愚慫空論

ニセ科学批判の道徳性

早く次のエントリーを上げなければと思いつつも、ついつい時間を無為に過ごしてしまって、やっとエントリーを書き上げた。今回も引き続きテーマは科学と道徳。前回『【語りえぬもの】を語る姿勢』の続きである。

前々回の“道徳は【語りえぬもの】である”との結論を受けて、前回は“「節操」の欠乏した道徳者はニセ道徳者”と結論した。ここでいう「節操」とは“道徳を【語りえぬもの】として語ることであり、そこから“「節操」の欠乏”は“道徳をあたかも【語りえるもの】として語る”ということが導かれる。すなわちニセ道徳者とは“【語りえるもの】として道徳を語る者”ということになる。

ではニセ道徳者とは誰を指して言うのか? もちろん、具体名を挙げるといった「節操」に欠けた行為はできない。具体名は【語りえぬもの】としておいたほうがよかろう。それよりも、ここではニセ道徳者の有様をなるべく具体的に考えてみたい。そこで科学を【語りえるもの】の代表とし、科学を取り扱ったものとして「『水からの伝言』を信じないでください」を取り上げてみる。

想定している結論を先に書いておくと、ニセ道徳者とは“科学を道徳の基準として語る者”、さらに言い換えると、“道徳を語るに当たって「私」を隠蔽する者”である。


ご存知の方も多いと思うが、「『水からの伝言』を信じないでください」は『水からの伝言』という写真集をニセ科学として批判した文章だ。私自身も、この文章を〈信じて〉『水からの伝言』の主張は〈信じない〉。すなわち「信じないでください」の方を科学的であると〈信じて〉いる。

わざわざ〈信じる〉と書いたのにはわけがある。当たり前のことだが、科学者でない私たちは、ある現象が科学的であるか否かの判別を自らつけることが出来ない。なので、それについては科学者の言い分を〈信じる〉しかない。

(科学的な常識を身につけたものなら『水伝』ごとき、いちいち科学者の言を〈信じ〉なくても判断はつくだろうと考えられる方が多いだろうが、その考えこそが躓きの石になる。科学的常識というやつは、人間が生まれながらにして備えている本能の類のようなものではない。備えるのにはある程度のトレーニングが必要だが、実はそのトレーニングの過程で何が行われているのかというと、“物質現象と精神現象は分離したもの”という思考方法を刷り込まれるのである。この刷り込みは、あるいは信仰と言ってもよいかもしれない。信仰の用語が不当ならパラダイムあたりが妥当か。

この主張に違和感を抱く人は多いだろうと思う。そうした人は“そんなことを言っても物質と精神が分離しているのは動かしがたい事実ではないか”と言うだろう。それはそうかもしれない。だが、順序が逆だ。科学は物質と精神を分離するところから出発した営為なのだということを忘れてはいけない。しかも、その営みはまだ途上なのである。確かに科学は絶大な成果を挙げてはいるけれども、しかし、まだ終着点に到着したわけではない。終着点に到着してみて初めて“物質と精神が分離しているか否か”明確に言明できる。もし、終着点に「Something Great」のような存在がいたとしたら、『水伝』で主張されているような奇跡も全否定はできない。)

すなわち科学者でない私たちにとっては、『水伝』を〈信じる〉か「『水伝』を信じないでください」(以下、「信じないでください」)を〈信じる〉かの問題なのであって、科学的な内容にまで踏み込むことはできない。なぜなら私たちは水の結晶を観察する実験を行うことができないからである。逆に言うと、そのことが『水伝』が〈信じられる〉理由であると同時に「『水伝』を信じないでください」が〈信じられる〉理由でもある。

以上のことからわかるように『水伝』も「信じないでください」も科学(正しい、正しくない)を取り扱っていながら、訴えているところは科学的なものではない。ともに科学の範囲から逸脱した、道徳的(善い、善くない)なものである。そして「信じないでください」によれば、『水伝』は反道徳的(善くない)なものであり、ゆえに〈信じる〉べきではなく、『水伝』が反道徳的なのはそれがニセ科学だから、ということになる。ここでは道徳的か否かの基準が科学的か否かの基準と一致してしまっていて、ニセ科学=反道徳、正しい科学=道徳といった図式が暗示されることになっている。

これはあくまで暗示である。というのも、〔ニセ科学=反道徳〕がそのまま〔正しい科学=道徳〕になるとは限らないからだ。「信じないでください」の著者も、〔ニセ科学=反道徳〕、すなわち『水伝』が道徳的でない(善くない)と訴えようとは思っていても、〔科学=道徳〕かと問われたら、“そうとは言えない”と答えるだろう思う。にもかかわらず、「信じないでください」には〔科学=道徳〕であると解釈される可能性が残っている。これは「信じないでください」著者の落ち度であると指摘してもよいだろう。

「信じないでください」著者は「『水伝』を信じないでください」とするべきではなかった。「科学を信じないでください」と言うべきだったのだ。科学の体裁をもって示されたものを、その科学がニセか真正のものかに関わりなく、信じないでください、とするのが誤りのない訴え方だった。科学にまとわりついている権威性を否定するべきだったのである。その権威性こそが、ニセ科学を蔓延させる原因なのだから。重ねて言うが、科学者でない者には示された科学的言説が偽なのか真なのか、判別することは不可能なのである。
(ちなみに、ある科学的仮説が真であるか偽であるかは、最終的には科学者にも不可能である。そもそも科学が仮説を立てることを前提にする体系であるから、真か偽か明らかでない仮説を排除できない。)

かなり多くの人間が『水伝』を〈信じた〉のは、科学の権威性もさることながら、『水伝』で示された言説が『水伝』を信じた者の「信仰」に一致していたからであろう。その「信仰」とは“物質現象と精神現象は分離していない”というものである。その典型が言霊信仰。受験生を前に“落ちる”だの“滑る”だのといった言葉を口にすべきではない、結婚式では“死がふたりを分かつまで”はロマンチックだからいいが、その真意――相手が死んだら再婚してもいいんだよ――といったことまで口にするのは「節操がない」と指弾される元になっている「信仰」である。

こうした「信仰」はいわば迷信の類であるということは、科学的常識が行き渡った現代では常識になっているけれども、それでも尚、こうした言葉は口にしないことが道徳的とする風潮は未だに存在する。この事実は、とりもなおさず言霊信仰はまだまだ根強く残っていることを示すものだ。『水伝』は科学的権威を持ってその「信仰」を肯定したのだから、〈信じる〉者が続出したのは決して不思議でもなんでもない。

けれど、それにしても、やはり『水伝』にはどこか反道徳的(善くない)な印象が拭いきれない。その理由はおそらく、『水伝』が精神物質分離の「信仰」からすればいわば「異端」だからであろう。科学実験は科学を一種の宗教だとすれば宗教的儀式に譬えることができるが、『水伝』はその儀式から別の「信仰(精神物質非分離)」を肯定した。これはルール違反であり反道徳的とされても致し方ない。だから「信じないでください」著者が『水伝』を反道徳的としたことも頷けることではあるのだ。ただし、これは科学を宗教として捉えた場合の話であって、科学は宗教的・道徳的なところから縁を切った体系なのだから、やはり科学的見地(正しい、正しくない)から『水伝』=反道徳(善くない)とするのには無理がある。「信じないでください」著者は「科学を信じないでください」とするべきだったとの結論は変わりない。
(「異端」云々は、精神物質分離信仰の信者には重要な問題だが、それ以外の者にはさして関心が持たれない事柄だと指摘しておく。「信じないでください」の様々な設問は、信者以外の者からの疑問と考えればよいだろう。)


精神物質分離信仰と、精神物質非分離信仰。これら2つの信仰は互いに交わることができない「信仰」であり、現代社会のパラダイムは精神物質分離信仰の方にあるのだけれど、それでもまだ精神物質非分離信仰が死に絶えたかといえば、そうではない。現代人の多くはまだまだこれら2つの信仰を明確に分離しない、混沌とした形で心の中に抱えている。

精神物質分離信仰からみれば精神物質非分離信仰は反道徳であり、その逆もまた言いえるのだけれども、信仰や道徳といった【語りえぬもの】には論理実証主義は適用できず、ゆえに明確に道徳的(善い)か反道徳的(善くない)ことであるかの基準を定めることができない。もし、他者あるいは自己の行為の道徳性を判断しようとするならば、それは自己の内面の【語りえぬもの】と「対話」を行いつつ判断するしかなく、ここにはどうしても「私(ある方の言い方を借りれば「物語」)」を欠かすことができない。

では、「信じないでください」著者はニセ道徳者なのか? 上の議論からはそのように思われるが、ニセ道徳者と断じる要件は揃っていない、と答えておくのが適切だと考える。欠けている要件とは、「信じないでください」著者は、〈信じないでください〉と他者の内心に踏み込むような発言をしてはいるが、これは著者の「信仰」の裏返しであると思われ、著者自身の「信仰」(=【語りえぬもの】=「私」)を基にした文章と捉えることができる可能性が否定できないこと。また、『水伝』=ニセ科学=反道徳と【語りえるもの】で道徳を語ってはいるが、特定個人の批判にまでは及んでおらず、あくまで社会規範(【語りえるもの】としての体裁をとる必要がある)としての道徳の主張に留まっていること、が挙げられる。このことは逆に言うと、これらの要件を満たす言説を行う者はニセ道徳者と断じざるを得ないということにもなる。

ニセ道徳者は自分の言説の根拠を科学や論理に託し、徹底的に「私」を隠蔽しようとする。しかも、その上で個人批判を行う。こうした者たちが行う批判は、ニセ科学が根拠のないものだと見做されるのと同様、根拠のない批判だと考えて差し支えないと私は考える。

しかし、このことは少し考えて見れば不思議なことでもなんでもない。世の中に飛び交う無数の言葉に【語りえるもの】と【語りえぬもの】があるとするヴィトゲンシュタインが正しいのなら、【語りえるもの】は【語りえるもの】を根拠に、【語りえぬもの】は【語りえぬもの】を根拠に相互に批判を行うのが正しいはずだ。そして科学(正しい、正しくないか)は【語りえるもの】であり、道徳(善い、善くない)は【語りえぬもの】に分類されることは間違いなかろう。

コメント

頭を信じないでください

例えば、大きい小さい・物体の運動・距離や方向といったものは、私達の五感や筋肉を通じて形成されます。
従って五感に忠実であれば、数学は「私」の中から生まれてきます。そして数学の数学たるゆえんは、「私」の中から生まれた数学と、「あなた」の中から生まれた数学が、不思議とピタリ一致するところにあると思います。

そうして生まれた数学を用いてみれば、私達の耳や目は一層鋭くなります。セミの鳴き声を聞いて、その距離や角度が自動的にわかったり。流れる水の複雑な動きを見て、そこに働く力のあらましが見えてくる。誰しも、そんな経験があると思います。
それは、人から教わるものじゃないし、テストで表すものでもない。あくまで、「私の肉体」が物質世界とのぶつかり合いの中で囁いてくること。

してみると、科学とは「私の五感」から決して切り離してはならないものですが。現代において科学が権威的な信仰の対象になる理由の一つは、「私の五感」を皆がおろそかにし過ぎたためではないかと思います。
頭だけで考えるから五感が狂う。

私達の頭の中には、自己愛や抑圧といった心理的なものから、社会科学的な力学まで、非科学的なものが満ち満ちている。
頭だけで科学をやろうとすると、手足や五感といった本来科学の拠って立つべき道具を失ってしまう。そうなると私達は、科学を語る時に「自己愛や抑圧」「社会的力学」の影響下から逃れることが難しくなる。

問題の根源は、机の上だけで数学をやろうとする教育体系にあるのかもしれません。

と言いつつも

私達の感覚器も、何らかの理由で不調になることがあります。
その場合、五感よりも頭や機械を頼るしかない点、五感万能説に限界があることは自ら指摘しておきます。

僭越ながら補足(あるいは反論?)です

精神物質分離信仰は、ある意味、たいへん‘若い’、言い換えれば19世紀以降の非常に新しい信仰です。
それに対して、精神物質非分離信仰は、人類にとって太古の昔から連綿と続いてきた‘古き信仰’です。
もし、現代のわれわれが、その古き信仰を全て廃絶してしまうなら、18世紀以前の人類の精神文化の全てを、すっかりどぶに捨て去ることになります。
なぜなら、もしわたしたちが、自らの内なる精神物質非分離信仰の痕跡を全て根絶してしまったら、先人の残した言葉を理解する力を完全に失うことになるからです。そして、残念なことに先人の知恵を生かすすべが無くなってしまうのです。
これは大変もったいないことです。
19世紀後半以降、多くの科学者がその危険性を意識し始めました。そして、内なる精神物質分離信仰と精神物質非分離信仰の葛藤に悩まされるようになりました。
21世紀の現在、そうした真摯な葛藤が、多くの良心的科学者の内面で受け継がれ、つづいております。その葛藤の中から、優れた学問が生み出されてきているのです。
フロイト然り、ユング然り、シュタイナー然りです。

このような精神的葛藤を内に持たない科学者を、わたしとしては尊敬することはできない。
たとえば、ゴッドハンドの異名をとる有名な心臓外科医の方がいらっしゃいますが、年に信じられない数の手術をなさいます。一日に三つの手術を行うのが普通です。それも、他の外科医には到底不可能な、神技とも言える手術を…。
彼は、熱心な神道の信者でもあり、手術の朝には必ず早朝に‘禊’をなさるのです。
わたしの知り合いの娘さんも、手遅れと言われていたのを助けていただきました。
彼ほどの人が神頼みをするのに、わたしたち凡人が、神頼みをして、なんの恥じることがありましょう。

科学技術はわたしたちの生活と生命を助ける道具です。
あまりに見事な道具なので、つい万能の頼みの綱と思い込みやすいのだと思います。
しかし、わたしたちの心の奥底は、科学技術によって解析することは未だ不可能な精神物質非分離文化の残滓がうごめいている。
では、その残滓は‘不合理’なのでしょうか?
わたしはそうは思わない。
先人の生み出した精神物質非分離文化のさまざまな‘合理的’解釈、いわゆる精神文化は、それ独自の極めて合理的な内容を持っております。
そして、心を支える‘精神物質非分離文化’の内包する合理性を完全に見失ったとき、わたしたちの文明・社会そのものが崩壊する。
そう思われてなりません。

はあ~、ちょっと肩がこりました

大上段に構えて、論ずると肩に力が入って入って…。

補足の補足ですが、わたしは‘精神物質非分離文化’の合理性が見失われつつあることの、ひとつの表れが、カルトの蔓延と見ております。

それから、こんな力の入るエントリーをあげて下さった愚樵さんに、感謝と恨み言を…。

愚樵さんの論理構成の全てが、まだ頭にピタッとはまり込んでいません。また、読み直してコメントしますね。

科学か道徳か

「科学」ならば、「実証された」「実在している」といった、「目に見える」「理論的に証明しうる」ということで真偽を確かめることはできるものの、「道徳」は、そもそも『人の内心に存在する』といった「目に見えないもの」であるがゆえに、真偽を断定することは難しい。

「言霊」なんていうのは、まさにその典型であるわけだが、これは「人々が生きてきた歴史において、培ってきた知恵の集大成」と表現することができるのかも知れない。
「水からの伝言」は、確かに「科学的」にみれば、偽物なのかも知れない。そのことを私は否定するだけの研究をしているわけではないので、みなさんのコメントを前提にしてしか話すことはできないが、「心清らかに生きていこう」という「人々の気持ち・歴史・培ったもの」という立場からすれば、「信じるべきではない」と断言するのもまた、淋しいと感じる。

ひとつ反論があるとすれば、『世の中に飛び交う無数の言葉に【語りえるもの】と【語りえぬもの】があるとするヴィトゲンシュタインが正しいのなら、【語りえるもの】は【語りえるもの】を根拠に、【語りえぬもの】は【語りえぬもの】を根拠に相互に批判を行うのが正しいはずだ。そして科学(正しい、正しくないか)は【語りえるもの】であり、道徳(善い、善くない)は【語りえぬもの】に分類されることは間違いなかろう。』の部分である。
発言内容そのものに批判があるのではない。むしろ、原則としては、その通りだと私も思う。
ただ、「語りえぬものを語り合う」のは、人と人との気持ちを繋げようとする心の表れだと私は思う。言い換えれば、「語りえぬものだからこそ、語り合おうと努力する」からこそ、「語りえぬものとして、より深く理解し、より共有しうるものとして、人から人へ伝わる」ということなんだろうということ。
逆に「語りえるものを、語り合わない」のもまた、同様だと考える。「言葉では表現できないものを、互いに理解しあおうと努める」ことによって、やはり、より深く理解し、より共有しうるものとして、人から人へ伝えていくんだろう。

ブログはまさにその状態ではないだろうか。
やっていることは、本来のセオリーとは正反対のことである。しかし、その正反対のことを通じて、人々はいろんなものを発見し、熟成させ、今に至っている。もちろん、不幸をもたらした負の面も実現されてきたわけだが、不幸をもたらすか幸福を招きよせるかなどは、紙一重の差であって、言い換えれば、常に負の面を意識しつつ歩んでいかねばならないということなのかも知れない。

と、タイトルとかなりかけ離れてしまって大変申し訳ないが、管理人のエントリーを読んだ気持ちですね。

ニセ科学

私は、どうもニセ科学批判に馴染めなくて、ニセ科学批判を見るたびに感じるこの気持ちの悪さはいったいなんだろう…と身もだえしております。

今日こちらを読み一つ思いついたのは、ニセ科学批判においては、“科学”を持ち出して批判する必要がないところに科学を持ち出しているのではないかということです。

たとえば水伝問題だったら、科学的でないということよりも、「水の結晶がきれいになるからきれいな言葉を使う」という発想そのものが奇妙だと指摘した方が良いと思うのです。良い人間関係を築くことがなぜ大切なのかを、自分の言葉で語ることを放棄して、水の結晶の形で説明しようとする、そういう手抜き教育が、教育機関で行われたのです。そのことをこそ問題として取り上げるべきではないのでしょうか?
科学的かどうかを問題として取り上げるから、
水伝批判派「どう考えてもおかしい」
水伝派「じゃぁ効果がないと証明できるのか」
水伝批判派「馬鹿馬鹿しくて効果のないことを証明する実験なぞできない」
みたいな堂々巡りになってしまう。

これは、今日愚樵さんのエントリを見て発想したことです。
道徳の問題なのに科学の問題に摩り替えている…というと言いすぎでしょうか。
私の思いつきが妥当なのかどうか、まだまだ考える余地がありますが、いずれにしてもこの2つの言葉を結びつけた愚樵さんの卓見には敬服いたします。

お読みください

>aliceさん
そのようなニセ科学・水伝批判はすでにあちこちでおこなわれています。
どうぞお読みください。

「水からの伝言」を信じないでください
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

【作成中】『水からの伝言』の基礎知識【基礎編】
http://kameo.jp/mizuden/faq.html

ニセ科学批判まとめ %作成中 - トップページ
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/11.html

PSJ渋谷研究所X: 「水伝」を受け入れるということ
http://shibuken.seesaa.net/article/30224390.html
PSJ渋谷研究所X: 本当に「なぜいつまでも水伝?」なんです
http://shibuken.seesaa.net/article/95943014.html

付け加えれば、愚樵さんのこの記事はまちがっても敬服に値する「卓見」などではありません。
私なら無意味なたわごとと呼びます。

みなさん、コメントありがとうございます

それぞれに力のはいったコメントを頂き、感謝です。

おひとりおひとりにお返事をと考えもしましたが、ここでは遠慮させてもらうことにします。ここでは特に議論を戦わせて意見を集約させる必要性を私は感じないのです。

もちろん、皆さんの間で議論をしていただくのは自由ですよ。

ちょっとひどい

愚樵さん,論点がズレまくっています.黙っていようと思いましたが,弊害もありそうなので失礼ながら一言.

玄倉川さんと同じ立場です.

水伝騒動を『物質と精神の分離』のようなたいそうな一般化した問題にしないでいただきたい.じいさんやばあさん(私やあなた)がご先祖様を信じるのとわけが違うのです.水伝という捏造物語とそのプロモートという社会犯罪の糾弾(いや指摘かな?)なのです.
水伝は科学を扱っているから一般人は判断できない?ちょっと考えたら,水は世界中の“ありがとう”という言葉を知っていなければならないことになります.
 いや問題は『科学的におかしいことを見抜けなかった』ということではないのです.批判の対象は,そういうことを『悪意を持って発信し』,『まったく無批判にプロモートする』という所にあるのです.
まるで新興宗教の気持ち悪い教祖みたいに『“ありがとう”は水だって気持ちいいのです』なんてしゃあしゃあと,しかも道徳の教材にまでする.その姿勢は道徳をどうにかして権威づけようとする不純な不健全なことではないですか.そういうことこそが『語りえぬ所を語っている』と言うのです.

その批判が結果的に水伝を信じていた人たちを傷つけるのかどうかはわかりません.それは,詐欺で騙されていたのを知らされたばかりに不幸な気分になるのと同じです.仕方のないことです.次の更なる被害を防ぐためにも必要なことなんですよ.

何でも評価や断定を下さないことが良いことではないのです.価値判断できるところはしっかりと価値判断をやる,それが健全な社会に結局は結びつくのです.
たとえばハラスメントの仲裁.何でも“どっちもどっち”の裁定が良いことではない.『すべてには原因があるから一方だけが悪いということはないだろう』,なんて安易な理屈で以ってしっかり判断を下すことを怠ることが一番不健全なことです.どちらかが一方的に悪い,そういうこともよくあるものです.(むろん,どっちもどっちの場合もよくあります.)

それから精神と物質の分離? 今明らかになっていないからといって,今言える事もすべて棚に祭り上げる,ということが如何に愚かなことか認識してください.物質が精神作用にどのように影響を与えているのか,今研究のさなかです.どこまでわかるのかは科学者にだって分かりません.その途中には怪しげな“脳科学者”なる者もうろつくことでしょう.そういうのを真に受けては危険です.そういう時こそ『(まだ)(脳)科学者』を信じないでください,というべきでしょう.しかし,『科学一般』を指してそういうことを言うのは不誠実そのものとしか言いようがありません.

失礼しました.また記事を立てるかもしれません.

さっそく前言を撤回せねばならぬみたいで

返事はしないといいましたが、そうもいかぬようで。

アルバイシンの丘さん

失礼ながら、アルバイシンの丘さんは私の意図を誤読なさっていますね。

社会現象としての『水伝』を擁護しているわけでありません。『水伝』は私自身も信じないと書いてありますし、また本文では触れませんでしたが、『水伝』を子供相手の道徳教育に使うのには反対です(科学的常識を弁えた年齢を対象に高度な道徳教育の教材としてありかもしれませんが)。『水伝』批判は、道徳の社会規範としてならばOKなのです。ただ、その社会規範をそのまま個々人の道徳に当てはめるのはダメだといっているだけです。

>何でも評価や断定を下さないことが良いことではないのです.価値判断できるところはしっかりと価値判断をやる,それが健全な社会に結局は結びつくのです.

そこには賛成です。ですが価値判断は個々人が行うもので、社会が行うものではないと言っているのです。もちろん、社会の秩序を保つための規範は必要だが、それは虚構だと認識すべき(これは前回のエントリーで述べました)。その認識を失うと全体主義に陥っていきます。科学的とされた優生学がいかなる事態を招いたか、アルバイシンの丘さんもご自信で言及なされているではありませんか。

>たとえばハラスメントの仲裁.

この例は甚だ不適切です。マクロで考えるべきこととミクロで考えるべきことを混同しています。これはハラスメントという「犯罪」と認定される行為があって初めて行われるものです。質問しますが、個々人の価値判断をどのように「犯罪」と認定するのですか? ここに明確な基準など設けられるのですか? ここを混同してしまうと健全な社会どころか、非常に危ない社会に陥ってしまいます。

>それから精神と物質の分離? 

上でも述べましたが私は科学を一切否定していません。科学にまとわりついている権威性を明らかにするためにそのような言い回しを用いただけです。それともうひとつ、科学の権威性の限界を示すために。

認識が違いますね

私は『水伝』の社会的な問題点を指摘しています.個人的な信心に対して批判してはいないつもりです.
水伝を『素朴に』信じていた人たちは批判によって傷つくかもしれませんが,批判はこの人たちへ向けてはいませんよ.ただし,詐欺に遭ったと気づいた時に不幸になるのと同じ気分になるのは避けられませんが(文中に書いています).
批判は『悪意を持って捏造し,無批判にプロモートする人たち』へ向けたものです.これらは社会的な行動です.そしてその道徳の権威付け,も大いに社会的なことです.ということまで含めて,批判は社会的なものに向けられています.ですから,『その社会規範をそのまま個々人の道徳に当てはめる』ことにはなっていないと思います.

それから,次の価値判断ですが,初めに書いたように,『科学的におかしいことを見抜けなかった』ということが批判の対象ではないのです.(すぐ上にも書いたように,批判の対象は捏造とプロモート).ですから,別に科学の権威の観点からの価値判断ではなく,『優生学』の間違いとは何の関係もありません.むしろ,『水伝の道徳』が科学の権威を身に纏って社会に蔓延る,その危険性を指摘しているのですから,こちらの方が『優生学』の危険性があるのではないですか.

ハラスメントの問題では,ハラスメントだという訴えがあったという場合です.私の言葉がわかりにくかったですね.その訴えがあった場合は,きちんと価値判断して,犯罪とするべきかどうかを決定しなければなりません.そういう時,往々にして地位が上の者が,『まあ,どっちもどっちとして無難に』済ませようとすることが多いものですから例として挙げました.

科学の否定?『科学を信じないでくださいというべきであった』,というのはどういう文脈だったか,愚樵さんの文を見てみましょう.
『科学の体裁をもって示されたものを、その科学がニセか真正のものかに関わりなく、信じないでください、とするのが誤りのない訴え方だった。』
とあります.これは私の言う,『科学で言えるところまで棚に祭り上げている』とはならないのですか?

でも,私と愚樵さんは随分立ち位置が違っていることを感じていますので,あまり深い議論は有益とはならないかもしれません.
【追加】↑このように書きましたが,立ち位置が違うからこそより高い位置へ到達できる可能性もありますね.よろしければ『”水伝の道徳”の持つ意味』のようなタイトルで考えて見ましょうか.でも時間があまり取れないのが悩みです.

立ち位置の違い

>立ち位置が違うからこそより高い位置へ到達できる可能性もありますね

もちろん、そのように信じます。ですので、アルバイシンの丘さんの立場からのエントリー期待しています。それが著されれば、私もアルバイシンの丘さんがどの立ち位置からの異議申し立てをしているのか、理解できるかもしれません。

>批判は『悪意を持って捏造し,無批判にプロモートする人たち』へ向けたもの

「信じないでください」がそうしたものであることは、私も認めています。本文中の書き方は消極的ではありますが、「信じないでください」著者はニセ道徳者と断定できない、という表現でそのことを表しています。

しかし、「信じないでください」は『水伝』著者の「悪意」は認定していなかったはずです。私が問題にしているのは、「無批判にプロモート」=「悪意」となるのか、というその点です。

社会的に問う場合には「無批判にプロモート」で十分に批判の対象とすることができるでしょう。個人の「悪意」を問う必要はありません。「悪意」は個人の【語りえぬもの】ですから。「悪意」まで視野に入れて批判をなすのであれば、個々人の【語りえぬもの】へ踏み込まざるをえず、そこへ踏み込むのに社会的な【語りえるもの】をもってなすことは許されないことである。個人への批判者は、自分も個人としての立場から批判すべきだ(「私」を隠蔽するな)と、そういうことを言いたいのです。

尚、前エントリーのコメント欄で、ママちゃんへの私の返事に裁判について書いたものがあります。それも参考にしていただけるとありがたいです。

個人への批判は、自分も個人としての立場から…

厳しいお言葉です。
かなり、胸に刺さります。
しかし、正しいお言葉と感じます。

ここで、ひとつたとえ話をお披露いたします。
(これをわたしの体験とは申しません)
ある娘が、障害を持つ子を産みました。
お姑さんが「うちにはそんな血統はないよ!」と言いました。この言葉を、夫も義父も、たしなめてはくれませんでした。
娘は、それを社会の判断と受け取りました。
そして、家を出ました。
社会から身を隠して、誰からも知られずに生きたいと願ったからです。

なんの証明もなく、断定されること…。
世の中にはたくさんありますね。
ところでそこに、「科学的証明」とやらまでついてきたら、到底生きてはいけなかったでしょう。
愚鈍な娘にどんな反論ができますか?

「科学なんぞ、くそっ食らえ!」と
天に向かって唾したところで、世間は冷笑するだけです。

一方でもちろん、同情はあります。
山のように…。
親身な友人たちに、医師たち。
さらにはカルトやら、擬似科学やら、むやみやたらに。

いろいろさ迷ってみても、やはり空しい。
なぜなら信仰は、自分ひとりのものだから…。
子を失ってから、それに気づいた。

世の中には、そんな人間がたくさんおります。

愚かだ、馬鹿だと笑わば笑え!
冷笑したくばそれもいい…。
世の中なんて、そんなもの。

それでも、
時として激しい怒りが身を突き抜ける、
そんなこともある。

それを察しきれない人間たち全てに、
わたしは何を…。

Naokoさんへ

Naokoさん,ちょっと失礼します.お示しになった喩えがよく理解できません.ひょっとしたら次のようなアナロジーを立てておられるのですか?

『水伝の批判』=『お姑さんが,障害児を生んだお嫁さんに「うちにはそんな血統はないよ!」と非難した』

もしそうであるとして書きます.これはとても『ひどい』喩えだと思いますよ.水伝を批判した人が著しく傷つくのではないでしょうか?

私は次の喩えが適当と考えますが,いかがでしょう.

『水伝の批判』=『お姑さんが,障害児を生んだお嫁さんに「あんたが“汚い言葉”を使うから,そんな子が生まれるんだよ」と非難したことを,批判した.』

『汚い言葉』は障害児が生まれることと関係あると思いますか?ないでしょう?
でも,『水伝』を信じると,『ひょっとして有りかも』と心配になりませんか?すると障害児を生んだお母さんは深く深く自分を責めてしまうでしょう.どれが『汚い言葉』だったんだろう,と一生悩むことになります.
『水伝』というのはこのような『ひどい側面』も持っていることに気づいてほしい.このようなわけで無批判にプロモートすることは危険だといいたいのです.

障害を持った子が生まれるのは,ある確率で生じる,自然界の避けえない出来事です.つまり,気の毒な役回りを背負わされてこの世に生を受けられた方なのです.決してお母さんが汚い言葉を使ったからではありません.お母さんもその子も,社会みんなで守ってあげなくてはなりません.(最後は余計でした.すみません)

脊髄反射ですみません

>Naokoさん

私は障害児の母です。

>ある娘が、障害を持つ子を産みました。
お姑さんが「うちにはそんな血統はないよ!」と言いました。この言葉を、夫も義父も、たしなめてはくれませんでした。

> ところでそこに、「科学的証明」とやらまでついてきたら、到底生きてはいけなかったでしょう。
愚鈍な娘にどんな反論ができますか?

あなたは、先天性障害について大変な勘違いをしていらっしゃる。
遺伝子疾患については、親に原因遺伝子がある場合もあるが、突然変異によるものも決して少なくありません。

遺伝子や染色体は決して不変なものでなく、システムとして突然変異が発生する余地を抱えていること(だから進化が起きるわけです)、変異は放射線被爆や化学物質に因らなくても決して珍しいことではないという科学的知識をきちんと理解しているのならば、「家の血筋にはいない」だのなんだのと阿呆なことをいう人もずいぶん減るでしょう。

科学的無知によるいわれなき偏見に晒されたからと、「科学」を罵倒することに何の意味があるでしょう。
私に出来るのは、その偏見が無知によるものなのだと、傷ついている母にあなたには何の落ち度も無いのだと地道に言い続けていくことしかありません。

>アルバイシンの丘さん

おっしゃることについては、全面的に同意します。
ただ、障害者について「気の毒な役回りを背負わされてこの世に生を受けられた方」と言うのは、どうかと思うのですが。
私は、自分の子供を別に気の毒とも思いませんし、私自身だっていつ事故や病気や高齢で障害を負わないとも限らない存在だと認識しています。
まあ、言葉のあやのようなものでしょうから、ここだけ取り上げても仕様がないですけれどね。

くりずさんへ

私へのコメントありがとうございました.

「気の毒な役回りを背負わされてこの世に生を受けられた方」という表現について

これについては無神経だったですね.すみません.ご指摘ありがとうございます.
私たちもいつ『事故や病気や高齢で障害を負わないとも限らない存在』ですね.或る確率で誰にも生じる可能性があります.それで,それに『選ばれてしまう人』が必ず生じます.この『選ばれること』を私は『不運』だと感じてこれまで『気の毒な役回り』と表現してきました.
しかし,そこには障害のない人生では決して味わえない,豊かな人生があることでしょう.そういう経験ができるのも『そのおかげ』なわけですよね.それはわかっていたのですが確かに無神経でした.
これからは『気の毒な役回り』という表現を捨てて,新たな表現を考えたいと思います.どうもありがとうございました.

失礼します

道徳はひとのなかにあるものでもあり、またひととひとのあいだにあってひとの内部に向かうものでもあると思います。これは言葉の多義性でもあり、おそらく道徳と云うものの持つ機能(と云う云い方は適切ではありませんが)の多義性でもあると思います。このふたつの側面に対する視点はいずれも道徳についてなにかを書き表すときに欠いてはいけないものだと思いますが、それでもそれは異なった側面・機能であり、一方を取り上げるときに随時恣意的に他方を論拠に議論してもいい、と云うようなものではないと思います。

道徳と科学、と云うものを対比して語るときに、これらを同じレイヤーで語るにあたっては、いずれも「ひととひとのあいだにあるもの」としての側面で比較しなければならない、と思います(科学はつねに「ひととひとのあいだにあるもの」「ひとと世界のあいだにあるもの」ですから)。

その意味で、愚樵さんのこのエントリに見られる思考は、意図的でないとすれば議論のレイヤーの混同であり、意図的であるとすればあえて混同することによるアンフェアなアジテーションに見えます。ちょうど、naokoさんがお書きのコメントのように。

愚樵さんへ。

 刑事裁判では、「疑わしきは被告人の利益に」「疑わしきは罰せず」という態度が「語りえぬもの」としての「道徳心」を裁く基準だということには同意です。人権保障とは、真犯人を取り逃がしたとしても冤罪を防ぐことにあるからです。これが、個人と国家権力の関係の科学的な基準です。

 しかし、個人と個人の間での場合では、どうでしょうか?
この場合には、個人と国家権力の関係ではないので、諸個人は「私の態度・根っこ・立場」を隠すことなく、明瞭にして言動しなければならないという道徳的な義務が発生します。これが、草の根における道徳心の交流、人間関係ではないでしょうか?現在では、このような道徳心の交流が失われており、「うわべ」だけの「お付き合い」が「社会常識」になっています。孤独感というものですね。ゆえに、草の根のおける個人と個人、庶民と庶民の間における道徳心を問題とする場合には、当該、人物の発言と行動といった外見的なことを根拠にして、その人物の道徳心を規定し、悪意か否かを評価することは必要ではないでしょうか?やはり、草の根での馴れ合いはよくないと思います。

アゼルバイシンさん、すみません

わたしの唐突な叫びは、意味不明ですよね。
実は、上のコメントは当コメント欄での愚樵さんとアゼルバイシンさんの議論につながるものではありません。
ほとんどは…。
 そして、おっしゃるようなアナロジーは、その部分には込めてはおりません。むしろアゼルバイシンさんのおっしゃる例はとてもよくわかります。
 ただ、そのように受け取られるかもしれないという懸念は、頭をよぎってはいたのですが…。
 ですから、誤解されたのはアゼルバイジンさんのせいでなく、わたしの唐突な、コメント欄の文脈の流れにそぐわない発言にあることは確かです。
 そのことで、不愉快にさせた面があるなら、謝罪いたします。

くりずさんへ、そのとおりですね

 遺伝子疾患が、先天性のものか、突然変異によるものか現代の科学では、断定は出来ない可能性が高い…。
しかし、先天性のものではないという証明もできない。
そして、その意味は、先天性のものかもしれないという可能性を含みます。
 また、突然変異を引き起こした原因はなんなのか?
 たんなる確率の問題にすぎないのか?
 突然変異を引き起こしやすい要因があるのか?
 タバコを吸っていたからだ、とかね。

 ごめんなさい。そんなこと考えたくもないですよね。そして、わたしもそんなこと、「科学的に解析」されたくはない。
 すべては、めぐり合わせであり、引き受けるべき運命なのだと考えるしかありません。

 その意味で、くりすさん、あなたに敬意を表します。
 

 

poohさん

反論いたしましょう。

まず、
>科学はつねに「ひととひとのあいだにあるもの」「ひとと世界のあいだにあるもの」ですから。

がよくわかりません。このセンテンス、「科学」ではなく「言葉」となっているのなら理解はできるのですが。

科学は言葉が持つ様々な機能の中の1つ、と考えるのが正しいだろうと思います。「ひととひととのあいだ」の「ひと」が何を指すのかは定かではありませんが、科学ですと、この「ひと」に心があってはならないことになります。科学は「ひとの心」は対象にしないからです。言葉は心も対象にしますが、科学は言葉の持つ機能の中から心を対象から外すように限定した使い方をしたもの、と言ってもいい。

しかし、「ひと」から心を外すとそれはモノと同じ扱いになります。そうなりますと、もし上のセンテンス、「科学」を主語に文章を続けるとするなら

「科学はつねに世界(=モノ)と世界のあいだにあるもの」

ということにしかならないと考えます。

当エントリーでの私の主張は、poohさんの言葉を借りるなら、「異なるレイヤーを混同するな」です。poohさんが私に向けた批判と同じものになります。妙な話ですね?

このようなことになるのは、poohさんが言葉と科学を同一視したことに原因があると思うのですが、いかがでしょう?

東西さん

>当該、人物の発言と行動といった外見的なことを根拠にして、その人物の道徳心を規定し

他人の内面は窺い知ることはできませんから、他人の道徳心を判断するのは外見的な情報から判断するしかありませんね。こうした判断から自主性が失われる――馴れ合いになる――のは、判断をなすべき個々人が「権威」に依存することから始まるのではないでしょうか? 草の根でそうした依存が発生するのは、草の根の間で「世間」という「権威」が発生するからでしょう。

naokoさんがこのエントリーを厳しいと仰ったのは、「世間」を否定するものと捉えられたからだと思いますが、それは確かにその通りなのです。

「物語」が掴めない

naokoさん

申し訳ありません。昨日から想像を巡らせておりましたが、私にはまだnaokoさんの「物語」が掴めたという感触を得られずにいます。

>(これをわたしの体験とは申しません)

naokoさんご自身の体験ではなくても、それに近いところから出たコメントなのだろうと私には感じられます。

アルバイシンさんが為されたような批判ないし批評をすることは私にもできます。けれど、それが適切だとは思えない。

いえ、これはアルバイシンさんを批判していうのではないですよ。アルバイシンさんの立場から見てのnaokoさんへの批判を不当だなどというつもりは全くないのですが、ただ、アルバイシンさんのnaokoさんのコメントには、naokoさんの「物語」を汲み取ろうとする姿勢が見られないと感じているのは事実です。くりずさんの「物語」にはすぐ反応されましたが。

いえいえ、やっぱりアルバイシンさんへの批判でしょうか。私がこのエントリーで展開した論は、アルバイシンさんが立っておられる立場への批判なんですから。「物語」を汲み取るとは、アルバイシンさんのいつもの言葉で語れば、「想像力を働かせる」ということなのですが。アルバイシンさんが俳句をひねる時のように、naokoさんのコメントを読みましょうということなのですが。

それからくりずさん、コメントありがとうございます。くりずさんがお抱えになっておられる「物語」は批判のしようがありません。ただただ受け入れるだけです。その受け入れ方は、くりずさんから見てご不満な点もおありでしょうけれども、そこは当人ではない哀しさ(いえ、ありがたさ、でしょうが)です。ご容赦ください。

愚樵さんへ

 わたしはどうも自分の物語を語るのは、恐ろしく下手な人間のようです。
 だって、自分でも書いた瞬間には自分の真実を書き得たと感じていたはずなのに、後から読むとまるで判らないことを書いている気がしてくる。自分がなぜこんな感情を抱いたのか…。
 ですから、アゼルバイシンさんが理解できないのも、愚樵さんが理解できないのも、これは当然です。本当に悩ませて申し訳ありません。
 精神病でしょうか…。
 ヴァージニア・ウルフみたいなものでしょうか。
 どうも、自分の病んでいる部分をもろに見ている感じです。少なくとも健康ではない。
 病んだ物語は、ある種の‘毒’です。
 あまり人様に見せるべきものではありませんね。
 すみませんでした。
 でもね、不思議なことに、この病んでいる自分を隠して接するのも、罪悪感を覚えるものなんです。相手にうそをついている気がしてくるのですよね。
 まあ、出すにしても時と場合がありますよね。
 今回は期せずして噴出してしまいました。
 それは逆に言うと、わたしの愚樵さんへの(ある意味勝手な?)信頼感が噴出させたのかもしれません。
 いずれにしても失礼いたしました。 

愚樵さん,なんと

愚樵さん,あまり深入りしませんが,何度も?申し上げるように,失礼ながら論点がズレまくりです.敢えてアキレタと申し上げておきます.(やはり撤回)
個人の物語を批判しているのではないのですよ.私のコメントの何処が個人の物語への批判ですか?喩えのまずさへの批判はしましたが.
そのような悲しい物語に導くものは何か,という話です.
この物語では,理不尽な科学的装いを凝らした非難(障害児を生んだことへの不当な非難)が個人を罪悪感やなんかで苦しめた原因でしょう?
これが『偽科学』の罪である,と言ってるわけです.そしてそれは『水伝』と全く同じ構図になっているではありませんか.
それが水伝の危険性であり,『水伝』とそのプロモートの方が,個人の物語をグシャグシャにする,ということを申し上げているのです.

ふーむ,まさかとは思いますが,ひょっとしたら,これが『偽科学』にしろ,『科学』という語句を含んでいるから『科学』は罪だと言ってるのではないでしょうね?もしそうだとしたらそれは極端な捻じ曲げとしかいいようがありません.『科学という語句』がなくったって,メチャクチャな非難はたくさんあるでしょう?
むしろ,根拠の無い理由をそれはウソだ,と言える強力な武器の一つが科学といえましょう.(無論,可能な範囲はですよ.これ念のため)

私の喩えをよく咀嚼してくださるようお願いします.
なるほど,こんなことであればきちんと記事にしないと危険ですね.
ここは私はこれぐらいにしておきます.(余程のことがない限り)

何度もすみません

何度も済みません.決して喧嘩を売りに来ているのではないことをご理解ください.互いに考えていることが違うな,という事に関して,あることに一つ気が付きましたので確かめることを読者の皆様もぜひお許しください.

ひょっとしたら,次のようなことを仰っているのではないかと思ったのですが,違うでしょうか?

がんの告知を例にとって考えて見ます.
1.がん診断で末期がんと診断された.その所為で人生が真っ暗になった.これはがんと診断できた医学がある所為だ.
2.癌の告知を希望していないのに告知された.これで大きな苦痛を受けた.これは医学がある所為だ.

愚樵さんとnaokoさんは,この喩え1と2の,『医学』を『科学』に置き換えたことに類することを仰っているのではないか,と思ったのですが,どうなんでしょうか?

そう思った根拠は,naokoさんのコメント中に,次のような文章があるからです.
『「科学なんぞ、くそっ食らえ!」と 天に向かって唾したところで、世間は冷笑するだけです』

もし違っていればお詫びします.

問題を混同されているようですが……

はじめまして。

>『水伝』が反道徳的なのはそれがニセ科学だから、ということになる。
 なりません。

>ここでは道徳的か否かの基準が科学的か否かの基準と一致してしまっていて、ニセ科学=反道徳、正しい科学=道徳といった図式が暗示されることになっている。

 誤読です。

「水からの伝言」は、

○科学としても間違い
∵水が言葉を理解するという科学的根拠は無く、結晶の実験はもともとランダムにいろんな形ができるもので、江本氏が主観で水のイメージにあったものを選んで写真集に載せているから。
○道徳としても間違い
∵道徳の根拠を自然科学に求めるのは間違い。また、水伝のロジックでは、見た目が美しい(6角形結晶)が道徳的善とされてしまうが、道徳的善と美は別物というのが道徳では大前提のはず。
○国語としても間違い
∵言葉の意味は文脈で決まるので、単語だけ切り出して水に判断させるというのはむしろ日本語に対する冒涜。
○美術としても何だかなぁ
∵6角形の結晶を「美しい」とする基準が不明確。美の基準はそんな安っぽいものなのか?

なんです。これらは独立に同時に成り立っています。

反論ありがとうございます

まず、雑駁な言及であったことをお詫びします。ぼくが「言葉の多義性」と書いたのは言葉一般についてではなく、ここでお使いの「道徳」と云う言葉についてでした。

愚樵さんが前のエントリにて弁別したはずの「社会規範としての道徳」と「個人の内面意識としての道徳」が、ここでは再度混同されて見える、と云うのがぼくの主旨でした。科学がその同一のレイヤーにあるものとして語りうるのは前者であり、後者について科学が言及し得る、と云う認識から出発するのはニセ科学です。田崎さんの言説の主旨も、この部分にあると思います。
で、この点については、「信じる」あるいは「信じない」と云う議論の俎上に上がるべきものなのでしょうか? と云うのが、ぼくの問いの中心的な部分でした。

語り得ないことを科学を用いて語るべきではない、それはニセ科学である、と田崎さんは述べています。科学を信じなければ、これは肯んじ得ないことなのでしょうか?

あと、確認したいのですが。

> 科学は言葉が持つ様々な機能の中の1つ、と考えるのが正しいだろうと思います。

とおっしゃっているのは愚樵さんです。従って、

> このようなことになるのは、poohさんが言葉と科学を同一視したことに原因があると思うのですが、いかがでしょう?

と云う問いがぼくに向けられるのは、ぼくには理解できません。

そのとおりではありません。

>naokoさん

先天性というのは「生まれつき備わっている」ことを言うのであって、突然変異による遺伝子疾患は基本的に先天性です。

>先天性のものか、突然変異によるものか現代の科学では、断定は出来ない可能性が高い…。
先天性と言う言葉をいわゆる「遺伝」ととるならば、ダウン症など染色体異常による疾患はほとんどが突然変異です。

>突然変異を引き起こした原因はなんなのか?
>たんなる確率の問題にすぎないのか?
確率の問題ですとしか言いようがありません。

>そんなこと考えたくもないですよね。
私は、あなたの例え話が無知からくる偏見だと言っているのです。
現実逃避のために確率の問題にしたいわけではありません。

繰り返しますが、科学的無知からくる偏見があるからといって、科学に文句を付けても仕方が無いということです。
例えば、「消防署の方から来ました」と言って高額の消火器を売りつける詐欺師がいるとします。それを消防署に対して「消防署がこんなところに建っているから、詐欺師がでるんだ!」と文句を言っても意味が無いですよね。
やるべきことは消防署の役割を理解して、「消防署の職員が消火器の訪問販売をすることは無い」という事実を知らせることではないですか?

>愚樵さん

障害者の母と書いたことで、気を使わせてしまったようですね。
不満はありませんが、必要以上に「物語」を汲み取ることもないでしょう。

「対話」のつもりですので

アルバイシンさん

>決して喧嘩を売りに来ているのではないことをご理解ください

はい。もちろん、理解してますよ。私はアルバイシンさんとは「対話」をしているつもりです。アルバイシンさんの方でもそうだと思っています。

で、ガン告知の譬えですが。

その譬えで言いますと、エントリーではもうひとり登場人物を増やさなければなりません。ガンを告知する医者(=「信じないでください」著者)、ガンを告知された患者(=『水伝』を取り上げた者)に加えた第三者です。

この第三者は医者の告知を傍で聞いて、患者に「これでオマエの人生は終わりだ」と言ったとします。私が批判の対象に考えているのは、この第三者なんです。

ガンが不治の病という認識が正しいとすると、患者の生命は残り少ないのは事実となりましょう。けれど、残り少ない生命だから“終わり”とするのか“いや、まだまだ”とするのかは患者本人の問題です。第三者が生命が残り少ないという科学的事実を受けて、患者に“終わり”という価値判断を押し付けようとするのは誤りだ、こうした者をニセ道徳者だ、といっているわけです。

この譬えですとニセ道徳者が誤っていることはすぐに理解できますが、けれどもし、ニセ道徳者が反論するならば
「命が残り少ないのは事実ではないか。それを終わりと言っても間違いではないではないか」
と言うでしょう。そのような反論が『水伝』を巡って行われているのではないのか、という批判なんです。

もし第三者が患者を批判したいのであれば、
「オレはオマエが嫌いだからオマエの命が残り少ないのは歓迎だ」
と、このように批判を行え、と主張しているのですね。「オレはオマエが嫌い」というのが「私」であり、ここに触れず、科学的事実に寄り添って批判を行うことを「私」を隠蔽する行為だと言っているのです。

poohさん

今時間がないので、後ほどまたお返事をいたしますが。

今、読んだ限りでは私とpoohさんとではニセ科学についての認識が異なっているように思えません。では、どこに認識のズレが生じたのか? 私は道徳の社会規範と内面意識は混同していないと思っています。「信じないでください」著者は社会規範としての道徳を述べた者として批判対象にしていないことは、上のアルバイシンさんへの回答でもご理解いただけると思いますが。

科学への信仰云々については、後ほど。


>> 科学は言葉が持つ様々な機能の中の1つ、と考えるのが正しいだろうと思います。

これは私の見解ですね。指し示す範囲としては 言葉>科学 だろう、と。それに対してpoorさんは「科学はひととひととのあいだにあるもの」と仰った。私はここに科学ではなく言葉を入れるべきだと主張した。ということは、私はpoorさんが科学=言葉だと考えているように捉えた、ということです。ですので、科学と言葉を(poorさんが)同一視しているのではないか? と言ったのです。

やはりよくわかりません

エントリ本文にある「道徳性」「反道徳性」は、「社会規範としての道徳」「内面意識としての道徳」のいずれについての謂なんでしょうか?

> 私はpoorさんが科学=言葉だと考えているように捉えた、ということです。ですので、科学と言葉を(poorさんが)同一視しているのではないか? と言ったのです。

文章力の未熟さについてはご容赦ください。ぼくはまったくそのようなことは云っていませんし、考えていません(ある切り口において同レイヤーにある、とは云えると思いますが、そのことによって「同一である」とはなりません)。

あと、途中からぼくに対する呼称が相違しているのは揶揄でしょうか?
(蔑称としてぼくのことを「poor」と呼び続けてらっしゃるかたがいらっしゃるので、そこからなんらかの意図を受け取るべきなのか、少々悩んでいます)

わかりました

愚樵さん,どうもご回答ありがとうございます.激越に殴りこんだみたいでどうも済みませんでした.
愚樵さんはお示しの第三者のことを一生懸命考えておられたのですね.私の関心はそこにはありませんでした.
そんなのは論外だからです.そういうことが生じているとしたらホントに悲しいですね.
私の方でも記事を建てて見ます.それについてもご意見お願いします.私はここはもう終わります.ありがとうございました兼すみませんでした.

どこかのだれかなら

「poor」さんにつき、「悪意を感じます。謝罪を要求します」と言いそうですな。
愚樵様、茶化しレス失礼。
さらに、遅れましたが、こちらでははじめまして。
ちょちょんまげと申します。

poohさん、横レスごめんなさい。
はじめまして、ちょちょんまげと申します。
ご活躍は良く存じ上げております。
自分でどこまで消化できているのかは、よくわかっていないのですが、いつも参考にさせていただいています。
「poor」さんについては、愚樵様の単なるミスでしょう。
しかし、うまく間違えたものだ、とは思ってしまいました。

痛恨の脊髄反射です。くりずさんへ

そうですね、子にとっては全て先天性ですね。
わたしが科学を罵倒したのは客観的に見て、無意味だし間違っている。
その時わたしは世間をさして『科学』と言っています。
それも痛恨の脊髄反射だったと感じています。
科学に善悪はありませんから。

よそのお庭で失礼します

> ちょちょんまげさん

はじめまして。

> しかし、うまく間違えたものだ、とは思ってしまいました。

なんて失礼な! ひどいことをおっしゃる。
(謝罪は要求しませんが(^^;)

揶揄は構わないんですけど、揶揄の意図がそこにあるかどうかで、対話の意義が変わってきてしまいます。なので、お尋ねして見ただけです。

アゼルバイシンさん、愚樵さんへ

痛いです…。
わたしと愚樵さんの立ち位置は違います。
ご存知のようにわたしは『言魂』という言説に一定の論理性を認めているのでお二人の否定は共に痛かったです。
一方科学の科学の権威性の否定を痛いと感じる方もいる。
同じ痛みではないでしょうか?

poohさん

>うまく間違えたものだ
いやぁ、ぐうぜん「揶揄」っぽくなるようにうまく「r」を押してしまったものだなぁ、と。
なんかあやふやな書き方になってしまいました。
悔い改めて謝罪いたします(^^;)

愚樵様、よごしてしまって、申し訳ありません。

それから、上記書き込みの「レス」は全て「コメント」と
読んでください。

すみません

 昨日今日と、パソコン触れなかったもので、慣れない携帯からアクセスしたもので、いろいろコメント欄の誤読もあり、送るタイミングも逸し、送信も不手際だらけです。
 愚樵さん、(アゼルバイシンさんも)、すみません!
 ひとつ重なっているコメントがあります。愚樵さん、よろしければ下のものを削除願います。

まず、お詫びを

poohさん、申し訳ありません。「poohさん」が「poorさん」になったのは、単にミスタッチです。いつまでたってもキーボードには慣れないみたいで。その上、確認もせずにコメントをあげてしまって、全く申し訳ございませんでした。たまたま“poor”という意味を含んだ言葉になってしまいましたが、他意はありません。どうかご理解ください。

>エントリ本文にある「道徳性」「反道徳性」は、「社会規範としての道徳」「内面意識としての道徳」のいずれについての謂なんでしょうか

まだpoohさんの問題意識を私は掴めておりませんが、一応、上の問いにお答えしておきますと、当エントリーで取り扱っている道徳は内面意識のほうです。それが前提です。そうでない場合(社会規範)の時には断りを入れています。以下の部分ですね。

>また、『水伝』=ニセ科学=反道徳と【語りえるもの】で道徳を(著者は)語ってはいるが、特定個人の批判にまでは及んでおらず、あくまで社会規範(【語りえるもの】としての体裁をとる必要がある)としての道徳の主張に留まっていること

私としては、当エントリーで取り扱う道徳の内容が内面意識になることは、前エントリーでのニセ道徳者の定義からして当然の流れだと思っていましたので。

>ぼくはまったくそのようなことは云っていませんし、考えていません

なるほど、では、それは措きましょう。ここは本筋ではないと思いますし。で、信仰云々についてです。

>語り得ないことを科学を用いて語るべきではない、それはニセ科学である

私は当エントリーで主張しているのは、この言説そのものが「精神物質分離信仰」のもとで為されたものだということです。「非分離信仰」のもとではそうならず、そこに『水伝』が〈信じられる〉要素があるということと、その際には科学が権威として作用している、と申し上げております。分離あるいは非分離信仰、権威を〈信じる〉、〈信じる〉は当エントリーに欠くべからざる要素です。

>科学を信じなければ、これは肯んじ得ないことなのでしょうか?

科学を「分離信仰」と置き換えるなら、答えはYesです。ただし、科学=「分離信仰」でないことは言うまでもありません。

*****

ちょちょんまげさん

ようこそ。

論外が横行するのが世の常

アルバイシンさん

>そんなのは論外だからです.そういうことが生じているとしたらホントに悲しいですね.

本エントリーで対象としたのは『水伝』でしたが、同様のことは至る所で起こっています。少し古いところではイラクで事件に巻き込まれた者に対する自己責任批判、記憶に新しいところでは夜間に外出して犯罪に巻き込まれた女性への道徳的批判。愛国心などもあたかも【語りえるもの】として論じられ、子供たちに教育されようとしています。ここで取り上げたニセ道徳者は至る所にいて、それも高い社会的地位にあるものほどニセ道徳者に成り下がっていくという傾向があります。決して珍しい現象ではないと思っています。

*****

naokoさん

ミスは誰にもあること、私もここではミスをしでかしています。それから自分の「物語」は、上手に語れなくてもいいのではないでしょうか? 

あと、もうひとつ。私は決して『言霊』を否定いるわけではありません。アルバイシンさんもおそらくは同じだと思いますよ。

私を隠蔽して他者を批判

愚樵様
おじゃまいたします。

なるほど、ここまでの皆様の諸コメントを読んで、ようやく愚樵様のおっしゃりたいことがなんとなく見えてきました。

もし、「私を隠蔽して他者を批判することは好ましくない」が、「自分を絶対の安全地帯において(例えば「科学的な正しさを盾にして」)の他者批判は説得力を欠く」というような意味でしたら、同意できる部分はあります。(誤読でしたら、指摘してください)

しかし、愚樵様があげられた「オレはオマエが嫌いだからオマエの命が残り少ないのは歓迎だ」が真っ当な批判、批判法であるならば、「イラクで事件に巻き込まれた者に対する自己責任批判」は、極めて真っ当な批判、批判法ではありませんか?

私が覚えている限り、多くの批判者は「私はあんたらが気に入らない」という「私」を前面に出していたと思いますし、「国が行くなと言ったのに行きやがった」のような諸言説は、「なぜ気に入らないのか」の
説明部分でしょう。

上記、「イラクで事件に巻き込まれた者に対する自己責任批判」を愚樵様が「論外」とお感じになるのは、「批判法」であるよりは「批判内容」ではないですか。だとすると、本エントリーでの引用は適当でないと思いますが。

また、ほとんどの場合、「批判」というのは「私が前面」に出ているものだと思うのですが、いかがでしょう。(全く出ていないものを「指摘」と呼ぶのかもしれません。「批判」と「指摘」の線引きも難しいとは思いますが)
例えば、私がこれを書いているのは要するに愚樵様のお記事が「気に入らなかった」からでしょう。
そして、「気に入らなかった理由」を述べるならば「内容に納得できなかった」が主な理由になるのだと思います。
そして、「納得できなかった理由」をさらに述べるときに「科学的な正しさ」であったり「論理的かどうか」などを持ち出すことになるのだと考えます。
結局、「批判内容」がやはり「主」であり、「批判法」は「従」ではないでしょうか。

また、「自分を絶対の安全地帯においての他者批判は説得力を欠く」という私の読みが正しいとするならば、「明らかに社会的に差別を受けている方」が「差別発言者」を批判しても、説得力がないでしょうか。
自分を「差別されているもの」という全くの安全地帯(この議論においては)において発言しているわけですが。
もうひとつあげるならば、「常温核融合で地震」の国会議員に物理学者が自分の専門分野につき批判したら「私を隠蔽」しての批判ですか?「科学の権威」を盾にしてますけど。
まぁ、本当の物理学者でしたら、虎の威を借る狐でなく本当の虎なわけですが。


改竄

愚樵様
おはようございます。
横レスです。すいません。

>「私を隠蔽して他者を批判することは好ましくない」が、「自分を絶対の安全地帯において(例えば「科学的な正しさを盾にして」)の他者批判は説得力を欠く」というような意味でしたら

言ってることまるっきり違う、ような気がします

あたしには愚樵さんの

>「私を隠蔽して他者を批判することは好ましくない」

これは

「自分を絶対の安全地帯において(例えば「科学的な正しさを盾にして」)の言論は説得力を持つため、そこからの個人に対する批判は、弱いもの虐めに見えなくもないよ(=見苦しい)」

っていうふうに読み取れました。

間違えてたらごめんなさい。でも、間違いとかそういう問題でもないような気がする。

連投ごめんなさい

愚樵様
長くなって申し訳ありませんが、続きます。

>“物質現象と精神現象は分離したもの”という思考方法を刷り込まれるのである。
>この刷り込みは、あるいは信仰と言ってもよいかもしれない。
>これはルール違反であり反道徳的とされても致し方ない。

これは別に刷り込まれているとか、信仰しているとか、「精神物質分離」がルール化されている、とかいう話ではないでしょう。
「精神物質非分離」が今まで科学理論を組み立てていく上で、ほとんど必要でなかった、考慮しなくてもうまくいってたから考慮する必要がなかった、というだけの話しじゃないですか。(「観測問題」や「人間原理」のところで、チラと顔を出すようですけど。でも顔を出す、ということが、「洗脳」でないという証拠にもなると思うんですけど)

余計なものをいちいち拾い上げていたらきりがないです。
飛行機を飛ばすのに、「地球がお皿のような形をしていて淵からザァザァ水が流れ落ちている可能性」を科学が100%否定できないからといって、いちいちその可能性を考慮しないでしょ?「人命に関わる」、とか言う奴がいるんでしょうか。一般的にはそれを「屁理屈」と呼ぶと思うんですけど。

>終着点に到着してみて初めて“物質と精神が分離しているか否か”明確に言明できる。もし、終着点に「Something >Great」のような存在がいたとしたら、『水伝』で主張されているような奇跡も全否定はできない。)

ここに行き着けたとしたら、まさしく「従来の科学的方法論の勝利」だと思うんですけど(笑)

それから、「言霊」って私はよく知らないんですが、ざっと調べた限りでは、「水伝」と「どっこい」じゃないんでしょうか。(そうでない、という証拠をお持ちでしたら、ご紹介していただけたら幸いです)
まぁ、信じたい人が脳のなかに飼っているぶんには文句ないですけど。

gon様

愚樵様
再連投ごめんなさい。

>gon様
ご意見ありがとうございます。
おっしゃりたいこと、わからないではないのですが、もう少し「説得力を持つ批判」が「個人」に向かったときになぜ「見苦しい」のかご説明いただけたらうれしく思います。

それから、お題の「改竄」ですが、もし私への揶揄でしたら、私は「改竄」していません。

>というような意味でしたら、同意できる部分はあります。(誤読でしたら、指摘してください)

と記述しています。

改竄>文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう。「大辞林 第二版」

このgon様の「お題」に関する部分が私のかんぐりにすぎなかったとしたらご指摘ください。
撤回して、謝罪いたします。



お気に召すまま

>なぜ「見苦しい」のかご説明いただけたらうれしく思います。

やだ。

と言いたいところだけど、それだとあまりにも不誠実だから(別に不誠実だととられてもいいんだけど、そのことであたしの言ってることがまったくデタラメだととらえられるのがイヤだから)

例として「ナチスの優性思想」をあげときます。

説得「力」なんてのはどれだけ多くの人がその話の信憑性を疑わずに認めようとするか。(ということだとあたしは思っている)だからそのあるなしに人間性は関係ない。その説得「力」をどのように使うか、ということに人間性のよしあしを見る。(私は)

私は、バカにも人権をよこせと言っている実際のバカに、そのバカさ加減を見せ付けて、お前はバカだから俺ら利口なものの7分くらいな、と言ってる知識「人」は見苦しい、と言っている。

私みたいなバカにだって人権はある。平等に。だからそれを要求する権利もある。それをかき消そうとするな。というのが、私の主張。

コメントタイトルは、「改竄」について。お気に召すままお受け取りください。ということです。

愚樵様 毎度汚しちゃってすみません

>gon様

>お気に召すままお受け取りください。

ということなので、私への「誹謗中傷」であると受け取ります。
事実として、「改竄」しておりませんので。
「人間性のよしあしを見る」という発言を堂々となさる方のやりようとはとても思えないです。

面白いお人だ

ご自分で「改竄」を否定しておいて、

>というような意味でしたら、同意できる部分はあります。(誤読でしたら、指摘してください)

それを「誹謗中傷」と受け取る。

何のためですか?

それをとって「こいつの論理はデタラメだ」とがなり立てるためでしたらごカンベンくださいね。

「誹謗中傷」されたとわたしを「中傷」することは、どうぞご自由に。それに関しては、こちらにいらしてくれた方が判断なさるでしょう。

わたしはあなたの「誤読」を指摘しません。他の方にお任せしますよ。

一言

>「科学を信じないでください」と言うべきだったのだ。

ではなく「『水伝』は科学ではありません。」と言うべきです。

横レス上塗りですが

これは

>「自分を絶対の安全地帯において(例えば「科学的な正しさを盾にして」)の言論は説得力を持つため、そこからの個人に対する批判は、弱いもの虐めに見えなくもないよ(=見苦しい)」

っていうふうに読み取れました。

このgonさんのコメントは、よくお玉さんがおっしゃってる、「中道」はあり得るのか?という問いにつながっていると考えます。
「説得力を持つため」というより、「一見説得力を持って入るように見える」ということ。
自分は「中道」「事実を重視するのみ」と力説しつつ、否応なく「派閥抗争」に巻き込まれ、一方のアイコンに祭り上げられてる「事実」を完全無視している方も見受けられます。
私自身は、「責めはしないが、そういう人には与しない」という立場をとるものであるということを鮮明にしておきます。

・・・ただ、この世は二元論で割り切れるほど楽なもんじゃなく、てめーと「反対」の立場の方の言うことにうなずけることもあるんですが。

音楽文学映画マンガなどの表現においては、「ロクでなしだと思うしリアルでは一切お近づきになりたくないがこの一行にはサレンダー」っていうことがありますからね。

了解しました

> 「poohさん」が「poorさん」になったのは、単にミスタッチです。

了解しました。くだらない詮索をして申し訳ありませんでした。
(正直「言い得て妙」とも思っていますし、現在のぼくの状況から客観的に見てそのように云われてもおかしくないよなぁ、とは思います)

> そこに『水伝』が〈信じられる〉要素があるということと、その際には科学が権威として作用している、と申し上げております。

このこと自体には同意(そう云う側面がある、と考えている、と云う意味合いで)なのですが、やはり「分離信仰」「非分離信仰」の部分がよく分かりません。前提として論を構築する、と云うのと、信仰する、と云うのは違うと思います。
なので、この部分はなおさら分かりません。

> 科学を「分離信仰」と置き換えるなら、答えはYesです。ただし、科学=「分離信仰」でないことは言うまでもありません

では「分離信仰」とはなんなのでしょう?

gon様

おっしゃっていることの内容につき、訳がわからなくてゲシュタルト崩壊でも起こしそうなので、
ここまでにしておきます。
ご自愛のほど。
愚樵様、何度もごめんなさい。

近代合理精神です

poohさん、ご了承いただきありがとうございました。

ミスタッチをしたのは、“pooh”の綴りを勝手に「プア」と読み替えていたのだと思います。それで自然に指がp.o.o.r と叩いたのでしょうね。「プア」ではなく「プー」だと意識したら、ちゃんと p.o.o.h と叩くようになりました...。

言い訳ではありませんが、人間なんは“勝手に読み替える”ものなんですね。論理は“勝手な読み替え”を訂正するためにも大切なんですね。けれど、すべてがすべて、“勝手に読み替え”てはいけない、というものでもない。「対話」は人間が“勝手に読み替える”ということが前提で、その“読み替え”を共有しようとする営みです。ですから論理とは相容れない部分がどうしても出てくる。論理にだって弊害はあって、論理の濫用は人間を傷つけることになるのです。

...と、前置きが長くなってしまいましたが、「分離信仰」とは近代合理精神、近代合理主義、「コギトエルゴスム」、「われ思う、ゆえにわれ在り」です。

デカルトは「コギト」を発見することで精神と肉体を分離してしまいました。ここから物質と精神の分離が始まります。科学の祖とされるガリレオだってニュートンだって、現代でいう科学者だったわけではない。彼らだって物質と精神が分離しているだなどとは信じていませんでした。彼らは自分たちの発見が、「われ」と物質とを結ぶ【神】の法則の一部だと固く信じていたのです。

デカルトが「コギト」を発見したのは、人間が進化したからではありません。絶望したからです。弱かったがゆえに、デカルトは「コギト」を発見し、周囲の者はデカルトの「コギト」を受け入れた。人間が物質精神非分離を信仰するのは弱いからですが、分離を信じるのだって同じことなのです。

分離から出発した科学は確かに大きな成果を挙げていますが、それでも、デカルトの絶望から出発した分離の【弱さ】は超克できていません。その【弱さ】があるから『水伝』を信奉する者を批判するのです。「われ」の【弱さ】から目を背けるために。「私」を隠蔽するのは「われ」の【弱さ】から目を背けるためです。

科学は「道具」です

愚樵さん、はじめまして。
いきなり横レス失礼しますが科学の末席に座る者として少し。

>人間が物質精神非分離を信仰するのは弱いからですが、分離を信じるのだって同じことなのです。

人文科学がどうかは知りませんが、自然科学は基本的に人の強さ弱さなど扱いません。
そこは自然科学の領域ではありませんから。

>その【弱さ】があるから『水伝』を信奉する者を批判するのです。「われ」の【弱さ】から目を背けるために。「私」を隠蔽するのは「われ」の【弱さ】から目を背けるためです。

これは完全に科学や科学者への理解が間違っています。
科学者はまず自らではなく、「科学という道具」を通して見た場合にどうなのかと考えます。
それは「われ」の隠蔽などではなく、「科学という道具」がそういう「道具」だからであり、それ以上の理由はありません。
何故ならば科学という「道具」を正しく有効に機能させるにはそれが必要だからです。

科学を人間的な側面からどれだけ考察しても、これは変わることの無い科学の原理原則です。

従って、科学が「道具」であるという視点を欠いてニセ科学関係における科学側を考察しても、それは全て(科学側から見て)完全に的を外す事になります。

科学が道具であるという視点から

その道具を操る人間を考察していると思うのですが…。
結局、批判するのも擁護するのも「人間」であり、どんな有用な道具も、用いる人間に左右されるのではないでFしょうか?
それは、構造物の製作のように、正確に用いればよいとか、そういう問題ではないと思う。
なぜなら、科学は人間を測ることができないから。
その時、人間の内面の科学で測ることの出来ない部分を、「不合理」と考えるか、なおそこに「合理」があると考えるかによって、科学で測れない人間の内面に対して‘侮蔑’を感じるかどうかの分かれ道になる気がします。
同時に、道具としての科学の「有限性」への自覚の濃淡にも、個人差が生じるのではないでしょうか?

拭いきれないではなく、まず最初に

水の結晶という科学的現象を用いてきれいな言葉を使うように勧める人をニセ道徳者と呼ぶべきなのではないでしょうか?
またニセ科学を利用してマルチまがい商法や詐欺的商法で買い手をだます人に対抗するため、論理面での対抗法を提供している人をニセ道徳者と呼ぶ道義的理由は何でしょうか?

ニセ科学批判って狼少年だったんだねで終了

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