愚慫空論

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

今日は本の紹介から。内山節著『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

内山氏は、以前にも取り上げたことがある(「貨幣経済への疑義」「〈作法〉という知の形」。それから「ご先祖様」)。今の私には most favorite な哲学者。

favorite とはいっても特に熱心にフォローしているわけでもない。この本の初版は昨年の11月だが、知りもしなかった。知ったのは先日のNHK・BS。お玉さんが紹介していたブックレビューを見て、この本の存在を知った(お玉さん紹介の本は伊勢崎賢治著『自衛隊の国際貢献は憲法九条』)。レヴューを見て、さっそく amazon に注文した。

5月の末には本は届いていた。新書でさして読みでがあるわけではないが、一気に読まずにちょっとした空き時間を見つけてはぽつぽつと読み進めていた。主に朝の出勤前のちょっとした時間だったが、今朝、半分ほど読み進めたところで“しまった”と思った。何が“しまった”のかは後述するが、その“しまった”がこのエントリーの動機のひとつ。


それにしても『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』というのは、今流行のキャッチーな本のタイトルぽいが、どこか“おい、本気か?”と疑問を持たずにいられないようなタイトルでもある。人間がキツネやタヌキやカワウソなんかの動物に騙されたという話は、日本人なら昔話として承知しているだろうが、そんなのはいわば迷信の類であって、まともに取り合うべきテーマかというと少し首を傾げてしまうようなテーマでだから。だが内山氏は、迷信とは捉えずに、昔話になってしまったという“事実”と向き合う。キツネにだまされなくなったという“事実”から、日本人の精神世界の変化を読み解いていこう――これが本書の趣旨だ。

日本人の精神世界の変化の区切りに、内山氏は1965年を目安としてあげる。1965年を境にキツネにだまされたという類の話はめっきり減ったというのである(ちなみに私の近所には、21世紀になって以降もキツネにだまされたと主張する人がいる)。そして、その理由をいろいろな人に聞いて回る。聞いて回る相手は主に田舎のじいちゃん、ばあちゃんだろう。えらい学者でないことは間違いない。そうして集めた田舎の見識から、日本人の精神世界を読み解いていく。


ここで、冒頭の“しまった”の理由を記しておこう。こうした記述があったのである。

 畑仕事をしていると、石に感謝することがある。特に真夏に種播きなどをすると、晴天つづきで雨不足のときなどは芽がよく育たないときがある。そんなときでも小石の脇に出た芽は結構育つのである。なぜならば~ ・・・ ~そんなときは石に助けてもらっているとも感じるし、石もまた結び合う自然の生命世界の一員だと気づく。
 仏教思想にある「一切衆生 悉有仏性」という言葉は「大般涅槃経」に出てくる言葉で、すべての人間は仏性をもっている、だから成仏し、仏になりうるという意味である。ところがこの言葉は日本で変形した。「草本国土、悉皆成仏」、あるいは「山川草木 悉皆成仏」となったのである。草も木も、生命をもたないはずの土も石も、すべてが仏性を持ち成仏する、と変った。インドでは人間だけだったはずのものが、日本では自然界の生き物も、生命をもたない無機物も、人間と何もかわらず仏性をもっている、となったのである。
 ~

前エントリー「日本教」をご覧になっていただいている方はお気づきだと思うが、この文章、前エントリーで私が書いたものと似通っている。私は〈うつろいゆくもの〉だなんて観念を持ち出して不恰好な論理を展開してしまったが、上の文章はもっとスマートだ。この文章を最初に読んでいれば引用で済ますことができたものを。そうすれば、“オマエのオリジナルか?”だなんて突っ込まれることもなかったし。

“しまった”と思ったのは、そんなわけでだが、それはさておき、「山川草木~」の言葉を指して、専門用語では天台本覚思想というらしい。

 宗教の研究者たちは、教義を中心にして宗教を考察する傾向が強い。「大般涅槃経」に記された「一切衆生 悉有仏性」が中国で、人間が成仏で着るなら、その人間を支え関わりをもっている自然の生命も成仏できる、という思想を芽生えさせ、それが日本では、草木それ自身が仏性をもち、成仏を約束されていると、つまり人との関わりがあろうがなかろうが成仏すると変った。さらに石や岩も成仏を約束されているとなっていく過程に、最澄を経て中世に確立していく天台本覚思想をみるのである。そしてここに仏教がひとつの極限にまで深化した姿と仏教の自己否定を見る。なぜ自己否定なのかといえば、もしも現実にあるすべてのものが仏性をもち、成仏が約束されているとするなら、あるがままに生きればよいのであって仏教もまた必要ではなくなる可能性があるからである(だから、自然(じねん)は仏教では外道とされた――愚樵註)。

以上は、いうなれば「定説」とでもいうか、もっとも支持されている学説だろう。

 しかし、このような考察はあくまで研究者のものである。私(内山氏)が重視するのは本覚思想をきいたとき、「なるほど、そのとおりだ」と思った民衆の側の精神である。この精神がなければ、中世にこれほど本覚思想がひろまるはずがない。そして宗教とは、つねに民衆の側にあるのであって、民衆のいだいていた信仰的思いが教義によって言葉を与えられたとき、宗教は宗教として誕生する。

宗教は民衆の側の精神であり、教義は言葉を持たない民衆の精神に、言葉を与えただけ。

内山氏のこの視点に、私は共感する。はじめに言葉ありき、ではない。言葉より以前に、言葉にならない精神がある。精神は言葉によって規定されるのではなく、言葉は精神を〈言い当てる〉だけのものでしかない――この視点があってはじめて、日本人がかつてキツネにだまされたといった現象の本質も見えてこようというものだ。精神が言葉で規定されるのなら、言葉を話さないキツネが人間をだます訳がない、そもそも人間とキツネに接点はないということにしかならなず、キツネにだまされるといったテーマはナンセンスなものだとしか捉えられないだろう。


さて、最後に唐突に9条の話を。実は私は“言葉をもたない民衆の精神に言葉を与える宗教教義”から9条のことを連想していた。民衆の精神が言葉を得て明文化したものという構図は、9条にも言えることだと思ったから。

9条を支える民衆の精神は、言葉にならないというわけではない。「戦争は嫌だ」。9条の精神はこの一言に尽きるだろう。太平洋戦争の敗戦を経て、日本国民は9条の条文に「戦争や嫌だ」の民衆の精神が〈言い当てられている〉と見た。このことが9条が広く支持されるに至った理由ではなかったのか。高度成長期が始まった頃に当たる1965年を境に日本人はキツネにだまされなくなり、その精神のありようは変容したのかもしれない。では、同時に「戦争は嫌だ」の思いも変容したのか? あるいはそうなのかもしれない。

ひとつだけ、言っておきたい。9条はアメリカから押し付けられただの、9条を改正しないと国家としての態をなさないだのといった議論があるが、それらはみな、本覚思想を外道だと批判する仏教学者のそれと同じだ。あくまで学者の言でしかない。外道であるとかないとかの議論は、「山川草木悉皆成仏」の言葉に言い当てられた民衆の精神には関係がない。同様に押し付け憲法論の類も、「戦争は嫌だ」という国民の精神とは何の関係もない。

コメント

昭和30年代と40年代の差は大きい

これは、もうはっきり実感としてわかる。
ひとつには、子どもから、爺さん、ばあさんまで普通に通じていた‘情’が、以降、まるで通じなくなった。
それによって、流行歌も様変わりした。
子どもから老人まで、全ての世代で口ずさめる歌や、全ての世代が涙する歌が消えていった…。
『寂しい時に~は~、ハモニカふ~こ~う~』
『とう~ちゃんのためなら、え~んやこ~ら~』
他者の‘思い’への想像力が薄れ、人は孤独になっていった。
親の世代を、ものを知らない無教養なやつらと馬鹿にした…。
「通じないのは悲しいことですよ。」
日本中のじいさん、ばあさんが同じ嘆きをこぼした。
そのおじい、おばあも今はいない…。
残っているのは、『歌』だけだ。

はじめまして。

そもそも「人は狐や狸に化かされていたのか?」というのが私の素朴な疑問です。単に酔っぱらいの記憶が曖昧だっただけではないのか、という話も多く、狐に化かされた、ということで「許してきた」のではないか、と私は思っているのですが。そういう、おおらかな文化が昭和40年頃を境になくなってきた、ということではないでしょうか。

絵本が大好きで、サンタクロースから狐、妖怪、妖精・・・。現実とファンタジーの境があいまいな子ども時代を過ごしてきたため、これらを非科学的だと切り捨てることに、一抹の寂しさを感じたり・・・。わかってるけど、それはそれでいいじゃん、みたいな。

様々な「陰謀論」は、その延長線ではないかと感じることも多々。

「陰謀論」を支持はしませんが、当たり障りのないところで「不思議」を「不思議」のままとどめ置くこと、占いやおまじないのようなものを生活のエッセンスや潤いとして楽しむことまで「非科学的だ」と嫌悪する人を見ると、そう目くじら立てなくても、、と思ってしまいます。

たとえば薬なんて、どの成分がどう作用して効果をもたらす、なんてこと、「科学的に」解明されていないことがはるかに多いわけで・・・。

面白いエントリーに触発されて、大いに脱線してしまいました。お許しください。

化かされる

愚礁さん

こんにちは。

全然関係ないかもしれないけど、あたしは、食べ物とかかわりがあるのかな、とか思っていたんですよ。漠然とというかなんとなく。

普段の生活の中で普通に狸汁を食べていた猟師さんが、あるとき、行き倒れにたかっているそのケモノを見て以来、それを食べる気がしなくなった、なんてことはないかしら。とか。

昔話だったら、山でふたりで住んでいる年老いた夫婦のもとに、赤ん坊がやってくる話とか

人間の心が、やむにやまれぬ欲求から、ある種のファンタジーを生み出すというのはあるのだと思うのですよ。

でも、そういうのを好ましいと思うかどうかは、人によって違うようですね。私は、好きです。

TBありがとうございます。

当ブログにPINGがあったのを確認しまして、早速お邪魔します。

>内山氏のこの視点に、私は共感する。はじめに言葉ありき、ではない。言葉より以前に、言葉にならない精神がある。

「自己の探求/発見」の文脈と同じ道程を経て「擬似科学の立脚」があります。なんらかの言葉によって、それまでもやもやしていたものが明らかにされ、言葉として補強されることは誰の中にもある知的な営みです。
一方、疑似科学の文脈は「こうであるに違いない、いや、世界はそうあるべきだ」という信条を補強する形で実験事実を観測するのです。
両者に共通するのは「補強」です。見えていなかったなにかが「見えた」と思うところにあります。しかし結局、ほんとうに見ようとしていたものがなになのかは分からずじまいです。なぜなら「見えた」と思った瞬間からそのあとは、見えなかったもの=見えたと思ったものであることを補強するために思考を費やしていくからです。

しかし、本当にそうなのだろうか?
私たちはつねに、そこに戻るべきだろう、と思っています。

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