愚慫空論

多種多様な幸せの形(1)

「愛」に続いて、今度は「幸せ」がテーマです。瀬戸さんからTB頂いた記事を読んで、その余韻が残っているところに見たTVニュースが本エントリーのきっかけなんですが、そのニュースとは、

同性婚解禁で結婚ラッシュ 米・加州

 同性愛者同士の結婚が解禁となったアメリカ・カリフォルニア州では、同性カップルの結婚ラッシュが起きている。

 カリフォルニア州最高裁の判決を受けて解禁された同性婚、スタート直後からゲイやレズビアンのカップルが続々と役所を訪れ、念願の結婚証明書を手にした。カップルの中には、SFドラマ「スタートレック」に出演した日系2世の有名俳優、ジョージ・タケイさんの姿もあった。同性婚が解禁されたことについて、ジョージ・タケイさんは「とてもうれしいです。(第二次大戦中)日本人は憎まれたけど、今、私は結婚をマスコミに騒がれるほど人気者になりました。アメリカは変われるのです」と喜びを語った。

 同性婚解禁は全米の州で2番目だが、カリフォルニア州の場合、州外の居住者にも結婚を認めている。このため大勢のカップルが訪れ、今後3年間で約740億円の経済効果も予測されている。

 保守的な地域では、宗教上の理由などから同性婚への反対の声も根強くあるが、カリフォルニア州は全米で最も人口が多い州だけに、アメリカ社会全体にどのような影響を及ぼすのか注目される。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20080618/20080618-00000015-nnn-int.html

(引用はNNNニュースだが、見たのは昼のNHKニュース)

正直なことを言います。このニュース報道を見たときには、気持ち悪いと思ってしまいました。年配の男性が2人、抱き合っている姿がTV画面に映し出されたからです。男同士が抱き合うのには様々なシーンが考えられますが、この報道で映し出された男性2人の仕草は、明らかに通常なら男女の間で交わされる仕草でした。つまり性愛の表現を含んだ仕草でした。これは当然といえば当然ではあります。同性結婚が認められたという報道なのですから。この報道を見たときの私の中には、男同士の抱擁を当然と受け止めようとする理性的な部分と、生理的な違和感を抱いてしまう感性的な部分とがせめぎあっていました。

ニュース映像は、最初に映し出された男性2人のほかにも、幾組かのカップルが登場しました。女性同士のカップルもありました。それらのカップルを映し出す映像を眺めているうちに、私はあることに気が付きました。カップルは皆、幸せそうだったのです。そして、彼らが幸せそうだと気が付いた瞬間、それまで抱いていた違和感はかなり和らぎました。彼らにとってはそれが自然な姿であって、同性結婚が認められたことは、それまで社会的に抑圧されていた自然な姿が解放されたということです。それまで抑圧されていた者にとって、この解放が嬉しく、幸せを感じないはずがない。報道映像はそうした幸せの姿を映し出していました。このような時の映像の表現力は、とても言葉で太刀打ちできるものではありません。

ニュース報道は一方で、同性結婚を認める米・加州の最高裁の判断に異議を唱える人たちも映し出していました。この種の人たちの主張は、私も理解しないではありません。こうした人たちの根拠は彼らの価値観の根源であるキリスト教にあって、そのキリスト教的価値観を共有しているわけではありませんが、同姓婚に生理的違和感を覚えてしまうことは否定できませんから。この違和感が彼らの主張とどうしてもかみ合ってしまう。

だが、もちろん私は同姓婚に反対する主張には賛同できません。自然な姿は、同一の生物種といえど、個体それぞれで差異が存在する。これは科学的な事実といってもいいでしょう。身体の性と精神の性認識が一致しないことを性同一性障害と呼称しますが、これは個体間の差異でしかなく、そうした特徴があるからといって、その個体が異なった生物種ということは断じてない。ないからこそ同性愛者も実に自然な喜びの姿を発露させる。その姿を同じ生物種としてのもの感受するわけです。

(話が少しずれるが「性同一性障害」の呼称には釈然としないものを感じる。精神と身体の性認識に同一性のないことは、障害なのだろうか? こうした特徴をもつ人たちは異性に性的吸引力を感じないから、そうでない人と比較した場合に生殖機能を活用しようとする性向に欠けているとはいえる。とはいえ、生殖機能そのものに障害があるわけではない。性同一性障害と呼称される人たちにとっての障害は、彼らの生理的機能にあるのではなく、彼らを取り巻く社会の認識の方でだろう。だとすれば「性同一性障害」とは非科学的な呼称であるし、またそうした呼称が科学的として一般に通用している現実から判断すると、科学は単なるツールだとは言い切れない側面を持っていることになる。科学の中に社会的な判断基準が紛れ込んでいるが、科学者はその基準を排除していない。とすれば、科学を単なるツールではなく社会的判断基準として通用させてしまっている責任の一端は、科学者にもあると考えざるをえないのではあるまいか。)

もうひとつ私自身の恥をさらしておきます。同性愛者に案じる違和感と同様のものを、私は身体障害者にも感じていました。特に知的障害者には違和感を禁じえなかった。そうした違和感が薄らいだのも、正直なところを告白しますと、ごく最近のことです。

小学校の頃の話ですが、クラスメートに知的障害者がいたことがあります。先生たちは、もちろん私たちに彼を差別してはいけないと教えていました。けれど、そうした教えを私を含めたほとんどの者は受け入れて受け取っていなかった。むしろ学んだのは、そうした教えに対して建前と本音とを使い分けることだったと思います。表面上は同等の友達のように装ってはみても、本音は別種の生き物だと感じていた。いくら言葉で言い聞かされようとも、納得できませんでした。彼はどう見ても、振る舞いや仕草が私たちと異なっていたからです。子どもだったのでまだ建前と本音の使い分けが上手にいくわけもなく、先生が見ていない場面ではよく彼をいじめました。そうした私たちを先生は、ときには感情的になり涙を流しながら私たちを叱ったものでした。先生の感情には反省しながらも、違和感を埋められるまでには至らなかった。そして、その後は障害者と接する機会もないままに成人になってしまっていた。違和感を解消せぬまま成長してしまったのです。

違和感解消の機会に恵まれたのは、森の中で遊ぼうといった類のイベントのときでした。そのイベントの参加者の中に、知的障害者の少年がいた。両親と共に参加して来ました。そのとき私は、小学校以来の違和感が復活しまう感触を感じていました。彼の参加そのものに不快感を覚えはしませんでしたが、あまり近づきたいとは思わなかった。私自身のなかにやましさがあったんだと思います。小学校の頃の障害者のクラスメートをいじめた罪の意識と、未だ解消できない違和感とが少年に近づくことを妨げた。けれど、少年の存在に関心はもっていた。これもおそらくやましさの所為です。

私はその少年の様子を横目で観察していました。最初はぎこちない感じでした。そのぎこちない感じは小学校のころのクラスメートと重なり、やっぱり障害者ってのはこんなものか、と思っていた。ところがイベントが進み、彼も緊張が解れてきたのでしょう。次第次第に喜びの表情を見せるようになってきた。確かにその表情は、健常者のそれとは多少違う。しかし、時間をかけて眺めているうち、その表情が彼にとっての自然なのだと気が付いた。彼の表情には、私たちとは若干異なっているけれど、それでも私たちと同様の法則性といったものがあったのです。法則性という表現は正確ではないけれど、たとえば犬が尻尾をふることによって喜びを表現するときに、その尻尾の振り方なりに私たちが感じ取る法則性、もしくは癖とでも言った方が正確かもしれないけれど、そうした命ある者に共通に感じられる何かが少年の中にもあることが感じ取ることできた。そこに気が付いた瞬間に、彼に感じていた違和感がスッと解消して行ってしまった...。

同性愛者の幸せとその表情。知的障害者の幸せとその表情。これらは健常者である幸運に恵まれた私や大多数の私の周囲の者たちとは異なるものはあるけれど、幸せは紛れもなく幸せであることには変わりはなく、その表情も見慣れさえすれば健常者にだって喜びの表情だと理解できます。一旦理解してしまえば、健常者だとか障害者だとかいった区別は無意味になってしまいます。それぞれに違った形の幸せと幸せの表情はあっても、どれもこれもが幸せ。ほんの少しだけそれぞれの個体の中の自然の在り様が異なるだけのことで、自然の大本、生きようとする意志の発露である幸せそのものには何の変りもありません。そして、それぞれで少しずつ異なる自然の姿は、感性でしか捉えることができません。


さて、実はここからが本題、とするつもりでしたが、本題の部分は次のエントリーに譲ることにします。ここまでは幸運な健常者と不運にも健常者と呼ぶことができない人たちの間の比較で話をしてきましたが、健常者の間でも自然の姿は個体それぞれで異なりますし、棲息している地域や時代によっても異なる。地域や時代による人間の自然な姿の差異が一般には「文化」と呼ばれるものなのでしょう。人間はそもそもからして文化的な生物種であり、文化の形によってその自然の姿に差異が生じる生き物であると思われます。

コメント

ちょっとコメント

多様な生を内包して豊かに脈動する文化だけが、真の意味で人の生きる意欲を支えうる。
様々な価値観が、現実の生身の生の内で錯綜し、反発しあい、やがて融合していく。
そのダイナミズムが生の豊饒をうむのだと思います。
現代はそうした豊かさから遠ざかろうとする強いベクトルが働いている時代という気がします。
では

この場合の「同性婚」は、一方が「性同一性障害」だということでしょうか?それとも、完全な同性婚なのでしょうか?
私の場合、完全な同性婚の方は今一つ感覚的に理解できません。
小学生低学年までは男の子同士が手をつないで学校に行っていたので、そういう感覚なのかなと思ったりもします。
また、ボノボという類人猿はオス同士メス同士も性行為をするそうなので、我々人類もそういう要素を持っていても不思議ではないということなのかなと考えたりもします。

>身体の性と精神の性認識が一致しないことを性同一性障害と呼称しますが、

これは体の性と脳の性が一致しないと考えた方がよろしいかと。

>精神と身体の性認識に同一性のないことは、障害なのだろうか?

社会生活を送る上で不利益を被りますからね。
これは日本語の「障害」と英語の「ハンディキャップ」との違いも関与してきますね。
「障害」は本来の意味を無視して「=ハンディキャップ」の記号としてとらえた方がよろしいかと。

naokoさん

自然を眺めていると、錯綜、反発、そして融合が自然の中でも生の在り様であり、その有機的集合体が自然という生なのだと感じます。

自然の現象の中には価値観などといった観念はもともと存在しません。現象に価値観を付与するのは人の主観ですが、人は自分の生を意識的に眺めることを憶えてしまうと、どうしても価値観を付与せずにはいられず、価値観を〈確固たるもの〉にしようともがく。そして〈確固たるもの〉を求めるほどに融合を拒否する。とくに理性によって価値観を〈確固たるもの〉としようとする者ほどその傾向が大きいように感じられます。

Runnerさん

>この場合の「同性婚」は、一方が「性同一性障害」だということでしょうか?それとも、完全な同性婚なのでしょうか?

そのあたり、よくわかりません。ご指摘を受けるまで考えてもみませんでした。さて、どちらなのでしょう?

>私の場合、完全な同性婚の方は今一つ感覚的に理解できません。

それは私も同じです。
(理解できない感覚を理性によって批判的に眺め、別の感覚によって同姓婚の者たちの幸せを感じ取ろうと意図しています。)

>ボノボという類人猿はオス同士メス同士も性行為をするそうなので、我々人類もそういう要素を持っていても不思議ではないということなのかなと考えたりもします。

「エロス」という言葉を生み出した古代ギリシャ人が、もしかしたらボノボに近い感覚を持っていたのかもしれませんね。詳しくはわかりませんが、どうもこの「エロス」は異性の性的吸引力のみならず、同性異性をとわず健康的な肉体が発するメッセージ全般を指すように思います。そしてその「エロス」が性的なものと極めて近いところにある。また今でもギリシャ人にはホモセクシャルな嗜好を持つ人が多いように聞きますし。

>社会生活を送る上で不利益を被りますからね。

そうなんです。あくまでも社会生活上の話に限定されるのでは、と疑問を持ったのです。社会生活上限定ならば機能障害ではない。人種差別、部落差別と同様の社会通念から来る差別でしかないのではないか、ということなのです。もしそうなら、「性同一性障害」となんからの障害があるかのような呼称は問題があるでしょう。例えば黒色人種を「メラニン色素障害」などと呼称すれば、大変大きな社会問題に発展するはずです。

ご無沙汰しています。

ブログ再開しましたので、お知らせをかねて。

>性同一性障害と呼称される人たちにとっての障害は、彼らの生理的機能にあるのではなく、彼らを取り巻く社会の認識の方でだろう。

アフリカのどこかの部族だったと思うのですが、そこでは、ジェンダーを自由に行き来することができるのですね。「今日から女になります」と宣言すれば、周りは女性として扱うし、「やっぱり男になります」と言えば、男性として扱われる。

そういう社会では、体の性と「性自認」が違っていることは「障害」にはなりません。

障害者自身ではなく、彼らを取り巻く社会が変わることにより「障害」は減らせると私は思っています。段差をなくすなどの街のバリアフリーが進み、「感情障壁」というこころのバリアフリーが進めば、障害の定義自体も変わってくるかもしれませんね。

そりゃネットだ(爆)

水葉姫、ようこそ。

>アフリカのどこかの部族だったと思うのですが、そこでは、ジェンダーを自由に行き来することができるのですね。

アフリカに行かなくても、ネットなら今すぐにでも可能ですね。私もジェンダーチェンジを宣言してみようかな、ってムリムリ(爆)。でも、できそうな人はいなくもない。例えばあの人とか...。

冗談はさておいて

>「感情障壁」というこころのバリアフリーが進めば、障害の定義自体も変わってくるかもしれませんね

はい。そして、そのための「対話」なんだと思います。「感情障壁」を取り除くには、感情まで込みの「対話」の必要があると思うのです。

Runnerさんに書いたとの同じことを書きますが、「感情障壁」の存在は理性で認識できます。しかし、理性の力はそこまでだと私は思っている。認識した「感情障壁」を打ち破るには、新しい感性と、その感性を織り込んだ「対話」が必要です。

そういえば

多田富雄著『生命の意味論』に「性とはなにか」という章があって、そこで同性愛についての記述があることを思い出しました。ちょっとだけ引用。

 同性愛の成立の原因として、従来はフロイト的解釈に基づく、幼児体験や生活環境を重視してきたが、どうやらそれは、もっと生物学的、解剖学的なものに規定されているらしい。そうだとすれば、同性愛を異常性欲として差別したり、道徳的に非難するのは全く根拠のないことである。同性愛はまさしく、人間の性の生物学的多型性の中のひとつの形なのである。
(私としては、「道徳的に批判するのは全く“科学的”根拠のないこと」としたいが)

もうひとつ。

 しかし私(多田氏)には、間性(≒半陰陽)も間性的行動様式も、自然の性の営みの多様性の中で正当に位置づけられるべきと思われる。性の多様性が、基本的に生物学的な必然だとしたら、それを基礎にして生み出される性の文化的多様性も受け入れるべきであろう。女と、その加工品である男だけという単純化された二つの性と、それによって営まれる生殖行動しか存在しないよりも、さまざまな間性と間性的行動をもった人間の方が、生物学的にも文化的にもより豊かな種のように思われる。

下の引用は、明らかに多田氏の主観的な科学解釈。私(愚樵)は、多田氏の科学解釈に同意すると共に、ここに科学解釈のひとつの理想形をみるような気がする。何がどう理想形なのか、説明は全く不可能だが(だから突っ込まないでくださいね)。

自然であること

愚樵さんのおっしゃるように、そこがポイントなのだと思います。
人間もまた自然の一部であり、どうあがいても自分を客観視することなどできないのだと思います。
だからこその対話なのだと…。
最も大切なことは、「自分の自然なありよう」を探ろうとする中で、鋭敏な感覚を育てていくことなのかもしれません。
『道(タオ)』を探るとでもいうのでしょうか(笑)。
全ては繋がっている。自分というのは、決して完全に個別化され、切り離された者としては存在できないのだから。
主観の、つまり価値観の確立など不可能なことですね。

>ご指摘を受けるまで考えてもみませんでした。さて、どちらなのでしょう?

一方が性同一性障害の場合は、性同一性障害を認めるのであれば、正確には「同性婚」とはいえないように思います。
もしかすると、一見、完全な同性婚に見えても、実は一方が細かいところで性同一障害なのかも知れません。

「クマノミとイソギンチャク」でおなじみのクマノミという魚は性転換を引き起こすことでも知られる不思議な魚なのだそうです。
たとえば、水槽にメスがいないと、ある時、オスがメスに変わってしまうのだそうです。
もしかしたら、我々人類もそういう流動性を持っているのかも知れません。
たとえば、男子校、女子校では共学に比べて同性愛が発生しやすいと聞いたことがあります。

そもそも、我々の性別は4段階で決定されるそうです。
一つは染色体。一つはホルモン。一つは脳。最後の一つは忘れてしまいましたが、社会的な要素だったように思います。
染色体は変わりようがないですが、他の3つの要素は後天的に変化可能みたいです。

>あくまでも社会生活上の話に限定されるのでは、と疑問を持ったのです。

生殖に支障があるというのはやはり機能的にも「障害」なのかも知れません。
それに、性転換手術などの医療行為を受ける際に、「障害」でないと都合が悪いという面もあるのでしょう。

もっとも、この「障害」というのは機能面であっても相対的なものだと思います。
たとえば、我々人類には羽根がなく空を飛べませんが、だからといって、それを「障害」とは認識していません。
しかし、もし、我々に羽根があるのが多数であれば、羽根のない人は「障害」ということになると思います。
その意味では、やはり、英語の「ハンディキャップ」というとらえ方の方が適切なのだと思います。

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