愚慫空論

言葉の根っこ

ある言葉が発せられるとき、そこには必ずなんらかの理由がある。言葉には根っこがある。しかし、言葉は発せられた瞬間にその根っこから切り離される。相手に届くのは根っこから切り離された言葉のみ。言葉を受け取った者は、その言葉を自分の根っこに結びつける。同じ言葉でも発した者と受け取った者の根っこは同じということはまずありえないから、言葉によるコミュニケーションはどうしても食い違いが生じざるを得ないものになる。

また、「レッテルを貼る」と表現される行為がある。この行為は、言葉が根っこから切り離されてしまうことから為される行為――ある者から発せられた言葉の根っこを、他人が勝手に決め付けてしまう行為で、普通はよくないと思われている行為だ。


つい先日、レッテルを貼る、貼らないをめぐってある人と対立した。私は「レッテルを貼る」ことを必要だと言い、その人は必要ないとした。言葉は、切り離された根っこを詮索することなく、切り離された言葉だけを受け取るべき。その人はそう主張した。

この主張には一理あると思う。思うだけでなく、間違いなく一理ある。実際、学問といった知的作業はこの主張に沿って為されている。自然科学は特に。つまり“客観的に”ということだ。根っこから切り離された客観的な言葉で作り上げられた自然科学が、どれほどの成果を挙げているかを見れば、この主張が理に適ったものであることに疑いの余地は無い。

にもかかわらず、私はその人の主張を受け入れることを拒否した。

誤解なきように言っておくが、私は自然科学の成果を拒否するものではない。自然科学の成果は尊重すべきすばらしいものだと思っている。だが、だからといって自然科学の方法が全てに適用できる万能の方法だとは思っていない。私とその人との対立の場が、自然科学を巡っての議論の場であれば、私はその人の主張を拒否することはなかっただろう。だが、その場は自然科学についての議論の場ではなかった。

モノの世界を取り扱う自然科学に根っこから切り離された言葉が有効なのは、モノには言葉を受け取る根っこがないだけの話だ。モノは常に受身で、人間によって認識される対象にはなっても、人間を認識する対象にはならない。

人間はモノだけでなく、他者たる人間も認識する。他者である人間はモノと違って常に受身ではない。他者もこちらを認識する。そして人間は互いの認識を交流させようとする。これがコミュニケーション。この場においては、根っこから切り離された言葉は意味を成さない。いや、ありえない。言葉を発する者にも受け取る者にも必ず根っこがあるのだから。モノが根っこのない言葉で言い表すことが出来るのが道理なら、人間同士の間で交わされる言葉に根っこのない言葉などありえないのもまた道理。

その人は、その道理を知らないわけではないと思う。その人の主張は、その道理を弁えた上で敢えて根っこのない言葉で対話をしよう、ということだったのだろうと思う。だが、私はそれを拒否した。根っこのない言葉は受け取らない。根っこのない言葉だというのであれば、こちらで勝手に言葉の根っこを推測する――レッテルを貼る、と言い、加えてその人の言葉を全てイチャモン、すなわち言いがかりだとレッテルを貼った。そのようにレッテルを貼られたその人は、きっと不愉快だったに違いない。

根っこのない言葉(正確には根っこがないとされた言葉)がすべて言いがかりでないことくらい、私も承知はしている。承知はしながら、その全てを言いがかりだとレッテルを貼った。これは意識してのこと。そうするべき理由が私の中にあったからである。

(ここでひとつ注意を促しておきたい。「レッテルを貼る」「言いがかりをつける」はともに一般的には悪意のある行為だとされる。しかし、私のこれらの言葉の用法は、必ずしも悪意があるものとして用いられることを前提としていない。私に言わせれば、これらの行為に悪意があるとするのはそれこそレッテルでしかない。善意から行われるレッテル張りも言いがかりも現実にはいくらもある。これらはすべて言葉の根っこの食い違いから来るものだ。)

この理由は実に簡単なものだ。それは根っこが定かでない言葉は、それが善意から発せられたか悪意から発せられたか、判別が付かないからである。

悪意をもって対話をしようとする人間は、自分の言葉の根っこを偽ろうとする。根っこを探り当てられると自分の悪意が晒されてしまうから。はじめから根っこを切り離そうと言ったその人は、根っこを切り離しても偽ろうとはしなかったわけだから、悪意のある人間だと断言することはできない。単に根っこを探られることに拒否感があっただけのことなのかもしれない。だが、それを認めることが出来ないのは、一旦、根っこがない言葉を認めてしまうと、その人だけではなくて、他の者にも認めなくてはいけなくなるからだ。そして、そのあとに来る者に悪意がないとは限らない。根っこがない言葉を認める――根っこを詮索することをやめる――ことは根っこを偽る者への対抗手段を放棄することに他ならない。だから、認めることが出来ない。だから一律に根っこがないとするすべての言葉を言いがかりだとレッテルを貼る。これは、その人限定の措置なのではなく、発せられる者が誰であれ、根っこがないとする言葉すべてへの措置なのである。


理由をもうひとつ。それは根っこのない言葉に振り回されるのはご免被りたいから。私に限らず、なにか自分の考えなり思いなりを綴る人間には、それをするだけの根っこがある。こうした文章を書くのにだって、それなりの時間と労力を割かねばならない。それを、根っこなし気軽な言葉に振り回されてはたまらないと思いがある。問いかけや反論は大いに歓迎だけれども、それは根っこがあると思えばこそ。根っこがあるからこそ発せられ、その根っこに縛られざるを得ない人間と対話するのに根っこなしでとは、ずいぶんと虫が良すぎる話だと思う。

******

まだこの続きを書くつもりでいるのだけれども、今日は疲れたのでこれまで。この続きは今日書いたこととは正反対の内容になるだろう。今日は根っこが大切みたいな話だったけど、続きは根っこは煩わしいという内容になる予定。

本当に書くかどうは、未定だけど。

コメント

根っこ、ルーツですか…

難しいですね。
果たして自分にどれほどの「根っこ」たるものがあるのか…。はなはだ心もとないです。
常に自分を偽っていないといえるか…。それもある意味怪しい。
それどころか、人前で飾らない自分など、今までどこにいただろう?
相手を見て、注意深く演技していない、素の自分など…。おこがましくて人に見せられるものじゃない。

それでも、「思い」は文にあらわれる。
それが、怖い…。
その「怖さ」が、向き合っている相手に対する、自分の精一杯の敬意・誠意なのかもしれません。
そして時折、相手に一瞬の共感を感じられたとき、それを迷わず相手に伝えること。それが出来れば…。
その時、わたしの「根っこ」が、図らずも、あらわれるのかもしれません。

鍵コメさん

私の言葉に共感いただいてうれしく思います。思うのですが、天邪鬼な私はどうしてもひとこと付け加えなければ気が済みません。

今回、鍵コメさんが私の言葉に共感してくださったのは、“たまたま”に過ぎません。今回たまたま、私の言葉があなたに届いただけです。いえ、届いたと思い込んだだけかもしれません。

届いたか、思い込んだか? そんなことは重要なことではない。ただ、届いたと思ったことが幸せです。今回はたまたま訪れた幸せでしかありません。

たまたま訪れた幸せ。ここに私は自分の言葉で語るブログというものの意義があると思うんです。いろんな人が同じことをいろいろと自分の言葉で語っています。たくさんの人が自分の言葉で語れば、それだけ“たまたま”の可能性が増える。その、ほんの少しの可能性を増やすだけでもブログを続けている値打ちはあると思っています。

******

naokoさん

naokoさんのコメント、私には「根っこ」のあるコメントのように感じられました。なんと言えばいいのかな? 震える心、とでも言えばいいのかな? 繊細すぎて、他者と接するのが苦手な感じ...。

いや、これは私の勝手に貼ったレッテルかもしれません。お気に触ったら、申し訳ありません。

こんばんは。

某所での論争から意地になって(笑)
ついにブログ開設の決断をいたしました。
何のことやら・・・の部分も多分にあるかと思いますが、これを機会に少しでも交流が持てればうれしいです。どうぞよろしくお願いします。

(レッテルの話…私も「そういうのは気にしない」と言いつつ、しっかり「動機」のエントリで自分にレッテルを貼りまくっております。何なんでしょうね。これって…^^;)

リベラルの「根っこ」

はじめまして、こんにちは。
ふと思ったのですが、一般的に人が言葉を使って議論を始めるのは、何歳ぐらいからなのでしょうね。
その、初体験の仕方によって言葉の使い方が違ってくるように感ぜられます。

リベラル一般の方の経験としては、
・幼い頃から忸怩たる思いがあった
・周囲と噛み合わない話
・読書に没頭し、やがて優れた論客に
といった体験があるのかな?
いえ、こういった「根っこ」があるならば、言葉に強い信頼を置くようになるだろうと思いまして。
少なくとも、リベラルでやっている方が、幼少時から常に多数派の中に身を置いていたというのは想像しにくい。
だから、少数派としての経験がリベラルの「根っこ」にはあり、その言葉は「多数派に異議申し立てる」発話姿勢になるのかなと。


個人的な私の根っことしては、「周囲と噛み合わない」までは同じなのですが、「噛み合わない私」を「周囲」がそのまま尊重してくれたこともあり。
・噛み合わない会話を、いかに面白く続けるか
が根っこにある気がします。
尊重されても、言葉は噛み合わなかった。しかしそれでも、私達はお互いを尊敬しあった。必要だった。

自分の言葉を理解できる人は居ないのが当たり前。
それは相手にとっても同じこと。
なら、言葉をどう使う? どう発信する?

言葉の発信は「芸」ですか?

人生アウトさん、ようこそ。

昨日、ブログではないブログを新装されたようですね。新装前の「書くことの困難性」を拝見して、

>なら、言葉をどう使う? どう発信する?

を考えていたところです。言葉の発信が「芸」であるとの意見はとても参考になりました。

言葉をどう使うか? 思い至るのは、結局のところ、自分が言葉を発信しようとする「根っこ」なんですね。多分、私は「私」に自信がないから言葉を発信している。「私」の正しさを追い求めて、他人の意見を訊く為に発信している。それだけのことなのだろうと思います。

>少なくとも、リベラルでやっている方が、幼少時から常に多数派の中に身を置いていたというのは想像しにくい。

ああ、日本ではそうでしょうね。日本ではリベラルは「異議申し立て」ですからね。ただ、忸怩たる思いからくる「異議申し立て」は、今の日本では保守もリベラルも同じなのではないのかな、と感じてはいます。みんなバラバラになってしまって、多数派ということが意味をなさなくなった時代。リベラルがリベラルたりえるのは「異議申し立て」を出来る足場を確保しているからだ、という印象を私は強く持っている。対して保守に傾く者は、その足場を求めている...。

>噛み合わない会話を、いかに面白く続けるか

まさしく「話芸」ですね。それもこれも、

>尊重されても、言葉は噛み合わなかった。しかしそれでも、私達はお互いを尊敬しあった。必要だった。

といった了解があってこそ、その「話芸」も成り立つのだろうと。言葉が通じなくても通じ合っていると言う了解があるから、言葉のズレを楽しめる。

まだまだ続けたいけど、時間切れ。出かけなくては。
それではまた。

自分のかたち

自分の言葉の「根っこ」を集めると自分のかたちが分かる。そんな気がしました。自らが囚われている虚構に輪郭を与えるもの。
ここから発する言葉は、正直な言葉、考えに考え抜いた言葉、といったところでしょうか。
他の人の話や考え方を見てると、時折、こうした「根っこ」がぽこりと抜けることがあります。それがおもしろくて色々勉強しているようにも思います。しんどいところでもあるのでしょうが。

根っこは後から形成

愚樵さん
私も少しだけ参戦したくなりました。
一般にというか、私の場合がそうなんですが、相手と会話しているうちに、元々の根っこから議論は展開されますが、その展開がまさに広がりを見せてくると、元々の根っこから出た茎は細くなり、新しい根っこを形成している場合があります。
要するに、議論が根っこを作り出すのです。ですから、根っこが先にあるとは限らないのではないか、新しい根っこが次から次へと生まれ出る素地を議論が作り出すのではないか、と考えますがいかがでしょうか。
勿論、一人で考えるときにも頭の中で議論をしているので、同じことが起きると思います。
それは、元々根っこのない人間特有なのか。

語られなかった言葉

少し議論から離れるかもしれませんが。

小説や音楽も、作者から切り離してひとつの作品として見ることができますね。

しかし、作者がどういう人生を送ってきたか、
作品を生み出したときにどんな生活を送っていたかを知ると、
また作品が違って見えてきます。

作者への偏見なしに見たものと、作者を知って見た作品は、
受けとる側にとっては別もののような気がします。
どちらがよいかの判断は人によって違うでしょう。

ただ、作者あるいは会話している相手を
曲がりなりにも知ったときには、語られた言葉や表現だけでなく、
語られなかったものに耳をすまし、なぜ語られなかったかを考え始めるような気がします。
…もっともあまりに穿ちすぎるというか、気をまわしすぎる危険性もありますね^^;

横からすみません!

えあしゃさん、
たった今、まさにえあしゃさんのおっしゃっている内容のエントリをあげたところです!こちらにきてコメントを読んで驚きました。
こちらは見ていないのですよ!いや、本当に…!
不思議な偶然に、またまた感動です。

愚樵さん、
「根っこ」の話、面白いですね。たとえとしてもわかりやすいです。
また、morichanさんの「新しい根っこができる」にも、ぴんと来るものがあります。
表現活動って本当に奥が深いです。

皆さんに感謝!

よい雰囲気で対話が進んでるなぁ~と思って、自分のエントリーを読み返してみたら、ちょっとビックリ。これは「根っこ」を隠蔽しようとする者への批判ではないか!(笑)。でも皆さん、批判の方へ乗らずに「根っこ」の方へ乗っかってくださってる。こういうのを拝見すると「根っこ」でつながってると感じて、とても嬉しい。

>小説や音楽も、作者から切り離してひとつの作品として見ることができますね。

はい。もちろん、ブログに書かれているような文章だってそう見做すことはできますね。作品を作者から切り離してみるか、一体のものとして見るか、その自由は鑑賞者にあってどの見方がいい、悪いといった問題ではありません。ただね、私にはひとつだけこれは悪い見方だと思わざるを得ないものがある。悪い意味で作品にレッテルを貼る。作品を通して作者にレッテルを貼る見方。

この見方は切り離してみる見方と、一体にしてみる見方を混同しているんですね。切り離して見たのなら、作品からどう感じようとそれは鑑賞者の自由。時には不愉快に感じることもあろうけれども、それを作者の責任にしてはいけない。鑑賞者の自由に伴う鑑賞者の責任。「言葉の論理性」なんてものを盾にとるのは以ての外。(ああ、そういえば人生アウトさんが「リベラル」の言葉で指したものを取り違えていました。この文脈では「言葉の論理性」=「リベラル」ですね。)

こうした見方をする人には、morichanさんが指摘した“新たな「根っこ」の形成”なんてことが出来ないでしょう。新たな「根っこ」を形成するにしても、まず、自己の古い「根っこ」と対峙していなければ不可能。そして、自己の「根っこ」と対峙する人は他者の「根っこ」と対峙する人でもあり、他者の「根っこ」は自己の「根っこ」でもある。故に他者も自己となる。全ては自己なんですね。自分の「根っこ」。だから他者との対話は自己との対話に他ならない。他者の否定は自己の否定なんです。

最後は話がアッチ向いていってしまいましたね(苦笑)

こんにちは(^^)

NewsOLです。
こちらの記事は数日前の段階で興味深く拝読させていただいていたのですが、
TBを送ってよいものか迷っていました。
でも、以前にいただいたコメントを思い出しまして、

>時折でいいですから、なにか書いてください。
>で、TBください。やさしいものでなくってもいいですから。

そのお言葉に甘えてTBを送らせて頂きましたので、
よろしくお願いいたします!

★私にとって、この1週間は、
 コミュニケーションの奥深さ・難しさを体感した1週間であり、
 本当にいろいろな人がいるんだなぁ~…。と
 ただただ感心しきりでした(^^;)

NewsOLさん

お久しぶりです。最近、ご活躍のようですね。拝見させてもらってますよ。

また、そちらにもお邪魔させていただきます。

先生ぇえ~、考えてみました

コメント欄では長過ぎるので……、いやお馬鹿すぎるので、自分のとこで考えてみました。
FC2にTB通りませんので、コメント欄にて

http://dr-stonefly.at.webry.info/200805/article_3.html

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