愚慫空論

【語りえぬもの】を語る姿勢

一つ前のエントリー『科学は陰謀説から生まれた』をあげたときから、このエントリーは書く心積もりでいた。むしろ、企図していたのはこちらの方が先だったかもしれない。

私のなかには「表現したいこと」の中核は間違いなく存在する。だがそれは【語りえぬもの】である。語りえぬことは承知しているが、それでも語りたい。だから思案する。語りえぬことをどのように表現しようかと。

今回のエントリーについても、いろいろと表現方法を思案した。表現のためのプロットをさまざまに練った。【語りえぬもの】は、逆に言うとどのようにでも語りえる。だからかえって難しいのかもしれない。迷いだすと限がなくなってしまう。思索の迷宮に迷い込む。今回もそうした迷宮に迷い込みそうになっていたのだけれど、そこへ迷いから抜け出す道しるべを示してくれた人がいた。

その人は、瀬戸智子さん。瀬戸智子の枕草子『戸坂潤の道徳論を読む』の中にあった戸坂潤の言葉

「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」

が思索の迷宮から抜け出す道しるべになった。今回のエントリーは、この格調高い言葉に私なりの泥臭い行き方で迫ることをもって内容としたい。


まず「科学的認識の上での論理」から。これは一体どういうことか。前回のエントリーの一部をもう一度、引っ張ってきてみる。

観察者】→【現象】→【陰謀者=神】

の【陰謀者=神】が抜け落ち、

【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・

と果てしなく続いていくことになったのが科学。

この【現象】と【現象】を結ぶのが論理実証主義だとした。

「論理」とは言い換えれば「限定」である。論理実証とは、この言い換えに従うと、その「限定」は常に反復・再現されることが証明されるということだ。つまり、一度でも反復・再現されない事態が起きると、「限定」は破れ「論理」は破綻する。もし【神】が存在するなら奇跡も起こりえるわけだからこうした「限定」に拘る必要はないのだが、【神】が抜け落ちた以上、奇跡は起こらない。だから「限定」の破れは直ちに破棄され別の「限定」に切り替えるか、「限定」の形を少し修正して綻びを繕うかしなければならない。「限定」はさらに「仮説」と言い換えることも出来る。科学という営為は仮説の検証を繰り返すこと、と言ってもいいだろう。

もう少し「限定」の意味に言及しよう。

「空が青い」という【現象】がある。科学はこの【現象】を捉えてなぜ空が青いか、その原因を追究する。「限定」というのは、空が青い原因に全ての可能性は考慮されない――たとえば、地球に月という衛星があるという【現象】とは関連はない――ということである。空が青いのは「太陽が可視光線を発している」という【現象】と関連し、「可視光が様々な波長からなる光である」という【現象】と関連し、「青以外の波長の光は空気に吸収される」という【現象】へ「限定」されていく(本当は吸収ではなく、錯乱という現象が起きているんだけど)。

これが「科学的認識のうえでの論理」である。

*****

では次に、「道徳的意識のうえでの節操」とは何か? これも「限定」という言葉で語ってみたい。道徳が人間の行動を制約する、限定するものであることは言うまでもない。問題は「限定」がなぜ「節操」なのか? である。

道徳には、大雑把に言うと2つの側面がある。社会規範としての道徳と、個人の内面意識としての道徳。どちらも人間の行動を「限定」するものだが、その「限定」のあり方は社会規範と内面意識とでは大きく違う。すなわち、前者が外部からの「限定」であるのに対し、後者は内部からの「限定」である。「道徳的意識」というからにはここで取り上げる道徳は後者になる。が、もちろん社会規範たる道徳と無関係というわけではない。

社会規範としての道徳は、『〈子ども〉のための哲学』の著者永井均の言い方を借りれば、ウソ、虚構、まやかしである。ただし、それは社会にとって必要な善いウソだという。戸坂潤は、同様のことを“道徳を善価値だと考えて片づける”“道徳の不変性”という言葉を用い、その不変性を否定することで表現している(ようだ)。その不変性を否定する原動力が内面意識としての道徳である。

科学は【現象】と【現象】のつながりを「限定」し、その「限定」の営為が限りなく連続していくもの。道徳にも同様のことが言えると思う。ただし道徳の場合(内面意識)には「限定」でつながっていくのは人間の意志が関わらない【現象】(=【語りえるもの】)ではなくて、人間の意志が関わる【行為】や【言葉】(=【語りえぬもの】)であるのだけれども。科学も道徳も、「限定」を追究していくという点においては同様の行為である。

(ここで少しわき道へ。科学の場合、この「限定」の連続は【神】が抜け落ちたことで始まったとしたが、道徳の場合はむしろ【神】が「限定」を連続させる原動力になっているように見える。これはどういうわけだろう? また別に機会を設けて考えてみたい。)

戸坂潤が道徳における「限定」を「節操」と呼んだのは、これが人間ひとりひとりの内面追及であることが理由のひとつであるように思う。だが、理由はそれだけではないようにも思える。道徳は【語りえぬもの】であることもまた「節操」と呼んだ理由なのではあるまいか? 【語りえぬもの】をあたかも【語りえるもの】のように語ってはいけない、という意味での「節操」。しかし、社会規範としての道徳は【語りえるもの】としての体裁をとらないと、社会規範として機能しないという矛盾もある。社会規範が【語りえぬもの】であることが暴かれてしまうと、道徳は外部から「限定」するものとしての効力を失ってしまう。永井均が社会規範としての道徳を「善きウソ」といったのは、道徳が【語りえるもの】の体裁をとらざるをえないことを「ウソ」と言いつつ、かといって、社会は人間ひとりひとりの内面意識だけでは秩序が保てないことを考慮して、その「ウソ」を必要なもの、社会としては「善きもの」だと捉えたからだろう。

【語りえぬもの】を【語りえるもの】のように語ってはいけないと言いながら、【語りえるもの】の体裁がなければ機能しない道徳。では、どのように「節操」すればよいというのか? なかなか悩ましい問題のように見える。しかし、答えは単純。社会に対して用いるときの道徳と、人間ひとりひとりに対して用いるときの道徳を区別すればよいだけの話。この区別もまた「節操」であるように思う。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」といったヴィトゲンシュタインは、それでも語りたかったのであろう、後に【語りえぬもの】についても言及し、【語りえぬもの】について語ることを「言語ゲーム」だとした。“哲学は世界を言い当てようとする言語ゲームだ”といったような発言をしている。

言語は他者との意思疎通のための道具であるけれども、【語りえぬもの】については「言語ゲーム」であるということは、その言語は言い表そうとしている対象と完全なる対称を成していないということだ。にもかかわらず、人間は意思疎通を図り、コミュニケーションしようと希望し、自分が言い表そうとしているものを不完全な言語に託して伝えようとし、相手が言い表そうとしているものを不完全か言語から読み取ろうとする。自分の言葉の根っこを表現しようとし、相手の言葉の根っこを探ろうとする――すなわち「対話」をしようとする。

道徳を社会に対してではなく、個人に対して適用しようとするとき――ある個人の言動が道徳的かどうかを判断しようとするとき――には、道徳を【語りえるもの】として適用してはならない。科学者は【現象】を客観的捉えなければならないのと同様、道徳者はある特定個人の【行為】や【言葉】を【語りえぬもの】として捉え、「対話」をしなければならない。それが道徳者としての「節操」であろう。

「科学的認識のうえでの論理の欠乏は、道徳的意識のうえでの節操の欠乏に対応する」

論理の欠乏した科学者はニセ科学者と呼ばれる。ならばに「節操」の欠乏した道徳者もニセ道徳者であろう。

コメント

難しいです。

しかも、どう受け取ってよいものか、判断が出来ずに、頭が‘真っ白’になる部分が…。
「ある個人の言動が道徳的かどうかを判断しようとするとき、道徳を‘語りえるもの’として適用してはならない」
うわあ、自分のことが言われているような気がして、しっかり理解したいのに、理解が及びません…。
「節操」の欠乏したニセ道徳者って?

暴走気味ですかね?

naokoさん

>ある個人の言動が道徳的かどうかを判断しようとするとき、道徳を‘語りえるもの’として適用してはならない

まず、道徳は「語りえぬもの」としての前提があります。「語りえぬもの」ということは、明確な基準にならない、ということです。ですので言い換えると、

「ある個人の言動が道徳的か層かを判断しようとするとき、明確な基準をもって判断してはならない 」

すなわち、相手と「言語ゲーム=対話」を行って判断するか、そうでなければ明確な判断は下せないということになります。こうした姿勢が「節操」です。

>「節操」の欠乏したニセ道徳者

明確な基準を適用しようとする者ですね。少し具体的に言いますと、科学的か否かの基準、論理的であるか否かの基準を(正しいか、誤っているか)、道徳的判断(善いか、悪いか)に適用しようとする者です。

なるほど

つまり、個人の言動に対して、「如何なる場合も『嘲笑』はいけない」という‘明確な基準’を持って判断したわたしは、節操のない‘エセ道徳者’ということですね。そして、それを愚樵さんは暴走気味とおっしゃっているのですね。
つまり、相手は具体的な個人の行動に対する評価を求めてきたのに対し、わたしは社会規範としての‘うそ’を相手に明示した。これは対話としてフェアではない。はなはだ恣意的である、ということでしょうか?(つまり、かなり感情的になっている…。)
他にもわたしの言動に関して、愚樵さんから見て、「節操がない」と考えられる事例がありましたら、示唆していただけるとありがたいです。
つまり、まだ「暴走」の意味が、あまりわかっていません。

こんにちは!

こちらではご無沙汰しております。最近一段と難しいですね(汗)。今回も四苦八苦して読ませていただきましたが naoko様とのやりとりでやっとこさ紐解けました。naoko様どうもありがとうございました。

いえいえ、違います!

naokoさん、そうじゃなくて。

朝のお返事は舌足らずでしたね。暴走気味としたのは、私自身のことです。“難しい”と言われたので“暴走気味かな?”とお答えしたのです。誤解を招いたようで、申し訳ありません。

また「いかなる場合も嘲笑してはいけない」についてですが。これが個人の基準(つまり個人の決意)であるならば何の問題もありませんし、他人に個人の基準とするべきだと勧めることも道徳的だと考えます(これを拒否する個人を不道徳とすることはできるでしょう)。しかし、これを社会的規範とし、嘲笑したものは例外なく不道徳だ、とするなら問題が生じてきます。

おそらく、これを社会規範としたとたん、「何をもって嘲笑とするのか」といった議論が始まるでしょう。この議論が不毛なものになるであろうことは、想像がつくと思います。ある個人の行動が嘲笑であるかどうかに絶対的な基準など設けようがありませんが、社会規範となればその基準を設けなければなりません。もしその基準が曖昧で特定の者に恣意的に運用されることになると、これは非常に恐ろしいことになります。

道徳が道徳的であるには、ある程度(ある程度としか言いようがありません)の不道徳を許容する必要があるのだと思います。

ママちゃん、お久しぶりです

こちらにお出でになるのは久しぶりですね。いえ、覗いては頂いてたのですね。

いつもわけのわからないようなことを書いてますが、今回のは特に抽象的な話ばっかりだったので、余計にわけがわからなかったかもしれません。一人相撲になってましたかね。反省。

あとで考えたのですが、裁判を例として挙がればよかったですね。刑事裁判。

ある者が犯罪を犯して、法廷で裁かれる。ここでは窃盗を犯したとしましょうか。法廷ではまず、犯罪事実についての事実認定がなされるわけですが、これはあくまで客観的に事実を認定しなければなりません。この事実認定は裁判の一番重要な部分でしょうけれども、でも、これだけで量刑が判断されるわけではありませんよね。犯罪者の動機やら、反省の態度なんかが量刑には考慮されます。遊ぶ金欲しさに盗みに入って反省もしていない者と、貧乏でどうしようもなくて盗んでしまったが罪を深く反省している者とでは、同じモノを盗んだとしても量刑は当然違う。

事実認定は「語りえるもの」、動機や反省が「語りえないもの」。事実認定は犯人が誰であれ同様になされなければなりませんが、動機や反省の態度を斟酌した情状酌量は、裁判官が犯罪者個人と向き合って、裁判官の自由な心証に基づいて判断するしかない(これが「対話」です)。情状酌量の幅は裁判官が変れば違ったものになるのでしょうけれど、違ったものになるからといって事実認定だけで機械的に量刑を決めるのもおかしい。

これは近代国家の裁判が単に罪を裁くだけでなく、裁判を通じてモラルを維持する役割、つまり道徳的な役割があるからなのですが、道徳的であろうとすると、どうしても「語りえないもの」を勘案に入れなければならなくなる。罪を裁くだけなら事実認定だけでいいわけですからね。

そうですね

すみません。最近、誤読が多い…。
ようやく、本当に理解できました。
わたしも同じように感じ、考えます。
そのある程度の不道徳の幅に対する許容度は、人間関係の距離によるものと、ある意味、その場に対する義務感などで変化するとは思います。
さらには相手とちゃんと向き合っているかどうか、つまり真摯な対話・交流の意思ですね。
これの通じないところでは、社会的道徳規範も含めて、およそ‘文化’がまったく育たないという気がします。

民主主義の難しさ

>「語りえぬもの」を「語りえるもの」のように語ってはいけないと言いながら、「語りえるもの」の体裁がなければ機能しない道徳。では、どのように「節操」すればよいというのか?

「語りえるもの」を「語りえるもの」のように「語ろうとする」ことは、指摘のように「道徳」という「自分対社会」「自分対他人」という関係性の視点もさることながら、「自分自身、その道徳を理解しているのか?」という確認という意味での機能もあるんだろうと思う。
言葉というのは、他人とのコミュニケーションの道具にとどまらず、自分自身の内面に向けての機能も有するわけで、一概に批判されるべきものではないだろう。
ただ、「語りえるもののように語ってはいけない」というのは、おそらく「本来、踏まえるべきものであって、それを逸脱していることを意識した上で、語っていくものだ」という注意喚起という意味合いも込められていると思う。

>なかなか悩ましい問題のように見える。しかし、答えは単純。社会に対して用いるときの道徳と、人間ひとりひとりに対して用いるときの道徳を区別すればよいだけの話。この区別もまた「節操」であるように思う。

では、その「区別のライン」はどこに設定すべきなのか?これが次の課題として生まれるように思う。
確かに言葉としては単純明快であり、そのことに疑問を持つ人も少ないように思う。しかし、具体的にそれは何か、という疑問が呈された場合、きっと「答え」は苦悩すると感じる。
社会の中で生きることができる人間などないし、人間は2人いれば、その間で「社会」が生まれる。1人でいるつもりでも、絶えず社会とは身近に関わっていることなどいくらでもある。
『権利と義務』『自由と責任』がよく言われるが、私は、それが対立概念ではなく「同じもの」だと考えている点は、実はそこにある。
単純なようで、複雑怪奇なことを突きつけられた気分だが、普段の生活も、特にこれらを意識せず、考えていなくても、それに取り組んでいるのだろうと、私は思っているが。

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