愚慫空論

【virtual】ナワバリと土地所有【仮想=実質】

virtual:「事実上の、実質上の」と言う意味だが、慣例的に「仮想」という日本語訳をあてる。

〈はてな〉のキーワードにあった virtual の説明だが、これが実に面白い。

    *  He is a virtual manager. 「彼は事実上の支配人だ。」
                (「仮の支配人だ」ではない)
    * in virtual 「本質的には」。(「仮想的に」ではない)

そういえば遥か昔、受験勉強に明け暮れていたころ、そんな英単語の知識を一時的に頭に詰め込んだような記憶が微かにあるが...。シケ単とかいうやつで。


“慣例的に「仮想」という日本語訳をあてる”とはいうが、そういう慣例が出来上がったのは、コンピュータの技術が発達して以降のことだろう。コンピュータが生み出す電脳空間の中に仮想的にいろいろなモノを生み出すことができるような技術が発達してから、virtual は「仮想」という訳語をあてるのが慣例になったのではないだろうか? しかし、それにしても virtual にはもともとから「仮想」という意も含んでいるのではあるまいか? 〈はてな〉にも

「仮想」という訳はバーチャルリアリティにおいて使われたのが初めてではなく、例えばVirtual Workを仮想仕事と訳すなど、古くから用いられている。

と記述されている。おもしろい。

virtual という単語には、「事実上の、実質上の」という意味と「仮想の」という意味の、両方の意味がある。これら2つの意味は一見相反するようだけれども、実はこれは人間という存在の“in virtual”本質的なところを示しているのではないか? と思うのである。

人間には、「実質上の」と「仮想の」の区別がつかないところがあるのではないか。

しかし、そう考えてみると、いろいろなことが腑に落ちてくるような気がする。


*****


地球上で生命活動を営む生物には、必ず生存のための生存圏が必要。それは植物であろうが動物であろうが、はたまた微生物であろうが同じ。変わらぬ不変の法則だ。その生存圏は、俗に《ナワバリ》と称されることが多い。

ヒトももちろん、地球上で生命活動を営む生物の一種だから、生存のためには《ナワバリ》が必要。ところがヒトの場合、独特の社会活動を営み、ヒトが人間になると、その《ナワバリ》のあり方は、他の生物種の《ナワバリ》のあり方と様相を異にするようになる。この人間独自の《ナワバリ》の在り方を《土地所有》として区別してみることにする。

《ナワバリ》も《土地所有》も、一定範囲の空間――ヒトは陸生動物だから、空間=土地――を占有するものである。言い換えると、同種の別個体(一定の集団を作って生活する種だと、別集団)を排除する、排他的な範囲が《ナワバリ》であり《土地所有》。

では、《ナワバリ》と《土地所有》の違いは何なのか? ...その答えが【virtual】なのではないか、ということだ。

*****

《ナワバリ》の場合。例えば人間の充実なる召使として役割を果たすことが多い犬。彼らは、人間の召使といえど、まだ彼らの生物種としての本能は色濃く残っていて、彼ら自身の本能に従った《ナワバリ》維持のための行動を示す。オス犬なら、後ろ片足を上げて電柱にションベンをひっかけるという、誰もが知るあの行動。あの行動は、なるべく高い位置にションベンをひっかけて臭いを残すことで、でオノレの優位――高い位置にあるほど、身体が大きい――をことを示すものだといわれている。

他にも、小鳥は奇麗な声でさえずることで自分の《ナワバリ》を主張するし、鮎などの魚類は、体当たりなどの実力行使で《ナワバリ》を維持しようとする。また《ナワバリ》同士の距離を広げて、物理的接触を避けようとする種も多い。つまり、人間以外の生物は、どれもこれも、その《ナワバリ》の在り方は【real】なのである。

犬は、同じところへ何度もションベンをひっかける。これは《ナワバリ》保持のために、臭いを消滅させないことが目的。【real】な臭いが消滅してしまえば、《ナワバリ》は保持できなくなってしまう。他の種でも、事情は同じ。《ナワバリ》を保持する【real】が消滅すれば《ナワバリ》も消滅する。すぐに他の個体に《ナワバリ》を冒されてしまう。

《ナワバリ》とは個々の生物の身体能力と不可分の【real】なものなのである。

*****

一方で、人間の《土地所有》。

人間がまだ単なるヒトであった狩猟採集の時代には、《ナワバリ》は【real】な《ナワバリ》であったろう。ところがヒトは、独特の能力を発揮して農耕を行うようになり文明を築く。この独特の能力こそが【virtual】ではないのかと思うのだが、ここらあたりの話を展開するのは別の機会に譲るとして、ヒトが文明を築き、集団で生活するようになって社会を営み始めると、ヒトは人間となり、【real】よりも【virtual】に支配されていくようになる。その【virtual】の一形態が《土地所有》というわけだ。

当たり前の話だが、農耕を行うには農地が必要だ。そして、農地から収穫を得るためには人間は農地に労働を投下しなければならない。労働は【real】である。農の営みという労働形態は【virtual】なものと【real】なものとが混在するものだが、日々の労働――土地を耕し、種を蒔き、作物を水を与えたり雑草を抜いたりして育て、収穫する――は、あくまで【real】なものだ。【real】であるがゆえに、ひとりの人間が耕作することができる農地の範囲はその身体能力に限定される。今日では文明の利器の力を借りて耕作するようになったが、それでも、ひとりの人間、あるいはひとつの集団が農地を耕作できる範囲には限りがある。《土地所有》がひとりあるいは一集団の【real】な限界に限定されるものであるならば、《土地所有》もまた【real】であるといえる。しかし、《土地所有》は、【real】の範囲を超えて、【virtual】なものになってしまっている。

最初、《土地所有》が【virtual】になったのは、むしろ【real】な争いを避ける平和的な方法であったのかもしれない。隣接して農地を営む者同士が【virtual】な境界線をひき、その境界線を守ることで無益な争いを避ける。この方法は【virtual】を解する人間だからこそ為しえる方法ではある。しかし一方で、【virtual】は【virtual】であるがゆえに【real】な限界を飛び越えていってしまうという事態も生じてしまう。【virtual】が【real】を飛び越えるという事態が《土地所有》において発生すると、農地を【real】に耕作する者が《土地所有》者――【virtual】を握る者――に隷属するということになる。【virtual】を握る者――領主の出現である。

*****

17世紀イギリスにトマス・ホッブスという政治哲学者がいた。近代政治思想を基礎付けた人物とされているが、その主著『リヴァイアサン』のなかでホッブスは、“人間の自然状態は万人の万人による闘争である”といった。「人間の自然状態」=【real】が、“万人の万人による”闘争状態だったかは別にしても、【virtual】を解しないヒト以外の生物種が常にいわゆる弱肉強食の闘争状態であることをからして、ホッブスの言はさほど的外れではないように思われる。ホッブスは【real】をベヒーモス、【virtual】をリヴァイアサンという怪獣に例えて、ベヒーモスがもたらす混沌よりはリヴァイアサンのもたらす権力の方がよいと考えた。

民主主義、立憲主義という思想は、ベヒーモス(【real】、混沌)を抑えるリヴァイアサン(【virtual】、権力)をさらに制御しようとする方向で進化してきた。しかし、その方向性は、あくまで【virtual】なものであったのではなかろうか? 国権は確かにリヴァイアサンと称するに値する怪物だろうが、それに対する基本的人権という理念も、これまた【virtual】だ。基本的人権という【virtual】は、【real】なヒトとしての在り方を十分に保証するものになっているのか? それに、そもそも【real】はベヒーモスなる怪物なのか?

ベヒーモス
(ベヒーモスとリヴァイアサン。絵はウィリアム・ブレイク

私には不思議で仕方がない。もし、ヒトの本性が【real】だったのなら、広大な土地を治める領主や王、皇帝などといった者がどうして存在しえたのかが。ヒトにだって個体差はあるから、屈強な個体が他の個体を圧倒して自分の勢力範囲をつくることは可能だろう。しかし、それが、支配者の目の届かない手の届かない範囲まで支配できるというところまで飛躍してしまうには、支配者の目に見えていなくても、手が届かなくても、被支配民が自分で自分を支配してしまう【virtual】がセットされていなければ、ありえることではない。ヒトはそもそもからして【virtual】であり、仮想と実質の区別がつかず、実質としたものを現実と取り違えてしまう存在なのではないだろうか?

*****

人権と呼ばれる理念には、いくつかの構成要素がある。もっとも基本的な要素は自由権と平等権。のちに社会権などといった要素も付け加えれれるようになった。

この自由権の「自由」とは、国家権力(=リヴァイアサン)からの自由のこと。精神の自由、経済活動の自由、人身の自由。いずれも理由なくして国家からこれらの自由が制約されることがないことを、国家を構成するひとり一人の人間の権利として定めている。

経済の自由の中には、財産権の保証という要素もある。日本国憲法では、第29条の規定がこれにあたる。

   1. 財産権は、これを侵してはならない。
   2. 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
   3. 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

しかし、この財産権とは? これこそが、ヒトの【real】を抑圧する【virtual】の核心ではないのか。

財産権の中心は所有権だ。所有権とは、物(土地を含む)を自分のものとして支配する権利をさす。その所有権は時効により消滅することはないと解釈されている。【real】ならありえないことだ。

一時的に共産主義が支配した一部の国と、一部の未開と称される地域を除いては、たとえ近代国家的な「法」によって規定されていなくても、この財産権といった【virtual】な私権は広く人類社会に行き渡っているものと思われる(共産主義国家では私権は制限されたが、代わりにのさばったのは国権である。どちらも【virtual】であることに変りはない)。この【virtual】な私権は、《ナワバリ》同様、排他的だ。しかも、【virtual】であるがために、その財産、ここでは《土地所有》を【real】に活用する能力に欠けても、所有者は依然所有者であることが出来る。【virtual】が【real】を排除することができる。【virtual】な権利なき者は、近代国家においては法の名の下に暴力(=【real】)によって、排除される。

しかし、この事態は、どこかおかしくないか? 土地の所有者は、その土地を【real】に活用できる者であってしかるべきではないのか? 【real】と【real】が争う際に【virtual】がその争いを調停するのはよい。だが、【virtual】が【real】を飲み込んでしまうような事態は正常ではないと感じる。これこそが一部が多数を「搾取」することができる根本の要因であるように感じる。そして、その要因が基本的人権の中に盛り込まれている。財産権という【virtual】を国家が保証することが、弱者の生存を脅かす。人間が活動領域が全て【virtual】で覆い尽くされてしまった世界では、【virtual】を所有しない弱者は、強者の所有する【virtual】に隷属することでしか生存することができない。そうでなければ弱者は【real】を保持できない。

しかし、弱者は本当に弱者なのか? 強者を強者たらしめているのは、弱者のなかにある【virtual】ではないのか? 

*****

【virtual】シリーズ、続けます。続けるつもりです。けど、続くかどうかはわかりません(苦笑)

コメント

ベヒーモス ちょっときもい ゾンビ豚ぽい

すっかり夏休みのごとくブログの更新を蜂起じゃなくて、放棄していた薩摩長州です。
愚樵さまお久しぶりでございます。

愚樵さまもバイオリズムが低調とのこと、私もちょっとリアルに忙しくて書く気に慣れない日々が続いておりまして、長いご無沙汰となってしまいました。

そんなわけで、すっかり閑古鳥ブログとなった当方にTBをいただきまして、ありがとうございました。ならば、ひとことふたことコメントをせねば失礼かと思いお邪魔いたしました。

何点か骨髄反射的に思ったことを書かせていただきます。

まず、土地所有を問題の基軸に据えておられることは、とても興味深いことであります。この点は唯物論の立場から私も全く同感であります。私的所有のルーツを辿ってゆく上で土地所有の形態を分析することは要であります。マルクスは封建社会での私的所有とブルジョア社会で完成する私的所有との連続性と断絶性を晩年必死に研究していたようです。

リバイアサンは太古の昔、政治学の講義で半年くらいかけて扱ってましたが、とっくの昔にキレイにわすれますた。ホッブス君がこれを書き上げた背景には、ブルジョア革命としての清教徒革命が内乱的発展をなすにいたり、絶対王政に組していた彼はフランスへの亡命をよぎなくされるという辛酸をなめた経験から、内戦状態を「万人の万人による闘争」と呼び、それなら絶対王政のほうがマシだろうと擁護したというのが実情であります。

その後のロックやルソーは政治的にはブルジョア階級が絶対王政を打倒してゆく過程に、経済的には二重の自由を背負ったプロレタリアートが創出される過程に意味づけをあたえるイデオロギー生みだし、それを基礎にしてブルジョアもプロレタリアも同じ人間として人権と言う概念のもとに等しく公平に「保護」され、財産権の保護をもって実質的なブルジョアの経済的な支配権は正統にして永遠なるを保障する法の支配として、完成させるに道を開いたのであります。

対立的な概念として、「rial」と「virtual」が用いられていますが、私はこれを「経済」と「政治」と置き換えて読んでいたのですが、それでも意味は通るようです。
経済の発展は進歩をもたらすが、それに対し政治は硬直しやすく保守的な桎梏として対立するようになる。唯物史観の基本的命題であります。

続きを楽しみにしております。まとまりのない文章で失礼いたしました。スランプなもんでお許しあれm(_ _)m。

薩摩長州さん

この記事を書きながら、薩長さんのことを思い出していました。それでTB送らせていただいた次第です。
【virtual】を所有する強者を「ブルジョア」、【virtual】に【real】を抑圧される弱者を「プロレタリアート」と呼称しようか、などと思案しながら。

>対立的な概念として、「rial」と「virtual」が用いられていますが、私はこれを「経済」と「政治」と置き換えて読んでいたのですが、それでも意味は通るようです。

これはどうでしょう? 今の私の視点からは、政治も経済もともに【virtual】と【real】の混合ミックスですが、時代とともに【virtual】に圧倒されるようになった。それが「近代」という大きな思想潮流ではないかと思っています。唯物論も私からすれば【virtual】です。これは後々展開して行こうと考えていますが、果たしてそこまで届くか? あまり自信はありません(苦笑)。

「仮想」つまり「幻想」性ということ

唯物史観の定式ということになれば、経済を中心とする土台=下部構造としての市民社会と政治などの上部構造、さらにイデオロギーなどの意識諸形態という図式が有名ですね。

この場合、経済のほうが人間の具体的な生活に結びついているという点で、政治よりもより現実的だということは言えるでしょう。ただし、これはあくまで相対的な区別に過ぎません。経済を動かしているのは、人間の欲望ですが、人間の欲望というものは、本能的欲求を満たすというような、ただの生物的な欲求には還元されません。それは、社会や文化によって、つまりは他者によって媒介されているという意味で、それ自体「幻想」的(吉本的な意味で)なものです。

その意味では、「幻想」性というのは、人間に固有の条件であり、あらゆる人間の活動についてまわるものでもあって、経済もそういう条件から免れてはいません。とりわけ、近代の資本主義社会は、交通関係の飛躍的な発展(つまり人間にとっての「世界」の拡大ということ)によって、人間の欲望をも飛躍的に拡大させました。それによって、資本主義経済は圧倒的に強力な動力を手にし、その結果として、世界中で近代以前の共同体的社会を崩壊させ、駆逐し圧倒してきたわけです。

それはつまり、経済における「幻想」領域の拡大でもあります。言うまでもないことですが、現代の資本主義経済は、直接的な欲望からは大きく遊離した「幻想」としての欲望なしには、もはや存続できないものですね。

「幻想」の幻想性

さすがはかつさん、見事に定式化していただきました。

私が使用した【virtual】という言葉と(吉本的な)「幻想」とは、おそらくは同じような意味だと思います。

>現代の資本主義経済は、直接的な欲望からは大きく遊離した「幻想」としての欲望なしには、もはや存続できないものですね。
>その意味では、「幻想」性というのは、人間に固有の条件であり、あらゆる人間の活動についてまわるものでもあって、

つまり、幻想でありながら、現実的。最初に取り上げた virtual の言葉の両義性そのままです。

問題はこの先ですね。もし、現在私たちを広く覆っている共同幻想が、成立可能な唯一の幻想、あるいは歴史の最終形態としてたどり着いた最終的な幻想であるとするならば、その幻想は本質であり現実的であるとして差し支えないでしょう。しかし、果たしてそうか? という疑問ですね。

いまさらながらですが、いまだ未解決な疑問に私も挑んでみようという大それた試みです(苦笑)


virtual

この記事ずっと気になっていまして、最近英語の先生にvirtualについて聞いたことを参考までに。

元々virtualは「実質的な」という意味だそうです。
ある時理化学用語で鏡に映された像を示すのにvirtualというようになった。
さらに、ネットワーク上の空間に作られた店舗などの存在をvirtualと形容するようになった。“実店舗は存在しないけれど本当に物が買える店”というようなイメージ。このイメージに基づけばvirtual shopは「実質上の店」とも訳せます。このイメージでは、仮想的と実質的がイコールで結びつきます。
スペースアルクのvirtualの定義1「実質上の、事実上の、実際上の、実質的な◆実体・事実ではないが「本質」を示すもの。」も、同様のことを説明していると思います。

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