愚慫空論

多種多様な幸せ(2)

(1)からの続きです。

お気づきの方もおられるかもしれませんが、『多種多様な幸せ(1)』をアップしたときには、(1)はついていませんでした。書き始めたときには、一回限りのエントリーのつもりでしたし、書いている最中に息切れして続きを書くことになってしまいましたが、それでも続きを一回書いたら終わりにするつもりでした。

けれど、気が変わりました。『多種多様な幸せ』というタイトルで、しばらくダラダラと書いてみようと思います。どこまで続くかはわかりません。どうせまた途中で気が変わるでしょうし(笑)。

そういうわけで、当エントリーは(1)の最後で予告した「本題」ではありません。ダラダラとした話の続きで、あるお婆さんから聞いた話を。


******


そのお婆さんと出会ったのも、とある自然体験プログラムに参加したときでした。田舎の食を体験しようというごくありふれたプログラムで、私などはそのときには既に田舎住まいでしたのでさほど参加する意義が見いだせそうもなかったのですが、ところ変われば品変わるということもありますし、まあ、とにかく参加してみたのです。

どんな料理が出たのは、今となっては記憶の彼方で思い出せません。プログラムの開催地が私たちの住まいからさほど遠くなかったこともあって、結局そのときの料理は私たちの普段の食生活の中に組み込まれてしまいましたから、改めて、どの料理だったっけ? と考えてみても区別がつかない。まあ、ごくありふれた田舎料理でした。

料理の方はそんな具合ですが、忘れられないのがそのとき料理を振舞ってくれたお婆さんの話。簡単に言ってしまうと、“昔はよかった”という話なんですが。

お婆さんの“昔はよかった”という話なんていうと、これもまたありふれた田舎料理のような話じゃないかと思われるかもしれませんが、ちょっと違います。田舎ならどこにでも転がっているようなありふれた話ではなかった。単に“昔はよかった”という話ではなかったんです。

「昔は貧しかったけど、よかった、楽しかった。」

いかにも田舎のお婆さんが言いそうな話です。で、普通はそうしたお婆さんは、昔がいかに良かったかという実例、つまりお婆さん自身の良かった体験談をいろいろ語ってくれて、昔の良さを強調する。苦労話も混じるけれども、それも時の経過で美化されて、人と人とのつながりが強かった昔の暮らしを背景にした、人生の教訓を得た実りある体験として語られる。

そうした話を聞く現代人の私たちは、昔の暮らしの良さを認めながらも、でもやっぱり豊かになった今の暮らしの方が良いと思っているし、お婆さんの方も「貧しかったが、よかった」とは言っても、「今の暮らしよりもよかった」とは言わない。だから聞き手は、話し手であるお婆さん自身の、有態に言えば自慢話を聞かされるような気分になって、まあ、お婆さんのいうことだからと敬老精神を発露させて話しにお付き合いする、という感じなるんですね、たいていは。

しかし、そのお婆さんは、はっきりと現在より昔の方が良かった、と言いました。現在の豊かさを否定した。豊かさの引き合いに出したのは、学校です。

昔は学校へ行けるのは、村の中で一握りの裕福な家の子息だけだった。けれど今は、誰もが学校に行って学ぶことができる。それだけ世の中は豊かになった。けれど、それでも昔の方がよかったと、お婆さんは言ったんですね。私は少しびっくりしました。

今は確かに豊かだけど、みんなバラバラになってしまった。昔は貧しかったけど、みんな一緒で楽しかった。困ったことがあっても、なんとかみんなで解決した。相談できるところもたくさんあった。でも、それがなくなった。ひとり一人は豊かになったのに、みんな自分のことで精一杯になってしまった。昔は貧しかったけど、助け合って生きていた。

お婆さんは、明確に現在の豊かさよりも、昔の豊かさの方が良いと言ったんですね。これを年寄りの単なる戯言と片付けてしまう感性は私にはありません。昔の豊かさとは、明らかに物質的な豊かさではありません。物質的ではないから精神的な豊かさだ、という短絡は止めておきますが、物質的に豊かでなくても精神的な安心感を得られる何かがあったことは間違いないでしょう。そしてお婆さんは、その安心感をモノが豊かなことから得られる安心感より上位に置いた。そのお婆さんは、お婆さん自身が子供の頃にの爺さん婆さんだった人たちの幸せ具合と、今の自分の婆さんになってしまったご自身の幸せ具合とを比較してそういう結論を出したのかもしれません。


実は、こんな話を思い出したのは、『ロスジェネ』を読んだからなんです。『ロスジェネ』を読んだら、なぜかこのお婆さんの話を思い出された。冒頭のロスジェネ宣言や、『ロスジェネ』編集長と“戦争は希望”の赤木智弘の対談、雨宮処凛の手記。こうした文章を読みながらどうにも違和感が拭えないでいて、その違和感がお婆さんの話を思い出させた、そんな感じ。

この違和感の元は、やっぱり豊かさの質の違いでしょう。現在は格差社会になってしまったと言われて、それは本当なんだろうけれども、でも格差社会っては現在だけの話じゃなくて、日本という国の歴史において格差社会でなかった社会なんてのは、ごく限られた期間にしか実現しなかった。歴史上ほとんどの期間は日本の社会は格差社会だった。上記の婆さんの話は昔の格差社会の話だけど、その格差社会にお婆さんは軍配を上げました。

物質的な豊かさという観点で見れば、ロスジェネ世代の負け組たちの方がお婆さんの若かりし頃よりもずっと豊かだったはず。なにせ多くの者たちが学校にすら行けなかったのだから。学校を出たのに仕事がない、のではなく、貧しくて学校すらも行けなかった。なのに、そんな昔の方がよかったという。格差社会はダメという意見と、格差社会の方がよかったという意見の格差。この格差の原因は何なのでしょう?


...いつもなら、ここから原因の分析に入るところですが、今回はやめておきます。ダラダラと問題提起だけ。次回もこんな感じで続けてみます。

コメント

>“昔はよかった”という話なんですが。

正確には、「昔の方が」でしょうね。そして、「よかった」も正確には「マシだった」ではないでしょうか?
いつの「昔」であるかは人それぞれでしょうが、昔は昔で問題を感じていたはずです。
しかし、それよりも、ひどい「今」が出現すると、人々は「昔はよかった」と思ってしまう。
主観的なことを言うのも何なので、客観的な事実を紹介すると、70年代の時点で、日本の自殺率は世界第3位で、未成年者は1位だったはずです。

わかります

多分内地では1965年が分岐点、沖縄では1990年頃ではないかと思います。
諸外国でもまちまちではないかと思いますが、概ね日本より早かったのではないでしょうか?
いやどうだろう。東アジア圏は基本的に最近だと思う。
この世界史上の大転換期は、渦中にいるわたしたちには、なかなか自覚しにくいものなのかもしれないが…。
それにしても、一般に学識者の感性、特に鈍すぎという気がするなあ。

そうかなぁ???

こんにちは。
興味深く拝見いたしました。

「ながらへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき.」
と、いうお話かと思えばさにあらず、、、なんだよ。
と愚樵さんは言われる。
と、言うことでもう一度再読。

愚樵さんは、お話なさった一人のお婆さんから、
「時代の精神」を本当は愚樵さんらしく語りたかったのでしょうか???
如何でしょうか?

私は、愚樵さんの例示から端を発して、
「格差社会はダメという意見と、格差社会の方がよかったという意見の格差。この格差の原因は何なのでしょう?」と言う問題提起をすることは、効率がいいとは考えません。

お婆さんは「学校へ行くことが出来た人は一部である」と言われたのですよね。
その言葉から、「格差社会の方がよかった」までお婆さんの意見を拡張してよろしいのですか???

「今は確かに豊かだけど、みんなバラバラになってしまった。昔は貧しかったけど、みんな一緒で楽しかった。困ったことがあっても、なんとかみんなで解決した。相談できるところもたくさんあった。でも、それがなくなった。ひとり一人は豊かになったのに、みんな自分のことで精一杯になってしまった。昔は貧しかったけど、助け合って生きていた。」
と、お婆さんは言われたのですよね。

お婆さんが指摘される内容↑は、
まさに現代の「格差社会」の産物であって、
お婆さんは現「格差社会」を批判しているのではないのでしょうか???

お婆さんが否定したのは、「格差の産物」であって、
現代の豊かさを否定したのではない、、、と上記エントリーを読んで思いました。
実際のところ、お話しなさったのは愚樵さんなので、
きめ細かいところまでは、私は量りかねますが、、、

と、言うことで、
お婆さんが「昔が良かった」
と、言われるのは、誰でも言われる意味以上のものではないと私は思うのですが、、、

Runnerさん

>主観的なことを言うのも何なので、客観的な事実を紹介すると、

私が問題にしているのは主観です。人々の主観のあり方、世界観なんです。

その客観的事実を本文のお婆さんに話して聞かせたところで、ピンとくるものはないだろうと思います。もしかしたら「みんな都会で心をすり減らして、かわいそうに」などと言うかもしれません。1970年代は高度成長期で、田舎から都市への人口移動が盛んだった時期ですから、そうした解釈が成立する可能性もあります。

わかります & そうかなぁ?

naokoさんに瀬戸さん。おふたりのコメントの対照に、思わず笑ってしまいました。
(Runnerさんはおそらく瀬戸さんに近い立場でしょう。Runnerさんだけ別コメントにしたのは他意があったわけではありません。ただ、おふたりの対照が面白かっただけのことです。)

naokoさんのコメントには改めてお応えする必要も感じないくらい、同意です。

>それにしても、一般に学識者の感性、特に鈍すぎという気がするなあ。

激しく同意です。それには理由があると考えていますが...、それはまた別の機会に。

さて、瀬戸さん

>お婆さんが指摘される内容は、
>まさに現代の「格差社会」の産物であって、

これは私の書き方が不用意でした。このお婆さんの話を聞いたのは私が当地に越してきて間もない頃の話だったので、まだ新たな格差社会問題が社会問題として顕在化してきていなかった頃でした。少なくとも私はまだ認識していなかった。だから、このお婆さんの話を私は豊かさへの批判として受け止めましたし、その記憶も残っている。そして、その記憶が元になった、新たな格差社会問題分析への違和感なんです。

改めて問題意識の構造を書いていますと

旧格差社会(格差はあったが、一体感もあった)

高度経済成長、総中流社会、etc.(みんな豊かになったが、バラバラ)

新格差社会(バラバラで、格差もある)

そして格差の度合いで言うならば、旧>新 というわけです。

私は本文では、まんなかの「高度経済成長、総中流社会」あたりのことは触れませんでしたから、瀬戸さんのように理解されたとしても、責める資格は私にはありません。

>私が問題にしているのは主観です。人々の主観のあり方、世界観なんです。

今回の「昔はよかった」の対象は、「社会」や「世の中」ですよね。
我々一般人はこれといったデータを持っていないので社会や世の中の推移を論じる場合は主観にならざるを得ない面があります。
しかし、「主観でよい」というのならそれは違うと思います。「社会」や「世の中」を論じるのであれば、やはり、客観を求めねばならないし、「客観を求めた上での主観」であるべきだと思います。
「主観でよい」としてしまうと、個人の人生における「若い頃はよかった」話とごちゃ混ぜになってしまうおそれがあります。
その手の老人の「よかった」とする頃の社会に戻したところで、その老人が若返るわけではないのですから、たぶん満たされないと思います。

>そして格差の度合いで言うならば、旧>新 というわけです。

一言で「格差社会」と言ってもいろいろあるし、格差以外の要素にも目を向けるべきとのご高察なら私も同感です。

成果主義賃金格差か、年功序列賃金格差か?

 成果主義賃金とは、勤続年数1年目であっても、勤続年数30年の勤労者よりも高給を実現できると欺瞞された制度ですね。下剋上。今の格差社会と成果主義賃金制度。ぴったりですね。昔の格差社会は年功序列型の賃金制度だった。
 
 お婆さんの時代では考えられない制度ではないでしょうか?成果主義賃金制度。そもそも、生活賃金というものは、最初は貧しくとも先輩に仕事を教えてもらいながら、徐々に多くなっていき生活向上していくもの。これは美徳だと思う。ゆえに、共に勤労しながら、若い人は年長者に仕事を教えてもらいながら将来に希望を持って勤労していたのではないか?若い人は、低賃金で生活は貧しいだろうが、成果主義賃金で職場がバラバラになり、全員が競争相手となり、仕事も教えてもらえなくなり「孤独」となる。希望は戦争などという自暴自棄となる。昔の年功序列賃金型の格差社会がよいのか、今の成果主義賃金型の格差社会がよいのか?答えは明瞭だと思う。

 みんなで協力して仕事をこなし、賃金が勤続年数の応じて上がっていく希望。それを目指して、若い人は勤労する。年長者は若い人に企業の将来を託し、仕事を教え、人を育てる。たしかに、勤労者の賃金は低賃金である。しかし、年功序列の職場環境には連帯感と希望があったのではないか?これが日本型の経営ではなかったか?

いつの世も

「昔は良かった」というのは、どこへ行っても、いつの時代にも、常に言われる言葉だと思います。

「昔は醤油が足りなくなったら、近所の人が少し分けてくれた。今は誰も分けてくれない。」というのでも、「互いに助け合っていた」という解釈と「近所に分けてもらわないといけないほど、物がなかった」という捉え方では違いますよね。

「今は物量は豊かになった。でも精神が貧困になってきた。」実際は違うのですが、それは主題ではないので別として、そう考える人がいたとしても、「精神が多少貧しくても生きていけるだけ、日本は豊かになった」という捉え方をすれば、感じ方は違うんだろうと思うのです。

ただ、「昔は良かった」というのは、『今現在の悪い面』を見たとき、それと対比して「昔はこうだったのになぁ・・・。」という「思い」なんでしょう。
そして、その「良かった」というのは、それが成立する条件があったからそうであった、ということを踏まえることは忘れてはいけない。要するに、「昔は良かった」というのをそのまま懐かしむのではなく、今現在の状況を踏まえた上で「ヒント・参考」にするということで、徐々に良くしていけばいいんじゃないでしょうか。

Runnerさん

>「社会」や「世の中」を論じるのであれば、やはり、客観を求めねばならないし、「客観を求めた上での主観」であるべきだと思います。

ここは難しいところです。というのも、その客観が価値判断を誤らせてしまうこと多々あるからです。

たとえば江戸時代の治安。現在では様々に研究が進んで、私たちが従来考えて以上に穏やかな社会だということが明らかになりつつありますが、これもある客観データ、刑罰に処せられた人の数とか、そうしたデータに依拠するとかえって真実が見えなくなってしまう恐れがある。
ある社会から出てくる客観データは、疫病で亡くなった人の数といったようなものならそのまま解釈できるでしょうが、そうでないものはその時代の社会の常識といったものに影響されますので、そのまま解釈できるものではないようなのです。

とはいえ、ではまったくの主観でよいかというとそうでもなくて、やはりそこには一定以上の説得力は必要です。しかしまたこの説得力も、現代の常識に左右されてしまいますから、なかなか決めてはないといったところが実態でしょう。

>その手の老人の「よかった」とする頃の社会に戻したところで、その老人が若返るわけではないのですから、たぶん満たされないと思います。

そうかもしれません。そうでないかもしれません。実態はもはや誰にもわからないんですね。しかし、わからないといってそこで終わりにしてしまえば議論も何もないわけで、そうした曖昧な議論を進めるためには、「よかった」というお婆さんの話を信用するほかないだろうと思うわけです。

お婆さんの話を信用した上で展開した私の議論に説得力を感じなければ、それはそれで仕方がないことでだと思います。

>一言で「格差社会」と言ってもいろいろあるし、格差以外の要素にも目を向けるべき

そうなんですが、私が批判したいのは、現在の客観重視の傾向なんです。ここで言われる格差は客観データを伴うものです。現在の傾向は、その客観データが価値判断の基準になってる。だからそこ「勝ち組」「負け組」なんて2分法になると思うわけです。
昔にだってエリートは存在していましたし、立身出世ということも言われた。けれどエリートでない者、立身出世を果たせなかった者を一括りにして「負け組」とは言わなかったし、実際ほとんどの者が自分は「負け組」とは思っていなかったでしょう。「負け組」なんて基準がなかったでしょうから。
私の問題意識の中にあるのは、「負け組」なんて基準がなかったという価値観なのです。

*****

東西さん

>お婆さんの時代では考えられない制度ではないでしょうか?成果主義賃金制度。

いえいえ、そんなことはないと思います。お婆さんの時代、というよりかなり最近まで、そういう制度を指して“やくざな”という形容詞をつけたのです。
現在証券会社といえば人気業種ですが、一昔前までは“やくざな”仕事としてまともな人間の就職先としては敬遠されたものでした。

>年功序列の職場環境には連帯感と希望があったのではないか? これが日本型の経営ではなかったか?

そこに賛同しますが、成果主義が取り入れられて行った時代、年功序列の日本型システムに連帯はともかく、希望が感じられなくなった人が多かったのも事実だと思いますし、その事実は事実として受け入れなければと思います。そう考えると、今の格差社会を招いた責任は労働者の側にもあるとしなければなりません。

愚樵さんへ。

 はー。なるほど。ズバリ、本質を捉えていますね。
 
 1:成果主義賃金制度=証券会社ですか?笑。ま、そうですね。拝金主義というものです。勤労する過程としての労働を評価する年功序列賃金ではなく、売上金という結果、金を生んだか生まないかを評価する成果主義賃金制度。他方、金で証券を買い捲り、金を持つものが現場で勤労し、労働する人々を支配し、金を持っているものが勤労者の頭上に君臨する。さらには、証券を売買してバブル経済を実現し、金で金を買うという愚かな投機に耽る。まさしく「やくざ」ですね。賭博師。拝金主義者。アメリカ式の経済が日本経済を急激に侵食しだしたことの象徴が、成果主義賃金制度、ホリエモン、村上ファンド、郵政民営化でしたね。

 2:「年功序列の日本型システムに連帯はともかく、希望が感じられなくなった人が多かったのも事実」

 たしかに事実でしょう。しかし、責任を問題にするのであれば、日本型の年功序列賃金に希望を感じられなくなったのは何故でしょうか?その原因はどこにあるのでしょうか?事実の原因を究明しなければ、責任は論じられないと考えます。原因を作った勢力の責任を追及することになりますね。東西は、年功賃金への不満の原因を作ったのは、低賃金構造にあると思います。さらには、会社の労務管理への抵抗形態としてサボタージュをしている労働者を敵視する経営側の分断イデオロギーがあるのではないでしょうか?俗にいう「サボっている奴と同じ賃金は嫌だ。サボる奴の責任で成果主義が導入された」という本末転倒で、労働者のサボタージュの原因となる経営者の労務管理を無視した議論ですね。会社で経営者が経営を独裁し、労働者を経営から締め出しておいて、「お前らの役割は、生産性をあげる事であり、与えられた役割をこなす事だ」といわれても官僚主義、命令主義の対極である民主主義の立場から言えば、「なんか経営陣は官僚で、労働者は下僕みたいな扱いやな。同じ会社で働く仲間じゃないのか?いかに経営者といえども、出資者とは異なり、現場で共に働く仲間じゃないのか?だったら、経営者は丁寧に労働者に対し、経営情報を全面開示し、専門用語を説明する低姿勢こそ求められる経営責任じゃないのか?それを「労務管理」といいながら出資者の立場から俺らを支配している。こんな経営に対して、全面的に協力する気はしない。ある程度の協力しかできない」

 上記のような心境でサボタージュする労働者に対し、経営側は「嫌悪」し、労働者間の分断を図るべく「サボっている労働者と頑張っている労働者が同じ賃金でいいんですか?成果主義じゃないですか?」と煽ってきたことに「騙された」労働者らが「年功序列の日本型システムに連帯はともかく、希望が感じられなくなったのではないでしょうか?

 だとしたら、原因は経営者の官僚主義、命令主義にあるのであるから、労働者には責任はない、という結論となりますね。

 

>そうしたデータに依拠するとかえって真実が見えなくなってしまう恐れがある。

これはデータの読み方の問題だと思います。
確かに、日本では統計学を科学と混同している人が多いようですから、この点は重要な問題だと思いますが、しかし、「客観」に問題があるわけではないと思います。

>けれどエリートでない者、立身出世を果たせなかった者を一括りにして「負け組」とは言わなかったし、

昔から学歴は尊重されていましたが、学歴のない人が否定されるということがなかったのです。
これには、エリートの数が少なかったので、エリートだけで社会を運営することが無理だったという側面もあるかと思います。
かのNHKの「プロジェクトX」という番組を見ている人ならわかると思いますが、日本の歴史的プロジェクトに大卒学者と共に、高卒、中卒の人も参加していたことがよくわかります。

他者への深い関心

それが自己を相対化する客観の起源なら、必ずしも
客観=科学的合理・実証に依拠
と、ぴったり重なるものでもない。
客観=他者への共感的理解→人間精神の普遍性への複合的理解=他者の生への敬意や愛しさの深まり
といった道筋もあるかと思います。

勝ち組、負け組?

私はそもそも「勝ち組」「負け組」という区分け自身が、短絡的だなと感じます。
いくら儲けても、信頼できる人が周りにいない、前科がついたといったことがいいのか。人にもよりけりですが、淋しいことだろうと思います。
貧しくても、信頼できる人が周りにいる、自分が社会に貢献できた実感がある、温和な家庭がある・・・。生活できないというようなものならば困りますが、ある程度の生活が営めれば、それが「勝ち」だと思う人は多いと思うのです。

度し難い人が「受験をなくせ」とのたまっていますが、「チャンスを得るための努力」を否定しているだけです。その程度の思想の人が、それ以上に血と汗と涙を流している職人さんの努力や技量を評価すること自体、職人さんに失礼です。
職人さんは、確かに学歴は意味がない。しかし、若いうちから10年も20年も、遊びたい時期に、自由に遊んでいる友達を横目に見ながら修行に勤しんできた。テストでいうなら満点が100点のテストで、1000点を取らないと「一人前」になれないんですよ、職人さんの世界は。学歴なんて、東大だって、満点じゃなくても合格できるんです。
「学びたい人は自由に入学できるようにすべきだ。受験が子どもたちを抑圧している。」なんて、職人さんにそんなことを言ったら、おそらく「二度と俺の前に顔を見せるな!」と怒鳴られるでしょうね。「そんな甘い世界で厳しいなんて思うようなヤツと仕事したくねぇよ!」ってね。

私が何も知らないで勝手気ままに無理を職人さんに言って、他の人から後で注意されたんですが、その職人さんは、見事に仕事をしましたからね。「いやぁ、俺はこんなことぐらいしかできないからね。」って言いながらも、オーラが出ていて、本当に頭が下がりましたよ。「あぁ、この人には勝てないな」って思ったのもそのときです。
普段、私に逆らってくる度し難い人は、こうした思いなんてしないでしょうね、決して。

初めまして1

 どうも、初めまして。

 ケネーと申します。以前から拝見させて頂いていましたが、今回の記事は最近他のサイトで見聞きした事とテーマが被っておりましたので、私感を少々述べさせて頂きたいと思います。

 この記事の最後にトラックバックされている。
 早雲様のブログ晴耕雨読の記事、森川明氏著の『西洋文明の常識』
 と
 Anti-Rothschild Alliance(アンチロスチャイルド同盟)のお薦め動画
 『懐かしい未来 ラダックから学ぶ』

 は、今回の記事の趣旨と同じ事に触れているのではないかと思いました。少なくとも多くの事を示唆してくれています。
 「格差社会」と言う言葉をどう定義付けるかは難しく、定義付け次第で今回の話も「格差社会」と関係してくるのかもしれませんが、「格差社会」という言葉を字義通りに狭義に受け取ると、今一つ話がピンとこないのではないかと思います。
 そこでヒントになるのが、上記の『懐かしい未来、ラダックから学ぶ』の動画です。そして、その後に『西洋文明の常識』を読むと、更に問題の本質が見えてくるような気がします。

 結論から言えば、このお婆さんの言わんとしていることは、社会が不安定化して住み難く、生き難くなった、と言うことではないでしょうか。
 西洋社会がもたらした合理主義、資本主義は、それまでのあり方である自給自足の生活、持続可能な社会というとは真逆にあります。それまでの社会は多少の紆余曲折はあったにせよ「足を知る」で、社会の安定性を確保してきました。それが、資本主義が導入されると利益の為なら手段を選ばず、無限に欲望を肥大化させていくので、社会の安定は損なわれます。
 資本主義と言うのはどうやらそのシステムの核が「搾取」であるようです。なので「絶えず進歩しないと搾取されてしまう弱肉強食の制度」であると森川氏は仰っています。搾取には主従の関係があり、現在で言えば主が先進国、勝ち組であり、従が発展途上国、負け組となるでしょうか。
 搾取されないためには先進国、勝ち組になる必要があり、そうなる為(または維持していく為)には絶え間のない進歩、変化が必要となります。そうすれば、社会は絶えず競争をし続けなければなりません。
 常に変化し、絶えず競争している社会というのは不安定であり、安心することが出来ない。この変化が必要に応じてと言うことならまだ良いのですが、基本的には搾取の為の変化ですから、搾取される方はたまったものではありません。そして更に問題なのはその変化が時代が進につれ、科学、技術が発達するにつれ、その速度を更に加速させていることです。
 それでも日本は日本的資本主義で、これらの弊害をなるべく抑えてきました。しかし、バブル→バブル崩壊→グローバリズムと言う流れの中で、その防御装置が壊され、ここに来てその弊害が誰の目にも明らかなくらい顕わになってきました。
 今回のお話のお婆さんは、鋭い直感力でその弊害、変化に早く気付いていたのではないでしょうか。

初めまして2

 ここで言われている変化は内山節氏の言葉で言えば、「根無し草の大衆」の増加です。資本主義が浸透するにつれ、共同体は破壊されていきました。それでも日本は企業が日本的資本主義システムを導入することで、完全ではないにしろ何とか共同性(擬似共同体)を保ってきましたので、それなりの安定性と安心感を確保することが出来ました。
 それが、グローバリストが台頭する中で、日本的資本主義は壊され、一気に共同体的装置がなくなりました。ローストゼネレーションと言われる人達は丁度その境にいる人達なのでしょう。少年時代、教育課程の段階では、日本的資本主義が機能している体制の中過ごしてきたが、社会に出始めようとする段階で世の中かが資本主義剥き出しの新自由主義になった。
 その変化に、余程気をつけ世情に敏感であった人以外は、上手く波に乗ることが出来なかった。それを自己責任と言ってしまえばそれまでですが、今までの教育課程ではこうしなさいと言われていたのが、世に出る段階で(大きなアナウンスはない状態で)それは違いますと世の中から拒否された。その弊害をダイレクトに被った世代、人々なのでしょう。
 『懐かしい未来 ラダックから学』を見れば、その事が明瞭に分かります。この動画の中でも触れていますが、教育というのは単に教育をするだけでは意味がない。と、言うか下手な教育をすればそれは弊害にすらなる。共同体を維持する為の教育は有用ですが、共同体から外れた教育は害ででいかない。それは単なる金儲けのための一手段でしかないのでしょう。ラダックの変化はその事を示唆しています。
 教育とは何も公教育で知識だけを詰め込むものだけではないのでしょう。昔のラッダクのように、現代的な教育は無くとも、その共同体を存続させる為、または生きる糧を得る為の技術の伝承もそれは立派な教育なのではないでしょうか。
 逆に言えば、現在の先進諸国の教育の方が、生きるための術の取得という観点からすれば、本来の教育のあり方から乖離しているとも言えなくありません。
 現代の教育は良い面もあるでしょうが、競争を煽り一面では個人を不安にさせ、国家が統治しやすいように馴致すると言う面があることも拭いきれません。と、すれば近代教育は共同体を壊し、個を不安定にしていく装置であるとも言えるのだと思います。これは教育と言うよりは、もう一つ大きな枠で見た時の近代化や西洋化、都市型社会への移行といった現代的システムに根本の問題はあるのでしょう。
 ですからお婆さんが問題にしたのは「豊かさ」ではなく、「安心感」や「安定」だったのでしょう。物質的な「豊かさ」も程度問題で言えば、最低限度の「豊かさ」がなければ、当然「安心感」や「安定」も手に入れられませんが、必要なだけの「豊かさ」があれば後はいらない。
 しかし、最近では物質的には過剰すぎるほどに「豊かさ」は享受できても、「安心感」や「安定」は逆にドンドン失われていっています。現在起こっている資源や食糧の高騰による社会不安も、見境無しに「豊かさ」(利益)を求めた為に起こった弊害でしょう。
 
 ただ、これは基本的には社会システムの問題なのだと思います。「搾取」をコアに持つ西洋的、資本主義的システムが、この「社会の不安定化」や「個人の根無し草化」を生む元凶なのでしょう。ですから、その社会の有り様(敢えてシステムとは書きません)を問題にせずに、「豊かさの質」とか「格差社会」と言った抽象的概念を尺度にしてみても見えてくるものは少ないのではないでしょうか。
 確かに多様性はそれ程ある社会とは言えませんが、以前のラダックが豊かでないとは決して言えないですし、今も昔も格差がある事自体に問題の本質があるとも思えないからです。
 近代化以降の西洋的社会とそれ以外の伝統的社会のどちらが良いかと言うのは難しい問題だとは思います。科学技術の発達により多大な恩恵がもたらされたのも事実でしょう。しかし、それと共に失ったものもやはり多かったのでしょう。その最たるものが「社会の安定」と「人々の安心感」なのだと思います。


参考
内山節著  農山漁村文化協会出版 人間選書137
『自然・労働・共同社会の理論』ー新しい関係論をめざしてー
  第二講 私たちにとって現代社会とは何か


 コメントなのに長くなってしまい、すみません。

ケネーさん、ようこそ

ようこそ。ケネーさんのお名前は、花ブナさんのところでお名前とご意見を拝見しています。お越しいただいて、嬉しく思います。

ケネーさんのHNは、18世紀フランスの重農主義者、フランソワ・ケネーから取られたのだろうと推察しますが、このHNからだけでもケネーさんの思想がうかがえるように思います。

アンチ・ロスチャイルドのお勧め動画はいくつか私も見ています。
http://www.anti-rothschild.net/link/animation.html
でも、このラダックの動画は見ていませんでした。見ながら、これは私が当エントリーの続きとしてあげた『多種多様な幸せ』(3)の内容とずいぶん重なることに気付かされます。西洋文明の弊害は、どこでも同じなのですね。

その他、ケネーさんのコメントでのご指摘には、全面的に同意です。西洋文明の、特に科学技術における成果は認めるものの、その代償として支払ったものはあまりにも大きいと思います(なんてことを科学技術の成果であるネットを通じて発信することへの欺瞞性を感じつつ)。

なお、当ブログでは長文コメントは大歓迎ですので、以後も思うところがありましたら、存分にお書きになってください。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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