愚慫空論

自己とは何か

ずいぶんとエラソーなタイトルなんですが、今日はこれでいきます。
一つ前の『まとまりがないエントリー』アキラさんから頂いたコメントへのお答えという体裁で始めさせてもらいます。

アキラさんのコメントを引用させてもらいます。

「自己愛」とされていることに絡んでなんですが。
「T.N.君の日記」さんによるUnder The Sunへの投稿コラムにて、免疫系うんぬんの話が出ています。
わたしは、これがいいモデルだと感じているのですが、生体においてはアポトーシスによって「自己組織化」がはかられ、免疫系統が「自己」と「非自己」とを峻別することによって、「自己」を成り立たせていますよね。

このへんの一連の「自己」を組織し保つ動きによって、やはり同じように「(人々の)まとまり」もまとまりたり得ているように、わたしは思うのです。

>「自己愛」には影はない。「自我」という輪郭を越え、家族、集団、地域、国、人類、自然、宇宙へと果てしなく自己を広げていくからである。
<
このへんの感じと、上記の免疫系的な感じとは、愚樵さんの中ではどのような関わり合いと言いましょうか、受け止め方と言いましょうか・・・をなさっていますか?

単純にフと想うと、わたしなどは免疫不全のエイズのような状況を想像してしまうのですが・・・。
アキラさんのこの疑問に対する答えは、おなじ「T.N.君の日記」さんによって示されいます。

とても難しいお話ですが、自己とか非自己は決定されたものではなく、常に自己は非自己から作用を受け、自分とは何かを見つめながら、自分自身が変化適応していくとても柔軟なものだと言うことですね。
「T.N.君の日記」さんによるUnder The Sunへの投稿コラムマルコ、青年と出会う』より)

このコラムではさらに免疫・身体における「自己」と精神世界の「自己」との関連についても言及されています。

精神における自己言及性ですか。私はわたし。たとえ他者からの影響を受けようとも私は私のコン テキストでしか感じることが出来ない。私のコンテキストでしか思うことが出来ない。そこに精神における自己言及性があるように思います。それをアイデン ティティと言うのでしょうか、あるいは先ほどおっしゃられたルーツと言うものなのでしょうか。思うという主体としての自己や感じるという客体としての自己 のさらにより深層に、わたしという内奥の自己が存在し、意識下の自己は常に内奥の自己をリファレンスしていると言うことなのではないでしょうか。

免疫系統も「自己」も、「自己」と「非自己」とを峻別したりはしないんですね。

もうこれ以上付け加えることはないのですけど、せっかくですから自分の言葉で蛇足させてもらいます。

マルコ、青年と出会う』でもアレルギー疾患について言及されていますが、ここをもう少し詳しく見てみましょうか。

こういうデータがあります。
寄生虫の減少がアレルギー疾患の増加をもたらした、と。
寄生虫は「非自己」です。少なくとも意識はそう捉えます。誰だって自分のお腹の中で虫を飼うのはイヤですからね。
そして、そのように意識してしまうと、虫下しを飲んで寄生虫を駆除します。で、日本人は皆々、お腹で虫を飼うことをやめました。体内の「非自己」を駆除したんですね。
そしたら、「自己」と「非自己」を区別する免疫系が暴走してしまった。

生まれたばかりの赤ん坊には「自我」はありません。母親と一体です。成長して感覚器官が働くようになると、母親と自分以外の「非自己」の存在に気がつくようになります。「自己」に限界があることを知り、「自我」を発達させる。「自我」とは「自己」の限界を知ってしまったがゆえの防衛本能のようなものです。

身体には限界があります。皮膚を境にして、その外と内とでは支配ししている法則が違います。身体の外部ではエントロピーが増大する熱力学第2法則が支配し、内側ではホメオスタシスが働いています。だから意識上の「自我」は自分の身体=「自己」と勘違いしてしまう。

ところが「自我」からすれば体内の異物、「非自己」であるはずの寄生虫が「自己」に少なからぬ影響を及ぼしています。「自己」と「非自己」は全く無関係ではなく、そこには何らかの関係性がある。免疫系はその関係性の上で働いています。

人間の精神も同じです。「自己」と「非自己」はまったく無関係ではない。「自己」と「非自己」の間の関係性に気がつくと、「自己」は「非自己」を包容していきます。こうして「自己」は
家族、集団、地域、国、人類、自然、宇宙へ認識の範囲を広げるわけです。そして自分自身を大切に思うことが「自己愛」に繋がっていく、ということになるのです。

なんだか大げさな話ですね。
でも、この大げさな話は、ごく些細なことから始まるのです。

「自己」と「非自己」の関係性に気がつくには、「飛躍」が必要です。例えば「愛国心」を「自我愛」とidentifyさせている人に、いくら「愛国心」と「人類愛」の関係性を論理的に説いても受け入れてもらえません。そういった人にとって「人類愛」は「自我愛」を否定するものにしか響かないからです。

「愛国心」を「人類愛」に昇華させるには、人の心の無意識の領域まで響かせることが必要です。「理解する」だけでは足りないのです。「悟る」とか「腑に落ちる」ことが必要です。
「悟る」なんていうと、厳しく自己修練しなければならないなんてイメージを抱いてしまいますが、それだけではない。「Sence of Wonder」を働かせるという方法もあります。

「自己愛」を妨げるのは「自我愛」です。防衛本能です。人間は周囲の人間と共感できるとき、つまり「絆」を感じているときには、防衛本能の働きが減退していきます。そうすると心が開いていき、感受性が高くなる。そんなときに
「Sence of Wonder」が働きやすくなるのです。

「Sence of Wonder」は「共感力」を糧とします。「共感力」の豊かな人ほど「Sence of Wonder」が働きやすい。そして「共感力」は豊かな「絆」の中で育まれます。

「絆」は過保護とは違います。過保護は「非自己」との接触を排除し、結果として貧弱な「自己」、アレルギーを起こしてしまう「自己」しか育てられません。「絆」とは、「非自己」も含めて「絆」なのです。
人の心は「非自己」とのせめぎ合いで傷つくこともあります。身体が傷つき傷が癒されることで壮健になって行くように、心も傷が癒されることで育っていきます。傷ついた心を癒す力、これこそが「絆」の力です。
そんな「絆」によって育まれた心には、大きな「共感力」が備わっていくのです。

***************************

またまた話の収拾がつかなくなってきてしまいました。で、またまたここらで切り上げとすることで、強制的に収拾させることにします。

今回も話が愛国心にまで届きませんでした。次こそは頑張ります。

あと、予定しては「Sence of wonder」と「共感力」を引き出す具体的な方法について、書いてみたいと考えています。以前に一度、この方法については書いたことがあるんですけどね。

コメント

ありがとうございました

そして、すみません。
個人的にちょっと確認したかっただけだったのですが、一連のお話の流れにチャチャを入れてしまったような気がして、申しわけない気がしています。
それから、このトピックにまつわる愚樵さんの思考の積み重ねをきちんとフォローしているわけではないので、そのへんでとんちんかんなことがあったかもしれません。

わたしは、野口生体に傾倒して学び続けている者ですので、基本的には愚樵さんと似たような視点からものごとを観ようとしているのだと思っています。
それで、ちょっと気になることがが出てくると、つい伺って確認したくなってしまうものですから。
今回は、思わず聞いてしまったというわけです。

わたしの言い回しにも舌足らずなところがあったと思われますが、「免疫系が自己と非自己とを峻別している」というのは、「排除」しているという意味合いではありませんでした。
紹介してくださった「マルコ、青年と出会う」の記事に書いてあったようなことは、基本的に認識しております。

ということで、「自己愛」というのは免疫系統の働きのようなものだよ、ということですよね。
その上で、ですが (^_^;)、
免疫系統は「自己」と「非自己」とを峻別はしていますよね。
免疫寛容はそれを受けてのその後の働きですし、いわば以前よりも「育った」状態だというわけですから。

感じたことをコメントしようと思ったのですが、かなり長くなってしまいましたので、自分のところにアップします。
よろしかったら、見てやってください。m(_ _)m

お久しぶりです

愚樵さん、ご無沙汰しております。拙記事を紹介して下さりありがとうございます。右傾化する・・・からの一連のエントリーを興味深く拝読させて頂きました。読ませて頂いて色々インスピレーションが湧いて来たのですが、纏まりません・・・。

右傾化する若者のメンタリティーに関しては、安全保障感の回復が重要なキーワードになるのだろうと考えています。さらにこのことを多田富雄氏の言う文脈の「自己」と「非自己」で捉えると、免疫系が発生してくる過程で存在していた総体が「自己」であるとも捉えることが出来ます。排他的なメンタリティーの原因は安全保障感の欠落のみならず、成長の過程におけるmonotonousな環境にも原因があるのかもしれません。

一方で多田富雄は、免疫学的「自己」が存在している訳ではなく、「自己」は免疫の行動様式によって規定される、すなわち「自己」の行為そのものが「自己」を規定しているとも捉えることが出来るとも言っています。この視点は、愚樵さんが「意識ー無意識」として捉えらようとしている視点に共通するような気がします。
それは、「意識ー無意識」を「言語化と身体化」として捉えることが出来るのではないかと考えているからです。
「意識=自我」は、「言語化」であり、「還元主義的概念」であり、「点で捉える時間(微分)」で、「無意識」は「言語化を消化すること(無我)」であり、それは「身体化」であり、「積分」なのではないかと感じています。
「自己」が経験の総体であり、かつ行為そのものでもあるという点から、人間の本質は「言語化と身体化をシャトルする」ことなのではないかと感じています。

長々と失礼しました。今は忙しくてなかなかこの様なことをじっくり考える余裕がありませんが、一段落したらまた再開出来たらと思っています。

あらら

あ、すみません。
野口生体じゃなくて、野口整体でした。 m(_ _)m

T.N.君、お久しぶり!

返事が遅くなってしまいました。

お久しぶりです。お元気でしたか?
私の拙い書き込みを見ていただいていたとは、うれしい限りです。

「T.N.君の日記」は現在休業中ですが、「愚樵空論」もここのところの営業実績はあんまり芳しくありません。ホント、ブログの更新を継続するってシンドイですね。

>「意識ー無意識」を「言語化と身体化」として捉えることが出来る
同感です。
今の世の中を一言で評するなら“頭デッカチ”なんだと思っています。で、この「頭」とは「意識」「言語」であり、頭の陰に隠れてしまったのが「無意識」であり「身体」である、と。「文武両道」という言葉ありますが、人間には「文=言語」も「武=身体」のどちらもバランスよく必要なんでしょうね、きっと。

結局のところ、「自己」というものは言語では捉えきれないものなのでしょう。今の“頭デッカチ”の世の中は「身体化」の部分が甚だ不足していて、それを補おうとする動きが右翼であり左翼なのであって、この両者は補い方に違いこそあれ ―右翼はストレートに「無意識化、身体化」する方向で、左翼はさらに「意識化、言語化」を進める方向で― 、その出発点は同じである、と思っているのです。

話は、少し変わりますが...。
今、簡単に言語化して纏めてしまいましたが、どうも私はこの「簡単に言語化する」という感覚が好きではないようなんですね。ブログという表現手段は主に言語によるものですから、「言語化」する他ないのですが、言語化し表現した後どうしても何か取りこぼしてしまった感じが残る。ブログを更新していると、どうしてもこの「取りこぼし感」がだんだん募ってきて...、シンドクなるんですよね。
ひょっとして、T.N.君も同様の感覚を抱いておられるのではないか、と思ったりするのですが...。

なんにせよ、「T.N.君の日記」、再開を心待ちにしています。

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