愚慫空論

科学は陰謀説から生まれた

少々挑発的なタイトルになった(笑)。

タイトルでは端折ったが、科学とは近代科学、とりわけ自然科学のことである。「科学」と称される知的体系は古代から、そして世界中の文明に存在したが、論理実証主義を基礎とした近代科学が産まれたのにはキリスト教の影響が大であったとするのは、定説といってよいと思う。

近代科学はキリスト教から生まれたのか? そう、タイトルはそういう意味でもある。では、キリスト教は陰謀説だというのか? 各所から非難の声が挙がりそうだが、そうだと答えておこう。ただし、これは単なるレトリックでしかないことは明記しておく。


まず、陰謀説について考えてみる。

陰謀説でググッてみると、実に様々な陰謀説が引っかかってくる。9.11同時多発テロ、アポロ計画、ダイアナ殺害、ケネディ暗殺・・・。枚挙に暇がないとは、こういうことを指して言うのだろう。

陰謀説とは、ごく簡単にいってみれば、ある現象の背後にその現象を企図した者を想定する思考のことである。現代にこれだけ陰謀説が蔓延っているのは、単に、陰謀が為された事実があるから、というだけではなさそうだ。現代人は陰謀説を生み出す思考に陥りやすい傾向にある、ということも言えそうである。陰謀説と聞くと眉に唾する人も多いが、これはひとつの見識だろう。

だが、人間がいつの時代もまたどの地域でも、陰謀説に陥りやすい思考をする傾向があったかというと、それは疑問である。陰謀説が成立するにはそれなりの条件が必要で、現代はその条件が成立している社会である、ということだ。条件とは世界観と言い換えてもいい。

陰謀説は【観察者】→【現象】→【陰謀者】という構図が成立している。【観察者】が直接【陰謀者】を知っている場合は、為された行為を陰謀と呼ぶにしても、それを陰謀説と言うことはない。【観察者】→【陰謀者】→【現象】では陰謀説は成立しない。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、【観察者】→【現象】→【陰謀者】といった思考は、ある時代にある地域で生まれたローカルな思考法でしかなかったものだ。その思考法が広く普及して、私たちもその思考法に慣れ親しんでいるので当たり前と思ってしまうが、実はそう当たり前のことでもないのである。

【観察者】→【現象】→【陰謀者】という思考は、ある世界観を背景にしている。もちろんキリスト教の世界観である。それは神が世界を創造した、とする世界観だ。端的に言うと、【観察者】→【現象】→【陰謀者】=【人間】→【世界】→【創造神】である。【世界】と【創造神】とが分離しているところがミソだ。

世界にはキリスト教のような一神教のほかにも多神教がある。わが日本も多神教を育む風土だが、多神教の世界観では【世界】と【神】とは分離していない。多神教のどのような神話にでも世界を創造した神は登場してはくるが、それらの神は一神教の創造神ほどの重要性はない。ただ、世界を創造しただけで、主役は他の神に譲り渡すことが多い。日本神話ではイザナギ・イザナミの2人の神であり、ギリシャ神話では最初のカオスがあって、それからガイアやなんやらと誕生してくる。双方とも、主役はアマテラスやゼウスに譲り渡す。そしてそれらの【神】は【世界】の中で活動しているのである。

多神教的世界観でも、何か現象が起こったときにその背景を推測するといったことをしないわけではない。けれども、それは単一の原理への追求にならず、多数あると考えられている原理のどの原理が発動したのか、と、そういった思考法になる。その判定をするのは感性――なので、神託を受けたり、占いをしたり、なんてことになってしまう。こうした世界観からは、陰謀説思考は生まれにくい。

では一神教の世界観が陰謀説を生み出すのかというと、必ずしもそうではない。ムスリム――イムラム教徒――は「インシャ・アラー(神のみぞ知る)」という言葉をよく口にするというが、この言葉の背景にあるのは【創造神】→【世界】の世界観である。イスラム教は、全ての現象を【神】の意思の発動として捉える。ムスリムが「インシャ・アラー」と言って約束を守らなくても悪びれないのは、この世界観があるから。私が約束を守れなかったのは、【神】の意思である・・・。ここでも陰謀説は生まれにくい。

キリスト教の世界観では、同じ一神教でもイスラムほど【神】の意思を全面的に捉えるわけではない。【神】は【世界】を創造し【世界】を動かす法則を定めたが、その後は【世界】への直接介入はあまりしなくなった。だが【世界】の背後には【神】を常に想定している・・・。陰謀説思考が生じやすいのは、このような世界観である。


大胆に言ってしまえば、【創造神】こそ最強にして最大の陰謀者である。近代科学は【創造神】の陰謀を暴くために生み出されたといってもいいかもしれない。【創造神】が定めた法則を解明することは、言葉は悪いがそのように言い換えることも出来よう。だが、陰謀を暴く企てが近代科学として脱皮したのは、【神】が抜け落ちてしまったからである。

【観察者】→【現象】→【陰謀者=神】

の【陰謀者=神】が抜け落ち、

【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・

と果てしなく続いていくことになったのが科学。最大の陰謀説は、最大の陰謀者が去って科学へと脱皮した。そして【現象】と【現象】を結ぶのが論理実証主義である。


キリスト教世界観から【神】が抜け落ちたことには、近代科学を生むと同時にもうひとつの副作用があった。それが科学と道徳の分離である。

【現象】が【神】と関連付けられているときには、【現象】の解釈には道徳性が付随した。【神】は世界を創造したものであると同時に道徳の根源であるのだから、これは当然のことである。しかし近代科学で【神】が抜け落ちると、【現象】の解釈への道徳性もまた抜け落ちた。道徳性が抜け落ちた解釈、論理実証主義の特徴はここにあるといってもよいかもしれない。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」

この言葉を語ったヴィトゲンシュタインは、形而上学を問題化できないものを問題化していると規定し、それを「語りえぬもの」と言った。道徳はもちろん、形而上学である。

コメント

現象現象と真理真理

愚樵さん,どうもお騒がせしました.ところで,この話題はとても興味を引くものです.だからちょっとだけコメントさせていただいてまた酒の席へ戻ります.

さて,
【観察者】→【現象】→【陰謀者=神】
とありますが,最後の神(の考えとするお伝え)は一体どうやって我々にわかったのでしょう?
恐らく何かの書き物ですね.その書き物は誰が書いたのでしょう?恐らくそれは人間です.すると,その陰謀と思われる現象,道徳基準,諸々は誰か人間(賢人としましょう)が書いて,それをそうだなぁと我々凡人が思うに過ぎません.するとその賢人はどうしてそれが最上の道徳基準と判断できたのでしょうか?神から直接聞いたのですか?もしそうでなければ・・・
恐らくその賢人が自分でその基準を作ったに違いありません.どちらかです.
すると結局,最初の
【観察者】→【現象】→【陰謀者=神】
説は右端が(賢人といえども)人間に過ぎないわけです.すると
【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・
というのと同じ,むしろ健全だと思えます.
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」
というのは当然の言明ですが,ただ
【現象】→【現象】→・・・
の無限連鎖のまだ現れていない部分のみだと思います.
それではまた.

一神教の強さと多神教の柔軟さ

実はどちらにも、惹かれるのです。
そして、古神道のアニミズム(精霊信仰)や、汎神論的在り方にも、さらに強く惹かれます。
そして、わたしにとって最も難解なのは、実は仏教だったりします。(でも、惹かれてもいます。)
語りえぬものを、何とかして語り伝えようとしてきた人間の営みの歴史に感謝します。

すみません

健全と思うのは最後に神が現れない方です.
【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・
の方が健全ということです.済みません.

逆の意味に取られそうな表現でした.済みません.

現代は『神が想像してない所まで人間は行ってしまった』様な気がしています.

私は頭が悪そうだ~~~

こんにちは。
何回もエントリーを読ませていただきました。

残念ながら理解できない私は頭が悪そうだ~~~(^^;

そもそもはレトリックから始まって、説を展開されると、
すごく不安なのです。
どこで「ドンデンがえし」がくるかと。
結局、ドンデンはなくて、そのままストレートではあったのですが、
では、ということで読み返せば、最初と最後が整合しない(私の中でですが)。
これは読者の力量に任せられるのだろうか???

やっぱり分からない私は頭が悪い(^^;
いずれ科学と哲学について考察を企てたいと思っていますので、その折はご意見お聞かせくださいね(^.^)

感心しません

はっきり言ってたわごととしか思えません。
愚樵さんご自身が「これは単なるレトリックでしかない」とおっしゃってますから「全部承知の上のジョーク」なのでしょう。それにしてもあまり面白いものではありませんし、陰謀論好きな人たちを勇気付けるだけじゃないかと思います。まったく感心しません。

それを「誠実」と呼びたいですね

アルバイシンの丘さん

あっ、やられてしまった、というのがコメントを読んでの感想です。それ、この続きに書こうと思ってたんです。

【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・
が健全という仰るのには同意です。私はその姿勢を「誠実」と呼びたいと思っていますが。

科学を追究するにせよ、神の真実を求めるにせよ、必要なのは、ひとつのステップに到達したら(したと思ったら)また次のステップへと志向する、終わりなき追及の姿勢ですよね。

仏教って?

naokoさん、いつもありがとうございます。

一神教にも多神教に惹かれるその気持ち、よ~くわかります。神が実在するのかどうかはさておくとしても、人間が神を想定したことは間違いありません。み~んな人間の心の問題ですもんね。

で、仏教についてですが。これを簡単に言い表すなんてとてもできることじゃないですが、比ゆとしていうなら、後期ヴィトゲンシュタインみたいなものかもしれません。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」が前期とすれば、後期は「言語ゲーム」。哲学は世界をいい当てるための言語ゲームだ、なんていったわけです。

仏教の中心観念は「空」だといいますが、中心が「空(から)」とは、中心概念がない、ということでもある。この感覚と言語ゲームという感覚がよく似てるなぁ、なんて思ってます。

・・・しかし、この答えでは余計に???かもしれませんね。本当は私は何もわかってないのです。それらしきことをホザイテいるだけで。わはは。

不安だ

せとさんに「わからない」って言われると私はすごく不安になります。せとさんが理解力に優れた方なのはよく承知してますので。

最初と最後が整合しない。う~ん、どこだろう? 自分で書いていながらわかっていない私の方がよほどバカですね。

もしかしたら
「論理実証主義を基礎とした近代科学が産まれたのにはキリスト教の影響が大であったとするのは、定説といってよいと思う」

「最大の陰謀説は、最大の陰謀者が去って科学へと脱皮した」
でしょうか? 

えっと、それから「レトリック」について。

この言葉、誤魔化すときによく用いられるんですよね。私も誤魔化すために用いたんだけど、文章全体のことではなくて、単に、キリスト教を陰謀説だと言ったことを誤魔化すために使っただけです。つまり「レトリック」は「言い回し」くらいの意味でしかないんです。
「レトリックであることを明記する」
なんて表現が大げさすぎましたね。

全部冗談ではありませんよ

玄倉川さん

「レトリック」の意味はせとさんへのお答えに示した通りです。誤解を招いたのならお詫びしますね。

それと。

キリスト教やイスラム教について語った部分は私の「妄想」ですので、冗談と受け取っていただいても結構ですが、

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」

まで冗談だと受け取とられるとなると、私も困ってしまいます。

>陰謀論好きな人たちを勇気付けるだけじゃないかと思います。

すべてはここなんでしょうね。いいじゃないですか? 勇気づいてもらえば。こんなの文章で勇気づいても、足元をすくわれるだけです。

>【観察者】→【現象】→【陰謀者】

そう言えばこれは、学校の怪談のような子どもの噂話にも似た構図ですね。怖いもの見たさ。
自分の外には大きな世界が広がっていて、全く手も足も出ない。それでは不安だから、何かしら秘密の窓を開いたところに自分だけの「答え」がある。
そこにカタルシス・娯楽性が生まれるからこそ、人口に膾炙するのかも知れませんが。

科学的な判断というのは、この不安に耐えて、「自分だけが知っている」という甘い幻想に勝つところから生まれるものなのでしょう。
だからむしろ、キリスト教の神が死んだことで、その不安に耐えなければならなくなった素地から科学が発展したのでは、とも。

こちらに転記しときます

一神教的世界観が「陰謀論」的発想になじみやすいというのはそうですが、その中でも、とくに世界を神と悪魔、光の神と闇の神の戦いとして描く二元論的な世界観というのがとくにそうだろうと思います。

詳しいことは知りませんが、イスラムとキリスト教では悪魔の位置づけが違うようです。
http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/11-05/11-05-10.pdf
イスラムでは悪魔は神とがっぷりよつに組んだ対立者ではなく、せいぜい神様の掌のうえで踊っているにすぎないのですね。
そこから、「すべては神のみぞ知る」という、不条理な世界の中で心の平安をもたらす言葉も生れたのでしょう。
ヨブ記にあるように、ユダヤ教の悪魔もそうですね。あそこでは、神様と悪魔が和気藹々と人間の信仰について賭けをしています。おそらくユダヤ教から分離したばかりのころのキリスト教もそうだったのでしょう。
それがいつ頃から変ってきたのかは知りませんが、どうもカトリックよりも、むしろ原理主義的なプロテスタントのほうがそういう世界観が強いような気がします。

あとヴィトゲンシュタインの例の言葉ですが、これはとても不思議な言葉ですね。
ウィトゲンシュタインという人が、個人としてはけっして冷徹な合理主義者などではなかったことには多くの証言があります。ラッセルも「論理哲学論考」に付けた序文の中で、ウィトゲンシュタインの「神秘主義」ということを指摘しています。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」
この言葉は、本当は「語りえぬもの」について語りたいという彼の内面の欲求の強さを表した言葉とも読めます。

観察者が現象の影響を受けるとき

すーーーごく面白いエントリでした。
キリスト教文化圏でとくにキリスト教の弱体化とともに陰謀論がはやるようになってきた、というもけっこう納得です。

わたしなりに師匠のエントリを下手に咀嚼をしてみるとこんな感じです。

人間は自らのサバイバルに関係なくても「なぜそうなるのか不思議だ」という現象を放っておけない、という好奇心がある生き物ですよね。それを昔は「神がそうしたのだ」のひとことである程度みんな安心できたのが、近代はそうでなくなってきた。科学が色々解明したし、どうも現象の背後に神を想定したのもフィクションのようだ、、、というわけ。

でも、観察者は観察するだけでなくって、現象による影響を蒙る存在でもあります。ある現象によって自分が蒙る影響に、どう対処するのかを考えると、現象の背後に絶対者を想定しないことは、実はすごく大きな孤独とプレッシャーを生む気がします。たとえば会社を倒産させてストレスでうつになった、とか台風で家が流されて老いた親を失った、とかの際、近代的に正しい答えは「精神科医にかかってカウンセリングと抗うつ薬で対処しなさい」とか「安全確保を怠った政府に補償を求めなさい」とかいうことになるのでしょう。

神という絶対者が人間が想定したフィクションであったとしても、「神は神なりの理由があって、あえてあなたを選んで試練を与えたのですよ」というフィクションは人の精神に大いなる平和を与えてきたと思うのです。神を排除してすべてを疑え、という科学的精神は文明を大いに向上させてきたと同時に、弱い人間の精神に過大な重荷を課すことにもなってしまった、、、。

そこらへんが科学と道徳の分離による副作用の弊害が現れるところなんじゃないかと。

あるつらい現象を受容することができるようになる人は、あんまり陰謀論の詮索にはまらない気がします。そういう現象の受容力は、一神教多神教宗教を問わず信仰を持つ人の強さではないでしょうか。逆に言えばそういう人は懐疑心に欠けていて、権力者にとって操りやすい存在になるんでしょうけれどね。



科学論の核心を突いている。

 現象、現象、現象の羅列を論理実証主義とし、これを近代科学とする。なるほど、神を消去してという意味では、唯物論であり、科学と言えるのかもしれない。しかし、事実を羅列することは実証的であるが、それだけで科学と言えるのであろうか?この点、人間の行為の羅列と道徳の関係がある。人間行為を羅列すれば、矛盾した行為の羅列となる。人殺しと共生、戦争と平和などは、その典型となる。では、道徳とは何か?論理実証主義とは事実の羅列であった。これを科学とすれば、道徳とは、人殺しと共生、戦争と平和などとなる。しかし、神が存在した時代では、人殺し、戦争は道徳であったのだろうか?神が死んで、論理実証主義という科学が成立したと同時に、人間の道徳も消滅した。ゆえに、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べた哲学者がいたのであろう。

 そこで、問題となるのが、論理実証主義は事実の羅列という意味では科学であるが、事実の羅列だけでは科学とは言えないのではないか、ということである。

 人殺しと共生、戦争と平和の例でいうと、人殺しの事実をいくら羅列してもそれを科学とはいわない。戦争の事実をいくら羅列してもそれを科学とは言わない。戦争の原因が何であり、人殺しの原因が何であるか、を認識して初めて科学となる。

 なぜならば、戦争の原因、人殺しの原因を認識したのであれば、人類はその道徳を復権することができるからだ。これが科学であろう。

ニュートン

ニュートンの伝記を見た(読んだ、でなく 笑)とき、あまりに彼のしていたことが
“オカルティック”で驚いた覚えがあります。
目に入るかなりの部分が錬金術の話でしたから。

ニュートンやケプラーの時代には、音楽、神学、算術、天文学が
神を知るための学問と考えられていたのでしたっけ?
基本的に事象のすべてが神のみわざに帰せられるのですよね。

「“神がつくったこの世界”はある種の秩序をもち、統制のとれた世界であるはずだ」という
キリスト教的世界観は、科学を発達させやすかったということでしょうか?

そういえば宇宙論などを見ると、「宇宙はこうあるべき」という世界観が
出発点になっていることがありますね。
もちろん理論を構築するときには観測事実やそれまでの理論をとり入れるわけですが。

東西さん

仰るとおりと思いますよ.事実→事実→・・・の中には当然ながら『科学的推論』や『演繹』が含まれています.だから人間はまだ見えない所でも太古の世界でも想像することができます.
その部分は『語れる所しか語れない』のですがそれがじれったくて我慢できない人は勝手なことを『語って』しまいます.

安心

人生アウトさん

>そこにカタルシス・娯楽性が生まれるからこそ、人口に膾炙するのかも知れませんが。

やっぱり不安なんでしょうね。拠り所がないと。不安が解決されるところにカタルシス・娯楽性がある。『水戸黄門』も同じでしょう。

>キリスト教の神が死んだことで、その不安に耐えなければならなくなった素地から科学が発展したのでは、とも。

なぜキリスト教は神が死んだんでしょうね? このあたりも考えると面白いです。もしかしたら偶像崇拝の禁止を徹底できなかったことに原因があるかも。

偶像はある種の安心でしょう? ところが信仰、特に一神教の信仰は緊張関係だと思うんです。そこに偶像を与えると緊張が解ける。だから神が死ぬ。徹底的に偶像を禁止しているイスラムの神がいまだ死なないのは、緊張が解けてないからではないでしょうか。

*****

かつさん

神と悪魔の二元論もまた、安心の産物でしょうか? 神と悪魔が和気藹々という不条理は、人間には不安で仕方がないですから。で、二元論と陰謀論に親和性があるとするならば、鍵はやはり安心かな、と。そういえばニセ科学が提供するのも安心です。ニセ道徳も同じ。

神秘主義も、安心の神秘主義と不安の神秘主義とに分かれるんじゃないでしょうか? たとえば“魂がある”と想定しそこに寄りかかれば安心の神秘主義ですが、その想定を追及しようとしたら不安の神秘主義になる。ヴィトゲンシュタインは明らかに後者でしょう。

*****

みーぽんさん

>人間は自らのサバイバルに関係なくても「なぜそうなるのか不思議だ」という現象を放っておけない、という好奇心がある生き物ですよね

好奇心ってのも、不安を解消するための心理から生まれるのでしょうね。

>神を排除してすべてを疑え、という科学的精神は文明を大いに向上させてきたと同時に、弱い人間の精神に過大な重荷を課すことにもなってしまった

そう、そこが問題です。神がいなくなったときに、弱い人間はどのように不安を解消すればよいのか? これ、近代の弊害です。

>そういう現象の受容力は、一神教多神教宗教を問わず信仰を持つ人の強さではないでしょうか

不安な人間は弱いけど、安心した人間は強い。陰謀論やニセ科学の蔓延は、社会の不安度をはかるバロメーターなんでしょうね。

*****

東西南北さん

>しかし、事実を羅列することは実証的であるが、それだけで科学と言えるのであろうか?

それを科学と言おうというのが、科学の約束なんだと思ってます。だから、科学は道徳にコミットしないということになる。でも、これは人間が勝手に決めた約束でしかないんですね。今の人間社会は自分が決めた約束に縛られて自縄自縛になっているような気がします。

>なぜならば、戦争の原因、人殺しの原因を認識したのであれば、人類はその道徳を復権することができるからだ。これが科学であろう。

そのときには神も復権するんです。で、新たに復権する神とは何か? ここが明らかになれば科学と道徳は再び融合し、人心は安心に向かうでしょうね。

科学史については、専門家じゃないので中学生レベルの知識しかありませんので、詳しい方のツッコミは歓迎します。
ヨーロッパ近代科学の源流は古代ギリシャに在り、その時点で既に還元主義の萌芽はありました。(原子仮説や四代元素論など)
言うまでもなく古代ギリシャは多神教世界であり、キリスト教はその後に発生したものです。全ての事象に単一の原因がある、というのは一神教とは無関係に到達しうるんではありませんか?

近代科学とそれまでの伝統科学をわけるものは、実証主義にあるのではないですか? 現象と現象を結びつける仮説に対して、それが本当に正しいといえるのかを、実証する方法論を作り出したという部分に特徴があると考えますが。


アルバイシンの丘さん、愚樵さんへ。

 1:「事実→事実→・・・の中には当然ながら『科学的推論』や『演繹』が含まれています.だから人間はまだ見えない所でも太古の世界でも想像することができます.」

 人間社会を現象面で見てみると、つまり、事実の羅列で見てみると、強盗があって、監禁があって、自殺があって、殺人がある。死刑があって、戦争もある、列挙したらきりがない。他方、助け合いがあって、移動の自由があって、老衰まで生き抜くことがある。こうした事実の中にある「科学的推論」、「演繹」、「帰納」とは何か?これが科学の内容だと思います。

 例えば、人間社会の現実には、上に列挙した通りの相反する事実がある。ということは、いわゆる科学的な推論からすれば、人間社会の未来もまた、戦争と平和の繰り返し、人殺しと共生の繰り返し、強盗と助け合いの繰り返しとなる、という推定が成立することになる。こうして、以上のような科学論が、本当に科学足りえるか?という疑問が出ました。

  2:「そのときには神も復権するんです。で、新たに復権する神とは何か? ここが明らかになれば科学と道徳は再び融合し、人心は安心に向かうでしょうね 」

 科学は事実の羅列だとして、道徳・神を非事実、すなわち、観念・精神とすれば、事実と観念の区別と関係がどうなっているか?という疑問が出ます。人間の作り出す事実、行為には必ず観念・精神が原因しています。人間の行為を結果とすれば、人間の精神は原因です。では、例えば、人間の犯罪行為を結果とすれば、犯罪者の精神は原因です。しかし、犯罪者の精神の原因もあるのではないか?なぜならば、犯罪者は社会の中で生きてきたからです。となると、犯罪者の生きてきた社会という事実が原因となって、犯罪者の精神が結果となる。こうして、人間精神というものは行為の原因であると同時に、社会という事実の結果でもあることになる。

 人間の精神、道徳・神というものは、社会という事実の結果でありながら、同時に、社会という事実を作り出す原因でもある。

 では、現代人が生きる社会という事実とはどんな事実であり、現代人はどんな社会という事実を作り出しているか?以上のような、科学と道徳の区別と関係、科学と神の区別と関係が明らかになった時、そこに現れる風景は、どんな世界なのだろうか?

やっぱりお馬鹿かな

>【観察者】→【現象】→

私という【観察者】がいるのは、前提としていいのだろうか? 【観察者】としての私がいることは、何かの陰謀なのかしら? けっこう不思議な気がする。 

価値観と事実は全く別物

すみません.深入りするつもりはなかったんですがお目障りお許しを.

私は『価値観』と『事実』は全く別物だと思っています.そして,いつの世になっても『価値観』というのは常に『語りえぬもの』ではないでしょうか.

議論を拝見していると,事実→事実→・・・の果てには,いつか『究極の価値観』,『究極の真理』に到達するような素朴な期待があるように思えてなりません.
究極に『神』が出てくるのは,『神が下した究極の真理』に到達して,道徳基準も神が教えてくれることを期待しているからだと思えます.しかし,最初に私が健全だといったのは,そういう『究極の真理』を期待しない方がいいのではないか,ということです.
するとあまりに頼りないでしょうか?私の考えるのは,『道徳とか価値観の基準』を,何かに(神とか誰かに)決めてもらうのではなくて,自分達で合意したものをそれとするほか,仕方のないことだと思えます.逆にそれが人類の謙虚さに繋がると思えます.

ですから,道徳をすべて科学から導き出そうというのは無謀な試みだと思えます.健全なのは,仏教にいう『縁起』など,すぐれた思想を手がかりに,みんなであることを合意することだと思います.
『神の教えがこうだから』という道徳基準はすべて『ある特定の人間の思想』でありますから,みんなの思考が入っていません.思考停止で決まったこととして受入れることが一番危険に思える,そういうことを今は言いたいです.(科学も『神の位置』に入りやすいです).神は時々人を殺せと命じたりします.
念のためですが,縁起の思想なんていうのは自分でいろいろ考えるための手助けのようなものです.それで腑に落ちればそれでいい.落ちなければまたいろいろ考えればいい.科学もその意味で用いられる限りは健全と言えます.(不健全例としてはすぐ思いつくのが優生思想です)

えあしゃさん

ニュートンは、大錬金術師だったようですね。いまでこそ錬金術はオカルトですが、当時はまじめな科学的行為だったのかもしれません。現代の科学研究も、後の世から見ればオカルティックに映ることでしょう。

>ニュートンやケプラーの時代には、音楽、神学、算術、天文学が神を知るための学問と考えられていたのでしたっけ?

ケプラーがその第一法則の発見するにあたって障害になっていたのは、その「神」だったようですね。

第1法則 : 惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。

神の作った法則によって運行している惑星が、楕円といった“美しくない”図形を描くはずがない。ケプラーはそう思いこんで、ティコ・ブラーエの観測データをいろいろといじくりまわしたが上手くいかなかった。で、とうとう惑星は完全な円軌道を描くという世界観を放棄したんですね。

>そういえば宇宙論などを見ると、「宇宙はこうあるべき」という世界観が出発点になっている

ケプラーからして、まさしくそうだったわけです。今でも科学の基本は同じじゃないでしょうか? 観測データから仮説を組み立て、その仮説が正しさを検証するために実験・観測を行う。仮説どおりのデータが得られなければ、仮説を修正してまた観測。科学の現場は、このような辛気臭い作業の場のようです。決してSFチックな華やかさのある場所ではないようですよ。

うちゃさん、ようこそ。

>ヨーロッパ近代科学の源流は古代ギリシャに在り、その時点で既に還元主義の萌芽はありました。

よく言われる話ですが、私はこれを西欧文明のプロパガンダじゃないかと疑ってます。還元主義的思考は、別にギリシャじゃなくてもいろいろな場所にあったと思います。たとえば中国の陰陽五行説なんかも、還元主義ですよね。

ギリシャの思想は、ルネサンスといわれる復古運動で西欧において再興したのですが、これがイタリアの商業都市から起こったのは理由があります。イスラム世界から再輸入されたんです。イタリアの商業都市は、イスラム世界と交流がありましたから。ギリシャ思想はイスラム世界に長く在ったんです。でも、イスラムでは近代科学は生まれなかった。

ルネサンス当時の西欧世界では、すでに神は死につつあったんでしょう。カトリックとプロテスタントの分離も神が死につつあったから。ルネサンスが興ったのも、同じじゃないでしょうか。

*****

東西南北さん、アルバイシンの丘さん

その議論、続けたいですね。

*****

dr.stoneflyさん

>私という【観察者】がいるのは、前提としていいのだろうか?

曲がりなりにも思索をする者にとって、こういうお馬鹿が一番怖いです(爆)。

アルバイシンの丘さんへ。

 1:「私の考えるのは,『道徳とか価値観の基準』を,何かに(神とか誰かに)決めてもらうのではなくて,自分達で合意したものをそれとするほか,仕方のないことだと思えます.」「健全なのは,仏教にいう『縁起』など,すぐれた思想を手がかりに,みんなであることを合意することだと思います.」 「念のためですが,縁起の思想なんていうのは自分でいろいろ考えるための手助けのようなものです.それで腑に落ちればそれでいい.落ちなければまたいろいろ考えればいい.」

 なるほど、諸個人が自らの価値観をお互いに語り合い、合意形成を図っていくこと、それの結果として多数の合意を道徳の基準とすること。その道徳の基準は時代によって変わりうるもの。という趣旨だと理解しました。

 しかし、アルバイシンさんも述べていますが、「神は時々人を殺せと命じたりします.」さらに、「不健全例としてはすぐ思いつくのが優生思想です」とありますが、ナチの時代では、それは多数の合意であるところの道徳でした。

 そうなると、優性思想を原因とする虐殺行為も、多数の合意に基づく人殺しも道徳となります。果たして、そのような道徳、観念は科学なのでしょうか?科学という言葉がおかしいのであれば、果たして、そのような道徳基準が人間らしいのでしょうか?多数の合意があれば、人殺しが道徳的である、というようなそれです。例えば、これは天皇制を道徳とする態度にも結びつくのではないでしょうか?多数の合意と科学的な道徳は無関係なのではないでしょうか?

そうなんですね

東西さん

確かにナチスは多数の合意でした.それについてはどう考えればいいのでしょうね.

一つは,『神の基準』などがあってもきっと無意味だっただろう,ということですね.大衆の俗情が奔流のように流れ始めてはどうしようもなかっただろう,と思えます.そういう時はきっと『神の基準』も都合のいいように『解釈変更』されると思います.

二つ目は,人間はそのような揺らぎは避けえない,要するに知性がまだまだ動物から抜けきっていないということなのでしょうね.そういう前提で社会の制度設計を図るひつようがありますね.

三つ目は,どうしたらいいかということですが,やはり普段からポピュリズムに陥らないように鍛えておかなければならない,ということでしょう.

今はこんなことしかいえません.東西さんにもいろいろ考えてほしいです.

いやそういうことじゃなくてですね。

>【観察者】→【現象】→【現象】→【現象】→【現象】→・・・
この考え方が、
>キリスト教世界観から【神】が抜け落ちた
というものとは言えないんじゃないですか? って話です。
少なくとも、

>多神教的世界観でも、何か現象が起こったときにその背景を推測するといったことをしないわけではない。けれども、それは単一の原理への追求にならず、多数あると考えられている原理のどの原理が発動したのか、と、そういった思考法になる。


これは言えませんよね?

アルバイシンの丘さんへ。

 1:「三つ目は,どうしたらいいかということですが,やはり普段からポピュリズムに陥らないように鍛えておかなければならない,ということでしょう.」

 ズバリ、これなんです。その基準が何か?その場合に、必要なのがアルバイシンさんが述べたポピュリズムの否定なんです。つまり、道徳基準については、「多数の合意があるから正しい道徳」というポピュリズム基準は100パーセントありえず、「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」という基準になるわけです。ポピュリズム、全体主義に陥るこを防止するということは、常日頃から「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」「正しい道徳を認識し、多数の合意を積極的に形成していく」という対話運動ではないでしょうか?

 「多数の合意が道徳である」という態度は、完全にポピュリズムであり、全体主義です。部落差別しかり、共産主義者弾圧しかり。

 ですから、究極の真理が実現する社会ということではなく、今現在の社会の中にも過去の社会の中にも真理としての普遍的な法則的な科学上の道徳が存在しているが、それは現時点では完全には実現していない。だから、科学的な道徳の普遍法則を完全に実現していこうとする人類の努力として、常日頃から「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」「正しい道徳を認識し、多数の合意を積極的に形成していく」という対話運動が絶対的に必要だということです。

 

そうですね・・

  「多数の合意が道徳である」(1)
とは無論言えず(修正?)最も危険ですが
  「多数の合意で正しい道徳を形成していく」(2)
ということが必要だろうと思います.
ところで東西さんの
  「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」(3)
ですが,(2)と(3)では『正しい道徳』の文中の位置が違っています.これは結構重要な差が含まれているような気がします.(3)の方はまた『正しい道徳とは何か』というややこしい無限ループになりますよね.(そういえば(2)もそうか?でもやはり違うと思います.)

今の時代で言えば,『正しい道徳』を『現日本国憲法』とすれば,(3)でもOKですが,(2)の流れで形成するのが理想だと思うのです.(考えてみれば,『現憲法』に到達したことはすばらしい知性ですね.)

とはいいながらも,いつの時代にも『絶対に間違わない』とことを求めるのは無理なのかな,という一種のあきらめが私にはあります.大衆的知性への不信ですね(大衆蔑視と取られかねないけど敢えて言いたい).今のロシアもまたまた危険な雰囲気になりつつありますね.合法的に!

先の拙コメントの二つ目,あれこれ揺れることは避けられないのかな,と思います.その揺れを如何に少なくできるか,これだけでもとても貴重な仕事だと思います.その基準線はたとえば『民主主義』です.

民主主義は多少(とは言えないかもしれませんが)は揺れ,哲人や神は揺れません.そこで,揺れることを恐れると,哲人や神を頼りたくなりますが,その心性がまたポピュリズムを産む,という悪循環になります.プーチンは『神』の役になったのではないかと恐れています.

民主主義とは,哲人や神に頼らず,同じ人はたとえば二期で絶対に権力から去る,というルールです.その場合は哲人や神にも泣いてもらって,絶対に二期でやめてもらわなくてはなりません.

ちょっと長くなってしまいました.すみません.改めて記事を立ててみようかな.

ははぁ、なるほど

うちゃさん

おっしゃりたい意味はわかりました(わかったと思います)。

論理実証主義は【神】が抜け落ちたもの、であることについては次のエントリーで再度触れていますので、そちらをご覧になってください。

それと多神教は単一原理を生まない、には確かに飛躍がありますね(このエントリーは飛躍だらけですけど(笑))。このエントリーを挙げてから考えているんですけれども、人間の業績を記録する歴史、これはギリシャと中国の文明でそれぞれ別個に生まれてきた思想ですが、歴史という思想は単一原理に基づくものと考えられます。ギリシャも中国も多神教ですから、単一原理が多神教から生まれないのなら、歴史も生まれなかったはずなんですよね。

ご指摘に部分は、また改めて考えてみます。

アルバイシンの丘さんへ。

 1:「多数の合意で正しい道徳を形成していく」(2)
ということが必要だろうと思います. ところで東西さんの 「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」(3) ですが,(2)と(3)では『正しい道徳』の文中の位置が違っています.これは結構重要な差が含まれているような気がします.(3)の方はまた『正しい道徳とは何か』というややこしい無限ループになりますよね.(そういえば(2)もそうか?でもやはり違うと思います.) (2)の流れで形成するのが理想だと思うのです.」

 (2)の流れで形成することが必要だし、理想なのですが、(2)の流れで道徳基準を確立する際にも、ポピュリズムとしての「多数の合意が道徳」を完全に否定した上で、正しい道徳基準、科学的、法則的、普遍的な道徳基準が必要になります。この必要性は、上で述べました。なお、(2)の流れで度正しい道徳基準を確立する必要性の根拠は国土、国家は国民全体のものであり、哲人・神などの個人のものではない点にあります。

 さて、ここで問題となるのが、またもやポピュリズム、全体主義です。アルバイシンさんのいう「大衆的知性への不信ですね(大衆蔑視と取られかねないけど敢えて言いたい)」です。さらに、ポピュリズム、全体主義と独裁、官僚主義の関連の問題もあります。アルバイシンさんのいう「民主主義は多少(とは言えないかもしれませんが)は揺れ,哲人や神は揺れません.そこで,揺れることを恐れると,哲人や神を頼りたくなりますが,その心性がまたポピュリズムを産む,という悪循環になります.プーチンは『神』の役になったのではないかと恐れています.」です。

 そこで、アルバイシンさんのいう「人間はそのような揺らぎは避けえない,要するに知性がまだまだ動物から抜けきっていないということなのでしょうね.そういう前提で社会の制度設計を図るひつようがあります」「『正しい道徳』を『現日本国憲法』とすれば,「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」でもOKです」を考えてみます。

 2:裁判官の独立=「正しい道徳が多数の合意を獲得していく」と民主主義=「多数の合意で正しい道徳を形成していく」の区別と関連。

  ここでも、問題となるのは、「多数の合意が正しい道徳」というポピュリズム、全体主義の完全否定です。つまり、正しい道徳、科学的、法則的、普遍的な道徳基準が何かです。
 裁判官は独立して「正しい道徳基準」を打ち出す所にその特質があります。裁判官には「多数の合意で正しい道徳を形成していく」というプロセスは不要なんですね。これが、民主主義の揺らぎ、ポピュリズム、全体主義を正す社会の制度設計としての裁判官の独立としての三権分立です。
 こうして、裁判官の独立という社会制度と民主主義という社会制度という二つのプロセス、仕組みによって、「正しい道徳」基準を形成、確立し、ポピュリズム、全体主義を退けていく行為と対話運動が必要なのではないでしょうか?

 やはり、最大の焦点は、プロセスもありますが、正しい道徳の基準、科学的、普遍的、法則的な道徳の基準とは何か?であり、それは「多数の合意が道徳」であるという全体主義を完全否定することから始まるということではないでしょうか?正しい道徳基準は過去の人類社会にも今現在の人類社会にも存在するのであるが、未だ不完全にしか実現していないから正しい道徳基準を完全に実現する努力をしていくことが絶対に必要だということです。例えば、人殺しですね。あるいは、搾取。あるいは、独裁。全体主義。などと完全に否定していくということです。
 

東西さん

今酒の席から帰ってきてあわただしく読ませていただきました.私は仰ることの方がとても興味があります.改めて記事を立ち上げて考えたいと思っています.
一つだけ今いえるのは裁判官は神の役目ではなくてその時代の合意の執行者と考えるべきかな,ということです.それではまた,

アルバイシンの丘さんへ。

 では、アルバイシンさんのブログで記事が立ち上がったら読んでみることにします。
 
 それにしても、「日の丸・君が代」強制事件にもみるように、全体主義は不道徳です。不起立・不斉唱を躊躇わせる時点でかなりの全体主義が浸透していると思います。わいせつ罪の問題もそうですね。

 それでは。

いわゆる「陰謀論」についてです

日本のマスコミは国民を煽動したり嘘をつきまくってますね。経団連やトヨタは労働者を搾取し、清和会は狂った法案を通しまくっています。

日本のマスコミ・清和会・経団連に相当する自己中心的な連中が欧米にも山ほどいる、というのは自然な推測です。欧米諸国を特別に優れた集団と考えないで、日本と大差ないとして考察すると、自動的に一部のリベラルが嫌う「陰謀論」になります。

どの段階なのか不明だが

陰謀論と論理実証は、私は交互にシンクロしているんじゃないかと考える。
陰謀は、「現象」と「現象」の空間を埋めるものであって、おそらくそれは「感情」「動機」というものがそれに該当するのかも知れない。
その「感情」や「動機」は、人間の内面に関わる「見えないもの」であるがゆえに「神の領域」とされている部分もあるのだろう。もちろん、「科学では証明できない」という広義の「神」というのもある。

世の中、常に自己の利益を考慮しない「現象の惹起」など考えにくいのだから、そういうネガティブな意味で「陰謀」という単語は使われているのであって、「陰謀」も、人々にとって「良」の結末をもたらせば、それは「深い」と好意的な評価になるんだと思う。

『道徳』に至っては、「どれが正しい」ということについて、厳密には「不可能」なわけで、これほど「神の領域」に踏み込む分野もないんだろうと思う。
もっとも、私は「人々の知恵から生まれたルール」と位置づけているわけだが、その「知恵」も、地理的要因や自然現象といった人知を超える外部要因から生まれたり、あるいは見出すものがほとんどなのであるのみならず、基点によっては同じ内容でも、異なる言葉・異なる説明となる代物だとも思う。これは「人権」や「自由」についても同じことであろう。

きっと、この分野については、人類は永遠に発展途上のままなのかも知れないし、またはループしていくものであって、終着点に至らない課題なのかも知れない。

愚樵さんは、そのことをどこかに意識しつつも、なんとか整合性を図ろうとしてはいないだろうか?だとしたら、漠然とした目標に向かって歩こうとしているように感じるのだが。決して悪いことではないので、批判することはないが、辛くないだろうかと思う次第である。

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