愚慫空論

ベーシックインカムと「仕事」

ベーシックインカムについては、前にも一度、ごく粗雑な文章を書いたことがある。

ベーシックインカム(Basic Income:BI)とは、「すべての個人に、無条件かつ普遍的に、生存を可能にする基本的必要を満たすと同時に生産=表現の自由を行使しうるだけの一定額の所得を給付する」所得保障の制度であり、社会構想である。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ブログ界隈でも、何度か取り上げられるのを目にしている。記憶にあるのは

404 Blog Not Found:ベーシック・インカムに賛成するのに十分なたった一つの理由
天木直人のブログ:基本所得が保障される社会
志村建世のブログ:ワーキングプアは自己責任か

くらいだが、ベーシックインカムで検索をかけてみると、ほかでもいろいろと取り上げられているのがわかる。いろいろといっても、わずかでしかないが。


また、ベーシックインカムと同様の概念に「負の所得税」というのもある。自分の不勉強をさらすが、私はこの「負の所得税」という概念を提唱したのが新自由主義の代表的存在とされるミルトン・フリードマンだと知って、驚いた。ベーシックインカムや「負の所得税」が想像させる優しい社会のイメージと、新自由主義が想像させる厳しい社会のイメージとが噛み合わなかったから。

しかし少し考えてみると、自由な競争を標榜する新自由主義と「負の所得税」とは相反するものではないことは理解できる。というのは、競争するにも資本が必要だから。教育にでも職業訓練にでも、とにかくカネがかかる。カネがなければ競争のスタートラインにすら、立てない。その競争のためのタネ金を保証しようというのが「負の所得税」だが、理由はそれだけでもないみたいだ。福祉システムの効率化という、経済学者らしい理由もある。

池田信夫ブログ:ワーキングプアを救済する方法

ベーシックインカムには生活保護と同様、労働意欲を削ぐという批判がある。働かなくても収入が保証されるなら、働かない人間が増えるというのである。対して「負の所得税」では、所得労働意欲減退の虞は少ないらしい。池田氏の文章を少し拝借すると、

たとえば最低所得を300万円とし、あるフリーターの所得が180万円だとすると、その差額の(たとえば)50%の60万円を政府が支給する。これなら最低賃金を規制しなくても最低保障ができるし、働けば必ず所得が増えるのでインセンティブもそこなわない。

ということになる。なるほど。だが、損なわれないとは言っても、「負の所得税」でないほうが所得労働のインセンティヴを高めるのは間違いない。

こうした説明に納得はいくものの、私には違和感は残る。ベーシックインカムへの批判も「負の所得税」でのインセンティブも、人間の勤労意欲の源泉の半分しか捉えていないように感じるからだ。ではその半分とは何か? その半分を支えるのが「仕事」の労働観である。

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「仕事」という言葉にどういったイメージを持つだろうか? 「仕事」と「労働」は、出力される内容は同じでも意味が少し違う。「労働」がどことなしに刑罰のようなイメージを抱かせるのに対し、「仕事」には自己実現といったイメージが投影されやすい。特に現代では。

しかし、本来の「仕事」の言葉の持つ意味合いは、自己実現といったような自己上位のものとは違うはず。「仕事」とは「事に仕える」と書く。これは「仕事」のもともとの意味が自己よりも「事」を上位に置いていることを意味していることから出来た表記のはず。「事」とはおそらくは「為すべき事」であり、「仕える」が示す関係性は自己より「事」が上位なのである。

今日では「仕事」=自己実現のイメージが広く行き渡りつつあり、「仕事」=「事に使える」の労働観には古臭いイメージが付きまとう。たとえば職人気質。これは「事に仕える」労働観を表すもので、良きものとして賞賛される一方で、やはり古いというイメージは免れない。古き良きもの、といった具合だ。

また今日では「事に仕える」労働観は、自己実現労働観の踏み台にされてしまっていることも多い。とにかく目の前の「事」を重視し「仕える」労働観では、報酬は二の次でとにかく仕事をこなそうとするし、報酬の交渉を遠慮してしまったりもする。そうした性向は、自己実現に邁進している者たちが牛耳る営利企業の格好のエサとなる。名目だけの役職を与えられ、死ぬまで働かされるということにもなりかねない。そうしたこともあって、社会はますます「仕事」=自己実現の労働観に傾いていってしまっている。

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先月末、私は『ちりとてちん』のドラマを読解して、「母性の復権」なんてことを唱えるエントリーを書いた。一部で甚だ評判が悪かったのだが、その評判は皆、「母性の復権」を女性を昔ながらに家に閉じ込めるものだと解釈してのものであった。私はなにもそんなカビ臭い道徳観を擁護するつもりではなかったし、そのことも明記はしてあるのだけれど、よく理解はしていただけなかったようだ。「母性の復権」の真意の理解の助けになるかどうかはわからないけれども、「事に仕える」労働観と母性との間には少なからぬ関連があるということについて触れておく。いうまでもないが、「事に仕える」労働観に男も女も関係ない。

上で、「事に仕える」労働観は自己を低くみる労働観であると書いた。このことは“主役を他人に譲ってスポットライトを浴びせる役どころ”という先のエントリーでの母性の定義と共通するものがある。対して「仕事」=自己実現の労働観は、“私は主役でありたい”する姿勢と共通する。これは自己の位置を高くおくか、低くおくかで区別できる。「事に仕える」姿勢は、子を育む母性ありかたのひとつなのである。

「母性の復権」という話は、労働観の文脈でいくと「事に仕える」労働観への支持ということになる。この労働観が現在、虐げられた立場にあることは書いたが、意地悪く解釈するなら、“虐げられている立場を支持するなんて、より虐げられ続けろ言うのか”となるが、そうではない。いま、虐げられている者を正当な立場に引き戻すのはどうしたらよいか、という一試案を提案したいだけの話だ。私は未来志向の話をしたいのである。

母性にせよ「事に仕える」労働観にせよ、現在は甚だ押さえつけられる立場にあるのは事実である。その事実を持って、母性や「事に仕える」なんてのはダメだ、自己実現でなければ、とするのは簡単な話。だが、私はそうした姿勢をこそ批判したいと思っている。母性も「事に仕える」も、世の中が円滑に回っていくためには欠くべからざるよう要素だ。それが今、自己実現一色に染められようとしている。そう認識すれば、なんとかならないかと考えるのはごくごく当たり前のことであるはずだ。

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話を人間の勤労意欲のところへ戻そう。

人間の勤労意欲の源泉には、自己実現を目指す方向性と「事に仕える」方向性の2種類のものがある。ベーシックインカムあるいは「負の所得税」は、自己実現へ向けてのインセンティヴを多少削ぐことになるかもしれないけれども、「事に仕える」ことへのインセンティヴは高めるのではないだろうか。もっというと、自己実現の方向性と「事に仕える」方向性へのバランスをとることができる制度なのではなかろうか。

現在は、自己実現⇒評価⇒貨幣による測定⇒報酬といった一本道がますます幅広くなってしまっている社会である。ところが「事に仕える」方向性は、そうした一本道にはならない。自己実現の方向性ほど、貨幣による評価の測定に親和性がないのである。このことは逆に言うと「事に仕える」労働には貨幣で価値を評価できないものも多いということを意味している。そしてその所為で「事に仕える」労働は評価の得られない価値の低いものと見做され、敬遠されるものになっていく。その代表例が一般的に女性が担うものとされてきた家事労働と育児であろうか。

ベーシックインカムや「負の所得税」には、そもそも労働意欲がない者が得をするという欠点は存在する。しかし、現行の制度であってもカネさえあれば労働意欲のあるなしなど関係ないという欠点が存在するのである。欠点の存在しない制度など、ありえない。問題は、どのような長所があるか、である。

これらの制度には、貨幣での価値測定に馴染まない「事に仕える」方向性にも、消極的とはいえ、評価を与えることが出来し、またそうした消極性こそが「事に仕える」方向性には似つかわしいのかもしれない。この方向性はそもそも、他からの厳密な評価測定を求める性質のものではない。漠然とした評価であっても十分そのインセンティヴを発揮することができる性質のものである。

最大の欠点は、結局評価が貨幣によってなされてしまうというところにある。そもそも貨幣での価値測定に馴染まないものは、消極的であろうとなかろうと、貨幣で評価すべきではないのかもしれないのだ。下手をすると、これらの制度は貨幣の絶対性の神話をさらに強化する方向に持っていくことになるかもしれない。悩ましいところである。

コメント

貨幣制度の運用技術では解決しません

家族が他に依存せずに生存できる手段を持っていればよいだけなのです。

地域貨幣を始め、貨幣にこだわるのは悪いとは言いませんが、賃金奴隷に落ちぶれたわけを忘れていませんか?

「自己実現」など願い下げです。

まだそこまで持っていかないで(苦笑)

早雲さん、ようこそ。

>賃金奴隷に落ちぶれたわけを忘れていませんか?

いえいえ、忘れてなどいませんよ。

>「自己実現」など願い下げです。

今はまだ、そこまで持って行ってしまわないでください。このエントリーでも伝わらないだろうと思っているのに...。

無邪気な子供たちの夢

本文中に書き入れようと思っていて忘れたことを、ここに追加しておきます。

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最近の日本では見られなくなってしまい、もっぱらTVで放映される途上国などの子供から聞くしかない、無邪気な子供の夢。たとえば

「私は大きくなったら医者になって、みんなを健康にしたい」
「私は大きくなったら教師になって、子供たちに勉強を教えたい」

これらは自己実現と「事に仕える」の双方がともにこめられた夢、願望である。無邪気な夢とは、このようなものである。

けれど、今の日本の子供たちはどうだろう? 医者になる、弁護士になる、公務員になる、とはいっても、皆自分のため。自分以外の誰かのため、まして不特定多数の誰かのためだなんてことは、ぐっと少なくなってしまった。「事に仕える」ことが自己実現によって減雑されてしまっているのである。

労働価値説か、拝金主義か?

 記事を読んでみて、この問題だと思いました。「事に仕える」ことが労働価値説であり、「自己実現」は拝金主義となる。ということでしょうか?

 「事に使える」労働観である労働価値説を貫けば、「企業は誰のものか?」という問題への解答にもなる、と思います。企業は「事に使える」人々のものであり、出資者、株主のものではない。にもかかわらず、現状は、企業が出資者、株主のものになっている。ここに労働価値説と拝金主義の不可避的な矛盾がある。では、どう打開するか?と問うときに「事に使える」労働価値説、「母性の復権」が再浮上してくるのである。
 
 

 

 

たまにはコメント

記事に関しては早雲さまのご指摘に同意するものでございます。

加筆部分について、一言二言お許し下さいませ。

いわゆる途上国とよばれるところは、多くの場合、農業国で先進国とよばれる国家群のような工業化がおくれております。というより、正確には先進国によって発展を阻害されております。資本主義的生産様式は、人を土地という生産手段から引きはがし、農業とそれをなすための共同体とそれから生起する共同意識を解体いたします。

ここに「事に仕え」て賃金をえるより生きる術のない「栄えある」個人が誕生いたします。
しかし、いまだ半封建的な共同意識と共働によってたつ農業に、生きる人たちの意識は個人としての自覚は希薄であるといえましょう。そこには貨幣による物象化(支配)をはじきかえす自給自足(自立的生活)がまだうっすらとのこっている。それゆえ、貧しくとも、世知辛い利己主義の影は薄く、無邪気なまでに他者(共同体の構成員)への思いにあふれた牧歌的な夢が語れるのであります(共同意識の発露)。

かつての、ニッポンの高度経済成長期にあっても、それとは無縁な地方の農村の子供は無邪気な夢を語ったものでございます。

長文失礼いたしました。m(_ _)m

愚樵さんへ

>最大の欠点は、結局評価が貨幣によってなされてしまうというところにある。そもそも貨幣での価値測定に馴染まないものは、消極的であろうとなかろうと、貨幣で評価すべきではないのかもしれないのだ。下手をすると、これらの制度は貨幣の絶対性の神話をさらに強化する方向に持っていくことになるかもしれない。悩ましいところである。

貨幣は、そもそも「価値を可視化する」という目的もありますから、「貨幣によってなされる」というのは、ちょっと支持できないですね。
もっとも、人間の生活に必要なものを、すべて自分で生産することができるなら、貨幣はいらないでしょうけど、そんなことはありえないわけですから、矛盾を抱えつつも容認するしかないんじゃないでしょうか。

労働価値説は曲者

東西南北さん

>「事に使える」労働観である労働価値説を貫けば、「企業は誰のものか?」という問題への解答にもなる、と思います。

その通りだと思います。バブル崩壊以前の日本は、「事に仕える」労働観で動いてきた実績がありますからね。その実績こそが答えでしょう。

>「事に仕える」ことが労働価値説であり、「自己実現」は拝金主義となる。

これも一応、そういうことではあります。そういうことではあるのですが、ここに問題があるところだと私は考えています。その問題意識が最後の一文“そもそも貨幣での価値測定に馴染まないものは、消極的であろうとなかろうと、貨幣で評価すべきではないのかもしれないのだ。”につながっていきます。

「事に仕える」労働観が労働価値説につながっていくのは道理のように思えますが、実は大きな「落とし穴」がある。それが、わくわくさんの指摘した可視化・普遍化という問題で、労働に普遍的な価値があると考え、それを表現しようとすると、どうしても貨幣という尺度を使わざるを得なくなってしまいます。

早雲さんが
>賃金奴隷に落ちぶれたわけを忘れていませんか?
と仰っているのは、おそらくはそのことを踏まえてのことだと思います。そして、ベーシックインカムあるいは負の所得税によって一定の金銭所得が得られるということは、その落とし穴と穴に入ってしまうということになるのです。

母性は、私とあなた、つまり一人称と二人称の世界で働くものです。私でもあなたでもない、三人称の者はむしろ排除しようとするのが母性の性質でもある。母性では排除の対象である三人称の者をも含めて経済活動をなそうとすると、どうしても価値の可視化・普遍化といった問題を避けては通れません。本当の意味で母性的な経済とは、私とあなたの間で為される経済、つまり贈与経済になるはずなのです。

わくわくさん

>貨幣は、そもそも「価値を可視化する」という目的もありますから、「貨幣によってなされる」というのは、ちょっと支持できないですね。

ちょっと意味をつかめないのですが、仰るとおり“貨幣は価値を可視化する”ために導入されたものでしょう。

>もっとも、人間の生活に必要なものを、すべて自分で生産することができるなら、貨幣はいらないでしょうけど、そんなことはありえないわけ

ここはもう一度、足元から考え直す必要があります。この問題は前々から取り上げると予告だけして放置してますが、「全て自分で生産することが出来ないから貨幣が必要になった」のか「貨幣があるから全てを自分で生産しなくなった」のか。この点に関する誤解が、早雲さんの仰る「貨幣奴隷へ落ちぶれる」入り口になっています。(薩摩長州さんが、そのあたりの背景を書いて下さっています。)

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薩摩長州さん

申し訳ありません。特にお返しする言葉もございません。

でも、それではもったいないので無理やりお返事をしますと、なぜ、ご指摘のような共同体意識の解体がいとも簡単に行われてしまうのか? 私はこの点にも興味を持っています。

共同体意識=母性=女性性であり、貨幣=男性性であるとするなら、男性性の女性性への暴力性と相関関係にあるのではないか? なんてことを考えてみたり。

モノローグでお返事なってませんね。失礼しました。

愚樵さんへ。

 「本当の意味で母性的な経済とは、私とあなたの間で為される経済、つまり贈与経済になるはずなのです」
 
 「ベーシックインカムあるいは負の所得税によって一定の金銭所得が得られるということは、その落とし穴に入ってしまうということになるのです。」

 経済活動というものは、本当の意味では愚樵さんのいうように贈与経済だと東西も思っています。「その代表例が一般的に女性が担うものとされてきた家事労働と育児であろうか。」と記事にありますね。この贈与経済には第三者である貨幣が登場しません。いわゆる無償労働です。

 ベーシックインカム、負の所得税、金銭所得の保障などという政策を考えるときは、本当の経済は贈与経済、無償労働にあるという教育が必要不可欠ですね。

 ともあれ、貨幣を廃止した経済社会というものは、人類全員がボランティアで勤労する社会になるわけですが、このような贈与経済を徹底させた経済社会には落とし穴はないのでしょうか?


 
  
  

お金の話

おこんばんわ。お返事いただきまして有り難うございました。ちょっと参考までに、

封建社会での生産は、自分のための生産です。人間の生活に必要なものは、質素だったでしょうが大旨、まかなっておりました。そして、自分が消費する以上に生産したものが剰余生産物。コレを交換する媒体としての貨幣はまだ十全に価値を表現するものではありません。理由は長くなるのでまたあとでということで。

生産手段と労働力が分離され、労働者が自分のための生産をやめ、交換することを目的とした商品の生産が爆発的に発展をとげるため、 封建的な狭苦しい領地を突破したとき、広大な領土を仕切る国家が生まれ、貨幣は国家の中で流通する様々な商品の価値を統一的に映し出す鏡へと飛躍したのであります。貨幣は蓄積され資本へと転化し、欲望のおもむくままに拡大再生産を続け、交換のために(売れるために)至れり尽くせり商品がガンガン登場するようになるのでございます。貨幣が統一的に商品の(社会的)価値を表現する等価形態となるには、貨幣でいつでも、どこでも、同一価格で希望の商品と交換できる市場が形成されねばなりません。

ちょっとニュアンスは曖昧さをふくみますが、「生産手段を奪われて、自分で生産することが出来ないから貨幣が必要になった」といえるとおもいます。

「共同体意識の解体」は超長くなりそうなので早々に記事をあげようとおもいます。

またながくてごめんなさいまし。m(_ _)m

ご参考

ほとんどの人が生存手段を保有しなくなった「近代」では、タダ同然で賃金労働者を手に入れることができる。
賃金労働者をタダ同然で手に入れても巧くいかないことがわかった結果が、賃金水準を上昇させることで生まれた「大衆消費社会」や「福祉国家」である。
奴隷とは、自分と家族が生存するための自然的条件を保有していない人のことである。

自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していない限り、奴隷なのか、賃金労働者なのか、はたまた“知的執事”なのかは別として、他者に自己の活動力を提供することを通じて生存を維持するしかないのである。

国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや隷属していることを感じたり認識しないようにしてきた。

「自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していないこと」を、土地に縛られない自由の獲得だと説明している。

民主制を基礎とした国家にすることで、自分が命を失うことになったり、相手を殺すことになる侵略戦争を担うことを義務と考えたり愛国心の発露と信じるよう仕向けている。

女性は男性に隷属させられており、女性が“社会”に進出して経済的に自立することが解放だとされている。

そして、失業者が大量に発生しながら財が余るという過剰な生産力(高い生産性)が実現されていながら、市場原理や経済理論を持ち出して、それは仕方がないことであり、年金などが切り詰められるのもやむをえないことだと説明している。
今書いた四つのことを一つでもその通りだと考えている人は、国際寄生者にすっかり隷属していると断言する。

人は、生きていくために、他者と共に外的自然と巧く付き合いながらそれを自分のために改変しなければならない。

人(人的自然)は、否応なく、土地(外的自然=自然的自然)に縛られている存在なのである。

縛られていないと考えがちなのは、お金でお金を稼ぐ人・知的活動でお金を稼ぐ人・政治的支配者といった、圧倒的多数の他者を自分の生存から快楽の手段と位置付けている階層である。

女性が家族の面倒を見るのは、役割分担でしかなく、別に男性への隷属ではない。(男女が逆でもいいのだが、出産と育児という役割を女性が担うほうが都合がいいだけのことである。)

女性を家族から切り離すのは、個人主義的自由主義と同じで、人々のバラバラ化を通じて隷属構造をよりスムーズに維持するのが目的である。

共同体を崩壊させて国家的統合に変えたように、家族を崩壊させることで人々の絆をなくし、寄生者に直接的に隷属させようとしている。

国際寄生者は、人々の絆を恐れている。それは、自分たちへの対抗力につながるものだからである。無力な個として、持っている活動力を自分たちの“養分”吸い上げのために発揮してもらえばいいと考えている。

もう一つの目的は、経済合理性である。家族を養うために一人が働くだけであれば、家族分の生存費を給与として支払わなければならない。

しかし、家族から複数の人が働きに出れば、一人に支払う給与は抑えることができる。
(米国の50年代から現在に至る“中流家庭”の変遷を顧みればこのことがわかる。かつては、お父さんが働くだけで、家と自動車を持ち、子供たちを大学に送ることができたのである)

長期にわたる学校教育と日々発信される膨大なメディア情報を素直に受け入れることで、隷属性が高まる仕組みができ上がっている。

現在の多数派の人々(寄生されている人々)は、奴隷以下家畜以下の存在になっていながら、自由だと錯誤する倒錯的隷属者になっているのである。

抜け出す第一歩は「隷属の認識」
http://sun.ap.teacup.com/souun/178.html
より一部抜粋

落とし穴はないが

東西南北さん

贈与経済は出発点なのですね。だからそこにとどまっている限りは落とし穴に嵌ってしまうこともない。そこに留まっていれば安全なんです。「楽園」といっていいかもしれません。そう、旧約の『創世記』にある楽園、アダムとイブが知恵の実を食べて神から追放された「楽園」です。

ですので、私たちが知恵の実を食べたことで生み出した成果は贈与経済においては邪魔になります。「自由」「平等」の概念にそうです。ボランティアという概念も。

それが落とし穴といえば落とし穴でしょうか。

ただ、概念が生まれないからといって、「自由」「平等」が実質的に存在しないわけではないし、民主制はなくても民主的でありえる。Luxemburgさんがそのあたりのことを、日本の江戸時代を例にとって記事にされています。

『江戸時代はなぜ民主的なのか -1』
http://luxemburg.blog112.fc2.com/blog-entry-64.html
『江戸時代はなぜ民主的なのか -2』
http://luxemburg.blog112.fc2.com/blog-entry-71.html

このあたりを読めば、必ずしも「概念」といったようなシロモノは必要ないのだ、ということも理解できようかと思います。そうなれば、早雲さんのご指摘もスジの通ったものとして捉えられるでしょう。なぜ教育が隷属を生むことになるのか、という点についての理解です。

こちらも参考になります。
日々是勉強:『【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか 』
http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-89.html

愚樵さんへ。

 お薦めの記事を読んでみましたが、要するに制度がなくても為政者が民主主義を反映しておれば、民主主義はあるとも言える。教育が成立する前提は、みんなが人類として同質な存在である、という事実であり、その他の差別・選別基準は不要だともいえるということ。メディア・リテラシーとは、活字・映像になったメディアをリテラシーするのではなく、ありのままの自然、社会をリテラシーすること。

 以上からいえることは、記事にもあるように必ずしも「概念」は不要であり、人類としてのありのままの同質性を根拠にした贈与経済こそ出発点である、と言えるというわけですね?

 まったく同意なんです。そのとおりです。しかも、そこにとどまる限り、人類の生存条件は、みんなに同質に等しく実現するのであるから、安全と言えます。

 しかし、そうなると、労働生産物、サービスがすべて同質、同等に存在してなくてはならないのではないですか?

 クオリティーが低い、高い労働生産物、サービスがあるのであれば、クオリティーの高い物を所有できる人と所有できない人に分かれます。その基準は何か?という落とし穴があるように思いますが、どうでしょうか?

生存するための自然的条件って?

こんばんわ.久しぶりにコメントさせていただきます.
ここでのお話は私めにとりましては何やら遠い過去の話,あるいは架空の世界の話(決して虚構の話ではなくて)にしか思えず,全く実感が得られないのです.
その取りとめの無さを表現すると次のようになってしまいます.
早雲さまのお話の中に,『奴隷とは、自分と家族が生存するための自然的条件を保有していない人のことである。 自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していない限り、・・・中略・・・他者に自己の活動力を提供することを通じて生存を維持するしかないのである。』とあります.
私がわからなくなってお聞きしたいのは,すべての人が『自分と家族が生存するための自然的条件を保有』することが可能なのかどうか,ということです.物理的にです.(本当はその前に,『・・自然的条件を保有する』とはどういうことかを確認せねばならないのですが)
つまり,地球上の適地が物理的に有限な限りは,人間の数によって話がいろいろ違ってくるように思えるのですが,どういうことなんでしょう?
このような疑問を持つこと自体,ここでのお話を全く理解できていないのだ,という気がするのでお聞きするのは大変怖いのですが,もしやお答え次第では私の疑問も氷解するのではないかと思い,敢えて書かせていただきました.

ざっとですが

>すべての人が『自分と家族が生存するための自然的条件を保有』することが可能なのかどうか,ということです.物理的にです.(本当はその前に,『・・自然的条件を保有する』とはどういうことかを確認せねばならないのですが)

人間は外的自然に働きかけ改変しながらしか生存は出来ません。(人間も自然です)

アルパイシンの丘さんはそんなことはしている実感はないでしょうが、間接的に誰かが外的自然に働きかけ改変し生存維持活動をしています。

現在日本人は、直接『自分と家族が生存するための自然的条件を保有』しているわけではありませんが『他者に自己の活動力を提供することを通じて』『自分と家族が生存するための自然的条件を』間接的に使って生存を維持しています。

注意していただきたいのは『他者に自己の活動力を提供することを通じて』だということです。

『自分と家族が生存するための自然的条件』は「保有」していないだけですから、仮に「保有」したとしても必要量は変わりません(迂回しないぶん少なくてすむと思います)。

『自分と家族が生存するための自然的条件を保有』している生活は江戸期の自営農民がこれに近いと思います。

論理的に言えば各自が「自営農民」であるということで、実際に農業に携わらなくても、得意の分野での活動力を農家と交換するようなことでもかまいません。

お話興味深く拝見させていただいています

ちょうど今わたしが読んでいる、今村仁司さんの『マルクス入門』の中で、マルクスが目指したものが、その自由な個人による分裂なき共同体を構築することだったそうですね。
『古代ギリシャにルーツを持つ、自由な精神を持つ個人で構成された共同体を、資本主義の洗礼を受けて、原初的共同体が崩壊してしまった現代に、高次の形態で復活させること』
そのために、『労働に対する対価・報酬』という関係を、『人格同士の接触による贈与・謝礼』という関係に再構築する。
わたしはそこに非常に大きな困難を感じます。
例えば、沖縄では未だ、前近代的なアジア的原初的共同体の残滓が残っており、人々の心の中にも色濃くその刻印があります。助け合い精神は、『結・頼母子講』といった形でも、残っております。自分は苦しくても人のために、という精神も一部健在です。
しかし、ところが逆に、自由な精神を持つ人間同士…?
という関係は極めて作りにくいのです。
自由な人間精神の根幹には、己の魂(ダイモン・本質・高次の意識)に目覚め、それに対して忠実・誠実であろうとする姿勢が存在すると思うのですが、その辺が実に脆弱で未発達なのです。
したがって共同体の関係の中でしか、なかなか人と人の関係を構築できません。まさに、個人より共同体が上位にあるのです。しかも、その状態のまま、共同体そのものが崩壊しつつあるという悲劇的現状があります。
マルクスの夢見た世界は、やはり絵に書いた餅に過ぎないのでしょうか?

需要と供給の量的関係

早雲さま  ご回答,真にありがとうございました.しかし氷解というわけには参りませんでした.その原因を辿りますと,題名に挙げた需要と供給に関して,量的な考察が一切ないからではないかという所に突き当たりました.端的に言えば生産能力と必要量の関係です.例えば我が国土で『直接に自然的条件を保有』できる人口はどの程度であり,その生産量の中から交換用に他へ廻すことのできる量はどの程度で,その結果直接保有できない人口をどの程度賄えるのか,という見通しが無いと単なるおとぎ話ではないかと懼れるのです.
そうなると共産主義社会(素朴な)の夢物語となんら変わりはなくなると思われるのです.
それから『交換』と仰いますが,私など相手が欲しがるようなものはとても生産できる能力は持ち合わせません.交換だけでうまくいくのか,ということですね.実際には『保有者』との直接交換だけではなく非保有者間の交換,三角交換,四角交換,などなどが必要になるのではないか,と.
するといずれ,金本位制ならぬ「米本位制」など交換のためのなんらかの基準が必要とされるようになるのではないでしょうか?結局,交易の範囲・規模など具体性を抜いた議論はすべて架空の世界の物語になってしまうような気がしてならないのです.

とどのつまり「基準」なんですね(笑)

東西南北さん

>クオリティーの高い物を所有できる人と所有できない人に分かれます。その基準は何か?

現実の問題としては、クオリティーの高い・低いという問題は出てまいりますね。いえ、それどころか、生産力が十分でない社会では、生存できるか否か、という差にまでなりえる(これはアルバイシンの丘さんの疑問と重なると思いますが)。こうした問題を解決する基準。財の配分の基準と言い換えても良いでしょう。こうした基準にはいろいろありますが、代表的な答えは「身分」でしょうか。身分の高い者がクオリティーの高い物を得るという基準。

そうなりますと、
>人類としてのありのままの同質性
というのは違ってくるのです。これはおそらく「個」の同質性のことを言っているのだと思いますが、過去において贈与経済が成立していた社会では、社会の中に細かな「身分」があったわけです。順序といってもいい。たとえば家族の中ならば、父、長男、、、母、長女、、などといった順序。財のクオリティーもしくは財そのものの分量に限りがあったために、身分のような制度を設けて財分配の基準を決めなければならなかった。こうでもして解決するほかはなかったわけです。

ただ誤解しないで頂きたいのは、この「身分」は、私たちが一般的に連想する身分――農奴から収奪する貴族――といった身分のことではありません。貴族と農奴の間には同質性も一体性もありませんが、上で挙げた「身分」とは一体性があるなかでの「個」の身分のこと。ですから、十分な財がある場合にはなるべく平等に分配されることになります。

民主主義の基本理念は「自由」「平等」の概念――同質性――というのが常識になっていますが、それは民主的であるための必須条件ではなくて、むしろ一体性――共同体意識――が必須条件なんだということなんです。一体性が高いからこそ「個」の身分の違いも容認でき、質の異なる財の配分も円滑に行える。逆に言うと財の質の違いが「個」の共同体への存在価値へ影響しない(ただし、存在の順序・分配の順序は決まっている)。だからこそ、「自由」「平等」でなくても民主的でありえるわけなんです。

だがここに一旦「個」の同質性を持ち込こまれてしまうと、財の価値を可視化する必要性が生まれてしまいます。つまり、貨幣が必要になる。貨幣はもともとは異質な者同士の交易の手段、異なる共同体同士の交易の手段であり、同一性の高い共同体内では貨幣経済はあまり機能しなかったのが、「個」の同質性を持ち込むことによって同一性の高い共同体の中でも貨幣経済が機能するようになった。近代的な教育の役割は、「個」の同質性を共同体内に持ち込むことなんです。貨幣経済を浸透させるために。

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naokoさん

マルクスは、共同体復活の夢を技術革新による生産力の無限大の増大に託しましたが、生産力の増大には限界があることは現代に生きる私たちにはもはや覆せない常識になっていますね。

>『労働に対する対価・報酬』という関係を、『人格同士の接触による贈与・謝礼』という関係に再構築する。
>わたしはそこに非常に大きな困難を感じます。

確かにこれは困難なように思えます。日本のことで言うと、日本はアチラ(欧米的―「個」的価値観)に行くか、コチラ(アジア的―共同体の価値観)に留まるかを早晩決断しなければならない、などと言われていたりします。確かにそうなのかもしれないのです。

しかし、個的価値観と共同体的価値観の融合は、マルクスが夢見たとおり、人類の夢です。平和で持続可能な社会を目指すためにはどうしてもクリアしなければならない課題でもあります。諦めるわけにはいかない、と思うのです。

その課題をクリアする鍵のひとつは、やはり貨幣にあると思います。以前にも書きましたが、貨幣と自我肥大との関連性、このあたりを読み解けば鍵が見えてくるのではないかと考えています。

人類のベーシックな価値観は多神教的・共同体的価値観であると私は考えています。一神教的・個的価値観を持つにはかなりの基礎トレーニングが必要とされるようです(このことはいずれまた、新たなエントリーにて取り上げるつもりですが、いつになるやら...)。「自由」「平等」の概念を持ち込む教育が浸透し共同体経済のなかに貨幣が持ち込まれてしまうと、共同体は破壊されてしまうのですが、個的価値観の基礎トレーニングを受けていない者たちは自分を見失う状態に陥る。それが今、日本や沖縄等でで起こっている悲劇的現象です。

では、日本人も個的価値観の基礎トレーニングを受けるべきなのか? 受けるべきというのが答えのひとつでしょうが、私はそうは思わない。やはり、ベーシックは共同体的価値観の方だと考えるからです。

共同体的価値観を土台に個的価値観を反映した経済の仕組みを作る。言い換えれば共同体的価値観を破壊しない経済を構築する。この答えが早雲さんが提示しておられる「開かれた共同体」であり「利潤なき経済社会」ということになるのだろうと考えてはいるのですが、まだ、うまく整理は出来ていないというのが本当のところです(笑)。

愚樵さんへ

東西さんへの答えの中での「身分」を、「差異」と私は受け止めましたがよろしいでしょうか?
なるほど、一体性が大事だなあと思えました。
例えば、家族の中でご飯を盛る時、大人、小さな子供、育ち盛りのものがいれば、食の細いものもいる、この時に量を加減して盛ることに不公平だという感覚はないでしょう。つまり差異を認め合い、過不足ない分配が自然におこっているということです。一体性をもった共同体のなかでは同じような感覚が生まれるのだと思います。
東西さん言われた「ありのままの自然、社会をリテラシーする」、いい表現だなと思いました。「労働生産物、サービス」もリテラシーするということでいいのだと思います。

おっしゃることわかります…。

共同体そのものの価値観を、たとえば家族という基本単位の共同体に構築しようとする。
沖縄では『和合をとる』と申しますが、うまく和合がとれている一族の子どもたちは、とても守りが強く、すくすく育ちます。
一族・家族の和合がとれていない場合には、本人の内面もバランスが崩れがちで、長じては精神面での欠如を露呈する場合も多いようです。
仏教で言う『因縁』というのは、確かにあると思うのです。
自己の内面を調整し、家族に影響を及ぼしながら、この和合をとるのが難しい…。
国家においても同じことが言える気がします。

「差異」が相応しいですね

とんぼのめがねさん

仰るとおり、「身分」よりも「差異」という言葉が相応しいですね。

>「ありのままの自然、社会をリテラシーする」、いい表現だな

******

naokoさん

他人と「和合する」能力は、和合がとれたなかで育まれるのだと思います。そうした基礎体力があってはじめて基礎トレーニングも受けられる。

司馬遼太郎の『坂之上の雲』などに登場してくる人物たちは、基礎体力が非常に優れた者たちだという感じがするんですね。彼らが育まれたのは幕末期です。その頃には日本は、非常に和合が取れた社会だったんだろうと想像しています。

同感です。この能力を奪っているのが教育なんでしょう。

アルバイシンの丘さん

>量的な考察が一切ないから

おっしゃるように量的な考察は特にしていません。

「近代経済システム」がもたらす隷属性の軛から逃れ、心地よく暮らすための経済システムはどのように考えられるかを論じています。

量的な考察はしていないとは言いましたが、現在の高い生産性を考慮すれば取り立てて問題はありません。

下記関連投稿を参照いただければ幸いです。


「利潤なき経済社会」はイメージされているようなたいそうな社会ではありません
http://sun.ap.teacup.com/souun/1485.html
所有権と占有権の違いそして競争原理
http://sun.ap.teacup.com/souun/350.html
資本-国家-民族
http://sun.ap.teacup.com/souun/630.html

早雲さまへ

どうもご教示ありがとうございます.早速ご紹介の3本の記事,拝読しました.まだよく咀嚼できていませんが,速報的な感想を書かせて戴きますと,今のところ『ご見解を承った』というしかないようです.
御記事はいずれも構想やヨミの段階であり,その構想でうまくいくか,ヨミが当たっているか,というのは未だ願望,あるいは思い込みの類に留まっているような気がするのです.端的に言えば御記事内容は量的な考察も含めた『論証』ではないからだと思います.
現在の人口や物量や生産力や生活程度を前提としていながら,江戸時代の姿をイメージするとは私にはなかなかできません.いえ,可能かもしれないのですが,私にはまだ掴めません.とにかくもう少し考えては見ます.

アルバイシンの丘さん

わかってきました。
近代とは、
重商主義、貨幣経済の普遍化、中央銀行制度を特徴とすると捉えています。
外部からの冨を得ることを目的とする重商主義は必然としてグローバル化へ向かいます。
貨幣経済の普遍化は「供給=>需要」(供給活動に個人の活動力を売ることで得た賃金が需要の最大値となる)となります。
貨幣はすべて中央銀行から銀行を通じて有利子で流れます。
利子を支払うためには各経済主体は利子以上の利潤を得なければ存続できません。

ここまではよろしいでしょうか?

ありがとうございます

早雲さん  誘導していただけるのですね.大変申し訳なくありがたく存じます.
この部分はエネルギー保存則ですね.熟考はしていませんがいいでしょうね.

イスラム法に利息禁止がありましたね.あとでお聞きしようと思っています.

アルバイシンの丘さん

それでは、江戸時代(中期以降)はどうだったかというと、
経済は米本位制ともいえるものでした。
重商主義に対し重農主義経済といえます。
この違いは
「重農主義から見える産業主義近代」
http://sun.ap.teacup.com/souun/161.html
が参考になると思います。

貨幣も使用していましたが、発券主体は幕府又は藩で、今で言えば政府紙幣にあたります。
また、利息の取得は一部検校を除き公式には禁止されていました。
バクチの借金などで有利子の金に手を出す者もいたようですが、社会としては認めていません。
通貨の流通は各種の普請など公共事業で幕府(藩)が金子を支払うところから始まります。
銀行からの借金から流通が始まる現代との違いを考えてみてください。

 貨幣が未だに解らない

笑わないでください。私は農家育ちで,嫁ぎ先は小さなまちの雑貨屋でした。まさしく、貨幣の虜になり悶々とした生活でしたが6年間舅たちと別居生活をし、私も外貨を得るため働きました。1983~^1989年までですから、大変な驚きを感じました。周りが余りにも贅沢すぎていたことと、夫婦共働きが極当たり前であるということにショックを受けました。お金より母親は、家にいてて子育てに専念すべきです。私は今思うのですが、無能な女でよかったと神に感謝さえしてます。私の自己実現は、3人の子が自分なりの幸せを感じ取ってくれたときなのですが、これがなかなか難しい。ちなみに私の子は、3人とも中学不登校でした。二人は3年まるっきり行きませんでしたが、3人とも高校は卒業しました。そして社会人となりがんばってます。長女は銀座でホステス(30歳をもってすっぱりとやめましたが)、長男は職人となり二人のこの父親、次男は苦節5年の引きこもりを経て現在年収150万円でがんばってます。長女いわく、「お金って何だろう」。長女は3年中学をいってないので、知識も無いのですが、ナンバーワンホステスになってもタクシーを使わず、電車通勤には私も脱帽しました。お金で幸せは買えないとも、いってくれたので安心しましたが、ほんとに幸せって何なのでしょうか?毎度ピントはずれのコメントですいません。

おはようございます

「銀行からの借金から流通が始まる現代との違い」
を考えてみました.次のようなことを仰りたいのでしょうか?
1.江戸時代は実需から始まるのに対し,現代は生産側・供給側の都合から始まる.
2.江戸時代の貨幣は実需に即したものであるが,現代は実需から遊離したものとなる.
ぐらいしか忖度できませんでした.
当たっているかどうかわかりませんが,これに対しての私の疑問は次の通りです.
1.幕府から出た貨幣はその後第三者間で取引の基準として使われます.それは現代と同じではないのでしょうか?(規模と量と浸透の度合いは当然現代とは異なります.基準の必要性は江戸時代のど田舎では不要でありましょうが,現代ではそうも行かないでしょう.)
2.銀行から始まる貨幣もその素があって,中央銀行という政府の代理機関から出てきます.中間媒体の有無に過ぎないと思われます.ただし,この中間媒体は別の重要な意味を持っています.それは「お金という商品の商売」です.諸々の問題の元凶はすべてここにあるように感じています.だから,これをなくせば良いわけで,理論的には簡単.つまり「利息の禁止」を導入すればいいわけです.しかし,これが実施可能かどうかは,車なき社会に戻れるかどうか,ということと同じレベルの問題設定です.

今回のご教示には以上のようなことを考えました.頓珍漢な疑問と思います.済みません.

なお,愚樵さんの軒先を借りて私の個人勉強会をやってもらっています.真に申し訳ありません.読者の皆様と愚樵さんにお詫び申し上げます.

信用創造

アルバイシンの丘さん

>愚樵さんの軒先を借りて私の個人勉強会をやってもらっています.

私は光栄に思ってます。この空間が勉強会のような価値あることに使っていただければ、大変うれしいです。

ところで、早雲さんの仰る
「銀行からの借金で流通が始まる」というのは「信用創造」のことだと思います。これは制度というより中央銀行制のもとでの準備預金制度から生み出される状態を指すのですが、これこそ現在の金融の要とも言えるものです。ごくごく簡単に言うと、“銀行が貨幣を創造することができる”、というものです。

この銀行は、日銀のような中央銀行のことではありません。民間の銀行のことです。現在の銀行は、借り手(借金をする人)の信用を元に銀行が貨幣を創造することが出来るのです。

参考:
wikipedia 「信用創造」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%94%A8%E5%89%B5%E9%80%A0
Money As Debt(動画)
http://video.google.com/videoplay?docid=-446781510928242771

農婦さん

「お金って何だろう」

一言でいってしまえば、お金なんて虚構です。

お札は実用品としてはお尻を拭く紙か、丸めて火をつけて松明代わりにするか。その程度にしか利用価値はありませんし、硬貨に至っては重いだけ。

お金は、お金に見合った価値のある物と交換できると誰もが信じているから有効であるに過ぎないシロモノでしかありません。

そんなお金がなぜ私たちの生活を縛るかと言うと、お金がないと私たちの生活に必要な物が手に入らないから。大部分の日本人は、毎日の生活に必要なお米もお金と好感することによってしか手に入れることが出来ません。そんな社会にしてしまったんです。お金を信用したために。

愚樵様へ

愚樵様のおっっしゃてる事わかります」。私が言いたいのはといううより怒ってることは、そんなくだらない貨幣について、何故頭の良い政治家、官僚ども、知識階層の人たちが気づいてくれないのかと。お札を焼く日は、目前に迫ってると感じてます。デモいつの時代も、犠牲者は、庶民なのが悔しい。何も知らない善良なる庶民です。  

違うような・・・

愚樵さん,快くご承諾くださって感謝しています.また,ご教示,ありがとうございます.
さて,ご紹介のサイト拝見しました.特に2番目の動画サイト.なかなかよくできています.うーん,なるほど,と納得させられそうですが,大きな違和感が残っています.それをきちんとまとめるのは時間がかかりそうですが,大雑把に書いて見ます.
1.中央銀行とは無関係に銀行がローンなどで「信用創造」を無制限に行うことが可能なように描かれていますが,果たしてそうでしょうか?私は直感的に,そういう点を含めても中央銀行がコントロールしていると思います.そのツールの一つが「公定歩合」です.だから,金融政策が重要なのであって,もし動画の内容が可能なのであれば日銀総裁など何の意味もなくなっていしまいます.
2.同じことですが,通貨供給量は中央銀行が決めますから,実質的に無制限な通貨量となるようなことはできないはずですが.

日銀のコントロール,意向を無視したことを銀行が勝手に行うとすれば,一種の違法行為(法律かまたは日銀通達かはわかりませんが)として,日銀の怒りに触れると感じます.だから個別の銀行はそういうことはやらないはずです.
早雲さんの仰りたいことはもっと違うことかな,と想像しています.

愚樵さん、おじゃましてます

一度アルパイシンの丘さんの最初の疑問に戻った方が良さそうなので、

>現在の人口や物量や生産力や生活程度を前提としていながら,江戸時代の姿をイメージするとは私にはなかなかできません.いえ,可能かもしれないのですが,私にはまだ掴めません.

古代、江戸期、近代において支配者も被支配者も人間性はほとんど変わっていないと思っています。

いつの時代の支配者も自己本位の人間はいたでしょうし、庶民も勿論同じです。善人、悪人、勤勉な人、私のようなぐうたらな人間はいつでもいたし、今後も変わりはないでしょう。

そのように様々な人間がいたとしても、自己の刹那的な利益だけを考えるだけであれば別ですが、せめて子や孫の代までを考えると、自己利益を最大にするために取るべき行動は社会のシステムによって自ずと規定されます。

例えば、江戸期に共同体の結びつきが強く、現代が希薄であるのは社会システムの違いによる必然です。

ではシステムの何がどのように違うのか、それによって人々の行動がどのように影響を受けるのだろうというのが話の趣意です。時代の違うことで生産性が大きく違うことは取捨してください。

ところで
「重農主義から見える産業主義近代」
http://sun.ap.teacup.com/souun/161.html
は目を通していただけましたか。

なお、愚樵さんのコメントに対するアルパイシンの丘さんの反応は鋭いとおもいます。

続きはまた後ほどupします。

農婦さん

>何故頭の良い政治家、官僚ども、知識階層の人たちが気づいてくれないのかと

考えられるのはケースは2つ。ひとつは本当に気がついていない。もうひとつは気がついているけど、黙っている。どちらでしょうね?

気が付いていないのなら、気づけば何かが変るでしょう。黙っているのなら、黙っている理由がある。考えられる理由は、彼らにとってはその方が有利だから。たぶん、後者だろうと思います。

でも、お金の正体に気づなかくて不利益を被っている者がお金の正体に気づけば、世の中は変って行きますよね、きっと。

日銀の制御下にあるということは

アルバイシンの丘さん

早雲さんも仰ったとおり、その指摘は正鵠を射ていると思います。ただし、その反面を見逃しておられるとも思います。

各銀行が中央銀行の制御下にあるというのは事実です。ですので、銀行は無限に貨幣を生み出すことはできません。がこのことは逆に、有限という条件下で各銀行が貨幣を生み出すことを正式に許可したということも意味します。ここが重要なところです。

貨幣は所詮は虚構です。この虚構が無制限に増殖を繰り返すと貨幣価値の崩壊を引き起こします。日銀の行う金融政策とはつまるところ、虚構の崩壊を防ぐためのもの。でも、虚構の存在そのものは認め、さらに言うと、制限つきではあるが虚構が虚構を生み出す――各銀行が貨幣を創造する――ことを認めるのです。

wikiにもあったように、銀行は1000円の金を2000円に増殖させます。銀行にとって増えた千円はホンモノではありませんが、融資を受けたものにとってはホンモノ、というより、ホンモノだと契約させられるのです。それが「信用」です(皮肉な言葉の使い方ですが)。

融資を受けた者は銀行から受けた「信用」を守るためにホンモノの生産活動を行い、銀行にホンモノを返済します。銀行にとってはニセモノだったのが、融資を受けた者によってホンモノに置き換えられていく。これが「流通は借金から始まる」の意味であり、現代人が置かれた状況でもあるのです。

この状況下では、もともとは各々の人間が食べること、豊かに暮らすことが目的だった生産活動が、借金を返すためという目的にすりかえられてしまいます。たとえアルバイシンの丘さん個人は借金していなくても、アルバイシンの丘さんが所属している共同体――企業でも国家でも――が借金していれば同じこと。アルバイシンの丘さんの生産活動は、共同体を通じて借金返済に回されます。

こうして社会全体の生産目的がすり替わっていってしまいます。借金を返済する、ニセモノをホンモノにするという目的に。現在は社会のシステムそのものがニセモノを生み出し、そのニセモノをホンモノにするシステムになっていて、私たちはその影響下にあるのです。

どうもすみません

早雲さん,ホントにすみません.ご紹介の記事は読んでいます.しかし,良く咀嚼できないので未だコメントに表せるほどまとまっていません.『産業は富を産まない』という意味はわかりますが,そう言って見た所でどんな意義があるのだろう,と訝しんでいる段階です.
それから,自然に働きかけて作物を得ることが,『無から有』を生じるようなイメージで語られているようですが,ここも?に引っかかっています.特に現在のような高い生産力を得るにはそれ相当の努力,つまり産業的な支え(農薬やハウスや研究投資,運搬,保存技術,等々)が不可欠だと思うのです.その一方で,江戸時代をイメージする時には生産力だけは今の生産力を維持する前提があるように感じています.すると,お話がちょっと都合よすぎるのではないかと思ったり・・・
実需でも,利息分は余計に返さないといけない,というのはよくわかります.これが産業の不生産のために無理をすることになるのでしょう.しかし,それが仮に正しいとしても,農作物であれば問題が生じない,という点がやはりまだ良く理解できません.『無から有』だとは思えないからです.

それから愚樵さん,どうもありがとうございます.
ウィキの話はちょっと受入れにくいです.見かけ上,お金が膨れているとしても,実需として使われるお金とお金で商売しているのを合計しています.お金で商売しているのは利息の問題であり,実需のみが中央銀行からの供給量に反映するのではないですか.銀行から10%で借りた金を20%で貸し出す,それを30%で又貸しする,というのは単なるねずみ講(エネルギー保存則に反する,または原資が無限に必要という意味)ですから,そういうのはすぐ破綻するはずです.そういうのが問題ではないはずですよね.
『社会全体の生産目的がすり替わっていってしまいます』というのはねずみ講に関する部分の話ではないですか?
ですから,早雲さんへの最後の部分の話になっていくのですけどね.

『「お金」崩壊』

アルバイシンの丘

集英社新書から『「お金」崩壊』という本が出ています。「404 Blog Not Found」の記事を見て購入し、私も今から読むのですが、その記事に非常に端的な経済の見取り図が出ています。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51035991.html

この図には「金融システム」「社会経済」「自然資本」の3つの円が描かれています。早雲さんの仰る重農主義の視点は、環境派の視点と同じです。

この図は非常に優れたものだと思いますが、イメージ的に大きな欠点があって、それは各々の円の大きさ。私たちの常識となっている視点では「金融システム」>「社会経済」>「自然資本」となる。私たちの常識、貨幣で価値を測定すると、円の大きさはこのようになります。そのからくりが「信用創造」です。

現代の経済には実需以上の貨幣が流通しています。そしてその大部分が存在するのが金融のシステムの円の中。お金を商品とする世界の中でぐるぐる回っている。実体経済で需要と供給の交換に使われるのはこの一部に過ぎません。

私たち庶民にはこの一部が全てですが、これはホンモノです。対してぐるぐる回る貨幣はニセモノ。

現在、原油価格が高騰しています。トウモロコシも高騰しています。実需以上に高騰していると報道でも言っています。原因は「カネあまり」だとも言っています。これは膨らむだけ膨らんだ貨幣が、金融システムの中だけでは納まりきれなくなって、実体経済を侵食し始めた結果起こっている現象です。需要と供給の交換のためではなく、実体経済の一部を金融システムのなかと同様の貨幣がぐるぐるまわる世界にしてしまっている。

貨幣がぐるぐるまわっているのは、ニセモノの世界です。今の価格には、実需によるホンモノの価格にニセモノがぐるぐるまわるためのニセモノの価格が上乗せされている。私たちは、そのニセモノにもホンモノを支払わされています。

ニセモノの世界――金融システムは「信用創造」なしには出来上がることはありませんし、実体経済以上に膨れ上がることもありえません。

利潤について

利潤に関する簡単な捕捉説明
http://sun.ap.teacup.com/souun/169.html
”まとも”な「利潤なき経済社会」というものを提示するに至った背景を理解していただくための「利潤」に関する補足説明と近代に至る歴史認識の簡単なまとめです。

「近代経済システム」における利潤と経済成長の源泉の副読本です

“村落共同体”阿修羅村の顛末 前編
http://sun.ap.teacup.com/souun/379.html
“村落共同体”阿修羅村の顛末 後編
http://sun.ap.teacup.com/souun/380.html

愚樵さんへ

「ぐるぐるまわる金融」とかあまりよくイメージできなくなりましたが,ウィキやあの動画はバブル発生の原理を言ってるのではないですよね.バブルだって大本が締められたらバブルにならない,またはなりにくいですからね.
「膨らむだけ膨らんだ貨幣が実体経済を侵食」
これは政治の問題だと思いますよ.実際に,財政的にはお金がなく,使うべき所は福祉とかたくさんあるのにそういう所へはお金が廻ってきません.要するにお金がたりないのですよね.しかし,投機家たちにはあり余っている.これは偏在としか言いようがなく,お金そのものの罪ではない,政治の問題と思います.(お金そのものは人間の本性を歪める原罪を持っていますが今は別問題です.)

早雲さんへ

ご紹介の記事を拝見しました.しかし,また最初に戻ってしまいますが,御記事はある歴史観で切り取ったもので,そういう立場でモノを見よ,といわれてもにわかにはできかねます.阿修羅村の物語にしても,あまりにも物語過ぎて,リアル感が得られません.別のストーリーだっていくつも書けそうです.
具体的に指摘したいところもありますが,もう少し時間を掛けてみないとまとまりません.
それにしてもありがとうございます.

少し戻りましょう

>『産業は富を産まない』という意味はわかりますが,そう言って見た所でどんな意義があるのだろう,と訝しんでいる段階です.

資本主義経済下で経済主体が「冨」または「利潤」を生まないと言うことはその経済主体が存続出来ないということを意味します。ですから、各経済主体は利潤獲得を第一義に活動しています。

ところが、重農主義の前提する閉じた世界では『産業は富を産まない』のです。

重商主義では「外部経済」を前提します。そして外部からの利潤がその国民経済にとっての唯一の利潤です。

ところが、現在はが存在しない、ワンワールドに近づきつつあります。

外部の存在しない世界で各経済主体がそれぞれ利潤獲得を目指した経済活動を行えば何が起こるかはおわかりでしょう。

もちろん、利潤を上げるミクロの経済主体は有るでしょう。
しかし、全体では「利潤」を生まないのですから、ある経済主体の利潤獲得は直ちに他の経済主体の損失を意味します。

無用の犠牲者が出続け、経済全体が限りなく縮小再生産してゆきます。

ですから、世界が狭くなった現在『産業は富を産まない』ことを意識することは非常に重要で、次なる経済システムを考える要です。

この意味で、日本がワンワールドであった、江戸期が参考になります。

訂正です

ところが、現在はが存在しない、ワンワールドに近づきつつあります。
ー>
ところが、現在は外部経済が存在しない、ワンワールドに近づきつつあります。

特定値

この議論は机上の空論の域を出られない。

>ベーシックインカム(Basic Income:BI)とは、「すべての個人に、無条件かつ普遍的に、生存を可能にする基本的必要を満たすと同時に生産=表現の自由を行使しうるだけの一定額の所得を給付する」所得保障の制度であり、社会構想である。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

一定額という言葉のまやかしに振り回されるだけだ。
一定額は無いと思うけれど、有ると仮定して特定の値に決められるか?。
人に依り、地域に依り、固定した特定値を出せるか?。時代に依り、常に変化すると思われるけれど、決めて良いのか、追随して行けるのか。
出来はしないと思う。
ベーシックというけれど、人間のベーシックを何であるかそれを求めるか決められるか、それが定まってないなら定められないのと違うか?。逆に定める事に害があると思われる。

「一定額の所得」を特定の金額に定められないと思われる。

そんなことを言い出せばキリがない

はむれっとさん

>「一定額の所得」を特定の金額に定められないと思われる。

なぜ? 政治的に決めればいいだけのことでしょう? 政治はそのためにあるんじゃないんですか?

B.I.にも負の所得税でも一定額を定める必要があります。けれど、これは正の所得税でも同じです。課税最低基準は? 税率は? あなたの論理で言うと、これら全てが定められないことになる。でも、現実には定まっている。その一定額がよいのかどうか、さまざま立場・意見をたたかわせて議論しつつ、定められる。そのための議会であり、民主主義。

パイが大きくなることは可能では?

ホントに恐れ入ります.
ところで,端的な疑問(速報値ですが)を書いておきます.
ワンワールドということはグローバルな寡占化ですね.これはとてつもない弊害を産み出すと思いますが,それは『経済全体が限りなく縮小再生産』に陥るからである,という主張には未だ同意できません.
 というのはパイ自体が大きくなることがあり得るからです.江戸時代をイメージすれば,人口が増えて社会的に必要な物資がどんどん増えていきます.すると仮にゼロサムが正しいとしても(私はゼロサムをもう少し検証しなければ,と思っていますが)パイ自体は大きくなっていきます.つまり,経済活動は大きく活発になります.
 無論,無限に大きくなり続けることはできませんが,『閉じたゼロサムの状況下では経済全体が限りなく縮小再生産に陥る』と言う主張は少なくとも条件を限定しなければ言えないと思うのです.
 以上,速報的感想でした.ありがとうございます.

利潤とは貨幣的な冨です

>『閉じたゼロサムの状況下では経済全体が限りなく縮小再生産に陥る』と言う主張は少なくとも条件を限定しなければ言えないと思うのです.

その通りです。
その条件は、
1.貨幣経済が隅々まで行き渡っていること、
2.経済活動の目的が利潤の獲得であること、
3.通貨が利子を伴う貸し付けとして流通し始めることです。

1970年代までの日本は貿易収支赤字でしたから、国民経済としては利潤はありませんでしたが、ほとんどの国民がそこそこの生活をすることが出来ました。
利潤のない閉じた世界でなぜこんなことが可能だったのかを考えてみましょう。

生産性の向上によって、同じ貨幣で入手できる財が増えたこと、
インフレ政策によって実質的な金利がマイナスであったこと、
高額所得者への高い税率適用、食管制度によって農家所得を保障するなど富の偏在を緩和する政策がとられたことが挙げられます。

江戸期の経済は貨幣経済は一部で、大部分は米本位ですからあたりません。

最初に確認した、

> 近代とは、
> 重商主義、貨幣経済の普遍化、中央銀行制度を特徴とすると捉えています。
> 外部からの冨を得ることを目的とする重商主義は必然としてグローバル化へ向かいます。
> 貨幣経済の普遍化は「供給=>需要」(供給活動に個人の活動力を売ることで得た賃金が需要の最大値となる)となります。
> 貨幣はすべて中央銀行から銀行を通じて有利子で流れます。
> 利子を支払うためには各経済主体は利子以上の利潤を得なければ存続できません。

を思い出してください。
現在では生存のための活動は全て貨幣の流通を通じてのみ実現することを失念されていませんか?

阿修羅村で貨幣経済が行き渡った時何が起きたかをご確認ください。

二面有ると言われましたね

愚樵さん、こんばんは

>でも、現実には定まっている。

物理的にね、でもそれに納得してる、みんながそれに納得してるの?。
違うでしょ、間違いではと思ってる人も多いと思うけど?。
謂わば中途半端に定まってる。ひっくり返して言えば
中途半端にしか定まってない。
ベーシックインカム、定められる目算が有りますか?。
今現在に中途半端に定まってるだけなのに中途半端を又増やして複雑になるだけと違いますか?。
不満、憤懣が増えるだけでは?。

どうもありがとうございます

とりあえずの疑問は次の通りです.
1.貨幣経済が隅々まで行き渡るとなぜ縮小再生産になるのですか?パイが大きくなる場合もあるということが考慮の対象にならないのはなぜですか?
2.江戸期は米本位制が混じっていたから縮小再生産にならなかったということと,いやパイが大きくなったからだ,というので後者を採らない理由は何でしょうか.
3.「最初に確認した・・」ということで引用されていますが,それは私が咀嚼した上で納得した,という意味ではありません.「そういう見解・前提で結構ですから先に進めてください」という意味に採っていただきたいのです.

物分りが悪くて申し訳ありません.

だから、あなた自身はどうなんですか?

はむれっとさん

>ベーシックインカム、定められる目算が有りますか?

なぜそういう質問をするのかなぁ? そこがわからん。

あなたがB.I.について反対意見を持っていて、その意見を何らかの根拠を元に示してくれるのならこちらも反応のしようがありますよ。でも、そういう質問をされても、答えようがない。

そりゃ、現状では目算なんてありませんよ。じゃあ、目算がなきゃ、自分の意見を開示してはいけないわけ? たとえば負の所得税を考え出したのはミルトン・フリードマン。私はそのことを紹介した池田信男氏のブログを見てこのエントリーを書いたわけだけども、じゃあ、あなたは機会があればミルトン・フリードマンにあなたの発想が実現される目算はありますか、なんて問うわけ? そんな質問はがナンセンスなものであることくらい、わかってくださいよ。

私はなにか目算があってこんな記事を書いたわけではない。ただ、B.I.や負の所得税と言う考え方があって、そこに自分の考えを絡めて書いただけ。誰かがそれを読んで、賛成でも反対でも構わない、読んだ人自身の
考えを聞かせてくれたらそれでいい。読んでもいない人のことなんか、知りませんよ。はむれっとさん、みんなのことはどうでもいいから、あなたの考えを聞かせてください。

ごく簡単なモデルを考えてみるのがよいと思います。

ここに人口100人の国があるとします。この国では人々はその働きに関係なく所得は平等で、年間ひとり100万円とします。モデルを簡略化するために、この国では全員が就労者で、金利はなし、物価上昇もなし、流通する貨幣の量と財の価値は同一であると仮定します。この国の経済規模は、100人×100万円=1億円。また国民のエンゲル係数は一律50%、つまり生命を維持するためには一人年間50万の所得=50万円分の財が必要とされるとします。すると国民一人当たりの自由可処分所得は年間50万、国全体では5000万となり、国民はこの所得の全てを消費に回している状態です。

この国にも時代の流れで新自由主義経済になり、国民の間に格差が生まれした。ここでも話を簡略化するために、100人のうち10人の所得が年間550万、残り90人は50万になってしまったとしましょう。国全体の経済規模は依然として1億円です。

90人の個人所得が50万円になってしまったということは、この90人には可処分所得が全くなくなってしまったことを意味します。この90人は自分の生命を維持するだけの財を手に入れるだけで精一杯です。国全体での可処分所得5000万は、残りの10人に握られてしまいました。ではこの10人、1人当たり500万の可処分所得を持つ者は、その全てを消費に回すか? ここが問題です。

もし全てを消費に回すならば、国の経済規模は1億円で変化しません。けれども、実際はそうはならないでしょう。1人あたり500万の可処分所得は遣いようがないのです。1人当たり50万なら遣い切ることができてもも500万は遣えない。仮に5000万の可処分所得を見込んで5000万分の財が生産されたとしても、この全てが購入され消費されることはないでしょう(消費されずに残った分は不良在庫となるのですが、ここでは問題を簡略化するために不良在庫の問題も捨象します)。仮に一人当たりの消費が300万に留まったとしたならば、残り200万は(国全体では2000万)は死蔵されることになります。貨幣ではこれが可能です。すると国全体の経済規模は8000万に減少してしまいます。

国民経済が8000万に縮小した中で、このままの比率で財の分配が行われたらどうなるか? 10人の所得は20%減の440万、90人は40万です。国全体での可処分所得は4400万。可処分所得の消費量が変らず3000万とすると、90人が貧困にあえぐ一方でさらにまた1400万が死蔵され、国民経済の規模は6600万に縮小してしまいます。

閉じた経済の中でゼロサムゲームが行われると、こうした事態が生じます。

すごく解りやすいモデル

このモデルは考えやすいモデルですね.私でもいろいろ具体的に追うことができました.ありがとうございます.理解できた範囲で質問させて頂きます.すごい短時間で質問をまとめることができました.
1.このモデルにおける経済縮小は新自由主義だから起こったのですか?
2.このモデルでは可処分所得を有するのは10人のみに減少してしまいましたが,これは富の偏在と捉えることはできないのですか?もし偏在であればこれは政治の問題ではないのでしょうか?
3.人口が増えると新たな需要が生じます.可処分所得をもたない人は買うことはできませんが,政策的にお金を増やすことで可能ではないですか?
4.このように政府が介入しなければ再び寡占化が生じますが,適切な介入でそれを防ぐことは可能ではないですか?要するに政策の問題という意味ですが.
5.ということはご提示のモデルは新自由主義がいかにおかしいかを証明するストーリーであって,貨幣そのものの罪ではない,と考えられないのですか?
6.とは言ってもいずれ矛盾は積み重なっていきそうですが,それは新自由主義ではなくとも資本主義経済に内包される原罪であって,常に修正を余儀なくされる宿命にあるのかもしれません.すると結局は理想的な計画経済,理想的共産主義経済のようなものにはならないのですか?それを重農主義で解決できるという主張をなさっているのでしょうか?
7.それとも資本主義経済の原罪=貨幣そのもの,というお考えですか?貨幣をなくすことが実現可能なら利息禁止法だって実現可能と考えられます(もっと容易).利息禁止でもこのモデルの問題は生じますか?
8.貨幣のない社会は原始的共同生活体の規模でしかできないような気がするのです.ヤマギシのような.(ヤマギシはそういう理念で釣って人々を騙したトンデモ団体ですが,そういう共同体に憧れる庶民の心性をうまく突かれたと理解しています).全世界が一緒にやらないと意味は無いと思いますがどうなんでしょう?

えーと取り留めのない質問の羅列になってしまいました(特に6番以降)が,1番から5番までは考えを整理しながら並べた質問です.あまりにも素朴な質問で済みません.私の理解はこの程度です.長々と済みません.

後からの追加になりますが,貨幣のない共同体思想は下手すると宗教的な幻想を人々に振りまく怖れがあります.人々がそれに取り憑かれると容易に詐欺や悪徳宗教に取り込まれます.それで私は非常に慎重になっているのです.

私見に基づきお答えします

まず、1.から

新自由主義といったのは単に流行を追ってのことです。経済活動の自由放任とは、ゼロサムゲームを規制なしに自由に繰り広げてよい、ということですから、新自由主義=自由放任とすれば、その通りという答えになります。

続いて2.

このモデルで起こる現象は明らかに富の偏在です。1.でお答えした経済活動の規制を行うか否かは政治の問題ですから、富の偏在は政治の問題だということが出来ます。ですから、富の偏在に規制をかけ――このモデルには規制を掛ける政府は登場しませんが――富の再分配を図ることができれば、問題は解決できるように思えます。

3.

人口が増え需要が増加しても、このモデルにおいては財の供給が増えることはありません。それが「閉じられたゼロサムゲーム」という意味です。人口が増えればゲームを演じるプレーヤーが増える分、競争は激化し貧困層が増えるだけです。また、政策的に貨幣を増やしても意味がありません。たとえば貨幣の流通量を2倍の2億円にしたところで、財の貨幣価値が2倍になるだけの話です。

増えた需要を満たすだけの財を供給するには、「閉じた経済」という条件を外すしかありません。つまり、外部から富を収奪してくるしかないのです。

4.

2.でお答えしたように、一国で「閉じた」経済であるなら、政策的な解決は可能でしょう。けれども、3.の回答――外部からの収奪――を計算に入れるとどうなるか?

モデルをバージョンアップしましょう。人口100人経済規模1億円の国が100ある世界を考えてみるのです。全世界の経済規模は100億円です。他の条件は全く同じ。その条件で全世界規模で閉じたゼロサムゲームを行うと...、答えは明らかですね。

1国レベルなら政府規制が出来たとしても、全世界規模となると、今のところ有効な規制手段はありません。これが現実である一方、経済はワン・ワールドになりつつある現実。人間はいまだ地球圏外で経済活動は行えませんから、閉じたゼロサムゲームにならざるを得なません。この現象は、各国が重商主義(あるいは帝国主義)を採用し続ければ必然的に訪れる現象なんです。また、付け加えておきますと、全世界規模での重商主義はありえません。重商主義は外部があってはじめて成り立つからです。

5.にお答えするにはさらにモデルをバージョンアップさせる必要がありますね(笑)。

先日、『「お金」崩壊」』について触れたコメントの中で経済には3つの円――金融システム、社会経済、自然資本――があると紹介しました。ここまでのモデルでは、そのうちの2つ、社会経済と自然資本しか基本的には取り扱っていません(基本的には、というのは、死蔵された貨幣は金融システムの方へ流れていくからです)。

さて、ではモデルに金融システムを付け加えます。人口1万人世界での経済規模は100億円でした。ここで思い出して頂きたいのは「信用創造」です。「信用創造」は銀行が勝手にお金を作り出すシステム。ここをモデル化しますと、「流通する貨幣の量と財の価値は同一」という条件が敗れてしまいます。新バージョンでは、貨幣量を200億円、財の価値100億円、人口1万人としましょう。

金融政策がうまく機能している場合、全貨幣量のうち100億円だけが流通します(金融に100億円)。その条件ですと、実は旧バージョンと同一条件です。

では、金融政策に失敗して貨幣の流通量が減った場合(たとえば金融に120億円、流通に80億円)、これはゼロサムゲームが進行したのと同じ現象を引き起こします。つまり、経済規模の縮小です。

金融政策に失敗して貨幣の流通量が減った場合(たとえば金融に120億円、流通に80億円)、これはゼロサムゲームが進行したのと同じ現象を引き起こします。つまり、経済規模(≒デフレ)の縮小です。

では、逆に貨幣の流通量が増えるとどうなるか(金融80億、流通に120億)。これは普通に言うとインフレで、経済はよくなるはずなのですが、ここは閉じた経済世界です。もはや外部はありませんので、増えた需要に見合う供給がありません。ですので、経済はよくなりはしませんが、貨幣の価値は減少します(インフレではなくスタグフレーションになる)。これが持たざる9000人(1国では90人)には大問題になるのです。これまでは50万で生活維持が出てきてたのが、貨幣の流通量が20%増えて貨幣価値が20%下がったので、60万なければ生活維持が出来なくなってしまいます。しかも増えた20億円は全員に平等に行き渡るわけではありません。これは裕福な1000人にのみ供給されます。なぜならこれは不労所得だからです。

言うまでもないことですが、全世界規模で金融政策を実施できるところなど、現在の世界のどこを探してもありません。その結果、金融システムの中に存在する貨幣はどんどん膨れ上がり、その中をまわりきれずに社会経済へ流通するようになります。その結果起きているのが、片やインフレであり、原油や穀物の高騰です。その一方で、ゼロサムゲームが進行することによるデフレも進んでいます。原油は穀物の価格を高騰させている先物取引市場は、社会経済を侵食しつつも貨幣は社会経済へ流通せず、死蔵する貨幣を増やすだけだからです。

少し回答が問題から外れてしまいました。貨幣の問題は、交換手段としての貨幣が問題なのではなくて、貯蓄手段としての貨幣が問題、さらには貨幣量>富の量 となってしまっていることが問題なのです。6.の答えと重なっていきますが、重農主義は貨幣量<富の量とする体制と考えることも出来ます。貨幣量が足らないので、日本の江戸時代のような米本位制が採用されることになるのです。

貨幣量<富の量でかつ貨幣価値=富の価値とはどういう状態かというと、貨幣経済が完全に浸透していない経済ということです。最初の1国モデルに戻って、貨幣量5000万、財の量1億という国があったとすると、この世界での貨幣経済浸透は50%。もしこの貨幣経済でない50%が米本位制で生活維持の方面へ回されるとすると、ゼロサムゲームにはならないのです。というのも、貨幣なら死蔵することは可能ですが、米では不可能。結局、(貨幣に換算すれば)5000万の価値の米は、100人の人間に平等に消費されるしかなくなる。自然とそうした経済になるというわけです。この経済ではもちろん、経済規模が5000万以下になることはありません。

さてさて、随分長くなってしまいました。申し訳ありませんが7、8.への回答は割愛させてください。決して資本主義の原罪は貨幣そのものではありませんが、利息の問題まで加えるともっと複雑になりますし、貨幣のない世界や計画経済の弊害については、法理念の弊害についての話も加わってきますので...


あ、それから、最後に。以上の説明はあくまで私の私見ですので、間違いはあろうかと思います。どなたかが修正してくださると思いますが、もし、修正が入らなくてもこれが全面的に正しいとは思わないでください。

利潤について補足です

利息や利潤の問題は、小さなモデルを考えればすぐにわかることです。

いろんな商品を商う人たちが集まる市場(いちば)をあるとします。

単純化するために、米や野菜など食糧を販売している店は裏に農地や牧場を保有していてそこで生産し、道具や衣服を販売している店は裏にそれらを生産する工場を保有しているとします。

この人たちのあいだの交換(市場取引)だけでも生活が成り立つとします。

そして、交換の手段は通貨(紙幣)を使っているとします。

[市場内だけの取引]

1) 通貨を増やしても得られる財的豊かさは変わらない

市場の人たちの生産量が同じままで通貨の量を増やしても、物価が上がるだけで手に入る財の量は変わりません。

生産量の増減に合わせて通貨の量を増減すれば、物価水準は維持されます。

2)ある人が生産性を上昇させてもその人が得られる通貨的富は変わらない

たとえば衣服を販売している店の工場が同じ人員で1日に生産する衣服の量を増やしても得られる通貨的富は変わりません。

生産した衣服全量を販売するためには、単価を下げなければなりません。なぜなら、市場のほかの人が保有している通貨の量は増えていないからです。(単価を下げたくなければ、従来と同じ数量を販売することになります)

現実には、取引のタイムラグがありますので、一時的には生産性を上昇させた財を従来の価格で売ることはできますが、それを持続することはできません。

生産性が上昇する財の種類が増加すれば、同じ通貨量で手に入る財の量が増えることになります。


3)ある人が保有通貨のある部分を使わななければ、市場全体の売上が減少する

使わない目的は老後のためでも将来の拡張資金など何でもいいのですが、市場を構成するある人が他の人の財を買う金額を減らせば、市場全体の売上げが減少することになります。

道具屋が蓄財するために衣服を買う量を減らすと、衣服屋の可処分所得が減るので衣服屋が肉屋から買う肉の量が減り、肉屋の可処分所得が減るので、八百屋から買う野菜が.....という連鎖的な変動が生じます。

このとき、気が利いた人が、道具屋の蓄財を預かり、それを道具屋に貸し出しすれば、従来どおりの取引が継続されます。

(現実も基本的にはこのようなものです。預金金利と貸出金利が同じであれば道具屋は損得なしで、返済する必要がない代わりに預金を払い戻すこともできないということになります。道具屋の預金を道具屋に貸し出ししているから奇異に思えるだけで、道具屋の預金を肉屋に、肉屋の預金を道具屋に、と考えれば現実と同じ話です)


日本経済にしろ米国経済にしろ、国民経済は、このような構造と論理がベースになっています。

端的に言えば、財的豊かさは知恵を絞って生産性を上昇させていくことで実現できるが、ある人が通貨的富を増加させようとしたり、ある人が保有通貨をしまいこむようなことをすると、全体がおかしくなるという論理です。

このような基底的論理を打ち破るのが、国際取引です。

モデルで言えば、外から買い物に来てくれる人を考えればいいことになります。

モデルの市場が他の市場よりも同品質で安い価格で販売していれば、外から買い物に来てくれる人が増えます。

そうであれば、生産性を上昇させても、価格を下げることなく販売することができます。

そうであれば、ある人が蓄財しても、外から買い物に来る人が支払う金額がそれに見合うだけで増加すれば市場全体に問題は生じません。

モデルの市場は、増加する外からの来店客の需要に見合うだけ生産量を増加できる限り、通貨的富も増加できます。

就業者数が一定であれば、生産量の増加は、生産性の上昇に拠ることになります。

外からの来店客は、輸出とまったく同じものだと考えることができます。

国際的な利息取得は、外からの来店客の場合には財を見返りに通貨をもらうことになりますが、財の見返りも必要としないで通貨だけが流入することを意味します。

外からの来店客がなくても、市場のある人が市場外(国際)貸し出しで利息を得ていて、そのお金を市場で使ってくれるのなら、来店客と同じ経済効果をもたらします。

市場の生産性が同じであればその通貨流入で単なるインフレになってしまいますが、生産性が上昇したときに生じていた財の価格下落は、防止できたり緩和することができます。

(逆に、外からの来店客があれば、貸し出しで利息をとっても、問題を起こさないで済ますこともできます)


現状の日本は、外から買い物に来てくれる人(輸出)が増加せず、通貨が貯め込まれたままで可処分所得(消費支出)も減少しているなかで、財の供給量が増加しているために、「デフレ不況」に陥っています。

(赤字財政支出が増加しないことも通貨が貯め込まれたままを意味し、日本からの輸出につながらない対外投資も同じ意味を持ちます)

愚樵さん、ありがとうございます。

共同体について:

>1.このモデルにおける経済縮小は新自由主義だから起こったのですか?
>2.このモデルでは可処分所得を有するのは10人のみに減少してしまいましたが,これは富の偏在と捉えることはできないのですか?もし偏在であればこれは政治の問題ではないのでしょうか?

贈与-互酬が成立する範囲が「共同体」だと思っています。

貨幣経済の全面化とは、人々から共同体性を喪失させることであり、共同体を崩壊させることです。

崩壊した共同体の近代的統合体が国家です。

近代史は、共同体内に癌細胞(寄生者)が発生しそれが大きく成長していく過程です。

近代は、(経済的)社会と(政治的)国家が分裂していることが特質で、個人主義的で自由主義的に利益の獲得を競いながら活動する社会を国家機構が強制力や社会政策でなんとか統合性を維持するという構造になっています。

(共産主義国家では、強制力や社会政策による統合性の維持が先行し、諸個人は国家を維持する活動力として割り当てられる存在として扱われます。これも近代の一形態です)

国家機構が共同体性を脇に措いたままの自由主義や個人主義の尊重を謳いあげそれに沿った国策を推進していけば、家族という基底から「亡国」が進んでいくことになります。

共同体性を忘却した個人主義の末路は、ごく少数が個人的欲求を充足させるという状況を経た後に訪れる国家社会の崩壊であり、個人という実存にとっては家族の崩壊です。

うひゃあ

なんとたくさん!お二人様,どうもありがとうございます.こんなにたくさんあったらじっくり勉強しないと何がなんだかわかりませんね.後ほどよろしくお願いします.

モノローグ

貨幣経済というより商品経済では。それこそが資本主義的生産様式の独自の価値表現形態。しかるに、貨幣もまた商品、商品は労働の成果であり、労働力もまた商品。

共同体を解体し生まれた階級の矛盾を幻想的な共同体として再構築したものが国家。いわゆるレーニン国家論の基本テーゼの一つ「階級対立の非和解性の産物としての国家」

近代は、市民社会と国家の分裂を契機とした自由主義的な利潤の獲得競争はやがて産業資本と銀行資本の相互的な集積と癒着を生みだし、金融資本を形成すると、それは国家と融合し国家独占資本として行き詰まった経済発展を国家権力機構が強制力や国家財政を惜しみなくつぎ込んだ社会政策でなんとか統合性を維持(恐慌の回避)するのが現代の仕組みであります。

共産主義の移行段階としての過度期としての社会主義国家では、官僚的軍事的国家機構を粉砕し、オリンピックなみの4年に一度の一票という形式民主主義を排し、各生産点の広汎な組織、地域のコミューンなどなどで徹底した討論をつうじて選出された代表が評議会を通じて意志決定とその実行を責任をもってなすものとなる。常備軍は武装したプロレタリアートにとってかわられ、官吏は紀尾井町の最高級官舎など以ての外で「労働者なみの賃金」と「武装したプロレタリアートの統制と指導」下におかれる。ここに「代議機関をおしゃべり小屋から『行動的』団体へ転化すること」が可能となる。ちょっと「シュール?」なレーニン国家論でした。

なかなか整理が・・・

全般的なことですが,人為的な介入を許すモデルで考えるのか介入しない時の思考実験なのかがはっきりしませんね.とりあえず違和感を羅列してみます.回答1と2は一致しているので問題ありません.
1.回答3で,ゼロサムゲームであっても財の供給が増えることは無い,とありますが.
ゼロサムということは総和がゼロと言うことであって,パイの大きさは不定です.だからゼロサムと言うことだけを以って財の供給が増えることは無い,ということはできないはずです.では閉じた系で何がパイの大きさを変化させうるのかと考えた結果,その一つとして人口問題を挙げました(エネルギー論的には内部発熱).あとは政策の問題に帰着させることができます.
外部から富を収奪してくる必要はないように思えます.では人口が増えなくなったらどうなのか,それは食糧問題が深刻にならないことを意味するのでむしろ好都合なことです.するとホントに政策・政治の問題となってくるように思われます.
『財的豊かさ』という言葉自体無意味に思えます.
2.回答4について,閉じた系で政策的に調整可能なら,いずれワンワールドになれば閉じた系となるので問題はないのではないですか?過渡期を問題にするなら,国際間の政策調整が不可能と言うわけではないので解決可能ではないですか?
3.回答5で信用創造の問題を挙げておられますが,私にはそれはバブル発生のメカニズムの説明に思えてなりません.貨幣の罪は交換価値のほうではなく貯蓄できることだ,ということですが,ならばこれは大部分が利息の問題に帰着しませんか?穀物への投機資金を貸し出すのも,利息が無ければ誰も貸し出さないはずでしょう.儲けを山分けする,というのは利息の変形でしかありませんから.
4.米本位制なら問題が生じないように書かれていますが,○○本位制が成り立つのは閉じた系すべての人が○○に価値を認めるものでないと成り立ちませんね.すると,世界中で共有できる価値を有するものがあるか,ということが問題になりませんか?石油ですか?穀物ですか? ○○本位制だって買占めの問題は生じませんか?米には利息が無いようですが,品薄で暴騰させることもできます.それを防ぐために政策介入もあることでしょう.すると,バブル防止の政策介入とも同じに思えます.
5.用語について.私には,言葉を慎重に選んでおられるように感じます.重商主義とは資本主義経済に他ならないのではないですか?資本主義という言葉を使わないのは,それを否定するとどうしても共産主義的方向をイメージさせるからだと推量しています.重農主義といっても,『無から有』を生じるようには行かないはずで,農業もすでに産業化されていると思います.
6.早雲さんや愚樵さんは,ある種の共同体の可能性を探っておられるのですよね.しかし,その望ましい共同体のイメージは共産主義的なそれとならないように慎重に話を進めておられるように感じます.
『贈与・互酬が成立する範囲が共同体』というように描いておられますが,これが世界規模で成立するとは到底思えません.共同体が連立するのであれば共同体間の取り決めが必要でしょうから今の国家と似たようになるのでは?
世界規模で共同体が成立するとすれば,それはやはり強力な政治的誘導があるはずで,理想的共産主義社会のイメージになってしまいます.理論だけでいけるなら,薩摩長州さんのコメントにあるレーニンの国家止揚に行き着くのではないでしょうか.

また長くなって失礼しました.

またまたお答えします

アルバイシンの丘さん

こういうやり取りも面白いですね。私も自分自身の問題点を整理するよい機会になっています。

では、1.から
「ゼロサムということは総和がゼロ」はその通りです。財を増やさないのは「閉じた経済」だからです。

モデルの世界では「流通する貨幣の量と財の価値は同一」です。すなわち社会経済と自然資本が同じなのです。自然資本はワン・ワールド――地球環境――では、ある限界以上は増加しようがありません。ですので社会経済も増加しません。需要の増減は環境の限界とは無関係なのです。

(有限な環境の中で自然資本を増加させる方法は技術革新ですが、今日まで行われてきた技術革新は、過去の地球の蓄積の消費か未来の資源の先取りでしかありません。無理に自然資本を拡張させようとした結果が環境問題です。)

2.

仰るとおり、どのような形にせよ、いずれ調整可能になるでしょう。環境問題で人類が絶滅して、調整が不要になる可能性も勘案に入れるなら。問題は、どのような経緯で調整可能な形に至るか、なのです。そのための貨幣の意味の考察、です。

3.

>バブル発生のメカニズムの説明に思えてなりません。これは正しいです。ただし、「バブル」の認識にズレがあります。アルバイシンの丘さんが仰るバブルは一般的な意味のバブルでしょうが、私の認識では今の私たちの普通の生活がすでにバブルなのです。

財の量以上の貨幣が存在するということは、つねに財の量を増やそうとする圧力がかかります。人間の欲望ですね。資本主義経済は人間の欲望をエンジンにしてつねに発展していかなければ崩壊する経済です。欲望が肥大していった大本の原因が信用創造です。

利息の問題は重要です。が、その前に信用創造を持ち出したのは、貨幣量(金融システム)>財の量(自然資本)の状態がすでにバブルだということを示したいからです。利息は貨幣量の大きさに関わらず発生します。けれども貨幣量<財の量ではバブルは発生しません。

4.

米本位制で問題――バブルが生じないのは3.でお答えしたように貨幣<財だから。また、米本位制においては米の高騰はあまり意味がありません。米高騰で困るのは貨幣との交換で米を入手するしかない人であり、米中心で経済を営んでいる人には無関係です。

>世界中で共有できる価値を有するものがあるか,ということが問題になりませんか?

これは大変重要な問題です。ここが上手く解決できないがために貨幣がのさばることになったといっても過言ではありません。この問題は、また別に論じたいと思います。

5.6.

重商主義=帝国主義=資本主義と考えて差し支えないと思います(もちろん違いはあるのですが)。重商主義は『貨幣経済への疑義』のエントリーで論じたとおり、国民の経済をすべて貨幣で測定しようとする考え方ですが(貨幣経済を導入することで競争力を高め、外部から収奪する力を蓄える)、重農主義は、農業のみが価値を生乱すとする考えです。農業を『無から有』を生み出す特別な産業と見做すのが重農主義で、これは重商主義、ひいては資本主義とは相容れない考え方です。

>資本主義という言葉を使わないのは,それを否定するとどうしても共産主義的方向をイメージさせるから
>ある種の共同体の可能性を探っておられるのですよね.しかし,その望ましい共同体のイメージは共産主義的なそれとならないように

早雲さんはどうかわかりませんが、私についてはその通りとお答えしておきます。ただ、もう少し正確を期しておきますと「共産主義的」よりも「全体主義的」です。私はまだ共産主義の真の姿を知らないと思っていますので。

>『贈与・互酬が成立する範囲が共同体』というように描いておられますが,これが世界規模で成立するとは到底思えません。

世界で単一の共同体ができるとは思っていません。ですら共同体が連立することになるわけですが、その共同体連邦の上に立つ何らかの政治的組織が必要であろうことは否定しません。またそこに至るまでに強力な政治的誘導が必要なことも。

感想として

愚樵さん,早雲さん

おかげさまで大体ではありますが,賛否は別として少しは理解できるようになってきました.

次のように書いて見ましたがどうでしょうか.

いわゆる(理想的)共産主義社会は階級間に存在する搾取の解消という捉え方で,いわば労働者の現場の視点から導かれたものであるのに対し,早雲さんや愚樵さんらの共同体は,問題を貨幣経済の弊害といった制度上の技術的な欠陥に帰着させ,その解消モデルをいわば制度設計室の視点から志向されているように感じます.
ただし,ここに寄生者という概念が入り込んでくるのでわけがわからなくなりますが(^o^)/.
愚樵さんの言われる,バブルを生み出しバブルで飯を食ってる(あるいは支配している)者たち,となるのでしょうか.

それから薩摩長州さん,ご教示ありがとうございました.私めの先のコメントで書き漏らして大変失礼いたしました.

「感想」への感想

どうしようかと思いましたが、コメントします。
残念ながらかみ合わない議論でした。

>いわゆる(理想的)共産主義社会は階級間に存在する搾取の解消という捉え方で,いわば労働者の現場の視点から導かれたものであるのに対し,早雲さんや愚樵さんらの共同体は,問題を貨幣経済の弊害といった制度上の技術的な欠陥に帰着させ,その解消モデルをいわば制度設計室の視点から志向されているように感じます.

そのような印象を持たれたのなら仕方がないのですが、答えは「NO」です。

最初に現状認識を摺り合わせたかったのですがちょっと説明をはしょりすぎたようです。

アルパイシンの丘さんは、なんらかの価値観にこだわりをお持ちのように感じましたが、価値観は議論の対象にしてみても仕方のないものです。

ここでは経済活動を規定する「論理」を問題にしたかったのです。

近代経済システムを理解するには供給=需要が全ての基礎になります。

利息の取得、信用創造、中央銀行に関する考察は取り敢えず脇に置いた方が良いでしょう。

経済の運動の法則を知った上で、各人の価値観(弱者救済とか、適者生存とか)によって執るべき手段がわかれます。

しかし、近代経済システムのなかで経済活動(生存維持活動)をしている以上、経済の論理に逆らう行為はどのような立場の主体であって取り得ません。

また、近代経済システムは終焉を迎えているという認識を持っています。(価値観ではなく論理的にです)
そこで、代替システムについての話が出てきます。

粗雑なまとめ方ですみません

早雲さん、どうも失礼しました。私も粗雑なまとめ方だな、と思っておりました。いろいろご教示いただいたのにすみません。
ただ、ここで申し上げたいのは、早雲さんたちが描いておられるものも、多数が価値観を共有しない限り実現不可能ではないか、ということです。
たとえば、『経済の論理』の認識を共有すること(これを再度勉強させていただきたいと思いますが)、この論理は自明でしょうか?
これにしろ、ひとつのご見解ではないのでしょうか。あるいは『必然の流れ』というものを論証されたいのですか?
私が早雲さんたちの試みを「制度上の欠陥をなくした、新たな制度設計」と感じたのも、『必然の流れ』として論証できるのか疑問に思ったからなのです。

とりあえず、粗雑なまとめ方へのお詫びをさせていただきました。もしよろしければ新たな問いかけをさせていただきたいと思っています。そのためにもう少し私の勉強を進めてみます。(時間がままならないのですけどね(^o^)/)

念のためですが、私が『搾取』と言う観点からものを見ているか、というとちょっと違います。そういう見方もできるかなと言う点はありますが、複雑化しているので適用可能かな、という懐疑も持っています。しかし、見かけは複雑化しても本質は変わってないのかも、と思ったりしています。要するにわからないのです。
そして価値観ですが、私は『(理想的)共産主義社会は人類では実現できないのではないか』、と悲観的です。
たとえ理想的な経済の仕組みを作っても、人間自体の未熟さやエゴが必ずその理想的なシステムを壊すだろうと思うからです。ちょうど日本国憲法のように、と書いておきましょう。
次善か三善か知りませんが民主主義の政体の下で環境に配慮し、税金の収奪システムができないような仕組みを工夫して、少々揺れながらでも行く方が健全かな、と思ったりもしています。
グローバル化はそれができなくなる恐れがありますから、最大の敵です。
以上は『なんらかの価値観にこだわりをお持ち』という疑いへの事情説明でした。

まだ表現がまずいですね

所々で言ってきたことですが、『経済の運動の法則を知った上で、各人の価値観・・・』という所、に引っかかるのです。
エネルギー保存則のような万人に共有できる経済論理が存在するのかな?ということです。(無論、利潤を前提とすれば仕入れよりも高く売らなければならない、というレベルもありますが)

拙コメントで『必然の流れ』と書いたのはそういうことです。そういう論理を価値観なくして共有できるのかな?ということですね。しかも、それができるというのであれば、これまでなぜ確立してないのか、となります。盲点があったのかな、とか思うわけですね。

ということで、一つの『理論』、ないし『見解』、ないし『見方』ではないかと途中でお聞きしたわけです。お答えはそうではなく、『自明な論理として共有できる』ということですね。

どうも

はい、『自明な論理として共有できる』といおもっています。

熱力学の第2法則と同じように。

経済学があるから

アルバイシンの丘さん

>そういう論理を価値観なくして共有できるのかな?ということですね。しかも、それができるというのであれば、これまでなぜ確立してないのか、となります。盲点があったのかな、とか思うわけですね。

私からもひとこと。すみません。

「なぜこれまで確立していないのか」への私が答えるなら、「経済学が確立してしまったから」になります。

論理的に自明なことという早雲さんのお答えに私も賛成です(とはいえ、早雲さんほど論理的に把握している自信はまだまだないのですが(汗))。私の場合、そもそも経済学という学問に違和感があって、そこを探るうちに今の場所へ行き着いたという感じです。

アルバイシンの丘さんは、経済学を信用おられますか? 未完成な学問であるにしても、どうもおかしいと思われたことはないですか? 

自明の論理の経済学

愚樵さん,早雲さん,いろいろご丁寧にありがとうございます.やっとお二人の意図:『自明の論理の経済学の確立』を訪ね当てることができました.価値観と無関係のそういうことが可能かどうかは私ごときにはわかりませんが,そういう目でこれまでの所論を振り返ってみるとまた別の見え方をするかもしれません.

『ノーベル経済学賞』はノーベル平和賞よりも凄まじい「政治的行為」だと思っていますよ.ノーベル賞の価値を著しく貶める賞です.
ですから(これらの)経済学なんて『自明の論理』なんかではなくて『我田引水の捏造論理』だと思っています.いや,『論理』ですらなくて世界の民の生活の場で『数値実験』を次々に繰り返す野蛮行為に過ぎないのでしょう.

そこで問題となるのは『マルクス経済学』です.実は全然勉強してない者ゆえ,恐る恐る書いているのですが,それは重商主義ないしは資本主義を超克しようと試みた一つの重要な人類の成果といえましょう.しかし,これも『自明の論理の経済学』ではないとお二人がお考えなのは以前からわかっていました.
そういう方向でもない所に価値観を超えた『自明の論理』が存在するとはとても衝撃的であります.それはすでにご提示いただいた早雲さんの記事に書いてあるのでしょうか?そういう目で再度眺めてみようと思います.
ここでの勉強会も長くなりましたし,再勉強の時間も必要ですのでここで一区切りとさせてください.ほんとにどうもありがとうございました.読者の皆様にも長いことお邪魔したことお詫び申し上げます.勉強結果をまとめた私のエントリーを立ち上げることがあるかもしれませんので,その時はまたよろしくお願いいたします.

モノローグ2

マルクス経済学しか知りません、しかも一知半解な私ではありますが。

「重商主義ないし資本主義」というのではなく、資本主義発展の初期において商業資本(販売)と産業資本(物作り)の保護、育成を絶対王政が自らの財政赤字を補うためにおこなったことが、資本主義の礎を築いた段階であるとして重商主義段階と規定する。産業革命をとおして、産業資本がたちあがり自由な市場での競争が生まれるた段階を自由主義段階と規定する。そして、やがて競争は資本の集積をもたらし、国家と一体となった国家独占資本が強奪と押し売りによる植民地経済をはじめると帝国主義段階として資本主義は完成する。というのがマルクス経済学を発展させた宇野経済学の段階論なのであります。

マル経は社会的価値の生産という目線で資本の運動を明らかにし、私たちが生きている今がいかなる状況にあるか、歴史的座標のどこにあるのかを知るためのものであります。
いわゆる情勢論を導くものであります。社会変革は一定の客観的条件の成熟を必要とし、それに、主体の側のしかるべき準備が符合せねば成し遂げることはできません。
客観的条件の成熟の度合いは情勢論によって明らかにされるものであります。

人間解放の闘いの道しるべをなすものの一つが経済学だと私は思ってます。そんな経済学にノーベル賞は無縁であることはあたりまえとしても、書店の片隅に置かれるスペースすらないことも悲しき事実ではありますが、昨今、牢屋のなかで宇野を一知半解に学んだ「右翼の佐藤ちゃん」の怪しげなるマルクスもどき本が、平積みになっているのをみて気分が悪くなるばかりなのであります。 おしまい。

重商主義

薩摩長州さん,モノローグにお邪魔して申し訳ありません.
早雲さんたちが用いておられる重商主義とは,絶対王政下に存在した歴史的なそれとは違うものだと思います.資本主義経済において特に外部から富を収奪?することによって成立する経済という側面を強調した呼び方だと思われます.
一方,重農主義とは歴史的なそれに殆ど近いものではないでしょうか.
早雲さん,愚樵さん,勝手な説明,申し訳ありません.間違っていたらご容赦・ご指摘ください.私の理解を確認するためでもありますので.

寄生者を想定すると

アルバイシンの丘さん

また話をややこしくしてしまうかもしれませんが(苦笑)。

重商主義、帝国主義、資本主義。これらは寄生者を想定し、彼らの視線から見れば全く同じものなのだろうと考えます。歴史的に発展していったのは政治の制度であり、政治の制度の合わせて経済のあり方も名称を変えましたが、経済の原則からすれば3つとも同じもの。

対して重農主義は経済の原則がまったく違うわけです。歴史的に見れば重農主義はごく一部の国の、ごく一時期にしか存在しえなかったので重農主義=歴史的なものとされますが、これも寄生者を想定すると、重農主義の経済原則は寄生者に好ましいものではなかったために、歴史的なものに留まってしまったと見ることもできるのです。

*****

薩摩長州さん

モノローグにありがとうございますは変ですが、でも、ありがとうございます(笑)。

マル経もなるべく近いうちに取り上げてみたいと思っています。ただ、私も一知半解でしかありませんから、どんなことになるやら心許ないのですが...。

アルバイシンの丘さんへの1つ前の返答に、「経済学が確立してしまったことがおかしい」と述べましたが、この経済学のなかに実はマル経も入っています。近経だけではないのです。

マル経も近経も、どちらもアダム=スミス、リカードの流れから生まれてきたものです。スミス、リカードの両者のなかに何か誤りがあって、その誤りがずっと継承されている――と、そういうイメージを持っています。マル経と近経と、それぞれ違った形ではありますが、根本的に誤ったものを引き継いでいる。樵ごときが大それた物言いですが、そう考えています。

何処からが自明・・・?

『これらは寄生者を想定し、彼らの視線から見れば全く同じものなのだろうと考えます』
一体,どこから自明の論理が始まるのでしょう・・?・・

自然本位制

>アルバイシンの丘さんへ
お邪魔します。論理になるかどうか自分でよくわからないのですが、私の思うところを。

ひとことで言えば、重農主義についての自明は「自然がそうできてるから」という風に思っています。つまり、完全なる自然の循環の内にのみ、生存も経済活動も許されるという考え方です。「無から有を生み出す」という部分については「永遠に循環する」という風に解釈しています。
この循環を離れて生命は存続することはできないわけで、人類共同の普遍的価値にもなり得るものではないでしょうか。

せっかくですので

とんぼさん,どうもありがとう.
あまり話を発散させたくないんですが,せっかくですので私の感想を.
『完全なる自然の循環の内にのみ、生存も経済活動も許されるという考え方』
これは経済思想ではなくて自然との共生哲学ですよね.ですから,『自明の経済論理』というのにはならないと思います.そして,
『自然の恵みのみによって生きていく』
ということが世界中のすべての人にできることではないですね.物理的な量の問題で土地が行き渡りませんので『代表』しかできないことです.しかもその代表には全人類を賄うだけの食糧を生産してもらわなければなりません.
そのためには素朴な『自然の恵み』に頼るだけでは不可能だと思いませんか?これができるのはある閉じた集団,例えば宗教集団の共同生活のレベルでしかありえません.
全人類を賄うためには効率よい生産システムや流通,肥料,農薬,保存,研究投資,諸々が必要なはずです.これはすでに産業の範疇に入ります.
4月25日の私のコメントの8番にはそういうことを書いています.

アルバイシンの丘さんへ

早雲さん、愚樵さんがどのように考えられておられるのか分からないので、話の発散になってしまうかも知れないのですが、私の中では次の時代の経済に繋がっていますのでもう少し書かせていただきます。

現在ある経済思想は人と人の利害関係のみの経済学という見方ができるかと思います。つまり、自然というものを全く捨象しているわけです。もし、富の偏りの問題で再分配が完全に行われたとしても、経済の拡大(欲望、安心、安全の拡大)を防ぐことはできず、自然のかせを越えて存続することはできないという問題は残ります。
もう一つ、人と人との利害関係のみに言及する経済学が人と人との対立を煽っているようにも思っています。本来、人間の攻撃性の多くは自然に対する働きかけ、開拓などに向けられていたと考えています。自然を捨象してしまったために、攻撃性のすべてが他の人、他の共同体に向けられているように思います。ゆえに、自然と人間の利害関係としての経済学の必要性を感じるのです。

ただ私も、いきなり『自然の恵みのみによって生きていく』 といった社会に移ることは、難しいと考えています。
ひとつの例として、江戸期の米本位制や、アフリカのブッシュマンの共同体は得られる水の量によって大きさが決まっていた等、そうしたかせを、現在の経済に組みつける、石高にあわせて総流通貨幣量を決定し、ベーシックインカムによって流通させる、など色々考えられるかと思います。

何百年先かはわかりませんが、行き着く先としての『自然の恵みのみによって生きていく』というところをきちんと見据えておかなければならないと思います。ゆえに次の世界は自然を向いたものにならなければならないと思っています。

と、少しじゃなくなりましたね、すいません。

ps.現在の農業に関して産業であるという点に同意します。というより、経済原理に飲み込まれてしまったように思います。(農は長い目で見てプラスマイナスゼロ、経済は毎年プラスを要求されます)。その反動として自然農などの動きもあり、そのうち目途がつくかなと思っています。自然農にも色々あるのですが、哲学的なコラムなどもあり個人的に気に入ってるサイトです。
http://www.stkm.net/tenuki/
興味がおありでしたらどうぞ(けっこう膨大です)。

お宝発見

討論盛りあがってますね。つい先日、遠い昔に我らの革命運動の指導部であった松尾眞氏が、今は環境社会学の教授として自身のゼミで指導したと思われる教え子が書いた論文を発見いたしました。

表題は「グリーンの視点からマルクス思想を検証する」
人と自然との関わり合いという目線から資本主義的生産様式をとらえかえす試みは実に新鮮で、クオリティの高いものに仕上がっている。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/education/research/r2002/iwakuma.pdf

興味がございましたらどうぞ(ちょっと難しいところもございますが)。

感謝!

薩摩長州さん

いま、pdfファイルを開いてざっと目次に目を通したところですが...、興味深そうですね。読んでみます。

アルバイシンの丘さん

>どこからが自明

わはは。寄生者の存在は“想定”ですからね。想定内容にもう少し言及しておきますと、寄生者とは「貨幣を自明なものとする考えを普及させ、貨幣経済を普及させることで貨幣経済に寄生する者」です。

>これは経済思想ではなくて自然との共生哲学

ここ、大切なところだと思います。経済の「経世済民」が示すとおり、経済はもともとは今日でいう経済よりももっと広い範囲を指し示すものでしたし、当然、自然との共生哲学でもあったはずです。いえ、昔は技術レベルが低かったので、共生よりもサバイバルだったのでしょうけど、いずれにせよ、自然とともに生きる、自然の枠内で生きるということには変わりありません。

経済学の確立とは、経済が自然との共生哲学から決別したことを意味します。そしてこの「決別」こそが「近代」なのですね。しかし、「決別」は人類の思いあがりでしかありません。思いあがった結果が環境問題です。「近代」の破綻は必至なのです。

経済は再び自然との共生哲学の下に戻らなければなりません。これが「近代の超克」なのだと私は捉えています。

はじめまして

お邪魔させていただきます。いつも早雲さんにご迷惑お掛けしている者です。
私も基本的に早雲さんの主張を支持している者ですが、不勉強ゆえ理解しきれていない部分も沢山有ります。アルバイシンの丘さんの疑問点とも重なる所が多く、今回の”勉強会”は大変参考になります。(多分私を含む多くの人にとってはこの様な世間一般の通説とのギャップが理解の壁になり、この橋渡しが必要な気がします。)
ところで、(私ごときが口を出すことでは有りませんが、)たぶんアルバイシンさんが引っ掛かっているのは結局、”寄生者”の概念ではないでしょうか。早雲さんの説はこの寄生者との対立軸が中心に有りますが、この寄生者の実在性をどう受け止めるかが、是非の分かれ目になると思います。世間一般ではこれを陰謀論としてシャットダウンしてしまいがちですが、歴史の流れのなかの、そして現在の貨幣システムを背景とした金融資本家の影響力を認めるなら、十分説得力の有る説だと思います。そして、政治の問題も結局これに大きく影響されているという事でしょう。

以上、ピンボケだったらすみません。失礼します。

みなさんどうも

とんぼのめがねさん
 やはり話の焦点がぼけてしまいましたが,お話はすべて同意しますよ.何の異論もありません.それはそれとして面白いサイトのご紹介ありがとうございました.
そこを拝見しての感想を二つほど.
1.短歌と俳句の興味深い比較考察があって楽しめました.何と私もサイト主と同じなんですよ!感じ方が,無論,俳句派!特に「師系と一匹狼」.俳句は無論一匹狼.俳句は客観なんですが,それに共感してもらうことを全然期待していません.独りよがりで良いんです.俳句とは自己満足で終わる運命(悲しい)を持った表現形態なんです.
2.自然農法のようなサイトですが,福岡正信氏を思い出しました.私はちょっと否定的です.でもまだじっくり読んでいませんので速報値です.

薩摩長州さん
『マルクス経済学と環境』
物すごい興味のあるテーマです.連休中にじっくり読んでみようと思います.ご紹介ありがとうございました.

愚樵さん
私も,わはは,と言わせてもらいましょう.『経済論理が自明』ではなくて,『地球のキャパシティが有限という自明』を仰りたかったのですね.

ymさん
これを書いているときに投稿されたようですね.追加で書いています.
『寄生者の存在』
そうなんです.これの存在を仮定してその観点から切り取ったものの見方をされているのだと思います.それであるのに(だからこそかも知れませんが)一般的な普遍的な見方として話を進めておられる.私はだから話が噛み合う可能性は少ない(というのはニュアンスが正確でなく,「話がずれていることに気が付かない」と言った方が正確かもしれません),と悲観しています.
常に,『寄生者の存在を想定すると』という前提を明示して欲しいな,と思っています.私はそれは「自明」とは思っていません.

おはようございます

ymさん、返事がおそくなってごめんなさい。
いただいたコメントは全て目を通しています。
ここでのやりとりをお知らせしようと思っていました。

ひとつだけ、
『寄生者の存在』
これは、近代経済システムについて考察した結果『寄生者の存在』 を仮定するとなぜこのようなシステムが出来たかが腑に落ちると言うだけのことです。
『寄生者の存在』 自体は論拠にはしていません。
わかりやすいように人格化していますが寄生者的な価値観が世を覆っていると思っていただけば結構です。

自然について
皆さん狭い意味で解釈していますが、私は地球生態系と言うほどの意味で使っています。
人間ももちろん「自然」です。

アルパイシンの丘さんの疑問についてはまたupします。

>薩摩長州 さんへ
ざっと読ませていただきました。「お宝」な感じです。はっきり焦点があわない(解釈に難渋します)ところもありましたので、もう少し読み込んでみたいと思います。ありがとうございます。
この論文著者の続きも読んでみたいですね。

>愚樵さんへ
アルバイシンの丘さんの思考の邪魔をしてしまったかなと心配してましたが、それほど的外れでもなかったようですので安心しました。

早雲さんへ

>やはり話の焦点がぼけてしまいました
うーん、違いましたかあ。私も愚樵さんと同じように考えていました。

このサイトの農法について私の気に入ったところも、客観なのです。なんとなく、このサイト主を貫いているように感じてます。それと、炭素循環という考え方です。

早雲さんお薦めの農関係のサイトなど、教えていただけるとうれしいです。(愚樵さんのブログで申し訳ないですが)

どうもすみません

とんぼのめがねさん,
どうも申し訳ありません.『迷惑がっている』と取られたのでしょうか?決してそうではありませんがそう取られかねない書きかただったでしょうか.すみません.
環境問題と経済活動の調和が必要というのは自明なんですが,それは地球のキャパシティが有限という所から必然的にやってくることですね.
ところが,愚樵さんや早雲さんらの仰る『近代の問題』というのは全く違う論理の下に主張されていると思うのです.つまり,『いずれ破綻が来る』というのは『キャパの問題』ではなくて『貨幣経済そのものの論理によって破綻する』といっておられるようなんですね.言い換えると,キャパが無限であっても『経済論理上の問題で破綻する』という主張といっていいかもしれません.
無論,マルクスの視点からも,資本主義経済は矛盾が積み重なっては恐慌を繰り返す必然性を有している,という破綻論理を提供するわけですが,お二人はその視点にはたっておられません.それを『自明の経済論理』で説明されようとしておられるのだと思います.
というわけですので,『地球のキャパ』の問題は論点がずれると思った次第です.
いや,それはもちろん,人類の遠くない将来を左右する最高に重大事です.大事でない,ということではありません.
改めて,これに関する貴重なご意見ありがとうございました.
ついでですが,
『現在ある経済思想は人と人の利害関係のみの経済学という見方ができる』
とありますが,マルクス経済学はこのようにまとめるのは乱暴だと思います.(全然勉強して無いくせに・・・ですが・・(^o^)/)

アルバイシンの丘さんへ

お気遣いありがとうございます。
ここまでのやりとりを見ておりまして、さぞお疲れだろうなと思いつつ、コメントさせて頂いたために、悪いことをしたなと私が勝手に思っただけであります。かえって、気を遣わせてしまったようで、申し訳ありません。

今回、意外なマルクスを見せてもらいました。何度か書店で手に取ったのですが、「なぜ資本についてこれだけの量がかけるんだあ!」というつっこみや、膨大なマルクス語を自分語に変換する作業に気の遠くなるような思いとで、ここまで触れることなくきてしまいました。興味が沸いたので、読んで見ようかという気になってしまいました。

ただ、現在、実経済においては「人と人の利害関係のみの経済学」といったことは言えるかと思います。この点はもう少し突き詰めて考えてみたいと思います。

ありがとうございました。

アルパイシンの丘さん

マルクスの最大の誤りは利潤=剰余価値であり、剰余価値は、「利潤を得るとは他者の労働の一部を私有する行為」に通ずる考えだと思っています。

「利潤を得るとは他者の労働の一部を私有する行為」は、どちらかと言えば、前近代における支配者の“収奪”を説明するのに適した説明ではないかと思います。
(労働成果を半分を領主に収めるといった)

近代における賃労働の特質は、活動力(労働力)をある時間譲り渡すことで“その時間に行う労働をすべて他者に譲り渡す”ことにあると考えています。

まず、工場制協業においては、個々の労働者の活動が即労働になるわけではなく、共に働く他者や生産手段と結合した活動が労働です。

次に、労働の成果はすべて雇用者(資本家)のものであり、一部たりとも活動力を提供した労働者のものではありません。活動力の再生産を可能にする賃金を受け取ることで、活動の仕方も活動の成果も放棄しているのです。

ひとが、機械や原材料と同じ手段とみなされる存在になっているのが「近代」だと思っています。

そして、これが、「生産と消費の分断」の根源的所以だと思っています。

個々の企業経営者(資本家)にはそう思えるとしても、利潤の源泉は労働過程にあるのではなく、国際交易余剰にあるというのが持論です。

個々の企業は人件費を減らして同じ価格で生産した財を販売すれば人件費を減らした分だけ利潤(利益)が増加するのでそう思えるが、国際余剰(輸出超過)がなければ、人件費を減らした分だけ国内需要が減少するので、利潤(利益)は増加しません。

だからこそと言えるわけではありませんが、利潤の源泉が労働過程にないが故に、先進国の労働者は自動車や自宅を保有するまで生活水準を高めてきたと考えています。

労働者の賃金を引き上げて購買力を高めなければ、生産性が上昇した労働成果を国外で増加的に売り捌かなければなりません。

大多数が自分の活動力を他者に売って生存せざるを得ない社会状況であれば、生産性の上昇に応じてその活動力を高く買うようにしなければ、経済社会全体はうまく回りません。

人々を土地から排除し、貨幣がなければ生存そのものができない貨幣経済化を推し進めるとともに、それが進歩であり豊かさにつながるという観念を普及させ、国際余剰の獲得を通じてそれなりにそのような観念がもっともだと思う現実を維持してきたのが近代の実相です。

とんぼのめがね さん

農 業 情 報 研 究 所
http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/index.html  
「このページは、グローバリゼーションとそれに伴なって生起する農業・農村・食料・食品や地球温暖化・それと関連した自然災害・化学物質汚染・自然と生物多様性の破壊・感染症蔓延などの環境に関する諸問題に関する主として海外の最新情報を提供しようとするものです。」
2000年に国立国会図書館 (NDL)調査及び立法考査局(調査局)を定年退職した北林寿信氏が運営しています。

THE NEW FARM
http://www.newfarm.org/japan/index.shtml

雑誌ニューファームは、農家が、他の農家から学ぶための情報雑誌として1978年から1995年までの18年間、アメリカで刊行されていました。そのNEW  FARM(ニューファーム)がインターネット上で復活し、英語版、日本語版での情報提供されています。

中国経済新論
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/index.htm

国際食料農業レター 全中
http://www.zenchu-ja.or.jp/food/1112962130.html

などは良く読みに行きます。

私のブログにも農業問題のカテゴリーがあります。
http://sun.ap.teacup.com/applet/souun/msgcate6/archive
ご興味が有れば。

モノローグ ちょっと言い換え 失礼m(_ _)m

マルクスの最大の発見は利潤=剰余価値であり、剰余価値は、「利潤を得るとは他者の労働の一部を私有する行為」に通ずる考えだと思っています。

「利潤を得るとは他者の労働の一部を私有する行為」は、どちらかと言えば、前近代における支配者の“収奪”を説明するのに適した説明ではないかと思います。
(労働成果を半分を領主に収めるといった)

資本主義的生産様式における賃労働の特質は、精神的肉体的活動力(労働力あるいは労働能力)をある時間譲り渡すことで“その時間内に行う労働(の成果)をすべて他者(資本家)に譲り渡したのち、その一部をうけとることにあると考えています。

まず、工場制協業においては、個々の労働者の活動が即労働になるわけではなく、共に働く他者や生産手段と結合した活動が労働です。

次に、私有財産を保護する法体系を上部構造(社会制度)にもつ資本主義社会では、資本家が生産手段を私的に所有し、労働者が私的に所有している労働力(労働能力)を、資本家が私的に所有している貨幣で購入(交換)するという「正当性」=仮象をもって労働の成果はすべて雇用者(資本家)の所有に帰属するものであり、それ自体一部たりとも活動力を提供した労働者のものではありません。活動力(労働力あるいは労働能力と次の世代の労働力)の再生産を可能にする(必要労働=労働者が生きて一家を養い次の働き手を育てるに足りるだけの)賃金(労働の成果の一部を受け取る権利証明書)を受け取ることのみで、活動の仕方も受け取る賃金以上に生産した成果としての生産物(剰余価値)も放棄してしまっているのです。

あたかも資本家が労働者の労働の成果に対して賃金を等価として支払っているかのような仮象を生みだす搾取の仕組みが、前近代の”収奪”と全く同じ行為でありながらそれを巧みに隠蔽するものが賃労働なのであります。

国際的な視野でみると、各国における経済発展は不均等に発展する。利潤の源泉は流通過程にあるのではなく、生産過程いがいに生みだすべきところはなく、賃金の安い労働市場へむけて資本は投下される。賃金の安さは、前述の通り生活コストの低さに規定される。こここそが剰余価値の源泉に他ならない。そんな発展途上国で強盗のように剰余価値を搾り取り、発展のための蓄積を許さないことがそんな「素晴らしい状態」を永遠のものにする。そして生みだされた労働の成果を押し売りのように売りさばき貨幣への飛躍を勝ち取ると、国際収支は快い数字をはじきだすのであります。

高度経済成長期からずっと我がニッポンの労働者はそんな他国へのカツアゲのおこぼれを頂戴し豊かな生活を享受して参りましたが、コイズミ&ヘイゾー以降は自らもカツアゲの対象へと転落し、労働の成果が我が手に戻ってくる量もめっきりと減り、労働の成果は海外の貨幣にむかって一直線なのであります。発展途上国でおもいっきり搾り、国内でも搾りまくり企業は空前の利益をあげまくっていたのがちょっと前までの実相であると思うしだいでございます。

参考:南北格差と経済援助
http://www.econ.mita.keio.ac.jp/staff/tets/kougi/poverty/chap6.htm

産業資本家と労働者は本当に対立(敵対)関係にあるのか?

マルクス主義系統左翼理論の根底的な誤りは、剰余価値説(不払い労働の搾取)に基づく資本家階級と労働者階級の対立を基礎とする「社会観」にある。

左翼政治運動が混迷と閉塞に陥っているのは、偏に、この「階級闘争史観」にあるといっても過言ではない。

日本共産党をはじめ先進近代国家の多くの共産党が社会民主主義的改良主義に堕したのも、「剰余価値説」や「階級闘争史観」がもたらした弊害だと考えている。

心情主義的で思考怠惰な左翼のために予め言っておくと、資本家階級(企業経営者)と労働者(被雇用者)に利害対立がないとも闘争をするなとも主張しているわけではない。

利益配分や労働条件をめぐって苛烈な利害対立があり、身一つという頼りない力を団結力で補うしかない勤労者は、論理的に得るべき(得られる)利益を得ることなく、そこそこの利益獲得で妥協させられるものである。

ここで言いたいのは、そのような利害対立が、果たして根源的な利害対立と言えるのかということである。

失礼な言い方をすれば、家族のなかで、家計管理権を握っている妻と自分が自由にできる小遣いの増額を求める夫の闘争に等しいものでしかないのではないかという疑義である。

論理的に得るべき(得られる)利益」という表現を使ったが、それは、その裏返しとして、「論理的に得られない(得るべきではない)利益」があることを意味する。

「論理的に得られない(得るべきではない)利益」とは、その利益を一時的に得ることで中長期的に大きな損失を被ることになるような利益である。(その利益を得ることで、その後の競争でジリ貧になり給与が減少したり、最悪の場合は失業者になってしまうこと)

篤志家が所有し自分は従業員の最低賃金と同額の報酬という企業を想定する。
全財産を資本として投じているので追加資本投入はできず、必要な人材はそれぞれの能力に応じた世間相場で雇い入れ、ある財を生産・販売している。

このような企業は、資本家が配当として得るための利潤は不要である。必要なのは、競争環境のなかで生き残るための資金を得るための利潤である。
(他社に遅れをとらないように最新の生産設備を導入するなど。利潤蓄積では不足する資金は、利払いを考慮して借り入れの利を判断する)

篤志家が近代的意味で優れた経営者であれば、雇用された人たちは、長期的には同業種の同種の仕事をやっている人よりも高い給与を手にできる。
(短期的には、設備投資に必要性が給与を下げる可能性がある)

こういう篤志家が経営している企業は皆無に近いと言えるが、こういう企業なら、労働組合そのものが存在意義がないことになる。
(篤志家は一般従業員に優秀な経営能力を持つ人がいれば経営陣に据えるから、労働組合が経営者を超える方策を提起することはできない)

マルクス主義系統左翼にこのような理解が欠落していることが問題なのである。

そして、この認識が欠落したままでは、資本主義経済社会(「近代経済システム」)を規定している論理を掴むことができない。

資本家(経営者)すべてが篤志家である資本主義経済社会であっても、資本主義社会は“害悪”であり、産業資本主義は終焉(定常状態:停止)に向かう経済論理を内包していることを理解ができず、景気回復や国家による“弱者救済”を政策として掲げることでことたれりとなってしまう。


剰余価値説(利潤搾取説)は賃金生存費説が前提である。
(生存費説:賃金は明日も労働ができるための条件を維持するために必要な額とするもの)

労働者が生産した財は労働価値説的な価格で販売されるが、資本家(経営者)は労働者に生存費の賃金しか支払わないから利潤を手に入れるという理解である。

「労働者の解放」をめざすマルクス主義政党が改良主義に堕していったのは、歴史過程的に「賃金生存費説」が瓦解していったことが主要な要因である。
(左翼は、なぜ「賃金生存費説」が瓦解していったかを理解していない。それを左翼労働運動の成果だと誇っているようでは無思慮の謗りは避けられない)

「労働者の解放」が過酷な生活条件と劣悪な労働条件に置かれた労働者の窮状に居た堪れなくなって掲げられたものなら、生活条件と労働条件が改善されていく現実を見れば、それをさらに進めていけばいいと考えるのは自然である。

このような考え方は、祖国の戦争も、それらの改善につながるだろう(もしくは、悪化を防ぐだろう)と判断して支持に向かわせていくものである。

(国外からの貨幣的富の流入が「真の利潤」であり、過剰人口の海外植民が生産性上昇の支えであるのなら、善悪は別として、海外拡張は合理的である。戦後日本は「真の利潤」を米国に支えてもらったから、軍事的海外拡張に励む必要がなかっただけの話である)

実際にも、欧州大戦(第一次世界大戦)や第二次世界大戦で各国の労働者基盤政党の多数派が祖国の戦争を支持した。

日露戦争・韓国併合・満州事変・シナ事変・「大東亜戦争」も、日本の労働者の多数が、政治的プロパガンダに乗ったかたちとはいえ、それが自分たちの利益にもつながると判断して支持したのである。

農民のほうが、貴重な労働力である我が子を戦場に狩り出す戦争に反対する論理を持っていた。
(戦争に反対した日本共産党はインテリ層中心の弱小政党であり労働者に支持基盤をほとんどもっていなかった。戦後の日本共産党の変容過程を顧みれば、その体質が、戦争を支持した労働者基盤政党と変わらないことがわかる)


マルクス主義系統左翼は、スターリン主義云々ではなく、マルクス的「近代経済論理」理解を何より疑わなければならないのである。


現実には「最善」の資本家や経営者はいない。

私利私欲を問題にしているわけではなく、私利私欲を長期的に実現する方法(論理)を「近代経済論理」にきちんと照らして考えることさえできない体たらくなのである。


今回書いた内容は、唾棄すべき「労使協調」を呼び掛けるものではない。

労使は、相互の利害対立をも規定する上位の「近代経済論理」を理解した上で闘争しなければならないと主張しているものである。

戦後労働運動の「労使協調路線」が利潤を設備投資に回せる条件を許し高度成長を支えたことを認めるとしても、それは、労働組合幹部の私利私欲路線に変質したり、「論理的に得るべき(得られる)利益」さえをも捨て去る“反労使協調路線”に変貌した。

(真の労使協調路線であれば論理的には労働組合は不要なのである。だからこそ、そのような組合の幹部は、組合員のお金を吸い上げていながらやることがないから容易に私利私欲に走る。バブル形成とバブル崩壊という戦後日本最大の経済的災厄は、「労使協調路線」と錯誤した“反労使協調路線”に基づき企業経営者がバブルに踊る愚を放置したり、政府に景気対策を求めた労働組合も責任の一端を担っている。80年代後半が、物価は安定する一方で地価と株価が急騰するという経済状況であったことを考えれば、「論理的に得るべき(得られる)利益」を捨て去った労働組合にも責任があったことがわかる。物価インフレ率と資産インフレ率の乖離は、所得分配の歪みの現象だからである)


労使の対立は、家庭内における「分配問題」と同じであり、家計収入が増加すれば夫の小遣いは増える可能性があるが、そうでなければ、現状維持か減少になるのと同じである。

(私利私欲を優先する妻であれば、夫の給料が増えても、小遣い据え置きで自分がより多く使えるようにするだろう。子供の教育費や住宅購入費そして老後を考える妻であれば、所得増加分を貯蓄に回そうとするはずだ。小遣いをもっと!と考える夫は、まずは所得を増やし、妻との闘争(説得)を通じてそれを実現しなければならない)

日本は、長期デフレ不況のなかで名目GDPを減少させてきた。

みなし家賃などの要素を考慮すれば、実際のフローとしての名目GDPは統計以上の落ち込みになっているはずである。
(住宅家賃は一般財ほど低下しないから)

名目GDP(付加価値の総和:わかりやすく所得の総和と考えてもいい)が落ち込むということは、同じ数の就業者人口であれば、所得分布が同じ場合、一人当たりの所得が減少することを意味する。

名目GDPが落ち込んでも各人の所得が減少していないなら、所得機会を失った失業者が増えたことを意味する。
(それは、徐々に雇用保険料の負担増につながり、就業者の所得も減少させることになる)

名目GDPが落ち込む過程でも所得を増やす人がいるのなら、否応なく名目GDPの減少率以上に所得を減少させている人がいるということである。(それが税制など国策によって起きているのなら、その理非を問題にしなければならない)

名目GDPが落ち込んでも実質ベースで成長していればいいという論もある。
しかし、巨大な固定資本を形成しそのために借り入れ金を積み上げた企業は、デフレで深刻な打撃を受ける。
(その固定資本で生産した財の単価が下がれば、利払いや元本返済に支障をきたすようになる。インフレであれば、安いときに形成した固定資本で高く売れる財を生産できるようになるだから債務返済も容易になる)

名目GDPを縮小させ物価を押し下げる「デフレ不況」から脱却しない限り、日本人のほとんどが安らかな生活をおくることさえできない。
(失業や老後に怯えながらの生活が安らかなものであるはずもない)

「デフレ不況」が続く限り、じりじりと経済状況(国民生活)は悪化し、対外交易環境が大きく変われば経済状況(国民生活)も大きく悪化することになる。

さらに重要な問題は、「デフレ不況」が続く限り、前向きな生産性上昇が達成できないことである。
(首切りや賃下げという後ろ向きで“見掛け”だけの生産性上昇が行われるだけになる)

それは、国際競争力の相対的劣化につながり、産業国家日本の将来を根底から揺るがす大問題なのである。


断言するが、貿易収支黒字が10兆円もあり、赤字財政支出が35兆円もある日本が「デフレ不況」に陥っているのは、政府(政治家と官僚)が無能だからである。

貿易収支黒字10兆円+赤字財政支出35兆円の45兆円は、合理的な政策により、名目GDPの増加に寄与させることができる。
(45兆円は名目GDPで10%に相当する)

45兆円が国内で使われない貨幣として誰かの手に留まっているか海外に流出しているから、名目GDPが縮小し、デフレも継続しているのである。

「産業主義近代の終焉」過程が、最強産業国家日本の瓦解過程につながり、国民生活の困窮と惨状につながるような悲劇であってはならないのである。

あるラインを超えて(貿易収支赤字)からあわてて手を施そうとしても、いい場合でも現状の数倍の尽力でなんとかなるというもので、米国ではない国々は普通そのまま坂道を転げ落ちていくことになる。

そのときでも、トヨタなど日本の優良多国籍企業は利益を上げ続けるだろう。

しかし、日本経済を合理的に回復させたなら、トヨタなど日本の優良多国籍企業はさらに大きな利益を上げることができる。

このようなことさえ理解できないまま日本経団連の会長職にあった奥田氏は、出身企業トヨタの私利私欲さえ実現できない無能者という謗りを免れない。

日本が、経済的要因のみならず政治的にも鎖国を選択できず、「近代経済システム」の枠組のなかで組み込まれるなかで遵法的国民すべてが安らかな生活を維持していこうとしたら、「労使の論理的共通利益」を理解した上での労使闘争や政策論争が必要不可欠である。

とんぼのめがね さん

マルクスについて

産業資本家が労働者を搾取していることを困窮の原因とする理論はまやかしです。
マルクスほどの知性を持つ人であれば、剰余価値理論の誤りに気づかないわけがありません。その誤りに気づかないような人には、見事な資本制経済社会の説明体系である「資本論」を書くことはできません。

最重要テーマである利子論は、産業資本家の利潤配分の一つとして枝葉的な位置づけで論述されています。

マルクスが果たした役割は、労働者と産業資本家という対立構造を生み出したことです。労働者が雇用主である産業資本家を憎悪するように仕向けることで、根源的な敵である国際金融家(労働者を雇用する必要はない)が“安全地帯”にいられようにしたのです。

剰余価値説という誤り(まやかし)は、「時代的な限界」によって生じる性格のものではありません。
「資本論」の最大の偉業は、剰余価値説にあるというのがマルクス主義者のあいだの通説です。
それがまやかしであり、それが労働運動や政治運動を大きく歪めていることを問題視しています。

マルクスを労働者の救い主のように考えるのは愚かであり、「資本論」は主敵を見誤らせる説明体系です。

故郷から

早雲さん
今故郷に来て慌しく長文のコメントを拝見しました。
一言だけ申し上げます。お説は,国家間の論理と階級間の論理を混同しておられると思います。詳細は連休明けにでも申し上げたいと思います。
(でも実は良くわかっていないんですけど・・・(^o^)/)

アルバイシンの丘さん

貴君は、何度も指摘している、供給=>需要を理解されていないように思います。

マクロで見れば産業資本家の唯一の「客」は、他でもない、従業員たる労働者しかいないのです。

お礼遅くなりました

>早雲さんへ
ありがとうございます。
ご紹介サイト、少し落ち着き次第読ませていただきます。
マルクスに関しては興味の引っかかるところを頼りに読んでいこうかと思っています。

供給と需要

ご指摘を受けましたので取り急ぎ反応いたします。

供給=>需要 (式【1】)

これを理解すれば、私の考えの何処がどのように変わるのか、変わるべきなのか、さっぱりイメージできないのですが、まず根本的なことで逆に質問させていただきます。

ここでの『需要』とは、『購買力』ないしは『賃金の総量』というほどの意味ではありませんか?需要と言えば『潜在需要』というものがあります。つまり、お金さえあれば買いたいものがあるんだけど、ということです。これを『需要が無い』に含めるのはどうかと思うわけです。このような意味から誤解されやすい表現といえます。従って、次の表現がベターと思うのですがいかがでしょうか。

 供給=>購買力 または 供給=>賃金総量

その上で、素人の思考実験をお許しください。素人ゆえのとんでもない勘違いや間違いがあるかもしれません。その時は嘲罵で結構ですからご指摘ください。(という逃げ道を作っておきます(^o^)/)

何度か申し上げたのですが、『子供がたくさん産まれるようになった国』を想定してみます(ここでは突然そうなったと想定しますが、それは漸進的でも同じです)。そこでは、直ちにミルク、オムツ、おもちゃ、等々、新たな需要がたくさん生じてきます。それにも拘らずそれまでの賃金ではそれらを買えないものとしましょう。

すると企業や政府(資本家側でも良い)はどうするでしょうか。賢明な戦略(の一つ)は、『子供手当』を新設して、『購買力増加』を図ることでしょう。企業側もそれを歓迎するはずです。なぜなら儲かる事が目に見えているからです。

問題は手当の財源ですが、企業から取ること、賃金から取ること、の他に、『通貨量を増やす』という対応が可能と思います。いずれを選択するかは時の政府の賢明さ次第でしょうが、通貨量を増やすとすれば、『パイが大きくなった』ということになります。このことの別の言い方は『購買力が増えた』、ないしは『経済は自分で拡大した』です。
式(1)で考えると、需要が供給をも押し上げる、ということになります。すると、この式(1)を認識すること自体、さほど重要ではなくなる、と言えないでしょうか?

ただし、『資本の論理の抱える矛盾』は相変わらず蓄積していきます。例えば『作りすぎ』の問題は常について廻ることでしょう。

供給が需要をつくるという

供給が需要をつくるという「供給→需要」(供給=需要)原理は、経済問題を考えるときの要だと思っています。

これは、セイの法則に通じるものであり、古典派も基礎にしている考えです。

古典派の経済学者は違う解釈のようですが、供給は、ものの供給ではなく、供給活動のために支払うお金のことです。

(資本主義=近代経済社会の特質は、ものを生産が、労働力・機械設備・原材料などをお金で買わなければ始まらないことにあります)

ある経済主体の供給活動で支払われるお金が、タイムラグはありながらも、他の経済主体の需要になるという論理です。

「供給→需要」(供給=需要)原理は、ある国民経済の総需要はそこでの供給活動に投じられた貨幣量を最大値とする、すなわち、“供給額を超える需要は国民経済内に存在しない”という考えだと理解していただければと思います。

ものに対する需要は、労働力(活動力)を提供した対価によるもの、生産に必要な機械設備や原材料など、税金による財政支出、赤字財政支出から構成されます。

(利潤の分け前(配当や利息)も需要になりますが、ここでは活動力を提供した対価によるものに含めてもいいでしょう。また、企業や家計の内部留保は、貸し出しを通じてそれらのある支出形態に使われるか、そのまま金庫に眠るかになります)

これを冷静に考えれば、最後の赤字財政支出を除けば、供給活動のための支払われたお金が需要になることがわかります。

(税金による財政支出は個人や法人の所得の移転です)

お金は中央銀行の貸し出しを通じて経済社会に流れ始めますが、需要は供給活動を通じて形成されるものです。

供給活動のための支払われるお金がなければ需要は生まれないといったほうが的確かもしれません。

ケインズ派は需要が供給をつくるという考えを基礎にしていますが、それは、供給で支払われたお金のすべてが需要に回るわけではないことで起きる“負の現実”の解釈を誤ったものだと思っています。

供給活動に投じられたお金は、買うものと引き換えに他者の懐に入ります。

懐に入ったお金を使わなければ次なる供給活動ができない企業や生活が成り立たない家計は全部使ってくれますが、余裕のある企業や家計は内部留保に回します。

内部留保にしたお金が、銀行の預金になり貸し出しに使われたり、新規発行株式に投資されたり、国債購入に回ったりしたならば、それを通じてある経済主体の供給活動で使われ需要となります。

しかし、預金が貸し出しに使われなかったり、既発株式の購入に使われたり(一般的な株式取引)、国外に投資されたり、タンスにしまい込まれたりしたら、供給>需要というギャップが生まれることになります。

供給>需要というデフレ・ギャップは、供給過多だからでも需要過少だからでもなく、供給活動に投じられたお金がきちんと需要に回らずにしまい込まれてしまうことで生じるものです。

銀行の「信用創造」機能を考えると、供給活動に投じられたお金がきちんと需要に回らずにしまい込まれて割り合いが驚くほど大きいことを推測することができます。

(逆に、インフレ時代は、どれほどの「信用創造」が行われたのかを窺い知ることができます)

ケインズ派は、それを赤字財政支出でカバーすればいいというものでしかありません。

お金のしまい込みから生じる供給>需要というギャップを弊害なくカバーする手立ては、輸出(貿易収支黒字)です。

国民経済内には供給=需要の条件がありますから、輸出に回したものは完全な余禄になります。

ある国民経済が供給=需要=100万円なら、国内で全生産量である1000個売っても100万円で、国内で800個売っても100万円になり、残った200個を輸出して“余計に”25万円稼ぐことができます。

この25万円をしまい込んでも、供給>需要というギャップは生じません。

通貨量を増やすこと

>問題は手当の財源ですが、企業から取ること、賃金から取ること、の他に、『通貨量を増やす』という対応が可能と思います。いずれを選択するかは時の政府の賢明さ次第でしょうが、通貨量を増やすとすれば、『パイが大きくなった』ということになります。このことの別の言い方は『購買力が増えた』、ないしは『経済は自分で拡大した』です。

『通貨量を増やす』(通貨の発行量を増やすこと)は単に通貨の価値を下げるだけの意味しか有りません。
阿修羅村の物語をもう一度確認してください。

おこがましいが

せっかくの連休と言うのに九州は雨。これから回復に向かうようではありますが・・・

さて、私の思考実験への直接的なご批判は無かったようですが、『セイの法則』を持ち出されることにより間接的に批判されたのでしょうね。
しかし、セイの法則はある非常に特殊な一面を述べるに過ぎない『法則』だと思います。だって、キャベツがたくさんできて価格が安くなっても需要が増える、ということはありません。限度があります。捨てるしかないわけです。資本主義の内包する最大の問題点だとおもいます。
このように現実には『供給過剰』が大恐慌をもたらしたりするわけで、『セイの法則』は現実の観測結果に明らかに反しています。(あるいは『セイの法則』を修正解釈する必要に迫られます。)

それから、私の思考実験では明らかに『実需』が『実需として』存在しますから(そのような例を作ったのです)、通貨量が増えてもその価値を減じることはないと思われます。阿修羅村の話とは全く状況が異なります。
これは『外部からの富の流入が必要不可欠』という命題への反証になっていると思います。

国際交易と資本の溜め込みに関しては、考察を今まとめている所です。

キャベツ

>しかし、セイの法則はある非常に特殊な一面を述べるに過ぎない『法則』だと思います。だって、キャベツがたくさんできて価格が安くなっても需要が増える、ということはありません。限度があります。捨てるしかないわけです。資本主義の内包する最大の問題点だとおもいます。

何度も繰り返しているように、ここで言っている「供給」とは供給活動を通じて支払った賃金の総和です。
キャベツがたくさん出来ようが、少なく出来ようが「供給」は一定です。
資本主義の内包する最大の問題点などではありません。江戸時代であったとしても「市場」を通じて交易を行っていれば同じことが起きます。

「供給」とは供給活動を通じて支払った賃金の総和としてみれば貨幣経済が隅々にまで行き渡った現在ではセイの法則は妥当性を持ちます。(セイの法則という言葉にこだわることはあまり意味がありませんが)

繰り返しですが

「近代経済社会」は、普遍的とも言える貨幣経済社会です。それと同時に、自給自足的な生活を営んでいる人々は無視できる存在であり、生産手段を保有している人の割合も極端に低い経済社会です。

貨幣経済でありながら、商品を生産するための生産手段を保有していない人の割合が高いということは、ほとんどの人が生存のために必要なお金を手に入れるために自身の活動力を販売しなければならないことを意味します。

逆に見れば、生産手段を保有している側が生産した商品をきちんと販売するためには、それを購入できるだけのお金を持っている人たちが必要だということになります。

自分の活動力を販売できるのは、その活動力が購入する人(企業)にとって有用だからです。そして、「近代経済社会」で有用だと判断される基準は、それによって資本(お金)が増えるかどうかです。

活動力を販売するということは、商品やサービスの供給活動に従事するということです。
90%の人が活動力を販売することで生活を維持しているとしたら、供給活動が順調なのか不調なのか、そして、90%の人が手に入れるお金の量がどうなるかが経済社会の変動を規定するのは当然です。

通貨がどれだけ供給活動に投入されるかによって需要がどうなるかが決まるというのが「近代経済システム」であり、通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するものなのです。

これが、「供給=需要」ないし「供給→需要」であるという基本的根拠です。

つづきます

供給や需要を考えるときに重要なのは、それらがともに物理的量と通貨的量という異なる評価基準で計れるということです。

「供給=需要」というときの視点は、通貨的量に向けられています。

「供給=需要」であれば、物価変動が起きる要因は、同じ金額(資本)を投じて産出された商品の物理的量の変動になります。

「供給=需要」ですから、供給活動に1兆円が投入され、投入された1兆円が需要に向かうことになります。(ある期間の総和ですから、需要は、原材料や生産財といった供給と一体のものもあれば、それらと活動力が結合して生産される最終消費財に対するものとがあります)

需要としての通貨は、供給活動者に支払われるものなのですから、1兆円は供給側に戻ることになります。(この意味でも、「供給=需要」です)

ある時点で供給活動に1兆円を投入して産出される商品の物理量が10億個だとすると、平均物価は1000円になります。
数年経過して生産性が上昇したことにより、同じ1兆円を投入して産出される商品の物理量が20億個になると、平均物価は500円になります。

(現実には、いくら価格が安くなったといっても、ご飯を10杯食べたり、テレビを家族数以上に設置するというわけではないので、生産される商品の種類やその構成比は変わりますが、そのような調整が供給側で行われていると仮定して説明しています)

これは、物価変動の根源的要因が生産性の変動であることを意味しています。

物価変動を貨幣現象や需給論理で説明することは、表層的なものでしかなく、本質を見失っていると言えます。
(私は、生産性を「労働価値」と呼んでいます)

「近代経済社会」は、生産性の上昇が常に追求される経済社会ですから、常に物価が下がるデフレ圧力を受けていることになります。

インフレが常態であった戦後世界

金本位制の時代は景気変動に従ってインフレとデフレが交互に出現する経済社会でしたが、戦後世界で象徴的な管理通貨制では、インフレが常態とも言える経済状況が長く続きました。

いわば、「近代経済社会」は生産性の上昇によって常にデフレ圧力を受けているというのが虚妄であるかのように見える歴史過程だったわけです。

インフレになるということは、「供給=需要」ではなく、「供給<需要」という経済状況を意味します。それも半端な「供給<需要」ではなく、商品の物理的な量の増加を意味する「労働価値」の上昇ペースを上回る「供給<需要」だということです。

先ほど例示したものを再掲すると、

ある時点で供給活動に1兆円を投入して産出される商品の物理量が10億個だとすると、平均物価は1000円になります。
数年経過して「労働価値」が上昇したことにより、1兆4千億円を投入して産出される商品の物理量が20億個になっても、平均物価が1200円に上昇するという経済事象です。
(財の物理量も一体である「供給=需要」であれば、平均物価は、1兆4千億円/20億個で700円に下落するはずです)

このような物価変動になるということは、「供給=需要」ではなく、「供給<需要」であることを意味します。
そうであるならば、なぜ、供給を超える需要が生まれるのかを解き明かさなければなりません。
先ほど、「通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するもの」という説明を行いましたが、これは、消費(需要)に回らない通貨は想定できるので「供給>需要」はあり得ても、「供給<需要」はあり得ないことを意味します。

供給の物理的量の削減

通貨が供給に投入された量を超えて流通することがないとしたら、「労働価値」が上昇することで供給量が増加しても物価が上昇する要因は、産出された商品が全部は国内に供給されないことです。

先ほどの例ですが、数年経過して「労働価値」が上昇したことにより、1兆4千億円を投入して産出される商品の物理量が20億個になっても、平均物価が1200円に上昇する事象は、生産された商品20億個のうち8.4億個は輸出されて、国内には11.6億個しか供給されていないとすれば合理的な説明ができます。

供給活動に従事している人は国内で消費活動をすると考え、「供給=需要」であれば、1兆4千億円はまるまる国内の需要となります。そして、需要は、物理的に供給される商品やサービスに向けるしかないわけですから、商品が輸出されることで、物価は上昇することになります。

これは、供給側にしてみれば、供給活動に投じた資金(資本)は国内の需要でまるまる回収し、輸出はまるまる利益ということを意味します。
そして、輸出で稼いだ通貨は、円に転換されることで通貨量の純増になります。

国民経済に占める輸出比率が「労働価値」の上昇ペース以上に増加していけば、「供給=需要」でも、物価は上昇していくことになります。

通貨量の増加

供給量の減少で「供給<需要」が実現されるだけではなく、通貨量の増加でも「供給<需要」が実現されるはずです。

しかし、「通貨は、基本的に、供給活動を通じて経済社会に流通するもの」ですから、その原則が通用する状況をまず説明します。

輸出が増加基調にあれば、輸出で稼いだ利益のみならず借り入れまで行って生産(供給)力増強に投資することになります。(管理通貨制では、通貨の供給量は価値実体的な制約を受けないので借り入れ需要に対応した通貨供給量の増加が可能です)
生産財などへの投資は需要そのものですから、「供給=需要」で「供給<需要」にはつながりませんが、輸出向けの財の供給活動に従事する人々の給与が新たに追加されるので、「供給<需要」につながることになります。
先ほども書きましたが、国内に供給されない商品を生産している人々の支払われる給与も、国内の需要となります。

もう一つは、輸出で稼いだ利益を従業員に還元するかたちでの「供給<需要」の実現です。
同じ「労働価値」(生産性)もしくは「労働価値」の上昇ペースを超える率で給与を上げれば、商品の供給量は同じでも需要金額は増加することになります。

新たに追加した給与や引き上げた給与額以上に輸出が増加すれば、それでも、供給側は利益を拡大できます。

利潤は「供給>需要」をもたらす

このように、輸出(貿易収支黒字)の増加は、供給の物理量を減少させる一方で通貨量を増加させるので、好ましい経済状況である「供給<需要」を実現します。

しかし、「近代経済システム」は、利潤獲得を動機として経済活動が行われる経済社会ですから、需要で回収した通貨をすべて供給活動に使うという保証はありません。

貿易収支がプラスマイナス0であれば、どこかで利潤がしまい込まれたら、「供給=需要」にはならず、「供給>需要」になる可能性があります。

どこかで利潤がしまい込まれても「供給=需要」になるとしたら、本人はしまい込んだと思っている通貨が貸し出しなどを通じて需要として使われたことを示唆しています。
このようなかたちでの「供給=需要」も可能です。


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現実の歴史過程は「供給<需要」だったわけですから、しまい込まれた通貨額以上の通貨供給が行われた可能性もあります。(実際にそうだったかは、通貨供給量・輸出で稼いだ額・輸出で削減される供給量の関係を精査すればわかります)

輸出で稼ぐことで増える通貨量以上に通貨流通量が増えるためには、「信用創造」が行われなければなりません。
「信用創造」は、中央銀行と商業銀行によって行われます。
中央銀行は、管理通貨制ですから合理性があると判断すれば通貨供給量を自由に増加させることができます。
商業銀行は、例えば1億円の通貨で3億円の貸し出しを行うことで「信用創造」を行います。
これは、Aに100億円を貸し付け、AがBに支払った100億円が預金されることで、さらにCに100億円を貸し付けるという流れをイメージしてもらえればいいと思います。同じ100億円をAとCに貸し付けたことになります。

しかし、このような“国家公認の詐欺”も、好き放題にできるわけではありません。
まず、最低限、借りたい人がいなければなりません。次に、貸したお金が利息付きできちんと返済される見通しがなければなりません。
担保があるといっても、それは通貨ではないので、担保権を行使した時点でいくらになるかはわかりません。担保は、あくまでの最後のセーフティ・ネットであり、きちんと債務が履行されるだろうという判断が貸し出しの必要条件です。

資金需要があり、それを使った供給活動が利息を含む返済を可能にするだけのパフォーマンスを達成する経済条件もあるというのが「信用創造」にとって不可欠です。
住宅ローンなど個人(家計)向け貸し出しも、借りた人が安定的な所得を維持するという見通しが条件になります。

「信用創造」が行われるのであれば、100億円を使わない人がいても、それが預金されているのなら、通貨流通量を300億円増加させることもできます。

現状の日本経済は、このような「信用創造」の条件が崩れているために、「供給>需要」のギャップが拡大しているという部分もあります。

利潤のしまい込みから起きる「供給>需要」を解消するための残る手段は、政府部門が借り入れを行う赤字財政支出です。(税収による財政支出は、供給活動に投入された通貨の吸い上げですから、供給と需要の関係に影響しません)

民間向けの「信用創造」ができにくい経済状況でも、銀行は貸し出しをして利息収入を得たいと考える存在なので、相手が国家であればとりっぱぐれがないと判断して貸し出しが行われます。
そして、国民の多くも、「需要不足」を叫ぶ声に押されて、政府の赤字財政支出を認めます。

赤字財政支出は確かに「需要不足」を補います。

しかし、それを契機に輸出が増加していけば赤字財政支出を控えることもできますが、そうでなければ、最低でも、「労働価値」の上昇ペースで赤字財政支出を増加させていかなければ、「需要不足」を解決することはできません。

さらにやっかいなのは、国家の債務は将来の税収によって履行されるという厳しい現実があることです。
ある段階では「需要不足」を補う役割を果たした赤字財政支出が、そのために積み上がった債務を履行するために増税を要請し「需要不足」を拡大するようになります。

「デフレ不況」を解消する方策

日本経済が「デフレ不況」に陥っているのは、輸出がそれほど増加せず、「信用創造」も機能せず、赤字財政支出も増加できない状況にあるからです。

逆に言えば、「デフレ不況」から脱却するためには、それらを増加させなければならないということです。

家計金融資産が1400兆円もあると言われていますが、民間債務と政府債務を合わせて相殺すれば、いいところプラスマイナス0です。
これは、中央銀行と商業銀行による「信用創造」でしか、通貨量を増加できないことを意味します。
しかし、先ほど書きましたが、「信用創造」が機能するためには経済状況が改善されなければならないというトートロジーに陥るので、これを重視するわけにはいきません。

赤字財政支出も、“国家破産”が危惧されているほどであり、結局は増税というかたちの需要減少をもたらすものですから増加を求めるわけにはいきません。

それであれば、残された対象は国際取引だけです。

はっきり言って、日本の経常収支が赤字であれば、日本経済はこのまま低落を続けるしかないと考えています。

しかし、日本は、年間10兆円を超える経常収支黒字を誇っています。これは、通貨量が年間10兆円ずつ増加することを意味します。さらに、貿易収支も黒字ですから、その分、供給活動で生産された財が国外に出ていっています。

このような好条件を活かして、輸出優良企業が財の物理的な増加には結びつかない供給の増加を行えば、デフレ解消に向かうことができます。
このような供給の増加は、給与の引き上げを意味します。

そして、その動きをサポートする政策として、「低中所得者減税」と「高額所得者増税」を行えば、デフレ解消を確実なものにすることができます。

低中所得者と高額所得者の消費性向を較べれば、低中所得者のほうがずっと高いので、低中所得者の可処分所得の増加は、需要の増加に貢献します。
(高額所得者は貯蓄に回す割合が高いのですが、「信用創造」が機能していない現状では、それが需要の増加に貢献する度合いは低いものになります)

最後に一言。
供給=需要であり、需要に向けて支払われた通貨は供給者に戻るという視点が重要です。
供給主体が給与を引き上げても、それは回り回りながら、自分のところに返ってくるのです。

使われない通貨を減らしていくことが、企業や金持ちにとっても有利な経済状況を生み出し、そのおこぼれで低中所得者も安定した生活ができるということを認識しなければ、日本が、経済的苦境から脱することはありません。

軽く見過ごして

『何度も繰り返しているように、ここで言っている「供給」とは供給活動を通じて支払った賃金の総和です。』

ああ、確かに一つ前に戴いたコメントに書いてありますね。申し訳ありません。軽く通り過ぎていました。しかし、するとここで重大なことが生じます。
1.『セイの法則』の元々の意味においては、『供給』とは『商品の総量』のような意味だと(明らかに)思えます。すると、早雲さんの仰る『供給活動を通じて支払って賃金の総和』のような定義は『解釈修正』をなされていることになります。これでは一般に話が噛み合わないのも無理はないと思われます。私は当然の事として『商品の総量』だと取ってしまいました。すみません。
2.新たな解釈における『供給=>需要』の式においては、『商品の総量』というパラメータが何処にも存在しません。『商品の総量』というのは需要・供給を考える上で必要不可欠のように思えます。このパラメータを用いないで有効な議論が可能なんでしょうか?
3.上に挙げた『子供が増える国』の思考実験に関するご批判を賜りたいと思います。『実需の増加にはなっていない』とか『それでも貨幣価値は下がるのだ』とか、そういう批判になるのでしょうか?

ずらっとお説を提供していただきましたが、私の能力の限界を超えており、これの理解に充てる時間を取る事は不可能です。それで、そろそろ勉強会も一区切りの時期かなと判断いたします。(二度目ですね。すみません)
今まとめ中のものをアップしたら終わろうと思います。

 明瞭かつ納得規制

分もわきまえず、済みません。私葉早雲様のブログを毎回拝読してます。私のようなものでも納得できる、明瞭なご説明だと思うのですが。規制緩和と称して、ここまで日本国民をいじめてきた政治家(小泉君)、格差社会が、当然のことである。などと口に出す総理は消えていただきたいです。皆さん忘れないでください。耐震偽装事件。木村建設の下っ端の社員ですら解っていてあのような建物を作ったのです。偽装マンションは沢山あります。小泉は何も責任を取らずほったらかしでしたね。

答えです

>1.『セイの法則』の元々の意味においては、『供給』とは『商品の総量』のような意味だと(明らかに)思えます。すると、早雲さんの仰る『供給活動を通じて支払って賃金の総和』のような定義は『解釈修正』をなされていることになります。これでは一般に話が噛み合わないのも無理はないと思われます。私は当然の事として『商品の総量』だと取ってしまいました。すみません。

これについては、今回の議論の最初から繰り返し念を押しています。
(近代経済システムの特徴について)
「セイの法則」を出す必要はありませんでしたが

>2.新たな解釈における『供給=>需要』の式においては、『商品の総量』というパラメータが何処にも存在しません。『商品の総量』というのは需要・供給を考える上で必要不可欠のように思えます。このパラメータを用いないで有効な議論が可能なんでしょうか?

直前のコメントで示したように、

需要÷『商品の総量』=平均物価です。

>3.上に挙げた『子供が増える国』の思考実験に関するご批判を賜りたいと思います。『実需の増加にはなっていない』とか『それでも貨幣価値は下がるのだ』とか、そういう批判になるのでしょうか?

前提とする経済システムが不明確なので直接のコメントは避けました。

前近代のシステム(政府が貨幣を発行している)では上手く回る可能性はあります。
近代経済システムを前提すれば、直前のコメントの通りです。

農婦さん、こんにちは。

自分のブログのコメントも放り出してこんな所に入り浸っています。

農婦様

初めまして。ご心配には及びません。目下、最大の敵が『新自由主義』であることは皆さんと同じです。それを排除するための論理を共有しようとしているのですが、それがなかなか私には理解が進まないだけです。
コイズミ-ヘイゾーの大罪は自明なのですでに議論する必要は私たちの間にはないと思っています。ただ、コイズミへーゾーの原因の究明と後遺症の克服を成し遂げるためには基本的な部分を共有できた方がいいと思うのですが、その理解が私にはまだ進んでいきません。ご心配戴き、ありがとうございます。

111番目

非公開コメントを入れると、もう少しありますが。

それにしても、よく続きましたね。ありがとうございます。でも、まだまだ議論は半ばなんですよね...

当ブログの管理人としては、ここにいただいたコメントをまとめなければという強迫観念に駆られますが、とてもじゃない、私の手には余りますので、あっさり放棄。その代わりといっては何ですが、また別の切り口で問題提起をしてみたいと思います。

勉強のまとめ

愚樵さん、早雲さん
もうここも長くなり、読者の皆さんも辟易となさっているものと拝察します。それでそろそろ区切りをつけたいと思いました。
その方法ですが、私のほうに記事を立ち上げ、これまでの勉強の結果を私なりにまとめるとともに、なお残る疑問や質問点等を書き記しておくことにいたしました。
これ以上、私が細々と質問させていただいても収束の方向にはなかなか行きそうもありませんので、これがよい方法かなと考えました。
私の記事ですが、早雲さんの仰りたいことを私なりの理解でまとめ、それに対する疑問点も同時に書いております。非常に的外れだと覚悟しております。
『なんだ結局全然わかって無いじゃんか』と嘲笑されるかもしれません。もし取るにたりないとお考えならば無視してくださっても結構ですし、このような誤解は放っておけん、ということでありましたなら、いつでもご指摘ください。しかるべき対応をさせていただきます。
勉強のまとめは3回ほどのシリーズになる見込みですが、とりあえず1回目をアップしましたのでTBさせていただきました。無謀な企てと思っておりますが、めちゃくちゃな内容でしたらどうぞ嘲笑・罵倒してくださいませ。
最後に(この勉強会のですよ)丁寧に対応してくださった早雲さん、愚樵さん、薩摩長州さん、どうもありがとうございました。深く御礼・感謝申し上げます。それからコメントいただいたとんぼのめがねさん、ymさん、農婦さん、ありがとうございました。
その他読者の皆さん、長いことお邪魔しました。深くお詫び申し上げます。
それから愚樵さん、新たな切り口の記事を楽しみにしています。
以上にてこの勉強会終わらせていただきます。

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「国による虐殺」

こういう話は少しでも多くの人の目に触れてほしいです。アマゾネス内閣外務大臣兼総料理長のえぼりお姉さまの記事ですよー。 ●漂流生活...

【世界激震】米中ダブル崩壊の日は来るか(5)~金融国家アメリカの綱渡り

  これまでの流れをまとめておくと、   ブレトン・ウッズ協定によってドル基軸体制が完成→日本や西ドイツが産業競争力でアメリカを脅...

節度に欠ける自公政府では、日銀の独立性を保つためには人事はことに大切です

7日、&ldquo;混乱&rdquo;を招かないために、日銀総裁人事にも衆議院の優越を認めるようにしようと自民党が動いていることがラジオで報じられてい...

資本-国家-民族

>「(資本=国家=民族の揚棄には)何世紀もかかるかも」とあるように、喫緊の課題との切迫感もないようです。 柄谷氏に喫緊の課題との切迫感がないとしたら、「近代経済システム」が「利潤なき経済社会」に陥るという認識がないからだと思います。 いわゆる資本主義は...

拝金主義批判

 働くことも生きることも社会貢献でなければ、そこにあるのは何でしょうか。孤独でしょうか。快楽でしょうか。でも、世界に一つだけの花を必要とするのも人間の多様性で事実。人間は一人では生きれない。でも、自分だけの時間も必要ですね。  現実は働いて社会貢献する...

貨幣経済と労働力の関係

 人間の労働を他人への献身・人類社会全体への貢献であるとし、すべての労働をボランティア化した場合、貨幣は必要ではなくなる。今現在、貨幣が必要なのは貨幣を媒介して成立する商品交換社会であるからだ。    ゆえに、全人間がボランティア労働をして貨幣を媒介させ...

経済の民主化とは何か?-その基本理論ー

 諸企業において経営の決定権を持っている人々を経営者・出資者・株主といいます。他方、経営の決定権を持っていない人々を労働者といいます。民主主義とは決定権の所在がどこにあるかの問題です。政治においては最終決定権としての主権が住民・国民にあります。しかし、...

種と牙

 私は都会で戦っている。少なくてもそう思っている。しかし、その敵が目の前にいる訳ではなく、制度や利権や法律であったりする。  毎日のビジネスでの葛藤も含めて、全てのニュースに怒りをおぼえない日はない。  頭脳は冴え渡り、疲れ果て、そして、家路に着く。  

六カ国合意と拉致問題と対米従属

『対外従属は日本の国是』 明治維新以来150年間、外交努力を放棄してその時代の最強国家(最初は大英帝国で、第二次大戦後はアメリカ合衆国)に従属して利益を得る最強の日本のコバンザメ戦略。(外交) 一時期(1930年代~40年代)、自主外交を模索して大東亜共...

「布引洋」は極左冒険主義のコミュニストだった

極左系に殴りこんだ解同系の仁義無き戦い『水からの伝言』 - 逝きし世の面影があまりにひどい記事だったので、管理人の「布引洋」なる人物について調べてみた。その結果、戦後間もない頃に武力闘争路線をとり、のちに「極左冒険主義」として批判された当時の日本共産党に郷

映画『靖国』と、靖国神社の不思議

在日中国人李纓(リ・イン)監督が撮った映画『靖国 YASUKUNI』の上映中止騒動で日本が注目されている。 里監督は撮影開始前に、日本人映画関係者から『今までに靖国を正面から取り上げる企画は一度も無い』『非常に困難が伴うだろう』と注意されていた。 靖国神社とは、

父親の育児

世には「母親」には親業を求めても、 「父親」には求めようとしない人間も多いようだ。 ちりとてちんへの不満はそこにもある。 頭は恐竜で...

労働力の価値ってな~に?

肩こり指数 ★★★ 初コメがついた。その年初の収穫したての新米のように嬉しかったりする(つまらん駄洒落)。 初コメ一番は、東西南北...

イラク反戦ビラ配布で有罪判決

自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配るため、東京都立川市の旧防衛庁官舎に立ち入ったとして、住居侵入罪に問われた市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバー大洞俊之被告(50)ら3人の上告審判決で、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は11日、「表現の自由は...

日本近代の右翼の思想

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ) (単行本) 片山 杜秀 (著) 価格: ¥ 1,575 (税込) 躓きの石としての天皇 超克されざる「近代――近代日本のパラドクス 革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。躓きの石と...

インフレ懸念への回答と経済サイクルから見た減価する通貨の必要性について

先の記事でNSさんから頂いたコメントは、とても重要な内容が含まれていますので、新たにここでお答えします。 http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/206357b1580d916a0abd50f11f62db3e >「減価する通貨」という考え方はすごいと思いました(それとも、この様な考え方自体は...

「個人→国家社会→世界」ではなく「家族を形成する個人→国家社会→世界」という関係構造理解の意義

まず、「家族」の問題についてその意図するところを説明させていただきます。 >だとしたら、やはり、「家族」を実体として捉える視点もやはり危ういものというこにりますよね。「近代経済システム」「支配-被支配関係構造」を知った上でないと「家族」もただの再生産装...

ブログで討論する

先日の「母性」に関する愚樵さんとの対話は、いまふり返ると まったくきついものでしたが、考えさせられるものでもありました。 終わって...

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日本昔話

ちょっと今週はお仕事がいそがしくもあり、へろへろなのであります。 てなわけで、今日はお気に入りブログの紹介をいたします。自ブログを開...

経済学のお勉強(1)利潤と剰余価値

 この記事は愚樵さんの記事のコメント欄で延々と続いた勉強会のまとめとして立ち上げたものです。いきなりこの記事を見ても決して事情がわからないはずですので、興味のある方はぜひ愚樵さんの記事、およびそのコメントをお読みください。ここでは改めて事情説明する余裕...

序章:「定常状態」あるいは「歴史段階的動態均衡」という経済状況

短期的な経済政策問題に徹するという自戒を込めながら書き込みを続け、本来ならばずっと先に書こうと思っていたことだが、既に書き込みのなかで「定常状態」という言葉を数回使い、「匿名希望」氏とのやり取りを通じて、「こういうグランド・デザインを描く時には、今の延...

【時間泥棒への挑戦状】+【ベーシック・インカム】の可能性についての考察

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