愚慫空論

共感と共有をイコールにしてはダメ

昨日、嬉しいTBを頂いた。朝、TBが入っているのを見てからエントリーを拝見し、半日考えて昨日の夜、TB元にコメントをした。それからまた一日考えて、今、このエントリーを書いている...。

嬉しかったそのエントリーは、「ひねもすたのた」の『ブログで討論する』というエントリー。私はそこで管理人のえあしゃさんと討論を行った。NHKの朝ドラ『ちりとてちん』の解釈を巡って、母性を巡っての討論。その討論をえあしゃさんは“きつかった”と書いておられる...。


きつかった理由はえあしゃさん自身が考察されている。そこに私は何も付け加えることはないし、また、付け加える資格もない。ただ私は、えあしゃさんの“きつかった”という述懐を、きつかったことを乗り越えた、あるいは乗り越えようとしている前向きなものだと受け取った。産みの苦しみだと解釈した。だから、えあしゃさんへのコメントは、“おめでとうございます”。

一日たってみると“おめでとうございます”なんて、上に立ったようなモノの言い方だったかな、と少し反省。“価値あるものが生まれますよ”なんて書いたけれども、これも書き方が不十分。「価値あるもの」とは、私がえあしゃさんに考えろと要求したもののことではない。あくまでえあしゃさんが生み出すもの。もちろん、私が要求したものと同じものを生み出してくれたなら嬉しいのだけど、そうでなければ嬉しくないなんてことはまったくない。そうであろうとなかろうと、何か「価値があるもの」が生まれるときには、“おめでとうございます”。もしかしたらその「価値あるもの」に今度は私がきつい思いをしなければならないかもしれないけど(笑)。


書くかどうか、迷うけれども...、本当は、最初は「おめでとうございます」ではなかった。「えあしゃさんも若狭になりました」ってのが最初に浮かんだ言葉。もちろん、若狭は『地理とてちん』の主人公のこと。取りやめたのは討論の経緯を考慮してのことだったのだけど、ここで書いてしまうとこれを取りやめた意味はなくなってしまう。でも、いいや。

若狭も生み出したんですよね、子供と一緒に。「おかあちゃんみたいになりたい」を。A子への劣等感も、“おかあちゃんみたいになりたくないの!”も「おかあちゃんみたいになりたい」を生み出すための産みの苦しみだった。それがドラマの筋立て。えあしゃさんが生み出すのは上で書いたとおり「おかあちゃんみたいになりたい」ではないだろうけれど、もはや、そんなことはどうでもいい。若狭とえあしゃさんが(私の目から見て)一致するのは、産みの苦しみの後になにか「価値あるもの」を生み出す、ということ。

こんなことをかいてしまっているけど、果たして私はえあしゃさんの視点に立つことが出来ているだろうか? もしかしたら、また再びえあしゃさんに私の視点を押し付けているだけだったりして。うん、でも、えあしゃさんも言ってる通り、一度、押し付けて見なきゃ押し付けかどうかわからないんですよね。押し付けの意義を認めてこそ、ブログでの討論も意味あるものになる。えあしゃさんのエントリーはそうした意味なんだろうとおもいます。

******

終わってみて、ブログで討論するには何が必要かといえば、
それは相手の視点を自分ももつこと、だと思いました。
別に視点を一致させる必要はまったくありません。

これは上で取り上げたえあしゃさんのエントリーの中の、えあしゃさんの言葉。私が『共感と共有をイコールにしてはダメ』という文章を書こうと思ったのは、ここに触発されてのこと。もう少し自分なりの文章を重ねてみたいと思ったから。

私は“相手の視点を自分に持つこと”を「共感」、“視点を一致させること”を「共有」と置き換えてみた。“相手の視点を自分に持つこと”と“視点を一致させること”はどちらも「共感」なのかもしれないが、区別したのは、タイトルどおり、これらふたつをイコールにしてはならないと思うから。


共感と共有をイコールにしてはならない。これは食べ物を例にとって話を進めるとわかりやすいだろう。

世の中にはいろいろな食べ物があって、いろいろな人がいて、食べ物と人の組み合わせの中には好いものもあれば芳しくないものもある。その芳しい芳しくないの大半がいわゆる「好き嫌い」というやつで、これは人間の方の精神の責任がある場合。残り少数はアレルギーなど身体に責任がある場合だが、これはここでの考察からは除外。

さて、ある人がある食べ物を好きになる理由・嫌う理由だが、これこそ千差万別。個別的であっても普遍的であることはない。普遍的なのは、食べ物は食べることができると言う事実だけ。食べることの出来ないものを食べ物と呼称することはない。

ある人がある食べ物を嫌っているとする。「共感」とはその嫌っている理由を理解すること、としてよいだろう。とすると、「共有」とは? その理由を自分のものとすること。これが「共有」。時々子供が、○○君が××を嫌いだからオレも××が嫌い、なんてことを言ったりするが、これは「共感」=「共有」としてしまったケース。ごく普通の常識をもっていれば、こうした「共感」=「共有」はバカバカしいことだとわかる。けれど、「共感」――○○君が××を嫌いを理解する――ことはバカバカしいことでもなんでもない、とても大切なことだ。このことだって特別に高い見識がなくても理解できること。


「共感」と「共有」。もう少し言い換えてみると、「共感」は個別的な関係であり、また個別的だと自覚することなのだが、「共有」は個別的であることを忘れて普遍的なものとして取り扱おうこと、と言えるだろう。この「共感」と「共有」の関係は、食べ物のように“食べ物とは食べられるもの”という普遍的なルールが明白な場合は理解しやすいが、理念や観念や論理といった複雑なものの場合は、普遍的なものが明白でないために、「共感」=「共有」が起こりやすい。何が個別的であるのかの区別がなかなか付けがたいわけだ。

たとえばクジラを食べる人間は野蛮だ、という論争がある。これは「クジラは食べ物」という視点で見た場合、野蛮という判断は個別的だとなる。このことはクジラよりもイヌの方が実感としてはわかりやすいか。いつだったか、お隣の韓国をイヌを食する風習があると言って野蛮視した野蛮人たちがいたが、これも構造としてはクジラ食批判と同じ。

“イヌは食べ物”が普遍的なルールとして認知されているなら、イヌを食べることを野蛮だと考えるのは個別的だということは明白になる。私もそうだが、イヌに思い入れがある人間は、イヌが食べられることについては抵抗がある。けれども、そのイヌへの思い入れはあくまで個別的なこと。だから、その個別的なことを普遍的なことに格上げしようとすることはバカバカしいこと――こうした図式は容易に成り立つ。

ところが、実際なかなかそうはいかないのは、“イヌは食べ物”だということが普遍的なルールとして確立されていないという現実があるから。だからイヌを食することを野蛮だと思うといったことが個別的だと確認でず、「共有」することが許されてしまう。これは“イヌは食べられる”という客観的な現実に拠るのではなくて、“イヌを食べるべきかどうか”という思想に拠るからこうしたことになるのであって、思想とはこのように普遍的なものが明白にならない。


では、普遍性が明白でない思想にはどう接すればよいか? 「共感」と「共有」とを区別した上で、「共有」して好いか悪いかの区別、個別的なのかどうかの区別をどのようにつければよいか? その基準線をどこに引けばよいか? この答えがえあしゃさんのエントリーのなかにある。

その答えは“きつかった”という言葉。きつかったのは、ジレンマを抱え込んだから。ジレンマは葛藤を生み、その葛藤が“きつかった”という言葉になるわけだろうが、その葛藤が生じるのは明白な普遍性が失われてしまったから――普遍性が明白なときには葛藤など生じるはずはないのだが、思想にはもともとからジレンマを抱えたものなのだという普遍性があるのだから、“きつかった”のはその思想の普遍性に立ち戻った、ということになる。つまり、ジレンマを抱え込むような共感は共有してもよい、逆にジレンマを排するような共感は共有すべきではない、という基準ができあがることになる。

(死刑廃止を巡る論争を巡る立場の違いも、この基準はよくあてはまる。が、それはまた機会を改めて)。

*****

思想はジレンマを抱えているという普遍性から導き出され、ジレンマを抱えるものこそが共有を許される、すなわち正しい、という基準。この基準こそが正しいのかどうか、それこそ問題だが、基準の正否は別にして、正しく生きようとすればどうしてもジレンマは抱え込んでしまうということは、経験上いえることだと思う。

では、人間はジレンマを抱え込むしかないのか? そうだとしか答えがないのならきつい話になるが、ジレンマ解消の方法はあると思う。そのひとつがこれ。


なんのー

私の愛読書(?)『クッキングパパ』のワンシーンを拝借してきたもの(食べ物云々を考えているときに、ふと頭に浮かんだ)だが、どうだろう? チーズが嫌いなお爺ちゃんがチーズが出されてしまったというジレンマをいかに解消したか? これは「方法」などといったものではない。「姿勢」とでもするのが相応しいだろう。そして、私はこうした姿勢を受容・順応原理(母性原理)といいたい。ここでその原理を発揮しているのはハゲチャビンのオヤジだけど(笑)。

このオヤジには、“オレはチーズは嫌いだ!” と言い立てる権利もあり、それだってジレンマ解消の立派な「方法」。どちらが良いか悪いかの問題ではない。チーズを食べる食べないは、個別的な場だから。

コメント

吹きだしてしまいました。

拙エンントリーにコメントありがとうございます。
私がエントリーを挙げたのは、愚樵さんのこのエントリー、えあしゃさんのエントリー、またえあしゃさんにエントリーを書かせた最近の一部ブログ界のできごとが故です。それについてはワタシのなかではまだまだ考える余地があり、今、ここで述べ切れません。

で、とりあえず一言。
最後の(母性原理)で、吹き出してしまいました。
ずっと、ふむふむ、と頷きながら読んでいった最後の爆笑。
この言葉に相当こだわりがありますね。
別にこの言葉でなくてもいいと思うのだけど……(笑)

産む性のための哲学を

お邪魔します。

ブログ主さんからご覧になって無理をしているように見える女性は、実際に無理をしていることが多いのだろうと思います。誰しも逆風のなかで歩こうと思えば、飛ばされたり押し戻されたりしないように、力を入れて歩くしかないものです。そういう状況に置かれた女性に「力を抜け」とか「自然体で」とか言うのは何だかなと私は思うのです。

年齢も関係あって私のように働いて結婚して子どもも産んで50歳くらいになると、もう誰も嫌みなど言いませんが、私も若い頃は職場で、あれこれ言われました。仕事が終わらず夜遅くまでやっていると「御主人がかわいそう」と言われ、5時半にさっさと帰ろうとすると「そんなことでは大成しない」と言われました。それで、「ご心配ありがとうございます。ご心配くださる○○さんの温かいサポートがありますから、大丈夫、何とかなります。それというのも、夜遅くまで頑張って働く私は将来が楽しみなキャリア・ウーマン、定時で帰る私は良き妻良き母ですものね」と、にっこり笑って言って差し上げることにしたら、そのうち誰も何も言わなくなりました。

ブログ主さんは、女性の一人ひとりが人間らしい生き方をできるように、応援してくださる方であろうと信じます。それで、長くなり申し訳ありませんが、二点、コメントをお許しください。

追求すべき明白な普遍性は「ある」と私個人は考えています。
それは「人間の解放」です。そのために、産む可能性を持つ性のための哲学が新たに打ち立てられる必要があると考えます。女性も含めた「人間」精神の解放を考えるとき、私は「母性原理」にせよ、何にせよ、「○○原理」を思考のスタート地点もしくは基底に据えることは出来ないと思います。これが第一点です。

生きていくのに「○○原理」を据えるのは、その当人の自由ですが、「○○原理」を据えない女性たちの生きにくさが、一体どこからくるのか、充分な考察ができていない現状において、何とか或る女性が本人にとって人間らしいと思える生き方を、世間の逆風のなかで模索しているときに「片意地を張っている」みたいな見方をするのは、彼女の志気を挫くという意味で残酷だとも思いますが、いかがでしょうか。これが第二点です。

「○○原理」を据えないで、何とか自分にとって人間らしいと思える生き方を模索する実践は、特に日本では「我が侭」と同一視されがちではありますが、その逆風に耐えた1つひとつの実践が蓄積されて、女性も含めた「人間」の解放が、どういう人間精神をもたらすのか、徐々に見えてくることでありましょう。私達はまだ誰も実際に「解放された」女性を見たことがないのですから、「正常な(健康な)女性」とは、こういうものだという過去の経験に束縛されないようにしたいものです。

長々と失礼しました。

理由があるんです

dr.stoneflyさん

>この言葉に相当こだわりがありますね。

はい。あります。もちろん、この言葉でなくていいんですけどね。でも、そう呼びたいごくごく個人的な理由があるんです。

それは私がマザコンだから。いえ、一般的な意味でのマザコンではないんです。私自身の母の話になると、どうしても顔の筋肉が強張っていってしまうような、そういうマザコン。だからこそ私はこの言葉にこだわり、賛美したいのでしょう、きっと。

私の中にあるマザコンは負の感情です。これは自分で自覚しています。こんなの、誰にも共感してもらいたくないし、まして共有など願い下げ。私が負の感情を背負うようになったのは私には何の責任もないはずのことなんだけど、そうは言っても乗り越えていかなければならない壁でした。今だって完全に超克したとは言い切れないでしょう。

でもね、自信があるんです。これに関しては。先のことはわからないけど、おそらくは揺るがないだろうという自信。なぜなら私は肯定したんだから。負から出発して、産みの苦しみを経て、肯定にたどり着いたんだから。どれほど負の要素を並べ立てられようとも、揺るがない。負の要素に苦しめられていると言われても、揺るがない。

これは「譲れないもの」なんかじゃないですよ。共感はするんだから。私だって負の要素に苦しめられたんだから。でも、共有はしない。もう私はそんなことで苦しんでないから。負の要素がなくなったんじゃないですよ。負の要素は依然として存在する。負の要素をなくすことは出来ない。けれども苦しくない。そして、私がそうなれたんだから、ほかの人もそうなれると思っている。ただそれだけの話。

ただ、このようなことは、いくら論理を並べ立てたってたどり着けない。だから言葉では完全には伝わらない。論理の狭間に埋まっている何かを自分でつかみとるしかない。この作業にはたいていの場合、苦しみを伴う。苦しみに耐えられなくて途中で挫折してしまうことも多い。かといって苦しまない人間は何かが埋まっていることにすら気が付かない。だから私は子供は育め、というんです。論理は教えることができても、論理の狭間にあるものは教えられない。苦しみながらつかみとる体力を育んでやるしかない。

いずれ書いてみようと思うけど、私は私のなかにある芽の発育を妨げられるような育てられ方をした。にもかかわらず、育っているし、生きている。かなりひねくれたけど。その理由はと考えてたどり着いたのは、なんのことはない、母がそのように産んでくれたから、という答え。もちろん母ひとりで産んだわけじゃないし、また神様がそのように命を授けてくれたのと考えても差し支えない。どのように考えてもいいけど、母がいなければ誰しもがこの世にいない。私にとっては苦しい存在だった母だが、その母がいなければ私は存在しなかった。選択することも受け入れることも、さらには苦しむことすらもできなかった。そこに至ったのが私の母性賛美の出発点。つまるところは実に個人的な自己肯定なんですけど、ね。

さて、それにしても、その言葉でなくても、というのはその通りだと思います。こだわる理由は明かしてしまったので、こだわる理由がなくなってしまいました。なので、今後はこだわらないことにします。

『「お金」崩壊』は読んでます

Hiさん、はじめまして、でしたでしょうか? 以前にもコメントいただいた記憶があるような?

Hiさんの仰る「人間の解放」。『「お金」崩壊』をお勧めくださったことあたりからなんとなく察しはつくような気はします。求めているものにさほど大きな隔たりはないと感じますので、少し踏み込んで返事をさせていただきますね。

人間は環境に制限される生き物ですが、一方で自分で自分を縛る生き物でもあります。「人間の解放」の意味は、コメントを拝見したところでは人間を制限する環境条件を改善するといったことだと受け取りましたし、そこには一も二もなく賛同するのですが、同時にコメントからは自分で自分を縛っているHiさんの姿も感じられるような気がします。

貨幣で話をしますと、人間は貨幣を中心に動いている経済に翻弄される存在であり、それゆえ貨幣中心の経済のあり方を改善しなければならないといった議論がある一方で、人間自身が貨幣に捉われていることを自覚して自己分析を進めなければより深い貨幣についての議論はできません。あるべき環境条件の考察は、自己分析なしには出来ません。けれど貨幣の呪縛から解放されていない人は貨幣に捉われた人間自身の自己分析を進めることができませんし、それを進める他者の議論に懐疑の眼差しを向け、「お金なしでどうやって生活するんだ」などと攻撃の矛先を向けてきたりします。それと同じような懐疑と矛先をHiさんのコメントに感じ取れるような気がするのです。

女性が男性優位の社会システムの中で苦しい立場にある。私はそれを否定するつもりはありませんし、改善すべきだと思っています。ただその話と、人間の特性――環境を改善しようとする特性と環境を受け入れようとする特性――を分析しようとする姿勢とを混同するのはおかしいと思います。人間には相反する2つの特性があるのは事実であり、その特性に父性原理母性原理と名づけるのは、単に名称の問題です。この名称がよくないという話もあるでしょうが、Hiさんのコメントはそれとも違いますね。

私は確かに母性を賛美すると書いています。これには個人的な理由もあって、それはdr.stoneflyさんへの返答に書きましたが、理由はそれだけではなく今の社会全体が男性的な方向へ傾きすぎているという批判も同時にあってのことです。社会の中で自己実現を目指す、なんてのは私に言わせれば男性的だということになりますが、それは個々の女性のことを批判しているのではなく、男も女も含めたマクロな社会のあり方全体への批判であり、貨幣経済への批判と同列のものです。貨幣経済への批判を貨幣を使用する個々人への批判と受け取るのは的外れですが、同様に、男性的社会を批判する文脈での母性賛美を、女性個々人を束縛するためのものだと受け取るのも、これまた的外れだと思います。

ああやっぱり難しい!

私の断片的な思考から哲学的なエントリーが生み出されるというのは、なんとなく感動ものですね。

毎日、コメントしようと考えつつ、思考がうまくついていかなかったんですが、
哲学的なコメントがついちゃって、さらにできないじゃないですか(泣)

実はこの記事を読みながら、愚樵さんって軽々と自己を離れて思考する人なんだな、と
思っていました。私にとって自己と思考は切り離しがたいものだから。

でも、dr.stoneflyさんへのコメントのお返しを拝見したところ、
愚樵さんにも自己と思考を結びつけるものがあったのですね。
それでも、その気になれば切り離すことは難しくないのですか? 不思議だ…
(全然、記事の感想ではありませんね。ごめんなさい)

安心しました?

えあしゃさん

>愚樵さんにも自己と思考を結びつけるものがあったのですね。

そりゃ、ありますとも。えあしゃさんと同じです。それなくして思考などできるわけありません。

全ては自己肯定のためです。母性の言葉をえあしゃさんが否定するのも私が肯定するのも、根は同じ。ただ、どのようなものであれ、否定は結局自己否定なんです。「譲れないもの」も同じ。dr.stoneflyさんのところで人生アウトさんが他者との関係に言及されてましたけど、他者も認識した以上は自己なんです。ゆえに、他者の否定は自己否定になんです。だから苦しい。

>その気になれば切り離すことは難しくないのですか?

あはは。そこまで達観してません。逆に、その気になればなるほど切り離せない自己を感じてしまうジレンマに陥っているのが今の私。ここを克服するには「無」になるしかないのかも、なんて思ってますが(笑)、それも寂しいし...。

その証拠とでもいいますか、私の文章には「私は」が多いでしょう? 自分を突き放そうとすればするほどなぜか「私は」が多くなる。嫌だなぁ、と思うんですけど、止まらないんです。

そういうことなら

解るなぁ。
最初の「譲れないもの」。その「譲れないもの」を乗り越えて一周回った「譲れないもの」。表面的に(他人が見える)その「譲れないもの」が同じでも、自分にとっては最初の「譲れないもの」のときに見ていた風景と、一周回って辿り着いた「譲れないもの」のときに見える風景が違う。
うーん、それぞれの風景を言葉で表すのは難しそうだけど、解るなぁ。

お邪魔しました。

> いずれ書いてみようと思うけど、私は私のなかにある芽の発育を妨げられ
> るような育てられ方をした。にもかかわらず、育っているし、生きてい
> る。かなりひねくれたけど。その理由はと考えてたどり着いたのは、なん
> のことはない、母がそのように産んでくれたから、という答え。もちろん
> 母ひとりで産んだわけじゃないし、また神様がそのように命を授けてくれ
> たのと考えても差し支えない。どのように考えてもいいけど、母がいなけ
> れば誰しもがこの世にいない。私にとっては苦しい存在だった母だが、そ
> の母がいなければ私は存在しなかった。選択することも受け入れること
> も、さらには苦しむことすらもできなかった。そこに至ったのが私の母性
> 賛美の出発点。つまるところは実に個人的な自己肯定なんですけど、ね。

誠に申し訳ありませんが、ここに共感してしまいました。同感です。私にも似たような「原体験」があるからです。たとえば伊勢田哲治がその著書
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480062451/
166ページで
| 最終的には「だって見たんだもん」といった具体的な経験に
| たどりつくことができる。
と述べているように、どのように理由をつけて何を主張しようと、根っこにある理由を突き詰めれば、必ずや何らかの「原体験」=「だって見たんだもん」があります。そのことは、受け止め合わなければ、それに寄って立つ思考も互いに理解できないことでありましょう。

前のコメントでは「哲学」という堅い言葉を使って申し訳ありませんでしたが、要するに「哲学」=「考えること」、「討論」=「みんなで考え合うこと」であると思っております。>> えあしゃさん

私の母も、私を潰すように育てようとしました。一昔前のことですから「女は女らしく」「夫唱婦随」「良妻賢母」を目指すようにと。しかし、父方の祖母は強靭な明治女でしたから、そういう枠組みから初めから外れて逞しく生きていました。また、私も性格的に、我慢ばかり強いられるような状況に甘んじることができなかったために「良妻賢母」教育に抵抗して、一昔前のことですから(今であったら虐待になる)激しい折檻を日々受けて育ちました。しかし、私は母という人間、母のあの時代の生き方を否定しようとは思いません。あの時代には、あれも「常識」の範囲内であったのでしょう。また、産む性としての「母性」を否定しようとも思いません。ただ、「原理」というのは、自分がものを考える上でも、みんなで考え合う上でも、どういう働きを持つ言葉なのでしょうか?――そこが引っ掛かるわけです。

前のコメントで書きたかったことは、「○○原理(何らかのprinciple)」をスタート地点もしくはベースに据えて、まともな哲学(思考=考えること)を進めることが可能なプリンシプルは、“principle of charity”(思いやりの原理)くらいのものであって、それ以外の「○○原理」は「母性原理」も含めて問題があるでしょう――ということです。

ちなみに、“principle of charity”の訳語には色々ありますが、私は「思いやりの原理」という訳が好きです。上にご紹介した著書48ページでも使われています。「思いやりの原理」は討論のベースでもあります(上掲書51ページ)。

ブログ主さんは、

> 人間には相反する2つの特性があるのは事実であり、その特性に父性原理
> 母性原理と名づけるのは、単に名称の問題です。この名称がよくないとい
> う話もあるでしょうが、Hiさんのコメントはそれとも違いますね。

とお書きですが、私は「原理(principle)」という用語の使い方に第一に問題を感じたのです。舌足らずで、すみませんでした。

「受容・順応原理」と言い換えても、「原理(principle)」という用語の使い方には、ブログ主さんのお考えの普遍性を高めるためには、問題が残ることでしょう。それというのも、

> 人間には相反する2つの特性があるのは事実であり、

という点についても、異論がある人は世に少なくないはずだからです。これは「事実」ではなくて、ある種の構造主義的な捉え方に過ぎませんから。そういうふうに一つの哲学的な捉え方にすぎないことを「事実」と言ってしまうと、みんなで考え合うことが難しくなるのではありませんか。そうして、ブログ主さんは、「相反する特性」に「○○原理」「××原理」と名称を付けておいでになるわけです。これは、ブログ主さんのお考えの普遍性を高めるには、邪魔になる点だと思われます。

折角、たとえば具体的な社会的な施策(学童保育の充実など)で、みんなが考え合って、合意ができる場合があっても、そうやって、ある種の構造主義的な捉え方に合意できない人々を、自己分析の足りない凡夫と断定するならば、話は進まないのではありませんか。

物的な環境さえ整えれば、人間が解放できるとは書きませんでした。それとは違う視点です。わかりにくかったようで、すみませんでした。書き直してみますね。

物的な環境を整えさえすれば、自己の欲求と他者の欲求が対立するのもでない場合が少なくないにもかかわらず、環境整備によって個々人に選択肢を保障することを目指さないがゆえに社会問題化している欲求の対立があります。そうした(社会的な施策によって調整可能な)欲求の対立を、個人が内面化してしまって、自己内部に葛藤を生じているケースも多々見受けられます。そういう葛藤に苦しむ必要はないはず――ということです、私が申し上げたいのは。つまり、ブログ主さんとは逆の視点に立って、自己内部にある葛藤が、実は社会問題の内面化ではないかを考えれば、悟ったり達観したりできない凡夫であっても、周囲の人たちと力を合わせて、社会問題として解決できるケースもあるわけですよね? というわけで、

ブログ主さんは、

> 人間は環境に制限される生き物ですが、一方で自分で自分を縛る生き物で
> もあります。「人間の解放」の意味は、コメントを拝見したところでは人
> 間を制限する環境条件を改善するといったことだと受け取りましたし、そ
> こには一も二もなく賛同するのですが、同時にコメントからは自分で自分
> を縛っているHiさんの姿も感じられるような気がします。

とお書きですが、自分で自分の精神を解放するために、自分でも考えるし、また話し合うこと、考え合うことを目指しております。ゆえに、ある種の構造主義的な捉え方を簡単に「事実」としてしまうようなことには懐疑的にならざるを得ません。また、上にも書きましたが、自己内部に葛藤を生じた場合にも、それが単なる社会問題の無自覚な内面化ではないか?を、自分でもよく考え、他の当事者とも話し合って考え合う必要があるでしょう。

ブログ主さんも仰るように、もちろん人間を制限するのは物的な環境条件だけではありません。言語的な思考上のツールからも、個々人の限られた経験からも、精神が制限されてしまうのです。ゆえに、構造主義的な思考は有用な面もありますが、それが一つの捉え方に過ぎないことも常に念頭に置いておく必要があります。そして、何よりも前のコメントでは、個々の実践を出発点にして「産む性のための哲学を」これから作り上げること、そして、過去の経験だけに束縛されない自由な精神を追求することを提案したかったのです。産む性である個々人の日々の実践を進めるときに、それと車の両輪のようにしてしか、その哲学(産む性というものを、どう考えればいいのか)は考え進めることができないでしょう。

そして、母も親として子育てに大きな影響力を持つ以上は、母親が過去の経験だけに束縛されない自由な精神を追求することは、子ども一人ひとりがその子らしく育っていくのを受容して助けていくことにつながります。母親が、どこまで解放されているかによって、ブログ主さんが、

> 私は私のなかにある芽の発育を妨げられるような育てられ方をした。

と仰るようなことも、どの程度、避けられるかどうかが違ってくるはずです。私は産む性として、そういうふうに自分の母を見ておりましたから、結婚前の若い頃から、産む性であることを誇りに思うと同時に、女性である自己の解放は、将来、産む子どもたちの人間解放に必ずつながるものと信じてきました。

そうして、自分の生活実践上は、40歳までキャリアを築きましたが、その後、両親が次々に要介護状態になったという現実に折り合いを付け、自営業のオバサンに転身しました。今まだ小学生の子がいても学童保育は定員オーバーで門前払い、しかし、夫婦とも自営業なので何とか遣り繰りしています。もちろん学童保育の充実を進めるために声を上げる人たちと協力します。こういうふうにして私個人は「かわいいオバアになりたい」と思う歳にかかるオバサンなので、実際は男性優位の社会システムでも逆風の中には今いないわけですが、若い人たちが逆風のなかで日常を過ごしていること、これは忘れてはならないと思っております。

どれくらい逆風を受けるかは確かに個人差もあります。私個人は、若い頃から「母性」を強調されても辛いと思ったことは実はありません。そういうことで傷ついたことがなかったからです。それというのも祖母が強靭な明治女だったお蔭です。しかし、それは運がよかっただけで、ブログ主さんが男性に生まれて女性差別を実際に受けたことがないというのと大差ありません。

たとえば、授乳しようにも授乳室がなかったら(というより授乳室なんてないほうが今よりもなお当然でしたから)、野良でオッパイをやるように、街中でもべろ~んとオッパイを出して授乳していました。大概の人は目をそらして見ないようにしてくださいます。たまに「こんなところで何をするんだ」と言うオジサンがいらしたので「ごらんのとおり、オッパイをやっています」と応え、「こんなところでダメでしょう」と言われたら「では、どこでオッパイやったら宜しいでしょう?」と素直に訊いて、応答がなければ、そのまま授乳していました。田舎の飛行場では「では、こちらへどうぞ」とVIP室に通されたりしてラッキーでしたよ。「目のやり場に困ります」という繊細なお方には、「見慣れれば何てことありませんよ~! もうお忘れかも知れませんが、母上のオッパイ飲んでいらしたでしょ? あれと同じです」――なんていう話は、強靭な明治女を見て育ったからできることで、普通は授乳1つ取っても、苦労が絶えないものです。たとえば、
http://homepage2.nifty.com/~shirai/
で「搾乳」の項をご参照ください。ちなみに、オッパイべろ~んは繊細さに欠けると思われる方も多いようで、今の日本では、
http://www.mediafactory.co.jp/c000051/archives/018/009/18942.html
73ページでも紹介されているような、授乳スカーフが今のお勧めでしょうか。授乳スカーフは搾乳スカーフとしても使えるのではないでしょうか。

話が脱線して、すみません。

なお、貨幣に関して思考を深めるには、シルビオ・ゲゼル
http://www.grsj.org/
が参考になると個人的には考えております。地域通貨などの生活に密着した実践を進めるなかで思考も深めていくことができるでしょう(まだ考え中)。

ブログ主さんは、お書きになりました。

> 人間自身が貨幣に捉われていることを自覚して自己分析を進めなければより
> 深い貨幣についての議論はできません。あるべき環境条件の考察は、自己分
> 析なしには出来ません。けれど貨幣の呪縛から解放されていない人は貨幣に
> 捉われた人間自身の自己分析を進めることができませんし、それを進める他
> 者の議論に懐疑の眼差しを向け、「お金なしでどうやって生活するんだ」な
> どと攻撃の矛先を向けてきたりします。

青木氏の本をすでにお読みのブログ主さんには釈迦に説法でしょうが、
> 「お金なしでどうやって生活するんだ」などと攻撃の矛先を向けてきたり
> します。
という問題こそ正に、そのようなことを言う人が社会問題を内面化した結果に過ぎないとも言えましょう。現在の貨幣のあり方によって生じる社会問題は、一つひとつ具体的に、社会で実践を進めるなかで解決できる可能性があるものであって、その可能性ある実践の一つがたとえば地域通貨であると考えます。ローカルな人間の生活に関するイニシアティヴを、グローバリゼーションから守り、地域に暮らす自分たちの手に取り戻すことです。すなわち、地域で暮らす人々が必要とする生産的な仕事を行なった人が、暮らしていくのに困らない地域の実体的な経済のしくみを考え、それに沿った貨幣を持つことです。そういう道を模索する地域があっても良いと私は考えます。それは、個々の地域で住民が自分たちの地域の特性を活かして模索していくものであって、一般論は成り立たないでしょう。

人間の四苦を、ある種の悟り(貨幣への囚われから自己解放するなど)によって乗り超えるように呼びかけることに対して反対しているわけではありませんので、誤解のありませんように。悟りを開かなくても、個々人の人間的な欲求は、悟りとは別次元の社会的な施策によって、調整が可能なのではないかと申しているだけです。まったく別の視点です。

この先は、申し訳ありません、さらに、個人的視点からの横レスです。

> dr.stoneflyさんのところで人生アウトさんが他者との関係に言及されてまし
> たけど、他者も認識した以上は自己なんです。ゆえに、他者の否定は自己否
> 定になんです。だから苦しい。

このあたりの話は、レヴィナスを読みつつ、私も考え中です。

> あはは。そこまで達観してません。逆に、その気になればなるほど切り離せ
> ない自己を感じてしまうジレンマに陥っているのが今の私。ここを克服する
> には「無」になるしかないのかも、なんて思ってますが(笑)、それも寂し
> いし...。

失礼ながら、私は息子もいるので、母親のエゴですが、息子には幸せな自己愛を(過ぎない程度に)持って生きていって欲しいと思ってきました(悟ったりして偉い人にならないで――私の子では蛙の子は蛙で余計な心配かも?笑)。

とはいえ、息子が幸せな自己愛を生涯のものにするには「あなたの子どもを産みたいわ~」というくらい惚れてくれる女性が現われてくれることもポイントなので、他力本願です。産む性としての「母性」を否定しない理由は、ここにもあります。ワーグナーの『さまよえるオランダ人』もゼンタなしでは救われないわけです。

ついでに、夫にも、そんなに達観したり悟ったりして欲しくありません。生臭く人間臭く幸せな自己愛を持ったまま生きて欲しいものです。なぜならば、って書くと、ただの惚気になるので、やめますね。要するに、亭主の好きな赤烏帽子で、われ鍋にとじ蓋ですよね。

長々と失礼しました。

すみません。普段は、dr.stoneflyさんのところで、学童保育と労働問題を中心にROMをしております。地方地方の特性は異なるので、同じ考えで行けるとは思いませんが、参考になりますので。それでdr.stoneflyさんが、えあしゃさんのところにコメントをなさったとき、たどって、そこで最初に、つい、こちらのブログ主さんにお返事しました。どういう方かまったく存じ上げませんでしたので、逆風のなかで抵抗している若い女性に対しては、あのコメントは残酷だと私には思えたからです。すみません。

こちらのブログ主さんは、在俗出家なさった方なのかも知れませんが、ご伴侶をお持ちのご様子なので、つい「愚樵さま」とは書きにくく、職業で樵さんと呼びかけたりブログ主さんと書いたりしました。すみません。余計なお世話ですが、在家の女性陣にお訊ねしたいところです――惚れ込んだ男性に

> あはは。そこまで達観してません。逆に、その気になればなるほど切り離せ
> ない自己を感じてしまうジレンマに陥っているのが今の私。ここを克服する
> には「無」になるしかないのかも、なんて思ってますが(笑)、それも寂し
> いし...。

と書かれたら、悲しくありませんか。

磯崎憲一郎『肝心の子供』
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309018355
に出て来るブッダの妻を思ってしまいました。

お邪魔しました。ROMに戻ります。

Hiさん

力のこもったコメントをありがとうございました。Hiさんがどのようなところから物事を見ておられるのか、おおかた察しが付いたと思います。また、私の意見や立場への賛同と批判は、双方ともありがたくお受けします。今、私は清清しい気分ですらあります。


>> 人間には相反する2つの特性があるのは事実であり、

>という点についても、異論がある人は世に少なくないはずだからです。
>これは「事実」ではなくて、ある種の構造主義的な捉え方に過ぎませんから。

このご指摘には、ヤラレタ! という感じです。Hiさんの「原理」という言葉への引っ掛かりを私が見誤っておりました。汗顔の至りです。私自身も「男性原理」「女性原理」なるものは、「事実」という言葉を使うにしても、ある一定の視点に立ったときの相対的な事実でしかないことは承知しているつもりです。そこを単に「事実」と書いてしまったのは、やはりHiさんの立ち位置を見誤ったからでしょう。Hiさんはさまざまな相対的事実があることはご存知でした。失礼しました。

>つまり、ブログ主さんとは逆の視点に立って、自己内部にある葛藤が、実は社会問題の内面化ではないかを考えれば、悟ったり達観したりできない凡夫であっても、周囲の人たちと力を合わせて、社会問題として解決できるケースもあるわけですよね?

その視点にも同意です。また、そうした視点から貨幣についてはゲゼルが出てくるのだろうとも思います。

「社会問題の内面化」と仰いましたが、鍵はここにあるのでしょうね。話は母性原理のところに戻しますと、このテーマを巡っての論争は、NHKのドラマ『ちりとてちん』の解釈を巡って始まったんですね。Hiさんはご覧になったかどうかわかりませんが、論争の火種になったのは主人公若狭が最後の最後に落語修行を辞め、母親になると宣言したことなんですが、私はこれをHiさんの言葉をお借りすると、内面化してしまっている社会問題の呪縛からひとつ脱皮した、と捉えたわけです。その脱皮したところに立ち現れてきたのが「母性原理」である、としたんです。ここで話はなにも母性原理である必然性はなく別の切り口でもよかったわけですが、『ちりとてちん』を題材に取ったのでそうした方が自然ですし、また、周囲にも“そんなことを言ったって、現実の社会問題からは逃れられないじゃないか!”という『ちりとて』批判も多かったので、母性原理賛美という方向へ話を持っていたんです。もちろん、私の個人的な嗜好も入ってのことですが。

私の問題意識の中でも、社会問題の内面化は主要なテーマなんです。皆さん、生き難いと葛藤を抱えながら、その生き難さが社会問題が内面化してしまっているという視点がないように感じられる。葛藤を解決するのに人権とか国家といった「原理」(あえてこう書いておきます)とを押し立てて解決しようとし、より葛藤を深めてしまっているように私には見えてしまう(このことを「近代」に捉われていると表現しています)。男性原理女性原理といったことを書くのは、個と公という原理を相対化したいためでもあるんです。

社会問題が解消すれば、社会問題が内面化してしまっている多くの人も解放されるでしょう。私もそうあるべきだと思っています。現在は内面化した社会問題が引き起こす葛藤が高まり、徐々に臨界点に近づきつつあるようにも思えます。このまま推移すれば、やがて臨海手を突破し、社会は混乱する。革命などといった現象は、そうしたときに起こるのでしょうし、それを危惧しています。

科学技術が発達しすぎている現在では、革命のようなハードランディングは大変危険です。昔は「国敗れて山河あり」と詠えたのですが、現在ではそれも叶わないかもしれない。だから漸進的な改革を進めるソフトランディングでなければならないが、それには人類全員とはいいませんが、一定数の人間、それも社会をリードしていこうする気概を持った人間が社会問題の内面化に気が付く必要がある。

ここまで書けば、私は個人的な達観を求め、他人にもそれを薦めるような人間でないことはHiさんにはお解かりいただけると思います。個人的な達観を追い求めることに専念できればどれほどいいか、とは強く思うんですけどね。そうは行かない。

これも考えてみれば、私自身の出発点からすれば当然の流れなんです。人は一人で生まれて一人で死んでいく、と考えることも出来ますが、そこは私の出発点ではない。母から生まれたところが出発点ならば、それは人の中から生まれてきたという考えに広がりますし、人の中から生まれてきたのであれば、やがては一人で死にいくにせよ、人の中に種を蒔きたいと願う。私は残念ながら子を生していませんが、それゆえになおさら、その願いは社会の方へ向かいます。

人は一人で生まれ、一人で死んでいく…

『それが救い』という気になることもあります。
わたしには、互いに相手の魂を尊重しあえる対等な関係と言うものが、本当に作りにくいからです。
残念ながら、そういう関係にある身近な友人がほとんどいません。
相手の魂を尊重しようとすればするほど、なぜか破局に向かいますね。
当たり障りなく相手に信頼させてうまく付き合っているのも疲れます。でも、本心本音で接したら、たぶん不愉快な破局が来るのも正確に予測できるのです。

逆に、一人になって自分の内面に目を向けると、妙に自足してホッとしている自分がいるのです。
この世に本当に絶対的に信じられる人が一人だけいればそれでいい…。
むかしからそう思って生きてはきたのですが、そんな気楽な人生はなかなか送れないですね。
義理あり、人情あり、義務あり、責任ありで、結局人の渦から這い上がることはなかなかかないません。
まあ、自己中人間のわたしには、そのぐらいの人生がちょうどいいだろうと、神様に用意された環境なのかもしれません。
愚樵さんのおっしゃることもわかる気はするのですが、ちょっと『綺麗』すぎるかな、とも感じますね。
ごめんなさい!
そういうのも魅力ですよ。

ヤマアラシのジレンマ?

naokoさん、こんにちは。

仰ることは私にもよくわかります。私自身にもそういう時期がありました。「人は一人で生まれ、一人で死んでいく」 そんなときは一人で山ばかり歩いていました。俗世から離れ、一人で自然と向き合っているととても落ち着く。そうしたことも確かにあるし、個性とでもいいましょうか、そうした心の方向性が強い人も確かにいるのだと思います。出発点は人それぞれでしょう。

ただ、人それぞれと入っても、育った風土・文化によってそれはかなり左右されるものだと思います。新しいエントリーを挙げましたが、これはnaokoさんへのお答えになっている部分もあるかもしれません。

でも、やっぱり人間は完全に孤独では寂しいんですよね。誰か一人でも分かり合える者が欲しい。これまたどうにも抑え難い欲求のようです。

>ちょっと『綺麗』すぎるかな、とも感じますね

その感触は正しいと思います。なんたって賛美ですから! また、それでいいと思って敢えてやっている部分もあります。現実は儘ならないとはわかっていても、夢とか希望を捨ててはダメだと思ってますし。儘ならない現実に飲み込まれてしまったら、生きる力も削がれていってしまいますからね。

社会問題の内面化

Hiさんと愚樵さんの会話、難しかったのですが、示唆に富んでいますね。

社会問題の内面化というのは重要なご指摘ですね。
もちろん社会が存在する以上、個々を制約するさまざまな問題が生じないはずはないのですよね。
ただ、そこで歪みが生じ、過剰に制約される部分が現れる。
そこを解放できるかどうかなのでしょうか。

ううう、ここまできてダウン(笑)
考えてみます。

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商業捕鯨の禁止は、ベトナム戦争の枯葉作戦と因果関係があったことを知っているものは、今や少なくなった。 『ベトナム戦争における枯れ葉作戦とは、』 現在のイラク戦争と同じような、長引く勝ち目のないベトナム侵略戦争のゲリラ戦に疲弊したアメリカ軍は、対空兵

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