いとはあまり関係がないように思われる。学問がなく論理的な文章の構成など解すことができない人でも、上手な人はたくさんいる。対して、頭が良いはずなのに下手な人も少なからず存在するようだ。

また、このことは、自動車の運転の上手、下手という話に限定されないようでもある。言語コミュニケーションの世界でも、頭が良い・悪いと上手・下手との間に相関関係はあまりない。そして、車の運転と同様、下手な人は迷惑な存在である。その迷惑度は、頭の良さとは相関関係はありそうだが。

コメント

なかなか含蓄がありますね

「詩的なイメージ」や、「思いのたけ」は、伝わりそうで伝わらないもの。想像力を駆使しないと…。
これもまた知力の一部だとわたしは思いたい。

とはいえ、コミュニケーションが苦手なのは、わたしも人のことは言えない。
人の心に‘思い巡らす’のが通常は下手なのです。

どうもね、勝手に‘独り’になっている、そんな‘くせ’がある気がします。
それで、逆に‘強い絆’に憧れたりもする。

せめて、人の痛みにだけは寄り添いたいと願うのですが、そうすると身体にきついことも多くなります。
とかくこの世は住みにくい…。

合理的に考えると

私は歩行や自転車が中心なので、自動車については「避ける」側であることが多いのですが。
後ろから来るエンジン音タイヤ音を聞けば、ドライバーの技量はわかるものです。

まず、ドライバーもこちらも同じ風景を見ている。
私は自転車で走りながら、「歩行者の目」「ベビーカーの目」「自動車の目」「鳥の目」を同時に働かせている。
複数の目で見ることで、情報を取り漏らさない。

後ろから来るドライバーに同じ事が出来るなら、私の姿を見て、ブレーキやハンドルに微調整がかけられると分かる。
その音と振動で、いま、ドライバーがどういう操作をしたかわかる。
その操作を聞けば、ドライバーの運転観も明示される。
――あぶないドライバーは、この段階で見極めつく。


彼ら、あぶないドライバーは「何か」を体得していないというのが、愚樵さんの指摘なのだと思います。
たしかに、できない人にはできない。
でもこれは、

>言葉の集合としての文章が、単なる言葉の集合以上の意味を持ちえることを理解できない。

といった抽象的で崇高なものではなく、もっと合理的でシンプルな話であるようにも思えました。
冒頭で書いた「ベビーカーの目」を持つということ、同時に二つ以上の視点で情景を見ること。
できて当たり前なのです、本来なら。

自動車を走らせる時、住宅街の様子を見れば「ここは子供が飛び出してきそうだな」とわかるし、おばあさんを見れば彼女に振動やガスを押し付けることなんてできなくなる。
けどそれは、「何か」とか「単なる○○以上の」といった立派なものではない。
人間の肉体について知識を増していけば、頑健な若者でも、自分の肉体をおばあさんのソレに置き換えてみることができる。
自分の幼少時の記憶を逐一整理し反復している人であれば、どの時間帯どの光景で子供が走るか知っている。


これは、単純に「知識」の問題です。
計算機の性能が低い人は、そこまでできないというだけで。
単なる勉強不足なんですよね、下手な人というのは……もっと一生懸命努力してほしいのですが。

だから「知識」の不足している人、安物の計算機を使っている人は。
自動車の前に飛び出して、「俺を狙ってたんダロ!」と当たり屋まがいのことを始めるわけですが。当人本気なぶん、シューキョー。

もっと科学的に、豊富な知識と計算を基に考える習慣を、多くの人につけてもらいたいと願います。

ヒトはもともと下手

どこで仕入れた知識だか忘れましたが、生物というものは進化するほどに下手になっていくものなのだそうです。

たとえば、ある栄養素Xを消化するという過程があるとします。Xを消化するには、Xの消化に最適化されたAという酵素を使うのが一番適切なんだけれども、何かの拍子でXの消化に酵素Aを使えないという事態が起こる。すると生物は、Aに代わる消化のシステムを構築するように変化する。いままでAという酵素ひとつで消化できたものをBとCの2つの酵素を用いて消化するようなシステムに変化させる。

Aひとつで解決できたものがBとCの2つの酵素が必要になった。これはある意味、下手になったわけです。シンプルに出来ないっていうのは、下手なんです。下手になった代わりに、それまではXしか消化できなかったものが、BとCの組み合わせで栄養素Yも消化できるようになったりする。複雑になって下手になったけど、その分多様になるんですね。

ヒトの為すコミュニケーションというのも、同じようなものなのかもしれません。誰でも子供の頃はまだ、単純なコミュニケーション手段しか持ち合わせていません。ですから単純な意思のやりとりしかできませんが、その単純な意思のやりとりはとても上手い。“顔色を窺う”なんてのは子供はとても得意ですよね。コミュニケーション手段がシンプルな分だけ、そのシンプルな信号には敏感なんでしょう。逆に言うと、騙されない。大人のように様々なサインを読み取らないから。

*****

というわけで、naokoさん。

コミュニケーションが下手なのは当たり前なんです。大人だから。コミュニケーション手段が多様化した分だけ、伝わりにくくなる。問題は下手だと自認しているかどうかです。そう自認しているから、コミュニケーションに失敗はつきものであること、その失敗はだれの所為でもないことも理解できる。理解できるから常に学習する。上手な人というのは、常に学習している人でもあるんです。

下手な人は学習をしませんね。いつでも自分が正しいと思ってますから。そして失敗をいつでも他人の所為にします。

ああ、これは人生アウトさんも同様のことを述べられていました。

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>単なる勉強不足なんですよね、下手な人というのは……もっと一生懸命努力してほしいのですが。

相変わらず、辛辣ですね(笑)。

>自分の幼少時の記憶を逐一整理し反復している人であれば、どの時間帯どの光景で子供が走るか知っている。

そうなんですが、それをしないのはカガクというシューキョーと深い関係があるような気がするんです。

カガクというシューキョーを支えているのは、進歩史観ですよね。昨日より今日、今日より明日が正しい。そういう教義に乗っ取られている人は、過去など省みないものなのでしょう。彼らにとって、蒙昧な過去など捨て去るべきものなのでしょうから。学習して進歩したと思いこんでいる彼らは、自分が下手になっているなんて思いもよらないのでしょう、きっと。

世界というリンゴを直接かじる

世界は、物凄い数の法則によって動いているのですよね。
車が走る時と、リンゴが落ちる時と、火山が噴火する時と、まずあらゆる「現象」を同時並行的に「認識」する。
と、そこに共通してみられる「法則」と、未知の領域が浮かび上がってくる。

科学とは、そういう目だと思います。

教科書でしか勉強をしたことのない人は、まず法則から入って、次に現象へと向かう。これだけでは、世界をあるがままに観察することはできない。
観察し、記憶し、そのパンパンに膨れ上がった情報を頭の中でこねくり回す。すると、そこに法則が浮かび上がる。そうした経験を、今の学校では教えていない。

すべてに興味を持つこと、まずはそこからしか始まらないのですけれどね。そう、一生かかっても経験しきれないほどの全てを。

おひさしぶりでございます

愚樵さま
なんとなく遠くから呼ばれたような気がしてやってまいりました。

>それぞれの運転者が、車を動かす3つの操作を通じて、それぞれに体得するしかない“何か”がある。その“何か”が体得できない者、これが運転の下手な者で、そうした人間は間違いなく存在する。

これに特に異論はないのですが、私が最悪だと思うのは、車を動かす操作を体得していない人が車を運転することです。
社会生活上の話にするならば、「論理的な話ができない・しようとしない」人だったり、「水が人語を解さないことをわからない」人だったりします。

追記:「水が人語を解さないことをわからない」を、「水が人語を解さないことをわからない・わかりたくない」と読んでください。

なんとなく?

ちょちょんまげさんが“なんとなく”などという表現をなさるとは(笑)...、いえ、もちろん冗談です。

>車を動かす操作を体得していない人が車を運転することです。

車の運転はあくまで比喩ですから解釈はそれぞれ自由なのですが、「車を操る=言語を操る」とするならば、「車を動かす動作を体得していない」=「言語を解しない」とすべきでは? 論理を解しないでも、不完全ながら意思疎通はできているのですから。

>「水が人語を解さないことをわからない」

あはは。水は“なんとなく”言葉に込められた人間の思念を理解するんじゃないですか? 以心伝心というやつで。

もちろんこれも冗談ですが、仮説としては否定できないでしょう。単なる空想だと言われるかもしれませんが、空想だって仮説だって、科学的な検証を経なければ科学的には同義であるはずですから。


ちょっとまじめに話をしますと、上手・下手というのは科学的な表現で言いますと複雑系、非線形科学なんです。つまり原因と結果の因果関係を明確につかむことが不可能な現象のこと。そのような現象が存在することは科学的な事実として認識されていて、人間同士の言語コミュニケーションも、まさしく「非線形」です。

なんとなく?

愚樵さん。

わたししょっちゅう「なんとなく」状態になるのですけれども。
もしかして、愚樵さん、私のこと「哲学的ゾンビ」かなんかだと思ってます?

>「車を動かす動作を体得していない」=「言語を解しない」
まさに、それに近いことを言っております。
「言語を解する」というのは「意味がわかる」ということでもありますから、「水は人語を解さない」を理解しないということは、「言語を充分に解さない」とほぼ同義ですので(情報は充分あるわけですから)「車を動かす動作を(公道で運転するほどには)体得していない」と、私の解釈ではなるわけです。

>単なる空想だと言われるかもしれませんが、空想だって仮説だって、科学的な検証を経なければ科学的には同義であるはずですから。

これが、ネタなのかどうかよくわからないのですが、「厳密には」正しいと思います。

もし、誰かが「この建物はニュートンの引力理論とか、地震とか台風とかの要素に対しては充分な強度が確保されているが、万一、次の瞬間に引力が消え去るという「ゼロで無い可能性を無視」していて、それに対する強度が確保されていない」と建設者に抗議し、建設者が「あんたアホちゃうか」と言ったとしたら、 愚樵さんは抗議者を擁護し、建設者に「誠意がない」とでもおっしゃいますか?

また、愚樵さんは無碍に否定なさらないと思うのですが、実はわたしのPCの内部には無数のこびとさんがいて、PCを動作させてくれているんです。

>人間同士の言語コミュニケーションも、まさしく「非線形

同意なんですけど、それでも戦車の進行方向にいるアリの存在よりは、はるかに途中にあるマウンドや大穴の方が戦車の進路には大問題であるわけです。
現実的には切捨てなきゃやってられないもんなんかたくさんあるわけで、「水伝」はその典型だと思いますけど。

冗談ですってば(笑)

>「哲学的ゾンビ」かなんかだと思ってます?

まさか(笑)

>>「車を動かす動作を体得していない」=「言語を解しない」
>まさに、それに近いことを言っております。

例えの解釈を追求するのは、労多くして益少なしでしょうから、このくらいにしておきましょう。

>建設者が「あんたアホちゃうか」と言ったとしたら、 愚樵さんは抗議者を擁護し、建設者に「誠意がない」とでもおっしゃいますか?

冗談半分にお答えしますと、建設者は水伝信者には、

「こちらの建物は、“ありがとう”の心を込めて建ててありますから、大丈夫です。」

と答えるべきです。このように答えなかった建築者は誠意がない...なんて、まるで落語ですね。

ですが、この答えは半分本気です。というのも、実際にそのような人間が存在するとは思えませんので。これはちょちょんまげさんが何処かで仰ったところの「藁人形」です。ですので、答えは落語で十分ということにもなる。

>現実的には切捨てなきゃやってられないもんなんかたくさんあるわけで

その通りですが、問題は、切り捨てなきゃならないところが一人ひとりちがうのだ、ということです。水伝信者にとっても建築物は物理法則に従って建設されていることが“必要”です。そして、同時に水が言葉を解する不思議も“必要”なんです。安心して暮らすために物理法則に則った建物が必要なように、心穏やかに過ごすために水伝が必要なのです。

科学には、個々人の事情によって左右される必要・不必要は関係ありません。仮説が正しいか誤りかの判別があるのみ。科学の範囲は、この「判別」までです。

科学による「判別」が誤だからといってそれを不必要とみなし、他人にもそうすべきだと強要する――これはもはや科学の範囲を逸脱しています。私はこの状態を指して「科学教」だというのです。

「水は人語を解さない」を理解しないのは、理解できないのではなくて、理解したくないからです。理解したくない宗教的理由があるからです。その宗教的理由を理解できず、“「水は人語を解さない」を理解しない→その者は言語を理解しない”と飛躍してしまうのは、これもまた理解したくない宗教的理由がある。私から見えるのはそういった風景です。

興が乗ってきました

>というのも、実際にそのような人間が存在するとは思えませんので。

私にとっては「引力消失杞憂人間」も「水伝ビリーバー」も同じぐらいに存在が疑わしい(疑わしかった、かな?)
もし、水伝のことを私が知らなかった時に、「水に、ありがとう、クラシック音楽で美しい結晶ができ、ばかやろうやパンクだったら醜い結晶ができると言う人がいたらどうする?」と聞かれたら、「実際にそのような人間が存在するとは思えませんので」と答えるかもしれません。
ところが実際にいるわけですよね。

ここで、「引力消失杞憂人間」と「水伝ビリーバー」の違いは、せいぜい「引力が消失する」があまりにもあり得なく思われ、「水が人語を解する」が「そのぐらいならあり得る」ように思われるぐらいの差しかないわけで、私から見りゃ「あり得ない」ということで全く同値ですから、藁人形じゃないと思いますよ。

「ルルド」が一見美しく見え、「麻原の残り湯」が一見醜く見えることと似ているんじゃないでしょうか。
(両者も患者に対して効果なしってことで同値。ケアする人がどちらに価値を置くかは、その人次第)

まぁ、「あまりにもあり得なく思われる」と「そのぐらいならあり得る」の差があるところから、飛びつく人間の数が違うであろうことは認めますが。

で、どうして落語になっちゃうかというと、デタラメをまともに取り扱おうとしちゃうからじゃないですか?

>科学による「判別」が誤だからといってそれを不必要とみなし、他人にもそうすべきだと強要する

「科学的にあり得ない」と断定しても構わない事項というものはありますよね?
例えば水伝とか私のこびとさんPCとかです。

あり得ないものは、あり得ないと言って構わないはずだし、デタラメが蔓延することを防ごうとすることもまたありのはずでしょ?
そして、あり得ないと指摘することは絶対に必要です。
そういう言論のやり取りの中で信じてた人が転向するかもしれないし、転向しない人もいるかもしれない。

転向する人を拾えたり、未然に防げたりすればそれでいいじゃないですか。

で、どうしても信じたければ信じていれば良いのです。
ただし、ど~か脳内に囲いを作って飼っておいていただきたい。
他者に知らしめようなどという「善意」を発揮したりなさるわけのわからない人たちも少なくないでしょ?

最後にお礼を申し上げます。
こうして好きなことを長々と書かせてくださる愚樵さんには本当に感謝です。
受けてたっていただけますしね。
また、こちらだと低能な無内容コメントが飛んでくるチャンスが少なそうだというのも、私が書き込みやすい理由の一つです。ご迷惑ではあるかもしれませんが。
とりあえず、ありがとうございます。


もう一つ、連投ごめんなさい

愚樵さん

>その宗教的理由を理解できず、“「水は人語を解さない」を理解しない→その者は言語を理解しない”と飛躍してしまうのは、これもまた理解したくない宗教的理由がある。私から見えるのはそういった風景です。

「水は人語を解さない」ことは、愚樵さんがおっしゃるようにある人に「宗教的バイアス」がかかっていない限り、誰でも理解できることですよね?

まず、一つの物理的事象について観察するときに、バイアスがかかった状態とそうでない状態でどちらがより的確な判断が下せるとお考えですか?
いま言っていることは、物語を紡ぎだすとか、一編の詩を生み出すとかいう話をしているわけでなく、「水がありがとうかばかやろうかで何らかの物理的変化を起こす、起こさない」のどちらが正しいのか、という話をしています。

そして、「物理的変化」についてのみに言及するときに、なぜ誰かの宗教的バイアスを理解しようとしなきゃならないんです?

その人の人生について考えているわけでもなにもない。

で、そういう「限られたコンディション(この場合言及対称が物理的な現象であることを認識して、それに限り発言すること)」の中で、一方がそのコンディションをキチンと認識して発言していることを、「相手の宗教的バイアスを理解しようとしていない」と、取り、そして「それを理解しようとしない宗教的バイアスである」という結論は全くマトはずれだと考えますが。

で、宗教的バイアスを持った側が発言する時に、バイアスがかかった発言が許される場なのかどうか理解してないとするならば、「言語を理解しない」としか言い様がありません。

こんな辺鄙な場所でよろしければ

いつでもどうぞ、ちょちょんまげさん。ただ、ホストはかなり気まぐれなもので、お相手するかどうかは気分次第(笑)。そこだけ了承していただければ、お好きなことを存分に書き込んでいただいて結構です。

で、話の続きですが。

>「水がありがとうかばかやろうかで何らかの物理的変化を起こす、起こさない」のどちらが正しいのか、という話をしています。

話がそこに限定されているのなら、私とちょちょんまげさんの間で異論は成立しません。科学的にいって水伝は間違い、で終わり。ここまでは科学の範囲内です。

ここまでなら水伝ビリーバーなどお呼びじゃないはず。でも、私たちの間で議論されている対象には水伝ビリーバーが含まれている。したがって、私たちの議論の範囲は科学を逸脱してしまっている。これが私の認識です。

>「物理的変化」についてのみに言及するときに、なぜ誰かの宗教的バイアスを理解しようとしなきゃならないんです?

これこれ。これこそが、科学教の宗教的バイアスと呼ぶものです。

まず水伝ビリーバーは、自然科学から逸脱した存在です。ここに異論はないと思います。自然科学から逸脱はしているが、間違いなく現象として存在している。そう認識すれば、考察すべきは彼らが存在する理由だということになりはしませんか?

この「理由」は、自然科学の方法で捉えられる現象ではない。だが、この「理由」の追求は、科学の精神に沿ったものであるはずです。社会科学、人文科学が成立しえるのも、科学の精神があるからですよね。しかし、「なぜ、そんなことを解せねばならないのだ」とちょちょんまげさんは仰る。私は、その「理由」もまた考察するわけです。

水伝ビリーバー存在の「理由」を、ちょちょんまげさんは、言語を解さないからだと仮説を立てておられる。だが、その仮説は現象に即していない。確かに水伝ビリーバーたちは「水が人語を解しない」というところは解しないが、その他の人語は解するんです。これは現象として客観的に観察できます。現象に即して仮説を立てるならば、ごく一部の言葉を解しない理由を探ることが筋道のはずですし、その「理由」が同時に水伝ビリーバーの存在理由でもあるはずです。

ところがちょちょんまげさんは、水伝ビリーバーは人語を解しないという仮説にこだわっておられる。客観的に観察できる現象よりも、ご自身の仮説を重視しておられるように見える。そうなると私は「理由」を考えるわけです。そして、ちょちょんまげさんの「理由」と水伝ビリーバーの「理由」は同じところに在るのではないかと仮説を立てる。その仮説のキーが「宗教的バイアス」なのです。

もうひとつ、引力消失杞憂人間についても、同様です。水伝ビリーバーの存在は確認される。一方、引力消失杞憂人間は未確認です。ちょちょんまげさんは、かつて水伝ビリーバーが未確認だったのが発見されたのだから、引力消失杞憂人間も発見されるだろうという。ですが、これは仮説としては弱いと言わざるを得ません。ここで私は、このような仮説をちょちょんまげさんが創作した「理由」を考えます。

以上のような追求から、私は水伝ビリーバーたちを否定する人たちに「科学教」という「理由」があるとの仮説を考えるわけです。

*****

ここで水伝ビリーバーたちの「理由」について、私の見解を述べておきます。

これはもともと日本にある言霊信仰の変形です。言霊信仰とは、人が発する言葉が現実世界に影響を与えるという信仰です。現在でも、日本人は結婚式に縁起の悪い言葉を使うの嫌いますし、受験生に向かって落ちる、滑るという言葉を使わないという心配りをしたりする。こうした傾向は、言霊信仰という宗教的バイアスが作用するからだと考えられます。

水伝は、言葉が水に影響を及ぼす、つまり現実世界(の一部)に作用するという仮説です。この仮説の言霊信仰の類似性は言うまでもないでしょう。さらに、そこに科学という権威が加わった。この権威は「科学教」です。現在では、かつて言霊信仰を支えていた人間のもつ霊性といった観念は「科学教」によって否定されています。ですので、言霊信仰を肯定するのは科学的権威でなければならなかった。これが水伝が成立した「理由」だと考えます。

教育者たちが水伝信仰に堕ちてしまうのは、彼らにとっては「言葉には現実に作用する力がある」という観念は願望に近いものがあるからでしょう。生徒たちと対峙するときに、「言葉は無力」だとの思いを抱えていたのでは非常に辛いはずです。彼らには「水伝」に陥りやすい心理的バイアスが常にかかっているのだろうと推測できます。

彼らの水伝信仰を解きほぐそうとするなら、彼らの科学的誤りを指摘するよりも、彼ら自身の心理的バイアスに目を向けさせるように仕向ける方が効果があると私は思います。

さらについでにもうひとつ。「言葉は無力」が辛いのは実はブロガーも同様なんです。ブロガーには言葉しかありませんからね。逆に記号としての言葉しかないから、水という言葉以外の物を利用する水伝には引っ掛からないのです。その代わり、ブロガーが引っ掛かるのは「論理信仰」です。

*****

わはは。ちょっと飛ばしすぎたかなσ(~_~;

ごどくですぅ

愚樵さん

>>「水がありがとうかばかやろうかで何らかの物理的変化を起こす、起こさない」のどちらが正しいのか、という話をしています。

>話がそこに限定されているのなら、私とちょちょんまげさんの間で異論は成立しません。科学的にいって水伝は間違い、で終わり。ここまでは科学の範囲内です。

>>「物理的変化」についてのみに言及するときに、なぜ誰かの宗教的バイアスを理解しようとしなきゃならないんです?

>これこれ。これこそが、科学教の宗教的バイアスと呼ぶものです。

上掲の愚樵さんの二つのコメントは全く矛盾しています。
私の二つのコメントは、ともに、

>「物理的変化」についてのみ

という「条件下」の話であり、既に愚樵さんが

>ここまでは科学の範囲内です。
といっている、

「ここまで」の話です。

で、「宗教的バイアス」というのは、水伝ビリーバー(簡単のため水伝に話を限定します)と、「物事をふつ~に理解してる人」が対話したり、あるいは社会的に「ふつ~に理解していない水伝ビリーバーが存在する」という別のお話のときに考慮する要素ですよね?

ですので、私が言うように、「ふつ~に理解している人」が「水伝現象のみ」について考えるとき、ただ単に「アホちゃうか」ですませて、誰がどういうバイアスを「水伝」に対して持っているかなんていうことは、どうでもいい話なわけです。

ですんで、「これこれ」って言われても「科学信仰」でもなんでもありませんてば。

で、こういう話をしていると行ったり来たりでややっこしいので、ぶっちゃけた話をしましょう。

想像するに、愚樵さんのおっしゃりたいことは「水伝ビリーバーの信仰なり、心情もわかったげよ~」みたいな話だと思うんですけど、違います?

で、人間は皆それぞれ「信仰」を持っているわけです。
私だって数え切れないぐらいの「信仰」を持っています。
例えば、エントリで話題になさっている「後期ベートーベンの作品のいくつか」を私は信仰しているわけです。

ただし、そのことについて私はそれが「ただの信仰にすぎない」ことなど百も承知なわけです。

ですから、一般化などしないように極力しないように努力する。
そんな東京の街をストリーキングして走り回るような恥知らずなマネはしたくない。
で、これはふつ~に物事を理解できる人ならば簡単にわかること。
だれも、オペラと歌舞伎ではどちらが優れているなんてことは言えないわけですし、普通にわきまえている人ならば言わないわけです。
言えることは、「私はオペラの方が優れているとおもっているから(=信仰)好きです」だけでしょう。

で、愚樵さんもお認めのように、「水伝」は科学的にいって間違い。
で、その結論は、(「言語を理解する」これは比喩です。「ふつ~にものごとを理解できる人」ぐらいの意味に捉えてください)ならば誰だってわかるわけです。

で、その「ふつ~の人」と「ビリーバー」が「物理現象としての水伝」について語るとき、自分の信仰=宗教的バイアスを自覚せんで他者に言語を発したとしたら、それは「ふつ~にものごと(この場合信仰について語る時には、それが信仰である旨を自覚して相手には押し付けてはならないこと)を理解してない」ということです。

で、この場合わからなきゃいけないのは自覚の無い方です。
ふつ~に理解してる方ぢゃありません。
特に、テキストのみのネットの世界では。

すれ違いを楽しみましょう(笑)

>上掲の愚樵さんの二つのコメントは全く矛盾しています。

いえいえ。

ここが矛盾しているかいないかが、私とちょちょんまげさんのすれ違いの大本なのでしょうね。「問題意識の差」とでもいいますか。

そういう意味では、私もある種の宗教信者なんです。反近代教という宗教(笑)。

>想像するに、愚樵さんのおっしゃりたいことは「水伝ビリーバーの信仰なり、心情もわかったげよ~」みたいな話だと思うんですけど、違います?

はい。ちょっと違うんですけどね。その心情の違いがどこから出てくるか、なんです。で、そこで私は科学とニセ科学を心情の点で同一視している。優越はないんですよ。

いつかちょちょんまげさん宅でのコメントで、人間の理性を含めた基本的演算機能をCPUに、精神世界をOSに、近代という仕組みをアプリに例えたことがありましたよね。心情というのは精神世界=OSの作用から来るもの、科学あるいはニセ科学はアプリなんです、私の理解では。そして同じ日本人であっても1人ひとりのOSは微妙に違っていて、真正科学が上手く走るOSもあればニセ科学の方が上手く走るOSもある。そのOSにどちらも優越はないですよ、というのが私の主張なんです。

まあ、けれど、ちょちょんまげさんは私の例え方を誤りだと言うでしょう。実際、ちょちょんまげさん宅ではそういうお答えでしたね。

しかし、自ら指摘しておきますが、私の主張には重大な欠点があるんです。すなわち、科学適性OSは出力結果が事実に即しているが、ニセ科学適性OSはしばしば事実と反する結果を出力する。とすれば、科学適性OSの方が事実として優れている。この事実としての差異を、私の主張では“素直”に埋められないんです。にも関わらず私は科学適性OSとニセ科学適性OSを同一価値でならべるから、意見が食い違う。わかっているのですよ(笑)

ここまで自覚していても、私は自分の主張を取り下げるつもりはありません。その欠点に対する答えがあると感じていますので。また、その欠点を埋める科学的な解答も発見しています。

ああ、もちろん、私が発見したのではないですよ。科学者たちがひとつの科学的な学説として提示しているもので、それが非線形科学です。人間の認識装置はそもそも“素直”=線形ではない。線形だと感じるのは錯覚なんだ、というような話です。

なんだかわけのわからないことを述べてきましたが、煎じ詰めると、最終的には科学によって科学適性OSとニセ科学適性OSの差異は解析できると私は“信じて”はいるんですよね。ただしこの科学は、現在の科学とはパラダイムの違う科学です。そこまで到達して科学は科学教から脱することができるのだろう、なんて思ってます。

すれ違いを楽しむ!なんと健全な!

このセリフに胸を打たれました(笑)。
本来議論とはそうあるべきです。
しかし、倫理観・世界観・信仰に関する議論は非常にデリケートであり、そうあるべきために必要な『技術』は、現代非常に希少になっている、いや、キリスト教が哲学を撲滅して以来、未だその技術も環境条件も整ったことがないのかもしれません。
しかし、この国はそうした健全な議論に必要な環境が、それでも世界で最も整っている方かもしれないとも思うのです。
そういう意味では、今がそうした技術を磨く上で、スタートラインなのかもしれません。

え、恥知らず?

>東京の街をストリーキングして走り回るような恥知らずなマネはしたくない

多分まねはしないけど、あたまから「恥知らず」とも思わない。
興味津々ですね。なにも恥知らずと決めつけることはしない。
理由によっては、一緒に裸で走り回るかもしれないと思う(爆)。

naokoさん、dr.stoneflyさん、

引っ掻き回していただき、ありがとうございます。

ちょちょまげさんとの論争も十分に愚樵空論に相応しいものですが、お二人のコメントでさらに輪をかけて愚樵空論らしくなりました(爆)。

珍しくいくらか詰まってきたような

愚樵さん

とりあえず、OSの例えを愚樵さんの解釈でいくとしましょう。

私が理解できないのは、

1.愚樵さんは、
>「水がありがとうかばかやろうかで何らかの物理的変化を起こす、起こさない」のどちらが正しいのか、という話をしています。

>>話がそこに限定されているのなら、私とちょちょんまげさんの間で異論は成立しません。科学的にいって水伝は間違い、で終わり。ここまでは科学の範囲内です。

>こうした傾向は、言霊信仰という宗教的バイアスが作用するからだと考えられます。

言及を物理現象限定に絞った場合「科学の範囲内」と認めていらっしゃる。

で、「水伝を信じてしまうこと」を「宗教的バイアス」であるとも認めている。

そして、私が「物理現象限定」で言及しているとき(ビリーバーについては言及してない)、なぜ私が「科学信仰のバイアス」がかかっているということになるのですか?どう考えても矛盾です。
それとも「物理現象限定は科学の範囲内」は撤回ですか?

そして、OSの話。
前回書いたように、内部に無数の信仰を持たない人間なぞいないと思います。
ですので、「信仰を受け入れやすいOS」と「信仰を受け入れ難いOS」があるとは、私にはかんがえられません。
要するに、「全ての人が信仰を受け入れやすいOS」を持っているということです。

あるとすれば、

「信仰を一般化することは無理があることを知っている人間」
 
と、

「信仰を一般化して平気な人間」

の二種類がいる、ということじゃないですか?
で、後者は単に理解力が不足しているだけのことです。
ようするに、運転方法に熟達してないだけのことじゃないですか、コミュニケーションの仕方からしても。

で、この話に非線形とか、複雑系とか持ち出してもダメだと思いますよ。
もちろん、生物のあり方がとんでもない複雑系であることは私も認めるし、人間の認識システムもまた同様です。
ですが、「水伝」の認識の話は私が上記したような、「一般則」の話(信仰は一般化できないということ)
「盗みはいかん」のような話だとおもいます。
むろん、「厳密」に議論すれば、それだって結論を出すのは難しいことですが、ここで話しているのはそういうレベルの話ではないでしょう。
いわば、「ニュートン力学」が示せる数値があくまで近似値だとしても、それで充分(相対論や非線形を持ち出さなくても)、という世界の話じゃないですか?
だって、デタラメを信じるかどうかって話でしょ、単純に。

それと、ちょっと話は脇にそれますが、上の#qbIq4rIgのような私からすればノイズとしか感じられないコメントの内容、仕方というのは、愚樵さんからすれば、上手な人なんですか、下手な人なんですか。
どうか、ご教授くださいませ。
ありがたがっているということは、上手だとお考えなんでしょうね(苦笑)

あれれ

あれを「ノイズ」としかとれないのが、この人の限界なんだろうなぁ~。ノイズと感じてしまうのは自己保身なのかな? 残念。
結局凝り固まった(固められた)己の世界を打破できないのが問題じゃないの?
だから愚礁さんとも噛み合ないんだろうな。
愚礁さん、茶々を入れて済みませんでした。もう口を挟みませんのでお許しを……。

ふーん

「ノイズ」を「ノイズ」と認識できない人って、上手な人なんですかね、愚樵さん?
しかも、自分で「茶々」だって書いちゃって矛盾しちゃってるし。
茶々=水を差す
(2)うまくいっている間柄や物事をじゃまする。
「話に―・す」

大したもんだ、実際。

ほら、また(笑)

茶々を入れて御免、ってのは愚樵さんに言ったの。
お相手の方には真面目にヒントをあげたのに、まだ「ノイズ」だと思ってるんだ。
もう少し、いろいろなベクトルの目線を持とうね(笑)

愚樵さん、おつかれさまです。
今度こそ本当に終わりにします。お騒がせして済みませんでした。

むずかしすぎるかもしれないけど

いまここで、こみゅにけーしょんのおはなしをしてますね。
みなさん、ようちえんで、あさは「おはようございます」っていいましょうとかひとにあったときにはあいさつをしましょうってならいましたね?
そう、そのほうがこみゅにけーしょんがうまくいきますよっていうけいけんそくがあるんですねぇ。
だから、そういうことができないひとのことをぐしょうせんせいはきっと「へたなひと」っておっしゃいますよ。
この、| 2008-10-02 |の #qbIq4rIgっていうのをよくみて、みんなでべんきょうしましょうね。
こういうのをみればみんなもどうしてふんきゅーしちゃうかよくわかるでしょ?
それから、このひとはにほんごがとってもふじゆうなかたなの。
>なにもはじしらずときめつけることはしない。
って、わけのわからないぶんしょーになっちゃうぐらいふじゆうなの。
で、そういうわけのわかんないぶんしょーかいちゃってるくせに、たにんにたいしてのいずだとしかとれないとは、とか、いっちゃうりっぱなせーしんのもちぬしなのね。
それから、じぶんからからみついておいて、にかいももうこめんとしませんとかって、まるでとうきょうのまちをすとりーきんぐしてはしりまわるぐらいにはずかしいこともしているでしょ。
で、そういうのいずをあいてにして、いまこれをかいてるこのひともとってもばかなんだけどね。

愚樵さま
これが、本来私のスタイルでないことはご存知ですよね?

ちょっとだけ

 愚樵さん、こんにちは。こちらへ書き込むのは初めてかも。見かねてちょっとだけ。
 ちょちょんまげさんへ。dr.stoneflyさんは、決してノイズな人ではありません。彼のブログはROMさせていただいていますが、示唆に富んだ、考えさせられる内容が多いです。ブログ運営の姿勢も真摯かつ等身大で、リアルとのつながりが垣間見える内容も含め、私は尊敬しています。ちょちょんまげさんとも決して言葉の通じない方ではないと思います。
 ノイズ(横レス)と感じたかもしれませんが、いささか過剰反応に見えましたので、余計なお世話かもと思いつつ口出ししてしまいました(却って気を悪くされたらごめんなさい)。
 以上、ちょちょんまげさんのお友達のMEDAMAより。

はじめまして。UMAといいます。m(_ _)m突然、自分語りをすることを許してください。私の父は私が高校生の頃、病気を患い、あやしげなものに入会しました。入会金が数十万すると聞き、偽だなと思いましたが、特にとめませんでした。母と姉が父と共に入会しました。父が孤立するようであれば、自分が共に入会したかもしれません。父の病状は、入会する前、入会してすぐの熱心だった時、十数年たった今、変化した様子はありません。とはゆうものの、そういったもののおかげで、精神的に救われたという事実はあると思います。たとえ偽でも私にとってありがたい部分が存在します。つながってないかもしれませんが、UMAには
裸でいっしょに走ってくれる人、ありがたいです。
この騒動のおかげで、「水からの伝言」が偽であると知りました。それまでは信じていました。つまり、
「偽だぞ!」と言ってくれる人もとてもありがたいです。

謝罪

MEDAMA様、ご心配かけてすみません。諭された思いです。
もう書き込まないと言いましたが、やはり謝ることにします。

ちょちょんまげ様
確かに私の書き方は礼節に欠きコミュニケーションをとる態度ではありませんでした。ご不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。

愚樵様、読者の皆様
不躾な書き込みによりコメント欄を荒らしたことをお詫びします。

ちょんまげは○毛隠し、

上手とか下手とかわかんないけど、

>だって、デタラメを信じるかどうかって話でしょ、単純に。

この人のおしゃべりのセンスのなさは確かだ。
=========================
http://ameblo.jp/kandanoumare/entry-10032248083.html#cbox

思想がじゃなくてセンスがまったくわからない。受験戦争苛烈ナリし頃、世の中は学歴だなんて言って生徒の尻叩いてる教師。他人を自分を引き立てるための道具にしかできない人間。結局自分自身をも自らの欲望を満足させるための道具として扱う。だからつまらない。意志を持たない奴隷はつまらない。同情はするが、紛れもない事実。コツコツ努力する執念みたいのは感じるからボディビルをした方がいい。文筆は向いてないよ。

========================

普段、よほど話し相手に飢えて居るんだろうね。みんなが鬱陶しがってるのに、「何で俺様の由緒正しい話を聞いてくれないんだ?」なんて。無粋だけど言っちゃうよ、

つ・ま・ん・な・い・か・ら・だよん。

ビックリしました

夕方、仕事から帰ってきてメールチェックしたら、たくさんコメント通知があってビックリしました(笑)。6つもコメントが入ってるなんで、ここ久しくなかったから。単純に喜んでます。

...が、本当は喜んでいられないところもあるんですよね。他にかまけてコチラをお留守にしたことが、多数のコメント(笑)に繋がっているようなので。

*****

さて、ちょちょんまげさん。長らく放置して申し訳ありませんでした。

>>上掲の愚樵さんの二つのコメントは全く矛盾しています。

再度、この部分ですよね。

>言及を物理現象限定に絞った場合「科学の範囲内」と認めていらっしゃる。

>で、「水伝を信じてしまうこと」を「宗教的バイアス」であるとも認めている。

>そして、私が「物理現象限定」で言及しているとき(ビリーバーについては言及してない)、
>なぜ私が「科学信仰のバイアス」がかかっているということになるのですか?どう考えても矛盾です。

このご指摘を目にしたとき、自分でもわかりませんでした。いや、ちょちょんまげさんのご指摘は正しいのです。ではなぜ、私は

>>これこれ。これこそが、科学教の宗教的バイアスと呼ぶものです。

などと言ったのか? 考えてみました。思い出しました。私はちょちょんまげさんが

>そして、「物理的変化」についてのみに言及するときに、なぜ誰かの宗教的バイアスを理解しようとしなきゃならないんです?

という発言をしたときに、この発言の場に水伝ビリーバーがいると想定したのです。“なぜ誰かの宗教的バイアス”の“誰か”とは、当然、水伝ビリーバーですよね? 

もう少し詳細に記述しましょう。「物理的変化」について議論している場にいるのが、例えば私とちょちょんまげさんの2人だけだとします。この場合、水が“ありがとう”の言葉で変化しない、という議論は容易に意見の一致を見ます。こんなの異論の余地がないわけです。ところがこの2人の場にもうひとり、水伝ビリーバーが混じったとします。すると3人で意見の一致は見ないわけです。私が想定したのはこうした場でして、この場で、

“なぜ誰かの宗教的バイアスを理解しようとしなきゃならないんです?”

とちょちょんまげさんが発言したのだと想像した。それで、ちょちょんまげさんに、“それも宗教的バイアスだ”といったわけです。

これはあくまで私の想定ですから、ちょちょんまげさんが意図したものとはズレてしまっているのかもしれません。が、指摘させてもらいますが、ちょちょまげさんにはそうした性向はあるように見受けられるように思います。これはdr.stoneflyさんとの絡み合いに関わる話ですが、「ノイズ」という言葉、ちょちょんまげさんにとって水伝ビリーバーの言説など、おそらくノイズの類なんでしょうね。人間の脳は、それをノイズと認識してしまうと無意識のうちにカットしてしまう修正を持っている。私が言っている宗教的バイアスというのは、そうした無意識のうちにカットしてしまう脳の性向のことでもあるんです。

何をノイズと認識してしまうか、これは人間コンピュータ論の喩えで行くと、OS、すなわち精神世界の問題なんです。

私は、私にはノイズとしか聞こえないものから何か意味あるものを読み取ることが出来る人を評価しますよ。話は跳びますが、英語なんて私にはノイズです(笑)。でも、英語で意味あるコミュニケーションが取れると「信じている」。「信じている」から英語を学んでみようと思う。英語をノイズとしてしか感得出来ない人に、英語を学ぼうという動機など生れるはずはないでしょう? そういう動機を持つ人が、私にとっては「上手な人」です。

ビックリしました2

MEDAMAさん

>こちらへ書き込むのは初めてかも。

そうでしたか? ああ、そうかも。なんかそんな気がしないのですが。
初めてなら、ようこそ、MEDAMAさん。コメントありがとうございます。こういった心遣い、嬉しいです。

うん、dr.stoneflyさんは信じるに足る人だと私も思います。おちゃめなところがあるのは、皆同じ。ときどき、いや、頻繁にそのおちゃめなところがコンフリクトしますが、それは出会い頭というヤツで。

出会い頭で衝突してしまう人は、やっぱり「下手な人」...、でしょ?

*****

UMAさん

ようこそ、コメントありがとうございます。

>裸でいっしょに走ってくれる人、ありがたいです。
>「偽だぞ!」と言ってくれる人もとてもありがたいです。

この2つが同時にならぶUMAさんのような方こそ、私は「人間」だと思うのですよ。もちろん他の人たちだって人間ですが、人間である前にいろいろと限定が付いてしまう人がおおい。UMAさんは限定がない、ということはありえないかもしれませんが、あったとしても少ない「人間」であるみたいです。

私が神父か牧師なら、「神に近い人」などと言うかも知れません。

すみません、わけのわからないお返しで。

*****

dr.stoneflyさん

お茶目なのは皆同じです。
そして、「愛は技術である」の言葉を贈っておきましょう(笑)。いつものようにエラソーに(爆)。

*****

ごん

>ちょんまげは○毛隠し、

こういう言葉のセンスはすごいです、ごんさん(笑)。

まあ、不粋なのは私も同じです。ちょちょんまげさんとは不粋なもの同士、結構楽しくやってますよ。

「うっ」と、惜しいね

あぅ、

>この人のおしゃべりのセンスのなさは確かだ。

ここでの不粋というのはあたしのことよん。(もちろん具象さんはわかってらっしゃるよね。でも他の方に誤解されるとアレなので)あたし、話し相手に飢えてるの。だから、鬱陶しがられてるの承知でさらに無粋なことを言っちゃいますね。

我々の日常には「人語を解さない」と科学的に判別されているものに言葉をかけ続ける、そういうコミュニケーションの場面はたくさんある。しかるに「そんなものはない、あってはならない、」と大声でがなり立てる御仁があるようだ。だからそれをわかりやすく切り取ってお見せする。ところがやっぱり、いつまでたってもそのような風景は存在しないかのごとく振る舞う方々が存在する。そういう人のあり方は科学的だとは思えない、どちらかといえば宗教の部類に属するんでないかいな。まあ、人間てものはこういうものかもしれない。面白いね。ということなんじゃないかしら。

ちなみに人体に含まれる「水」の割合は以下だそうです。(あたしが検証したわけじゃないからガセかもしれないけど)

○受精卵・・・・97%
○新生児・・・・80%
○小児・・・・・70%
○成人男性・・・60%
○成人女性・・・55%
○老人・・・・・50%

あなたは水に語りかけずにほかの何に語りかけてるのですか。

筋肉?骨?それはないでしょ、

相手は生きてるんだから。

愚樵さん
 不躾なコメントでしたのに、恐れ多い(汗)レスを有難う御座います。m(_ _)m私は、自他共に認める嫌なヤツです。なので、久しぶりにほめられました。
ごんさん
 はじめまして。料理を作りながら「おいしくなぁれ」とか、お墓の前で「安らかにお眠り下さい」とか、今までも思ってきたし、これからもそうするだろうと思います。意味がないとしても。
喧嘩しながら作った料理は、味が落ちたり、身体に悪いかも、、と今まで思っていました。そういった呪縛(?)からはおかげさまで解き放たれました。

間が空いてすみません

愚樵さん、まず乱暴な書き込みをして申し訳ありませんでした

>MEDAMAさん
耳が痛うございます。
ただ、ご存知かと思いますが私は「横レス」そのものはあまり気になりません。「横入りの仕方」のわきまえがあり、「内容」があるならば。

>dr.stonefly様
了解いたしました。こちらの方も乱暴な物言いになって申し訳ありませんでした。
某所で、散々無能なノイズを喰らっておりましたので、過敏になっていたようです。
再度、失礼いたしました。
しかし、私が最初の貴コメントを好まないのは理由があります。
1.私の頭がパーなので、抽象的な表現を良く理解できないこと。
2.(自分の)誤読による時間の無駄を省きたいこと。
等々です。
よろしければ、もう少し具体的な内容で「ヒント」を頂戴できませんか。いま現在私が類推しているところでは、ポイントとして面白そうなので。
よろしくお願いいたします。

愚樵さん、つづきです

>ちょちょんまげさんにとって水伝ビリーバーの言説など、おそらくノイズの類なんでしょうね

ん~、ですからポイント、ポイントの話だと思うんです。
つまり、すでに私と愚樵さんが既に合意している「科学的に見ればデタラメ」の部分ではノイズだということです。
で、ビリーバーとどう話すのか、と、言う部分では現実として「信じてしまっている」があるわけですから無視は当然できません。
どうも、話をごっちゃにしている、あるいはしたがっている人も多いみたいなんですけど、少なくとも私と愚樵さんの間で、「水伝デタラメ」に関しては完全同意なわけですよね?
で、次のステージとしてビリーバーの話があるわけです。
で、「ニセ科学批判」をするときに、まずビリーバーに対しても「デタラメである」は言わざるを得ないし、それを言っているときは「物理現象限定」なわけで、それ以外への言及は基本的にしていないわけです。
それで理解する人もいるだろうし、理解しない人もいるかもしれない。
で、理解すればそれで終わりです。
私はステージを分けているだけです。

ですので、

>何をノイズと認識してしまうか、これは人間コンピュータ論の喩えで行くと、OS、すなわち精神世界の問題なんです。

というような、同じ発言を聞いて、常にノイズと判断するわけでは無いということです。(内容そのものはノイズでも、次のステージに進むためにデータとして拾わなければならないことは多いですよね。当然のことながら。心理学などでは常套手段ですわね)

で、OSのお話の、

A:信仰(一般的には主観)を一般化することには無理があると理解していること。

B:信仰(一般的には主観)を一般化することに抵抗がない

についてはいかがですか?
私はBについては単に理解できてない(あるいはしたくない)だけの話だと思うのですけど。
前提は、日本、そしてある程度の教育を経た後、ということで。

またまた横レスですが…

ちょちょんまげさんの‘信仰を一般化する’という言葉の意味が、わかりにくいです。

たとえば、「神は実在する」と明言するのが、一般的な信仰だと思うのですが、信仰者というものは、そうした信仰を、一般化することに、当然抵抗はないと思うのですが…。

こうした信仰者を、「真実を理解していない」とか、「したくないのだろう」とか、ちょちょんまげさんは考えるのですか?

それとも、ちょちょんまげさんのおっしゃる信仰の意味がわたしとは違うのでしょうか?

その話をちょうど某所でしているところです

ちょちょんまげさん

>>上掲の愚樵さんの二つのコメントは全く矛盾しています。

ここの部分はよろしいですか? 私は次のステージに進んだと思っていたものがちょちょんまげさんは違っていた、と。

>少なくとも私と愚樵さんの間で、「水伝デタラメ」に関しては完全同意なわけですよね?

科学というステージでは、同意できます。
(こういう風に議論が整理されていくのは、気持ちがいいです...(~ ~)v)


で、次のステージ、一般化の話ですよね。

この話、私からここで返答する前に、一度コチラをご覧になっていただけますか?
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51497972.html

長くなって申し訳ありませんが、コメント欄も含めて。コメント欄には私も投稿してありますが、それがちょちょんまげさんへのお答えと重なります(特に、2度目3度目のコメント)。ぜひ、ご一読ください。

科学の発祥古代ギリシアっぽいんですけど、あそこって一神教ですかぁ

愚樵さん

目を通して見ましたが、正直、言ったもの勝ちの世界なので苦痛です。

とりあえず、今ここで話しているのは「科学的というステージでは水伝はデタラメ」という合意ができる認識範囲で話をしているわけですよね?
要するに我々の貧相な認識とは別に、客観としての存在はあり、それを近似として記述できる(出来る範囲内で)のが科学だっちゅうことで。
そうでなければ、愚樵さんが「水伝」をデタラメであると認めること自体がおかしいのじゃないですか。
もちろん、「何が客観、存在なのか」っていう一大テーマが存在していることは知っていますし、その定義が極めて困難であることだって知っています。
ですが、ここでの前提はすでに「我々の認識は認識として水伝はデタラメ」あたりでは合意してるんじゃないですか。
愚樵さんが、「水伝デタラメ説」そのものに意義をとなえるならばまだ整合性があると思いますよ。
で、厳密にいったら「客観存在」を規定することがむずかしいことは承知なので、「引力消失杞憂人間」みたいなものを出して前提を確認しようとしたわけで、それに対する愚樵さんのお答えは「そんな人はいない」でしたよね。ようするに、「ニュートン力学」を我々が外界をどう認識するかに関わらず、物凄く高い確率の再現性があるということで認めるということで、私と合意だと思うんですけど。
あるいは、“キツネに騙される”“タヌキに騙される”は、話としては面白いし、そういうお話をされる「古老」にいちいち指摘してまわることは馬鹿げてますけど、問われれば「キツネもタヌキもばかさない」というしかない、というお話だと思いますけど。

で、話はもどりますが、私の
A:信仰(一般的には主観)を一般化することには無理があると理解していること。

B:信仰(一般的には主観)を一般化することに抵抗がない
これに限ってご意見をうかがわせてください。

naokoさん

ごく単純に、「主観は一般化できない」ということです。
信仰は主観ですよね?

あと、忘れないでいただきたいのは、私は「全ての人間が信仰者である」と言っているということです。
そのなかで、「信仰を一般化することは無理だ」とわかっている人と、「それをわからない、あるいはわかりたくない」人がいる、と、言っています。

で、

>たとえば、「神は実在する」と明言するのが、一般的な信仰だと思うのですが

一般的でなく、「主観は一般化できない」ことを良くわかっていない人だと思いますが。

逆にうかがいたいのですが、naokoさんは自分の主観を堂々と他の人にも一般化してあてはめちゃうんですか?

追伸:「殺人は悪である」もまた主観だから一般化できない、みたいな議論はここではご勘弁を。

少なくとも

ある人が、「神は実在する」と明言したとして、それはちょちょんまげさんの言う、主観を一般化した言説ということになるのでしょうが、それを聞いて、その発言者を「真実を理解していない」とか「したくないのだろう」とは、わたしは思いませんが…

ちょちょんまげさんは思うのですか?

naokoさん

>「真実を理解していない」とか「したくないのだろう」

私は上のように言っていませんが?

私は、信仰(一般的には主観)を一般化することに抵抗がない(あるいは、それを理解してない、したくない)
人がいると思う、と言っています。

主観というのは、あくまで個人的な考え、思いのことですから、他人から共感を得ることもあるかもしれないし、無いかもしれない。
よって、一般化は不可能です。(この部分は愚樵さんも同意だと思いますよ。多分)
私はAが好きだけど、naokoさんがそうだとは限らない。
私は「なんたら神」を信じているけれど、naokosさんは「かんたら神」を信じるとしたら、一般化は無理でしょ?

要するに私はnaokoさんが常々おっしゃっている「様々な意見を尊重する」を言葉を変えていっているだけですが。
ただ、一般化できること(物凄く高い確率で)、例えば水伝はデタラメであるとか、リンゴは木から空に浮かばずに地面に落ちるとかいうこともあるよと、云うことです。

それは神話でしょう

ちょちょんまげさん

まずは、枝葉の部分から(笑)

>科学の発祥古代ギリシアっぽいんですけど、あそこって一神教ですかぁ

もちろん、多神教ですとも。だから、いろいろな思想が混在しているのでしょう。混在していたものの中のひとつに現在の科学に似たものもあるのでしょうが、それは単に“在った”というだけのこと。何でもかんでもギリシャ・ローマに源流を見出したがるのは、アチラの人たちの癖です。日本で皇紀2600年などというのと同じですね。ギリシャが科学の源流なんて、神話です。

さて、では
>A:信仰(一般的には主観)を一般化することには無理があると理解していること。
>B:信仰(一般的には主観)を一般化することに抵抗がない

です。「光るナス」が苦痛だということですので、コチラでお答えしますが...(私と対話していて苦痛じゃないでしょうね?)

とはいっても、私はこのご質問に答えにくいんです。というのもまず、「信仰」に含まれる範囲が私とちょちょんまげさんとでは大きく違いますから。私の場合、何度か言明しているように、科学も信仰のうちに入ってしまいます。そうなると、ちょちょんまげさんの質問が意図するところと大きく答えが違ってしまうでしょう? だからまず、科学が信仰でないのかどうか、そこから話を整理しないと混乱すると思うのですが、どうです?

ああ、それともうひとつ。ちょちょんまげさんは「主観は一般化しない」とのお考えで、2つの質問もそこを前提とされていますが、私の考えは違います。「主観は一般化する。権威さえあれば」というのが私の考えです。
(そのことを私は「【virtual】に乗っ取られる」と勝手に読んでいるのですが(笑))

ご質問に答えにくいといった理由はお分かりいただけますか? このあたりの認識が私とちょちょんまげさんとでは決定的に違うので、話はいつまでも噛み合わないんでしょう。

で、「科学は信仰だ」という話と「主観は一般化する。権威さえあれば」という話、これらは新たにエントリーをあげたいと思っています。先にあげたいエントリーがあるので少し時間はかかりますが、ここでの議論の続きはそちらでということで、どうでしょう? 

さまざまな意見を尊重する?

以前もそうおっしゃっていましたが…。

わたしはさまざまな人間を、そしてその内なる‘叫び’を尊重したいと思います。そして理解したいとも思います。
他者の主観を理解しようとする過程の作業。それは、自分の主観によって、他者の主観に触れるということです。
十分に互いを尊重し合えている状態での、そうした過程は、大変楽しい、意義のある‘対話’となります。

それが結果的に相手の「意見の尊重」ということになるにしても、やはり、わたしにとって大切なのは、そこまでの過程なのです。

たとえば、わたしが現時点で「Bという神」を信仰しているとしても、ちょちょんまげさんが「Aという神」を信仰するに至った過程を知りたいとは思います。
信仰とは、その人の実存の根幹を支える主観ですから、互いにそうした大切な主観を打ち明けあう過程は、スリリングで楽しい語らいとなるでしょう。

残念ながら、そうした過程を楽しめる相手との出会いというのは、なかなか稀です。誰にとってもそうなのでしょう。

先のコメントで、「すれ違いを楽しむ」のは健全と申しましたのは、上に挙げたような過程を楽しめないなら、「徹底的に理解しあえない、すれ違いの対話自体を、それはそれとして楽しむより他に、仕方なかろう」という逆説的な意味なのです。

すでに当方ブログにてご挨拶させていただきましたが、遅ればせながら関連エントリを掲載しておりますのでお知らせにうかがいました。
http://www.avgas-bb.com/wp/?p=178

さらに関連

http://www.avgas-bb.com/wp/?p=218
新たな関連エントリを掲載しましたのでお知らせです。

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