愚慫空論

空虚5度

クラシック音楽に多少馴染みのある者には、「空虚5度」には、ベートーヴェン第九の出だし! という答えが帰ってくるだろう。


(カラヤンの第九。どうでもいいけど、やっぱりカラヤンはウルサイわ)

クラシック音楽に馴染みのない人でも、一度は聴いたことがあるはず。この音楽の出だしは“神秘的”などと評されるのだけれど、なぜ神秘的なのか、と問われると、返ってくる答えが「空虚5度だから」。これは、まあ、定説とでも言っておきましょう。

じゃあ、「空虚5度」とは一体何なのだ? 

昔々の音楽の授業で、3和音というものを習ったことがあると思う。ドミソとか、ドファラとか、シレソといった3和音。ドミソなどの3つの音を同時に鳴らすと、とてもキレイに響く。このキレイな響きが音楽の組み立ての元になっているわけだが、それは措いておいて、「空虚5度」とはドミソでいうなら、真ん中のミを抜いて、ドとソだけで和音にしてしまう、そういう響きを空虚5度という。


ドとソ2つの音は、完全5度の関係にあるといわれるが、協和的に響く2音である。音の周波数でみれば、ドとソの音の周波数の比率は2:3(正確にいうと、これは純正律の場合。平均律で調律されていると正確に2:3の比率にはならない)と、極めて親和的。そんな2音を同時に鳴らすことがなぜ空虚なのかと思うが、これには長調とか短調とか(メジャーとかマイナーとか)が関係してくる。ドとソの2音だけでは、その響きが長調の響きなのか短調の響きなのか、判別することができない。だから、ドとソの2音だけでは空虚なんだ、ということになっている。

先ほどからドミソの和音を取り上げているが、実はこれは長調の和音、それも主和音といわれる3和音のこと。短調の場合、主和音がドミソではなくてラドミが主和音となる。長調の場合は“ドレミファソラシド”だが、短調だと“ラシドレミファソラ”になる。ドレミファ~だと明るく響き、ラシドレ~だと暗く響く。

ドレミ

長調の主和音であるドとミとソの関係を見てみるとドとミの間には全音(ピアノの鍵盤でいうと、間に黒鍵を含むもの)2で(これを長3度という)、ミとソの間は全音1半音(黒鍵を含まない)1(これを短3度という)。同様に短調の主和音ラドミでは、ラとドは短3度、ドとミは長3度という関係。ある響きが長調になるのか、あるいは短調になるのかは、この長短の3度のあり方が鍵になっているわけだ。だから、ドとソ、あるいはラとミだけの完全5度(全音3半音1)の響きだけでは、その響きが長調であるのか短調であるのか、決定できない。決定できないから不安定で空虚という論理である。


さて。実はここまでは前置き。なぜ「空虚5度」なんてものを持ち出したかというと、この空虚5度をあるものの比喩に使いたかったからである。あるものとは、ズバリ、言葉である。

最初、このエントリーの題名は「言葉への絶望」とでもしようか考えていた。言葉というコミュニケーション・ツールは、とても多様な可能性を提示してはくれるけれども、しかし、どう考えても不完全なもので、このツールを使って自分自身の意思を他人に伝達すると、いつもなにか重要なピースが抜け落ちてしまうような気がする。最初はこの抜け落ちは自分自身の落ち度だろうと思っていたが、多少、言葉で伝える経験を積むうちに、どうもそうでもなさそうだと思い始めた。【語りえぬもの】が相手に伝わるには、言葉では伝達できない何かを、どうしても相手方に探り当ててもらわなければならない。自己完結できず、受け手によって解釈が異なってしまう表現――このような表現しかできないツールは、どれほど多様な表現の可能性を秘めていようと、不完全なツールといわざるを得ないだろう。

言葉の不完全性――これを上の3和音に譬えていうと、ドミソのミの音が欠けた「空虚5度」ということになろうか。言葉を操る者にとっては、このミの音を自ら発することがどうにも難しいらしい。またあるいは、ドとソはそれぞれ共感する者同士の「対話」であると捉えてもいいかもしれない。もともとドとソは極めて親和性の高い音同士だが、親和性の高さゆえに欠けてしまうピースがある。それがミの音であり、ミの音があってこそ醸し出す響きも安定する。このことは、高い共感度の元でのみ行われる「対話」よりも、違った角度からの視線を織り込んだ「対話」の方が内容も豊かで基盤も確固たるものになる、ということになるのだろう。

自己完結できない、不完全な言葉。けれど、だからといって、私は別にコミュニケーションに絶望しているわけではない。自己完結しよう意図し「われ思うゆえにわれ在り」の立場に立てば、言葉への絶望はそのままコミュニケーションへの絶望へとつながるのかも知れないが、私の立場はそうではない。「あなた在るゆえにわれ在り」。自己の完結は、そもそも他者に委ねられている。最近、そんなふうに思うようになってきている。

そうした立場に立てば、言葉の不完全性からくる言葉への絶望は、実は自己完結できない自分自身への絶望でしかないことがわかる。と同時に、言葉に絶望しても、それでもなお他者とのコミュニケーションを望む自分を見出すことになる。いや、自己完結できない言葉に絶望するからこそ、より深い他者とのコミュニケーションを希望するようになる。

「われ思うゆえにわれ在り」ならば、他者の存在は必要ではない。でも、それはやっぱり違う。私にはどう頑張ってみても他者が必要だ。たとえそれが私自身を傷つける存在でしかなかったとしても、私が私であることを確認するためにはどうしても他者が必要。他者なき自己は、自己でもなんでもない。この自己確認の他者依存こそが、自己の不完全性の証だろう。

不完全な自己は、完結していないから逆に大きな可能性を持つこともできる。小さな完結を望むのなら、私とあなた、ドとソの響きだけでもよいのかもしれない。だが、ドとソの響きは親和的であっても安定はしない。より大きな安定した響きを求めるなら、やはりミの音が必要だ。私とあなたの響きをより豊かに安定させるミの音は、あるいは私とあなたを取り囲む社会であるのかもしれない。そして、私自身はまた、私ではない別の人の「私とあなた」にとっては社会の一部であるわけだ。私が私以外の「私とあなた」をより豊かに安定させる音となる――自己完結していないからこそ、望みうる希望ではなかろうか。

コメント

ご無沙汰しています。

「空虚5度」なるほどです。
ハッと気づいたのですが、映画のテーマ曲って5度で始まる曲が多いんですよね。E.T.、ジュラシックパーク、スターウォーズ、・・・とあげてみてふと気づいたら、全部ジョン・ウィリアムズの作品でした(笑)
独特な「広がり感」は、5度のおかげかもしれませんね。

>不完全な自己は、完結していないから逆に大きな可能性を持つこともできる。
・・・ある時、私もふと思いました。「自分一人だけ」で完結することを目指す必要はないんだ、って。
そう気づいてからは、「不完全」が「可能性」に見えて、逆に精神の安定が得られたような、そんな感じがあります。

頭の中のくもの巣を取り払って…

対話がなければ、そして人の言葉、人の心に触れなければ、自分の頭の中の蜘蛛の巣ひとつ、自分ひとりでは取り払うことも出来ない。自分の‘生’が見えてこない。
それが‘わたし’なのだと思います。
‘わたし’はロビンソン・クルーソーには、なかなかなれない。
人がいなければ、自然と対話する、あるいは自己との対話(つまり、文章を書いたり…。)を重ねる。
ところが、それでは頭に蜘蛛の巣が張ってくる。
過去との対話(読書)もいいが、それではなかなか蜘蛛の巣が取れないこともある。

自然も書物も自分自身も、‘わたし’に直接触れてはくれないから。
だから‘わたし’には人が必要なのだと思う。

再びおじゃまします。

>あなた在るゆえにわれ在り
少々感動してしまいました。
おもえば、デカルトが我思う…などと言った時から、孤立した個人が暴走しだしたのでしょうね。
上の言葉は、今後大変重要になってくると思います。非常に単純で当たり前な事のはずですが。
(愚樵さんのオリヂナルですか?それともチャーリー浜…。)

一言付け加えると、調和音と不協和音が響きあうことで、より深い”美しさ”が産まれます。
(まあスイカに塩をかける様なものかもしれませんが、私はジャズの方が好きなので。)

お眼汚し失礼しました。

 いつもお世話になっております。
ガイアの夜明けのモスカルです。
相互リンクを貼らせて頂きたく思い、
書き込みいたしました!
 ただいま、過敏症患者と、健康な方々が
一緒に参加できるような楽しいコンテストを
企画しております。
 もしよろしければ、あなた様にもご参加して
頂けますと、うれしいです♪
 これからもよろしくお願い申し上げます☆☆

Lightさん、naokoさん、ymさん、それからモスカルさんも、コメントありがとうございます。

お返事を書き始めたら、新たなエントリーになってしまいました。いつもの通り、ぶっ飛んでいますが、皆さんへのお返事だと思って次のエントリーをご覧になってください m(_ _)m

*****

ymさん

>一言付け加えると、調和音と不協和音が響きあうことで、より深い”美しさ”が産まれます。

ご指摘、よ~くわかる気がします。この“美しさ”って、風味に例えれば“臭み”でしょうね。最初は抵抗があっても、慣れると病み付きになってしまうアレですね。

ジャズには独特の“臭み”がありますよね。私はそれほどジャズは聴かないのですが、強いて好みをあげるとジャズヴォーカルが好きです。ジャズの臭みと人間の声とがとても合うような気がします。いささか古いですが、ビリー・ホリデイなんて痺れます。

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