愚慫空論

レヴィナス、いいかもしれない

今朝から『レヴィナス』を読み始めた。

レヴィナス―移ろいゆくものへの視線レヴィナス―移ろいゆくものへの視線
(1999/06)
熊野 純彦

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私はもともとから哲学は好きだけど、レヴィナスはまったく視野に入っていなかった。関心を持ち出したのは、つい最近。内田樹への関心から派生したものだった。そんな下地があったので、図書館で見つけたこの本を借りてきた。“移ろいゆくものへの視線”というサブタイトルも気に入った。

読んだのは、まだほんのわずか。この本について何か書けるほどには読んでいない。にもかかわらず、少し書きたくなった。レヴィナスの問題意識は、私が持つ問題意識と似通っている。そのように感じたので。

レヴィナスの問題意識の根っこは【身のおきどころのなさ】にあるという。レヴィナスはフランスの哲学者ということになっているが、生れは東欧リトアニアのユダヤ人、生れた時代と人種からナチズムの大きなうねりの中に巻き込まれざるを得なかった人。ナチスの収容所に捕まったが運良く生き残った人。【身のおきどころのなさ】とは、多くのユダヤ人が殺されてしまった中で、生き残ってしまったという罪悪感からくるものなのだろうと推測するが、その【身のおきどころのなさ】から逃げることなく、強靭な思想を展開した人、なのだろう。


レヴィナス

〈じぶんが存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか〉

私の場合の問題意識の根っこは、無論レヴィナスほど深刻なものでないし、また正反対でもある。レヴィナスは生き残ってしまったことから【身のおきどころのなさ】を抱えるが、私の場合は殺生だ。私は、生き残るために、有情のものを殺して食べる。そして殺した後で、殺してよかったのかと自問する。その自問のさなかにいるときには【身のおきどころのなさ】を自覚せずにはいられない...。

ある人は、殺生の後の【身のおきどころのなさ】を「余裕」のなせる業なのではないかと指摘したが、これは正しい。腹を空かせて「余裕」のないとき、人も獣も、目の前の食料に喰らいつくことに躊躇はない。しかし、人間は満ち足りて「余裕」を持つと振り返る。そのとき人間は〈停止〉している。〈停止〉する「余裕」のないときは〈流転〉している――すなわち、“移ろいゆくもの”である。


前々回のエントリーで、私は【virtual】と【real】の2つの言葉を提示した。【virtual】とは〈停止〉である。【real】とは〈流転〉である。

〈流転〉のさなかになす殺生は、それは命あるものとしての【real】な姿だ。地球の生態系、あるいは宇宙といった大きな〈流転〉のなかの、取るに足らないワンシーンでしかない。だが、人間はその〈流転〉のなかに〈停止〉する「余裕」を持つに至った――この「余裕」は、もし私が聖書の民ならば、知恵の実を食し原罪を犯すことによって獲得した、と言うところだろう。その「余裕」の罪を人間が忘れたとき、人間のもつ【virtual】は他者を抑圧することになる。


〈流転〉することも〈停止〉の罪も忘れた人間は、【virtual】によって獲得した《所有》を自己の中に繰り入れながら、存在し続けようとする。【身のおきどころのなさ】と対峙するレヴィナスは、その存在を問い直そうとし、疑問を持つ。

こうした疑問を、むげにしりぞけることはできない。「存在することそのもの」を一種のはたらきあるいは運動と考えることも可能であって、運動するものは「他のものからの妨害によって阻止されないかぎり、つねに運動しつづけようとする」。じっさい、近代の初頭ホッブスは、運動するもののこのような本性を「コナトゥス」と名づけた。人間の本質であるとされる「自己保存」とは、このコナトゥスが人間個体の次元であらわれたものと考えることも可能であろう。倫理を自己保存的な存在者のあいだの調整のすべと考えるかぎり、ひとはホッブスがひらいた思考の地平をほとんど一歩も超え出てはいない。それは、しかしたしかに一箇の倫理であり、しかも〈私〉たちのあいだでなおも支配的な「倫理」である。ひとことでいって、それは〈私〉の存在の肯定に根拠をおく倫理であって、人間がたがいにとって〈狼〉とならないための「倫理」なのである。
 だが、ほんとうに「人間は人間にたいして狼である」のだろうか。〈他者〉にたいする〈私〉のありようを、べつのしかたで考えることはできないのであろうか。

前出『レヴィナス』からの引用。ここにもホッブスだ。

倫理を自己保存的な存在者のあいだの調整のすべと考えるかぎり、ひとはホッブスがひらいた思考の地平をほとんど一歩も超え出てはいない。

現在、ホッブスの開いた地平の中で一際高くそそり立っているのは経済学だ。資本主義を擁護する近経も共産主義を擁護するマル経も、ホッブスの開いた地平に立っているということでは同じである。そしていまや私たちは、それら経済学が、果たして人間を幸福にしたか甚だ疑問に思っている。

ひとことでいって、それは〈私〉の存在の肯定に根拠をおく倫理であって、人間がたがいにとって〈狼〉とならないための「倫理」なのである。

この〈私〉は、私(愚樵)に言わせれば、【virtual】に乗っ取られた〈私〉である。そのような〈私〉は「倫理」がなければ〈狼〉になる。ここでいう「倫理」とは,もちろんリヴァイアサン。

だが、ほんとうに「人間は人間にたいして狼である」のだろうか。〈他者〉にたいする〈私〉のありようを、べつのしかたで考えることはできないのであろうか。

私はこの問い直しに強く共鳴する。【virtual】が剥がれた【real】な人間たちの営みは、決してベヒーモスなどではないと思う。

これから先、レヴィナスを読み進むのが楽しみだ。


コメント

知らないけど

レヴィナスという人は知らないけど、
>〈じぶんが存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか〉
ということはワタシも最近書いた気がするなぁ。
もちろん深刻ではないのだけど……。
この深刻ではない、という自分を再度切開してもいいのかもしれない。

期待してます

>この深刻ではない、という自分を再度切開してもいいのかもしれない。

dr.stoneflyさん、新たなエントリー待ってます。

お久しぶりです

哲学の話題に思わず反応しちゃいました。
といっても、レヴィナスはほとんど読んでいないのですが、「倫理」的ですよねとても。僕は個人的には、倫理的なものとは距離を置きたい、と考えているのでレヴィナス的なものはどうしても敬遠しがちなのですが。
彼の哲学・倫理には、やはりユダヤという出自が大きく影響しているように思われますね。
ユダヤ人と言えばやはりホロコースト。
で、そこを通過した人が達する境地は、人はいつでも死と直面していること、他者の死と自分の死は紙一重であること、などだと思います。
その境地へ達した人が、一期一会的な倫理を大切にするということは当然と言えば当然なのかもしれません。

僕には自分がそのような境地に到達することは生涯不可能に思えますが…

すみません、久々のコメントなのにエントリーとは無関係な単なる感想文になってしまいました。
それでは。

quine10さん、ようこそ。私のほうも、そちらへはしばらくお邪魔させてもらってませんね。

>倫理的なものとは距離を置きたい、と考えているので

ああ、それはよくわかります。私などは逆に倫理的なところからアプローチしたい人間ですが。おそらくはなるべく「自己」を交えずに世界を認識したいというようにお思いになっているのではないか、と。

「われ思う、ゆえにわれ在り」で、世界を認識している「われ」は認めないわけにはいかないけれども、「われ」の個性を排除した普遍的な世界認識を求めたい、とうわけでしょう、私が想像するには。

まさしく言語で構成する哲学ですね。

こんにちは

ご無沙汰してます。
レヴィナス、ハマってくださると、僕としては嬉しいのですが。。。 (^o^)

【virtual】というようなことについては、是非ジャック・ラカンも!
スラヴォイ・ジジェクのラカン本がお勧めです♪

レヴィナス、いいですね。

愚樵さん 一年と数か月が過ぎてからの応答で驚かれるかもしれません。

 僕も、内田樹先生の師匠、ということで三週間ほど前から読み始めました。「僕にとってこんなにも助けとなった本を書かれた内田先生の師匠ならば、すごい人に違いない」と。内田先生と、また岩田靖夫先生の著書(岩波新書、岩波ジュニア新書)を参考にしながら読んでいます。
(話が横にそれますが、岩田先生は、こんな方が中学校・高校の校長先生だったら嬉しいなあ、という感じの方です(おそらく)。)

 愚樵さんの書かれた三つの記事を続けて読みました。
<私の哲学 ひとりひとりの幸せ>2007.8.27
<空虚5度>2008.5.29
<うつろいゆくもの>2008. 6.1
間を置いてつながっているのですね。<私の哲学 ひとりひとりの幸せ>に寄せた志村建世さん、るるどさんのことば、そしてまたそれとのかけあいが、なんともよいです。で、またそこでもらったことばが後に受け継がれていく。

 上に記した三つの記事とこの<レヴィナス、いいかもしれない>を読んでみて思うに、問題意識がレヴィナス先生と相通ずるかもしれない・・・という愚樵さんのカンは、当たっていたんじゃないでしょうか。どうでしょうか。
 いったんここで文を閉じます。
(お返事など、あまり気にしないでください。)
           田渕 大樹(ぶっさん)
            5月27日(木)記す  

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