愚慫空論

創発的コミュニケーション

論理か共感か? 書かれてあることのみを読むのか、行間を読むのか? 水伝騒動から派生したらしい、ブロク間の議論のあり方・コミュニケーションのあり方についての意見表明が、ここのところ相次いでいる。

私は水伝騒動については実にいい加減なウォッチャーでしかなかったが、それでも釈然としないものを感じてはいた。私はスタンスとしては明らかに共感派だ。ゆえに共感派に共感を覚えると同時に、共感派を攻撃する論理派のあり方に疑問を持っていた。論理の有効性は認めるものの、その有効性の範囲は限定されたものであり、他者が共感を覚えたとするものを論理をもって批判しようとする批判のあり方は論理の守備範囲から逸脱している――というのが私の見解で、その見解に沿ってエントリーを挙げたこともある

今回のエントリーは、水伝騒動からコミュニケーションのあり方の模索へ議論が発展していった流れを受けて、私も共感派としての意見表明をしてみようというもの。いや、“私の意見表明”とするのは正確ではない。私の意見を代弁する記述をある本のなかで見つけたので、それを紹介するもの。そこでは、共感派の者たちがこれまでは漠然と「対話」としてきたこと望ましいコミュニケーションのあり方を、別の言葉で表現されている。それが「創発的コミュニケーション」であり、ある本とは安富歩著『生きるための経済学』である。


まず、「創発」という概念から。wikipediaには次のように記述がある。


創発(そうはつ、emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

この記述の前提は、私たちが住むこの世界の階層性である。たとえば、物理の法則で表現できるモノの世界と、生命を育む生物の世界とにある階層性。生物の世界の法則は、その下部構造であるモノの世界の法則(物理法則)を逸脱して作動することはないが、さりとて生物世界の法則がモノの世界の法則ですべて明らかになるかというと、そうはいかない。生物世界には、物理法則からは推測できない独自の法則が存在する。この独自の法則が出現することを「創発」と呼ぶ。「創発」の提唱者は、「暗黙知」という概念を提唱したことでも知られているマイケル・ポランニー。

「暗黙知」と「創発」を巡るポランニーの議論は私ごときには難しすぎるので、その過程はすっ飛ばして、「創発」は人間の知的な活動にも存在する現象であるとする結果だけを取り上げる。ここでは、人間には暗黙知の作動による創発的理解が可能である、とだけしておく。

この創発的理解についての記述を、『生きるための経済学』から引用する

 最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば。この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。

創発的理解は、モノとの「対話」だけでなく、人との「対話」、すなわちコミュニケーションにも及ぶ。

 次に、人と人とが向き合っている場合を考えよう。私があなたに話しかける。あなたがそれを受けとめて、言葉を返す。私がそれを受け止めて、あなたに言葉を投げかける。それをあなたが受けとめて……。このやりとりの連鎖もまた、一つの循環するフィードバック回路を形成している。
 この回路に双方が住み込むことで、お互いについて学び合い、認識を新たにしていくことができたとき、そこでは創発的コミュニケーションが成立しているといえる。このとき、お互いが、相手のメッセージを受け取るたびに、自身の認識を改める用意ができていなければならない。それを私は「学習」と呼んでいる。
 メッセージの受信、学習、メッセージの送信、という作動を、双方が維持しているとき、これを「対話」ということができる。それゆえ、「対話」と「創発」とは不可分な関係にある。

共感派のみなさん、いかがだろうか? 私にはこの記述はじつにしっくりとくるのだが...。

引用の中には「住み込む」という表現が出てくるが、これは私たちが言うところの「共感」の言い換えだろう。そしてこの「住み込む」or「共感」は

これは「疑う」こと(=近代的理性の基礎となる懐疑主義:愚樵注))に依拠するのではなく、「信じる」ことに依拠しながら、独善や押し付けに陥らず、真理を探究する道である。それは感覚や感情の豊かさに基づく知識へとつながる。これは、自分自身の感覚を信じて自分のために生きるという態度に直結している。
(同じく『生きるための経済学』から)

コメント

「出鱈目に共感を覚えること」を批判してはいけない?

他者が共感を覚えたとするもの、その共感を覚えたものに疑問を持ち批判をする場合、論理をもって批判しなくて何をもって批判すればいいのでしょうか。残るは洗脳と暴力しかないと思うのですが。

当然、しっくりきます

しかし…。
ここまで言葉にしなければ、伝わらないものなのだろうか。
いや、ここまで言葉にしてもなお、伝わらない…。
この現実に、あらためて愕然とする。
そして、今更ながら『言葉に絶望している』と愚樵さんがおっしゃった意味が、痛切に実感されます。
まあ、伝わる人にしか伝わらないということなのかもしれません。
(あ、これはnobuさんへのヤユではありませんよ。最近のわたしのいつわらざる実感ですので…。)

共感を論理で批判することについて

それは大変難しいことだと思います。
共感の対象を批判するのは簡単ですが…。
ところがその批判内容は、共感している当事者も先刻承知だったりします。
問題は、それでもなお共感する、共感できるのはなぜか?という点です。
したがって共感者への批判には、より包括的で深い理解が必要になります。
人間や社会そのものを、まるごと見据える『眼差し』が必要なのだと思います。

直感、感性、共感を確かな原理のもとに働く根拠あるものだと思っています。共感が人を対象とするなら、人の法則をどれだけ幅広く捉えているということが共感力を支えるのかと思います。コミュニケーション時の人の法則とは話の脈絡で、他人の話が分からなくなるのは、他人の脈絡、つまり言葉の使い方、論理の展開がわからないからでしょう。どれだけ多種多様な人の脈絡を自分のものとできるか、つまり「住み込んで」いけるかが共感であり、またさらなる共感力をつけるものかと思います。
共感によって示されるのは、多種多様な人が抱えるであろう多種多様な問題。画一的な問題の本質を求める現在の風潮には合わないものですが、個々の人にとってはこれが問題の本質であり無碍にして良いものではないと思います。論理、共感ともに優劣無く同等に扱われればと思っています。

nobuさん

他者の共感に疑問を抱くことはよくありますね。私だってそうです。そんなことが多いから、ブログをやっているとも言えます。

共感に疑問を抱いたとき、論理はダメというのなら、何を持って批判すればよいのか? ここに答えられなければ、独善論を批判する根拠はなくなってしまう。それそうかもしれません。

しかし私は論理の有効性を否定しているのではありません。ただその有効性は限定的だと言っているだけです。

実際のところ、他者の共感を批判するのに論理のみで納得を得られるでしょうか? 反発されるて、不毛な議論に終わることの方がはるかに多いのでは? これは私の経験上からも言えることです。

論理のみでは他者を納得させることがなかなか難しいという事実を把握すると、論理だけでは他者を納得させるのに何か足らないのではないかという疑問が生じます。事実の把握と疑念の発生は理性の働きによりますから、
論理の有効性が限定的だという仮説は、理性から生み出されるともいえます。共感が有効という仮説は、確かに論理的なものではないのですが、かといって反理性的なものでもない。理性によって証明はできないというだけのことです。

>残るは洗脳と暴力しかないと思うのですが

という見解には、すべてが理性的に判断できるものだという暗黙の前提があるように思います。しかし、そうした前提をおくことそのものが理性的ではないと、私には思えます。

達人の論理

naokoさん

>伝わる人にしか伝わらない
>共感者への批判には、より包括的で深い理解が必要

とんぼのめがねさん

>どれだけ多種多様な人の脈絡を自分のものとできるか、つまり「住み込んで」いけるか

こうした論理は、達人の論理ですね。「より包括的で深い理解」を出来る人間とは、達人に他なりませんから。伝わる人にしか伝わらないというのも、達人が存在することを前提にすれば、なにも不自然なことはありません。

ところが現在は、達人の存在を否定する、否定しようとする方向性が善しとされる風潮があります。ものづくりの分野などでもそうです。熟練した職人の動きを分析して機械化し、素人でも熟練工と同じ品質のものが製作できるようにシステムを組み上げる。これが合理的であり、近代的であるとされます。

こうした風潮は、十分理性的であれば物事は誰にでも理解できる、つまり理性による達人の否定が基礎になっていますが、最先端の知性は、この基礎が正しくないことを把握しつつあるようです。ただ問題は、正しくないことはわかっても、では正しい道は問われたときに、それが指し示せないことにあります。理性を重要視する知性のあり方の限界でしょう。

愚樵さん

私の疑問は「出鱈目に共感している人を批判するとき」に「論理以外に有効な批判の方法があるのか」ということなんです。逆に言えば「論理で納得できない人」を納得させることは不可能と思うのです。(洗脳を例に出したのは宗教がそうだからです。)
時間が経ち冷静になったあとで納得したことを表明する場合はもちろんあります。(負けず嫌いの自分の場合はしばしば)しかしその場合、批判された時点で少なくとも内心では納得していたと考えられます。
あらためて読んでみて、愚樵さんの話は「納得」ではなく「納得の意思表示」をさせるためには「論理」のみでは無理ということを言っているように思いました。それなら自分も「納得」できます。

追記)「納得」ではなく「理解」というべきなのかもしれません。また、最初から「理論」を受け入れる状態に無い人には確かに「理論」だけで「説得」させることは不可能だと思います。そもそも議論になりませんから。

すみません、間抜けなコメントでした。

一日考えてみました。
もしかすると、今回の記事は「批判」の中身ではなく、「批判」の仕方を取り上げているのでしょうか。もしそうなら、「批判」の問題ではなくて、コミュニケーションのありかたの問題ですね。
ということで、自分のコメントは間抜けなものでした。(「批判」の中身が理論的でなければ、それは「嫌い」などの感情論になってしまうので不誠実な態度だと言いたかったのでした。)

蛇足です。
しかし今回の「水伝」騒動はそういった類のものではなかったと感じています。「理論」を「理解する能力に欠けていた」のがそもそもの問題で、「批判派」はなんとか「理解」してもらおうと悪戦苦闘していたように見えましたが。

いえいえ、こちらこそ

nobuさん

>もしかすると、今回の記事は「批判」の中身ではなく、「批判」の仕方を取り上げているのでしょうか。

その通りです。その通りですが、私の方もnobuさんのコメントの意図をよく把握していなかったようです。把握していれば、前回のレスはもっと的確なものになったでしょうに。

間抜けはお互い様、ということで(笑)

>「理解する能力に欠けていた」のがそもそもの問題で

この点については、残念ながら私の見解は異なります。共感派は論理を理解する能力に欠けていたわけではない。「共感→独善の集合」という論理派の論理を破れなかったんだと思っています。その原因は、共感を論理的に語ろうとしたからです。

当エントリーの趣旨は、「共感は論理では語れない、暗黙知の次元で作動するものだから」ということであり、その趣旨を共感派の人たちが共感できるかを問うているわけです。

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