愚慫空論

〈うつろいゆくもの〉

今回もまた、続きです。前回のエントリー『空虚5度』からの続き。といって、論理的に話が続いているわけではまったくないのですが。

前回もわけのわからないことを綴りましたが、今回は、前回にもましてわけがわかりません(笑)。まったくもって「反知性」的です。

では...


「私」が不完全で、そんな「私」にあなたが必要なのは、この「私」が結局は〈うつろいゆくもの〉だからなのだろう、なんて思ったりしています。


デカルトが「われ思うゆえにわれ在り」といったのは、それまで西欧人たちを支えていた神がいなくなってしまったからなのだろうと思うのですね。それまでの西洋人には「神在りゆえにわれ在り」だったのが、宗教戦争やなんやらで神の存在が揺らぎ、神の代わりの〈確固たるもの〉として「われ=私」を置き換えた。確かに、デカルトのように言われると、「私」は〈確固たるもの〉のようにも思えてしまうんですよね。

でも、「私」なんて〈確固たるもの〉などではない。本当は「私」は〈うつろいゆくもの〉でしょう。「私」は確かに存在するように感じられるけれど、決して確定的なものではなく、日々刻々とうつろいゆき、やがては消滅してしまうもの。それが「私」ですよね。

「私」が「私」を〈確固たるもの〉と思うのは、思うとき、思考するときです。思考の成果はあるいは法則として完成され、その確固たる完全性から己をも〈確固たるもの〉だと推測する。「私」を取り巻く世界の存在を〈確固たるもの〉だと考え、その世界を生み出した創造神を想定し、自らもその創造神によって生み出されたのだと考えれば「私」も〈確固たるもの〉とすることができる。「私」はいずれ「私」を機能させる肉体が朽ち果てるのでいずれは死を迎えるが、〈確固たるもの=神〉は永遠に存在するので、死を恐れる必要はない。死は、〈確固たるもの=神〉の元にいくことである、と。

対して「私」を〈うつろいゆくもの〉だとすれば、「私」は“思う”より先に“感じる”存在です。〈うつろいゆくもの〉は思考では捉えることができず、それを捉えるのは感じることになります。これをデカルト流にいえば「われ感じるゆえにわれ在り」になるのですが、「私」が“感じる”のは「私」だけではない。「われ思う」は「私」だけの世界ですが、“感じる”は「私」の範囲に収まらない、もっと大きなものを捉えます。

ただし、大きなものとはいっても「私」が“感じる”のは〈うつろいゆくもの〉だけです。存在してもうつろわないものを「私」は感じません。その存在が視野に入ったときには感じられても、存在がうつろわなければ人間は徐々に感じなくなってしまう。これは人間の感覚器官の特性ですね。そして、もし創造神が存在したとしても、それは〈うつろいゆくもの〉ではありませんから、感じとることができません。人間にできるのは、〈うつろいゆくもの〉の背景に〈確固たるもの〉を想定し、その想定を信じることだけです。

(一般に宗教というものは、〈確固たるもの〉を想定し信じることなのでしょう。〈確固たるもの〉としなれば教義を示すことすらできません。しかし、一方で〈うつろいゆくもの〉を信仰の対象とする者たちも存在します。伝統的な日本人がそうです。日本人が無宗教といわれるのは、信仰心がないのではなくて、その信仰が〈確固たるもの〉に向いていないからだと思われます。)


「あなた在るゆえにわれ在り」は、「われ感じるゆえにわれ在り」から導き出されてきます。「あなた」というのは、「私」が感じる大きな〈うつろいゆくもの〉の中の一部であり、また「私」と同様、“感じる”存在でもあります。「私」がうつろいゆく「あなた」を感じ、「あなた」も同様にうつろいゆく「私」を感じます。“感じる”ことで自己の存在を根拠付ける「私」は、うつろいゆくゆえに常に感じられる存在である「あなた」によって、常に「私」の存在を根拠付けることができます。「あなた」もまた同様です。そして、「私」は「私」を感じている「あなた」を感じます。「あなた」が在ってこその交感がうつろいゆく「私」の存在を〈確固たるもの〉に近づけるのです。

コメント

愚樵さん、初めまして。
拙ブログにTBありがとうございました。
私もTBさせて頂きますので宜しくお願いします。

わたしも揺れます。

でも、揺れていられるのも、人が支えていてくれるからだと判っています。
そうでなければ、わたしは一瞬で倒れてしまうでしょう(笑)。
だから…。
さまよっている人を、笑い飛ばすなんて、冷静に考えると、とてもとても出来ません。
自分が岸を離れた小舟のように、あてどなくさまよわずにすむのは…。
今はちゃんと『錨』がついているからです。

人間なんて、そんなものじゃないでしょうか?

矛盾

愚樵さんは、ご自分の存在を、どちらかと言えば<確固たるもの>と認識しているのだと、私は思います。
なぜなら、愚樵さんの定義する<うつろいゆくもの>に沿って言うならば、もし愚樵さんがご自身を<うつろいゆくもの>という認識があるならば、「です・ます」で終わる文章を使うこともないですし、第一、ブログをやっていないと思うからです。

では、どういう意味でご自身を<確固たるもの>と認識しているか、というと「『人間は<うつろいゆくもの>であり、私も<うつろいゆくもの>である』という<確固たる>認識、ということになるかと思います。

勘違いしていただきたくないのは、私は、それがいいとか悪いとか、矛盾がいけないとか、そんなことを述べているのではありません。
人間というのは、常に矛盾を抱えて生きている存在なのだ、ということ。「われ思う、ゆえにわれあり」も、そこから生まれてきたんじゃないかなって、いうことです。

なんとなく

〈うつろいゆくも〉=「情報」、〈確固たるもの〉=「本質」ってこじつけてみたくなりました。
 ということで、相変わらずのコメント欄TBをお許しを

http://dr-stonefly.at.webry.info/200806/article_1.html

Re:矛盾

わくわくさん

>愚樵さんは、ご自分の存在を、どちらかと言えば<確固たるもの>と認識しているのだと、私は思います。

そう見えても不思議ではないかもしれませんね。おそらく私自身は西洋人の者に近い自我は確立しているのだろうとの自覚は持ってます。

>『人間は<うつろいゆくもの>であり、私も<うつろいゆくもの>である』という<確固たる>認識、ということになるかと思います。

いいえ、これは逆なのです。人間という総体から私自身を〈うつろいゆくもの〉と演繹したのではなくて、その逆。私自身が〈うつろいゆくもの〉だとの確信からの出発なんです。

私も若い頃は自分を〈確固たるもの〉だと思っていました。いえ、そう思い込みたかったんです。だから、いろいろと探しましたよ。自分の中の〈確固たるもの〉を。でもね、見つからなかったんですよ、それが。どうしても。自らを〈確固たるもの〉だと考えて追い求めるほどにさまざまな矛盾が噴出してくる。仕舞いには“すべては無意味”などとニヒリズムに取り付かれそうになる始末。ニヒリズムからはなんとか逃れたものの、得たものといえば“信じるしかない”という、ただそれだけ。“信じるしかない”とはいっても、信じるべき何ものも見つからずに長い間宙ぶらりんの状態で過ごしました。

何かを信じているという自身への自覚は、確かにありました。そもそも〈信じる〉自分を確立しているってのは「主-客対立」の意識構造がなければできないでしょうし。そして「主-客対立」の構図からは、どうしても自己の存在の外に信じるに足る「何か」を探すことになるし、その「何か」はこれまた〈確固たるもの〉でなければならない、ということになる。でも、見つからない。

私がいつ自分自身を〈うつろいゆくもの〉だと規定したのか、それは自分自身でもはっきりとはしないのです。いつの間にか自分自身が自分自身をそう捉えるようになっいた。そしてこれが一番違和感がないんです。違和感のなさが直ちに確信に変ったわけではないけれど、今はおそらくはそう確信してます。おそらく、ですけど(笑)。確信とまでいえると思ったのは、ごく最近のことですから。

でも、このことは確かに矛盾しているんです。その矛盾の自覚もある。というのも、この〈うつろいゆくもの〉への確信は、〈確固たるもの〉への探求とはまったく違うところからやってきたという感覚があるから。これは感覚としか表現しようがないものですが、この感覚は同時に〈確固たるもの〉への探求方法では〈うつろいゆくもの〉は捉えられないことも語る。脳細胞の使い方が違うというより、脳細胞に余り頼らない身体感覚とでも言うか。身体感覚を書き表そうということがもうすでに矛盾を孕んでいるじゃないですか。いえ、身体感覚を書き表すなら、歌を詠じるとか、そういった方法が相応しいのでしょうけれど、どうもそれは苦手。というのも、これまでの探求方法がどうしても前に出てくるから。この方法ではダメと思いつつ、その方法に頼ってしまう。これは確かに矛盾なんです。

そうした矛盾に耐えられなくなったときもありました。最近です。結局は表現することを続けていますが、これが続けられるのは、たぶんブログだから、というのが私の今の考え。ブログだと「対話」ができるんですよ。この「対話」と〈うつろいゆくもの〉との認識は、なぜかよく調和するように思える。

以前、私はコメント欄を重視すると書きましたが、そのなによりの理由は、私自身がうつろいたいからかもしれません。コメント欄に規制を加えると、どうしても私自身の〈確固たるもの〉が出てしまう。そうするとうつろうことができなくなる。それが嫌なのでしょうね。

気の利いた言葉が出なくてすみません。

愚樵さんのおっしゃっていること、私にはとても共感できるものでした。「うつろうもの同士」だからこそ、対話が続くのだし、そこから何かが生まれるのではないかと思います。
(逆に「確固たるもの」を相手にした対話というのは、何とも言えない空しさがありますね。)

私説公開

「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

石垣さん

ご紹介のページ、アクセスしてみました。

ざっと目を通させていただきましたが、腰を据えて読ませていただく必要がありそうですね。

申し訳ありませんが今は時間がありませんので、仕事が休みの日にでもじっくり読ませていただきます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/139-b3bd8e5d

「家族と国家社会」そしてフェミニズム

● 家族と国家社会 【律さん】 「もちろん家族が開いた状態になるということは、他からの無尽蔵な介入を引き入れてしまう危険性が大いにあるわけです。そして、確かに国家や社会は個々人が生きていくための補助システムとして存在しているにすぎず、本体は家族・個人に

私という存在

● 私という存在 如往さん:「以前私は、ロマン・ロランの「私が人間に生まれたのは必然である。しかしフランス人に生まれたのは偶然に過ぎない。」を牽いて、これを私流に「私が人間に生まれたのは一つの宿命である。しかし日本人に生まれたのはある種運命に過ぎない。...

『プレカリアート』社会への怒り

 ガソリン問題も後期医療制度もそしてそれへの政府の対応にも腹が立つ。この中で、止め処なく滑り落ちるワーキングプアの拡大に最も怒りを覚える。「プレカリアート」(注)社会への怒りである。  (注)ウィキペディアより:プレカリアート(英precariat、仏pr?ariat、...

聖書で読むアメリカ

『聖書で読むアメリカ』=石黒マリーローズ著(PHP新書・735円) 石黒 マリーローズ 1943年、レバノン・ベイルート生まれ。社会学と言語学の研究者で、大阪大学で教鞭をとりはじめ、現在、英知大学教授、大阪教育大学講師。1989年、神戸市の「国際交流賞」を受賞

本当に日本人は無宗教なのか?~世界で最も強固な宗教=日本教~

私は宗教というものに全く疎いのですが、日本人の宗教観について、29日の読売新聞に面白い調査結果↓が出ていたので取り上げてみます。 ...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード