愚慫空論

愛の無知

新しいエントリーを書こうと思って、そのタイトルに「a」「i」「n」「o」「m」「u」「t」「i」とキーボードを叩き、変換キーを押したら「愛の無知」と誤変換されてしまった。意図したのはいうまでもなく「愛のムチ」だったんだけど、誤変換の方がエントリーの内容にピッタリだと思ったので、そちらを採用することにした。

愛のムチ。なんだか艶かしいような言葉だが、ここ数日この言葉をやたら見かけると思ったら、発信源はかの東国原宮崎県知事らしい。

「体罰は愛のムチ。昔はげんこつで教えられたが、最近はできなくなっている。愛のムチ条令はできないか」
「宮崎県で『愛のムチ条令』や『愛げんこつ条令』はできないか。愛という範囲で条例化するべきだ」
(とむ丸さんから拝借)

なるほど、このお方はマスタベーションも「愛」だと主張する人物のようだ。まあ、確かにそれも「愛」には違いないんだが、恥ずかしくないのか? いや、恥ずかしくはないのだろう。どのような場面で「愛のムチ条例」なるものを提言したのかは知らないが、まさか顔を赤らめつつ、うつむき加減で「愛のムチ」なんて話をされたわけでもあるまい。堂々と正面を見据えて、「愛のムチ」なる言葉を発したに違いない。そこから伺い知ることができるのは東国原知事の「愛の無知」だ。


「体罰は愛のムチ」


その通り。その通りだと言いたい。

「昔はげんこつで教えられた」

これもその通り。私にだって子供の頃、親や教師などの大人たちからげんこつを喰らった経験はある。そして、そのげんこつを「愛のムチ」だと理解していた。

「最近はできなくなっている」

そうだ。これは悲しむべき事態だ。

「愛のムチを条例化できないか」「愛という範囲で条例化するべきだ」

でも、これはかんべんして欲しい。私は“宮崎をどげんかせんといかん”として宮崎県民に支持され、知事に選ばれたこの人に「愛」があることを感じるけれども、これでは“知事ん”の愛だ。


「愛のムチ」とはどういうものか? これは言葉を尽くすより、映像を見ていただいたほうがわかりよい。というわけで、幼き頃のしろくま・ピースに登場願おう。




夏の暑さを乗り切るための水泳訓練とナレーションが入って、ピースは水をかけられている。野生のシロクマが水を嫌がるはずはないが、ピースは人の手によって育てられた。だから水は苦手。そのピースに飼育員は水をかける。嫌がるピース。10秒に満たない場面だけれど、これがピースへの「愛のムチ」であることは誰にだって理解できる。

だが、これは本当に「愛のムチ」なのだろうか? 単なるイジメではないのか? この映像(水をかけられている場面)から客観的に観察できるのは、ピースが水を嫌がっている素振りだけだ。しかし、それでも私たちはピースの素振りから、水を嫌がってはいても、水をかけている飼育員は嫌がっていないピースを感じ取る。

飼育員のピースへの水かけ行為は、ピースが何かイタズラでもして罰を受けているというわけではないけれども、それでも「体罰は愛のムチ」といったときの体罰と同等のものであることは容易に理解できる。飼育員の水かけ行為が「愛の範囲内」であることを理解できる。だが、その理解を客観的に記述することはできない。飼育員とピースの間にある「愛」、客観的にはイジメである可能性も捨てきれない飼育員の体罰を「愛のムチ」たらしめている「愛」は、〈人間のコミュニケーション〉である言葉では定義することができない、〈ケモノのコミュニケーション〉なのだ。人間同士の「愛」もまた同じである。

県議会が定める条例を含む法は、言葉でやりとりする〈人間のコミュニケーション〉が基礎。法を〈ケモノのコミュニケーション〉で定めようと言い出す者がいれば、それこそ痴人と言われよう。では〈ケモノのコミュニケーション〉でしか把握できないものを〈人間のコミュニケーション〉で定義してしまおうと言い出した知事は、どうか? 法を〈ケモノのコミュニケーション〉で定めようとする者と、大差ないのではないのか?

〈ケモノのコミュニケーション〉を基礎とする「愛」を無理やり人間の〈コミュニケーション〉で定めようとすれば、どこかに必ず綻びが生じる。もし仮に体罰を為す者の言葉に基づいて「愛」の範囲を定めるならば、体罰行為が暴走してしまうことは間違いない。“犬畜生にも劣る”ような行為を「愛」の名の下に行う者も出てくるだろう(この「愛」はマスタベーション愛である)。

では反対に、体罰を科せられた者の言葉を基準に「愛」の範囲を定めたらどうなるか? 体罰が横行することはなくなるだろうが、この規定は体罰を科す者が拠り所とする権威を消滅せしめるだろう。ならば、体罰を科す者科される者双方の同意に基づいて「愛」の認定をすれば? 双方が同意した時点で、体罰の意味そのものがなくなる。


昔はよかった。体罰を「愛のムチ」と解釈してくれる“空気”が日本中にあった。私もその“空気”を懐かしむ者だけれども、たかだか条例を一本成立させただけで時計の針が逆戻りして、再びそうした“空気”が復活するとは、とうてい思えない。もし本気でそんなことができると思う者がいるなら、その者を愛を無知な痴人と呼ぶほかない。

コメント

吐く痴

わたしはそれを「ムチの痴」と名づけよう。

クソクラッテス

彼はなぜそういうことを言い出したのでしょうか?
昨今の事件報道を見て、「犯罪者は体罰を受けて育っていないからだ」とでも思ったのでしょうか?
だとしたら、勉強不足も甚だしいですね。
凶悪犯罪者はたいてい体罰を受けて育っていることは国際的な常識ですが、彼は知らないのでしょうか?
いやいや、現に、彼自身もきっちり大人になってから犯罪者になっているではないですか。
それとも、彼は犯罪者を増やしたいのでしょうか?

ごんさん

ごんさんの言葉遊びのセンスには、私はとても敵いません(汗)。しばしばいただくTBにコメントでお応えできないのは、センスの落差ゆえ。ごんさんの言葉の前に、私は吐くべき言葉を見つけられない...。

スミマセン。でも、ごんさんが伝えたいことの数分の一程度は理解できていると思います。

*****

Runnnerさん

>昨今の事件報道を見て、「犯罪者は体罰を受けて育っていないからだ」とでも思ったのでしょうか?

そのように考え、そのように主張する者は多いようですね。東国原知事もその一人でしょう。

>凶悪犯罪者はたいてい体罰を受けて育っていることは国際的な常識です

Runnerさんがいう体罰と彼ら(そして私も)がいう体罰とは、意味が少しずれているのではないでしょうか?

体罰を含む身体的接触は、言葉と同じコミュニケーションのひとつです。どのようなコミュニケーションもそのやり方によっては相手を傷つけることができます。凶悪犯罪者は心に傷を負った人でしょうから、凶悪犯罪者を生んだ体罰は、身体を傷つけるだけでなく心をも傷つける悪いコミュニケーションだったのでしょう。

けれど、この事実があるからといって、親や教師が子供を打つといった身体的コミュニケーションのすべてを悪いコミュニケーションだと限らない。体罰が子供たちの心を育む良いコミュニケーションになる場合もある。そうした場合に、その体罰は「愛のムチ」と呼ばれる。私はこれもまた事実だと思います。

問題は、体罰が良いコミュニケーションなのか悪いコミュニケーションなのか、その線引きを明確にできないことにあると考えます。法(条例)とするならば「愛の範囲」を誰からもわかるように、誰にでも平等に適応できるように明確に定義する必要がありますが、そのようなことは不可能です。

>身体を傷つけるだけでなく心をも傷つける悪いコミュニケーションだったのでしょう。

精神的苦痛うんぬんというレベルの話ではなく、もっとテクニカルな理由のようですよ。
わかりやすくいうと、幼少年期の体罰は「脳に傷が付く」のだそうです。
で、あまりにも日常的に受ければ、攻撃部位を圧迫する状態で脳が成長してしまい、暴力的な大人になってしまうとのことです。
そして、大人になってしまった脳は治癒不可能なのだそうです。
よって、体罰によい体罰も悪い体罰もないらしい。
考えてみれば、子に体罰を加える動物は我々人類だけです。デリケートな脳のことですから何らかの異常が出ても何ら不思議はないでしょう。

それよりも、知事が何らかの強権を発したいのなら、ベビーバギー禁止条例でも出せばどうでしょう。
その方がよほど教育効果はあるでしょう。

体罰の変質、文化の変質

現代においては、Runnerさんのおっしゃるように、ダメージを残さないように体罰を行うことは不可能に近いかもしれない。
それほどに、心のかたちそのものが変質してきている気がします。
また、体罰よりも、さりげない一言とか、ほんの一瞥にこそ、生涯にわたる傷、心理的ダメージになることも、これは昔からあった気がする。
一方では半殺しにされても、逆に後から感謝や親愛の気持ちを抱けるほど、なんら傷にならない体罰も確かにあった…。
これは今の子には想像つかない世界だろうなあ。

よく、「暴力はよくないが体罰はよい」という人がいます。
しかし、私はむしろ一般的な「暴力」の方が、「体罰」と銘打って正当化された暴力よりもまだマシではないかとさえ思います。
もし、体罰に教育的効果があるのなら、大人に対しても、是非、適用すべきでしょう。
子も親に体罰を加え、生徒も教員に体罰を加え、性犯罪者の夫には妻のかとうかずこさんが体罰を加えるべきです。
しかし、そんなことを主張する人はほとんど見ません。
つまり、「体罰」というのは、所詮、儒教秩序の中でのみ行われているに過ぎない。

私が学生の頃、忘れ物をする生徒に体罰を加える教員が多くいました。
ある時、その教員が教科書を忘れたことがありました。
生徒が忘れ物をしたら困るのは本人ですが、教員が忘れ物をすると生徒全員に迷惑がかかります。
また、教員は通常、「大人になってから社会に出てから困るから」との名目で体罰を行っていたわけですから、その大人である教員が忘れ物をしたのですから、大いに困ってもらわねば困ります。
さて、どうなったでしょうか?というと、「ありゃ、先生教科書忘れたから、ちょっと貸してね。君たちは二人で見せ合ってね」で終り。

家庭においても、子はちゃんと見ています。
「ウソをついた」「約束を破った」と言って体罰を加える親が、自身は平気でウソをついたり約束を破ったりすることを。
そして、「結局、強者は弱者を殴ってもかまわないということだな」と学び取ってしまうだけでしょう。

おっとろしい話ですねー。

 Runnerさんのコメントを読んで、改めて体罰は違法行為であり、非人間的な行為だと確信を深めました。殴り合い、ど突き合いの応酬になるわけですね。おっとろしいです。

 現在の日本の刑罰でも体刑は禁止になっていますね。しかし、死刑って最高の体刑、体罰ですよ。

筋肉痛

身体を動かす機能を担うのは筋肉です。その筋肉に大きな負荷をかけると、つまり、普段使う以上の大きな力を出すと、筋肉を構成する筋繊維は切れていきます。

筋肉痛と呼ばれる現象は切れた筋繊維が再生するときに生じる痛みですが、この再生の際に、切れた筋肉は以前よりも太いものとなって再生する。大きな負荷→筋繊維切断→再生のサイクルを繰り返して、筋肉は発達し、より大きな力を出すことができるようになっていく。

こんなことを書いたのは、脳にも筋肉と同様の再生力があるのではないかと思うからです。もちろん、筋繊維と脳細胞とを同一に比較はできませんが、生命の特長であるホメオスタシスが細胞レベルの死と再生によって維持されていることを考えると、脳に再生力がないと考えるのは不自然というものでしょう。

>わかりやすくいうと、幼少年期の体罰は「脳に傷が付く」のだそうです。

それは事実だと思います。ただし、その傷は幼少年期であっても再生できないのかというと、私は再生できるのではないかと思います。

脳細胞は一日に1万個死滅するといわれていますが、にも関わらず、私たちが昨日と変わらぬ脳機能を維持し続けることができます。この事実は、脳細胞の死が別の何かの再生で補われているはずという推論を成り立たせる。脳機能は脳細胞そのものによるのではなく、脳細胞間の神経接続によるというのが定説のようですが、そうだとすると、ある脳細胞の死によって失われた神経接続は、別の細胞の神経接続が新たに生まれることによって補われているのでしょう。

そう考えれば、体罰による脳の傷も再生出来なくはないはずだし、その再生がより強い神経回路を生み出す可能性もあるはず、と考えます。

実際の話として、私は幼少の頃体罰をたくさん受けたであろう高齢者と日常深く接していますが、精神的な逞しさを感じても、傷ついたような印象を受けることは少ない。年老いてもなお、傷を再生する生命力を感じます。その逆といっていいのが、体罰を受けたことが少ないであろう、今の子供たちです。ちょっとしたことでも脳に傷となって残ってしまう印象がある。

これは科学的な裏づけの主観的な印象に基づいた話ですが、そうそう間違っているとも思えないのですが。

単なる暴力と体罰を混同する人が、体罰を行う人、体罰を受ける人、体罰を論じる人に多くなった気がします。

そもそも法律で体罰は禁止されています。事が公になれば、教師は確実に処分されるわけで、そのことを知らない教師はいません。仮に体罰が法で認められているとしても、やり方やタイミングを誤れば、生徒に残るのは屈辱・落胆・トラウマ・憎悪となり、ただの暴力に落ちぶれます。ですから、実際に体罰を行うのは非常に難しい。行う人と受ける人との信頼関係は絶対条件、その上で、タイミングとやり方が正確でなければならない。体罰というのは、「生徒のためにリスクを背負う」という覚悟と情熱がなければできない代物であり、どこかの評論家が言うような生易しいものではないのです。

人間は感情の生き物であり、また、必ずしも理論がそのまま通用するものではありません。
Runnerさんの発言は、理論的に間違いと指摘することはできませんが、『人間』を考慮していないんじゃないかと思います。

体罰が「許される」人というのは、「下の責任は、たとえ自分がどうなろうと自分が取る。」という人です。下に責任を押し付けて逃げるような人がやるのは「ただの暴力」です。

かつて、昭和天皇がマッカーサーと会談したとき、正確な記録は残っていませんが、「この戦争の最高責任者として、あなたに身を預けるために来た。この有価証券と私の身をいかように処分しても構わないので、国民を食べさせてやって欲しい。」と、概ねそんな内容だったそうです。
こういう覚悟がある人が行う体罰を、単に理論だけで批判しても、それは「人間らしい」とは決していえないでしょう。

犬の躾けと同じ(笑)

>実際に体罰を行うのは非常に難しい。行う人と受ける人との信頼関係は絶対条件、その上で、タイミングとやり方が正確でなければならない。

これ、犬のしつけと同じです。ケモノの場合、言葉が通じず、記憶力も短いから現行犯でなければ叱れない。後から叱っても虐待にしかならない。

欧米では子供はケモノというのが一般認識でしょう。だから徹底的に躾けるし、その成果もあってか子どもは大人と同じ場所では大人しい。体罰も行うはずです。私自身の体験でも、アメリカ人が幼児に体罰を加える場面を見たことがあります。

>「生徒のためにリスクを背負う」という覚悟と情熱

生徒あるいは子のためにリスクを背負う覚悟と情熱。これについては、ハムレットさんのこのコメントを思い出します。

昔、中村久子という人が居た。幼い頃手首から先両手両足を失った。
でもその人は針に糸を通し裁縫が出来たという。何を教わったか、何も教わってない。
失った時、その人の母は泣き悲しんだ。でもある日から泣くのを止め子供を突き放した。
手の有る親では手のない子の裁縫は教える事は出来ない。自分で探す様に、
自分の生き方は自分で掴むしか、親が手助け出来ない事を悟ったのだと思う。
短い命なら助けてやっただろうけど、親が死んだ後はどうなる、今の内から
練習しなければ、間に合わないと思う気持ちが突き放した。
近所からいたいけな子に酷い仕打ちをする酷い親だと罵られながら。
親は涙を流さなくても本当はかなしかっただろうね。

近所からいたいけな子に酷い仕打ちをする酷い親だと罵られながら。覚悟と情熱がなければ、中村久子さんの親の仕打ちは、虐待以外の何ものでもなかったでしょうね。子どもは敏感です。躾を行う者に、その覚悟があるかどうはすぐ見抜きます。

>Runnerさんの発言は、

私はRunnerさんとは、体罰の定義がずれているという気がしてなりません。一般に欧米では子どもに体罰は加えないといいますが、痛感を刺激する躾がすべて否定されているかというと、そうでもないように思います。必要以上に痛感を否定する躾(アザができるほど叩く、など)を体罰として禁止しているだけなのだと考えます。

アザで思い出しましたが、私が話を聞いたアメリカ人は日本人と結婚して子どもを産んだ人で、その子どものお尻には蒙古斑があったんですね。蒙古斑がアチラでは虐待で出来たアザのように誤解されることが多くて、大変なんだと言ってました。でも、どうしても子どもが言うことを聞かなければお尻を叩くのよ、とも言ってました。

犬の躾?

こんにちわ 初めましてエミルと申します
犬の躾けに反応してしまいました(笑)
私は自分の犬の訓練をしていますので愚樵さんのコメントに共感する部分もあります

体罰を暴力と決めつけたい人の気持ちもわからなくはないですが実際に子供を育てた経験があるのでしょうか?
「子供でも話せばわかる」と仰る方も知っていますが何歳のお子様を対象にしているのかも疑問です
子育てをしていてただの一度もお尻を叩いたり子供に手を挙げたことがないのでしょうか?

犬を例にあげれば犬は犬種や個体差によって躾けやすく体罰が必要ない
または体罰が逆効果になる場合があります
しかしそんな犬を飼っている人が全ての犬を扱えるわけでもありませんし全ての犬に自分の経験を生かせるわけでもありません

>実際に体罰を行うのは非常に難しい。行う人と受ける人との信頼関係は絶対条件、その上で、タイミングとやり方が正確でなければならない。

犬でもまさしく!そうです 
私の持論では「一般の家で飼う飼い主と犬」は体罰を行う技術よりも「信頼関係」を築くというのが一番の難問だと思います

飼い主が躾のテクニックを覚えても犬が飼い主を
「大好きで信頼できる自分の群れのリーダー」
だと認めなければ撫でられ褒められても嬉しくないし叱られても反発するだけです

あっ あくまで犬の話ですよ!

私も条例には反対ですが
わざわざ条例化しなければゲンコツ一つできない社会になったんだな~ 
と ちょっと悲しくも思う中年です、、、

一つのポイント

>一般に欧米では子どもに体罰は加えないといいますが、

いや、欧米でも体罰は行われていますよ。だからこそ、私が紹介したように、「犯罪者には体罰を受けて育った者が多い」というデータがあるのです。
というか、わくわく44さんも指摘されている通り、日本でも法律上は昔から禁止されているのですよ。
法で禁止していることと、実際にやっているかどうかは別問題なのです。
ただ、欧米と決定的に違うところは、彼らは決して「頭部」は殴りません。殴る場所はいちばん安全な「お尻」と決まっています。

>東西南北さん
>殴り合い、ど突き合いの応酬になるわけですね。おっとろしいです。

殴り合いというのは、友達同士ではあることですよね。
しかし、シチュエーションは「約束を破った」と同じであっても、「体罰」とは呼ばず、一般的な「暴力」として処理されます。つまり、「ケンカ」ですね。
なぜでしょう?
つまり、対等な人間関係においては、「体罰」という概念は発生しないということです。
ここに一つのポイントがあるように思います。

私は、人間であるからには、感情の発露として暴力をふるうことはあると思うのですよ。
しかし、それを「体罰」という形で正当化してしまうのは違うだろうと思うわけです。
「俺はお前を殴ってもよいが、お前は俺を殴ってはいけない」というのは卑怯ですよ。
つまり、昔の「寺内貫太郎一家」のような親子どつき合いの「ケンカ」の世界なら、むしろ健全のように思うのですよ。

Runnerさんへ

 そうでしたか。なるほどー。これは「虐め」か「遊び」かを区別する場合にも使えそうな基準ですね。一方的なのか、応報的なのか?
 
 しかし、ですね。フランス革命ではどうでしょうね?笑。常日頃は、政府の一方的な「体罰」に耐えてきた。ある時、民衆の憎悪感情が爆発した。ギロチン暴力革命が実現した。これって、体罰に耐えてきた子供が、ある時、父親を殺す暴力って構図と同じだと思うんですが。やはり、一方的な体罰も、体罰への憎悪感情の爆発である暴力も非人間的な行為であり、違法ではないでしょうか?体罰も暴力も人間らしくない行為であるが、正当防衛としての悲劇が起こる時がある。これが違法性の阻却であるが、体罰、暴力は非人間的な行為であるというのは人類の法、すなわち、人権ではないでしょうか?

>東西南北さん

>やはり、一方的な体罰も、体罰への憎悪感情の爆発である暴力も非人間的な行為であり、違法ではないでしょうか?

もちろん、その通りです。
ただ、一般的な「暴力」と「体罰」とどちらが悪いかという話として、異端的に考察してみました。

また、ご指摘のように、過度な体罰にはのちに報復があるということもポイントだと思います。
ただ、報復の対象が八つ当たりになる場合があるところがまた問題ですね。

Runnerさんへ

 まさしく。秋葉原の無差別殺人事件を考察し、あの凶悪犯罪の原因を究明していく場合にも「八つ当たり」報復という点はキーポイントでしょうね。彼は常日頃、どんな一方的な「体罰」を受けてきたか?縦社会の重圧です。職場にも、学校にも、家庭にもあったでしょう。彼もまた一方的な体罰を受けてきた被害者の側面があるのですが、これは「みんな同じ条件だ」ということで加害者の精神的な弱さが原因なんだから自己責任だという論調が強いですね。こんな調子だと第二、第三の凶悪事件が連続することは必然です。

Runnerさんへ

「体罰」として正当化できる条件は、以下のときに限られると思います。

1.教師と生徒との間に信頼関係があること。
2.教師自身がその「体罰」を行使することに「リスク」を背負っていること。(覚悟があること)
3.教師が体を張って生徒を「守る」意思が固いこと。
4.「体罰」として肯定する気が教師にないこと。

自己保身や単なる感情の発露でしかないものを、「体罰」として受け止める人はいません。
そして、肝心なのは「4」です。教師自身が「体罰だ。正当なものだ。」という気持ちがあったら、その時点でその体罰は意味を失います。決して肯定されるものではないというリスクを背負って、それでも生徒のことを守りたいからやる。だから生徒に伝わる。
そこまでの覚悟がないなら、体罰はやるべきではないと思います。

効果の意味あい

>東西南北さん
>まさしく。秋葉原の無差別殺人事件を考察し、

伝聞によると、あの犯人も親に不満があったようですね。
父親への不満はその時に父親にぶつけるのが筋であり、大人になってから秋葉原で通り魔をやってもらっては困るのです。
動物殺しやホームレス殺しなどのように弱い対象へはけ口を求める場合も多いですね。

>わくわく44さん

おそらく、日本の体罰でわくわく44さんの基準を満たしているものは少ないでしょう。頭部を殴っている点だけ見てもアウトです。
したがって、実質的にはわくわく44さんも体罰反対なのでしょう。

>1.教師と生徒との間に信頼関係があること。

日本の実態としては、むしろ信頼関係がない状況下が多いように思います。
というか、信頼関係がある間柄においては、体罰を要するシチュエーションが減るともいえると思います。

>4.「体罰」として肯定する気が教師にないこと。

青春ドラマの熱血先生がこのタイプですかね。
ただ、これは私的には「体罰」とは違うように思うのです。
定義というのは任意のものなので、人それぞれ微妙に違うわけですが、私としては、「体罰」とは「暴力、および、それへの恐怖心によって相手をコントロールする行為」だと考えています。

その意味で、私はどんな「体罰」にもある種の効果はあると思います。
ただ、果たして、それは「教育的効果」なのかどうか?
まず、「教育」自体が内面に訴えて自発的に相手を変える行為を指すわけですから、外面的にコントロールするのは「教育」とは呼べないはずです。
また、行動をコントロールできても、精神が変わっているのかどうか。
つまり、体罰で「悪いことをしなくなった」としても、「悪いとわかったからやめたのか」それとも「殴られるからやめたのか」がわからないわけです。
たとえば、恐ろしい体育教員の前では静かに授業を受けている生徒が、おとなしい女性教員の前では騒ぎまくるというのはよくある話です。
つまり、これらの生徒たちは単に恐怖心に屈服しているだけで、精神は「そのまんま」だと思うのですよ。

エミルさん、はじめまして

返事が遅くなりまして、申し訳ありません。

エミルさんも犬を飼っているらっしゃるようで。私のところも2匹飼ってます。子供は飼ってないのが残念なのですが(笑)。

エミルさんのご意見と私の見解とは、ほぼ一致するように思うのですが、2点だけ。

>あっ あくまで犬の話ですよ!

人間も犬の白熊も、私は基本的に同じだと思ってます。だから、この一文は不要かと(笑)。とはいえ、一応、つけるべきではありますよね。そうしないと社会常識を疑われてしまいますから。

>私の持論では「一般の家で飼う飼い主と犬」は体罰を行う技術よりも「信頼関係」を築くというのが一番の難問だと思います

一番の難問ですか? 人間はともかく、相手が犬であれば難しいとは思いませんねぇ、私は。

ごく簡単に、感情の赴くままに誉め可愛がり、感情に赴くままに叱ればよいと思ってます。難しいのは、叱るときのタイミングや体罰の仕方などのコントロール。これはテクニックですね。コチラの方が難しいように思います。簡単に考えすぎかな?

ああ、でもこれは仔犬から飼う場合。ある程度人格(犬格?)が固まった成犬だと、やはり信頼関係の構築が難しいのかもしれません。

体罰定義の難問

やはり話は体罰の定義の違いに落ち着いていきそうですね。

とはいえ、この定義が難物です。だから条例化しようとする東国原氏に難癖をつけるエントリーになったのですが。体罰はセクハラ等と同じ、その行為がなされた文脈に依存しますから、客観的定義は難しい。どのように定義しても、一旦体罰が認可されると暴走する者が出てくるのは防げませんから、ならばいっそのこと全面的に禁止してしまえ、という方向性は、私も正しいと思います。少なくとも公権力が体罰にお墨付きを与えるべきではありません。


>たとえば、恐ろしい体育教員の前では静かに授業を受けている生徒が、おとなしい女性教員の前では騒ぎまくるというのはよくある話です。
>つまり、これらの生徒たちは単に恐怖心に屈服しているだけで、精神は「そのまんま」だと思うのですよ。

ここは、生徒たちの「恐ろしい」という感情が単なる恐怖心なのか、畏怖ともいえるものなのか、それによってずいぶん差が出てくるだろうと私は思うのですが。

体育教師への感情が単なる恐怖心であれば、生徒たちがおとなしい女性教員を前に騒ぐのは、恐ろしくないのでバカにしているからでしょう。対して、体育教師に畏怖を抱くような生徒であれば、騒ぐのは甘えからということになるだろうと思うのですね。表面的な現象は同じでも、内実はかなり異なるだろうと思う。

畏怖という感情の根本には、自分と他者との間に序列があるが同時に平等でもあるという認識が必要です(神への畏怖というと話は違いますが)。おそらくこの認識は人間にとってかなり初期的なもので、言葉を解するようになるまでに教えておく必要があるのではないでしょうか? その畏怖を教える方法が、信頼関係のある中での体罰だろうと思うんです。

今はこの畏怖感情が希薄になっているような気がしますね。平等であるか、もしくは序列があるか、どちらかになってしまっている。これは幼い頃に畏怖感情を学んでいないからでしょう。

2点

お返事をいただきありがとうございます

疑問の2点についてですが
1点目はお察しのように社会的常識を疑われない為に入れました(笑)

2点目は昔から犬を飼われている方にはピンとこないかもしれません 
既に身に付いているバランス感覚だからです

今のペットブームで増えているのは小さな愛玩犬です
飼い方も外飼いや犬舍飼いは殆どなく家の中で飼う飼い方が主流です 
一緒に寝たり洋服を着せたり 犬と人間の距離が近くなり
動物を飼うという感覚よりも子供を育てるように擬人化し甘やかしかわいがり
犬に「なめられている」飼い主が多いのです
飼い主がなめられていたら犬を叱ったら犬は反発しますし褒めても嬉しがりません
そうなったら叱る褒めるテクニックを覚えても効果は薄いです

という最近のペットブームで躾に悩む飼い主の傾向を考えた場合の持論なんです
(都会ではそういう飼い主が増えています)

犬も子供の躾も 前は「あたりまえ」と普通に感じた事が今は変わっている気がします

愛と体罰

よく考えたら、大人にも体罰はありますね。
たとえば、米国では黒人奴隷は白人から体罰を受けていました。
「ルーツ」のクンタ・キンテは脱走しようとしたため、足の指を切断されました。
日本ではつい昔まで妻に体罰を加える夫がいました。今でも「DV」と呼ばれながらも内容は同じ場合があります。
また、プロ野球のチームでもコーチによっては体罰を加える者が今でもいるようです。

しかし、書いていて、ふと疑問に思ったのですが、なぜ、体罰を受ける側は逆のことを要求しないのか?
それを「愛」と呼ぶのであれば、健康に悪いと注意しても酒や煙草を止めない父親に対し、子は「愛のムチ」を加えるべきなのか?
それをしないのは「愛していない」ことになるのか?

いや、親と子、教員と生徒、飼い主とペット、というケースなら、我々儒教徒はまともな思考ができそうにないので、夫と妻という弱いケースで考えるのがよいかも知れません。
ちょうど最近DVをテーマにした「ラスト・フレンズ」という高視聴率ドラマがありました。(最終回は週間視聴率1位だったそうです。)
このドラマでは錦戸亮くん扮する夫は、やれ「ウソをついた」「約束を破った」と言っては、長澤まさみちゃん扮する妻に体罰を加えていました。
そのくせ、この夫は平気で妻にウソをつき約束も破る。
しかし、妻はその点をつくものの決して夫に体罰を加えようとはしない。
なぜでしょうか?

「言うことをきかないから」として体罰を加えるという前提には、「言うことをきかそう」および「言うことをきくべきだ」という意識があるわけです。
結局、夫の愛と妻の愛には違いがあるように思えます。
要するに、夫は妻を支配対象と見ている。だから、「言うことをきくべきだ」という意識が生まれる。
つまり、夫の愛は「支配愛」であり、妻の愛はそうではないということだと思います。
「体罰」が発生しているということは、少なくとも片方は隷属関係で相手のことを見ているということだと思われます。

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