愚慫空論

「おかあちゃんみたいになりたい...」

さて、お約束だった『ちりとてちん』についての話の続き。先延ばしにして、書くのが嫌にならないうちに、書いておきましょう。

『ちりとてちん』最終回の放送は、先のエントリーの追記にも書いたとおり、視ました。視たけれども、まあ、落語で言うところのオチが滑ったとでもいいますか、そらアカンやろ、というような内容だったので、私のところでは触れないことにします。dr.stoneflyさんのところで紹介されてますので、気になる方はどうぞ、そちらをご覧になってください。

先のエントリーで、私は『ちりとてちん』最終回一回前の放送でのどんでん返しを「母性の復権」だと書きました。ここでは、そのことについて書かなければなりませんね。というわけで、「母性の復権」を軸に話を進めます。

******


「おかあちゃんみたいになりたい...」

は、落語家を目指して修行を重ねていたヒロイン、B子(貫地谷かほり)が落語をやめると宣言すると同時に言ったせりふです。落語家として大成することより、母となることをB子は選択した。私はこれを指して「母性の復権」と書いた。私は『ちりとてちん』をメインテーマを「母性の復権」だと捉えたわけです。

和久井映見演じるおかあちゃんは、個性的なキャラが揃った『ちりとてちん』のドラマの中でも一際光っていましたが、それはドラマの構成の上からも意味があることだったのです。


いつものごとく、話はあちこちに飛びます。

「おかあちゃんみたいになりたい...」で私が思い返していたのは、私がまだ子供だった時分には、“大きくなったら何になりたい?”なんて聞かれて、“おかあさんになりたい”とか“お嫁さんになりたい”なんて答えてた女の子がまだいたなぁ、なんてこと。幼稚園くらいの年齢のときだったと思いますけど、ね。

今、同じ質問を小さな子供に発して、“おかあさんになりたい”“お嫁さんになりたい”なんて答える女の子がどれほどいるでしょう? 何度も書いていているとおり、私には子供がないので勝手に想像するほかないのですが、現在では、そんな答えをする子はほとんど皆無では? そんな風に感じます。


『ちりとてちん』のB子もまた、そうした子供として描かれていました。おかあちゃんの作る茶色い弁当を嫌い、挙句には「おかあちゃんみたいになりたくないの!」と、言ってはならないことを言ってしまう。この言葉は、B子が、おかあちゃんを他人の世話ばかり焼いて自分のことは二の次の脇役人生だ、と思い込んでいたから出てしまった言葉。脇役人生は嫌だと思いながらも、美人で出来のいいA子と比較されて、常に脇役に回される少女時代を送るB子。高校の学園祭での証明係は、そうした宙ぶらりんなB子の象徴する場面で、ドラマの中に何度も何度も繰り返し出てきます。

そんなB子も、大阪に出て草若師匠や草々らと出会い、落語の修業を積み重ねることで人生のド真中、スポットライトを浴びる主役人生を送れるようになっていきます。ところが、上方落語界の念願であり草若師匠の彼岸だった常打ち小屋も、主役人生、まだまだこれから、というときに、B子はその主役の座を降りてしまう。そして、それまで嫌っていた“おかちゃんみたいな”脇役人生を自ら選択します。その転機となるのが、またしても証明係です。

他人にスポットライトを当てる仕事のすばらしさ。おなかに子供を宿したB子は、このすばらしさを発見します。他人にスポットライトを当てる仕事とはまた、他人の世話ばかり焼くおかあちゃんの役どころでもあるのですが、B子はこの役どころを、いわば負け組の脇役人生として捉えるのではなく、自らの人生をかけてこなしていくに値する価値ある役どころ、人生ド真ん中の役どころだと理解するにいたる。そして「おかあちゃんみたいになりたい」というせりふにつながっていくのです。

昔の女の子たちは、かなりの者が“おかあさんになりたい”“お嫁さんになりたい”という希望を持っていた。昔の人はごく当たり前に理解していたであろう他人にスポットライトを当てる仕事の価値を、現代のドラマ『ちりとてちん』では、スッタモンダの末、大きな代償を支払って発見するものとしてして描かれている。なんといっても修行の成果を投げ出すのですから。なぜ、こんなに大きな代償を払わなければならなかったか? 答えはなかなか難しいが、時代の所為とでもしておきましょうか。

しかしながら、これは大きな代償を払ってでも発見する価値のあることでしょう。私はそう思います。他人にスポットライトを当てる脇役の仕事を、人生のド真ん中として堂々とこなしていけることができる能力、これ、すなわち母性であり、だから『ちりとてちん』は「母性復権」のドラマだというのです。


誤解してもらわないでいただきたいが、私は何も、女は女らしくあるべき、なんてカビ臭い道徳観を振り回したいのではありません。『ちりとてちん』の中には奈津子と小次郎というカップルも登場してきます。奈津子は、現代風の女性、仕事をバリバリこなすビジネスウーマンですが、奈津子とペアになる小次郎は主婦ならぬ主夫の役どころ。これはこれでいいのです。何も男は外、女は内、でなければならないわけではない。皆、ひとそれぞれに、それぞれの形があってよいのです。

要は、バランスの問題でしょう。現代はネコも杓子も、主体的な夢を持つ希望を持つ、持たねばならないと、強迫観念になろうかというくらい皆々がスポットライトを浴びる「自分」を探し回っている時代です。でも、当然のことながら、皆々が主役になどなれるわけがない。スポットライトを浴びられない脇役は、人生も脇役。負け組。そんな思いが充満してしまっているのが今の日本の社会。でも、そうではないでしょう、と。他人にスポットライトを当てる仕事だって、人生のド真ん中を堂々と歩いていけるだけの価値は十分ある。昔はみんな知っていたのに、いつの間やらそんなことは忘れてしまった。今の日本が居心地が悪い社会になってしまっているのは、主役ばかりに価値が偏ってしまったバランスの悪い状態になってしまっているからではないでしょうか。

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そういえば志村さんブログに、「立法を女性に任せたら」という記事がありました。志村さんはこれを、七十余年の人生から来る実感だと言われまして、さすがに私は志村さんの人生経験には太刀打ちは出来ませんけれども、上のように考えていくならば、立法=社会のルール作りは女性に任せ、その運用は男が行うという性別役割分担も、さほどおかしな話ではないかもしれません。女性を全て母性の体現と捉えるのは弊害もあるでしょうが、男性と比べれば母性的である割合が高いことは間違いはないでしょう。母性が主役を堂々と他人に譲ることが出来る能力であるとするならば、この能力はまさに民主主義国家の政治に相応しい能力ということができるでしょう。

日本に限らず、政治家という人種は押しなべて己を主役に据えたがるものです。けれど、民主主義国家においては、主役は政治家ではなく国民。だとするならば、政治家に求められる役割・能力は、主役たる国民にスポットライトをあてる仕事であり、そうした仕事に価値を見出すことが出来る能力。政治家がいつまでたってもオレがオレがと主役を取り合っている有様は、朕ガ国家ナリの専制政治には似つかわしくても、民主制には相容れないものなのかもしれません。現代の民主制は、器は民主でも中身はまだまだ前時代的なのでしょう。


ここのところ、ブログ界の一部で槍玉にあがっている「国旗国歌強制」問題「愛国心教育」問題も、おそらくは“オレ様が主役”的な前時代の残滓がもたらす問題なのでしょう。もしおかあちゃんに、卒業式で国旗を前に起立し国家を斉唱すべきかどうか、と問うたとするなら、かえって来る答えは、

「そんなん、どうでもええわ。卒業式は、卒業生が主役や。国や教師が主役やない。脇役はでしゃばらんと主役の好きなようにさせたりぃ」

といった具合になるだろうか? 国旗国歌を推奨するにせよ忌避するにせよ、自分を主役だと勘違いして、オレ様のいうことを聞け! としか言えない者とたちは違った答えになることは間違いないでしょう。

コメント

望外の発展

私の女性論を引用して、思いがけぬ深いところまで発展させていただきました。それが「ちりとてちん」から始まったところが、またすばらしい。
 「そんなわけで、男どもが喧嘩と金儲けに夢中になっている間に、この国では議員がみんな女になってしまいまして、どんな法律を作ったらよかろうかと朝から晩までピーチクパーチク、その議論の陽気なこと……」

母性が所以

志村さんにご紹介でこのブログに来させていただきました。
女性が政治を行うことについて、私は女性が大義名分に振りまわされることなく本音で物事に当たる姿を見た経験から、ひとりひとりの権利が(不平等に)軽んじられ、平和が危険ないまこそ女性が力を発揮したらいいのではないかと思ってきました。

人に光を当てることのできる“母性”が、政治家に適する所以ですか。
なるほど、新しい視点を教えていただきました。

女は怖い・・・。

国民のための政治さえしてくれれば、あとはどうでもいい話だと思います。
男だから、女だから、若僧だから、年寄りだから、「そんなの関係ねぇ!」です。

ただ、ひとついえるのは、私が知っている女性の地方議会の議員ですが・・・。絶対に逆らえません。後が怖いので・・・。

男の語る「母性」の胡散臭さ。

非公開になってしまった・・・。
なので、もう一度。上の非公開コメ、削除しておいてくださいませ。
_____
志村さんの「その議論の陽気なこと……」に感動。

「母性」って、そんなに美しくもなけりゃ、献身的なものでもないんですよね、って、ひとりの母として、色々な「母」の本音を聞いてきた立場として、なんちゅうか、尻の座りの悪い感じがあるんですよ。

虐待加害者の半分以上は実母ですもんね。
母親がひとりで子育てしなきゃいけない、今の社会環境と切り離せませんけれど、母性って、そんな「大きな代償を払ってでも発見する価値のあること」とは、私は全く思えません。

男性の願望が作り上げた「母性」の縛りから、女性たちが自由になること。それこそが「大きな代償を払ってでも発見する価値のあること」だったと思います。

というわけで、「兄さんもやっぱり男だなぁ」というのが感想です。男性の語る「母性」は、嘘くさくて、腹が立ちます。

うちの3歳児「おかあさんになりたい」って言いますよ。赤ちゃんがほしいみたい。それは彼女の世界が、まだそこまでの広がりだから。「おかあさんになりたい」って私も思いましたよ。だから子どもを産んだ。でも「おかあさんになる」ために他の全てを諦めなければいけなかったのであれば、産んでなかったかもしれません。

人間の支配欲が肥大している時代

自分の意に沿う人、
自分のコントロールできる事柄、
自分の支配下にある物や生き物たち
それらを所有していないと落ち着かない人達が増えました。
そこにあるのは自我の肥大であり、母性とも父性とも関係がない気がします。
こうした状況は、きわめて現代的なもので、生活そのものが、完全に自分のコントロール下にある‘お金’をいかに得るかによって生活の質が決まる、現代社会特有の現象だと思います。
そして、共に生きるという感覚そのものが磨り減っているのだと思うのです。共に生きていないのだから、母性にも父性にも触れられないのです。
そのため精神を成長させることができず、子どもらしい子どもにも、大人らしい大人にもなれない…。
そして、所有と支配の仕方だけ学んで育っていく。
そんな人達が増えている気がします。

若狭夫婦の主従関係

はじめまして。ときどきお邪魔しておりました。
はじめてのコメントがいちゃもんで申し訳ありません^^; 
水葉さんのところで挑戦状を見てしまったので。

この結末は、もし若狭の中で「草々さんが主、私は従」という関係ができておらず、
2人が対等であったなら、これほどの違和感を感じなかったかもしれません。
しかし現実には、彼女は夫が子育てをするところを思い描くことさえできなかったんですよね。
そこにすでに、水葉さんのおっしゃる“縛り”が存在しているように思います。

別のところで、若狭は結局、好きな男のすることを“趣味”でやっていただけなんだ、と
書いていた人がいましたが、そうとらえられてもしょうがないと思いました。
13年もやってきた仕事を「はい、それまで」と簡単に捨てることができるとしたら、
仕事に対する彼女の姿勢や考え方を疑わずにはいらません。
これでは彼女の進む道を探ってくれた師匠にも
彼女を支えてくれた兄弟子たちにも失礼じゃないかと…
(失礼かどうかは問題ではないかもしれませんが)

母性って何だろう? 他人を大切にする気持ちは母でなくてもあります。
おかあちゃんになるためにはほかのものを捨てなくてはいけない、とは私も思いません。

母性と父性。

 子供にとっては、母性も父性も両親としての「温もり」であり、共に必要な愛情だと思います。母性も父性も両方が子供にとって必要なのです。それは男の子でも女の子でも人間の子供だからです。

 男の子でも女の子でも自分の両親からの愛情、すなわち、両親が脇役となって子供が主人公という家庭に育っていれば、その記憶は大人になってから「心の奥底」に存在し、ふとした時に「お母さんになりたい」「お父さんになりたい」という感情としてこみ上げて来るし、両親へ感謝する気持ちも出て来るのだと思います。

 子供を主人公にする脇役としての両親、教職員、国民を主人公とする脇役としての公務員、政治家の存在を、「母性の復興」と呼んだとしても東西としては違和感はありません。

  記事にいう母性とは、女性を男性の願望に閉じ込めておくものではなく、利他献身していく態度と精神の象徴として比ゆ的に用いているだけだからです。

  社会保障、教育費といった福祉が無償化になる社会、政治権力の実現こそ、母性の復権といえるのではないか?

決め付けないで

>「母性」って、そんなに美しくもなけりゃ、献身的なものでもないんですよね、

そもそも「母性」とか「父性」というのが、一定の定義が成立するのかなって思いもありますが、それは横に置いておくとして。
「母性を美しくする」というのが正しい表現なのかなって思います。「美しくする」ことが目標ではなく、日々の集大成として『美しくなった』というものなのだろうと思います。

>虐待加害者の半分以上は実母ですもんね。
>母親がひとりで子育てしなきゃいけない、今の社会環境と切り離せませんけれど、母性って、そんな「大きな代償を払ってでも発見する価値のあること」とは、私は全く思えません。

水葉さんは、着眼点が悲しいのかなって思います。
水葉さんが出したものは「払うべき代償」ではないと思います。「代償」というのは「掴み取るときの対価」であって、水葉さんの例は「対価」じゃないですから。

>男性の願望が作り上げた「母性」の縛りから、女性たちが自由になること。それこそが「大きな代償を払ってでも発見する価値のあること」だったと思います。

私は「縛り」なんてのは、基本的には『ない』と思いますよ。自由を奪われているとすれば、それは「夫」ではなく「子ども」に由来すると思います。一見、「縛っている側」ように見える男性も、やはり「父性に縛られている」のです。
水葉さんの言動は、自己中心的かなって思いますね。辛いのは女性だけではないという視点で見ていけば、よりよい解決策も出せると思うだけに、それが残念です。

はじめまして

お母さんの役割りを「母性の復権」だなんて、それほど大げさにとらえなくてもいいのではないでしょうか?

おかあさんは、落語家やめなくてはできないほど大変だ、でもすばらしいことだという考えをふりまかれたことが、気持ち悪いのです。

落語家も一つの職業として、女性だったらどのように続けていけるのかしらと、楽しみに見ていたのに、結末は「やっぱおかあちゃんになるのが一番」と言われたら、「あほか」としか言いようがないわけです。

子育てが大変だから、今は若狭が少し落語を休むとか、草々が母性的な役割を果たしたりといった筋書きをnhkに期待したのが間違いでしたけどね。

子育てってもう少し気楽にとらえた方がいいと思います。

他の方にはもうしわけないけど

水葉さんにだけ、ちょこっと返答を。

男が母性を語ると胡散臭いといいますが、それを言われたらミもフタもない。そりゃ、女性の目からみた母性は美しいものでも何でもないでしょう。そんなことは私にだって想像はつきますよ。

でも、そうであっても私は“美しく”母性を語りたいんです。男だから。“美しく”語りたいのは、男たる私の女性への敬意ゆえでもあります。どう逆立ちしたって、男は子供を産めませんし。

知らないなら、語るなと仰いますか? でも、それを言い出したら発言できる範囲はグッと狭くなってしまいますよね。お互いに。私はそうした選択をしたくないし、だからまた、知らないことも語りたいと思う。そして語るなら、できれば相手を尊重して語りたい。知らず知らずのうちに見下してしまっているときもありますけどね。

シッポナさんへ

「ボクのお母ちゃん、落語家やで」っていう方がおもしろいかも、ですね。
「子育てが大変だから、落語をやめる」という選択をとったものの、「落語を続けることが、子どもが私に期待する『子育て』」だったら良かったのかも。

でも、題材が「落語」ではなく「漫才」だったら、『親子漫才』で終えてもって思います。

それはともかく、「普段面倒を見れない」とわびつつも、子どものことを考え、悩み、頑張っていれば、どういう理屈かはわかりませんが、その背中を見て子どもは親を自然と信頼するようになる。
それもまた、立派な親だと思います。

煽るだけ煽っといて

不参加ってのはアカンわな(笑)。
ということで、別に若狭個人の選択がどうでもいいんだけど、全国区のドラマとして若狭のそんな生き方が「美徳」みたいに煽ってしまったとこにムカっとするわけだね。これまでの男権社会の意図を感じるからね。
本とのとこ考えてみると、そも「母性」とか「父性」なんてあるのか?、ってのは社会的に利用されたもんで、ほんまにあるんかいな?ってのはフェミの根本かな?
昔、保育園時代、ちょっと勉強したとこで「母性愛」=子どもに愛情を注ぐのは母性である、ってのはエミールを書いたルソーが考えたキャッチコピーらしいですぜ(詳しくはdr.stoneflyのなんちゃって用語辞典参照なんて宣伝をしつつ)。近代では社会のなかで役割分担をさせようとした権力側の陰謀っていうのですかい? そんな捻くれなくても、父も母も子どもはかわいいし、苦労はするし、ムカつくし、苛つくし、一方社会のなかで自己実現はしたいし、認められたいし、ってことでしょ。それは男も女も関係ない。敢えて分けるのは拙いよね。
あと、愚樵さんのエントリーのなかの「主役」「脇役」はあかんやろ。オノレの人生はオノレが主役以外のなにもんにも成れへん。「自分探し」も糞もない。探さんでもオノレはそこにおんねん。絶対にオノレはオノレの人生のなかでは脇役にはなれない。世間がどうみようが、若狭も人生のなかでは草若も草々も脇役やね。若狭自身が気づいてなくても若狭の人生の中では若狭が脇役に成られへん。くだらん位置づけはくだらん社会的価値に毒されているってことだろうね。
あれ? エントリーの本題に応えてなかったっけ? 酔ってるさかいに堪忍な。

言うに事欠き・・・

 「やっぱり男だなぁ」などと言う人は、「やっぱり女だなぁ」と言われたらどう返すのでしょうね。

 「やっぱり××」という類型化。ついやってしまいますよね。けれどもここに、相手を冷静に理解しようという精神はあるでしょうか。

 こうやって議論が貧しくなっていく。しかもリベラル派ブロガーによって。悲しいことです。

あんただれ?

不愉快なんで削除しようかと思ったけど。

八方ちゃんて方、あなたはどこのどなたですか?

あなたこそ、議論が貧しくなるようなコメントはやめましょう。そういうあなたもはリベラル派とやらを攻撃したいだけでしょ?

いいんですよ、水葉さんは。どこのだれだかわかってるから。どこのだれかわからないような人が、いきなり出てきてここぞとばかりに他人のことを誹謗するものじゃありません。

今、言葉を思いついたんで

dr.stoneflyさん

>愚樵さんのエントリーのなかの「主役」「脇役」はあかんやろ。オノレの人生はオノレが主役以外のなにもんにも成れへん。「自分探し」も糞もない。

いえ、これでいいのです。オノレの人生、オノレが主役以外の何者でもないのは当たり前のこと。でも、それを他人がそう評価してくれるかどうかは別問題。そこにジレンマが生じるわけです。

「おかあちゃんみたいになりたい」という以前のB子は、他人に評価されることは望んでいた。それがB子の人生ド真ん中だった。でも、おかあちゃんは違った。他人に評価される側ではなく、つねに他人を評価する側だった。それが他人にスポットライトを当てる役割ということ。B子はそれに気がついて、自分もおかあちゃんの側に回ることを選択したのです。

この選択ができるのは、他人の評価がどうであれ、自分自身は人生の主役は紛れもなく自分だと悟ったからできるんです。そのことを悟ったからこそ、社会的評価になる主役の座は他人に譲ることができるといってもいい。他人を照らすスポットライトの光は、自らが発する光。自分が主役であるから、発することが出来る光なんです。

「原始、女性は太陽だった」といったのは平塚らいてうでしたか。『ちりとてちん』のB子は、最後にそうした境地に達したのだと私は思います。それもこれも、みな修行の成果です。

愚樵さんへ

自分が「主役」なのか「脇役」なのか。それを普段意識して生きている人なんて、おそらくいないと思います。

目標を持って、日々を精一杯生きて、子どもがいれば子どもと一緒に生きていけば、自ずから「主役」として、みんなに認められるんじゃないでしょうか?
100人いれば100の人生があり、1000人集まれば1000の違いがある。
残念ながら『ちりとてちん』は見ていませんので、ストーリーについてはあまり多くは語れません。

ただ、昨年の大河ドラマ『風林火山』は、主人公と脇役が一緒に成長していく姿を描ききりましたね。

武田信玄に希望の光を見出して、主人・信玄、諏訪家出身の側室とその子(勝頼)に「忠義を尽くす」ことは、『自らが主人に光を照らして、導いていくこと』と悟った山本勘助。

自信満々になった自分を、その山本勘助の苦悩と「悟り」から学び、自分を戒めていきつつ、「家来あっての自分である」ことと同時に「家来に光を照らすのが自分の使命」と悟っていった武田信玄。

どんな立場であっても、常に自分が主役でなければ、人生は開かれないんだろうと、私は思います。

深い「自己愛」がなければ他者を深く愛することはできない。なぜなら、他者は自己なのだから

深層意識では

わくわくさん

>自分が「主役」なのか「脇役」なのか。それを普段意識して生きている人なんて、おそらくいないと思います。

そうかな? 私はそうは思わない。人は皆、普段からそれを意識している。意識しているどころか、それこそが人生の一大テーマなんだと思う。そうした意識が意識の表層には出てこなくても、深層ではずっと意識していると思う。主役であるということは、言い換えれば自己が自己であることの確認なんですから。

>どんな立場であっても、常に自分が主役でなければ、人生は開かれないんだろうと、私は思います。

それはその通りだと思います。ただね、常に自分が主役であると確認できるとは限らない。これがなかなかに難しいのですよ。特に思春期以降は。

早雲さんが「他者は自己なのだから」と仰ってますが、これは逆に言うと、自己は他者を通じて自己になるということ。自己は他者に左右されるんです。つまり自分が主役であるかどうかは周囲から認知されて始めてそう確認できるという性質のもの。なかなか自分ひとりでは確認できないですよ。

ところが、自分の分身を自らの体内から生み出すことが出来る女性には、自己だけで自分を主役だと確認できる可能性がある。これが母性です。母性は他者を生みだし、そのことで自己(=主役)を確認できるわけですよ。(ただし、これには逆の危険性もあって、自己愛が深く傷ついている場合、その分身を殺害してしまうこともある。水葉さんが指摘したように)。


信玄と勘助についても、ひとこと。
私はそのドラマはみてませんが、わくわくさんの説明を拝見するに、それはそれで確立したひとつの自己確認の方法なんでしょう。「忠」というやつですかね。

ただ注意しなければならないのは、そうした「忠」は社会の仕組みが封建的な主従関係を軸に動いている時代はいいのですが、現代のように皆平等の民主制では、そうした「忠」は相応しくないと言わねばなりません。個人的にそうした「忠」の関係を取り結ぶことはなんら問題はありませんが、そうした「忠」が社会契約の中に入ってくることは大きな問題を生み出すことになる。公僕と国民との関係は主従関係ではないのですから。

けれど、そこのところがまだ日本では整理されてませんよね。「忠」の形は時代時代の「虚構」(封建制とか民主制)とかに左右されるんです。それぞれの「虚構」に合わせた「忠」が求められる。そこのところが日本ではまだまだ整理されてません。

母性を元にする関係は「孝」というべきものです。これは時代がどうであれ、変らないものだから。「忠」の形が混乱した現代では、時代によって左右されない「孝」を元に社会のあり方を考えてみる必要があろうかも思います。

******

早雲さん、端的なコメントありがとうございます。いつも拝見させてもらってます。

シッポナさん

ご挨拶が遅れてしまいました。申し訳ありません。こちらは初めてでしたね。

今回は特にお返事を差し上げず失礼してしまいましたが、もしよければまたお越しください。お待ちしております。

愚樵さんへ

>そうした意識が意識の表層には出てこなくても、深層ではずっと意識していると思う。主役であるということは、言い換えれば自己が自己であることの確認なんですから。

『主役であるということは、言い換えれば自己が自己であることの確認』ということについては、私もまさに同意します。
ただ、本人はそれを「意識」しているほどの「余裕」と「暇」はないと思います。精一杯やれることをやる、その積み重ね。しかしながら、それを評価し、そして「あなたの人生はあなたが主役だ」と気づかせてくれる「他人」がいるのだと思います。
昔、ダウンタウンの浜ちゃんが小室哲哉と出した唄の歌詞に「家に帰ったらひたすら眠るだけだから、ほんのひとときでも、自分がどれだけやったか、窓に映ってる素顔を誉めろ!」とありますが、みんなそんな状況なんじゃないかなと。
深層で意識しているかどうかは、表現の仕方だと思いますが、ひとついえるのは「自分の人生は自分が主役だ」というのは、「意識する」ものではなく「気づくもの」じゃないのかなっていうことですね。

>ところが、自分の分身を自らの体内から生み出すことが出来る女性には、自己だけで自分を主役だと確認できる可能性がある。これが母性です。母性は他者を生みだし、そのことで自己(=主役)を確認できるわけですよ。

これも「表現の仕方」かなと思います。
「子ども」を「自分の分身」と見るのか、それとも「独立した個人」と見るのか。これを明確に定義することはできないでしょう。違う人で違う捉え方もありますし、同一人物であっても、時と場合によって捉え方を異にすることもある。ただし、申されるとおり、「動機」にはなりえます。ゆえに、ひとつの見解として同意できますね。

NHK大河の「風林火山」のところですが、「主従関係」「忠孝」の観点で捉えると、私の発言を誤解なさると思います。
私が言いたいのは、『「自分」を持たなければ、誰かの役に立つこともできないし、人をまとめることもできない』ということです。

ちなみに、世間で言われているいわゆる「忠孝」は、朱子学が普及し始めた江戸時代からのことです。
戦国時代は「生き残らなければならない」わけですから、主君に盲従する家来は役に立たず、それほど重用されてもいません。独善的な主君は戦に敗れたり、家来に謀反を起こされてしまいます。名将といわれた人ほど「自分」を持ち、様々なエピソードも残しています。

「仕事」の価値

「仕事」の価値が見失われているように思いました。
趣味は本当にただの道楽なのか?
稼ぐことは?
人の上に立つことは?
誰かを助けることは?
などなど、とりとめもなく考えさせられました。
要は自分で誇りがもてるかどうかなのでしょうが、他者、社会の評価が大きな比重を占めているのは間違いないでしょう。自ら気付ける人はとても少ない、という気がします。テレビ、新聞、教育など、一極集中の情報を頼りにしているからかなと思います。価値の種類がとても少ないように感じています。
もうひとつ、コメントを読んで気になりましたので。
はたして「仕事」に関して一貫性が必要なのか、ということです。例え、後に残るものは何もなくても、人はその時々において懸命に生きていればいいと思っています。

どちらの見方も可能ですが

わくわくさん

>「子ども」を「自分の分身」と見るのか、それとも「独立した個人」と見るのか。これを明確に定義することはできないでしょう。

これを明確に定義できないのはもちろんですが、この文脈に従って私が主張したいことを述べるならば、現代の社会の価値観は「独立した個人」とする見方に偏ってしまっているということ。そして「母性の復権」とは、いうなれば「自分の分身」としてみる見方を復権させるということになります。

このふたつの見方は、どちらかが一方が正しく、どちらか一方が誤りという性質のものではないことは理解されているでしょう。どちらもそれぞれに正しいのですが、片方の見方ばかりに偏るといろいろと弊害が出てきます。そういう状況になっているのが現代社会というのが私の認識。だからこそ、母性の“復権”なんて言葉になるのですね。要はバランスの問題です。

*****

とんぼのめがねさん

>価値の種類がとても少ないように感じています。

同感です。他者、他人の評価、それも貨幣で測定できる価値評価に囚われすぎてしまっている。そのように感じますね。

皆さん、口では多様な価値を認めなければ、とはいうのです。けれど、なかなか自分と違う価値観は受け付けないのが実際のところのようです。本エントリーのいただいたコメントからも、そのことを実感せずにはいられませんでした。

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