愚慫空論

ヒトは人間かケモノか

TBいただいたとむ丸さんの記事に、「児やらい」という考えが紹介されていた。

乳幼児の死亡率が異常に高かった時代、育てる、と決めた子を、産みの親ばかりか名付け親、拾い親等々いろいろな大人が手をかけ、気をかけて、「7歳までは神のうち」というように、いつ忽然とこの世から消え去るか分からない子どもを、大切に育てた。

 そんな大事だいじに育てた子どもも、時期が来たら追い立てるようにして突き放す。これが「児やらい」だ。

こうした記事を拝見すると、ブログってのは本当にありがたいものだと思う。これはたまたまだが、「児やらい」という考えは私にとってはミッシングリングだった。そのミッシングリングがTBという形でアチラからやってくる。これは集合知っていうのとは違うのかな? 
「児やらい」を行う日本の伝統的な子育ての仕方だったそうだ。この方法は、思うに、ケモノの子育てとそっくりだ。私の家ではイヌを飼っているとは以前書いたが、イヌもある時期がくると「児やらい」を行う。それまでは甲斐甲斐しくこの仔犬の面倒を見ていた母親犬が、ある時期が来るといきなり仔犬を突き放す。まだ乳をせがむ仔犬に牙を剥きさえする。これは何もイヌに限ったことでないことは、TVで放映される自然関連の番組等で見知っておられる方も多かろう。ケモノ、つまり哺乳類とそれから鳥類は、一般的に「児やらい」を行う育児方法を採用しているようだ。

日本は子供中心の社会であったと言われる。その証左として挙げられるのが、家族関係の呼称の仕方。子が産まれるまでは「夫」「妻」だったのが、子が生まれた瞬間から「父」「母」となる。そして「夫」「妻」の「父」「母」は「祖父」「祖母」に格上げされる。家族に限らず、地域共同体といった集団のなかでも大人たちの意識の中心は子供にあった。大人たちは仕事に忙しくて子供に関わりあう時間は少なくても、子供たちは忙しい大人が営む社会そのものが自分たちのためだと理解していたのだろう。以前取り上げた『逝きし世の面影』にも、子供中心の日本の社会の様子が異邦人の目を通じて描かれている。

その異邦人たち――キリスト教文化圏の「個」を確立する文化を持つ――にとっては、子供はケモノとして認識されている。この背景にはヒトは「個」を確立して人間になるという意識があり、その意識は人間をケモノと区別する思想につながるのだろうが、そうした思想の持ち主からしてみると、子供中心とはつまりヒトとケモノの区別がついていないということであり、実際、昔の日本人にはヒトとケモノの区別はさほど判然としたものではなかったようだ。同じ『逝きし世の面影』には、“日本人はなぜ牛乳を飲まないのか?”と問いかけた異邦人に対し“それは牛のものだから”と答えた幕府の役人とのやり取りが出ているが、これなど、ヒトとケモノを同格に見ている日本人の意識の現われだろう。

 西洋的に考えると、いわば認識主体である自我(セルフ)が確立されることを成長といいますよね。確固としたセルフが想定されていて、そこに向かって子供の頃から伝統的な個人主義的教育法を施すわけです。
 私の知人がドイツにとついで実際に経験したんですが、これは凄いですよ。お昼寝から目覚めた子供が傍に誰もいなかったら泣くじゃないですか。これはどこの国でもたぶんそうでしょう。それで隣の部屋にいた彼女は急いで子供のところへ行こうとした。ところが肩を押さえてとめた人がいたんですね。
 旦那さんの母親、つまりお姑さんです。「こらえなさい。ここであなたがこらえなかったら、あの子は駄目になる」って、お姑さんは言ったそうですよ。日本なんかとは根本的に違う教育なんですね。我が儘も徹底的に叱られますよ。そうして押しも押されもしない、社会性のある自立した西欧人が出来上がるわけです。

これは玄侑宗久著『まわりみち極楽論』からの引用だが、この記述の中からは、西欧人の文化の中には厳とした人間とケモノの区別が存在することが読み取れる。子供はケモノであると捉え、乳飲み子の頃から徹底的に教育を施す。この文化は大人中心の文化であり、子供は中心ではなくあくまで大人への予備軍でしかない。

隣で赤ん坊が泣くと、すぐに傍らに駆けつけようとする母親。ドイツ人のお姑さんは、それを「こらえろ」といったというが、このことは逆に言うと、母親には子が泣くと駆けつけたいという心理が存在するということでもある。この心理は、どこの国でも、といったレベルではなくて、ヒトも含めたケモノの中に普遍的にある母としての自然の心理であろう。自然の心理に従うか、逆らうか――ここにも自然を人間とは異なるものと捉える文化と、そもそも「自然」なる言葉のないくらいに人間と自然とを一体のものとして捉えていた文化の差がある。自然の心理に従わない子育て法には「児やらい」が必要になってくるのも、これまた自然の心理なのであろう。


とむ丸さんはご自分の子育てを振り返って、ダブルスタンダードだったと述べられている。子供たちに天然児であることを望みながら、一方で厳しい要求を突きつけた、と。思うに、このダブルスタンダードは、子供中心の文化と大人中心の文化が交錯する中で、やむを得ずして起きてしまったものではないのか。今でも、日本人ならば、赤ん坊が泣くと母親は傍らへ駆けつけるだろう。それをこらえたりはしないだろう。そうした育て方をする一方で、「児やらい」を待たずに大人中心の文化を真似た教育を施す。ダブルスタンダードになってしまうのも当然のことだろうと思う。

私たち日本人の現在の文化は、少なくとも表層は大人中心の文・人間とケモノを区別する文化に覆われてしまっている。しかし、その深層に一歩踏み込めば、まだまだ子供中心の文化・ヒトとケモノを判然と区別しない文化の心情が根強く残っている。この食い違いがさまざまな社会問題を引き起こしているのではないかと疑ってはいるのだが...。


コメント

だ、か、らぁ~

>子が泣くと駆けつけたい……、普遍的にある母としての自然の心理
母だけじゃないんだって(笑)
父だって駆けつけるって。
ワタシの子が行っていた保育園なんか、よその子でもアヤしてるよ、迎えにいった父がね。
「父親(男子たるもの)がそういことをするもんじゃない」ってのは、日本の伝統であり言伝えで、社会の心理かもしれないけどね……

>……肩を押さえてとめた
なんかネグレクトっぽいなぁ。
一程の時期まで、愛情たっぷりで育てられた子どものほうが、見守られているって安心感をベースにして、独立心も育まれるってのはどっかで読んだ気がするけど……。はやく突き放された子は自信がなく、屈折してるって…あ、これはワタシか(爆)

エントリーの意図から離れてしまったね。すみません。

えへへ、明日はズル休み。

dr.stoneflyさん

>母だけじゃないんだって(笑)
>父だって駆けつけるって。

そういうツッコミ、入ると思ってました(笑)。まあ、引用した話に沿って文章を書いたので母親なんですが、書きながら少し迷ってました。

>「父親(男子たるもの)がそういことをするもんじゃない」ってのは、日本の伝統であり言伝えで、社会の心理かもしれないけどね……

う~ん、この心理はねぇ、日本の場合、女性への嫉妬から来るんではないかなぁ、と思っていたりするんですよね。思うに、昔の人は今の人間よりもずっと自然現象への感受性が高く、だから当然、ヒトの自然な部分についても敏感だった。オトコとオンナの性差って自然なものでしょう? 現在は「人権」といった考えが入り込んでしまった所為もあって、人間の持つ自然への感性は随分低下してしまっているんじゃないかと思うのですが、昔のオトコはやっぱり母子の一体感には敵わないと感じたのではなかったかと思う。それでスネた。敵わないんだったら、いいや、オレタチは別のことをするからいいも~ん、ってね。今はそうした感性が抜け落ちてしまったんだけど、その形骸だけが残っていて、それが伝統と呼ばれたりする。しかし、形骸にしたところで、それが作り出されるには何か理由があったに違いないですね。

>はやく突き放された子は自信がなく、屈折してる

私もです。だからマザコンだって...(泣)。またそういう自覚があるから

>一定の時期まで、愛情たっぷりで育てられた子どものほうが、見守られているって安心感をベースにして、独立心も育まれる

ってことを強く感じてしまう。たとえば異性との恋愛(もちろん同性とでもOKですが)なんかでも、この自信・独立心・自己肯定感は重要なんですよ。自信過剰なヤツは“オンナはオトコに征服されたがっている”とかいった救いがたい自己中になってしまいますが、自信過少なヤツは逃げ出してしまうんです。以前、UTSに書いたことがあるんですが、私がまさしくそれだったんです。

ダブルスタンダード

おはようございます。

思いがけず紹介をいただいていて、びっくりしました。

ただ、ダブルスタンダードは日本社会でずっとその後も引きずられていきまして、種々の子どもたちの生活に影を落としていくことになったのだと思います。

で、あれは私自身へ自問であると同時に、皆さん方への問題提起でもあるわけでして……なんて、冷や汗かきながらぶつぶつ言っております。

ははははは。子育ての後、こう笑えるのがサイコーでございます。

勝手にお借りしてすみません

とむ丸さん

>思いがけず紹介をいただいていて、びっくりしました。

勝手にお借りして申し訳なかったです。近頃はそちらにコメントできず、メールを送ろうかといろいろ考えたのですが、自分の考えていたこととも重なったので、勝手ながら拝借させていただきました。

>ははははは。子育ての後、こう笑えるのがサイコーでございます。

いいなぁ、私も子育てしてみたいです。

ネオテニー的日本人

このエントリを読んで、日本は成熟したものよりも、幼く、かわいらしく、未成熟なものを愛でる感性は今でも強く残っていると思い起こしました。

「スポック博士」を読んで子育てした母の影響で、わたしは「泣いてもかけつけてもらえない」子供だったので、小学生の頃から自立はしているが、他の子供に共感する力の薄い、まさに「空気の読めない」こどもでした。

アメリカにいると、言葉にならないコミュニケーションはケモノのコミュニケーションとして除外されていて、なんでも口にだして言わないと駄目なのが面倒ではあります。

最近のアメリカでベストセラーの子育て書はスポック博士ではなく、「シアーズ博士」で、「アタッチメントペアレンティング」を提唱し、赤ん坊をなるべく抱っこして育てよ、といっています。アメリカの問題の多い社会もこういう子育てでもっとマシになるんじゃないかなあ、と思いつつ、自分もシアーズ博士の本を読みながらベタベタの子育てをしています。

かわいがるのも突き放すのも…

すべては親の‘業(ごう)’という気がします。
どんなに一生懸命考えて、わが子を慈しんでも、知恵を絞っても、自分が親の因縁を飲み込み、理解し、受け止め、なおかつ乗り越えていける深くて強い心を持てなければ、その因縁を結果として子に背負わせることになるのが、人生の因果のようです。
自分が親を疎んじれば、やがては自分も子に疎んじられる。自分が親を裏切れば、やがては子に裏切られる。親に手ひどく反抗した自分が、今度は子どもにコテンパンに反抗されて、泣かされる。
その時初めて親心の切なさ・辛さが身にしみる…。
『子ゆえの闇・親ゆえの闇』の中、今日も向き合い、歯を食いしばり、戸惑い、ため息をつく。

恥ずかしながら

みーぽんさん

私は育児といった方面にはトンと疎いので、スポック博士もシアーズ博士も全く知りませんでした。それで早速、検索をかけて調べてみました。するとwikiのスポック博士の項目に

「泣いても即座に抱き上げないという、厳しさと躾を重んじる子育てのやり方に反して、乳児とのスキンシップと愛情を示すことの重要性を説いた」と

ありましたが??? またゆっくり調べてみます。

それはそれとして、

>日本は成熟したものよりも、幼く、かわいらしく、未成熟なものを愛でる感性は今でも強く残っている

昔、マッカーサーは「日本人は12歳」といったとか? ネオテニーに見えるんでしょうねぇ。

>言葉にならないコミュニケーションはケモノのコミュニケーションとして除外されていて

わはは。日本人から見れば、何でも言葉にするのは下品なんですが(笑)。でも、「以心伝心」なんて言葉は最近の日本でも死語になりつつあるような。ブログなんかもその傾向に拍車を掛けているんでしょうね。

>自分もシアーズ博士の本を読みながらベタベタの子育てをしています。

(*~_~*)

******

naokoさん

業と来ましたか(苦笑) でも、確かに仰るようなことは厳然としてあると思います。因果を乗り越える、とは仏教的な言い回しですが...

子にとっては親は因果、親にとっても子は因果。因果が巡り巡って...、なんて考えると、そこから解脱すべしと説いたお釈迦さんの気持ちもわかる気はしますが。

う~ん、言葉があとに続かない。

別々の人間だから

> 母子の一体感には敵わない
うーんどうしても、愚樵さんの言葉からはマリアの母子像が浮かんできちゃいます(笑)
実際にはおむつを換えるやら、泣きやませるやら、はっきりいって必死で、
そんなに美しくは見えないと思うのですけど^^;

これは人によって違うと思うのですが、私は自分では一体感、感じたことないですねえ。
だいたいムスメは、敵(笑)じゃない、相方に顔がそっくりだし、
もっと小さい頃にはときどき相方じゃないとイヤってときもありましたし(逆もあり)。

言葉が何もしゃべれない頃から、ムスメはいつも何かを一生懸命伝えようとしていました。
その成長の過程を見ながら、彼女は家族ではあるけれど、
私とはまったく違う人間だということを日々実感していたような気がします。

みーぽんさんの
>「シアーズ博士」
私も翻訳本もってまーす。

うぷぷ(笑)

>うーんどうしても、愚樵さんの言葉からはマリアの母子像が浮かんできちゃいます(笑)

そうでしょうねぇ。どこかで読んだ話ですが、女性は妊娠して胎内の子供が大きくなってくると、体の動きも不自由になってくるし、自分の体が胎内の子供の奴隷みたいに思うことがある、とか...。こんな感覚はオトコにはわかりっこない。わかりっこないから女性から見れば甘ったれたような「母子一体感」を想像してしまうんだろうと思います。ぐっと砕けて言えば、「隣の芝生は青く見える」? また、母胎回帰への願望ってのかな、これと表裏一体になっている面もあると思う。

アメリカン・ネイティヴの人たちに伝わる儀式に、スエットロッジ・セレモニーってのがあるんですけど、これは子宮に見立てたサウナの中に入って、ここで告白をするものなんです。自分の悩みとか何とか、すべてぶちまける。そして、みんなぶちまけて、サウナから出てくると新たな再生、と、こんなことをやったりするんですね。母胎に回帰し、新たに再生する。まあ、なんと幼いというか...。でも、やってみると、かなりスッキリする(笑)。人間なんて、この程度の生き物なんだと思いますよ。

 お詫び

子育てにしゃしゃり出てきてすみませんが。わびねばならないことがあります。能力のある母親を否定しているかのような、私のコメントの表現をお許しください。昔から仕事を持ちながら子供を立派に育てられている方は沢山います。短絡的物言いで、いやな気分になられたかと思います。ただ気になるのは、今虐待する親が異常に多いので、それもお金という毒薬が介在しているような感じがしています。皆さんのようにきちんと表現できない自分がもどかしいのですがごめんなさい。今小さいお子さんをお育てのお母さん自信を持って、明るく楽しくお過ごしください。大丈夫です。失礼しました。

農婦さん

いつもありがとうございます。

農婦さんのコメントにはいつも“血の通った”感じがします。愚樵などと名乗りながら理屈をこね回している私の文章を読んでいただいて、とてもありがたく思っています。

これからも思ったことを遠慮なく書き込んでいただければ嬉しいです。

代わり

農婦さんとやら、横口失礼します。

あなたからみれば愚樵なんて出来損ないの若造でしょうに、代わりに謝っときますね。
同じ様な出来損ないだから代理には丁度いいやろ。

該当発言は削除されました?。チラッと見た様な気がするけれど大して気にしなかったのは出来損ないの野郎のサガで、農婦さんの気持ちは推し量るしかないけれど、
返事がないのは良い便りだよ。たぶんね。返事は忘れた頃に有るさ。
 子供は親の言うことは聞かないけれど親のする事はする。
って言葉知ってますか?。ガミガミ子供に言ったって子供は口答えばっかしするけれど、親のする事はしっかり見てて直ぐ真似をするって事ですよ。
なかなかね、出来の悪い娘の様な母は素直じゃないからね「うん」とは言わないよ。
でも大丈夫。そんなこと気にしなくても、あなたの行動はあなたの子供が見てる、そしてきっと真似してくれるから心配ないよ。
そしていつかね、可愛いけれど憎たらしい子が、憎たらしいけどかわいい子に、代わって言ってくれるよ。
ありがとう、って。

出来損ないの野郎の言う事だけど、、かわいくてかわいい子だったら忘れて下さい。

親の愛

本題について一意見でも

「児やらい」という言葉は知らなかったけど必然だと思ってた。
親が子を育てる目的がこれではないでしょうか。
親の使命は子供を愛し育むだけじゃ無い筈。
突き放すという表現が適切かどうかと考えるけれど、
子供を人として旅立たせるのが親の使命ではないだろうか。
それをしないのは健康で恵まれてる事がわからない人。

体が不自由で養護学校に通うような人の親は、割と突き放す人が多い気がする。
それは親が子供より長く生きられないことを知っているから。人は必ず死ぬのだから。
親の介助が必要なままの子供では死ぬに死ねない思いを持っているのだと思う。
自分が死んでも生きられる子に成って欲しいという気持ちが有るのだと思う。
普通の育て方ではそれが無理だと分かってる、時間が足りない思いがそうさせる。
健康で死を知らない親は、子供を可愛がる。時間はたっぷりあるから。

昔、中村久子という人が居た。幼い頃手首から先両手両足を失った。
でもその人は針に糸を通し裁縫が出来たという。何を教わったか、何も教わってない。
失った時、その人の母は泣き悲しんだ。でもある日から泣くのを止め子供を突き放した。
手の有る親では手のない子の裁縫は教える事は出来ない。自分で探す様に、
自分の生き方は自分で掴むしか、親が手助け出来ない事を悟ったのだと思う。
短い命なら助けてやっただろうけど、親が死んだ後はどうなる、今の内から
練習しなければ、間に合わないと思う気持ちが突き放した。
近所からいたいけな子に酷い仕打ちをする酷い親だと罵られながら。
親は涙を流さなくても本当はかなしかっただろうね。
「愛」という字に「かなしい」という読み方が有ることを知ってますか?。
私も最近知ったけど、「愛しさ」というのはこんな想いなのだろうか?。

今年の成人式のニュースを見てると、振り袖で着飾った娘に親が
「かわいい?。」「かわいいよ。」と言っていた。
今日は何の日か、子供でもないのに児童扱いか、
「ばっきゃろー、蹴倒せ。」とテレビの前で呟いた。

どこで突き放すか

>親の使命は子供を愛し育むだけじゃ無い筈。
>子供を人として旅立たせるのが親の使命ではないだろうか。

ご指摘のことは、このエントリーの前提なんです。問題はどの時期で突き放すか。乳飲み子の頃から突き放すか、ある程度育ってから突き放すか。そして、その時期の問題が自我の形成と関連があるのか、ないのか。


中村久子さん。ヘレン・ケラーが「私より偉大な人」と賞賛を送ったと言われている人ですね。

鈴木順子さんってご存知ですか。つい最近、事故から3年が経過したとしてニュースになっていた、JR西の福知山線脱線事故の被害者。この方のドキュメンタリーが今年の1月の放映されていました。
http://www.mbs.jp/pgm/info/1199172518.shtml
http://www.mbs.jp/voice/special/200711/06_10739.shtml

この方は、あるいは現代の中村久子さんでしょう。順子さんは苦しいリハビリに耐えて奇跡と称されるほどの回復を成し遂げましたが、「苦しい」ことは「突き放される」ことでもある。なぜなら、その苦しみはたとえ親でも共有できないものですし、その苦しみに耐えろと要求されることは突き放されることに他ならない。しかし、その苦しみに耐えられるのは、突き放された方もちゃんと突き放された理由がわかっているからです。

親は子を突き放す。同じ突き放す行為にしても、その「根っこ」のあり様でまったく違う印象を相手に与える。親から疎まれて突き放されたのなら、子が耐えるのは難しいでしょう。

わかんねぇ

愚樵どん、さんくす

でも、わかんねぇっす。
>苦しい」ことは「突き放される」ことでもある。

あなたの感性はいまいち分からん。何か論理の飛躍を含んでる様だ。

>しかし、その苦しみに耐えられるのは、突き放された方もちゃんと突き放された理由がわかっているからです。

突き放された理由は分かってないと思うが?。
第一、この放映は見てないから何を言いたいのか分からないけれど、「児やらい」の例えとして適当かどうかわからない。寧ろお母さんがしっかり庇護してるのでしょう?。

>中村久子さん。ヘレン・ケラーが「私より偉大な人」と賞賛を送ったと言われている人ですね。

そうだ、あんがとなー、知っててくれて話が早い。

そう?

ハムレットさん

>でも、わかんねぇっす。
>あなたの感性はいまいち分からん。何か論理の飛躍を含んでる様だ。

ほいほい。ならば、その論理の飛躍をしてください。
私の「苦しい」=「突き放される」の論理は「苦しい」ことは共有できないという公理から出発しています。論理の飛躍というからには、私の提示した公理は認めるということでしょうが、では、「苦しみに耐えろと要求されることは突き放されることに他ならない」のこのワン・センテンスのどこに論理飛躍があるのか、指摘してください。

ハムレットさんかはむれっとさんかは知りませんが、あなたはこの問いにちゃんと答えなければダメですよ。私はあなたの「言葉だけ」という立場を認めませんが、論理云々は「言葉だけ」の問題です。あなたが「言葉だけ」の立場を主張されたのであれば、「言葉だけ」でキチンと議論できることを示すべきです。

>突き放された理由は分かってないと思うが?

わかってますよ。まあ、ですがここは感性の問題でしょうから、ここでは問題にしません。

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愚樵空論 ヒトは人間かケモノか

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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