愚慫空論

貨幣経済への疑義――争うための経済

私は貨幣というものに対して疑義を抱く人間である。この疑義をいつごろから持つようになったのか? 漠然とした疑いはずっと以前から持っていた。貨幣に対する疑義を自分なりに表明してみたい、と考えたことがブログをはじめる動機のひとつだった。最初にブログをはじめたのは『はてな』だったが、ここではじめたとき、「自然のルールの人間の都合」などというカテゴリーを設けたりした。「人間の都合」とは、法なんかもそうだが、主対象と考えたのは貨幣だった。

漠然とだった疑義も、今では私のなかでかなり明確な形をとるようになっている。ここに至るにはさまざまなところで勉強させていただいたが、大きく影響を受けたのは、ブログでは晴耕雨読さん。書物では『エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」 』と、今から紹介する『貨幣の思想史―お金について考えた人びと』(内山節著)である。


内山氏は貨幣を評して「非友好的な必要財」という。

人びとは精神のある部分で貨幣に対して非友好的な態度をとりつづけ、現実の経済生活の中では貨幣を承認していた。

もっとも現在は貨幣に対してとても“友好的”な時代になってしまったが。

本書はヨーロッパ近代から現代にかけての、主として経済思想史を飾った十三人の思想家たちの、貨幣への対応の仕方を考察したものである。・・・ 彼らの著作の中から貨幣について考えるに適した本を一冊ずつ取り上げ、それをテキストとしながら、私たちの歴史は貨幣をいかにとらえようとしてきたのかを考察したのがこの本である。
その試みは、貨幣に向き合ったときの人々のジレンマを追体験するところからはじまる。・・・

******

その追体験の第一章に当てられているのは、ウィリアム・ぺティ。テキストは『政治算術』。第一章のタイトルは「国家の富の創出」となっている。

国家の富を創出するものはだれか? そんなのは国民に決まってるだろう... いや、違うのである。このタイトルは、そういうベクトルでのタイトルではない。

今日では私たちは国富として「国民総生産」を基準にすることが多い。この国民総生産でも、市場経済を通過しない生活次元の経済は除外されている。除外されているというよりも、計算方法がないのである。そしてペティが着目したのも、この計算という方法だった。

今日の私たちには常識となっている「国民総生産(GNP、最近ではGDP国内総生産が用いられることが多い)の起源がここにある。これが「国家の富の創出」の意味だ。では、なぜ、ペティはこうした着目をしたのか?

17世紀のイギリスの政治経済学の緊急の課題は、戦争を遂行するための国家財政の確立であった。国家の富、すなわち国富とは何か、それはいかにして増加させることができるのか、それが政治経済学の最大の目標になる。実際ペティの『政治算術』は、国富は何によって生まれ、高められていくのかを説明しながら、台頭するフランス脅威論を鎮める目的で書かれている。

私たちが一般的に教わる貨幣経済――資本主義発達の歴史は、商人資本の時代から、マニュファクチュアによる産業資本の成立、といった説明がなされる。だが、理由はそれだけでなかった、と内山氏はいう。国民総生産(ペティの導入したそれは、現在のものとは若干異なるけれども)が他国との競争のために導入されたのが正しいなら、内山氏の考察は的を射ている、と言わざるを得ないだろう。

といっても国家にとっての富の研究は簡単なことではなかった。たとえば私たちは山野を歩いて「自然」から採取し、食卓を豊かにすることができるが、そんなものは国家の富の増加には役立たない。つまり生活次元での自己展開して終了してしまうような経済活動は、国富の増加に結びつかないのである。とすれば、当然、農村共同体などで人々が営みとしておこなっている、いわば生活次元の経済活動と、国富の増加に結びつくような経済活動とは、どこかで区別されねばならない。

この「区別」が実際の政治経済においていかになされてきたか。その歴史を我々は知っている。労働者が農村から都市へ移動し、都市で労働者は労働力を商品として売る賃金労働者となった。そして賃金労働者の生産は、貨幣という尺度によって生産され国富の増加に貢献した。

こうした歴史―賃金労働者の大量発生と産業資本の成立―を我々は「近代化」の成果だと教育されてきた。しかし、実態は果たしてどうたったのか? 「近代化」とは私たちの庶民のための「近代化」だったのか? 

こうした疑問は、国富の増加(GNPもしくはGDPの増加)が庶民にとっても好ましいことだと教育され、また消費者として貨幣経済にガッチリと組み込まれてしまっている者には実感しにくいものなのかもしれないが...。

******

ところで、製剤の価値尺度を貨幣に求めたペティにとって、貨幣経済は矛盾なき経済体制であっただろうか。実際はそうでもないのである。なぜならペティは、一方で貨幣経済の全面化を求めならが、他方では貨幣経済がもたらすであろう社会の頽廃に対して、用心深く対応せざるを得なかったからである。
・・・
貨幣社会は、貨幣の獲得を目的としたエゴイズムや退廃と表裏一体の関係を持ちながら、展開していかざるをえない。誰でも知っているように、少なくとも短期的には、貨幣をもっとも効果的に獲得する方法は、投機的な活動であり、詐欺的な行為である。
この問題に直面したとき、政治経済の担い手たちは、その予防に道徳や倫理を導入せざるをえなかった。ここに、勤勉を美徳とし、浪費を不道徳とする倫理が提唱される。それは後にマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた産業資本家の精神である。

17世紀のイギリスと21世紀の日本では、当然、社会の基礎条件が多くの点で異なっている。にもかかわらず、権力側が庶民に求める道徳や倫理の類似性はどうであろう? 今日ではさらに、投機的・詐欺的な行為すらも新自由主義の名の下、倫理的に許される行為とされるようになりつつある。これが「近代」をへてたどり着いた「現代」の一断面である。

******

・・・人間と貨幣の関係は、その意味では、この数百年変らないのである。
 とすれば、私たちは次のことを問わなければならないだろう。それは、なぜ人間と貨幣の関係はこの数百年変ることがなかったのか、ということである。これほどのジレンマを感じながらも、なぜ私たちの歴史は、このジレンマを解決することが出来なかったのか。現実の経済が力を持っていたからというだけでは、何の説明にもならない。貨幣と人間の関係を現象学風に解釈したところで、私たちはこのジレンマから抜け出ることができない。
 この問いに対する答えを用意するために、まず私は近代的な経済思想を読んでいってみようと思う。このことをとおして、近代的な商品経済を捉えようとした思想、とりわけ思想経済のかなに、このジレンマを克服できない何ものかがひそんでいたことを、見つけ出していこうと思う。これは近代社会とともに生まれた私たちの時代精神が、貨幣と人間との間によこたわるジレンマを解決不可能にしてしまった過程をとらえながら、新しい経済思想を作り出すための作業である。

この引用は、戻ってプロローグの部分。内山氏のこの本には、残念ながら新しい経済思想までは提示されてはいない。けれども、「ジレンマを解決できない過程」はよく理解できる。今日もてはやされている経済学という学問が、ジレンマを解決せずに無視した形で築き上げられた砂上の楼閣であることも。この本ではフランス重農主義者のケネーや貨幣廃絶論者まで取り上げれていて、ジレンマ解消のための努力が一方では続けられていたことも示しているが、ペティからアダム・スミス、リカード、マルクス、そしてケインズへと歩むにつれて、いかに「近代」が確立されていったか、その道程にわかりやすい道標を立ててくれている。

コメント

人間中心の経済関係か、貨幣中心の経済関係か。

 そのような問題提起だと感じました。これは今現在でも経済の主要な問題です。つまり、勤労する、働くということはどういうことか?と、人々に質問すれば、多くの人は「自分で金を稼ぐこと」と回答するでしょう。しかし、他方で、では、子育て、ボランティアなど他人の人権を実現する行為は勤労すること、働くことではないですか?と、人々に質問すれば、「それも勤労、働くこと」と多くの人は回答するでしょう。では、勤労すること、働くことは金を稼ぐことではないではないか?他人の人権を実現することではないか?と、人々に質問すれば、「でも、生活していくにはお金が要るし」と多くの人は回答するでしょう。ここに、人間中心の経済か、貨幣中心の経済か、のジレンマがある。

 人間中心の経済とは、他人の人権を実現することが経済である、ということであり、貨幣中心の経済とは、金を稼ぐことを実現する経済である。

 金を稼ぐことが経済であれば、他人の人権を実現しない行為でも、勤労、働くということができる。ここにギャンブル、投機の反人間性がある。他人の人権を実現する利他献身をしなくても金を得ることができるのである。

 人間中心の経済か、貨幣中心の経済か、のジレンマは「他人の人権を実現する利他献身」=勤労、労働をしない者が金を所有するという点に集中しているのではないか?

 では、「他人の人権を実現する利他献身」=勤労・労働をしない者が貨幣を所有することをなくす社会、すなわち、不労所得を根絶した社会においては、人間と貨幣のジレンマは消滅するのであろうか?

 

倫理の疲弊…空洞化…

エンデというのは、時間泥棒と戦う少女を描いたファンタジー『モモ』の著者ミヒャエル・エンデのことですよね?
『根源からお金を問う』のは大変つらいです。
「お金さえあれば全てが解決する」と思っている人は、実は、周囲からの愛情と守りが欠如して育った場合が多いのです。そしてその結果として、お金に苦労し、お金で切ない思いをした…。あるいは、「不幸の原因はすべてお金がないこと!」そう思い込んで、自分の心に刷り込んでしまった…。
それからは、お金の繋がりが、人情を凌駕する。
そしてファンタジーの届かない国の住人になる。

そこはあまりに切ない国だけど、誰もが最低片足は踏み入れている。
才覚のある者は、その世界で運命を切り開き、サバイバルしていく。
才覚のない者は、ない者なりに知恵を使って細々生きていく。
そこにはもはや倫理などない。
法律と「世間体」があるだけだ。

不幸の原因は貨幣にある

東西南北さん、naokoさん、いつもコメントありがとうございます。

現在の不幸の原因は貨幣経済、それも金融のシステムにあると結論付けざるを得ないと思っています。ここでいう「不幸」とは、人間ひとりひとりの不幸――経済学的に言うとミクロな不幸――のことではなくて、人類社会全体――マクロな不幸――のことです。マクロな不幸の中で幸運にもミクロな幸福を勝ち取る人はいるでしょうが、それはその幸福が幸運によってであれその人の才覚によってであれ、他の人に不幸を押し付けることによって獲得できた幸運に過ぎません。そしてこのマクロな不幸は現在、環境問題として私たちの前に立ち現れてきています。

なお、不幸を貨幣中心の経済、幸福を人間中心の経済としても構いません。マクロとして不幸――貨幣中心――であるなかでは、人間中心の経済を獲得するには、貨幣から自由になる、自分の欲望を十全に満たすに足る貨幣を手にするしかないのです。

なぜ、こんなことになってしまったのか? このエントリーは、その原因を示す仮説のひとつに過ぎません。他にもいろいろな仮説が考えられます。ただ、仮説はいくつあったとしても、現在、起きている「現実」はひとつです。誰もがうすうす感じているはずなのに、なぜか大きく取り上げられて問題視されることのない「現実」。

もし、その「現実」をまだはっきり認識できていないと感じておられるなら、一度こちらをご覧になってみてください。
http://video.google.com/videoplay?docid=-446781510928242771

お金のない世界かあ…、いいなあ

「長靴下のピッピ」の著者でもあるスウェーデンの児童文学者アリステッド・リンドグレーンのファンタジー『はるかな国の兄弟』の中に、お金のない世界「ナンギャラ」が描かれています。
ここよりも遥かに「生きるのが易しい世界」にある夢のような村、桜の花びら舞い踊る谷へ逝った兄弟の物語です。(‘逝く’は誤字ではありません。この世で死を迎えなければ、そこには行けないのです。)
しかし、その理想郷「ナンギャラ」でも争いがあり、裏切りがあり、悲しみがあるのです。兄弟はそこで巨大な悪と戦うことになります。勇気を振り絞り、命を懸けて…。
そして、物語のラストで、悪を打ち倒した瀕死の兄弟は、ここ(ナンギャラ)より遥かに幸せな美しい世界だという『ナンギリマ』へ向けて旅立ちます。
お読みになったことはありますか?

素晴らしい問題意識

平和や人権が大好きな左寄りの方々も愚樵さんのブログをご覧になっていると思うのですが、こういう記事にはあまり反応なさいませんね。小泉や竹中は非難しても、彼らを生み出す論理には興味がないのでしょうか。

見てるとどうも、右も左も、近代という土俵の上で半分八百長みたいな論争をしているんですよね。映画『靖国』なんてはっきり言ってほとんどの国民は知らないし、どうでもいいと思っています。なのに、右も左も、世界の終わりみたいに騒ぐ。いくら無茶苦茶なことを言っても、バーチャルなんで責任取らなくていいから気楽なんでしょう。

彼らには言葉や概念や伝聞の知識はあっても、生活感覚や現実を根本から見直す意識はないようです。

naokoさん

いえ、ありません。残念ながら。読んでみますね。

お金のない世界は幸せな世界ではないでしょう。おそらくはいまより窮屈な世界でしょう、たぶん。

貨幣は人の思いを切り離すものです。贈与される、プレゼントされると、贈ってくれた人の想いも同時に受け取ります。でも、貨幣を遣って購入すると、想いは切り離されてしまいます。他人の想いってのは、ありがたいけど、同時に重たいものでもありますからね。伝統的な地域共同体で暮らしている人は、その「重さ」をよく知っている。だから「自由」を求める...。

******

ろろさん

さて、愚樵空論はどの程度の人に見ていただいているのか? そういえばアクセスカウンターなんてのも一応つけてはありますが、最近、気にも留めてないや。あまり観てないんじゃないんですか? 長いし重たいし(笑)。
皆さん、私などと比較にならないくらいたくさん読まれているようですから、目を通していただいているとしても、さほど注意を払ってないのだろうと思います。

>見てるとどうも、右も左も、近代という土俵の上で半分八百長みたいな論争をしている

わはは。コメントは差し控えて起きます。

>彼らには言葉や概念や伝聞の知識はあっても、生活感覚や現実を根本から見直す意識はないようです。

生活感覚を重視しよう、生活感覚からモノを考えよう、という意識はあるみたいですけど、ね。私が彼らに共感するのも、その部分なんです。ただし、私の生活感覚は彼らのそれとは大きく違いますが。私の問題意識は生活感覚から出てくるものでもあるんです。本文で取り上げた内山節氏も田舎の哲学者ですし、早雲さんも、おそらくは同じような生活環境なんだと想像しています。

その点、ろろさんの場合、生活感覚はいわゆる「市民」でしょう? それがどうして? という疑問が私にはあるんです。考えて見た仮説は、右の人は生活感覚を肯定的に捉えられない、裏切られたという感覚があるから、というものですが、どうでしょう?

左の現在の生活感覚重視はいいとしても、ひとつ不思議に思うのは、左にはかつてマルクスという巨頭が存在した、ということ。マルクスの理論は生活感覚なんぞとまったくかけ離れたもの――生活感覚を見据えたところから生み出された理論ですが、かつての左はそれに熱狂した(9条についてもそうした「熱狂」の匂いはあります)。今の左には、マルクスはどうでもよい存在になったのか? マルクスを鵜呑みするか、無視するか、そのどちらかになってしまった感があるんですよね。生活感覚を見据えるマルクスの姿勢を受け継ぐ者は左にはいないのか...。そうなら、生活感覚に裏切られたと感じている者のなかから次のマルクスが生まれてくるぞ、と思ったり。

右にも左にも絶望した口です

今現在の私は、どちらかというと左翼的な人達と利害が一致しています。彼らは、少なくとも体制側にいないし、今後も体制側になることはないでしょう。

私は「市民」ではありません。自律可能な近代的市民というのはありえない存在ですから、市民という言葉には、所属している自治体はどこかを指す以上の意味は見出だしていません。ゆえに、市民は政治に関心を持たなくてはいけない的な理想は信じていません。

私が頭に置いているのは「庶民」です。決して意識が高いとは言えない世の中の8割を念頭に置いて経済や政策を考えています。

極端な話、庶民を「継続的に」「不公正が少ないやり方で」食わせていけるなら誰が政治をやろうが構いません。そうでないから小泉なり安倍なりロスチャイルドなりクソ味噌に言うわけでして。

私は哲学科でしたが、思想や哲学は世相の表れか、リカードやマルクスのようなユダヤ人の夢想くらいにしか思っていません。すみません、意識が低くて…。

そんなに文句があるなら

貨幣をなくせばいい。
物々交換か、交換なしで、自家消費のみでみんなが生きればいい。原始時代に戻せば日本でもやれる。

そこまで主張するなら、貨幣経済に疑義を唱えてもいいです。

お金への極度の警戒と嫌悪を持つ友人

『自然の中で、かつての原始共同体の一員のように生きたいという強い憧れ』を、強靭な芯のある性格、余計なものを一切排除して省みない徹底さ、粘り強く素朴な性質を持って、自然体で実現し、長年そのライフスタイルで生きている友人がおります。
大切なのは、そこに無理がないということです。
彼女なら縄文人の世界にタイムスリップしても、なんとかやっていくのではないかと思われます。
(それも嬉々としてその生活に挑む様子が、まざまざと想像できます…)
わたしがいつも感じるのは、そのゆるぎない、無頓着なまでの自信と怖いもの知らずの落ち着きです。
はっきりいって、わたしにはとうてい無理です。
というか、たとえばミャンマーの海洋民族の映像を見てあんな生活も体験してみたいなあとは思っても、そこで一生を過ごしたい、と夢見るような目で言われると…。
病気になったらとか、怖くないんだなあと不思議にも思います。

ろろさん

>極端な話、庶民を「継続的に」「不公正が少ないやり方で」食わせていけるなら誰が政治をやろうが構いません。

これには同感です。私は一応民主主義賛成派ですけど、決して崇拝派ではありません。別に封建制でも良政が敷かれる保証があるなら構わないと思う人間です。民主主義に賛成するのはこの方法が原理的にもっとも不公正を減らせると考えているだけです。あくまで原理的に。でも、「継続的」は原理的にも怪しいなぁ...。

>私は哲学科でしたが、

なるほど、そうでしょうね。ろろさんは「哲学する人」なんですね。「哲学を学んだ人」ではなくて。

******

naokoさん

スゴイ友人をお持ちなんですね。私もそのご友人と比較したらnaokoさんの側の人間ですし、また、そうありたいと思っています。

かつての原始共同体の一員のように生きたい。すばらしいです。すばらしいと思いながらも、私が憧れているのはそれではないと思わずにはいられません。私が憧れているのは共同体の一員になることであって、そこに「原始」などと条件は付きません。哀しいのは、一員となるべき共同体が見当たらないことです。

 価値

私の思ったことで、済みません。よくあることですがカネを持ってる人に寄り付き、無い人には人は寄り付きがたい。極端すぎますが。デモ畑仕事をしていて感じたのは、カネで人をすべて動かせるわけではない。人の心をカネで動かせないことが多いものだと。惟は当たり前のことなのですが、何でもかんでもカネで解決がつく時代になったものだなー。どこかで何かを置き忘れてしまったから、現代のような狂った犯罪が多発しているのではないかと思います。ピラミッドのような人間関係の構成にたとえると底辺の片側が崩れたら大きく傾くか崩れることもあります。化学物質の構成も同じではないですか。人間も同じだと思います。国は私達が(庶民)作り上げているのだから、凍大卒の官僚たちの意識も私達が代えなければならないと。ある意味仕事にプライドを持って労働する人は減り、カネのためとイュ人間が増え、拝金主義の真っ只中で、消されていくのは弱者です。それをリードしているのが馬鹿政治家。弱者(私も含め)は強いのです。なぜなら人の下になれるから。人はいろいろな人がいて、もたれかかれるし、助け合える。政治家を目指す方は、経済学も文学も哲学も科学も高い知識を持って、志していただきたいものです?

エンデと言えば!

お邪魔します。他所様のブログですが、転送歓迎とあったので。

http://pkkumyy.ameblo.jp/pkkumyy/entry-10090296194.html
> 『「お金」崩壊』出版記念講演会のおしらせ
> テーマ:サスティナブルへの道
>
> エンデの遺言で目から鱗が落ちた方!
> まだ落ちていない方!
> 生活に不安を感じはじめている方!
>
> ちょっと、こんな講演会があるんです~~
>
続きは、上のURLからご覧ください。

お近くの方は講演会へどうぞ。
遠くの方も、よろしければ本をどうぞ。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/123-03553e96

寄生性と知的謀略

歴史的に存在しない国家なので遠慮なく言わせてもらうと、「カルタゴ」支配層的存在の危険性は、「寄生性」と「知的謀略」に尽きると思っています。 少し遠慮して付け加えると、人種的価値観的に極めて近いユダヤ支配層(金持ち層)にもこのような危険因子を指摘できます...

有権者の怒りをしっかりと受けとめて、 民主党!

イヤなニュースが続きますね。  それもこれもあれも、ぜ~んぶ、政治が悪いから、とは言いません。  でも政治が背負うべき問題が多いの...

非戦闘地域ってどこだ?

新キャラ「タマちゃん」はいかがでしょうか・・・まだまだコメントが頂けそうなので、タマちゃんとともに楽しみにしてます。優しいおっちゃ...

重農主義から見える産業主義近代

「産業」に懐疑の目を向けていた人たちは近代的産業が興隆する前に既にいた。 それは、フランス絶対王政期に経済問題に取り組んだ重農主義と呼ばれる人たちである。 彼らの特長は、「自然の秩序」である。その自然も、自然権などで使われる超歴史的な自然ではなく、人々...

「純投資マイナス」が“利潤”を消滅させる:最終回 上

近代経済社会は、利潤獲得→資本蓄積→利潤獲得→・・・という循環で経済成長を遂げてきた。 生産した財を販売して利潤を獲得し、獲得した利潤で固定資本を増加させて量的及び質的に生産を拡大することでより多くの利潤を獲得するという循環である。 (量的というのは固...

「純投資マイナス」が“利潤”を消滅させる:最終回 下

現段階の世界は、近代経済社会の亜種である「社会主義」に進むか、近代経済社会とは別の生存様式を創り出すかの岐路に立っている。 世界支配層は当然のように「社会主義」を選択する。それ以外に“彼ら”が経済権益を維持する術はないからである。 定常状態に陥った産業...

チベット動乱問題の過去と現代(メモ)

「お玉おばさんでもわかる政治のお話」のチベット問題の記事『チベットのこと』のコメント欄で、『反米嫌日戦線「狼」(腹破裂)』のブログ主催者の「死ぬのはやつらだ」 さんの、 他所では滅多に見られない、興味ある書き込みを発見。余りに面白いので、切り抜いて保存

贈与経済?

肩こり指数 ★☆☆ 「『労働に対する対価・報酬』という関係を、『人格同士の接触による贈与・謝礼』という関係に再構築する。」その原動...

『インターネット上の印象操作と偽装工作』のそれから

当ブログの2月12日の記事『インターネット上の印象操作と偽装工作』の記事に対して、 『乱暴なくくりで、自分以外の人間の思想・信条を断定し、ネット上でのブログ間のゆるいつながりを分断するような行為には、心底あきれます。いったい目的は何なのでしょうか?』 と...

水の科学騒動と『実録矢田事件』

次の文章を読んでどんな感想を持つでしょうか。? 『労働時間は守られていますか。自宅研修のため午後四時頃に学校を出ることができますか。仕事においまくられて勤務時間外の仕事を押しつけられていませんか。 進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなること

「我執」の時代は、終わった……

NHKラジオの今朝のニュース7時台での、世論調査結果についての報道。 「年功序列制への支持が、不支持を上回った」 「終身雇用制志向へ...

日本経済が「国民経済」ではなくなる日 

戦後の日本という国家や経済をどう評価するかについては様々な見方があるだろう。 国家の対米従属姿勢や昨今の新自由主義的経済価値観を容認するにしろ否定するにしろ、一部のイデオロギッシュな勢力を別にすれば、それが国民経済ひいては国民生活にとって好ましい選択だ...

経済学のお勉強(2)供給と需要

 次に考えるべきは『供給と需要』についてだと思いました.というのは,『利潤=剰余価値』という説が否定されるためには,『富が増えないこと』が絶対の前提となるからです. 早雲さんがお考えになる『供給と需要』では、『需要』が『供給活動』以上に膨れ上がることは...

経済学のお勉強(3)労働と人間

 このお勉強シリーズの最終回は『労働と人間』です.元々,早雲さんや愚樵さんは,現在の『資本主義社会』の悪魔的な人間抑圧性=賃金奴隷に落ちぶれ果てている情況を何とか打開したい,という強い意志あられるわけです. そういう面ではマルクス主義的立場と全く同じな...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード