愚慫空論

それは本当に「私」なのか?

本エントリーは、またまた続き物。前々回『ニセ科学批判の道徳性』のコメント欄のやりとりを受けてのエントリーです。

ですので、このエントリーからご覧の方はお手数ですけれど、前々回のエントリーとそのコメント欄をまずご覧になっていただけるとありがたいです。ああ、前々回はその前(『【語りえぬもの】を語る姿勢』)の前(『科学は陰謀説から生まれた』)から続いていますので、あしからず。

このエントリーは、ちょちょんまげさんのコメントにお答えするためにあげたものです。

「オレはオマエが嫌いだからオマエの命が残り少ないのは歓迎だ」が真っ当な批判、批判法であるならば、「イラクで事件に巻き込まれた者に対する自己責任批判」は、極めて真っ当な批判、批判法ではありませんか?

(この問いかけは、こちらこちらのコメントを踏まえてのもの。最初から読むのはいくらなんでも面倒だとお思いの方は、この2つのコメントだけでもご覧になってください。)

このご質問は、私には大変ありがたいものです。前々回のエントリーで展開したニセ道徳者批判の核心部分を衝くものだからです。このご質問へのお答えの中で、ニセ道徳者の何たるかを改めて示すことができると思います。ですので、本来はコメント欄でお答えすべきところを改めてエントリーとして挙げることにいたしました。


まず、ちょちょんまげさんのご質問から検討してみます。鍵になるのは、ちょちょんまげさんが後者をどのように捉えたかにあると考えます。後者を、前者に似せて読み替えてみます。ちょちょんまげさんが読み替えたのは、


a)「オレはオマエが嫌いだから、オマエがイラクで事件に巻き込まれたことを批判する」

でしょうか? それとも、

b)「オレはイラクで事件に巻き込まれたオマエが嫌いだから、オマエを批判する」

でしょうか? 

a)の構造は〈嫌い→批判する〉の2段構造です。対して b) は〈事件に巻き込まれた→嫌い→批判する〉の3段構造になっています。また前者は〈嫌い→命が少ないのを歓迎(批判)〉という2段構造です。

a)ならば前者と全く同じ構造になりますが、後者がこのように読み替えられることはありえません。イラクに渡った邦人3名が誘拐された事件とその後広がった自己責任論を実際にご存知の方ならお分かりになるはずです。ですので、読み替えるとすれば b)でしかありえません。

ちょちょんまげさんは前者と後者を同じく真っ当なものなのではないかと疑問を呈されましたが、ここで示した通り、後者は前者とは構造の異なる b) でしかありえません。まず、これが一点。

しかし、反論はあろうかと思います。2段構造であろうが3段構造であろうが〈嫌い→批判〉という流れは同じです。ちょちょんまげさんはこれをもって前者と後者を同じとしたわけですが、となると問題は、前者と後者の構造の違いが真っ当か真っ当でないかの境目になるのか、ということになります。


前者の場合、オマエを嫌いなオレは、オマエが医師からガンを宣告される以前からの知り合いということになります。それ以外はありえません。ですので、「オレが嫌い」はオマエのガン宣告以前からのものであって、ガン宣告されたから嫌いというのではありません。

しかし後者の構造から読み取れるものはそれとは異なるものです。オマエを嫌いなオレは、オマエがイラクで事件に巻き込まれる以前からの知り合いではありません。いえ、それどころか、最初から最後まで知り合いではありません。オレはオマエがイラクで事件に巻き込まれたことが報道されたことでオマエの存在を知った。ですから、オレがオマエを嫌いになったのはイラクで事件に巻き込まれたあとのことでしかありえない。すなわち、イラクで事件に巻き込まれたから嫌いなのです。これは前者になぞらえると、ガン宣告されたから嫌い、ということになってしまいます。

このように同じ〈嫌い→批判〉でも、前者と後者では大きく異なります。「ガン宣告される以前から嫌い」の〈嫌い〉は真っ当な〈嫌い〉と呼ぶことができるでしょうが、「ガン宣告されたから嫌い」の〈嫌い〉を真っ当と呼ぶことはできないでしょう。同じ〈嫌い〉でも、その〈嫌い〉をもたらす構造の違いによって真っ当か否かが判別されることになるのです。

ちょうちょうんまげさんへのお答えは以上で終わりですが、これだけのために新たなエントリーをあげたわけではありません。この続きがあります。

私はニセ道徳者を「「私」を隠蔽して個人批判を行う者」としました。上で示した真っ当な〈嫌い〉は何の留保もなく「私」することができるでしょう。では、真っ当でない〈嫌い〉はどうか? 真っ当であろうがなかろうが、〈嫌い〉は間違いのない「私」の感情であるのだから「私」であることには間違いないのではないか? そういう答えもありそうです。

ここがニセ道徳者批判の核心部分です。真っ当でない〈嫌い〉を私は〈「私」の隠蔽〉と呼んだ。〈「私」の隠蔽〉とは言い換えると〈権威に寄り添う〉ことです。

前者、真っ当なケースの〈嫌い〉はあくまで個と個の関わりから生まれてきた感情です。ここに何らかの権威が介入する余地はありません。しかし後者の場合、オレとオマエは知り合いですらありません。個と個との関わりは一切ない。にもかかわらずオレがオマエに〈嫌い〉という感情を抱くことになったのは、オレが(イラク人質事件のケースの場合)国家という権威に寄り添ったからです。そうでなければ面識もないはずのオマエに好きであろうが嫌いであろうが、何らかの感情を抱くなどとということはありえません。

それが国家であれ宗教であれ科学であれ、権威に寄り添った「私」は隠蔽された「私」でしかありません。したがって「『水伝』を取り上げた者への批判」も「イラクで事件に巻き込まれた者に対する自己責任批判」も「夜間に外出して犯罪に巻き込まれた女性への道徳的批判」も、さらには「国旗国歌に敬意を表さないという批判」も、個人への批判として行う者はみな、ニセ道徳者ということができるのです。

ここから先は『ニセ科学批判の道徳性』のエントリーの内容と同じものになっていくので、続ける必要はないでしょう。

*****

あと、「物質精神分離信仰」についてですが。

これについて詳しく語りだすと、とてもじゃないですがひとつのエントリーでは収まりません。手っ取り早くお知りになりたければ、佐伯啓思著『人間は進歩してきたのか』あたりが手頃ですので、お勧めしておきます。新書ですので、700円程度の値段です。「物質精神分離信仰」は近代合理精神から生まれてきたものですが、私たちが「確かなもの」と思っている近代合理精神がどのような歴史的経緯から生まれてきたのか、ごく短くわかりやすく示されています。ご参考までに。

コメント

語りえるもの

すごいことになりましたね。語りえぬもの。難しすぎて、私なりにいろいろなテーマを上げて考えてみましたが、考えがまとまりませんでした。ここで皆さんのいろんな思いを勉強させていただきたいと、思ってます。

愚樵さん

わざわざエントリーをありがとうございます。
とりあえず今は一言だけ。

「ちょうちょうんまげ」はものすご発音しにくいです(笑)
(でもおもしろかったから、ほかで使おうかな)

ちょうちょうんまげ

いやいや、失礼しました。またしても、注意力散漫で。

でも、面白い。私も思わず笑ってしまいました。もったいないので訂正しませんが、よろしいですか? ちょうちょうんまげさん、いえ、ちょちょんまげさん?

超ちょうんまげのぎゃくしゅー

愚樵さん

超ちょうんまげです(こうするといくらか読みやすいかも)
おもしろいので、ぜひ、訂正しないで残しておいてください。

で、本論に行こうと思います。

二段構造、三段構造についてはわかりました。
「イラク」が、三段構造であることも同意いたします。
が、そのあとは色々と承服しかねます。

1.この疑問は愚樵さんのことですから折込済みかとは思いますが、「個人的に知らなきゃ個人に対する批判はペケ」と読めます。そうおっしゃってるのですか?

2.私にとって、「個人が個人を批判した例」でもっとも印象に残るのが、浅見定雄氏がイザヤ・ベンダサン(山本七平氏)を批判した「にせユダヤ人と日本人」です。
イザヤ・ベンダサン氏著の「ユダヤ人と日本人」のデタラメを宗教学者としての浅見定雄氏が徹底的に暴き、言わば「自然科学でない分野での疑似科学批判」だと言えると思います。

その著書は:

a.個人が個人を批判したものである

b.面識はあったかも知れないが、以前からの知己であったとか、愚樵さんのおっしゃる「真っ当な〈嫌い〉」が熟成されるほどの間柄では無いと思います。(残念ながら、ここは100%の自信はありません)
少なくとも浅見氏は「あんたが嫌いだから批判する」とは言っていません。

c.浅見氏の批判は彼の専門である聖書学、そして豊富なユダヤ文化への知識に基づいており、大いにその権威に寄りかかっています。

d.しかも、浅見氏の同書執筆の動機は「ユダヤ人と日本人」という、(浅見氏の考える)イカサマ本が100万部以上も売れる(水伝の比でない)という現象を見て、「デタラメ」が蔓延するのを恐れたという、極めて「道徳的」な理由が大きいです。

もう私の言いたいことはおわかりだと思うのですが、
愚樵さんとしては、「にせユダヤ人と日本人」はペケだということですか?






すんません、続きます

「物質精神分離信仰」のご回答は物足りません。

「物質精神分離信仰」(と愚樵さんあるいは、提示なさった書籍の著者が呼ぶもの)が生まれた歴史背景が仮にあったにせよ、「(今のところ)自然科学の体系を構築する上で『物質精神非分離』を持ち出す必要がなかった」ということで、信仰、ルール、洗脳等ではない、というのは事実だと思うのですが。

私も一つ文献を提示します。

「物理学者はマルがお好き」(ハヤカワ文庫)
ローレンス・M・クラウス
青木薫訳

以下は本文からの引用ではありません。本当は本文から適当な箇所を抜き出したかったのですが、長くなりそうなので訳者の青木薫氏(氏も理学博士です)の解説からの引用です。

ここから引用:

いわゆるトンデモ系と、そうでない科学との分かれ目になるのは、「しっかり検証された理論はおいそれとは手放さない。使える手はとことん拡張してつかってみる」という精神だ。

引用終わり

すなわち、物理学者は「(『物質精神非分離』を使っていない)しっかり検証された理論」を極力手放そうとはせず、かつ「使える手(『物質精神非分離』を使っていない)をとことん拡張してつかってきただけ」ということであり、信仰、ルール、洗脳等とは考えられないということです。

おっと、本当の科学畑の方(あらいさん様)が訪れていらっしゃるようです。
あらいさん様にお任せすべきですね。

あらいさん様、はじめまして、ちょちょんまげと申します。
お名前を勝手にここで使ってしまって申し訳ありません。
さらに恐縮ですが、私のコメントにおかしなところがあったら、ご指摘いただけたら幸いです。

よろしくお願いします。







回答がおそくなりました

回答が遅くなりました。申し訳ありません。

1.

いえ、必ずしも個人的に知らなくても構わないでしょう。イラクの例で上げた3段構造であっても、権威に寄り添っていなければOKだと考えます。

具体的な例を挙げますと、あるミステリー作家が生まれた仔犬を崖から投げ捨てると告白して、非難が集中したケースなどがそう。仔犬殺しの嫌悪感は、どう考えても「私」でしょうから。

ただし、このようなケースの場合でも、「生命の尊厳」といったような権威を持ち出して批判すれば、やはり権威に寄り添うことになりましょうか。

2.

申し訳ありませんが、不勉強でその浅見定雄氏の批判の内容を知らないのです。イザヤ・ペンダサンが山本七平氏だったというのは、知っていますが。

ちょちょんまげさんの説明から推測するに、浅見氏の批判はニセユダヤ人として間違ったユダヤの常識(?)を紹介したことにあるのでしょうが、しかし、『日本人とユダヤ人』は、ユダヤ人論としては問題はあったとしても、日本人論としては今でも大変優れたものであるのは間違いなかろうと思います。ユダヤ学者(?)の浅見氏がユダヤ論の誤りを指摘するのは当然のことでしょうし、その手法(ユダヤ人になりすます)を問題視するのも当然でしょうね。けれどもまた、日本人を啓蒙する日本人論としては、そうした手法に一定の効果があったことも認めざるを得ない。問題は、手法の批判が道徳批判にまで及んでいたかどうかでしょう。

『日本人とユダヤ人』のようななりすましは、現在のネットでは広く見られる現象ですよね。本当は男なのに女になりすます、いわゆるネカマなんてのがあります。女になりすまして男を誘惑したのなら反道徳的でしょうが、女になりすまして女の意見を述べたとしても、反道徳的とはいえないだろうと考えます。

>「物質精神分離信仰」のご回答は物足りません。

自然科学の体系を構築するのに、信仰は関係ありません。仰るとおりです。けれど、私は科学批判をしているのではない。道徳批判をしているわけで、そうなれば人間の意識を規定している「信仰」にまで目を向けることは間違いだとは思いません。

>「しっかり検証された理論はおいそれとは手放さない。使える手はとことん拡張してつかってみる」という精神

『水伝』の著者にしても、その精神に欠けているというわけでもなさそうです。いろいろとご自身の理論を展開する著作も著されているみたいで、その理論が科学的かどうかはさておくにしても、「使える手はとことん拡張してつかってみる」ことはやっておられるようですよ。

山本七平氏がイザヤ・ベンダサン名で行っていたことには、以下のような問題点があったと思います。
・山本七平氏はイザヤ氏を弁護する関係にあったこと
・「ユダヤ」という知的権威を騙っていたこと

前者は、同一人物がその事を伏せた上で自分を援護する、いわば自作自演であって、ネカマとは異なると思われます。
後者は、ゆえに浅見氏によって反論されなければならなかった部分です。例えば私がこれこれの専門家を名乗って社会評論をぶてば、その責と罪悪はより大きなものになるのと同じです。

※ちなみに、浅見氏とイザヤ氏はそれまで面識がなかったと記憶します。

おじゃまします

>「しっかり検証された理論はおいそれとは手放さない。使える手はとことん拡張してつかってみる」という精神

信仰、ルールが入り込むかどうかは使われ方が問われるのだと思います。
「さらなる事象の因果関係を追求する」なら科学として良いかと思います。これが「技術に応用する」「人々の価値観、行動を変える」となれば、そこには必ず「意味」が生まれますので信仰を伴うものになるかと思います。

例えば近代の人間中心の価値観を生み出したものの一つと思われる進化論。進化論以前の人々の価値観を変えたものであり現在にいたるまで人間中心の観念を支えているものだと認識しています。
進化論の事象のみを取り出すと「生物は様々に形質変化を起こし、環境に適応した形質を獲得した個体、種が生き残る」といったところでしょうか。ここまでは実験、観察、考察の結果を述べただけであり、なんら意味を含まないもので、つまり科学として良いかと思います。ここから人間賛美の意味付けをしてみます。生き残った種は優れた形質を持ち生存競争に勝利した。また、優れた形質である知能はすばらしい。といったことから「人は生物の中でもっとも優れている」といったことが導かれるかと思います。ただそれは「現在まで残存した種は皆優れている」といったような他の価値観を捨象すればの話です(そもそも「優れている」ということ自体も意味を含むものであって単に環境に適応したといったほうが科学的かと思います)。
つまり「生物は様々に形質変化を起こし、環境に適応した形質を獲得した個体、種が生き残る」と「人は生物の中でもっとも優れている」の間には科学的な因果関係はないわけで、信じるか信じないかの問題かと思います。

真に科学的であること言うことは「事象の因果をしめすだけ」ということなのかと思えます。

>愚樵さん
横レス失礼。

>その理論が科学的かどうかはさておくにしても、「使
>える手はとことん拡張してつかってみる」ことはやっ
>ておられるようですよ。

科学における「使える手」とは、十分な検証に耐え抜いた後で初めて使えると認められる物です。
そして「使える手を拡張する」とは、例えば三角形の相似の理論を測量に応用する等の「使えると認められる範囲」に限定されます。

従いまして水伝などは全く「使える手」などではなく、水伝の著者はこれっぽっちも科学の精神に通じてはおりません。

『理論が科学的かどうか』すなわち『それが科学(という道具の在り方)に合致しているか』が科学において一番重要なので、科学について言及するならそこは絶対にさておかないようお願いします。

それで説得力が有ると思うのは科学に明るくない人達に限定され、付随してそれは科学に対する誤解を広げる事に繋がりますので。

愚樵さん
いきなり本論に入ります。

1.
>あるミステリー作家が生まれた仔犬を崖から投げ捨てると告白して、非難が集中したケースなどがそう。
>仔犬殺しの嫌悪感は、どう考えても「私」でしょうから。
>「生命の尊厳」といったような権威を持ち出して批判すれば、やはり権威に寄り添うことになりましょうか。

「仔犬殺し」に対する「嫌悪感」はなにから生まれるのでしょう。その背景には必ず「理由」が存在すると思います。
それは、「生命の尊厳」という「権威」ゆえなのかもしれないでしょう。(表明するかどうかは別として)
また、その人が生きてきた社会における一般的な「道徳という権威」ゆえかも知れません。

愚樵さんのおっしゃるような(一切の理由なくして生まれる)「純粋な嫌悪感」というものは、まず存在しないのではないでしょうか。

「私はあなたが嫌いだ、なぜならば・・・」にならない「純粋なケース」を知りたいものです。

さらに、「純粋な嫌悪感」でならば、「個人」が「個人」を批判することは真っ当である、逆にいうと、「純粋な嫌悪感」なしに「個人」が「個人」を批判することは真っ当でない、という結論に到達することも私にはよく理解できません。


2.
>日本人論としては今でも大変優れたものであるのは間違いなかろうと思います。

これは、本議論とは関係がないでしょう。
ここでお話させていただいているのは、「真っ当な批判」についてであり、「山本氏の日本人論の是非」ではありません。
話が拡散するとイヤなので確認させていただきますが、これについて(「山本氏の日本人論の是非」は、本論と関係がないこと)は同意いただけるでしょうか。

ただ個人的には、「人文」の話なので「自然科学の理論」のようには「正誤」、「優劣」はつけられないであろうことと、私としては山本氏が「結論ありき」でユダヤの話や聖書の話をその補強に引っ張りだしてきて、そこに多くの事実誤認や「捏造」(と、とられても仕方のないこと)が存在している以上は「結論にもあまり敬意をはらうことができない」ということは付け加えておきます。


3.
>ユダヤ学者(?)の浅見氏がユダヤ論の誤りを指摘するのは当然のことでしょうし

あれ?、これは「純粋な嫌悪感」じゃないんだから(もろ権威含みですし)ペケなんじゃないですか?
「批判」でなく「指摘」と記述なさってますが、「指摘」ならOKということですか?
ちなみに、浅見氏がベンダサン氏に行ったのは:

a.「事実誤認」あるいは「捏造」の指摘
b.その行為に対する批判
の両方です。
なお、「なりすまし」そのものに対しては(その段階で、本当に「なりすましていたのかどうか」がはっきりしてないこともあり)強い批判は行っていません。
「ユダヤ人がユダヤ文化について、間違いまくりの説明をしているのは変じゃないか」という指摘は多いですが。

4.浅見氏のベンダサン氏に対する批判は道徳的な判断を多く含みます。

a.「ユダヤ文化」という日本人になじみの薄いところを持ち出して、シロウトにはわからないだろうとデタラメ(「ユダヤ文化やユダヤ教の解説や解釈、というところで)を並べ立てるのは詐欺的な行為である。
b.「なりすまし」はその段階ではっきりしていなかったので、そのことに対する批判は強くしていないが、「ユダヤ人」として「ユダヤ文化に通暁」、ユダヤ人として「ヘブライ語に堪能」、ユダヤ教徒として「ユダヤ教に通暁」、米国在住ユダヤ人として「英語に堪能」とニセの権威を使いまくって読者を欺いていることが詐欺的な行為である。
(なぜ、ニセの権威と断言できるかというと、「ヘブライ語」、「ユダヤ文化」、「ユダヤ教」、「英語」の各分野で間違いまくっているからです)

という、あきらかに「道徳的な批判」を含んでいます。

で、私が愚樵さんの論理に当てはめるならば、 「浅見氏のベンダサン氏批判」はペケとしか考えられないのですが、いかがですか。


例によって、申し訳ありませんが、続きます。

「物質精神分離信仰」についてですが、すでにあらいさん様が的確に指摘してくださってますので私のようなシロウトが口を出すことでもないのでしょうけど、行きががり上続けます。

>自然科学の体系を構築するのに、信仰は関係ありません。

これはもともとおっしゃっていたことと矛盾しませんか?

>実はそのトレーニングの過程で何が行われているのかというと、“物質現象と精神現象は分離したもの”という思考方法を刷り込まれるのである。この刷り込みは、あるいは信仰と言ってもよいかもしれない。

>科学実験は科学を一種の宗教だとすれば宗教的儀式に譬えることができるが、『水伝』はその儀式から別の「信仰(精神物質非分離)」を肯定した。これはルール違反であり反道徳的とされても致し方ない。

私の反論は上記の愚樵さんの主張に対して行ってきたものなのですけど。


>道徳批判をしているわけで、そうなれば人間の意識を規定している「信仰」にまで目を向けることは間違いだとは思いません。

それはわかりますが、愚樵さんのオリジナルの記述の「人は科学的思考を身に着けるにつき、『物質精神分離信仰』を刷り込まれる」という部分につきのみ、私は言及しているつもりなんですけど。


>「しっかり検証された理論はおいそれとは手放さない。使える手はとことん拡張してつかってみる」という精神

に、ついては、あらいさん様と同意見です。


>『水伝』の著者にしても、その精神に欠けているというわけでもなさそうです。いろいろとご自身の理論を展開する著作も著されているみたいで、その理論が科学的かどうかはさておくにしても、「使える手はとことん拡張してつかってみる」ことはやっておられるようですよ。

これには、少々驚きました。

ぜひ、江本氏の「その精神」につき、具体例をあげていただきたい。
まさか、「自分に都合のいいデータだけ取り上げ、あるいは都合のいい写真だけ取り上げて「美しい」とか「醜い」とか紹介する」ことを繰り返していることを、「しっかり検証された理論はおいそれとは手放さない。使える手はとことん拡張してつかってみる」という精神とおっしゃっているのですか?

再度、申し上げますが、もしそうならば、ビックリです。


それと、極めて重要なことをうかがうのを忘れていました。

私は愚樵さんを『純粋に嫌悪』していません。お説の内容に単に納得がいかないことが第一(95%ぐらいかな)、そして「この論が広まるのは道徳的にもどうかな」というわずかではありますが「道徳的判断」も含んでいます。
私が今これを書いているということは『真っ当でない』ことなのですか。

とんぼのめがねさんのおっしゃること

とてもわかりやすかったです。
科学的追求とは、「事象のさらなる因果関係を追及すること」である。
「『事象の因果関係の構造を解き明かすこと』に言説を限定し、宗教的・道徳的な判断に踏み込まないことが、真に科学的姿勢と言える」とおっしゃっておられるのですよね。
進化論の例えもわかりやすいですね。

結局(ここからは、わたしの考えですが…)、善悪の判断、つまり宗教的・道徳的な判断に踏み込むなら、それは個人的な信念・信条の表明でしかありえない。
それに否を唱えるのも、個人的意見の表明となる。
その議論を交わす場には、好むと好まざるとに関わらず人間的交流が生じる。
その個人と個人との、誠実な全人格的交流を拒絶するなら、最初からものを言わない方がよい。
アンチ・モヒカンの表明です。

横レスの横レスですが

>あらいさんさん
>そして「使える手を拡張する」とは、例えば三角形の相似の理論を測量に応用する等の「使えると認められる範囲」に限定されます。

この例では、観測、観察の方法といった「事象と事象の因果を見つける」の範囲(この範囲までは価値判断不要の純粋な科学に留まるかと思います)に収まるものかと思います。
水伝においても「事象と事象の因果を見つける」といったことがなされていると思うのですが、実際どこに問題があると考えられていますか?
結局は道徳(世界に働きかける)に行き着くのではないのでしょうか?

>naokoさん
ありがとうございます。

>とんぼのめがねさん

>水伝においても「事象と事象の因果を見つける」といったことがなされていると思うのですが、実際どこに問題があると考えられていますか?

まず誤解しないでいただきたいのですが、水伝は「因果を見つけたと言い張っているだけ」で、「因果を見つけた」と認めるに足る検証を行っておりません。
やったのはせいぜいが「あるある大辞典」レベルのお粗末な実験と恣意的な解釈程度です。
これだけでも十分過ぎるほど問題……というよりは『科学としてお話にならない』のが水伝です。

しかし水伝はこれだけにとどまりません。
加えて、水伝が見つけたと主張する因果は、科学の検証に絶対に耐えられないのです。

私は化学畑の人間なのですが、水伝を認めるとすれば水伝等とは比較にもならない数と質の検証に耐えてきた化学熱力学の基本法則を破棄しなければなりません。
応用すれば、一定の文字列を横に置くだけで反応制御が可能になり、望む化合物が得られる可能性さえ出てくる。
それが、水伝が真実だと認めて拡張して行った先に有り得る姿ですが、そんな夢のような話は当の昔に検証され尽くしています。

時に水伝を信じる人達が水伝批判に対して『水伝は嘘だと証明しろ』と言いますが、科学者にとっては検証するまでもなく『有り得ないのが自明』なのです。

こういうことを言うと『天動説と地動説』等を引き合いに出し、『確かめもせずに否定するのは科学者として云々』というご高説を展開する方がたまにいらっしゃいますが、批判側としてはせめて高校レベルの物理化学ぐらいしっかりと習得してから出直して来て頂きたいというのが正直な所です。

一定の科学的素養を持つ者から見て、水伝は

『火(氷)という文字を横に置いたら水が温まる(冷える)』(実験において室温は考慮しない)

とほぼ同レベルですから。

人間は不合理な存在である

ちょちょんまげさん、またしても少し間が空きました。

>「仔犬殺し」に対する「嫌悪感」はなにから生まれるのでしょう。その背景には必ず「理由」が存在すると思います。
>それは、「生命の尊厳」という「権威」ゆえなのかもしれないでしょう。

このあたりに私とちょちょんまげさんとの立場の違いがあるようですね。

嫌悪感等の感情になんらかの「理由」が存在するであろうことには私も同意です。けれども、その「理由」は【語りえぬもの】、言い換えれば不合理なものだと捉えているのが私の出発点。「生命の尊厳」という権威を批判するのは、その権威が「理由」の不合理性を隠蔽するものだからです。つまり「私」とは不合理なものなんですね。

>>日本人論としては今でも大変優れたものであるのは間違いなかろうと思います。
>これは、本議論とは関係がないでしょう。

もちろん同意です。これを引き合いに出したのは、山本氏の不合理な「私」を推測するためでしかありません。どのような「理由」で山本氏がユダヤ人を偽装したのかはわかりませんが、理由があったことは間違いはないわけで。

社会的には、いかなる理由があろうとも間違ったものは間違っていると批判すべきでしょう。そこは私もちょちょんまげさんやあらいさんと立場は変らないだろうと思っています。『水伝』も、それが科学的に誤りであろうことについては何の異議もありません。ただ私が批判しているのは、社会的、科学的な正誤がそのまま個的、道徳的な正誤に直結されることです。

浅見氏が山本氏をどのように批判されたかは知りませんので深入りはできないのですが、私が批判するとすれば、浅見氏という「権威」を借りて山本氏の批判をすることです。浅見氏の見解に同意しそれを自分のものとして山本氏の批判をされるならよいのですが、仮に浅見氏の山本氏批判に有効な反駁がなされたとして、その反駁に“私は浅見氏の見解に従っただけ”というような態度はいただけないという話です。このことは『水伝』信者を批判するのに、“私は科学的な見識に従っているだけ”とするのと同じでしょう。『水伝』の科学的正誤は「私」抜きで批判されるべきでしょうが、もともと不合理な信仰云々を不合理な「私」抜きで批判するのはニセ道徳だ、ということです。

>という、あきらかに「道徳的な批判」を含んでいます。

ちょちょんまげさんの仰る「道徳的批判」が、山本氏の人格にまで及んでいるかどうか、そのあたりがわからないのです。山本氏が誤った手法を用いた、だから山本氏は悪人だ、との批判をなすなら、浅見氏はご自分の不合理は「私」によって批判をしなければなりませんね。そうではなく、山本氏の手法が誤っているという批判に留まっているのであれば、そこは私が論じた「道徳的」の範疇外の話になります。『水伝』でいうと、それが科学的に誤っているか否かの話ですね。

山本氏の手法への批判も社会的には道徳として批判をされるということは私も認識していますが、そうした社会的道徳は虚構なのだ、というのが私の論です。これも仮にを考えて見ますが、もし浅見氏の山本氏批判が誤っていたなら、傷つくのは浅見氏のユダヤ教の学者(?)としての権威でしょう。しかし、権威に傷はついても、そのことと浅見氏の人間性の問題とは別問題です。権威が傷ついたからといって浅見氏が不道徳な人間だとする批判があったなら、その批判をなす人間はニセ道徳者だ、とそういう話です。

念のため付け加えておきますが、浅見氏の山本氏批判は正しいものだと広く認識されていることは承知しました。

>>自然科学の体系を構築するのに、信仰は関係ありません。

>これはもともとおっしゃっていたことと矛盾しませんか?

おっと、これは舌足らずでしたね。もう少し正確に述べるべきだったかもしれません。

まず、「自然科学の体系を構築」です。

Aという現象が観察されているとします。そのAの科学的原因を探るのに、科学者は仮説Bを立てたとします。そして仮説Bからは現象Cが観察されるはずで、科学者はそのCを観察しようと実験を行う。現象Cが観察できれば仮説Bは正しいものと推測され、そうでなければBは廃棄される。これが自然科学体系構築の手法でしょう。

この手法の枠の中に信仰が入り込む隙間はありません。このことを「自然科学の体系を構築するのに、信仰は関係ありません」と言いました。で、刷り込まれる云々は、こうした手法を駆使する人間の精神への影響を言っているわけです。

人間はもとより機械ではありませんから、自分の行う行為について、何らかの意味づけを為そうとします。そこが不合理な人間の不合理たる所以ですね。意味づけを為そうとする動機があるからこそ、刷り込みが行われるともいえます。自分が為している行為に、手法、道具という以上の意味づけを為そうとするとき、そこに信仰が生まれます。自分の行っている科学的な手法が、科学という枠を超えても適用できてしまうという思い込みですね。これが「分離信仰」です。

>これには、少々驚きました。

わはは。やはりここは突っ込まれましたか。

申し上げておきますが、これは何も『水伝』著者を擁護しようと意図したものではありません。私は『水伝』信者は擁護しても、『水伝』著者を擁護するつもりはさらさらありません。ただ、私が『水伝』著者なら、“しっかり検証もしている”し、“使える手は使っている”と言うだろうな、と思ったまでです。

どうもこの著者の「検証」には、“他者による再現”といった科学に欠かせない要素は入っていないようにも思われますね。ですので、ただ“検証し使う”といっただけでは、そもそもの「検証」の定義が違っているのですから、水掛け論になるな、とそう思ったんです。これをはっきりさせるには、あらいさんのご指摘のような見識が必要になってくるわけで、そこからすれば、あらいさんが私の

>科学的かどうかはさておくにしても

を批判なされたのも真っ当なことだと思います。とはいえ、そうした視点も持たなければ科学を相対化してみることも難しいのだろうと思いますが。

ここで少し、あらいさんへ

>それで説得力が有ると思うのは科学に明るくない人達に限定され、付随してそれは科学に対する誤解を広げる事に繋がりますので。

そのご指摘はその通りだと思いますが、「『水伝』を信じないでください」の著者も、そうした誤解を広げる役目を担っていると思うんですよね。だから“科学は信じないでください”とするべきだと私は主張するんです。ある法則が真に科学的であるかどうかは、一般の庶民にはなかなか判別がつかないことです。科学者からしてみれば『水伝』程度ですら〈信じられる〉のだという現実を肯定的に受け止めるのは難しいでしょうが、その現実を否定して正しい科学を〈信じさせよう〉としてみても、より巧妙なニセ科学が蔓延することは防げません。科学者は、むしろ積極的に「科学の限界」を明らかにする必要があるのだろうと思います。

さて、再度、ちょちょんまげさん

>私が今これを書いているということは『真っ当でない』ことなのですか。

もちろん、真っ当ですとも。私は自分の論を正しいと(95%くらい?)信じていますが、これはあくまで〈信じている〉んであって、決して絶対的な事実だと思っているんではないのです。といいますか、私が〈信じている〉のは“絶対的な事実などない”というニヒリズム一歩手前の認識――ゆえに不合理な「私」などという――でして、そこからするなら私自身の論が絶対などと言い出すと、それこそ自己矛盾に陥るわけです。

結局、この場で行われているのは、「対話」だというのが私の認識です。それぞれに不合理な【語りえぬもの】を抱えるもの同士の「対話」。ここでの私のちょちょんまげさんへの反論は、ちょちょんまげさんを否定しようとするのではなくて、私自身の「信仰」の再確認といった意味合いになっています。このように問われてお答えすることは、再確認にはとても有効です。だからちょちょんまげさんは、私にはありがたい存在です。もちろん、嫌いだなんて感情は微塵もありません。

私としては、私の論を認めて欲しいとは願っていますけれど、それは他の論を否定して“私の論だけが正しい”としたいがためではありません。“そうした考えもあるかな”と思っていただければ十分なんです。そして、その“そうした考えもあるかな”が道徳的な判断基準ではないか、と思っているわけでもあります。

正直に告白しておきますと、私は“こうでなければならない”とする考えが嫌いなんです。もちろん理由はありますが、そんなこと、とても合理的に説明などできません。

あらいさんさんへ

横レスへのお答えありがとうございます。

念のためご心配なきようにということで。水伝の実験における因果関係を科学として良いとは思っていません。

>科学の検証に絶対に耐えられないのです
>化学熱力学の基本法則を破棄しなければなりません

確認させていただきたいのですが。
科学においては一つの法則が正しければ、そこからはずれた法則は正しくないといったことなのでしょうか。
つまり、合い矛盾しない体系内の理論、法則でのみ事象を説明しなければならないということかどうかということです。

科学の現実

>愚樵さん

>“科学は信じないでください”とするべきだと私は主張するんです。

科学は信じる信じないではありません。
極端に言えば
『「1+1=2」に対して「1+2=4」は矛盾しているか、否か?』
という「疑いようの無い原理原則」を基にした判断の積み重ねです。

特殊相対性理論という天才の思い付きも、この原理原則からの検証に耐えたから理論として認められたのです。
(科学理論はどこまで行っても近似理論ではありますが)

>その現実を否定して正しい科学を〈信じさせよう〉としてみても

ご理解頂きたいのは、それが「正しく科学である」ならば、多くの人が信じまいと「科学として正しい」という点です。
さもなくば科学分野で新説は出てきません。

従いまして、真に言うべきは「科学を知ってください」であり「信じないで下さい」ではありません。

>より巧妙なニセ科学が蔓延することは防げません。

「遺伝子組み換え作物は危険だ」
というような言説のように、「科学を信じない」という態度もまた、逆にニセ科学を利用した言説に騙されるという現実を、是非ご理解頂きたいと思います。

>科学者は、むしろ積極的に「科学の限界」を明らかにする必要があるのだろうと思います。

明らかにすべきは「科学の現実」であり、限界ではありません。
そして、科学的間違いを指摘する事を道徳面から論じることや「科学を信じるな」と言うような事は、「科学の現実」を遠くします。

>とんぼのめがねさん

>念のためご心配なきようにということで。
>水伝の実験における因果関係を科学として良いとは思っていません。

水伝は科学として良い悪いではなく「間違っている」のです。
良い機会だと思いますので、この区別はしっかり付けておかれた方が良いと思います。

>科学においては一つの法則が正しければ、そこからはずれた法則は正しくないといったことなのでしょうか。

極論すればそうです。
ただし、その「一つの法則」が無数にある法則と矛盾していないという前提が必要です。
「A=Bが真かつB≠Cが真(※B=Cと間違えて書いた所を修正しました)」が自明の所に、「A=Cという法則を発見した」と検証もなく言い出しても、「それは違う」となるのが科学です。

このように「A=Cだ」と言い出すか、もしくは「C=Dを発見した」と検証もなく強弁するのがニセ科学です。
前者である水伝は知識さえあれば見抜けますが、後者については見抜くのが難しい場合があるのでご注意下さい。

あらいさんへ

>水伝は科学として良い悪いではなく「間違っている」のです。
実験方法自体が間違っているということでしょうか?

もうひとつ質問です。
例えば「かまきりが卵を産んだ高さでその年の冬の積雪の高さの目安になる」ということがあります。「かまきりが卵を産んだ高さ」と「その年の積雪量」には反証可能な因果関係があるわけです。この因果関係は現在の科学の理論、観察技術では説明できていないはずです。

この因果関係は科学になりますか?
つまり「事象の因果関係」が大切なのか「法則」が大切なのかということです。それとも「極論すれば」とおっしゃってたように、例外もしくは保留になるのですか?

>>水伝は科学として良い悪いではなく「間違っている」のです。
>実験方法自体が間違っているということでしょうか?
その予測自体が間違ってるとおっしゃってられるのかと考え直しました。

いざ言葉で説明するとなると難しい、それが科学

>愚樵さん

エントリ内容から外れたやりとりになりますが、ご容赦下さい。
不都合であればこれで最後に致します。

>とんぼのめがねさん

はい、水伝は予測自体も実験方法も科学として間違っています。
正確に言うと、水伝の実験は科学として認められる水準に達していないのです。
そのような実験から導かれる推測が正しい物である事は殆どありません。
天才の思いつきや勘によって始められ科学と認められた実験もありますが、それらは決して何も無い所から唐突に出てきた物ではなく、それ相応の『発想の下地』があっての事ですし、実験や検証も科学と認められる水準で行われています。

カマキリの卵と積雪量については『カマキリ 積雪量』でググって最初に出てくるPSJ渋谷研究所Xさんのエントリに詳しく纏められていますね。
結論だけを大雑把に言うと、
・『カマキリの卵の位置から統計的に積雪量を予想する』はまだ科学と認められていないが、将来的に認められる可能性はある
・『カマキリは未来を予知して雪に埋もれない位置に卵を産み付ける』は殆どニセ科学
となります。

>つまり「事象の因果関係」が大切なのか「法則」が大切なのかということです。
事象の因果関係を(近似的に)法則として確立させ、それを扱うのが科学の一面です。
重力という概念の発見から、重力加速度が計算され、位置エネルギーが計算できるように。
つまり、科学として確認・確立された事象の因果関係を法則としており、同じものです。
(かなり粗い説明ですが)

ちなみに、重力は発見当初全く新しい概念でしたが既存の原理原則と矛盾が無いので科学として認められました。
一方で水伝は矛盾がありますので科学と認められる余地がありません。

>それとも「極論すれば」とおっしゃってたように、例外もしくは保留になるのですか?
既に確立された法則と矛盾は無いがデータ数や精度が不足しているような場合は、カマキリの卵と積雪量の関係のように保留されます。

かまきりと積雪量について

『かまきり 卵 積雪』でgoogleと,面白いのが出てきますよ.トップから順番にご覧になってみてください.

この『風説』の言い出しっぺは新潟の酒井さんという人のようです.民間研究者で2003年に本を出した.検索結果の二番目の人です.「TOP STORY」の表題.

ところが,それに疑問を抱いた弘前大学の安藤教授が科学的に検証されたようです.

果たしてその結果は・・・

推理小説の犯人を教えるようなことは止めておきましょうね・・・

科学の定義

>愚樵さんへ

私の言いたいところは科学の定義への疑義です。
続けていいでしょうか?

>あらいさんへ

お手間かけます。

今までのところから、あらいさんの(おそらく一般的な)科学の定義は「事象の因果関係の発見」「今ある一つの体系から外れない」のふたつかと思います。

私の言いたいところは、今の科学の定義が間違っているのじゃないかということです。結論からいうと「今ある一つの体系から外れない」を無くしてしまえば良いということです。

「今ある一つの体系から外れない」といったことに論理的理由はないはずで、ただ、効率のみの問題のように思われるのです。個々の実験において、森羅万象の中から可能性を絞っていき他の可能性をなくしていくということで、そこに実験技術としての効率を求めることは認められることですが、その大前提のところで論理的理由なく森羅万象の中の可能性を絞ってしまうことは、逆にしてはいけないことであって、森羅万象への認識を歪めてしまうものではないかと思っています。

また、「今ある一つの体系から外れない」を科学の定義からはずせば、科学、非科学の判断はしっかり検証されたかどうか、「事象の因果関係」が確かに成り立っているかどうかに問題を絞られるわけで随分すっきりしたものになるのではないかということと、「いくつかの体系がある」となりますので、今ある体系を捨てることもないということになります。

つまり、事象の因果を追及する限りには全て科学とし、その検証のみを問題とすれば良いのだということを言いたいのです。

科学の定義が一概に言えないということも、シロートが判断しにくいというところも「今ある一つの体系から外れない」といったところに帰着するのではないのですか。




大前提

愚樵さんから回答が無いまま続けるのもどうかとは思いますが、失礼。


>とんぼのめがねさん

私の言葉の選別が悪かったようで、伝わらなかったみたいです。

>「今ある一つの体系から外れない」といったことに論理的理由はないはずで、ただ、効率のみの問題のように思われるのです。

科学における「今ある一つの体系」とは「自然現象」です。
「今ある一つの体系から外れない」とは「自然現象に矛盾しない」となりますので、効率の問題ではなく絶対条件だとご認識下さい。

>「今ある一つの体系から外れない」を科学の定義からはずせば

自然現象である事を科学の定義から外すことはできません。

>「いくつかの体系がある」となりますので、今ある体系を捨てることもないということになります。

科学は自然現象を認識し、理解し、法則として確立し、技術として利用しますが、決して切り分ける事はできません。

物理・化学・生物・地学・天文学……科学には多くの分野が有りますが、それらは全て自然現象を対象としており、「自然現象」というルールによって繋がっているのです。

物理の法則を使って運動を記述できる物体は原子・分子の集合により形成されていますが、原子・分子レベルの反応を扱うのは化学、といったように。

>科学の定義が一概に言えないということも、シロートが判断しにくいというところも「今ある一つの体系から外れない」といったところに帰着するのではないのですか。

「○○の原理」や「○○の法則」と自然現象の部分部分を科学は記述しますが、それらは全て「自然現象のルール」の一部を記述したものであり、【全て繋がっています】。
地動説が認められなかった時代ならいざしらず、現代社会において科学による自然現象の記述は、様々な法則が相互に補完しあって非常に強固な物となっています。
一つの法則と矛盾すれば、それは自然現象全体と矛盾するといっても過言ではないのが、現代科学の現実です。

この事に対する理解が十分ではないのが一番の問題なのではないかと、とんぼのめがねさんとの話から認識しました。

まったく不都合ではありません

あらいさん(敬称を省いてしまっていますが、「あらいさんさん」はどうにも語感が妙なので、お許しください)、とんぼのめがねさん、ありがとうございます。

私は少しこの場から離れておりましたが、お二人がこの場で議論していただくことに何の不都合もありません。どうか、お気遣いなく。

さて、

>真に言うべきは「科学を知ってください」であり「信じないで下さい」ではありません。

私もこの謂いには同意です。私とあらいさんとの間の相違点は〈信じる〉という言葉の用い方にあるように思います。私は、そこに個人の価値判断の基準を置くものとして〈信じる〉という言葉を用いています。ですので、「科学を信じないでください」は、「科学を知ってください」を含意していることにもなる。〈知る〉は、価値判断とは無関係ですから。

私が一貫して申し上げているのは、価値判断についてなんです。科学が〈知る〉べきものであることについては、何の異議もありません。ただ、科学的知見を個々人の価値判断基準にまで拡張させるのはいただけない、と言っているのみで、その拡張できないことを「限界」と称したわけです。

そうですね、例えばクリスチャンたちが信じているイエスの復活などの「奇蹟」を考えてみましょう。この「奇蹟」は科学的にはどう考えてもおかしいわけです。イエスなる人物が存在したのは事実。しかし、その事実からすれば、一度死んでしまった人物が復活するなどといったことは科学的にはありえない。厳密にはありえないと証明されているわけではないでしょうが、科学的にはありえないといって差し支えない。クリスチャンたちは、その科学的にありえないことを、イエスは神の子という仮説を提示して正しいことだとするわけです。

イエスが神の子だとの仮説の提示までは、科学的だといえなくはないでしょう。しかし、その仮説の検証は不可能です。だから科学とはいえない。科学的には正しいとはいえないのです。けれど、だからといって、イエスの復活を正しいとすることが誤りとは断定はできない。この「断定」には価値観も含むことになるからです。科学の「断定」は常に“科学的には”という注釈つきであり、これを外すことはできない、ということなのです。

*****

カマキリと積雪量について、ご紹介のところを覗いて来ました。PSJ渋谷研究所Xさんのところも。渋研さんのところにはコメントも残してきました。

ということです、アルバイシンさん。

正直なところ、このような風説は私の身の回りにもたくさんあります。そうですね、例えば「ハチが林の奥に巣を作るときは台風が多い」とか。昔からの言い伝えなんですが、ピタリと当たるわけではないが、全く当てにできないわけでもないんですよね、こうした風説は。また、台風が多い年は家の軒先に蜂の巣ができないかというとそんなことはない。できるけれども、少ない(ように思える)。統計的に判断できる傾向はあるように感じます。

大変失礼ですが・・・

愚樵さん,もう私はこれで最後にしますが,

『「科学を信じないでください」は、「科学を知ってください」を含意していることにもなる。』

なんて言い草では,他人との対話なんて望むべくもありません.対話というものを一番大事にしたいというのが愚樵さんご自身ではないのですか?そういう自負がおありでしょう?それなのに,人とは全く違う意味で自分だけの言葉を説明もなしに勝手に使ったのでは対話になるはずがありません.
そして

『科学的知見を個々人の価値判断基準にまで拡張させるのはいただけない、』

いつまでもこのレベルの発言が続きますが,何度も,科学は個人の信仰には踏み込むものではない,と言ってるではありませんか.それが『信仰を超えて』出てきたとき,つまり,社会に対して客観的な普遍的な証明を主張してきた時,初めて科学の出番となる.そしてそれは科学的な吟味を経て,認めるか認めないか,という話になります.そこには何の価値判断もありません.
信仰の側からそういう社会的な動きがない限り,科学は何も言いません.
『信仰の枠』から出てくると図らずも『信仰の基盤』が揺らぐことになることがあるでしょう.その意味で,
『信仰の基盤=思い込みの根拠は外から(科学などから)脅かされる危険に常にさらされている.それは信仰を選択した際のリスクである.』ということにもなります.

いつまでもこういうレベルの発言を繰り返されるということは,むしろ確信犯的にわざと議論を堂々巡りに導いている,という邪推をしたくなるほどです.

すみません.大変失礼な言い方になったと思います.もう私はこの議論から立ち去ることにします.

なかなかに難しいですね

アルバイシンさん

なかなか立場の違いが埋められませんね。だからこその「対話」なのですが...。最後になさるかどうかはアルバイシンさん次第ですが、私は「対話」を諦めてはいませんよ。

>何度も,科学は個人の信仰には踏み込むものではない,と言ってるではありませんか.

いえ、科学は気をつけていないと個人の信仰に踏み込むのです。科学的な実証は信仰と無関係といってもよいですが、その実証をなす人間は世界を意味づけずにはいられません。人間には科学を信仰に格上げしてしまう動機があるのです。

>『「科学を信じないでください」は、「科学を知ってください」を含意していることにもなる。』

>なんて言い草では,他人との対話なんて望むべくもありません.

そう受け取られるのはアルバイシンさんの自由です。私にアルバイシンさんを批判する権利はありません。ですが、私の側からしますと、そのように言葉を使うことで私の真意を推し量っていただきたいと思うのです。つまり言語ゲームをしているつもりなのです。もちろん、こうした謂いがすべての人に伝わるとは思っていません。伝わるかもしれないという望みを託して言葉を繰り出すのです。

私は『空虚5度』のエントリーで“言葉に絶望を感じる”といった旨のことを述べましたが、その絶望を強く感じるのは、託した望みが潰えてしまったときです。受け手に拒否され、受け手が真意を推し量ることを止めてしまえば言葉は伝わりません。そうしたとき、書き手は絶望するしかないのです。

一度スタートに戻りましょう

>愚樵さん

>私は、そこに個人の価値判断の基準を置くものとして〈信じる〉という言葉を用いています。

私が言及しているのは、ニセ科学とニセ科学批判について道徳的な観点から語る事についてです。
ニセ科学を科学が批判する時『科学の要件を満たすかどうかの判断』がまず存在します。
この判断において「個人の価値判断基準をどこに置くか」は何の意味も持ちません。
「価値判断をして問題が無いから科学として要件を満たさなくても科学として良い」という論法は、「科学の判断」には有り得ません。

>ですので、「科学を信じないでください」は、「科学を知ってください」を含意していることにもなる。〈知る〉は、価値判断とは無関係ですから。

いいえ。
科学を知らずに信じないという事は有りますので、含意していることにはなりません。
これを含意していると言うのは論理が飛躍しています。

>ただ、科学的知見を個々人の価値判断基準にまで拡張させるのはいただけない、と言っているのみで、その拡張できないことを「限界」と称したわけです。

ニセ科学批判は 『価値判断基準に使っている科学だと言っているそれは科学ではない』という批判ですので、認識が間違っています。
付随して『科学を装う科学で無き物を価値判断基準に採用する事』についても批判が行われますが、これは『間違った物を価値判断基準にしたら判断を間違う』という論理的に考えて当然の帰結であり、価値判断の前段階を批判するものであり、価値判断自体を批判するものではありません。

>そうですね、例えばクリスチャンたちが信じているイエスの復活などの「奇蹟」を考えてみましょう。

宗教とニセ科学は異なる物であり、これらを「信仰」や「価値判断」のキーワードでくくるのは誤りです。
ニセ科学は科学を(自覚もしくは無自覚に)偽装するものですが、宗教は基本的には違います。

>イエスの復活を正しいとすることが誤りとは断定はできない。

これをキリスト教が科学として正しいと表明すれば科学側は「死者は復活しない、誤りだと断定」しますし、それは科学的な事実でしょう。
ついでにいいますと科学として「実は死んでいなく仮死状態だったのではないか」という推測も行われると思います。
キリスト教は地動説等の科学と整合を取ろうと苦労していますので、「完全に死ななかった事が奇蹟なのだ」というような価値判断を導き出すかもしれませんが、それは「科学の判断」ではありません。

現実の出来事としては、アメリカのキリスト教の一部で『学校では進化論だけではなく創造論も教えろ』という動きがあり、アメリカの科学界は「創造論は科学ではない」としてこれを批判しています。
信仰の正誤ではなく、科学は「科学の判断」を行うのです。

>イエスが神の子だとの仮説の提示までは、科学的だといえなくはないでしょう。しかし、その仮説の検証は不可能です。だから科学とはいえない。科学的には正しいとはいえないのです。けれど、だからといって、この「断定」には価値観も含むことになるからです。

「けれど、だからといって、この「断定」には価値観も含むことになるからです」
という部分の意味をちょっと掴みかねていますが、これは

「科学的に正しくない」という断定が「イエスが神の子であるとする価値観を否定する」

という意味でしょうか?

だとすれば、「イエスが神の子か否か」は、キリスト教が「科学的に正しい=普遍的な事実」として広く世間に広めようとでもしない限りは科学に属しませんので科学側は関知しません。
「イエスの復活」でしたら、人の生死について科学的には「死んでから復活した」は否定され、「仮死状態だったのではないか」等の仮説が立てられると思われますが、それを価値判断と取るのはキリスト教側であり「科学の断定」としては価値判断を含みません。

>科学の「断定」は常に“科学的には”という注釈つきであり、これを外すことはできない、ということなのです。

これはその通りです。科学の判断から価値判断を導くのは誤りであるという事は広く表明されています。
再度言いますが、科学の判断から「科学的に間違った事を価値判断基準にしたら判断を間違う」という論理的帰結は出てきますが、それは価値判断とは異なります。

一度スタートに戻りましょう

はいはい。それが良いようですね。

>私が言及しているのは、ニセ科学とニセ科学批判について道徳的な観点から語る事についてです

この道徳的観点というのは、社会規範としての道徳でしょうか? それとも個人の内面意識における道徳なのでしょうか? 文脈からすれば、内面意識と判断するのが妥当だと思いますので、その前提で理解を進めます。

>ニセ科学を科学が批判する時『科学の要件を満たすかどうかの判断』がまず存在します。
>この判断において「個人の価値判断基準をどこに置くか」は何の意味も持ちません。
>「価値判断をして問題が無いから科学として要件を満たさなくても科学として良い」という論法は、「科学の判断」には有り得ません。

ここまでは了解です。

>科学を知らずに信じないという事は有りますので、含意していることにはなりません。
>これを含意していると言うのは論理が飛躍しています。

それはその通りです。論理の飛躍であることは認めます。真意はアルバイシンさんへの返答に示した通りです。

>>ただ、科学的知見を個々人の価値判断基準にまで拡張させるのはいただけない、と言っているのみで、その拡張できないことを「限界」と称したわけです。
>ニセ科学批判は 『価値判断基準に使っている科学だと言っているそれは科学ではない』という批判ですので、認識が間違っています。

このあたりから認識のズレが生じてますね。しかし、ここは「ニセ科学の道徳的批判」ということですので、了解として次へ進みましょう。

>付随して『科学を装う科学で無き物を価値判断基準に採用する事』についても批判が行われます
>これは『間違った物を価値判断基準にしたら判断を間違う』という論理的に考えて当然の帰結

う~ん、このあたりはよく理解できません。いえ、論理的に当然の帰結というのはわかるのですよ。あらいさんは、道徳的判断は合理的に下せるものだとお考えなのでしょうか? 

>価値判断の前段階を批判するもの

「価値判断の前段階」とは? 私にいわせれば価値判断の前段階とは不合理な「信仰」となりますが、この「信仰」は合理的な判断基準では批判できないものです。

>価値判断自体を批判するものではありません。

前段階を批判しておいて、価値判断を批判しないとは? 論理的にいうならば、判断の基準となる前提が批判されたなら、判断そのものも批判されたということになるのではないでしょうか?

もし、あらいさんが道徳批判が合理的に為せるものであるとお考えなら、それは私の考えと決定的に異なります。私が批判しているのは、その合理的判断を道徳に持ち込むことだからです。その前提は、人間は不合理な存在であるというものです。

道徳的批判の対象となる事例が科学でニセ科学であれ、また科学的なこととは無関係な社会的事件であれ、道徳的判断を為すときには、人は合理的な判断基準を前提にしてはなりません。いえ、もう少し正確にいましょうか。社会規範としての道徳であるなら、合理的判断基準を前提にすることもあるでしょう。民主主義を採用する現在の日本は神といったような非合理な存在を、個々の内面ならともかく、社会的には認めていない。だから道徳的判断の基準が合理的になるのは仕方がない。ですので「水伝」を公的な教育の場で紹介することを社会規範としての道徳に反している、ということについては私は賛成するのです。ですが、そのことをそのまま個人の内面意識にまで延長してしまうのはおかしい、といっているのです。

いうまでもないことですが、犯罪行為は別です。犯罪行為は合理的な基準によってその範囲を定め、合理的な社会規範によって制裁されなければなりません。しかし犯罪行為の場合においても、動機については合理的には解明できません。これは犯罪者の内面の問題ですから。合理的に判断される犯罪行為に当てはまらない社会的不道徳は、犯罪なき動機解明のようなものです。


>「けれど、だからといって、この「断定」には価値観も含むことになるからです」
という部分の意味をちょっと掴みかねていますが

ああ、これは私の舌足らずです。「断定」は科学的との注釈をつけない無条件の断定という意味です。

以上でとりあえずのお答えですが、この回答であらいさんが納得していただけるかは正直、大変心許ないものがあります。私は理解のポイントが、道徳的判断を合理的に為せるかどうかにあると見ましたが、それも的を射ているかどうか。

繰り返しておきますと、私の立場は、道徳に合理的判断基準を持ち込むのは、社会規範としては(消極的ですが)賛成、個人の内面意識として反対、といったところです。真正科学・ニセ科学は合理的判断でなされるものだから、ニセ科学は社会規範としては反道徳的、けれど内面意識としてはそのような判断はできない、です。

認識の方法です

愚樵さんありがとうございます。
あらいさんお願いします。

>あらいさんへ
私はあらいさんのおっしゃることがわかってると思ってます。
つまり、世界自体が、というより宇宙自体が成りたたなくなると言っておられるのだと思います。

私はそれは認識の問題だと思っています。「体系外もありうる」と皆が思ったとしても、現実に宇宙は成り立つのであって、頭の中で説明がつかなかくなるだけだということです。

仮に、一つ別の体系を加え、今の宇宙が仮定宇宙A、仮定宇宙Bと二つに別れてしまったように思えたとしても、現実の宇宙は二つになるわけでもなく、前と同じように事象と因果があるだけです。また、認識の変わった後でも宇宙は今ある体系の科学でも説明もできるわけで、つまり今までと同じように物を見たり、考えたりしても良いとなります。つまり今のままの認識でも良い、何も変わらないということです。

科学の定義を一つにすることは森羅万象をより正確にとらえることができるということは前に述べました。
何も変わらないのに「今ある一つの体系から外れない」があるのはおかしいのではということです。

言葉の選択が拙かったか、

あるいは言葉が不足していたか。
いずれにしても

>>私が言及しているのは、ニセ科学とニセ科学批判について道徳的な観点から語る事についてです

この一文が誤解の元だったようです。

なるべく不足が無いように書き直しますと、
『私は「ニセ科学およびニセ科学を信じる人と、ニセ科学批判およびニセ科学を批判する人とを、道徳的・価値判断的な観点から同列に並べて語る事の是非」について言及しています』
となるでしょうか。

この際ですので
「ニセ科学側は道徳・価値判断以前に合理的に間違っている物なので、ニセ科学批判側と同列に並べる事がそもそも不適切である」
と言ってしまいましょう。

従いまして
>ここは「ニセ科学の道徳的批判」ということですので、了解として次へ進みましょう。
から後は完全にズレてしまっています。
「ニセ科学の道徳的批判」について私は話してませんし、それをする気もありません。

私の文章力不足でご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、以上を踏まえた上で再度一つ前の私のコメントを読み直して頂けると助かります。


後は上記とは別に答えられる所に答えておきますね。

>「価値判断の前段階」とは? 私にいわせれば価値判断の前段階とは不合理な「信仰」となりますが、この「信仰」は合理的な判断基準では批判できないものです。

価値判断の前段階とは、
・ニセ科学自体
・ニセ科学を価値判断基準とする事
です。

>前段階を批判しておいて、価値判断を批判しないとは?

上記の二つは科学的に誤りであり、誤りを価値判断基準にすることなので批判対象になりますが、その後に来る価値判断は批判対象にはなりません。
理由は下で纏めて述べます。

>論理的にいうならば、判断の基準となる前提が批判されたなら、判断そのものも批判されたということになるのではないでしょうか?

それは論理が違います。
判断基準の前提が間違っている場合、判断そのものは前提が間違っているために自然と間違いを含むので批判される対象に成り得ません。
判断の前提が変われば自ずと判断結果も変わります。
その時の判断がどうなのかは、前提が間違っていた事とはまた別の話です。

>私が批判しているのは、その合理的判断を道徳に持ち込むことだからです。その前提は、人間は不合理な存在であるというものです。

「科学の判断」が道徳を含むことは絶対にありません。
人間は不合理であっても、科学はそれを許容しないと覚えておいてください。
「科学の判断」は、人間の不合理を極力排除するように仕組まれています。

科学的観点からのニセ科学批判は、「道徳の判断」を含みません。
道徳的観点からのニセ科学批判は、「科学の判断」を含みません。
科学の判断を道徳に持ち込むのは「ニセ科学」だけです。
例え、ある一人の人が科学的観点と道徳的観点の両方からニセ科学を批判していても、その批判の内容は区別されている筈です。
さもなくばそのニセ科学の批判はニセ科学批判足り得ません。
もし両者を混同しているニセ科学批判を見かけたら、それは「ニセ科学批判として間違っている」と判断して下さい。
しかし、それをもって「ニセ科学批判もまた合理的判断を道徳に持ち込んでいるから間違いだ」とはなりません。

>ああ、これは私の舌足らずです。「断定」は科学的との注釈をつけない無条件の断定という意味です。

了解しました。
しかし「断定の根拠は何か?」と考える事を考慮すれば、注釈の有る無しはあまり関係が無いように思います。
合理的理由もなく断定するのは行為として間違っていますし、合理的理由が有る場合にそこに科学が無い事はまずないでしょう。

科学は人の認識では変わりません

>仮に、一つ別の体系を加え、今の宇宙が仮定宇宙A、仮定宇宙Bと二つに別れてしまったように思えたとしても、現実の宇宙は二つになるわけでもなく、前と同じように事象と因果があるだけです。

それは現実の科学とは異なる「とんぼのめがねさんの考える科学」の中でしか成立しません。
仮定宇宙AとBが相矛盾するならば、より実在宇宙を再現できていない記述をしている仮定宇宙の方を、科学は排除します。
仮定宇宙AとBに矛盾がないならば、科学はそれを一つにします。
科学とは「そういう物」です。
実在宇宙の事象と因果を捉えるのが科学であり、ある二つの捉え方が相矛盾していれば、どちらかは確実に科学として誤りとされます。

ちなみに「近似の程度に差がある捉え方同士」は矛盾しているとは考えません。
だからニュートン力学と相対性理論は現代科学において並立しているのです。


>科学の定義を一つにすることは森羅万象をより正確にとらえることができるということは前に述べました。

ここが、とんぼのめがねさんが科学を間違って理解している部分です。
「森羅万象をより正確に捉えられるから科学を一つにしているの」ではなく、「森羅万象が一つなので科学は一つに成らざるを得ない」のです。


>何も変わらないのに「今ある一つの体系から外れない」があるのはおかしいのではということです。

とんぼのめがねさんが変わらないと思っても、現実として相矛盾する体系を二つ立てれば科学はどちらかを排除します。
再度言いますが、科学とは「そういう物」です。

事象だけが人の認識で変わらないものです

>あらいさんへ

はい、私は今ある現実の科学と違う科学を提示してるのだと思っています。

私の考える科学は前提(予測をたてる)段階で、何も排除する必要がなく、因果関係の検証のみを問題にする科学と考えてます。

私の伝えたいところは、仮定宇宙の話がわかりやすいかなと思います。今の体系科学から成り立つ宇宙をA、体系外から成り立つ宇宙をBとします。
仮定宇宙A、Bを想像した時、円A、円Bと円が二つになってしまうとイメージがわきにくいかと思います。私のイメージは二重の円です。その内側がA、外側がBというイメージです。
つまり、今ある体系を信じてAという宇宙を限界として生きることもできるし、Aという宇宙に生きつつBという宇宙を観察、考慮するということもできるわけです。

もしかして、このほうが「確実に説明できる」ということなのですか。




とんぼのめがねさんへ

とんぼのめがねさんの科学観が気になったので戻ってきましたぁ(^o^)/~~~~  というのは一つ思い当たることがあったからです.

横レスですみません.(とんぼのめがねさんとあらいさんさん)

もしかして,とんぼのめがねさんは,例えば
『熱力学の法則を超越した世界というものがあるかもしれない,その世界は『熱力学の法則』に捉われていたのでは発見できないではないか!』

または
『熱力学の法則を否定した新たな上位法則が発見される可能性だってあるではないか!』,

(だから,今あるものだけに捉われずに因果関係を虚心坦懐に見つめるだけにした方が良い)という趣旨のことを言っておられるのですか?

もしそうであるとして,話を進めます.
よく,ニュートン力学が相対性理論によって覆された,という言い方が為されますが,この言い方は不正確ないしは間違いだと思います.
正しい理論では,上位理論は初めの理論を『包含』するのです.ですから,覆されたではなく,今までニュートン力学で説明できなかった所が相対性理論で説明できるようになったというだけで,天動説が地動説に置き換わったのと全く意味が異なっています.ニュートン力学はそれで相変わらず正しいわけです.道具として使う場所が違っているだけにすぎません.電気の正しい理論が流体の理論に使えないのと似ています.

この意味で,熱力学の法則の上位法則がもしあるとしても,それは今の熱力学の法則を包含したものでしかありえないわけです.つまり,今の熱力学の法則が成り立たなくなることはありえません.それが否定されるということは今の宇宙がなくなる,ということと同義です.

アルバイシンの丘さんへ

虚心坦懐、好きな言葉ですが、達観してるわけでも、悟りの話をしているつもりもないのです。

それと、とても単純な論理の話ですので、科学の法則なども関係ないのです。今ある体系も体系外も何一つ否定しなくて良いということを言ってるのです。

簡単にいうと科学の定義を「事象の因果関係を見つける」にするか「今ある体系内から外れない」のどちらか一つにしければ「絶対」という言葉は使えないということだと思います。また、どちらが優位の定義ですかという話です。

横から失礼します

>とんぼのめがねさん

質問があるのですが、とんぼのめがねさんが考える「今ある体系」が具体的にどういうものか、私にはよくわかりません。
ちょっと説明していただけませんか?
よろしくお願いします。

こちらこそよろしくお願いします

>ちょちょんまげさんへ
科学に疎い私よりも、科学に詳しい方のほうがよく知っておられるかと思いますが。
科学に詳しい方がこだわっておられる熱力学や物理学の法則と合い矛盾しない一つの体系ということです。

>アルバイシンの丘さんへ
近代を超える概念を見つけたような気がしてるもので、言葉がきつくなってしまったかなあと思いました。すいません。
あと、心配されてるのは、オカルトや魔術の復活のようなことだと憶測しますが、多分そんなものにはならないと思ってます。憶測(妄想)ですが、幅広く事象の因果関係を集めて、確立的にまとめていくようなものだと思ってます。

推理

とんぼのめがねさん,仰ることを当ててみたくなりました.なんか推理小説の犯人当てのようで(^o^)/~~~~

推測してみるに,とんぼのめがねさんの仰ることって,事実の因果関係を並べてデータベースのように蓄積していく,ということですか?

もうしそうであれば,一つ大事なことができなくなると思うのですが.
それは法則として理解できてないので,経験し得ないことは分からない,となるのではありませんか?

例えば火星の上の重力とか彗星が飛んできて地球にぶつかるかどうか,とか,今の段階でも経験し得ないことでも分かることはたくさんたくさん,あります.

科学であれば法則として理解できているので,そういう未経験の世界でも分かる範囲内であれば的確にわかるのですけど.そういうことは法則化できていないとむりですよね.

以上の推理は当たってるでしょうか?(ドキドキ・・)

すみません、もう一度質問させてください

>とんぼのめがねさん

>熱力学や物理学の法則と合い矛盾しない一つの体系ということです。

では、とんぼのめがねさんが考えてらっしゃるのは、「熱力学やその他の物理学の法則と矛盾する現象」も視野にいれれば「森羅万象」を網羅できる、ということですか?

そうであるならば、「熱力学やその他の物理学の法則と矛盾する現象」の例を教えていただけませんか。
それとも、「これから発見されるかも知れない」、ということなのでしょうか。

アルバイシンの丘さん

私の妄想が間違ってるのかも知れないという準備もありますので、ドキドキしないで、気楽に突っ込んでください。それと、私は言葉で表現するのがすごく下手なような気がします。見下してるつもりも批判してるつもりも、全くないのですが、不快に感じられたりするだろうなとも思ってますので先に謝っておきます。すみません。

>推測してみるに,とんぼのめがねさんの仰ることって,事実の因果関係を並べてデータベースのように蓄積していく

はい。私の妄想とずばり合いました。うれしいです。

>経験し得ないことは分からない

これは大切なことだと思ってます。つまり、すべて憶測に過ぎないという自覚です。

>例えば火星の上の重力とか彗星が飛んできて地球にぶつかるかどうか

この場合ですと、「絶対に地球にはぶつからない」とはせず、「地球にはぶつからないだろう」と憶測に留めるのが良いと思います。つまり「絶対」を外して全てを憶測の範囲に留めるという考え方です。

>的確にわかる
今の自然科学で分かるのは、その仕組みがわかるだけということです。言い換えると説明できるだけということです。取り扱い説明書ではなく構造の説明書ということです。

ちょちょんまげ さん

>「熱力学やその他の物理学の法則と矛盾する現象」も視野にいれれば「森羅万象」を網羅できる

そうです。しかし「完全に」「絶対に」と言ったものではありません。

>「熱力学やその他の物理学の法則と矛盾する現象」

今の法則と矛盾する現象はありません。
というのは、別に今の体系を否定する必要がないからです。

お聞きの「現象」を「法則」に置きかえると、ありました。経済の法則等、人文科学の分野の法則がそうなるかと思います。

当たった!

>>推測してみるに,とんぼのめがねさんの仰ることって,事実の因果関係を並べてデータベースのように蓄積していく

>はい。私の妄想とずばり合いました。うれしいです。

いやあ,私もとても嬉しいです!そうですか.新しい考え方ですね.それを当てた自分が嬉しいです(自己愛!)(^o^)/~~~~

ところで,彗星が地球にぶつかるかどうかは『憶測にとどめればよい』と仰っています.それではまあ,憶測にとどめてもでも良いとしましょう.

そこでお聞きしたいのは,その『憶測』はどのようにして為されるのか,ということです.

例えばサイコロを振って『地球にぶつかるか逸れていくか』を判断しますか?
また例えば,逸れていくとして,どのぐらいの近さを通るのか憶測できれば憶測したいですね.引力による被害があるかもしれないし軌道も変わるかもしれない.その憶測はどのようにしたらいいのでしょう?

例えば,火星上でボールを投げた時にどのように飛んでいくか,『憶測』しようとした時に,どのようにして『憶測』ができますか?これはサイコロでも憶測しにくいですね.

憶測は,もしぴったり当たれば被害を食い止めたり,いろいろ役に立つことが多いでしょう.従って,憶測できる場合は憶測でいいからやりたいですね.

でも,何か『憶測』の根拠となるものがないと憶測しようにもできないのではありませんか?

そういった『憶測の根拠』についてはどのようにお考えでしょうか.

森羅万象に幅広くです

絶対もあると言えば、矛盾するように思われるかもしれませんが、事象の観察によって導き出された法則は全部絶対でいいんです。つまり、その事象が続いてる限りその法則は生きてるという考え方です。事象を「絶対」の担保にするという感じでしょうか。
つまり、火星でボールの場合は憶測でなく今までの法則で絶対こうなると言ってもいいかと思います。

憶測の根拠なんですが、考えてみると新しくもなんともなく、普通に無意識にやってるなあという気がします。よく、人を「犬に例えれば」とか「猫に例えれば」いうようなことを言います。つまり、科学的な脈絡がないわけですが、なんらかの共通した法則を見ているわけです。それで、こんな法則があるんじゃないかと仮定して、植物であったり、無機物であったり、出来事であったり、なんでもいいんですが探して見るんです。それで、その法則がどれだけ幅広く森羅万象に及んでいるかというところを「憶測」の根拠にするのです。今まで、無意識にやっていたことを、意識して調べてみるという感じです。

とすると、確率で表せるものだけじゃないかも知れません。このへん、まだよくわかりません。

たとえば血液型?

ううむ,分かってきたようでまだぜんぜん駄目なようで,不思議な気分に襲われていますよ(^o^)/

現象から絶対の法則が導けることもあればそうでないこともある,だからとにかく科学が対象にして来なかった現象でも因果関係は意識して見ていこう,

ということなんでしょうね,きっと.

そこで私が考えた絶好の例,『血液型と性格や能力との関係』はいかがでしょう?

これも統計的,確率的になんらかの関係があるといえるのかどうか,しっかり意識して見ていく対象とはならないでしょうか?

でもお言葉ですが,いろんなことは科学的に検討されていると思いますよ.その結果,有意差はない,とされて多くは棄却されているのだと思うのですけどね.

もしそういう隠れた法則があるとすれば,多くの学者が飛びついて新理論として発表するでしょう.
だって,科学で扱う自然現象の不思議は,下手な超常現象よりもはるかに突飛でロマンに満ちたものです.そして科学者の知的好奇心と業績志向を刺激しています.

そういうこともあって,いろんなものが科学の対象となって吟味され,素晴らしい成果(時には悪魔の果実とか似非果実)を生み出しているのですから.

以上のような私の理解がそう大きく外れていなければ私としてはこれぐらいでおいとましましょうかねぇ 
お付き合いくださり,真にありがとうございました.
(私が全然的を外していたらまた来させてください)

ありがとうございました

>アルバイシンの丘さん
>現象から絶対の法則が導けることもあればそうでないこともある

おそらく絶対の法則はないだろうと思ってます。というよりはあってはいけないという感じです。

>『血液型と性格や能力との関係』

こんなのも対象になると思います。ただ、その比較が人だけでなく万物に及んで検討され、また検討の方法(発想)も変わるかと思います。例えば、血液型が4つに分かれているのはなぜかという本質のところを調べるという感じです。

つまり、もう一つの体系は本質を探る科学、今の科学が語ってはいけない「なぜ」の部分だろうと思ってます。自ら封じていたので当たり前と言えば当たり前とも言えますが。

お付き合いありがとうございました。

>愚樵さん
本当に言いたかったところは、宇宙的権威で「絶対に信じてはいけない」(個々の人が言うのは自由だと思ってます)ということを絶対に言ってはいけないということだけでした。
科学論から思いがけず暴走してしまったようです。おじゃましました。


間が空きました

愚樵さん

すっかり、間が空いてしまいました。申し訳ありません(って、私の反論を望んでいらっしゃるとは、思っていませんが)

>嫌悪感等の感情になんらかの「理由」が存在するであろうことには私も同意です。けれども、その「理由」は【語りえぬもの】、言い換えれば不合理なものだと捉えているのが私の出発点。

「あいつは俺の最後の食い物を取りやがった。俺は腹が減って、今、生死をさまよっている。だからあいつのことが大嫌いだ」
充分語りえるものじゃないですか。(ちなみに、愚樵さんのもとの文章に「例外はある」とか謳っていないことに、ご留意)


>けれどもまた、日本人を啓蒙する日本人論としては、そうした手法に一定の効果があったことも認めざるを得ない。

一般に、「詐欺的」とか、「騙り」とか申します。しかも、確信犯です。私が言っていることは、権威の影に隠れた「道徳論」なのですか?

>問題は、手法の批判が道徳批判にまで及んでいたかどうかでしょう。

浅見氏の批判は、「なんと卑怯な人なのだろう」という「卑怯は良くない」という極めて「権威的」な、「道徳的」部分、かつ「山本氏の人格」に踏み込んでいます。浅見氏の批判は愚樵さんによって反批判されるべきなのですね?


>私が批判するとすれば、浅見氏という「権威」を借りて山本氏の批判をすることです。浅見氏の見解に同意しそれを自分のものとして山本氏の批判をされるならよいのですが、

私は友人等に、さんざん「浅見氏」という『権威』を借りて山本氏の批判をしてまいりました。(あくまで、酒席、雑談等で、ですが)浅見氏の批判は実にわかりやすいので、ユダヤ教、ユダヤ文化、英語等に通じていなくてもかなりの部分正誤がシロウトでもはっきりとわかります。
しかし、それでも私は浅見氏のレベルで本件を理解しているとは言えないでしょう。「自分のものとしてるかどうか」はかなり怪しいです。
私は、私の人生においてさんざん誤った行為を行ったきたワケですね?

ここで、一言いわせていただきたいのは、愚樵さんは、「権威を借りる」とおっしゃいますが、「科学的結論(例によって、めんどうなのでこう言っちゃいますけど)」というのは科学者が言おうが、一般人が言おうが(間違ってなければ)共通です。
「権威を借りている」訳じゃありません。そこが、科学の価値じゃないですか。

>そうした社会的道徳は虚構なのだ

確認させていただきますが、愚樵さんは「社会的道徳」、即ち、「人種差別してはいけない」とか「大量虐殺してはいけない」とか、「レイプしてはいけない」とか、「この世に生まれた時から差別されるような人がいるような社会を作ってはいけない」とかの「社会的道徳」は、例外なく虚構なのだ、とおっしゃっているのですか。
それとも、「そうした」という一部を指しているのですか。その場合「そうした」というのは、「どうしたもの」なのですか。


>これも仮にを考えて見ますが、もし浅見氏の山本氏批判が誤っていたなら、傷つくのは浅見氏のユダヤ教の学者(?)としての権威でしょう。しかし、権威に傷はついても、そのことと浅見氏の人間性の問題とは別問題です。権威が傷ついたからといって浅見氏が不道徳な人間だとする批判があったなら、その批判をなす人間はニセ道徳者だ、とそういう話です。

これは、例になってるとは思えません。
単に「過ち」(ミステイク)を犯すことと、「確信犯的詐欺」の話を一緒にはできないでしょう。

すみません、つづきます

>で、刷り込まれる云々は、こうした手法を駆使する人間の精神への影響を言っているわけです。
ですから、繰り返しになりますけれど、「こうした手法の駆使」は、それが有効だから行われているわけです。もし、「精神物質非分離」がどうしても必要な場面がもし来たら、科学者はそれを使います。(前にも書きましたが、主流になっているかどうかはともかく、すでにちょこっと顔をのぞかせています)

>自分の行っている科学的な手法が、科学という枠を超えても適用できてしまうという思い込みですね。これが「分離信仰」です。
これについては、どこの誰を想定してらっしゃるのですか。私は残念ながら一人も知りません(お話にならないバカを除いて)
ご存知かと思いますが、例えば「ニセ科学批判」などをなさっている方たちなどは、こういったことに実に慎重な発言をなさいます。
愚樵さんが頭に描いていらっしゃるのは、ステレオタイプな「マッドサイエンティスト」かなんかじゃないんですか。


>私が〈信じている〉のは“絶対的な事実などない”
地球上で茶碗は下に落ちないのですか?(ニュートン力学が絶対などとは、言ってませんよ。念のため)
さらに、100%と言い切れない、などという返しは聞きたくありません。
私も、一度書いた「地球お皿仮説」を繰り返したくありませんし。


すみませんでした

大事なことを見落としてました。
私が言った
>宇宙的権威で「絶対に信じてはいけない」(個々の人が言うのは自由だと思ってます)ということを絶対に言ってはいけないということだけでした
の部分取り消してください。

私ひとりの頭の中にある限りは、ただの妄想に過ぎないことに気がつきませんでした。
多くの人を傷つけてしまったような気がしてます。
本当にすみませんでした。

少しお待ちください

ちょちょんまげさん

続けて返答をと思いましたが、どうも集中力が持続しません。というか、頭の中のモードが切り替わらない。〈うつろいゆくもの〉だのなんだのと考え出すと、どうもこの手の議論は受け付けなくなってしまって...。

申し訳ありません。

最早出番はなさそうな気も

いたしますが。

>とんぼのめがねさん

とんぼのめがねさんの科学観は『間違っています』。
これはとんぼのめがねさんが何と反論しようと覆しようの無い事実です。

科学の世界において、科学の円(A円)を内包し拡張された円(B円)は「いずれ科学になりうる物」以外には有りません。
(『◎』←の内側がA円、外がB円ですね)

「AとBの円が相矛盾しないのならば科学はそれを一つにする」と私は言いました。
とんぼのめがねさんが出したAとBの円の関係は、この私の言葉の枠を出ていないのです。

人がどのように定義しようと、宇宙・自然・世界の営みの本質は変わりません、変わるのは人の理解の仕方だけです。
そしてその理解の仕方も、マイクロメートルレベルのミクロサイズから、人間レベルのマクロサイズ程度までの世界では最早変わる余地が無い段階にあります。

それ故に、最先端の科学はミクロ側ではナノメートル以下レベルをそのステージとしています。
マクロ側では、天気予報や地震の予知などがまだ定量的に扱えない事からも分かるように、地球サイズレベル以上がその対象です。

ちなみに最先端の『科学技術』と言った場合には、人間サイズレベルも含まれて来ます。
人が利用してこその技術ですから当然ですね。

尚、経済の法則や人文科学の法則などは科学的手法を用いてはいますが厳密には科学とは異なる物です。
これらと科学を全く同じと考えて、科学にも同じような部分がある、と考えるのは完全な誤りです。

あらいさん

すみません、違うんです。
妄想は私の頭の中でまだ生きてるんです。
私の中ではこの方が世界が分かり易いんです。
自分で事象が一番大事だと言っておいて、それを忘れていたのです。
ところが私の妄想が、まだ誰にも共有されていないという「事象」を見ると、私の「妄想」が妄想に過ぎないということに気がついたんです。多くの人に共有されて初めて妄想でなくなるということなんです。こんな可能性の低いものであんな暴言をはいてはいけないということなんです。
あらいさんの説明は本当に分かり易いです。きっと分かり易いように考えて下さってるのだと思います。
私もなんとか分かり易いように考えてみたいと思います。
ありがとうございます。

とんぼのめがねさんへ

行間を読ませていただきました(笑)。
人が生きる上で、大切なことをおっしゃろうとしているという気が致しました。
その『妄想』は、わたしにとっても大切なものになるかもしれません。
諦めず、考え続けてくださいね!
(適度に、でいいです(汗)。)

認識論に落ち着きそうです

お騒がせしました。
色々調べたり、考えたりした末に結局ブログをたてることにしました。

naokoさんへ
共有は傲慢でした。naokoさんにいただいたような共感で十分なのです。ありがとうございます。ぼちぼちいきます。

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