愚慫空論

信頼が信用に解体される(1)

確かTV東京系列の番組に『開運、なんでも鑑定団』という娯楽番組があった。いや、つい“あった”と書いてしまったが、これは私が最近はまったく視なくなったので。正確には、“『開運、なんでも鑑定団』という娯楽番組がある”。長らく続いている番組だし、視聴率もそれなりにあるのだろう。ご存知の方も多いと思う。

私自身はこの番組を見なくなってから久しいが、いつかブログのネタにこの番組は取り上げてやろうと思っていた。様々な人が番組に持ち込んでくる“お宝”を“鑑定”するという行為がなぜ大衆の娯楽になるのか、“お宝鑑定”を娯楽として受け入れる大衆心理と「近代」という思潮との間には深い関連性があると感じていたので。今回そのネタを「信頼と信用」という切り口で料理してみたいと思う。


本題に入る前に、他所さんの記事をいくつか紹介する。まず、最近お邪魔するようになったquine10さんの「不定期更新 思索日記(時々戯れ)」から、そのタイトルもズバリ『「信頼」と「信用」』。何を隠そう、今回の切り口はこの記事から拝借した。

quine10さんは、信頼と信用の違いについて

「信用」はまず、限定的な領域でのその人(や組織)の「信じられやすさ(蓋然性)」あるいは「どの程度信じてよいか(期待値)」、を表すと考えられます。

それに対して、「信頼」は非限定的であるように思われます。非限定的であるがゆえに、断定的に述べるのは難しいが、それは例えば、「人間性」ということばで表現できるかもしれない。

という具合に述べておられるが、私も同感。また私は、当記事のコメント欄に

友人に金を貸すときはあげるつもりで貸せ、といいますが、これが信頼でしょうね。対して、こいつの親は金持ちだから、金を貸しても親から回収できるだろう...、これが信用。

と記入したが、これに対してquine10さんは

少し補足させていただくなら、あげるつもりで貸せる友人にのみ貸せ、と表現してもいいかも知れません(そのような友人が真の友人である)

と返事をくださったが、このやりとりからも信頼と信用の違いが見える。quine10さんは「信用」を限定的で「信頼」を非限定的としたが、別の面から見ると「信用」が非限定的で「信頼」が限定的と見ることも出来る。「信用」は対象となる領域は限定的だが、信用する者とされる者の関係性は非限定的。対して「信頼」の対象は非限定的だが信頼するものとされる者の関係は限定的。「信用」は客観的、「信頼」は主観的、ともいえるだろう。


さて、そのquine10さんからは、『ちょっとした衝撃』というエントリーも紹介させていただく。この記事は、小泉前首相批判の急先鋒として知られている天木直人氏が、氏のブログで批判対象の小泉前首相を持ち上げたかにも読めるエントリー(『今こそ小泉元首相の出番ではないのか』)を上げ、その直後に前エントリーの真意を説明するエントリー(『「今こそ小泉元首相の出番ではないのか」の真意について』)をあげたこと(あげなければならなかったこと)への違和感を表明したもの。天木氏が事後説明エントリーをあげなければならなかったのは、小泉前首相を持ち上げたかのような表現の意図を汲み取ることが出来ず、その表現を天木氏の変節と受け取って批判した者が少なからずいたらしいことが原因のようだ。

このことも、「信頼と信用」という切り口で眺めることができよう。『今こそ小泉元首相の出番ではないのか』のエントリーは、それまでの天木氏の小泉批判を信頼しているものにとっては、天木氏が次のエントリーで述べているごとく“最大級の小泉批判”、つまり皮肉であったことはすぐ了解できるのだが、天木氏の小泉批判の文言を信用していた者にとっては、小泉前首相の再登板を希望するかのような記述はそのように受け取れなかった。天木直人という人物そのものへの「信頼」と、天木直人なる人物が吐き出す表現への「信用」。

「信頼」と「信用」の関係は、創発という観念を使って言うと、「信用」が創発されたものが「信頼」だということが出来よう。ふつう人間は、特定の人物の表現が「信用」に足るものだと感じ、その印象が積み重なると単なる「信用」の集合から創発して「信頼」に格上げするものなのだが、いくつ「信用」を積み重ねても「信頼」を醸成しない者が多数いるとしたなら、それは確かに“ちょっとした衝撃”だ。


もう一つ、他所様の記事を紹介させてもらおう。今度は「非国民通信」さん『食品に限りませんが』というエントリー。

“食品に限らない”ということは、その前に食品について何かがあったわけなのだけれど、その何かとは、飛騨牛の偽装表示事件(うなぎの偽装ですっかりマスコミに取り上げられなくなったが)。“「おいしい肉」信じてたのに”と 憤る客、同業者らに、ちょっと違うんでないかい、と疑問を呈した記事である。

非国民さんは言う。

「安くて美味しい」肉を求めていたのなら、別に欺されてはいません。

その通りだろう。けれど、社会は間違いなく騙されたと感じた。そういう社会に対して、非国民さんは、

ブランドという他人が作り上げた基準でモノを評価するのではなく、自分の考えでモノを評価する、そういう社会であればこの手の偽装は意味を失いますし、そうなるべきなのです。それはもちろん、食品に限らないことですが――。

と主張するが、この主張もまた、内容は「信頼と信用」である。非国民さんは、他人が作り上げた基準――客観的――な「信用」よりも、自分の考えでモノを評価する――主観的――「信頼」が重視される社会の方が、社会のあり方として望ましいものだと考えておられるようだし、私もそこには賛同する。


しかし。その考えとは裏腹に、日本の社会は「信頼」よりも「信用」を重視する方向へ、ますます傾きつつあるように見える。『開運! なんでも鑑定団』は、日本社会のそうした傾き具合を象徴するものではないか――。

と、ここから本題だが、この続きはまた後で。

コメント

トラックバックありがとうございます。
おまけにエントリーのご紹介まで頂いて。
信頼と信用について、その対象となる人物の限定性(限定的=信用、非限定的=信頼)については、全く思い至りませんでした。目を開かせられた思いです。
こういうのを創発的コミュニケーションというのでしょうか?

信頼については僕もまたエントリーを上げるつもりですので、書き上げたらトラックバックさせていただきます。
続きも楽しみにしています。
では。

間違えました

対象となる人物(関係する者)の限定性は「限定的=信頼、非限定的=信用」でした。
訂正いたします。
以後はパスワードを入れて編集可能にします。

『信用』をどれほど積み重ねても『信頼』に至らない

その場合の『信用』は、質的な内実を伴わないような気がします。
例えば、ある美術品が幾らの資産価値を有するか?という信用度は、明確に数値化される。その数値が現在の市場で通用したなら、数値の信用度は高まる。
文化も芸術も人間性も、投資対象として価値が量られる時代です。
逆に言えば、投資の対象にならないものは価値がないと見なされる。
これも客観的価値観ですね。
数値の出ない『質の高さ』などに誰も興味を持たない。
信用を積み重ねた先に見えてくる『信頼』などというあやふやなものには、とても投資できないという訳でしょう。
今や芸術に質的相違などなく、あるのは『好き』か『嫌い』かだけです。
誰も質を問わない時代だからこそ、わたしはあえて『質』を問いたい。そう考えています。

安全と安心

前にアンダーザサンのコラムで「安全と安心」というのを書きました。
http://utshome.exblog.jp/7752956/
まさに「安全」は「信用」で、「安心」は「信頼」であると思います。
あるいはこの記事にあるように、信用は科学で、信頼は宗教である、という言い方もできるかもしれません。

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