愚慫空論

まとまりがないエントリー

前々回、『「絆」の光と影』という記事を書いたのだが、続きを書かねばならないという強迫観念にも似た感覚をなぜか持っている。おそらくこの感覚は当記事を書き上げてもなくならないだろう、テーマがテーマなだけに、そう簡単に一丁あがりとはいかなかろう。まあしかし、強迫観念を少しでも和らげるためには、書くしかあるまい。

で、どのように書こうかと思いあぐねて、またまた私が良く使う「自然」という言葉で括ってみようかとも思ったのだけど、どうもしっくりといかない。それで「意識」「無意識」あたりがキーワードになるかなぁ、とボンヤリ考えていた。意識上の理性が概念に輪郭を与え、その輪郭が無意識上に影を落とす。これが情動となって湧き上がってくる。これを愛国心に当てはめて...、なんて思いを巡らしているうちに、ふと、こういった思考は以前どこかで読んだ記憶がある、と気がついた。

探してみました、ScrapBookの中から。
アルバイシンの丘さんの6月17日のエントリー。『情動と合理性-今日の毎日新聞から-』
アルバイシンの丘さんのこの記事を再読してみて、こりゃ一丁あがりかな、と思ったのだけど、そうもいくまい。少し「自分の言葉」を付け加えてみることにする。

「靖国や愛国心をめぐる一連の動きは『神』の復権によって問題解決を図ろうという心性が基底にあるように見える」
 「だが,それが排除の論理に支えられたものである限り,押し付けと他者の抑圧というかつてと同じ轍を踏む.それを避けるには『他者への共感』を伴う形で人知を超えた存在への畏敬を取り戻すしかない.」

この文章は、毎日新聞に掲載された鶴見和子氏のもの。アルバイシンの丘さんのこの日の記事は、鶴見さんの文章が下敷きになっている。

『神』の復権。私は神はすでにこの日本において復権していると考えている。その神とは、国家神道の神=天皇ではない。「カネ」という名の神である。新自由主義とは、「カネ」という名の神を絶対神・超越神として奉る宗教のことだ(このあたりは晴耕雨読さんの記事が詳しい)。

現在のウヨクの思想とは、私の理解では、現在日本の地に君臨しつつある神の座に、もう一度日本の「伝統的な」神をつけようとするものだ。伝統的と彼らは言うが、この伝統はたかだか明治以降のものでしかない。明治の元勲が西洋列強に対抗する機軸として導入した、天皇教、日本本来の八百万の神々を天皇という最高神のもとに人為的に再構築した宗教だ。

新自由主義も、国家神道も、その一神教的性格からいずれも排除の論理構造を内包する。最高神に帰依しない者はネグレクトされてしまうのである。

こうしたネグレクトに反対する左翼の側にも、ともすれば排除の論理が働いてしまう。左翼の場合、これは物事を主知的に物事を把握しようとするところからくるのではないかと思う。
この主知的とは鶴見和子氏の言葉で言えば、「四角い言葉」ということになろうか。(「四角い言葉」は、「T.N.君の日記」さんによるUnder The Sunへの投稿コラムで触れらおり、同時に「四角い言葉」の限界についても言及されている)。

『他者への共感』を伴う形で人知を超えた存在への畏敬。この畏敬の念へ至る道筋を内発的発展」というのであろう。

生命は自然と一体であり、人間もまた自然とともに生きあっており、自然・宇宙との一体化(アイデンティフィケーション)により永遠性、連続性が生まれます...

「内発性」とは「民衆の魂の中にある力」であり、かつ近代の知と対立するものではなく、両者が纏っていくものであるということ...

内発的発展は、南方熊楠曼荼羅の「萃(すい)点」なのだと鶴見さんは言います... 個人、集団、地域、そしてより大きな集団が内発的発展を遂げ、なおかつ共生していく社会を形成していく上で、キーとな るプロセス・モデルが、南方曼荼羅の「すい点」なのだと言います...
「T.N.君の日記」さんによるUnder The Sunへの投稿コラムより)

「自分の言葉」を付け加えるなんて言いながら、他人様の言葉ばかり付け加えてしまったが、ついでとばかりに、別の方の言葉も付け加えさせていただく。
「橋本 裕の日記」 10月1日の記事 『自我愛と
自己愛より

フロイトは人間の心は意識的な部分と無意識的な部分からできていると考えた。そして「自我(エゴ)」というのは、このうちで意識的な部分の中心である。 人はみな自我をもち、これによって現実を認識し、さまざまな行動を起こし、現実に適応している。しかし、自我は心のすべてではない。たんに意識的な部分の 中心でしかない。

ユングによれば私たちの心の意識的な部分と無意識的な部分もふくめて、その中心に位置する存在として「自己(セルフ)」がある。つまり自我ではなく自己こそが、無意識的な領域もふくめた私たちの心のほんとうの中心だというわけである。

 自我がつねに現実的な自分の立場にたち、利己的で打算的な傾向をもっているのに対して、自己は自我の枠をも越えた大きさと深さをもっている。自己は自我の 偏狭さを乗り越え、外的現実性以外の内的現実性も受け容れて、精神内界のイメージや情緒の意味を読み取ろうとする。そして意識と無意識を統合して、より豊 かな精神世界に生きようとするわけだ。
(この記事にはまた、すばらしい詩が掲載されている。ぜひともごらんあれ。)

「内発的発展」の末に獲得するのが「自己愛」ということになろうか。

「他者への共感」「絆」と言い換えることが出来よう。「絆」は、人の心の深層、つまり無意識的領域に働きかける。だから人を突き動かす情動となる。「絆」に支えられた人の心は「内発的発展」を遂げ、自我の枠をも越えた大きさと深さをもつ「自己愛」へと至る。

「自己愛」には影はない。「自我」という輪郭を越え、家族、集団、地域、国、人類、自然、宇宙へと果てしなく自己を広げていくからである。
だが何らかの原因で「絆」が不足すると「自我愛」に陥る。そしてこちらには影が伴うことになる。この影が情動を歪んだものにしてしまう。

*****************************

まとまりのつかない文章になってしまいました。この後、「自己愛」および「自我愛」と愛国心との関係を考えてみようと思っていましたが、収拾がつきそうにないので、当記事は一旦切り上げて仕切りなおすことにします。

やっぱり書き続けるのか。はあ、しんど。



コメント

初めまして

よろしくお願いします。
実は、いつも興味深く拝見させていただいております (^o^)。
最近全然更新されないな~と思っていましたら、新しいところに移ってらしたんですね。

>「他者への共感」は「絆」と言い換えることが出来よう。「絆」は、人の心の深層、つまり無意識的領域に働きかける。だから人を突き動かす情動となる。
<
同感です。
そして、だからこそ難しい問題だと感じています。

「共感・絆」を実感したときに、それが「自分がただ自分の感覚の側で、そうだと感じているだけなのではないのか?」という問題、
言葉を換えれば、「相手からは同様には実感されていないのではないのか?」ということがあるのではないかと思うのです。

さらに、もっと引いたところから言えば、そういう自分の側の感覚や相手の側の感覚だけではないところで、その「共感・絆」が成り立っていることがあったりするわけですよね。

自分が現在実感しているものが、そのどれにアクセスしている結果なのかというあたりが、非常に微妙であると思うし、もちろんそのいくつかの複合ということもあるでしょう。

その場合、こちらが意図している「共感・絆」と相手のそれとが、乖離してしまうということが出てきますよね。
「情動が湧き起こる」ということと「それをどう解釈するか」ということとは、どうしても別問題になってしまいますから。

そこがいつも悩ましいなぁとか思っているんです。
長々とすみません。

アキラさん、ようこそ。

はてなの方を訪問してくださっていたのですね。私はかなりいい加減な性格で、あちらのほうもこちらと同様に更新しようと思ってはいたのですが、面倒くさいので放置してしまっています。

こちらへ移った旨、表示すべきなんでしょうが...。 でも、あちらはあちらで別の使い道を考え中ということもあって、もうしばらく放置しようかと。さほど読者もいなかろうと安易に考えていたのですが、大変申し訳ないことをしました。お詫び申し上げます。

さて、アキラさんのおっしゃることですが、よ~くわかります。「絆」が「すれ違いではないか?」という問題ですよね。

確かに「他人と共感する」といったって、所詮はわが身ならぬ他人のこと、心の奥の底まではわかりませんから、「絆」の実感もすれ違いではないかという疑いを捨てることはなかなか難しいかもしれません。

私は最近、これは「理性の落とし穴」といったものではないかと考えるようになってきました。「絆」なんてものを理性で捉えようとすることが、実は誤りではないのか、と。

「絆」は無意識の領域に働きかける。その一部が意識上に湧き上がってきて、それを理性が捉えて「解釈」しますが、その解釈はその人それぞれです。これはその人の感性やそれまでに蓄積してきた知識体系に左右されますから。
ですが、意識の上に現れてこない「絆」の本体、こちらは変わらないのではないか。そんな風に考えています。

こんなことが事実かどうか、客観的に判断することなど不可能です。ただ、そうではないか、そうだといいな、と思っているだけなのですが。

あ、あっちはあっちですか

dr.stoneflyさんへのTBがなかったら、きっとわたしは路頭に迷ってましたよ (^o^)。

>意識の上に現れてこない「絆」の本体、こちらは変わらないのではないか。そんな風に考えています。
こんなことが事実かどうか、客観的に判断することなど不可能です。ただ、そうではないか、そうだといいな、と思っているだけなのですが。
<
なるほど、なるほど。
これまた同感です。
しかしそうなると、やっぱりますますblog上においてはハードルが高くなりますね (^o^)。

今後もよろしくお願いします。
楽しみにしています♪

あ、すみません

もう一つだけ、ちょっとお伺いしてみたいことがあります。
「自己愛」とされていることに絡んでなんですが。
「T.N.君の日記」さんによるUnder The Sunへの投稿コラムにて、免疫系うんぬんの話が出ています。
わたしは、これがいいモデルだと感じているのですが、生体においてはアポトーシスによって「自己組織化」がはかられ、免疫系統が「自己」と「非自己」とを峻別することによって、「自己」を成り立たせていますよね。

このへんの一連の「自己」を組織し保つ動きによって、やはり同じように「(人々の)まとまり」もまとまりたり得ているように、わたしは思うのです。

>「自己愛」には影はない。「自我」という輪郭を越え、家族、集団、地域、国、人類、自然、宇宙へと果てしなく自己を広げていくからである。
<
このへんの感じと、上記の免疫系的な感じとは、愚樵さんの中ではどのような関わり合いと言いましょうか、受け止め方と言いましょうか・・・をなさっていますか?

単純にフと想うと、わたしなどは免疫不全のエイズのような状況を想像してしまうのですが・・・。

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