愚慫空論

9条は道徳か?

昨日、私は幕張にいた。昨日の幕張は、そう、世界9条会議の初日。全体会が開催された。できれば今日、5日の分科会ものぞいてみたかったが、残念ながらそれは叶わず。んだもんで、今、ここでPCモニターに向かってキーボードを叩いている。

昨日の初日は大成功だったようだ。私は開場の1時間以上も前から並んで早々に入場したのだが、発表によると2000人以上もの人が会場に入りきれずにいたとか。収容人数が7000人だというから、1万人近い人が集まったことになる。この手のイベントとしては大成功なのだろう。賑やかで、盛り沢山で、熱のこもったイベントだった。宗教的かと思うくらいに。(盛り沢山過ぎ、との印象もあるが)。


昨日の全体会は、“世界”を名乗るだけのことはあって、演壇に立ってスピーチした人たちの国籍は実に様々だった。そして、多くのスピーカーがこの催しを“歴史的”だと賛辞を贈った。

歴史的。この言葉はお世辞ではない。その言葉を発した人も、受け取った人も、真剣にそう感じていたと思う。もちろん、私もそのひとりなんだけれども。ただ私は“歴史的”の言葉を何度か耳にしながら、では、このイベントは過去のどのような歴史に相当するだろうかと考えていた。

思い浮かんだのは、高校時代に歴史で習った「クレルモン教会会議」。習った当初は「公会議」だったはずだが、wikiによると「教会会議」が正しいのだそうな。世に有名は「十字軍」の発端となった“歴史的”会議である。

十字軍。頭になにか言葉をつけて、○○クルセイダーなどといったりすることがあるが、これは、○○を擁護する者、○○の方向に改革する者という意味で、もともとは十字軍に参加した兵士の意味。イスラム勢力によるエルサレム占領に始まった十字軍は失敗に終わったというのが歴史的事実だが、キリスト教的道徳は、クルセイダーをして擁護者、改革者といった正義の者とした。世界9条会議に参加した者は、あるいは9条クルセイダーか、もしくは9条エヴァンジェリスト(伝道者)か。演壇のスピーカーたちからは、“ここに集まったひとりひとりが9条の精神を広めましょう!”といったお約束(?)の言葉が繰り返し発せられた。もっとも、そうしたひとりひとりをこのイベントでは「アンバサダー(親善大使)」と呼んで、宗教色は排除していたのだけど。また、イベントで盛り上がった一体感を“宗教的”と評するのも飛躍なんだけれども「歴史的」「崇高」といった言葉が幾度となく飛び交えば、宗教的とするのは飛躍でも、とんでもなく、と形容されるほどではなかろう。クレルモンの教会会議でも時のローマ教皇ウルバヌス2世は、それらの言葉を使ったに違いないのだ。ウルバヌス2世は他にも「使命」とか「義務」なんて言葉も使っただろうけど、ここまでくれば完璧に宗教的。もちろん、9条会議ではそんな言葉は出てこなかった。

ただ、やはりこの会議は、宗教的ではなくても道徳的だった。それはそうだろう。“人の命を奪う戦争を廃絶しよう!”の精神が道徳的でないはずがない。(宗教的と連想したのは、イベントが盛り上がって「情熱的」かつ「道徳的」だったからかもしれない。「宗教的情熱」とはいっても「道徳的情熱」なんて言葉はあまり聞かないから。)

*****

ここで少し話を私自身の身近なところへ引っ張ってくる。いつものごとく、話が少々逸れる。

私の職業が林業だということは常々書いていくことだが、林業といえば3K(きつい、汚い、危険)、それも危険の度合いがかなり高い仕事である(ここに林業労働災害のデータが出ている。労災の度数率、強度率ともに他の3K業種と比べても高い)。こうした職場では常に危険に関しての警戒感が高いのは当然なのだが、それがひとりひとりの意識としてあるだけでなく、共に仕事に関わる者全員の共通認識として強く意識されている。自分自身が危険にさらされる行為、他人を危険にさらす行為が強く戒められるのは勿論だが、他人が気付かずに危険な行為をしているのを見逃してしまうこと(自分やその他の者に危険が及ばなくても)も弾劾される。危険へ気を配ることは、ある種の道徳となっているのである。

ところが、危険に対する意識が高いにもかかわらず、意識しつつ危険な行為を行うことがしばしばある。周囲の者もそのことを認識しつつ、容認している。いや、容認せざるを得ないのだ。道徳とは別の法則があって、その法則に縛れているがゆえに、時と場合によっては反道徳的な行為を為さざるをえない。その法則というまでもなく経済法則なのだが、経済法則と道徳との間で折り合いをつけることが現実世界ではどうしても必要とされる。、キレイ事だけでは食っていけないのだ。


法則と道徳。また話は跳ぶが、最近漠然と考えているのは、法則と道徳の間には、何か正常な関係というべきものがあるのではないだろうかということ。私の仕事のことでいうと、危険への気配りという道徳と、収入を得るという経済法則の間には、互いに牽制しあいながらも真っ向から対立しているわけではなく、牽制しあう緊張関係が、うまくは言えないけれども、正常な関係であり、この緊張関係があるからこそ、個の利益と全体の協調性とを上手くバランスさせている――そんな感覚があるのである。

これがもし、危険への気配りという道徳が、自ら危険な行為を引き受けることを賞賛する道徳へと変化してしまったらどうだろう? 経済法則との緊張関係が崩れ、個人の利を追求することに歯止めがかからない状況になるか、逆に個の利益追求が強く抑圧される状況となるか。どちらにバランスが崩れるかはわからないが、どちらかモラルが崩壊し一方に暴走してしまうように思われる。また道徳と経済法則とが真っ向から対立する関係も芳しい関係ではなく、ここから生み出されるのは停滞、そしてモラル崩壊...、そんな気がするのである。

池田信夫ブログ『Moral Sentiments And Material Interests』

ここで指摘されているのは、私が感じているのと同様のことなのかもしれないと思う(指摘の仕方ははるかに洗練されているが)。アダム・スミスは、個の利益追求には他者への「共感」という道徳が必要だと考え、また、「経済学も物理学モデルを卒業し、生物学モデルに転換するときではないか」としているが、物理学が単一法則での統一を目指す知的体系であるならば、生物学は、生物が単一の法則ではなく、2つ以上の法則――たとえばホメオスタシスとトランジスタシス――の緊張関係の上にバランスをとっているものであることを明らかにしつつある。

******

話を9条に戻そう。

9条は道徳か? の問いへの答えは、イエスであろう。では、9条と正常な緊張関係にある法則とは何なのか? 考えをこのように進めると、答えに窮してしまう。9条は、戦争を進めようとする論理とは真っ向から対立する道徳であり、単に道徳というだけでなく、その道徳を体現した法として日本国憲法に記述されている。そして、9条を取り巻く現状を見るとき、そこにあるのはモラル崩壊である。そして行く末は、内部分裂、自壊であろうか? では逆に、道徳が9条が反道徳とするもの――軍隊――への賞賛へと切り替わったらどうなるか? こちらは暴走の末の自滅であろうか?

いや、待て。「他者への共感」は9条の基礎だ。ならば、アダム・スミスの考えた経済と9条とは、正常な緊張関係を保てる可能性はあるはずだ...。アダム・スミスが正しいとするならばだけれど。


話がこんがらがって来た。

タイトルを「9条は道徳か?」としたとき、想定していた答えは、“現状は単なる道徳の粋から出ていないが、徐々にそこから脱皮しつつある”であった。また、伊勢崎賢治さんの9条論をその典型例とするつもりだった。でも、まとまらない。

昨日の9条会議から感じたのは、9条は道徳、それも今世の中を動かしている法則と真っ向から対立する道徳。そういう雰囲気。純然たる道徳といった捉え方がされていた。(これはイベントとしての性質から出たものに過ぎない可能性はある。今日行われている分科会では、単なる道徳以上の法則としての可能性が議論されているのだろうと期待するのだけど...。)


この原稿はボツ...、にしようかと思ったけど、まあ、いいや、たまにはこのまま出してやろう。

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世界9条会議のスタッフの皆さん、ありがとうございました。

コメント

現代文明における道徳とは何か?

(旅先から失礼します)
脳科学者の茂木さんによると、
人間の脳の構造と機能は、日々変化しているそうです。
その人の生活習慣、心理状態、行動、そして栄養などが脳の機能を決定します。
脳をどう生かすか?これが現代文明の存続の鍵でもあります。
現代文明にとって最も大切なことは、そうした個々人の脳の正常な機能を保つことと、さらなる機能の向上を促すことだと言えます。
そうした意味で、脳にダメージを与え、機能障害を引き起こすことを極力避けることが、今日における道徳の第一原則となることは明らかです。
もちろん人間の脳も自然治癒力を有してはいます。
しかし、多数の人間が、脳に深刻なダメージを受け続けることを容認する社会・文明は、やがて崩壊へむかうでしょう。
今、この脳の機能やバランスが、大変危うくなっているように思えます。

この意味で、戦争は反道徳的なのであり、同様に虐待、阻害、抑圧、いじめなどの心理的ストレスも反道徳的なのです。また、脳内ホルモンのバランスを崩す食生活も反道徳的であるといえます。
そして、こうした『脳を守るための道徳』は、人類の最も重要な、そして基本的な‘生存条件’であると言う事ができます。
いかにして脳のダメージを防ぎ、脳をいたわるか、その延長線上に、反戦という理念や9条の意義もあるのではないでしょうか?

日本国憲法は、建前として『主権者たる国民が、国民自身の利益のために、国家権力をコントロールするもの』というのが前提となっているのですから、憲法には自ずから「目指すべきもの」が挿入されているわけで、従って9条に限らず、補則を除いた99か条すべてが「道徳でもあり実行法でもある」といえるかと思います。

問題は、「現実と理想のギャップをどう埋めるか」ということでしょう。9条の解釈は様々ですから、護憲改憲・自衛隊の違憲合憲は横においておくとしても、こうした「プロセス」と「リスクマネジメント」の2つが抜け落ちているというのが、やはり現行憲法の不完全さを表していると思います。

例えば、非軍事分野における国際貢献(援助活動)にしても、戦闘行為や紛争地帯であるとき、2つの異なる理論が両立してしまうわけです。
1.丸腰の文民のみの援助ならば、そもそも武器を携帯していないのだから、戦闘意思を被援助住民への安心感をもたらし、武装勢力への敵対意識がないことのこれ以上ない証明でもあるので、「攻撃を受ける口実がない」ということはいえる。従って、丸腰は、むしろ安全ともいえる。
2.武装勢力は、軍資金、食糧、医薬品、武器弾薬等がいくらあっても余ることはない。専門知識を有する人材や大量の援助物資、先進国の国民は、武装勢力にとっては「宝の山」である。これを安価で安全に調達するのであれば、抵抗のリスクを回避できる文民を狙うのが戦術としては当然であることを考えれば、防御策を講じない文民のみの援助は、紛争地域においては危険であるともいえる。

これはイラクやアフガンでの援助活動を例にしたコメントであるが、国際社会においては、この2つの矛盾した、しかし、両立しうる状態であることも忘却することはできない。
そのときに、憲法はどう立ち向かうのだろうか。

この問題提起をしたときに「非人間的」だとか「好戦主義」といった不当評価をするブロガーも、このブログに出没しているようだが、私を非難する前に、この命題にどう答えを出すのか、それを提示してもらいたいものである。

わくわく44さんへ。

 君は、自衛隊を海外で武力行使できるようにしろ、と主張しているでしょ?なんで?軍事力を出すのが嫌なら、諸外国も憲法9条を持てばいいじゃじゃないの?だから、日本の平和運動は憲法9条を世界に輸出することを主張するが、君のように自衛隊を海外へ「輸出」し、憲法9条を改定することなど唱えないんだよ?OK?

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