愚慫空論

日本教

日本教とは、端的にいうと、「もののあはれ」を感じ取とろうとする価値体系(信仰)なんだろうというのが私の見解です。そしてこの「もの」は、現在の私たちの常識では、客観的に捉えられる対象物を指すが、日本教では私たち自身の存在や主観も含めてすべてを「もの」というのだろうと。

キリスト教のような創造神を想定する宗教ではすべての「もの」を神の創造物と考え、「もの」の背景に神という〈確固たるもの〉を想定します。が、日本教はすべての「もの」を〈うつろいゆくもの〉と捉える。一神教が徹底してすべての「もの」を〈確固たるもの〉と捉えるのに対して、徹底してすべての「もの」を〈うつろいゆくもの〉と捉えるのが日本教。本当に勝手な見解ですが。


日本語のもともとの言葉――やまと言葉――には「自然(しぜん)」を示す言葉がなかったというのは、よく知られたことです。これは、現在の私たちには意識することまでもない常識となっている「主-客対立」の意識構造が、昔の日本人には普遍的なものではなかったを示していますし、現在でも必ずしも普遍的とはいえないのかも知れません。日本人には心理学的にいう自我の発育が不十分な人が多いといわれますが、自我は「主-客対立」があって初めて発育するものでしょう。

「自然」は、明治以降に英語でいう nature の訳語に当てられた言葉ですが、それ以前にも“じねん”と読んでひとつの概念と捉えるあり方もあった。この「自然(じねん)」は、

万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定する。外道の思想のひとつである。

だったんですね(wikipediaより引用)。「自然(じねん)」は、もしかしたら日本教の根本に近いところにある概念なのかもしれません。万物が〈うつろいゆくもの〉ならば、万物の間に因果律がないとする立場へは、そう遠くはないでしょう。

しかし、そうした日本教は仏教と融合を果たします。仏教と融合した日本的仏教の典型が「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)なのではないか、と私は思っています。この「山川草木~」は、もともとの仏教の原典にはないものです。元になったのは大乗涅槃経の「一切衆生悉有仏性」だといわれていますが、これと「山川草木~」の間には、決定的な差異があります。

その差異が万物を〈うつろいゆくもの〉とするか否か、の差です。仏教は万物を有情(うじょう)のものと無情のものとに別けて捉えますが、衆生とは有情のもののことです。すべて有情のものは、悉有仏性、仏となる可能性がある、すなわち輪廻から解脱して悟りを開き、仏となる可能性がある、これが「一切衆生~」ですが、これが「山川草木~」になると有情無情の区別がなくなる。万物がすべて〈うつろいゆくもの〉=有情と捉えられ、すべてが輪廻の中にあり成仏する可能性がある、と捉えられるようになる。その捉え方を言い表したのが「もののあはれ」なのだろうと思うのですね。


西洋的な価値観と東洋的な価値観は当然のことながら大きく異なりますが、その違いを乱暴にいってしまうと、〈確固たるもの〉への信頼を機軸とするのが西洋的、対して〈うつろいゆくもの〉を信頼するのが東洋的だといえるのではないでしょうか。西洋的というときには言うまでもなく一神教を想定していますが、これは何度もいったように万物の背景には神という〈確固たるもの〉があると考える。その〈確固たるもの〉への信仰を確固たる姿勢で表現する――これが言葉を重視する姿勢につながる。ところが東洋的なるものは、〈うつろいゆくもの〉の背景に〈確固たるもの〉がある、とは捉えません。因果律といった法則があるとは考えるが、因果律を〈確固たるもの〉といったふうに価値あるものとしてはあまり考えない(仏教でも華厳宗などは、因果律を〈確固たるもの〉として考える宗派のようだし、一神教だがイスラームでもシーア派とスンニ派とでは因果律と〈確固たるもの〉との関係がかなり違うようだ)。〈うつろいゆくもの〉の背景に因果律があることは認めても、その因果律まで含めて〈うつろいゆくもの〉の側に入れてしまい、自らを〈うつろいゆくもの〉として承認する――これが東洋的な態度であるように思います。

だが、では東洋的態度は、〈確固たるもの〉を否定しているのかというと、これがそうでもない。自らを〈うつろいゆくもの〉と認めながらも、目指すものは〈確固たるもの〉――仏教で言えば、解脱です。仏教では自らを〈うつろいゆくもの〉と承認することが解脱への道になっている。そこを十分納得せずに、やみくもに〈確固たるもの〉を求める姿勢を煩悩として戒めます。自身と〈うつろいゆくもの〉とが一致してはじめて〈確固たるもの〉への道が開けると考えるのです(ただし、これにも2つの方向性があって、自身の認識を高めて〈うつろいゆくもの〉への一致を探求する方向性と、最初から自身を投げ出すことで〈うつろいゆくもの〉への一致を求める方向性。後者の傾向は一神教に近いものがあります)。

では、日本教はどうか。日本教には徹底徹尾〈確固たるもの〉がありません。日本教では解脱した仏ですら〈うつろいゆくもの〉と捉えられてしまう。例えば日本では死者を仏と呼びますが、こうした仏も永遠に存在するのではなく、いずれ消滅すると考えられていた。一凡人の死がそのまま仏への解脱に当て嵌められるのは宗教の堕落ですが、そこにはもともと堕落する要素があったわけです。その要素こそが日本教の真髄――万物がうつろう――です。日本教には〈確固たるもの〉がもとから存在しないがために、海外からいかに〈確固たるもの〉が入ってこようとも、日本教信者には〈うつりゆくもの〉としか捉えられない。だから、表面上は日本教信者が別の宗教に改宗したように見えても、元日本教信者は別の宗教が指し示した〈確固たるもの〉を〈うつりゆくもの〉としてしか捉えていないから、真の意味で改宗したことにはならない。日本教とはいとも簡単に他宗教へ改宗しますが、それは他宗教もまた〈うつりゆくもの〉でしかないからです。

前エントリーでも書きましたとおり、〈うつりゆくもの〉は〈感じられるもの〉です。人間は対象物がうつりゆくがゆえに、それを知覚します。うつろはないものは感じられることがない。感じられないものは存在しない。これが伝統的日本人の宗教観の根源ではないでしょうか。

日本人は自らを〈うつろいゆくもの〉と規定しています。すなわち他者に知覚を促す存在としての自己認識です。うつろいゆく「私」はいずれ死を迎え、その死もまた他者によって感じ取られる。自らの肉体は死してうつろってしまっても、他者に記憶が残り、他者の知覚を刺激している間は、まだ「私」は〈うつろいゆくもの〉として存在している。しかしやがて、生きている他者からも「私」についての記憶は薄れ、世代を重ねるうちに記憶は消滅してしまう。そのとき、同時に「私」は消滅するのです。他者の記憶から消え、他者の知覚を刺激しなくなったとき〈うつろいゆくもの〉としての存在価値はなくなり、「私」は消滅する。これが日本教なのだと私は思っています。

このような日本教が存続していくには、「私」についての記憶を長く保持してくれる共同体の存在が欠かせません。現代日本では、この共同体が急速に失われていますから、日本教は存亡の危機に瀕している、といえるでしょう。共同体を喪失した日本人は、「不安な個人」に陥らざるをえない。そして「不安な個人」を待ち構えているのは、本来人間とは相容れないニヒリズムです。西欧世界はニーチェが喝破したようにニヒリズムの病に長らく冒されていますが、日本人もまた同様の病に犯されようとしているように思われます。

しかし、それでも日本人に根付いた宗教観には不思議な強さがあるのも事実です。共同体が喪失してしまった中で生まれてきたはずの若者たちが、いまだに自己を〈うつろいゆくもの〉〈感じられるもの〉と規定したかのような行動を示す。とにかく有名人になりたいというのが今の若者の一番の願望らしいのですが、これなど〈うつろいゆくもの〉はともかく、〈感じられるもの〉でありたいという自己規定からは矛盾しない。神への信仰などといった〈確固たるもの〉への依存へ走る者も多く存在するだろうけれど、いまだに大多数は〈感じられるもの〉としての自己確認を求めます。どれほど危険だと教育されようが「出会い」を求めようとする性向に歯止めがかかる気配もない。さらには、他人や自分自身を殺してまでも“感じられるもの”としての自分を示そうとする者まで出てくる始末です。

こうした日本人の性向の根拠をすべて日本教に求めてしまうと大きな誤りを犯すことになるかもしれませんが、全く無視してしまうのもまた誤りだと考えます。日本人には外国人には理解しがたいほどの清潔さに神経を使いますが、こうした性向も「穢れ」を忌避するといった日本人の宗教的傾向の世代を超えた復活のようにも思えますし。第2次大戦後の貧窮した暮らしの中では「穢れ」の忌避どころではなかったはずなのですが、高度成長を遂げ、生活が豊かになるとなぜか庶民も含めてかつての貴族と似通った清潔への嗜好を示しています。抗菌グッズの氾濫などは、合理的根拠に基づいた衛生観念の発達というには程度が過ぎます。こうした嗜好が、なぜ貧しかった世代を超えて継承されたのか、まことに不思議です。

コメント

質問だらけ(一部私見)

愚樵さん

あっちこっちで議論に首をつっこんでるのであまり手を広げたくないのですが、読んでてどうしてもモヤモヤしちゃうのでお尋ねします。

1.そもそも愚樵さんの定義なさる「日本人」ってなにもんですか。血統の話ですか、「日本」という法律上の国で生まれた人全部って話ですか

2.>本当に勝手な見解ですが
本当にそう思います。

3.で、「日本教」ってなんなんですか。だれがそれを主張してるんですか。それとも愚樵さんのオリジナルですか。
愚樵さんのおっしゃる日本人は全員「日本教」の教徒だって、どなたか統計でも取ったんですか?
(ははぁ、それで「七平さん」の日本人論がすぐれていると・・・・→憶測)

4.>日本人には心理学的にいう自我の発育が不十分な
人が多いといわれます

すみません、これについて文献を示していただければ幸いに存じます。

5.>日本人は自らを〈うつろいゆくもの〉と規定しています

で、非日本人は自らを〈うつろいゆくもの〉でない、と、規定している、とおっしゃりたいのですか?

6>日本教には〈確固たるもの〉がもとから存在しないがために、海外からいかに〈確固たるもの〉が入ってこようとも、日本教信者には〈うつりゆくもの〉としか捉えられない。

このあたりの「断言」の根拠はどのあたりからやってくるのですか。

7.>日本人の性向の根拠をすべて日本教に求めてしまうと大きな誤りを犯すことになる

もう犯しているように見えますが。

8.>日本人には外国人には理解しがたいほどの清潔さに神経を使いますが

ケース・バイ・ケースです。

食いモン屋に関していうならば、米国の方が(国として)はるかに清潔さにはうるさいです。で、国民もそれになれているから、それに関しては、また、うるさいです。(「屋台」などを臨時に出すときには、衛生局の職員が一日中ついて、監視しています)

かって、シャワーが普及していない日本では、毎日フロに入ることはかなり贅沢なことでしたから、どうしても2-3日置きになっていました。で、それに慣れちゃってたら別にど~ってこたぁありませんでした。

多くの米国人の常識では、汗を流さずにベッドに入るなどという行為はかなり「不潔人種」扱いされます。

そもそも「まともに読むことが不粋である」ってことならば、私の頭のバカさかげんにつき、お詫びいたします。

う~ん。すごい…。

どうしてこういうことを言葉で表現できるのか、わたしは愚樵さんの脳の構造を知りたい(笑)。
最後まで違和感なく読めましたが、一番最後の「穢れ」の忌避の部分だけ、文脈構成の流れから浮いて、少し唐突な気はしましたが…。
あるいは「穢れの忌避」→「精神的な潔癖症」→「科学的検証へのこだわり」→「非科学的な思考の忌避」→「科学主義的価値観の堅持」という関連性への示唆かな、とも思いました(勝手な深読みです・汗)。
しかし、やはり神道の「穢れ」の感覚への言及は、愚樵さんのこのエントリーの『日本教』の文脈全体からは多少逸脱している観はありますが?
「山川草木~」に陰の気が宿り、自分に影響が及ぶことを恐れるのが、「穢れ」の思想ですよね。
飛躍が有るような、無いような…。
でも、思わず勝手に(思い込みで!)頷いてしまいました(笑)。

わたしも教徒なんですよね、、、

いつもながら面白かったです。わたしは山本七平の言葉を借りれば「日本教徒キリスト派」ということになるんですかねー。

クリスチャンになるかどうかというときに、「人間は自然にしていれば罪深いんだから、自然の傾向に逆らって自らに死ぬことがクリスチャンの生き方だ」と言われたときに、ものすごい違和感があったのを思い出します。でも日本教の土台のない同調圧力はやっぱり嫌いで、一人でも強くあれそうな信仰のありかたに憧れたのもあって、勢いで受洗してしまったのでした。

それから20年たって、たしかにわたしのありかたもだいぶ「うつろって」きて、日本教徒度が高まってきた気がします。

>いまだに自己を〈うつろいゆくもの〉〈感じられるもの〉と規定したかのような行動を示す。

日本人は共同体幻想の中にいないと不安ですよね。日本人は細胞膜が薄い、というか、センシティブで、同じ性質の隣の細胞と寄り添って自然に呼吸できないとだめなんでしょうね。わたしも共同体消失以降の世代だと思っていますが、この「うつろい」も「感じられるもの」も必ず他者という鏡を必要とする、、、そこらへんが日本人の皮膚感覚なんじゃないでしょうか。

たぶんアメリカ人は単細胞で「あの人はあの人、自分は自分」と割り切れる(と思っている)けれど、その分「わたしはXXである」というアイデンティティーの主張のない人は日本人の100倍ぐらい苦しんでますね。(だから手っ取り早く、「キリスト教」とか「愛国者」とか「ベジタリアン」とか「リベラル」とか「タトゥー」とかのラベルをすぐ自分に貼るんですよー。そのラベルも一種の宗教ですよね。)

ケガレについて思うこと

私は目に見える「悪いこと」は二つに分けて考えなければいけないんじゃないこと思ってるんです。あと「良いこと」も。
苦しむことはキヨメそんな気がします。

ちょちょんまげさん

いろいろとご質問をありがとうございます。ちょちょんまげさんのように反応をしていただくと、私としては大変楽しいです。いえ、冗談ではなく。

>読んでてどうしてもモヤモヤしちゃう

でしょうとも(笑)。

では1.から。

正直、明確な定義はありません。漠然としたイメージで「日本人」と捉えてくださって結構です。
こうした定義は、学問上でもかなり難しいことのはずです。たとえば「民族」という言葉にしてもそうですが、いまだに厳密な定義が確立しているとはいい難いです。ごく最近も法的な日本人定義についての最高裁判決が報道されていましたが、これなども、法的という限定的な範囲ですら「日本人」の定義の難しさを示した事例ですよね。

2.あはは、ノーコメントです。

3.そうです。私が「日本教」という言葉を知ったのは山本七平氏だったと思います。あと井沢元彦氏。もっとも、ここでの日本教定義は私のオリジナルですが。一神教・仏教解釈もオリジナルです。

4.私は河合隼雄氏の著作からそうした認識を得ました。具体的な記述を挙げますと『日本人とアイデンティティ』。序章のp.23(文庫版)に
“欧米人が「個」として確立された自我を持つのに対して、日本人の自我――それは西洋流に言えば「自我」とも呼べないだろう――は、常の自他との相関関係の中に存在し、「個」として確立したものではない、ということであった。”
などとあります。

5.う~ん、論理的にいうとそうなりますが...。それが非日本人すべてに言えるかどうかは、わかりません。

6.ですから、これは愚樵オリジナルです。

7.わはは。愚樵オリジナルが定説になると大変ですね。

8.“理解しがたい”とは非合理的という意味で理解してください。ちょちょんまげさんが挙げられたアメリカの例は、合理的といえるでしょうが、日本のそれは合理的とは言いがたい。抗菌グッズの氾濫やなどその典型。医療行為等での使用はともかく、日常生活での抗菌グッズの使用なんて科学的にいってもほとんど意味がないじゃないですか。でも、なぜかそんな商品がもてはやされる。あとマイナスイオンブームなども、同様の穢れ忌避から来たのだろうと思ってます。

>そもそも「まともに読むことが不粋である」

これは難しい。まとも=合理的とするなら、不粋だとなってしまうかもしれませんが。
まず、〈うつろいゆくもの〉なんてことからして合理的ではないんです。熱力学の第2法則でも持ち出して無理やり定義付けようと思えば、言葉面ではできるでしょうが、そんなのは所詮ニセ科学でしかないじゃないですか。敢えてそうしてみたら面白かったかもしれませんが、もともと私の中には自分の言説を何かに寄り添って語ろうといったような動機はあまりないんですね。面白がってくれればそれでいい。
でも、ウソを言っているわけではないです、自分の意識としては。私なりに捉えた本当のことを書いているつもり。そこは合理的ではないけれど、「まとも」に捉えてくれたらありがたいとは思います。この場合の「まとも」とは、そうですね、ちょちょんまげさんがもし、日本人とは何ぞや? といったことを考える機会があるならそのとき参考になれば、といったところでしょうか。合理的、客観的を「まとも」というのではなく、読み手が独断と偏見をもって「まとも」と捉えていただきたい、と。

naokoさん

>一番最後の「穢れ」の忌避の部分だけ、文脈構成の流れから浮いて、少し唐突な気はしましたが…

ご指摘ありがとうございます。その通りですね。ご指摘を受けて、一部文章を追加しました。

でも、唐突なほうが面白かったかも。naokoさんの方でちゃんと補っていただけますので(笑)。

*****

みーぽんさん

お久しぶりです。最近更新されていないので、どうしたのかなと思っていましたが、忙しかったようですね。

>「人間は自然にしていれば罪深いんだから、自然の傾向に逆らって自らに死ぬことがクリスチャンの生き方だ」と言われたとき

これは日本教とは正反対ですね。伝統的日本人は、自然の傾向に逆らうことを「穢れ」と捉え、死して自然と合一していくなかでその穢れが払われて浄化される、と捉えるらしいです。そしてその浄化された姿が「ご先祖様」。ただ、この「ご先祖様」は現在の「ご先祖様」とはかなり異なりますが。

>日本人は細胞膜が薄い

ああ、それそれ。その表現はすばらしい。だから日本人はアメリカ人がいうところの“ケモノのコミュニケーション”ができるんですよ。

アメリカ人は、とにかく“Freedom !”じゃないですか。9.11のときも、報道で見る限りですが、多くのアメリカ人が“Freedom !”と叫んでいたように思います。これ、どう考えても〈確固たるもの〉でなければ出てきませんよね。自分を確かだと確信しているから自由と叫べるんです。自分に不安があれば、自由よりまず所属でしょう?

>その分「わたしはXXである」というアイデンティティーの主張のない人は日本人の100倍ぐらい苦しんでますね。

そうなんでしょうね。 

*****

とんぼのめがねさん

ごめんなさい。意味がよくつかめません...

愚樵さん

私も詳しく調べたことがないので、憶測のみなのですが。
この同じ国の中で「ハレ」と「ケ」があったり、わざわざ憤死した神様を祭ってご利益を得ようとしたりといったことが何故あったのかということです。「喜怒哀楽」という言葉があります。良いこと、悪いこと二つづつあります。何か属性の違いがあるんじゃないかなと勝手に思ってるんです。その程度なのです。

間違った教義

かつて穢れは祓えるモノだった筈ですので、現代日本社会の潔癖症的な側面はいわゆる『日本教』の教義を誤っているような気がします。

このような観点から考えると、現代日本において穢れとされるモノを祓うのは『物事を正しく理解しようとする姿勢』以外に無いと私は考えます。

いやはや

愚樵さん

>日本教には〈確固たるもの〉がもとから存在しないがために、海外からいかに〈確固たるもの〉が入ってこようとも、日本教信者には〈うつりゆくもの〉としか捉えられない。

・日本教信者には全てのものが〈うつろいゆくもの〉としか捉えられませんから、「うつろいゆくもの」を「できるだけうつろいゆかないもの」にしようとした「職人技」なぞはさげすまれておりましたので、「職人」はできるだけその技術が後世に残らぬよう(逃げ出さない程度に)弟子をひっぱたいたり、罵倒したりしてその技術を継承しないようにしておりました。しかし、どうしても弟子があきらめなかったときにのみ、「ほんとはおめぇのことを思って辛くあたってたんだ」、「親方!」という「穢れ」を払う儀式が行われていました」

・アメリカ人は西欧文化の影響が大ですから、当然物事は「うつろいゆかないもの」と捉えておりますが、「アメ車」に関してはすぐぶっこわれるものと認識して「うつろいゆかないもの」のコンセプトを少々疑っておりました。日本車がめったに壊れないことを知り、多くの修理屋さんが失業したのち、「日本人は全てを『うつろいゆくもの』と認識しているのに、矛盾している」あるいは、『うつろいゆかないもの』に対するあこがれが、こわれない車を生み出しているのではないか」という二種類の意見がぶつかって、いずれにしても「日本人はよ~わからん」という結論に落ち着きました。

・アメリカ人は全てを「うつろいゆかないもの」としか捉えることができませんから「もののあはれ」なぞ理解できる人間は一人たりともおりません。ですから、イラクに行っていくらでも残虐なことができるのです。もちろん、「南京大虐殺」なぞは、200%中国のプロパガンダです。「もののあはれ」を知る「日本人」にそんなことができるわけがありません。「アウシュビッツ」はもちろん本当です。なんたって「一神教」の連中ですから。「デカルト」以来、「私」になってますけど。

・いやいや、「南京大虐殺」は本当にあったのです。日本人は全てを「うつろいゆくもの」と捉えていますから、命をいうものを「ど~せ死ぬんじゃん」ぐらいにしか考えていません。「『山川草木~」に戻れてよかったね」、ぐらいの話です。ですから、万単位の虐殺ぐらいど~ってこたぁないのです。

・西洋人は「〈確固たるもの=神〉は永遠に存在するので、死を恐れる必要はない」ので、死を恐れる人は一人たりともおりません。ただし子供たちには、「イエスキリストを信じないと死後地獄に落ちて永遠に焼かれるど~」などと言って死をおそれさせるよ~な事を申しますが、そこにも「うつろいゆかないもの」のコンセプトがちゃんと残っています。即ち、「永遠に」焼かれるのです。また、お互いに「死」をおそれませんから、ホイホイと殺人が行われるのです。だって、こわくね~もん。

・そーすっと、矛盾しねぇか。日本教徒は西洋人と違って「死が恐ろしくてしょ~がない」人たちのはずなのに、上では「うつろいゆくもの」だから「ど~せ死ぬじゃん」だったはずだ。

・日本教徒は「海外からいかに〈確固たるもの〉が入ってこようとも、日本教信者には〈うつろいゆくもの〉としか捉えられない」から、仏教思想が入ってきた時に「一切衆生悉有仏性」を「山川草木悉皆成仏」に変えるという大変革を行いました。が、「輪廻思想」だけは残して取り入れました。そりゃぁ、なんでじゃ、とお聞きになる?それは、日本教徒は全てを「うつろいゆくもの」と捉えていますから、「思想」もまた、「うつろいゆくもの」と捉えますので、いままでなかった考え方を取り入れるのは得意なんですね。でも、「としか捉えられない」って、「うつろいゆかないもの」なんでねぇの?

・おいおい、デタラメを書き散らすなよ。すみません、私のは全てデタラメですが、もちろん「愚樵」様のは「根拠」と「正しい思考」にもとづいた「正論」でございまして、「日本教」は確かに存在するのでございますよ。



浅見定雄著「にせユダヤ人と日本人」からの引用(孫引きを含みます)

引用ここから:

「特殊によって一般を推定するエピソード主義」の典型である(引用者注:以上は、以下の本に寄せた日高六郎氏(社会学者)の一文)(杉本良夫=ロス・マオア編『日本人論に関する12章』学陽書房、3頁)。

 いま引用した日高氏の文は、この種の日本人論の問題点として、ほかに(日本人とかユダヤ人とかいう時の)概念規定のあいまいさや、対象の客観的属性(たとえば、性・年齢・学歴・職業・階層・階級・など)の無視や、不完全なサンプリングや、比較研究の不足や、歴史的な変化にたいする無関心や」をあげている(最初のかっこの中だけ私(浅見)の挿入)。

引用ここまで

要するに、愚樵さんの議論は大雑把すぎます。

いやはや2

国民性にあるていどの個性があるのは、私もそう思う。

でも、それを言うのなら、韓国人はおそらく「韓国教徒」だろうし、「フランス人」は「フランス教徒」でしょう。
そして、その「なんとか国教徒」はおそらく世界の国の数だけ存在し、そこから、例えばナイジェリアで言えば「ナイジェリア教徒」がさらに「イボ族教徒」や「ヨルバ族教徒」(最終的には約250の民族)になってさらに既存宗教やその立場や地位で細分化されていく。
(ん?まさか愚樵さんは、日本は「単一民族国家」だ、とでも?)

>アメリカ人は、とにかく“Freedom !”じゃないですか。9.11のときも、報道で見る限りですが、多くのアメリカ人が“Freedom !”と叫んでいたように思います。
これだって、そうです。
このシーンを「苦々しく見ていたアメリカ人も多くいた」ぐらいのことを考えるぐらいの「想像力」さえないのですか。
テレビに映っていた「アメリカ人」が愚樵さんにとっての「アメリカ人」の全てで、そのぐらいのサンプリングで全体を判断するならば、

中曽根の「知的レベル」発言や、

渡辺の「アメリカの黒人は金が返せなくなったら破産してアッケラカのカー」発言

と、なんら変わるところはない。

そしてまた、「血液型正確判断」のような、人をとにかく型にはめたがるような唾棄すべき考え方と同様だ、と言わざるをえない。

>ちょちょんまげさんが挙げられたアメリカの例は、合理的といえるでしょうが、日本のそれは合理的とは言いがたい。抗菌グッズの氾濫やなどその典型。医療行為等での使用はともかく、日常生活での抗菌グッズの使用なんて科学的にいってもほとんど意味がないじゃないですか。

米国では、寿司を握るときに「ビニールの手袋をせい」という衛生局のルールが施行されるところでした(ニューヨークはそうかも)。
私にしてみりゃ、「手袋で握った寿司なんか食えるか、おどりゃ~」という極めて「非・合理的」なルールです。
しかし、このルールはいわば抗菌グッズと同様の考え方(雑菌はあっちゃこっちゃにいるぜ)でしょう。

日常生活での抗菌グッズの使用なんて科学的にいってもほとんど意味がないじゃないですか=寿司握るときに手袋するなんて(ちゃんと職人さんが清潔にしていれば)科学的にいってもほとんど意味がないじゃないですか
だと思いますけど?

そしてまた、私は日本での抗菌グッズの氾濫についてあまり詳しくないので、なんとも言えないところもあるのですが、その氾濫につき、文化的側面から語ることもできるのかも知れませんが、「マスコミの過大な報道(危険性につき特に強調して取り上げるような)」と「マーケティングの勝利」みたいな側面から語ることもまた、可能でしょう。

このように、この話は不毛なは永遠ループになることが見えています。
私が上のように書けば、愚樵さんが違う例をあげ、そしてまた私が違う例をあげて反論し、お互いがお互いに都合のよい説明を用意することになるのでしょう。
要するに、こういうことについて「正しい解釈」をするのは、極めて困難なことであり、逆に思いつきで説明をつけるのは極めて容易なことである、ということです。

つまり、愚樵さんのおっしゃっていることは、「清潔」の話に限らず「ケース・バイ・ケース」だ、ということです。


前回も書いたとおり、「居酒屋談義」だったらあんまり厳密なことを言うのは野暮というものでしょう。
私もしょっちゅう「酒席」ではやることがあります。
「あいつはあ~だ、こいつはこ~だ」と決め付けてまわるのは、「あ~それ言える、言える」の相槌とともに、実に気持ちがよろしい。
ですが、愚樵さんは前回のエントリーで「自分の考えていることは95%ぐらいは正しいと思っている」と書かれている。
ですから、私が本エントリーを「居酒屋談義」と取らなかったのは正当性があると思っています。

再度うかがいます。
本エントリーは「居酒屋談義」のおつもりですか。
もし、そうであるならば、それにつき横から口を出すという私の「マヌケ」につきお詫びいたします。

長文ごめんなさい

>再度うかがいます。
>本エントリーは「居酒屋談義」のおつもりですか。
>もし、そうであるならば、それにつき横から口を出すという私の「マヌケ」につきお詫びいたします。

私に居酒屋談義であると断言させたいのですか? しかし、厳密な議論でなければ「居酒屋談義」といった2分方も、これまた居酒屋談義の類では? と思いますが。

ところで、「居酒屋談義」とは何なのでしょう? どういった議論が「居酒屋談義」と定義されるのですか? 

こういった文脈で居酒屋談義という言葉を使う場合、そこにはある種のニュアンスが伴うわけです。私の議論が大雑把というのは認めますが、大雑把な議論=居酒屋談義ではない。私の議論を居酒屋談義とするちょちょんまげさんに、敢えて言いますが、私は歪んだ主観を感じてしまいますね。

このコメントなどもそうです。

>このシーンを「苦々しく見ていたアメリカ人も多くいた」ぐらいのことを考えるぐらいの「想像力」さえないのですか。

私はそうした「想像力」に欠けているとちょちょんまげさんは想像されたようですが、その想像には主観が混じっていますよね。

確かにTVで見た云々が大雑把なのは事実でしょう。ですがこれはお相手がみーぽんさんなのでこれで通じると思っただけのこと。その根底には自由こそがアメリカ人のアイデンティティなんだという認識があります。

そうした認識はたとえば、こういった記述
「アメリカが歴史のない文明であることは、7月4日の独立記念日の祝賀行事のテレビ中継を見ればすぐにわかる。この日には、全米各地のおもなところの祝賀会の実況中継がある。祝賀行事がいちばん盛り上がる瞬間は、合衆国籍を取ったばかりのもと外国人が壇の上に上がって、自分がアメリカ人になることを決断した理由を、なまりのある英語で語り、「私はアメリカ人になれて、いまはほんとうに幸せだ」と宣言すると、会場の群集が感動してわーっと歓呼して、「アメリカ万歳」を唱える、その瞬間だ。この現象は、アメリカ文明の本質を示す、重要な意味を含んでいる。
 つまり、「アメリカ人」には、基本的に自分の意思でなるのであって、生まれついてのアメリカ人は、本来の意味での「アメリカ人」ではない。こういう国は、アメリカ合衆国のほかに世界のどこにもない。・・・」(岡田英弘著『歴史とはなにか』より)
から得たりするわけですが、私はこうしたものを「私の言葉」として使うのは、あまり好きではないというか、自分のスタイルではないと思っているのです(内山節氏は別。my favoriteだから)。だから“TVで見た”という自分の体験を下に話を組み立てる方を選択する。それだけのことで、それしか選択肢がないというわけではない。そういうことを想像していただきたいものです。

>中曽根の「知的レベル」発言や、
>渡辺の「アメリカの黒人は金が返せなくなったら破産してアッケラカのカー」発言
>と、なんら変わるところはない。

ちょちょんまげさんは、私の議論を偏向的であるかようにに指摘しながら、ご自分も相当偏向的ですね。私がアメリカ人を一部政治家のように“見下した”姿勢で眺めているわけではないのは、もうお分かりいただけたと思いますが、私が気になるのは、なぜちょちょんまげさんが私がそのように“見下した”と想像したのか、という点です。これは「居酒屋談義」という言葉の選択とも関連があると感じますね。

また、ちょちょんまげさんは

>つまり、愚樵さんのおっしゃっていることは、「清潔」の話に限らず「ケース・バイ・ケース」だ、ということです。

を証明して、

>ですが、愚樵さんは前回のエントリーで「自分の考えていることは95%ぐらいは正しいと思っている」と書かれている。

の矛盾を糾弾するおつもりなのでしょうが、そもそもちょちょんまげさんは私の「自分の考えていることは95%ぐらいは正しいと思っている」の言葉の意図を誤解されています。“正しい”の意味を、客観的に正しいと限定的に解釈されているようです。私はこうした解釈に繰り返し異を唱えているのですが。

客観的に正しいというのは、誰もがその事象を確認できることを前提にしています。みんなに見える、というわけです(厳密に言うと、人間なら備わっているであろうと推測される理性によって、推論できる)。ところが世界に発生する事象のすべてがみんなに見えるわけではない。日本教など、当の日本人にだってなかなか見えない事象でしょう。感性に依存している取っ手もよい。明確な教義が成立しているわけでもない。しかし、みんなに見えないから存在しないわけではない。存在しないようにしか見えない人には、日本教が存在するように語る議論は奇異なものに映るのは不思議ではありませんが、自分が見えないことを全員に見えないことをもって正当化しようとしても、かみ合わない議論にしかなりません。

>「特殊によって一般を推定するエピソード主義」の典型である

これも、みんなが見えることを前提にした議論ですね。次エントリーで取り上げた内山氏がいうところの研究者の方法です。しかし、そうした方法がどれほど人類の進歩に寄与したのでしょう? 現代の思想では、研究者の方法を支えた近代的進歩観念への懐疑が大きな潮流になっているのですが。例えばハイデガーなどは、みんなに見えるという前提に立つことに対して「存在への驚き」という言葉で異議申し立てをしたのですけども。


私の議論が居酒屋談義なのかどうかは、読み手の主観に依存するものです。ですので、ちょちょんまげさんが居酒屋談義でしかない、と仰るのならそれに異議は申しません。ただ、私のそれを確認しろといわれても、違いますとしかお答えできません。ただ単なる思い付きを書きなぐっているわけではありませんので。学術論文ではありませんから単なる思いつきでないことの証明(著書やウェブ上などで誰もが確認できる他者の文章)はいちいち添えませんが、もしお求めならその都度提示しますし、そうでないものは明確に私独自の見解だとお答えします。

はじめまして。日本教、面白い考え方ですね。
読んでいて気になった点があったので質問させてください。

>とにかく有名人になりたいというのが今の若者の一番の願望らしい
>他人や自分自身を殺してまでも“感じられるもの”としての自分を示そうとする者まで出てくる始末です

の2点についてですが、前者についてはソースがあるのかどうか、後者についてはどういった動機なら「“感じられるもの”としての自分を示そうとする」ということになるのか、ご教授いただければ幸いです。

愚樵さん


OK、私も愚樵さんと罵り合いをすることが本意ではありませんので、まず、「お詫びと訂正」からはじめます。

>このシーンを「苦々しく見ていたアメリカ人も多くいた」ぐらいのことを考えるぐらいの「想像力」さえないのですか。

この一文については、確かに感情的になっています。以下のように、お詫びの上訂正いたします。

・ このシーンを「苦々しく見ていたアメリカ人も多くいた」ぐらいのことをご存知ないのですか。

私がこう取った理由は、「お相手がみーぽんさんなので」とおっしゃっていらっしゃいますけれども、私は愚樵さんとみーぽんさんの過去の経緯を存じ上げませんし、その後愚樵さんが補足されたことも知りようがありませんので、私が上記のように取ったこと自体に問題があるとは思いません。
ですから、この場合の私の「主観」には正当性はあると思っています。


>>中曽根の「知的レベル」発言や、
>>渡辺の「アメリカの黒人は金が返せなくなったら破産してアッケラカのカー」発言
>>と、なんら変わるところはない。

>私がアメリカ人を一部政治家のように“見下した”姿勢で眺めているわけではないのは、もうお分かりいただけたと思いますが、
>私が気になるのは、なぜちょちょんまげさんが私がそのように“見下した”と想像したのか、という点です。

これについては、文脈からして「誤読です」と言いたいところですが、私の書きようにもはっきりしないところがあることを認めて、以下のように、お詫びの上訂正いたします。

・中曽根の「知的レベル」発言や、
渡辺の「アメリカの黒人は金が返せなくなったら破産してアッケラカのカー」発言
と、「質的に」(すなわち、「一部を見て全体を評価するような発言」)なんら変わるところはない。

ということで、愚樵さんが、中曽根や、渡辺のように米国人を(誤った見方を持って)見下している、という結論に持って行っているわけではありません。

ですので、愚樵さんが、私が上記のような誘導をした、と、理解なさった時点での、

>私が気になるのは、なぜちょちょんまげさんが私がそのように“見下した”と想像したのか、という点です。

というご感想については正当性があったと考えますが、本文をお読みになった後、納得していただけたら、取り下げていただけますか?

さて、「居酒屋談義」については、この言葉そのものを取り下げることについては、私としては異論がありません。
そもそも日本語の語彙として存在するかどうかも疑問ですし。
近い言葉としては、「床屋政談」あたりでしょうか。

私の意味するところは:

1.大雑把な議論
2.発言者が特に発言内容について責任を取らなくてもいいような議論、ないし対話(ケースバイケースですが)
3.上記により、「感性」とやらによる発言が許される議論、ないし対話
4.「思いつき」による発言も許されるような議論、ないし対話

あたり、でしょうか。

そして、多くの場合、発言者(たち)が、いま現在、自分(たち)がそういう議論、対話を行っているという認識がある、と思います。

私が再三申し上げているのは、上記のような、例えば「仲間内のお話」に横から口をはさむのは(基本的に)マヌケであるということであり、愚樵さんが本エントリをどのような「議論、発言」と位置づけていらっしゃるのかが、私には今ひとつ不明である(今でも)ので、「マヌケならマヌケ」と言って欲しいということです。

愚樵さんも 

>しかし、厳密な議論でなければ「居酒屋談義」といった2分方も、これまた居酒屋談義の類では? と思いますが。

と、おっしゃるということは、愚樵さんなりの「居酒屋談義」の定義をお持ちのようですので、お聞かせ願えませんか?
そのあたりから詰めないと、それこそ「かみあわない」でしょう。

戻ってきました

Johnさん、はじめまして。お返事が遅くなって申し訳ありません。

まず、
>とにかく有名人になりたいというのが今の若者の一番の願望らしい
のソースですが。

曖昧な記憶を頼りに書いたので“らしい”という表現になったのですが...。そうした表現をどこかで読んだ記憶はあるのです。思い当たる本をいくつか探してみたのですが、見つかりませんでした。申し訳ありません。

一番可能性が高いと思ったのが『「家族」はこわい』(斉藤学著)だったのですが、これが手許に見つからなくて。たぶん、誰かに進呈してしまったのでしょう。私、人にすぐ本やCDをくれてやるので。貧乏なくせに(笑)。

>他人や自分自身を殺してまでも“感じられるもの”としての自分を示そうとする者まで出てくる始末です

こうした極端なケースの動機となるのは、「無意味であること」から逃れようとする意思でしょう。人間は誰もが、自分の存在、自分の生が無意味であるとされることに耐えられるものではありません。自らの存在の意味が否定されるような事態に陥ったときには、命を賭してまでも自分の存在の意味を確認しようとします。そうしたケースが、不幸なことについ先日、実際に発生してしまいました。秋葉原の通り魔事件です。

彼はなぜ、他者の生命を奪おうと考えたのか? 自分の生に本当に絶望したのであれば、自らの命を断てば済んだ話です。富士山の樹海にでも消えればよかった。でも、彼はそれをせず、命を奪ってまでも自分の存在を示したかったのではないのでしょうか? 自分の存在を示す=他者に“感じられるもの”です。

ここから先は私の推測ですが、もし彼が例えばキリスト教徒であったなら、あのような方法は選択しなかったはずです。破滅的な方法を選ぶにしても、舞台は教会のような場所になったはずです。自分の存在の価値が神に保証されていると考えていたなら、それが裏切られたと感じたときには、裏切った相手を否定することに自分の意味を見出す。つまり神を冒涜する、というやり方になっただろうと推測されます。

彼が秋葉原という舞台を選択したのは、そこが彼を裏切ったネット空間を象徴する場所だったからでしょう。そこで彼は事件を引き起こし、自らの“感じられるもの”としての存在を示した、と。

(とはいうものの、こんな風にこの事件を片付けてしまっていいものか、という自問はあります。あまりにも都合よく自分の論に合わせて事件を解釈してしまっているのではないか...)

恐縮です

ちょちょんまげさん、そんなお詫びだなんて、恐縮です。
とにかく、ちょちょんまげさんの対話を継続しようとするご意思はありがたく受け取りました。そして、取り下げるよう要望があった部分につきましては、ご要望通り取り下げることにいたします。


問題はやはり、お互いの行き過ぎた主観なのではないでしょうか? いえ、私は別にちょちょんまげさんの主観を否定するつもりはないのです。ご指摘の通り、私の議論そのものは粗雑な部分も多々ありますから、ちょちょんまげさんが主張されるご自身の主観の正当性は認めざるをえません。またそれ以前に、私のエントリーをちょちょんまげさんがどのように解釈されようとも、私には異議を挟む権利はない。もともと言葉といったものは書き手の意図と読み手の解釈との間には、どうしてもズレが生じてしまうものだと思っていますので。

とはいうものの、前回のちょちょんまげさんのコメントに私が不快感を覚えたのは事実です。その理由は、ちょちょんまげさんがご自身の解釈を私に確認させようとしたと感じたからです。それは、私がちょちょんまげさんに向かって“私の文章はこのように解釈すべき”と押し付けるのが越権行為であるのと同様の、ちょちょんまげさんの越権行為であると受け止めたからです。


さて、居酒屋談義もしくは床屋漫談云々についてですが。

1.大雑把な議論
2.発言者が特に発言内容について責任を取らなくてもいいような議論、ないし対話(ケースバイケースですが)
3.上記により、「感性」とやらによる発言が許される議論、ないし対話
4.「思いつき」による発言も許されるような議論、ないし対話

私の議論は、ちょちょんまげさんの居酒屋談義(床屋漫談)の定義に当てはまると認めます。私がなす議論は、

3.「感性」に拠る“気付き”が根拠となる議論であり、
4.“気付き”と「思いつき」の区別はつけることができず
2.(ケースバイケースだが)“気付き”による発言の責任追及をしてしまうと議論や対話そのものが成り立たず
1.したがって議論のそのものが大雑把にならざるをえない

性質のものだからです。つねづねそうした自覚を持って文章を書いております。

にもかかわらず、傲慢なことに、私は自分の議論は居酒屋談義などではない、と思っています。いえ、もしかしたら、まだそうしたレベルから脱し切れていないと思わなくはないですが(5%くらい)、おそらくは(95%くらい)大丈夫だろうと思っています。

では、私の居酒屋談義の基準は何か? そこをお話しなければなりませんね。が、その前にまず、基準の前提そのものが違うことを指摘しておかなければなりません。

ちょちょんまげさんが提示された居酒屋談義の基準は裏を返せば、論理的な議論の基準ということになるでしょう。
3.は「感性」とやらによる発言ではなく、誰もが認識できる「客観的事実」に基づく発言、ということになるかと思います。一方で、私の場合は上に記したとおり、あくまで「感性」に拠る発言が根拠です。

「感性」に拠る論議が居酒屋談義と一線を画す基準。

1.相手がすぐには相槌を打てるような、誰もがすぐに同意できる“気付き”ではない、ということ。
(誰にでも気が付くことを「感性」に拠るなどと気取ってみてもナンセンスでしょう)
2.同意が容易でない“気付き”を他者と共有するための議論、対話であること。
(これはなかなか上手くいかないとは思ってますが(笑))
3.“気付き”が単なる「思い付き」と異なるのは、「思いつき」が単発のものであるのに対し、“気付き”は複数の現象の中に共通して見られるものであるということ。
(厳密に法則とまでいえるものは稀有でしょうが)

といったところでしょうか。

愚樵さん、レスどうもありがとうございます。

1点目について、了解です。どういう形式の調査でそういう結果が
出たのかなと興味があったので質問してみたのですが、読んだ
気がするのに見つからないってよくありますよね(^_^)
どうぞお気になさらずに。

2点目についても了解です。ただ彼が秋葉原を選んだのには
深い意味はないんじゃないかなと個人的には思います。
(結局は本人しかわかりませんよね)

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