愚慫空論

多種多様な幸せ(3)

豊かになったのに、バラバラになってしまった。前回は、そんな話をしたお婆さんのことを取り上げました。このお婆さんの意見は具体的な事実の指摘を伴ったものではありませんでしたが、そういわれると、私自身にも腑に落ちるものがありました。これは見聞きした話ではなく、私自身が体験したことの中で感じたことです。今回は、そのことを取り上げます。

豊かなのにバラバラというと普通は都会のことを思い浮かべてしまいます。が、これは私自身が体験した話ですので田舎の話。田舎に移り住んでからの話。今でも田舎は都会よりもはるかに人と人との繋がりが濃密なところですが、それでもある分野に限っていうと、もしかしたら都会よりもずっとバラバラになってしまっているかもしれないようなところもあるんです。それは、昔に比べてずっと豊かになって便利になった分野。コメ作りなんです。


私たち夫婦が田舎暮らしを始めた頃、その野望の中には自分たちの食べるコメは自分で作りたいというのもありました。その野望は今でも抱えてはいますが、しかし未だ野望のまま。実現できていません。

移り住んで着てすぐの頃は、その野望は容易に実現可能なように思えました。幾人もの人から田んぼを借りてみないか、という誘いがあった。「もうオレも年で田んぼもエライから、アンタ、やるならオレの田んぼを貸してやるよ」といった具合で。

もちろん、私は最初は乗り気になって、稲作作りを真剣に検討しました。なにせ野望ですから。実現しそうに思えたのですから。周囲にいろいろ相談もし、周囲の人たちも親身に相談に乗ってくれた。さすがは人の繋がりの濃い田舎だと思ったものです。しかし、思いもよらない壁があった。それが農業機械の問題です。

稲作をするには、いろいろと機械が必要です。まず、田起こしをするための耕耘機。それから田植え機。収穫時に稲刈り機、脱穀機。田植えは手植え、刈り取りも手刈りで出来なくはないにしても、田起こしと脱穀は機械なしでは、とてもとても。それに耕耘機は小さな機械では間に合わない。田んぼという条件から、かなり本格的なものでないと役に立たない。実際に稲作を始めるとなると、どうしてもこれらの機械を購入しなければならないことがわかったんです。

恥ずかしい話ですが、私はこうした機械も貸してもらえるものだと気軽に考えていました。それまでの様子から貸してくれないものとは考えていませんでした。無論、使用料も支払うつもりでしたし。ところが、これは甘い考えだったんです。田んぼは気軽に貸してくれても、機械はそうはいかない。田んぼをする人はみんな持ってるんです。今まで耕作していた田んぼの一部を私に貸してくれるというのですから、その機械力に余剰は出るはずなのに、それでも機械は他人には貸さないものという暗黙のルールが存在した。

私にはなぜそんなルールが存在するのか不思議でしたが、そうしたルールは厳として存在していました。私たちはそのルールの壁を破れず、また機械を購入するという金銭的な壁を破れず、野望は打ち砕かれてしまいました。本格的に農業をするならともかく、たかだか2反歩ほどの田んぼを耕作するのに数十万円の投資するはできなかった。どうしてもコメ作りへの憧れを勘定に入れても、勘定は合わないと判断せざるをえなかったんです。


なぜそんなルールが存在するのか? 田舎で生活するうち、その理由が徐々に見えてきたような気がしています。

コメ作りは大変な重労働です。とはいえその重労働の時期、農繁期は限られていて、田植えの時期と刈入れの時期、この2つです。農業機械が普及する以前、農繁期の大変な労働は、地域の共同作業で乗り切っていました。例えば田植えなら、今日はだれだれさんの田んぼ、明日はこれこれさんの田んぼという具合に、地域ごとに順番を決めて共同で作業を行った。こうした相互扶助の制度を結(ゆい)と呼んだりしますが、これは理に適ったことでもあり、かつての日本には広く存在していた制度でした。もちろん私が移り住んだところにもあったでしょう。
そうしたところへ農業機械が導入されます。機械の効率性は圧倒的で、それまで人力のみで行っていたのでは地域共同で作業をしなければ間に合わなかったものが、機械の力を頼ればそれぞれの家族単位の労働力で間に合うようになる。そして結(ゆい)といった相互扶助の制度も消滅していった...。

これは典型的な「近代化→共同体崩壊」の図式です。実際その通りのことが起こったんでしょうが、けれど、これだけでは農業機械は貸さないという暗黙のルールが成立してしまうには、弱いような気がします。

農業機械は高価で、その上、すぐに故障するし耐用年数も短い。ローンを組んで機械を購入したはいいが、代金を払い終わるか終わらないかのうちに機械がダメになり、また新たにローンを組んで機械を購入、なんてことはザラにあります。そんな高価な機械だから、他人に貸すのは躊躇される...、そんな事情もあるでしょうが、けれど、それならそれで、なぜ、機械を導入する際に一軒一軒バラバラで購入することになったのか? という疑問も出てきます。機械の導入が始まった頃にはまだ相互扶助の制度は息づいていたのだから、その制度を生かしたまま共同で高価な機械を購入して運用すればより効率的に水田の経営は出来たはずで、こちらの方が一軒一軒高価な機械を所有するよりも明らかに合理的な選択です。でも、その選択はしなかった。不合理な選択をしたわけです。

この選択の背後には、農業機械を購入させようとする勢力の思惑もあったでしょう。メーカーや農協のような組織ですね。彼らにとってはより多くの機械を販売することが利益になりますから、地域の人々にバラバラに機械を購入させることが合理的です。しかし、彼らの合理的判断と地域の人々との合理的判断は異なるはずなのに、そして判断の権利は地域の人々が握っているのに、メーカー側にとって合理的な判断が下されてしまいました。少し考えてみればおかしな話ですが、現実にはそうなっている。この理由はなんなのか?

これはおそらく、自由への憧れだったのだろうと思うんです。一軒一軒所有すれば、それだけ自由になります。共同所有が合理的だといっても、共同であることは制限されることでもある。しかし、自分で機械を所有していれば、自分の都合のよいときに農作業を済ませることが出来る。この自由が実現されることを幸せだと感じたのでしょう。合理的判断と引き換えに、自由という幸せを手に入れjた。

実際のところ、この自由という幸せは手に入れてみるとなかなか手放しがたいもののようです。また私の体験談をお話しますと、暗黙のルールの存在で野望が費えたように思えた私ですが、実はこのルールの存在がトドメではなかったんです。当時、私と同じように他所から移り住んできて、同じような野望を持っていた者たちが幾人もいた。この者たちと協力して機械を共同所有すれば、野望の実現は不可能でもなさそうに思えました。上でも述べたとおり機械の共同所有は合理的な判断ですし。しかし、ここでも壁はやはり自由でした。他の者たちは「そこまでして、やりたくない」と言ったんです。これがトドメでした。合理的判断より自由が優先するんです。


この自由優先の風潮は『ロスジェネ』からも強く窺えるように思います。とにかく、自由が最優先事項のように思えてならない。「ネットカフェ難民」といった現象が話題に上ったときにも奇異に思ったものです。

経済的事情で、都会の中に自分だけの空間が確保できなくなる。こうした経済状況に陥る人が多数出ることが芳しくないのは言うまでもありませんが、奇異に思うのは、自分の空間を維持できなくなることが、なぜ「難民」に直結してしまうのかということです。少し前までは、ネットカフェのような場所もなかったこともありますが、そんな場所へ直行しなかったはずです。居候という言葉がありますが、実際、そういう人も少なからずいたわけで、実は私にもそういう体験はあります。それが普通だったのだろうと思います。それが今、普通ではなくなってしまっているのではないでしょうか?

自由と物質的豊かさとは、比例の関係にあると言ってよいかと思います。農業機械を個別に所有できる豊かさは、共同体からの自由をもたらしました。その自由の象徴がお金(貨幣)です。お金持ちであればあるほど、選択の幅、つまり自由を持つことが出来る。だから皆、お金を欲する。「生きさせろ!」などと一部の者は叫んでいますが、私がこの主張に共感できない部分があるのは、生存を求めている以前に自由を求めているのではないのかと感じるからです。高齢や身体上のハンディキャップのために周囲から援助が必要な者は別ですが、十分に働くことが出来さえすれば自由は制限されても生存は可能なはずです。今は、自由の制限というと隷属としか判断できず、自由が制限された中にも幸せはあるのだということがわからないようなのですね。現在の格差社会の根源は、幸せ-自由-貨幣という一元的な価値観にあるのだと私は思えて仕方がありません。そこが昔の貧しかったがゆえの格差社会と、現在の豊かな格差社会との大きな違いでしょう。


そういえば農業機械を貸さないという暗黙のルールが成立した理由について、書いていませんでした。これは田舎ではまだ、自由への後ろめたさがあるからだと私は理解しています。農業機械は、田舎の人には自由の象徴的存在です。現在もそうだとはいえないと思いますが、少なくとも一時期はそういう期間があったように思う。しかし、そういう自由にまだどこか後ろめたさを感じている。後ろめたさを感じつつも手放せない自由。だからこそ、このルールは暗黙のルールなんです。



追記:

前回のエントリーにいただいた、ケネーさんご紹介の動画のリンクを貼り付けておきます。大変参考になるので、ぜひご覧になってください。

懐かしい未来 ラダックから学ぶ

http://video.google.com/videoplay?docid=-4214494592228465878&hl=en
http://video.google.com/videoplay?docid=1627395735754728217&hl=en

動画は前・後編に分かれて、合わせて約1時間です。


コメント

>農業機械を個別に所有

米の品質評価の等級が数日の収穫日の違いで変わってしまうことと、昔は自主流通米が認められていなかったことが関係していたと思います。年収に直結するので。

西欧文明の厄介さ1

 愚樵様、温かいお言葉有り難うございます。当記事を拝読させていただき、前回の私のコメントは余計だったかなと感じております。
 HNはご推察の通りです。ただ、フランソワ・ケネーに関しても、内山節氏の著作で知り、その後少し調べたくらいなので、彼の思想に物凄く影響を受けているとか、体現しているなどと言うことではありません。
 花ブナ様のブログに投稿するにあたり、都合良く名前を拝借したと言うのが本当のところです。

 話を本題にうつしまして、
 近代化、西欧化の厄介な点は、それ自体にかなりの合理性や恩恵があることでしょうね。利便性だったり、多様性の獲得であったりと。しかし、これらの恩恵は短いスパンで見ると大変魅力的であり有益であったりするのですが、多少長いスパンで見るとそれ程魅力的でもなく、有用でも無くなったりします。麻薬のようなもので、人間を魅惑する力が強く、依存性もかなり高い。

 今回の「結」の消滅の話や、農業機械の話も、根本には近代化にともない共同体(共同性)の必要性が基本的には無くなった事が原因でしょう。しっかり意識したり、その弊害を認識していれば対応もまた違うのでしょうが、「結」や共同作業の必要性が原理的にいらなくなれば、人というのは無理をしてまで自由を放棄しないのでしょう。これが合理性の恐ろしいところです。
 「結」や共同作業がが行われたのは、共同体を維持していく上で、それが原理的に必要であったから。ただ、その仕組みが社会の安定や人々の安心感も担保してくれていた、と言う事がここ最近まで分からなかった。直感的に警告を放つ人がいたとしても、重大な問題だとは認識されなかった。

 西欧化や近代化の弊害、狡猾さというのは、
 早雲様のブログ晴耕雨読の記事、『西欧文明の常識』全般を読んでいただければ、詳しく分かると思います。特に今回の記事では、
  第一章 資本主義の常識
   「資本主義の弱者は悲惨である」
   「資本主義で搾取する手口」

 がとても参考になるかと思います。ここに伝統社会が、不安定な社会へと転落していく仕組みが良く書かれています。詳細は譲りますが、問題は利便性や多様性(この二つを合わせて「自由」と言っても良いかと思います)と引き替えに、生活(生きる事)の基盤である衣食住の術を明け渡してしまったことがなのでしょう。この為に魂を握られてしまいました。
 西欧化するまでの社会は、共同体と言う狭い輪で生活する上での必要最小限のものは、しっかりと満たすことができました。しかし、それを権力者、支配者に明け渡してしまった為に、後は権力者側の思うが儘。彼等のシステムに組み込まれなければ生きていけなくなりました。
 そうなれば、後は操縦されるがままに生きるしかない。時代が変わったと言われ、今まで続けて来た職を廃業しなければならなくなるし、技術革新の為と言われリストラされる。
 工業国の変遷を見ても、英国から始まり米国→日本、独逸→中国→ベトナムと国でさえ搾取(利益)の為なら使い捨てられるシステムです。

西欧文明の厄介さ2

 確かに私たちが思慮無く魂を売り渡してしまった事にも問題はありますが、彼等がとても狡猾で戦略的であったと言う酌量すべき点もある。戦略を駆使して搾取するシステムと、勤勉で共存共栄を望むシステムでは、後者がつけ込まれてしまうのもある意味仕方がない。
 要はその弊害に気付いた時から、どう対処をし始めるかが問題なのだと思います。江戸時代に戻すのは無理でしょうが、少なくとも日本型資本主義システムをもう一度検討し直すくらいはするべきなのではないのか。そして、そこから持続可能で、安定のある社会の構築と言うのを目指すべきでしょう。
 ただ、最近では先進国(西欧)対発展途上国(その他の国々)と言う搾取の対抗軸からグローバリスト(権力者、勝ち組)対大衆(負け組)と言う軸に移行していますので、搾取の手口もより複雑に巧妙になって来ているのが厄介ですね。
 それでも日本は地理的、気候的条件や、文化、文明的条件としては恵まれている方で、日本的資本主義を作り出したことから考えても、何とか対応していけるのではないかと思います。

 ラダックの動画で興味深かったのは、ラダックも閉じた共同体の中で豊かな生活を享受しつつも、人口的にはその土地で養えるだけの数で、ずっと推移していた事ですね。これは江戸時代と同じですね。文化的、共同体的基盤がしっかりしていれば、持続可能な安定した社会を実現することは不可能ではないのです。
 それが、徹底的に文化(文明)や共同体を破壊された、アフリカやインドや中国では人口爆発が大問題になっています。
 それを考えると文化(文明)と共同体それに自然(国土)は確りと守っていかなければ行けないでしょうね。

>西洋文明の、特に科学技術における成果は認めるものの、その代償として支払ったものはあまりにも大きいと思います(なんてことを科学技術の成果であるネットを通じて発信することへの欺瞞性を感じつつ)。

 と、ありますが、欺瞞性を感じることもないのではないでしょうか。確かに真摯な態度をとれば、欺瞞であると言えなくもないですが、そう言う世界、システムに既に組み込まれてしまっていますから、ある程度の科学技術を利用していかないと生きていけません。
 既に多くの共同性や人と人との繋がりが崩れてしまっている社会ですから、いきなり共同性を復活させるのは難しい。ネットを端緒にして共同性を取り戻して行くと言うのもありではないかと思います。気付いた時からコツコツと改善して行くしか破滅を逃れる方法はない。
 科学技術や商品経済の負のもう一面は、やたらと自己を律していくことでしょうね。言い換えれば、商品やサービスのクオリティーの高さが要求される事です。人様からお金を頂くのですから、ある意味仕方がないのですが、これを追求しすぎると無駄な物が大量に出ますし、人間関係がギクシャクします。そして、絶えず進化、進歩を要求される。
 そう言う意味では自分達の使う物は自分たちで作ると言う自給自足の生活は、物質面では無駄が少なくなるし、心理面ではゆとりを持てるのではないでしょうか。
 ですので、余り正確さや厳しさを求めすぎるのもどうかと言う気はします。気楽にコミュニケーションをとっていければと感じる昨今です。ただ、ネットの世界は本当に凄まじく攻撃的だったり、排他的だったりする人も多いので、ブログ運営は大変なのでしょうが。(偉そうなことを言ってしまい、御免なさい。)やはり、ネットでも見られるように西洋文明とは森川明氏が仰るように、両極端に振れてしまうものなのでしょうね。

理屈としては、ケネーさん、ごもっともです。

ところが、そのコツコッが実現していく気がしない…。
それが悲しいところです。
日本だけ見ても、かなり苦しいけど、世界を見渡せば、さらに絶望的な観があります。
何と言うか、物語りを紡げない。歩いていく先(展望)が見えない。この世界を力の限り泳いでいったとしても、その先には虚無しかないのではないか?そんな強烈な閉塞感を感じます。
ベアトリクス・ポターじゃないけど、時々、誰も人のいない何処かにでも引きこもりたくなる…。
そんなだから、人の心は、知らず信仰へと向かう。今日を生きた意味を、「見えない信頼できる何か」への感謝に求め、自ら明日に届くための、なけなしの勇気を心の井戸より汲み出し、一歩づつ進む(ささやかに生きる)ために。
でも、旅の途中、気をつけて!カルトの張る『かすみあみ』には捕まるな!
なぜなら真の豊饒は、その遥か彼方にあって、わたしたちが辿り着くのを、永遠の向かい側で、じっと待っているのだから。そう、きっとね!(ありふれた警句だなんて言わないでね。「祈るより稼げ」なんて、陳腐な皮肉も時には仕舞っておいて!Don"t think,just feel!)

お百姓さんは「自由」だ

おひさでございます。

資本の蓄積論からみますと、以前にも書きましたが、土地という生産手段から人を暴力的に引きはがし、二重の自由(生産手段からの自由、労働力を売り渡す自由)をもった賃金労働者を生みだすという資本主義成立のスタンダードな過程は,封建的土地所有に付随する共同体とそれに規定された共同意識を”積極的”に解体してゆく過程に他ならないのです。

しかしながら、自ブログの「亡国の記念日」で著者の本田氏がふれていましたが、日本資本主義の歩みは共同体を解体し資本の源蓄をなしはじめたものではなく、欧米の金融資本の導入をもってはじまったものゆえ、共同体は解体しつくされず温存されたのであります。以前、明治維新考で展開致しましたが、導入された金融資本への返済は徹底した農村への現金徴税による収奪と、その結果による自作農の解体による賃金労働者の産出、それへの強搾取をもって強行されるのであります。

そうした近代日本資本主義の勃興にともなう農村への強収奪、強搾取にまるで石のようにじっと耐えることへの精神的支柱をなしたものは、在りし日の封建社会における牧歌的な共同体意識などではなく、天皇制イデオロギーのもと体系的に包摂された家父長制であったわけです。

つまり、日本の近代化を”西洋化”という社会学的概念でくくるのとは違った視点でみるならば、資本主義のはじまりは唯物論的に農業国から工業国への転換に他ならず、そのために徹底して農村は犠牲になり大泣きをみたということなのであります。

農村にも「自由」(括弧付きの)がもたらされ、近代人権思想によってたつ個人主義が芽生えるのは、敗戦後農民が自分の土地を手にすることができたこの時をおいて他にはないとおもうものであります。農機具の機械化が協働を不要にし農村共同体=結いを解体し、自由をもたらしたというのはあまりにストレートにすぎるかもしれません。誠に失礼ながら私個人の見解ですけど。

このエントリーから私がよみとったストーリーはケネーさまのコメントを含めまして、おおまかに3つございます。その一つは、上述いたしました日本の資本主義の歩みと農村との関係であります。
そして、いまひとつは、農機具を貸さないお百姓さんは小ブルジョア階級と規定された特殊な属性を備えた存在であるということ。
そして最後にもうひとつは 小ブルジョアの属性の一つである小ブル自由主義と賃金労働者のいわゆる二重の自由(生産手段から自由であり、どの資本にも労働力を売り渡すことができる自由)はまったく異なった自由であるということ。それは労働者にとって貨幣は「不自由の象徴」であって、自由を売り飛ばした代償を受け取る証にすぎないのであります。お金でなんでもし放題、買いたい放題の「自由」(括弧付き)はブルジョアの自由であります。生産手段から切り離されて、「自由」なるがゆえに。お金がなければ暮らしてゆくために必要なものが手に入らない不自由を知るが故、お金の呪縛のもと日々の労働に勤しむプロレタリアートとは明確な区別をする必要があるとおもうものでございます。

以上の3つの異なったストーリーの微妙にかさなりあった部分がつながって一つの話の流れがあるようにおもえたのでありますが、全体の話の流れとしてはウンウンなのですがなにか小骨が喉にひっかかったような違和感を覚えましたので、悪い頭をフル回転させて読み込んでみた次第でございます。小ブルジョアの話はまたの機会にでもじっくり書かせていただきたく思います。例のスターリンの話も途中でとまってますし、まったくやる気のない散漫なブロガーにて失礼さまでございます。m(_ _)m 長文OKとのことで今回はちょっと甘えてみました。

愚樵さまには繰り返しとなりますが、ご関心のある方向けに「亡国の記念日」と「明治維新考」を参考に貼らせていただきます。
http://kangun.blog123.fc2.com/blog-entry-15.html
http://kangun.blog123.fc2.com/blog-entry-93.html

高を括っていたのではないか?

戦後の日本人、特に地方の住民は、近代化というものを嘗めていた気がします。

たとえば、機械化して効率よく儲けることを可能にしながら、元来あった共同体意識を維持できるのではないかと高を括っていたのではないかと思うのです。

江戸時代から明治にかけて、地方農村では「農聖」と言われる農村改革者(カイカク派ではありません。笑)が表れ、防除法や施肥技術を発達させていきました。それと同じようなものだと思っていたのではないかということです。

愚樵さんの記事を見て、八郎潟で見た巨大なカントリーエレベータと、そこに掲げられた「農村構造改善事業」という文字に感じた違和感の正体に気付きました。近いうちに記事に上げます。

気楽が欲しいです

自身気楽さを求める質であり、人にとっても気楽であることがとっても大事なことだと思っているので、みな気楽さを欲しがってるんじゃないのかなあと思いました。共同体からの開放というのも何でも自己完結できるという意味で気楽といえますし、おばあさんの話も気楽さを求めてると思えたので、前回と今回の話がすんなりつながりました。おばあさんの気楽は安心ということを言っておられるように思えますけど。私には自己完結への開放よりは安心の方がよっぽど良いなと思えます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/150-fedb2632

世襲政治家の悲劇か喜劇か? アベ氏の場合

今朝の新聞を見て、思わず、ふ~ん、原弘産の社長ってこんな人。。                    10年ほど前は町の小さな不動産屋...

悲惨な分裂国家パキスタンの核兵器、北朝鮮の核実験。

08年06月29日 『パキスタンの核の父カーン博士が驚くべき証言 』 拘禁から解かれた“パキスタンの核の父”A.Q.カーン氏が地元メディアの前で驚くべき証言をする。 「ムシャラフは米国が要求することは何でも承諾し、2015年までにパキスタンを分割する約束をしている...

自然を忘れた文明

 ●自然を忘れた文明  自然の掟に従った日本とは正反対に、自然の克服を目指した文明があった。西洋文明は、力ずくで自然を支配しようとした文明だった。  ヨーロッパで、大規模な森林伐採がはじまったのは、前一五世紀頃のクレタ文明にまでさかのぼる。いまでは見る...

北朝鮮テロ指定解除、朝鮮戦争完全終結へ。?

ブッシュにも見放された拉致被害者!2年前の会談は何だったのか 6月30日日刊ゲンダイ 北朝鮮の核計画申告を受け、米政府がテロ支援国家指定の解除手続きに入った。 45日後には解除が発効する。北朝鮮がテロ支援国家を解除されるのは20年ぶり。拉致被害者家族は頼みのブッ

未来への「希望」!世界は必ず変えられる!

このブログをFC2で書き始めてから、以前にも増して、 『自分がいかに世の中(世界)に無関心で生きてきたか』 ということを痛感しています。(>o

共生

あんなあ、シマウマっておるやろ しっとるよな その鬣の色、しっとるか? ひげ、ちゃうぞ、たてがみやぞ まあ、間違わんよな 口に出してゆうとんやさかい どや、思い浮かべてみ、シマウマの、たてがみ、 どやった? ・・・なあ、いちいち白黒はっきりさせんでもええ ..

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード