愚慫空論

『靖国』

靖国は聖地である。まぎれもなく。

こうした発言には、そうだ! その通りだ! と諸手を挙げて賛成する人と、不快感を感じてしまう人と、大まかにいって2種類に分類されるように思う。特にブログ界、それも政治をテーマに取り上げる場所の近くに生息していると、そのように感じる。もちろん、世の中には何の感興も感じない無関心な人が多いのだろうけど。

常々不思議に思うのは、不快感を感じてしまう側の方。いえ、私自身に靖国信仰はありませんよ。靖国=聖地論に肩入れする人々には不快感を催させられることが多い感覚をもった人間です。しかしながら、靖国=聖地論そのものには、エルサレム=聖地論、メッカ=聖地論に何の疑問も感じないのと同様、取り立てて疑問は感じない。キリスト教徒やイスラム教徒が存在するのと同様、靖国教徒もこの世には紛れもなく存在していて、その人たちが靖国を聖地と見做すことに関してはなんの疑問も感じない。

ただ問題なのは、靖国教徒と反靖国教徒とが同じ社会で暮らしているということ。これが私たちにとってのキリスト教・イスラム教というのなら、日本にも少なからずクリスチャンやムスリムが居るにしても、大して影響はない。でも、こちらはそうはいかない。スンニ派とシーア派に分裂しているイラクほどではないにせよ、いろいろと問題を引き起こす。


なぜ、問題がおきるのか? イスラムの例で言うと、スンニ派vsシーア派の対立の根本は同じ創造神を信仰していることにある。同じ神を信仰しながら、解釈が違う、宗派が違うということで対立が激しいものになる。これはイスラムだけではなくて、どの宗教でもみられる現象。いや、どこの宗教でもというのは間違いかもしれない。ヒンズーや仏教や、それから日本の古神道のように宗派の違いが元から容認されている多神教では、こうした対立は少ない。宗派対立は、一神教的性格の特徴といってよいだろう。

靖国が宗派対立にも似た問題を引き起こすのは、靖国に一神教的性格があるから。このことは歴史的にも明らかなことで、明治維新に際して、薩長政権は多神教的古神道を一神教的国家神道に作り変えてしまった。国家神道の創設は、地租改正と並んで日本近代化の柱であった。

靖国が宗派対立の焦点であるとするならば、ここからひとつの認識が導き出されてくる。つまり、靖国派も反靖国派も、宗派は違えども同じ信仰を基にしている、と。まあ、けど、この認識は支持を得られないだろうし、間違ってもいるだろうな。ここで指摘しておきたいのは、そうした論も組み立てることは出来る、ということ。空論というやつですな(笑)。
(でも、あながち空論とばかりもいえないのではないか、と私は考えている)

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今、このタイミングで靖国といえば映画『靖国 YASUKUNI』であろう。ある週刊誌がキャッチコピーととして「反日」という言葉をもってこの映画を修辞したことから始まった騒動は、一部の国会議員による検閲とも受け取られかねない“試写会”、右翼団体の示威行動、上映を予定していた映画館が“自主的に”上映をとりやめ、と事態が進んだ。その事態を受けて各所から非難の声があがり、それが大きな宣伝となって、騒動以前よりも多くの映画館が、映画『靖国』を上映する運びとなった。大変、喜ばしいことである。

私はここで今更、上映取りやめの際にあがった非難の声を繰り返そうとは思わない。非難の声を支持すると表明したうえで、ここで述べてみたいのは空論の方だ。このブログは愚樵空論だし。


さて、聖地とは、聖なるものがそこに存在する、あるいは存在したからこそ、聖地とされる。エルサレムは神の御子イエス生誕の地だし、メッカにはご神体がある。聖地・靖国の場合は、246万6千余柱に及ぶといわれる「英霊」たちだろう。そうした聖なるものが、現実世界に影響を及ぼすか? 真偽のほどはわからないけど、及ぼすと考えるのが信仰だろう。

では、映画『靖国』の上映館が増えた、という現実はどう捉えればよい? 「英霊」たちが望んだ結果か、はたまた「英霊」たちを冒涜しようとする者たちの意志が勝ったのか?

日本国憲法9条は、その成立を巡る経緯から、奇跡と言われることがある。大日本帝国の敗北と国体護持(天皇制維持)を最優先で望んだ当時の政治状況、日本国憲法制定に関わった占領国側の非主流の人々といった条件がなければ、おそらくは成立しなかった空想的なまでに崇高な条文である。今回の映画『靖国』を巡る顛末は、9条の時ほどのスケールはないにしても、事の巡り合わせには奇跡的なものがある。その奇跡の背後にあるものは?

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こうした文章には反発を覚える人もいるかもしれない。聖なるものを、自分の都合の良いように解釈するな! といわれる方も中にはおられよう。が、もし、そんな反論をよこしてくる方がいたなら私はこう答えるだろう。そういうあなたはどうなんですか? ご自分は都合の良いように解釈されてませんか? と。

実際、宗教といったものには“都合よく解釈されてしまう”という側面があることは、どうしても否めない。そして、その側面をもってして宗教は危険なもの、ひいては事実が客観的に確定できない非科学的なものは危険であると判断する方もおられるようだ。もったいないことだと思う。どんな場合でも懐疑の目を向けてみるのは必要なことだろうが、その懐疑の線引きを自己の内側にではなく外部に委託して確定させてしまおうというのは、懐疑の姿勢そのものを放棄しようということだ。懐疑は自己の中で揺れ動くから懐疑なのであって、そうした懐疑の揺れ動きの中でこそ、人間性といったものが磨かれていく。懐疑を放棄することは、人間性を磨くことを放棄したに等しい...。

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靖国は、生きている人が戦没した人たちを慰霊するための舞台である。亡くなった者たちに意志があると考え、その意志を反映させようなどといった場ではない。生前の身分や地位に関係なく、死者を平等に祀るのは日本の文化である――

靖国を擁護する議論には必ず登場する主張で、私もこれを支持はするのだが、なぜこうした主張が改憲に結びついていってしまうのか、よく理解できない。日本の文化だとして靖国を守ろうとするのなら、これはどうしても彼らが言う「自虐史観」に結びついていかざるを得ないはずなんだが...。不思議な話だ。

まず、靖国は日本国内だけの問題ではない。国際問題だ。靖国が国際問題になってしまう大きな要素が、いわゆるA級戦犯合祀問題。もしくは閣僚の参拝問題。どちらかひとつならまだしも、この2つが合わさると大きな国際問題になる。

A級戦犯とて戦没者なのだから、他の戦没者と同様、靖国に祀られてしかるべき。この主張は、正直なところ、私の心情的な部分に触れるところはある。もちろん、その場所に靖国が相応しいとは思わないし、A級戦犯を一兵士と同列に扱うのには異議はあるけれども、その主張の背景にある宗教観みたいなものには共感を覚える。だからこそ、毎年のように靖国が国際問題として取り上げられるのを哀しく感じるし、あの騒動は他国の日本文化への理解を妨げているようにも思う。

加害者を赦すことはできない被害者の感情。これはなにも、日本の軍国主義の被害にあった中国や朝鮮半島の人たちだけの専売特許ではない。ユダヤ人はヒトラーを赦さないし、日本でだって死刑廃止問題でたびたび取り上げられるように、遺族感情の慰撫は難しい。これは人間としては普遍的で共通な部分である。

しかし、死者となった者への感情は日本では違うという。それはそうかもしれない。だが、他文化の人はそう考えない。死者であっても罪人は罪人。死者となったというそれだけのことで赦されるなんて文化はない。そこが靖国が国際問題、あるいは国内でも問題となる所以だ。文化摩擦、宗教対立なのである。

宗教対立を解消する方法は? 宗教戦争? こんなものが宗教対立を解消するものではないことは、歴史が証明済み。戦争は対立を激化させることはあっても、対立を緩和させることはない。攻められた方は、攻められた事実をアイデンティティとして国家としての求心力を保とうとし、攻めた側を逆に攻めるようになる。そして、今度はかつて攻めた側が、攻められているという事実をアイデンティティとして求心力を高めようとする...。こうした悪循環が続くだけのことだ。こんな悪循環に日本の死者を悼む宗教観が巻き込まれるなんて、哀しい話だ。対立激化に拍車をかけるのに日本独特の宗教観を用いて恥じない連中を、愛国者だと私は決して思わない。死ねば赦そうという思想は、際限のない対立に歯止めをかけるべく生み出された知恵ではないのか? それが大きな和、大和たる日本の心ではないのか?

卑しくも愛国者を名乗るのであれば、日本の文化を正しく理解すべきだ。愛国者であることが国際人たる条件ともいわれるが、そうであるならなおさらのこと。死者を赦す宗教観は日本人の平和を愛する心に繋がるのだと、なぜ理解できないのだろうか? そしてそれは、八百万の神が共存することを認める心でもある。


靖国は、もともと多神教であった神道(というより神仏習合した日本教とでもいうべきだが)を、日本が近代国家に“脱皮”するべく作り出された一神教・国家神道が、国家の近代化に国民の犠牲を強いるために作り出した舞台である。だからここには、もともとの日本的な宗教観の要素も少なからず残ってはいる。だが要素は残っていても、それは換骨奪胎されたものであり、その本質は変形させられている。靖国はいわば、日本的宗教の奇形児なのである。

なぜ、こんな奇形児が生まれてしまったのか? ここを明らかにするのが愛国者の務めではないのか? 奇形児を生んだ経緯が明らかになれば、自ずからそれは一部の者たちがいう「自虐史観」につながっていくだろう。いや、本当は「自虐史観」などではない。「自省史観」であり、真の歴史の姿は自省する姿勢によってのみ明らかにされる。

歴史を自省し、日本の宗教観を再検討するならば、日本の宗教観と憲法9条との間にも深い繋がりがあることを発見できるはずだ。押し付けられた条文と言われる9条だが、現実は他国では決して受け入れられないだろうと言われる条文が、何の抵抗もなく受け入れられた。ここに日本の赦す宗教観が無関係だったはずはないのである。

靖国の元になる天皇制だってそうだ。第二次大戦ではあれだけの大敗を喫したのだ。他国であれば革命が起こり、昭和天皇の首は胴体から切り離されていただろう。事実、ソ連はそうなるだろうと期待し、ソ連と対立するアメリカは革命を恐れて天皇制維持を認めざるを得なかった。そして、天皇制維持を認めざるを得なかったからこそ、連合国側はそれぞれの世論を納得させるために9条を必要とした。日本国民は(彼らからすれば驚くべきことに)その条文を嬉々として受け入れた。愛国者はこの事実を謙虚に受け止めるべきだ。

******

映画『靖国』は、まもなく上映される運びになるそうだ。私自身が観る機会に恵まれるかどうかはわからないが、この映画が多くの日本人がいまだ捉われている宗教的呪縛から逃れられるきっかけになれば、と願う。そうなれば、それこそ奇跡である。

******

余談だが、今朝、こんなニュースを視た。

とどけ反核の思い -全米で原爆展-

これまでアメリカでは、ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下したことを積極的・肯定的に受け止め、自省的に受け止めてみることは、タブー視されるような雰囲気があったのではないだろうか? 

それがイラク戦争の泥沼化のためか、そのタブーがはずされようとしている。このニュースからは、米国民のそうした心の動きが感じ取られるような気がした。折りしも、日本では映画『靖国』を巡る騒動のおかげで靖国へのタブーが外さる機運が生まれつつある。これらはまだ十分に成果が上がったわけでもない、これから動きに期待すべきものだけども。日米双方で、歴史のタブーが外される機運が生まれてきていることは、それだけも十分に喜ばしいことだ。

コメント

歴史的経緯を見るなら

神道が、仏教文化にどっぷりつかったまどろみから覚めて、まがりなりにも独り立ちし始めたのは、元寇以降です。その時から神道は、『神風の吹く、神々の守護ある国』である、日本国の国民的信仰のかたちをとり始めたのです。
その後、江戸期後半に、国学の研究が盛んになると、神道は儒教・仏教の影響をそぎ落とした、原初の日本人の
信仰として心を寄せる者が増えました。
しかし、平田篤胤などは、伊勢神道(天皇家の氏神天照大神を祀る)よりも出雲派(天皇家に敗れた以降、国は譲るも『見えない世界』の支配を宣言した大国主神を祀る)に心を寄せる面があったようです。
言うまでもなく、明治の国家神道は伊勢派を採用し、出雲派は破れ、大国主神は、またしてもこの国の信仰の地下水脈に戻っていきました。
そして、大正・昭和と向かうにつれて、伊勢派をも凌駕して、靖国神社は国家の宗教装置の中心として機能するようになりました。
個人の信仰を超えた国家への忠誠を誓う場として、靖国神社は、日本人であることのアイデンティティを証明するために、どんな信仰を持つ者も、例外なく礼拝に詣でなければならない場とされたのです。
この国を守って死んだ英霊たちを、神として祀り、全ての日本人が、その神々に礼拝する。これが靖国信仰です。
日本を守った神々は、偉大でなければならない。
特攻機や回転の乗組員、沖縄に水上特攻した大和の乗組員は偉大だった!なんという雄雄しい勇気!美しい自己犠牲の精神!これぞ、大和魂!
確かにそのとおりです。
しかし…。
なんという命の無駄!
早く降伏させろよ、馬鹿!
これほど立派な若者たちを、なぜむざむざ死地に赴かせた!
生き残ったのは腹黒いやつらばかりだ!
あまりにいい加減な作戦!
撤退を許さない非情な命令!
部下を死地に追いやって、自分だけのうのうと行き残った奴らが、いかに靖国詣の常連に多いことか!
今頃、罪滅ぼしで、彼らを神に仕立てるのか!
その根性のどこに、心底の鎮魂の思いがあるというのだ!
人間は弱い…。それは認める。だが、そんな心で、信仰など語らないでくれ。
(もちろん、参拝者にはそうでない方もおられます。)
鎮魂の思い…。それは、決して声高に語られることはない。

先のわたしのコメント、せっかくの愚樵さんのエントリーを、どうも汚してしまっているようです。
自分自身の矛盾した内面の吐露に終始していますね。
わたしはそこから一歩も前へ踏み出せていないようです。
お気に召さなければ、削ってください。
お任せします。

国家神道が奇形児である、というのはおっしゃるとおりと思います。

そもそも「国のために死ね」という近代国家ならではの命令がなければ、その報償としての「英霊として祀る」というのもないわけですよね、、。



naokoさん

いえいえ、お気になさらずに。naokoさんの内面をこの場で吐き出していただいて、光栄です。

>わたしはそこから一歩も前へ踏み出せていないようです。

それこそが“無知の知”でしょう? 

******

みーぽんさん

奇形児だけど、日本の精神風土が生んだ子供であることには間違いない。奇形児だからダメだ、棄ててしまえ! といえないのが辛いところです...。

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