情と殺生、理念と殺戮
2008-08-11
このエントリーは、構想はしたものの、上げるのはやめようと思っていた。暑苦しい日が続くときに暑苦しいエントリーを書くのは、書く方も嫌だけど読むほうも嫌だろうと思うから。
まあ、私の書く文章が暑苦しいのは今回に限ってのことではないので、ごくごく僅かな私の文章の読者の皆さんは、既に暑苦しさへの耐性は持っておられるかな。でも、暑苦しい私が暑苦しいというのだから、かなり暑苦しいですよ...(笑)。
で、そんな暑苦しいエントリーを、なぜ気が変わって上げようとしたかというと、そのきっかけは瀬戸智子さんの記事。
この、すべてひらがなで記された問いかけが、なぜか私の胸の中にあった想いとリンクした。理由はただ、それだけ。
一週間ほど前、私はひとつ殺生をした。

殺したのは...、この子。そう、“この子”だ。画像に映し出されているシカを呼ぶのに“この子”以外にもいろいろと呼びようはあるだろうが、私には“この子”と呼ぶのがいちばんしっくりくる。私の心の中のそんな位置にいるこの子を、私は殺した。
理由は単純。食べるために、だ。
殺して皮を剥いで解体したこの子を一緒にいた仕事仲間と分配し、私は後ろ足を一本と内臓(肝臓と心臓など)をもらって、内臓はすでに食べた。後ろ足はまだ冷蔵庫にあるが、これはもうすぐ帰省する嫁の実家へ持っていく算段になっている。親族揃っての恒例のBQに“出品”する予定。
シカを食べるために殺すのは、私にとっては別段特別なことではない。簡単にいってしまえば、シカやイノシシのような野生動物と接触するような住環境と職場なので、そのような「精神の習慣」になっているだけのこと。
だが、その「精神の習慣」が時として発動しないときがある。そうしたとき、殺生すべき対象を“この子”と呼んでしまうような羽目になる。この子は、そういう羽目に陥ってしまったケース。
経緯は...。
その朝、仕事場に到着すると、この子が仕掛けてあった括り罠に引っ掛かっていた。
山に野生のシカがいるのは当たり前だし足跡が周辺に多数残っていたから、私たちが仕事場から去った後、シカが近辺をうろついているのはわかっていた。姿も目撃していたし。それで私たちは罠を仕掛けた。もちろん食べるために。
引っ掛かっていた時点では、この子はまだ“この子”ではなかった。単なる食料。が、ここで手違いが起こる。この子はまだ生きていた。罠は首に引っ掛かるように仕掛けるので、たいていは発見した時点で絶命している。絶命していれば、“食料”が“この子”に格上げされることはない。ところが、この子は腹のところで罠に掛かっていた。この状態だとすぐに絶命することはない。
そうであっても、もうすでに子のこの命運は尽きたも同然。腹のことで掛かった罠は逃れようと暴れたために食い込み、下半身は血流が止まったのだろう、萎えて動かないような状態だった。私たちが近づくと前足だけでもがくような状態。もし罠から解放してやったとしても、まず間違いなく命を落とす。野生の世界には病院もセーフティー・ネットもないから。
すぐには死なないこの子を、私たちはこれ幸いと、しばらく生かしておくことにした。私たちには私たちの主目的――金儲けのために木材を生産する――があって、それを果たさなければならない。季節は夏だから、絶命した動物を放置しておくとすぐに虫がたかり、何らかの処置を施さないと食べることができなくなってしまう。ところが生きていると、すぐに処置しなくてよい。私たちは私たちのするべきことを済ませてから、ゆっくりと処置に取り掛かることが出来る。おまけに、刺身で食べることが出来る背身(いわゆるヒレ肉)や内臓は、新鮮なほど美味い。特にキモなどは、朝落として夕方だともう食べれない。だからこの子が生きていたことは、この子をこの時点では食料としてしか見ていない私たちにとっては大変にラッキーなことだった。
この子にとっては、大変に不幸で残酷なことだけどれも。
この子を食料として捉えた上での合理的判断から、作業が終了するまで生かしておくことを選択した私たち。しかし、ここで私たちは、あるものを計算に入れるのを忘れていた。それが、「共有する時間が育む情」である。
身動きが取れなくなりジタバタもがくことも諦めたこの子は、私たちが作業をしている間、ずっと私たちのほうを見ていたようだ。作業の準備の間、なんどかこの子の方に視線をやると、必ずこの子はこちらを向いていた。昼休み、弁当を食べに戻ってきたときも、この子をみるとやはりこちらを向いていた。この子がどのような気持ちで私たちを眺めていたかはわからない。ただ私(たち)には、この子はこちらを見ていたのだ、ということは意識した。なんどか目線があったようにも思う。そして作業終了後、私たちがこの子の方へ向き直ったとき、やはりこの子は私たちの方を向いていた。
私たちには、この子が私たちの近くにいる間、ずっと私たちを見ていたのだ、という意識が生れていた。この意識は、私たちはこの子と、ほんのわずかな間ではあるけれども、「一緒にいた」という心情を発露させた。その心情がこの子を殺生することに躊躇を憶えさせた。たまたまデジカメを持っていたというので、軽い気持ちで撮影したのもよくなかった。
私は「その任」に当たるため、斧を手にしてこの子の前に立った。眉間の急所に一撃を入れるために。この子は私が近づいても、もはや逃げようとはしなかった。近づいた私に視線を注いでいた。もう、諦めていたのだろうか? 私は、この子の視線を受けとめながら、手にした斧を振り上げ、そして軽く振り下ろした。斧は刃の部分ではなく刀でいう峰の部分がこの子に命中。その瞬間、コツンと音がして、この子の持ち上げられた頸が倒れていき、私に焦点が合わせられていた瞳から光が失われていった...。ここ一週間、何かにつけてはその光景が脳裡に再現されてくる。
私は自分を愚かだと思う。殺生をしたこともそうだし、瀬戸さんの問いかけに引っ掛かってしまうほどセンチメンタルな気分になっていることにも愚かさを感じる。しかし、それよりも何よりも愚かだと思うのは、その愚かさを改めようと少しも思っていないことだ。同じ状況に置かれたら、私はまた同じことをするだろう。現にまた罠を仕掛けてある。そこに再びシカが掛かったら、そしてそのシカが絶命していなかったら...。美味しい肉を収穫するために、私はそのシカとしばしの時間を共有し、情を発露させ、そして殺す。
結局のところ、私は私の愚かさを、愚かだけれど間違っているとは思っていないのだ。殺生することも、情を発露させることも、どちらも愚かだけれど、間違ってはいない。それはそれぞれ、生あるものならば、あるいは人であるならば、避けては通れないものだから。だから、その愚かさを否定しようとは思わないし、また殊更に肯定しようとも思わない。殺生をすることと情を発露させることは矛盾だが、その矛盾に無理やり整理をつけるつもりはない。
しかし、ひとは、矛盾を矛盾のままにしておくことに我慢がならない。無理やり整理しようと欲する。その成果が理念というものではないかと、最近私は疑っている。なかでも、殺生を正当化する理念が正義と呼ばれるのではないのか? そしてひとは、正義の名の下に殺戮を行う。
人間は無力なんかではない。無力であるものが殺生など行えるものか。ましてや多くの同胞を殺戮することなど。罠をかける、その狡猾さだけをとってみても決して無力などではない。無力な者が核兵器を製造できるはずがない。
しかし、ひとはむりょくである。むりょくだから、おろかな殺戮をやめられない。やめさせることができない。
なぜむりょくなのか? 何に対してむりょくなのか? ひとだけが創造することが出来る理念を、ひとだけが理解できるがゆえに、理解しなければならないと思い込んでいるがゆえに、むりょくなだけではないのか?
センチメンタルな気分の私は、そんなふうに疑っている。
まあ、私の書く文章が暑苦しいのは今回に限ってのことではないので、ごくごく僅かな私の文章の読者の皆さんは、既に暑苦しさへの耐性は持っておられるかな。でも、暑苦しい私が暑苦しいというのだから、かなり暑苦しいですよ...(笑)。
で、そんな暑苦しいエントリーを、なぜ気が変わって上げようとしたかというと、そのきっかけは瀬戸智子さんの記事。
どうしてひとはこれほどにもおろかなのか。
どうしてひとはこれほどにもむりょくなのか。
どうしてひとはこれほどにもむりょくなのか。
この、すべてひらがなで記された問いかけが、なぜか私の胸の中にあった想いとリンクした。理由はただ、それだけ。
******
一週間ほど前、私はひとつ殺生をした。

殺したのは...、この子。そう、“この子”だ。画像に映し出されているシカを呼ぶのに“この子”以外にもいろいろと呼びようはあるだろうが、私には“この子”と呼ぶのがいちばんしっくりくる。私の心の中のそんな位置にいるこの子を、私は殺した。
理由は単純。食べるために、だ。
殺して皮を剥いで解体したこの子を一緒にいた仕事仲間と分配し、私は後ろ足を一本と内臓(肝臓と心臓など)をもらって、内臓はすでに食べた。後ろ足はまだ冷蔵庫にあるが、これはもうすぐ帰省する嫁の実家へ持っていく算段になっている。親族揃っての恒例のBQに“出品”する予定。
シカを食べるために殺すのは、私にとっては別段特別なことではない。簡単にいってしまえば、シカやイノシシのような野生動物と接触するような住環境と職場なので、そのような「精神の習慣」になっているだけのこと。
だが、その「精神の習慣」が時として発動しないときがある。そうしたとき、殺生すべき対象を“この子”と呼んでしまうような羽目になる。この子は、そういう羽目に陥ってしまったケース。
経緯は...。
その朝、仕事場に到着すると、この子が仕掛けてあった括り罠に引っ掛かっていた。
山に野生のシカがいるのは当たり前だし足跡が周辺に多数残っていたから、私たちが仕事場から去った後、シカが近辺をうろついているのはわかっていた。姿も目撃していたし。それで私たちは罠を仕掛けた。もちろん食べるために。
引っ掛かっていた時点では、この子はまだ“この子”ではなかった。単なる食料。が、ここで手違いが起こる。この子はまだ生きていた。罠は首に引っ掛かるように仕掛けるので、たいていは発見した時点で絶命している。絶命していれば、“食料”が“この子”に格上げされることはない。ところが、この子は腹のところで罠に掛かっていた。この状態だとすぐに絶命することはない。
そうであっても、もうすでに子のこの命運は尽きたも同然。腹のことで掛かった罠は逃れようと暴れたために食い込み、下半身は血流が止まったのだろう、萎えて動かないような状態だった。私たちが近づくと前足だけでもがくような状態。もし罠から解放してやったとしても、まず間違いなく命を落とす。野生の世界には病院もセーフティー・ネットもないから。
すぐには死なないこの子を、私たちはこれ幸いと、しばらく生かしておくことにした。私たちには私たちの主目的――金儲けのために木材を生産する――があって、それを果たさなければならない。季節は夏だから、絶命した動物を放置しておくとすぐに虫がたかり、何らかの処置を施さないと食べることができなくなってしまう。ところが生きていると、すぐに処置しなくてよい。私たちは私たちのするべきことを済ませてから、ゆっくりと処置に取り掛かることが出来る。おまけに、刺身で食べることが出来る背身(いわゆるヒレ肉)や内臓は、新鮮なほど美味い。特にキモなどは、朝落として夕方だともう食べれない。だからこの子が生きていたことは、この子をこの時点では食料としてしか見ていない私たちにとっては大変にラッキーなことだった。
この子にとっては、大変に不幸で残酷なことだけどれも。
この子を食料として捉えた上での合理的判断から、作業が終了するまで生かしておくことを選択した私たち。しかし、ここで私たちは、あるものを計算に入れるのを忘れていた。それが、「共有する時間が育む情」である。
身動きが取れなくなりジタバタもがくことも諦めたこの子は、私たちが作業をしている間、ずっと私たちのほうを見ていたようだ。作業の準備の間、なんどかこの子の方に視線をやると、必ずこの子はこちらを向いていた。昼休み、弁当を食べに戻ってきたときも、この子をみるとやはりこちらを向いていた。この子がどのような気持ちで私たちを眺めていたかはわからない。ただ私(たち)には、この子はこちらを見ていたのだ、ということは意識した。なんどか目線があったようにも思う。そして作業終了後、私たちがこの子の方へ向き直ったとき、やはりこの子は私たちの方を向いていた。
私たちには、この子が私たちの近くにいる間、ずっと私たちを見ていたのだ、という意識が生れていた。この意識は、私たちはこの子と、ほんのわずかな間ではあるけれども、「一緒にいた」という心情を発露させた。その心情がこの子を殺生することに躊躇を憶えさせた。たまたまデジカメを持っていたというので、軽い気持ちで撮影したのもよくなかった。
私は「その任」に当たるため、斧を手にしてこの子の前に立った。眉間の急所に一撃を入れるために。この子は私が近づいても、もはや逃げようとはしなかった。近づいた私に視線を注いでいた。もう、諦めていたのだろうか? 私は、この子の視線を受けとめながら、手にした斧を振り上げ、そして軽く振り下ろした。斧は刃の部分ではなく刀でいう峰の部分がこの子に命中。その瞬間、コツンと音がして、この子の持ち上げられた頸が倒れていき、私に焦点が合わせられていた瞳から光が失われていった...。ここ一週間、何かにつけてはその光景が脳裡に再現されてくる。
******
どうしてひとはこれほどにもおろかなのか。
私は自分を愚かだと思う。殺生をしたこともそうだし、瀬戸さんの問いかけに引っ掛かってしまうほどセンチメンタルな気分になっていることにも愚かさを感じる。しかし、それよりも何よりも愚かだと思うのは、その愚かさを改めようと少しも思っていないことだ。同じ状況に置かれたら、私はまた同じことをするだろう。現にまた罠を仕掛けてある。そこに再びシカが掛かったら、そしてそのシカが絶命していなかったら...。美味しい肉を収穫するために、私はそのシカとしばしの時間を共有し、情を発露させ、そして殺す。
結局のところ、私は私の愚かさを、愚かだけれど間違っているとは思っていないのだ。殺生することも、情を発露させることも、どちらも愚かだけれど、間違ってはいない。それはそれぞれ、生あるものならば、あるいは人であるならば、避けては通れないものだから。だから、その愚かさを否定しようとは思わないし、また殊更に肯定しようとも思わない。殺生をすることと情を発露させることは矛盾だが、その矛盾に無理やり整理をつけるつもりはない。
******
どうしてひとはこれほどにもおろかなのか。
しかし、ひとは、矛盾を矛盾のままにしておくことに我慢がならない。無理やり整理しようと欲する。その成果が理念というものではないかと、最近私は疑っている。なかでも、殺生を正当化する理念が正義と呼ばれるのではないのか? そしてひとは、正義の名の下に殺戮を行う。
どうしてひとはこれほどにもむりょくなのか。
人間は無力なんかではない。無力であるものが殺生など行えるものか。ましてや多くの同胞を殺戮することなど。罠をかける、その狡猾さだけをとってみても決して無力などではない。無力な者が核兵器を製造できるはずがない。
しかし、ひとはむりょくである。むりょくだから、おろかな殺戮をやめられない。やめさせることができない。
なぜむりょくなのか? 何に対してむりょくなのか? ひとだけが創造することが出来る理念を、ひとだけが理解できるがゆえに、理解しなければならないと思い込んでいるがゆえに、むりょくなだけではないのか?
センチメンタルな気分の私は、そんなふうに疑っている。
コメント
朝読むんじゃなかった。(^_^;)
日常か情か
おはようございます。
たまたま、「キャンプが『日常』になり全て現地調達しなければならない」という『妄想』に取り付かれているので、鹿に目を奪われ食わなければ、と思ってしまいました。
「飢え」に支配されていたら、情によって「この子」にはならないのかなぁ、などと想像しながら、もしや「この子」という類いの「情」というのは「余裕」のなかで発露されるものかな、という思索を巡らせようか、どうか悩んでいます。暑いもんなぁ……
http://dr-stonefly.at.webry.info/200808/article_3.html
たまたま、「キャンプが『日常』になり全て現地調達しなければならない」という『妄想』に取り付かれているので、鹿に目を奪われ食わなければ、と思ってしまいました。
「飢え」に支配されていたら、情によって「この子」にはならないのかなぁ、などと想像しながら、もしや「この子」という類いの「情」というのは「余裕」のなかで発露されるものかな、という思索を巡らせようか、どうか悩んでいます。暑いもんなぁ……
http://dr-stonefly.at.webry.info/200808/article_3.html
忘れているだけ
私たちが毎日食して生きているということは、似たようなことを自分がしているのか、誰かがしてくれているかの違いであるということを、忘れているだけと思いました。本当はこういった話は、私は大の苦手ですが、一方平気で牛肉やお刺身を美味しく頂いてもいます。競馬好きなのに、時には馬刺しも食べたりします。だから、「あなたの命を私にくれてありがとう いただきます」なのだそうです。もうひとつ思い出した話は、脚本家の倉本聡が主宰していた富良野塾の入塾テストでは、生きたニワトリを自分で絞めて食べるというのがありました。表現者となるには真実を見つめさせることや矛盾を体験させることが大切な要素なのでしょうか。
PS 写真があるのが決定的にきついです。
PS 写真があるのが決定的にきついです。
・・・・・・・
愚樵さん、素晴らしいエントリーでした。
二次情報や評論的なものが多いなか、このような実体験のお話は本当に重いけど、これが本物なんだって思います。これが人間なんだって‥。
動物であれば、必ず殺生はしている。scottiさんが書いているように直接か間接かだけの違いです。動物保護団体の人々だって、スーパーで肉は買っているんだし、捕鯨反対運動などでも‥じゃ〜鯨と牛に命の重みがあるというのか?養殖された命って軽いのか?その人たちは殺虫剤も使わないのか?などなど疑問が湧き上がってきます。
究極の食料危機になった時、どうするのか?に答えが隠されているのかな。食料がなかったら、捕鯨反対の人々も、きっと鯨を食べるでしょう。そう考えると、大きな口が叩ける人間はいないのではないでしょうか。「無駄な殺戮」を除けば‥「命」の議論に正しい答えなどないのかもしれませんね。
良いエントリーをありがとうございました。
二次情報や評論的なものが多いなか、このような実体験のお話は本当に重いけど、これが本物なんだって思います。これが人間なんだって‥。
動物であれば、必ず殺生はしている。scottiさんが書いているように直接か間接かだけの違いです。動物保護団体の人々だって、スーパーで肉は買っているんだし、捕鯨反対運動などでも‥じゃ〜鯨と牛に命の重みがあるというのか?養殖された命って軽いのか?その人たちは殺虫剤も使わないのか?などなど疑問が湧き上がってきます。
究極の食料危機になった時、どうするのか?に答えが隠されているのかな。食料がなかったら、捕鯨反対の人々も、きっと鯨を食べるでしょう。そう考えると、大きな口が叩ける人間はいないのではないでしょうか。「無駄な殺戮」を除けば‥「命」の議論に正しい答えなどないのかもしれませんね。
良いエントリーをありがとうございました。
残暑お見舞い申し上げます。
うーん、今回はなかなかキツイお話ですね、こたえます。(写真がなければそうでもなかったかもしれませんが。)
でも、いいエントリーです(^^)
まだまだ暑い日が続きますけど、ブログ更新とお仕事 頑張ってください。
うーん、今回はなかなかキツイお話ですね、こたえます。(写真がなければそうでもなかったかもしれませんが。)
でも、いいエントリーです(^^)
まだまだ暑い日が続きますけど、ブログ更新とお仕事 頑張ってください。
冥きゆえに
こんにちは。
エントリー拝見して、「あらあら、、、」ビックリ。
そうかぁ〜〜〜
とにかく自分への語りかけという意で「ひらがな」で表記した文言が、縁になり、
愚樵さんによって、上のような深い内容に果を結んだのかと驚いています。
さてさて、このエントリー、仏教的見地としては「布施」。
命の布施ということになるのでしょうか?
「この子」が捧げてくれた命、有り難く頂く。
それ以上でもそれ以下でもない。
解釈は禁物!
これが仏教です。
ただ「ありのまま」。
如何なる解釈もたかだか人間がするもの。
と、いうことなのでしょうが、、、仏教では。
「不生不滅」と。
さて、と、言うことでエントリーの内容とは別にして、
私も貴方の記事から縁を頂き、
今日、赤染衛門と和泉式部について書きました。
最後の結びは、
迷い多き私に、そして愚樵さんに、との思いで書きました。
「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
今でも人口に膾炙されている和泉式部の歌。
好きなのです!
では、、またね!
エントリー拝見して、「あらあら、、、」ビックリ。
そうかぁ〜〜〜
とにかく自分への語りかけという意で「ひらがな」で表記した文言が、縁になり、
愚樵さんによって、上のような深い内容に果を結んだのかと驚いています。
さてさて、このエントリー、仏教的見地としては「布施」。
命の布施ということになるのでしょうか?
「この子」が捧げてくれた命、有り難く頂く。
それ以上でもそれ以下でもない。
解釈は禁物!
これが仏教です。
ただ「ありのまま」。
如何なる解釈もたかだか人間がするもの。
と、いうことなのでしょうが、、、仏教では。
「不生不滅」と。
さて、と、言うことでエントリーの内容とは別にして、
私も貴方の記事から縁を頂き、
今日、赤染衛門と和泉式部について書きました。
最後の結びは、
迷い多き私に、そして愚樵さんに、との思いで書きました。
「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」
今でも人口に膾炙されている和泉式部の歌。
好きなのです!
では、、またね!
愚礁さんこんにちは、初めてコメントさせていただきます。
生物は生物を食べることで、命をつなぐ様に設定されているのですから、
生命をいたぶるだけのために捕獲すると言う行為は、してはいけない行為なのではないかと思いますが、
食べる為の捕獲に罪悪感を持つ事は無いと私は思っています。
(それでも可哀相で煩悶するのが、人情であろうとは思いますが・・・・)
今から何年前だったか、記憶があいまいなのですが、
滋賀県は琵琶湖の生態系を守る為に、外来魚の駆除に力を入れようと、琵琶湖で釣った、ブラックバスなどの外来魚を、再び琵琶湖に返す事を、禁止する琵琶湖条令を作ろうとしたときのことです。
キャッチアンドリリースと称して、釣り同好会の人たちは、この条令に反対を唱えていると言う事が、滋賀県の新聞で報じられていました。
「自分達は趣味で釣りをするけれど、魚を殺したりはしない」というのが、彼らのポリシーなるものだったのでしょう。
生物として生物を食すのは、食べられる生物は可哀相であっても、生物の生まれながらのなの性ですから、人間には避けて通ることの出来ない事でしょう。
だから必要最小限のものを、感謝して食べると言うのが、生物として選べる最良の態度なのではないかと、私は考えていました。
食べるために釣りをすることは許されても、食べるためではなく、只楽しむだけのために釣りをして、それを又水に返すと言うのは許されざる行為であると思います。
再び水に戻してやると言うのは、一見優しそうに見えますが、これほど酷い残酷な遊びは無いとも言えるのではないでしょうか。
釣られる魚が、どれ程の恐怖を味わうか、痛い思いをするか。
それも生命共通の課題である、生命維持のためだったらまだしも、その後放してやるんだから、自分達は優しい人間であるなどと、臆面も無く思っているような人たちは、とんでもない考え違いをしていると思っていました。
まして琵琶湖の生態系を守る為に、協力してくださいと言う県の要望をはねつける根拠など、何処にももないと、私は呆れていたのでした。
その当時の釣り同好会の会長が、今の自民党幹事長、麻生太郎という人であると知ったときから、私は麻生太郎が大嫌いになりました。
琵琶湖を守る為の取り組みを、趣味の観点から反対すると言うだけでも、政治家としても失格者ではないかと思います。
生物は生物を食べることで、命をつなぐ様に設定されているのですから、
生命をいたぶるだけのために捕獲すると言う行為は、してはいけない行為なのではないかと思いますが、
食べる為の捕獲に罪悪感を持つ事は無いと私は思っています。
(それでも可哀相で煩悶するのが、人情であろうとは思いますが・・・・)
今から何年前だったか、記憶があいまいなのですが、
滋賀県は琵琶湖の生態系を守る為に、外来魚の駆除に力を入れようと、琵琶湖で釣った、ブラックバスなどの外来魚を、再び琵琶湖に返す事を、禁止する琵琶湖条令を作ろうとしたときのことです。
キャッチアンドリリースと称して、釣り同好会の人たちは、この条令に反対を唱えていると言う事が、滋賀県の新聞で報じられていました。
「自分達は趣味で釣りをするけれど、魚を殺したりはしない」というのが、彼らのポリシーなるものだったのでしょう。
生物として生物を食すのは、食べられる生物は可哀相であっても、生物の生まれながらのなの性ですから、人間には避けて通ることの出来ない事でしょう。
だから必要最小限のものを、感謝して食べると言うのが、生物として選べる最良の態度なのではないかと、私は考えていました。
食べるために釣りをすることは許されても、食べるためではなく、只楽しむだけのために釣りをして、それを又水に返すと言うのは許されざる行為であると思います。
再び水に戻してやると言うのは、一見優しそうに見えますが、これほど酷い残酷な遊びは無いとも言えるのではないでしょうか。
釣られる魚が、どれ程の恐怖を味わうか、痛い思いをするか。
それも生命共通の課題である、生命維持のためだったらまだしも、その後放してやるんだから、自分達は優しい人間であるなどと、臆面も無く思っているような人たちは、とんでもない考え違いをしていると思っていました。
まして琵琶湖の生態系を守る為に、協力してくださいと言う県の要望をはねつける根拠など、何処にももないと、私は呆れていたのでした。
その当時の釣り同好会の会長が、今の自民党幹事長、麻生太郎という人であると知ったときから、私は麻生太郎が大嫌いになりました。
琵琶湖を守る為の取り組みを、趣味の観点から反対すると言うだけでも、政治家としても失格者ではないかと思います。
思索をくすぐるなぁ
TB送るのにいちいちコメント欄ってのも不便だなぁ。
せっかくのコメント欄なので、ついでに横レスというわけではないのですが、
せとさん、こんにちは。
>解釈は禁物!
>如何なる解釈もたかだか人間がするもの
こういうの好きだけど、人間が人間として存在する根本的問題が〜〜とか、愚礁空論の存在価値が〜〜、などと思ってしまいました(笑)
わこさん、はじめまして
ボクはバサーでもなく、バスフィッシングを肯定するものでもないんですが、ちょっと思ったことを書いてしまいました。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200808/article_5.html
せっかくのコメント欄なので、ついでに横レスというわけではないのですが、
せとさん、こんにちは。
>解釈は禁物!
>如何なる解釈もたかだか人間がするもの
こういうの好きだけど、人間が人間として存在する根本的問題が〜〜とか、愚礁空論の存在価値が〜〜、などと思ってしまいました(笑)
わこさん、はじめまして
ボクはバサーでもなく、バスフィッシングを肯定するものでもないんですが、ちょっと思ったことを書いてしまいました。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200808/article_5.html
これはこのままに
たいへん貴重な記事を見せていただきました。下手に論じるよりも、このまま保存しておきたい気分です。いま読んでいる「戦争における人殺しの心理学」とも符合する部分が、多々ありました。
はじめまして・・・
はじめまして。
偶然通りかかり、立ち止まり、素通りすることができませんでした。
そこで、朝から重いなあと思いながらも、私のブログに掲載させていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/naha_2006/e/71fac68e953ac1d4f30570e0bc7f471a
黙っているのもどうなのかと思い、コメントさせていただきました。
勝手ながら、ご報告させていただきます。
ありがとうございました。
偶然通りかかり、立ち止まり、素通りすることができませんでした。
そこで、朝から重いなあと思いながらも、私のブログに掲載させていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/naha_2006/e/71fac68e953ac1d4f30570e0bc7f471a
黙っているのもどうなのかと思い、コメントさせていただきました。
勝手ながら、ご報告させていただきます。
ありがとうございました。
よろしくお願いいたします。
志村建世さんのブログでお名前拝見しておりました。
本日は、このペ−ジを読ませていただき、何か深い文学作品を読む思いで胸が騒ぎます。
私は朗読を少し齧っていますが、ご投稿の作品(としか今のところ言いようがありません)を、コピ−して、朗読の勉強会で使用するとか、またその上で、公の前で朗読発表することをお許し頂けますでしょうか。よろしくお願いいたします。
本日は、このペ−ジを読ませていただき、何か深い文学作品を読む思いで胸が騒ぎます。
私は朗読を少し齧っていますが、ご投稿の作品(としか今のところ言いようがありません)を、コピ−して、朗読の勉強会で使用するとか、またその上で、公の前で朗読発表することをお許し頂けますでしょうか。よろしくお願いいたします。
花てぼさん
どうぞ、どうぞ、ご自由にお使いくださいませ。
私の作品(?)は著作権フリーですので、どのようにお使いになられても結構です。花てぼさんのご都合に合わせて適当に改変していただいても、もちろんOKです。
私の文章を使ってみたいと思っていただいただけで、光栄です。
私の作品(?)は著作権フリーですので、どのようにお使いになられても結構です。花てぼさんのご都合に合わせて適当に改変していただいても、もちろんOKです。
私の文章を使ってみたいと思っていただいただけで、光栄です。
愚樵さん、お礼がおそくなりました。早速、プリントさせていただきました。ありがとうございました。
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疑問だらけの日航123便墜落事故調査(資料)
疑問だらけの事故調査 日航123便墜落事故
■日航123便事故の経過
1985年8月12日、日航123便(ボーイング747SR-100 JA8119)は18時12分、羽田空港滑走路15Lから離陸し、大阪に向かいました。
巡航高度24000ftに到達する直前の18時24分35秒、伊豆半島稲取港の東約4 沖
ヒトはなぜ戦争をするのか?
1931年に国際連盟がアインシュタインに依頼したこと・・「人間にとっても最も大事だと思われる問題をとりあげて。一番意見を交換したい...
疑問だらけの日航123便墜落事故調査(資料)
疑問だらけの事故調査 日航123便墜落事故
■日航123便事故の経過
1985年8月12日、日航123便(ボーイング747SR-100 JA8119)は18時12分、羽田空港滑走路15Lから離陸し、大阪に向かいました。
巡航高度24000ftに到達する直前の18時24分35秒、伊豆半島稲取港の東約4 沖
泡瀬干潟関連NEWS (8/16)
泡瀬干潟座り込み現場に大きな変化なし、引き続き続行中です。今日の青山でのトークイベント&スライドショーの様子です。とみんぐさんのレポート「行ってきました」もぜひご一読を!写真展「救え・沖縄泡瀬干潟とサンゴ礁の海写真展のお知らせ」は8/20(水)までです(17・1
養成工、青年学校、航空隊、紡績工場、結核、それに志願(兵)……そんな青春
昨日15日はお墓詣りと夫の叔父や叔母のこれからの生活の参考にと、さるグループホーム(宅老所)の見学に行っていたので、今日は朝から昨日作...
ピザと親方、日本とナイジェリア その1
「美味しんぼ」、という有名な漫画があります。
その中の「ピザの横綱」というエピソードが、読んだときにどうにも気に入りませんでした。
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キャッチアンドリリースに対する嫌悪感を反省してみる
久し振りに、愚樵さんのブログを見て、こちらのエントリー「キャッチ&リリース」…ワンステップ上の余裕 を知りました。(そこで、 dr.stonefly...
泡瀬干潟の状況(8/18)
座り込み現場に大きな変化なし。詳細は8/15-16座り込み報告5(by 泡瀬干潟を守る連絡会)をご覧ください。泡瀬干潟を守る連絡会が、現在座り込みを行っている場所に対して申請していた道路占用許可申請書に対し「道路占用不許可通知書」が来ました。また、沖縄警察署・生活
タリバン・ショック
2008/07/14
13日、アフガン:米兵10人死亡
武装勢力が攻撃、過去最大級
アフガニスタンに駐留する北大西洋条約機構(NATO)指揮下の国際治安支援部隊(ISAF)は13日、北東部クナール州の前線基地が同日、武装勢力の攻撃を受けて戦闘になり、ISAFの兵士9人が死亡したと発
ポツダム共同宣言
ポツダム宣言は,1945年7月26日のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦(太平洋戦争)に関する13条から成る勧告の宣言。
宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。...
北朝鮮との国交回復?!
先日、アメリカ合衆国政府は、イランに利益代表部を設置する決定を下した。アメリカとイランは、テヘランの米国大使館占拠事件後に国交を断...
泡瀬干潟・座り込み解除のお知らせ(8/25まで)
8/4(月)早朝5時から始めた泡瀬干潟の座り込みは25日を持って解除することになりました。座り込みをさまざまな形でご支援いただいた方々、本当にどうもありがとうございました。署名は8/31まで(文末)ですのでこちらの方は引き続きお願い致します。また泡瀬干潟を守る連
心に響くうた・・・「手紙」 byアンジェラ・アキ
毎日、イヤ〜なニュースばかりで・・・
なんとか自力で爽やかな気分にするのも、ほんと大変だわ。
夏は好きだけど、ただでさえ暑苦しいんだ...
オリンピック と 戦争
これ、人類最大の疑問かもしれません。
なかなか明快な答えはないし、大変ですね〜。
お玉さんしかレフリーはできないかも?^^;
興味が...
燃料高騰・物価上昇・景気減速そして『一斉休漁』
昨年末から急激な経済減速感が漂い、新聞紙上は「サブプライム問題」とそれの影響を書きたてている。
・「エビ不振の1年 安値でも需要鈍く」(日経新聞07年12月)・・「豊かさの指標」であったエビの輸入量が昨年大幅に減り、相場も低迷している。家庭用を中心に消費
高知白バイ衝突死、警察の捏造冤罪事件の実刑確定
高知県春野町(現高知市)で2006年、スクールバスに高知県警交通機動隊の白バイが衝突し男性隊員=当時(26)=が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われたバスの元運転手片岡晴彦被告(54)の上告について、最高裁第2小法廷(津野修裁判長)は22日までに、...
ピザと親方、日本とナイジェリア(その3) ンゼへの手紙(その1)
ンゼよ、久しぶりだな。
元気にしてるか。
時の経つのは早いもんで、もうあれから20ウン年にもなるんだな。
俺はなんとかやっているよ。...
泡瀬干潟関連NEWS (8/16) 【追記あり】
泡瀬干潟座り込み現場に大きな変化なし、引き続き続行中です。【追記】◇こあらいふさんの「泡瀬・座り込み、16日の報告」◇shinakoさんのレポート「家族が増えました」もご覧ください◇泡瀬干潟を守る連絡会は15日付けで、テントなどを撤去するよう沖縄市役所から「警
ビジテリアン大祭から賢治をちょっとだけ見ると、、、
9月の初めともなるとベジタリアンウィーク(9月2日から18日まで)。 「私は昨年




>矛盾を矛盾のままにしておくこと
それは精神的にタフじゃないと無理なんでしょうね。
白黒はっきりつけて、一方を切り捨てた方が楽だから。
でも、そうした矛盾を長く抱えることでしか見えてこないものもあると思っています。