愚慫空論

「私」と社会とを結びつける絆

紛らわしいタイトルだが、今回のエントリーの内容は死刑廃止論。私(愚樵)の個人的な事柄ではない。当ブログをご覧になっていただいている方はご存知だろうが、私は死刑廃止論の立場に立つ人間だけれども、今回は死刑存続論に近いことを書いてみようと思う。被害者遺族のことを考えると、どうしてもそうならざるをえない。

なお、タイトルの「私」とは私(愚樵)のことではなく、ごく一般的な「私」。英語で言うと“I”ではなく“one”のこと。


人はひとりでは生きていけない、という。“人”という漢字はヒトが互いに支えあっている姿を表したものだ、なんてことはよく知られた話。ヒトは母親の胎内からこの世に生まれ出てくるが、完成品として誕生するのではなく、未完成品――それもかなり完成度の低い未完成品として生まれ出てくる。未完成品を完成に導くのは周囲の環境。未完成品を受容し慈しむ周囲の情愛があって初めて、人は完成に近づいていく。

しかし、どうも人はなかなか完成には至らない生き物であるようだ。人間同士の仲間内で大人であるとか社会人だと認められる状態にまで成長しても、なかなか完成しない。いつまでたっても完成に導く周囲の受容を求め続ける。もしかしたら、人は本能的に完成してしまうよりも未完成でいるほうが安楽なのだと知っているのかもしれない。知っていてその安楽を逃がすまいと、わざと完成することから逃避しているのかもしれない。だとすれば、人とは怠惰な生き物だが、自分自身のことを省みてみると、人間怠惰説にも信憑性があるような気もする(笑)。

のっけから話は脱線気味だが、タイトルの“「私」と社会とを結びつける絆”とは、未完成な人が怠惰な楽を味わうために求めるものである。この絆を失うと人は楽ができなくなる。ひとりで「私」以外の外部世界と向き合わなければならなくなる。そうした状態に置かれると、人は得てして我を見失う。我を見失って情緒的に不安定な状態に陥る。これが怠惰な人間の本性といったところだろう。

人は“「私」と社会とを結びつける絆”をいろいろな形で見出す。それは「私」の社会的地位であったり、「私」の所持する貨幣の量であったり、また「私」が納めてきた学問であったり。これらはみな私に言わせれば「虚構」ということになるのだが、そちらの話は置いておいて、死刑という刑罰の文脈、それも被害者遺族の感情といった点に絡んだ話となると、この“絆”の形は自ずから限られてくる。それは遺族が奪われた被害者、遺族にとっての「かけがえのない者」だ。

同じ“「私」と社会とを結びつける絆”という範疇に入るにしても、「虚構」と「かけがえのない者」とは大きく異なる。「虚構」の方は、「私」がそうした属性(社会的地位とか学歴とか)を備えてさえれば認知してもらえるという性質のもので、「私」を認知する第三者からしてみれば、それはなにも「私」である必要はない。同じ属性を備えた他人であっても一向に構わないのであって、つまりは取替えが利く機械部品のようなものである。対して「かけがえのない者」は取替えは利かない。「私」にとって「かけがえのない者」は、あるいは「かけがえのない者」にとって「私」は、社会的にどのような属性を備えているなんてこととは関係なく、その人の具体的個別的な存在そのものが“絆”なのである。そして、「私」は犯罪によって取替えが利かない「かけがえのない者」を奪われ、怠惰な安楽から放り出されることになる。これが「私」が加害者の死刑を望む動機、ひいては死刑制度を存続させようと望む動機になる。

死刑廃止論者は、死刑という処罰制度は論理的におかしいと言う(村野瀬玲奈さんの記事を参考にどうぞ)。私は民主主義という制度には一定の疑念を抱いているが、それでも現代の社会を統治する「虚構」としては、とりあえずは最上の制度であると思っている。その民主主義を育んだ思想体系からすると、死刑廃止の方が存続よりも整合性は高い。民主主義の理念を正しく理解すれば、否応なく死刑廃止の結論に行き着く。これは間違いはないと思っている。だが、いくら思想体系的に首尾一貫したものであろうとも、その思想体系そのものが許容できないものであれば、「私」にとっては何の意味もない。意味がないどころか、「私」にとっては苦痛でしかない「虚構」を受容するように無理強いされてしまうようなことにもなる。死刑廃止か存続かを巡る問題は、制度を支える思想を許容できるかどうかの問題なのである。

いや、私(愚樵)のこの論は正確さを欠く。思想の許容だけではない。なんとなれば「かけがえのない者」が“絆”となるのは、思想体系に裏打ちされた社会だけではないからだ。「私」にとって「かけがえのない者」は社会だけではなく外部世界との絆であって、言い換えれば「私」がこの世に存在してもよい理由なのである。社会は、この世の一部でしかない。

「かけがえのない者」を失った「私」は、この世に存在してより理由を見失う。情緒的に不安定になるのは当然のことだし、「かけがえのない者」を追って自ら死を選ぶ者が出てしまうのも、怠惰な人間の本性からするとやむを得ないことだろう。この世に踏みとどまっているとしても、それは辛うじて、に過ぎない。苦痛に耐え忍びながらでしかない。そして、加害者の死刑を望むことは、「私」にとってはこの世に存在してよい辛うじての理由になってしまっているのである。


死刑廃止を巡る議論を踏まえて、被害者遺族を慰撫・救済する制度を整えなければならない、という声が大きくなってきている。これは当然のことで、私には何も反対する理由はない。反対する理由はないが、しかし、そうした「制度」がどれほど役に立つのか、疑問は拭えない。遺族が失ったのは取替えが利かない「かけがえのない者」であるのに対し、「制度」が提供できるものは取替えが利くものでしかない。たとえどれほど大量に取替えが利くものを提供されたところで、具体的個別的な「かけがえのない者」の代わりにはならないのである。

「私」が加害者の死を望むのは、皮肉なことに、その加害者が具体的個別的だからである。「私」と「かけがえのない者」との絆を断ち切った具体的個別的な者をこの世から抹殺することで、「私」とかけがえのない者」との絆を断ち切ったという個別的具体的な事実を「私」から断ち切りたいと望むからである。もちろん、加害者がこの世からいなくなったからといって、断ち切られた絆が再び復活するわけではない。だから、被害者を死刑にするという望みをかなえたとたんに、「私」がこの世に存在する理由を全くなくしてしまうということも考えられる。しかし、先のことをいくら予見できたとしても、今、この時点でこの世に存在する理由がなければ先のことなど何の意味も持たない。「かけがえのない者」を奪われた者が置かれる状況は、こうしたどうしようもない状況なのだ。

逆説的だが、「私」が死刑制度の存続を望み「かけがえのない者」を奪った加害者の処刑を望んでいることは、たとえ一時的であれ、「私」と社会との絆が「私」のなかに存続していると見ることもできる。もし、「私」が「かけがえのない者」を亡くしたことで社会との“絆”を完全に喪失してしまったとするならば、「私」が社会に対して死刑制度を望むこともないだろう。加害者をこの世から抹殺することが「私」の辛うじての存在理由であり、なおかつ社会に何のつながりも感じないのならば、「私」は社会からどのような処罰を科されることになろうとも、自分の手で加害者を抹殺することを選択するだろう。その選択をしない分だけ、まだ「私」は社会との絆を感じているとも言える。異常としかいいようのない“絆”のあり方だけれども、それが“絆”であることには変わりはない。死刑が廃止された社会では、「私」はそうした異常な“絆”でさえは社会と結ぶことができない。


死刑廃止論者が考えるべきは、“絆”を失った人といかに向き合うか、という問題であろう。死刑廃止がどれほど理論体系的に整ったものであろうとも、その「制度」との“絆”を持つことができなければ、「私」にとって「制度」は何の意味もない。むしろ、邪魔であるとすら言える。もはや、死刑廃止論の論理的完成度の高さを云々している局面ではなかろう。

だが、やっかいなことに、一度悲劇的な形で“絆”を失った人は、容易なことで再び正常な“絆”を取り結ぼうとは希望しない。いかに周囲が正常な“絆”を求めても、本人がその気にならなればどうしようもない。だから、社会が「私」の希望に沿って加害者をこの世から抹殺する死刑は、もっとも効果的な遺族感情の慰撫方法といえるのである。たとえ異常であってもそこにはまだ“絆”がある。“絆”があって初めて、異常な状態を正常に戻す可能性も出てくる。

死刑廃止論者は、この“絆”の難問と対峙しなければならない。

コメント

脳みそ停滞しておりますが

玲奈ねえさんは(私も)、遺族感情自体を否定しているわけではないと思います。「犯人を死刑にしてほしい」というのは、当たり前の感情。その当たり前の感情が、全ての被害者に適応されない「矛盾」をどうするのか、という話が、玲奈さんの問題提起。

「制度」である以上、公平を期さなくてはならない。なので、死刑存置の理由を「遺族感情」に求めるのは難しい、という話だと私は読みました。

死刑は「最も効果的な」遺族感情の慰撫方法ではなく「最も簡単で手間と金のかからない」ではないでしょうか。「体罰」とも似ていると思います。即効性があるが、予期せぬ事故(冤罪)の可能性が高く、根本的な問題解決には至らず、それによる心の傷を生じさせるという点で。

被害者遺族が被害によって失うものは「絆」だけではありません。私はむしろ「生活」の破壊こそが、最大のダメージだと思う。だからこそ、そこに「お金」がいる。「再び正常な“絆”を取り結ぼうとは希望しない」人が回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が。その「支出」を押さえるための死刑存置だと私には思えて仕方がないのです。

「私たちの社会が生み出した犯罪者」がしでかしたことへの慰謝料、という感覚がないのですよね。それが私には腹立たしい。

犯人の死刑を望む気持ちは、人間として当たり前の感情です。それを認めて受け入れることと、それを死刑存置の理由にすることは、問題のすり替えでしかありません。

・・・でも、兄さんは存置派じゃないワケで、、、なんか反論してても、空しいなぁ。ほんまややこしい人や。(-_-)ゞ

抗議文

水葉さんの発言に、怒りを込めてコメントします。
この文は削除しないで、水葉さんが精読し、反省していただきたい。

>死刑は「最も効果的な」遺族感情の慰撫方法ではなく「最も簡単で手間と金のかからない」ではないでしょうか。
>被害者遺族が被害によって失うものは「絆」だけではありません。私はむしろ「生活」の破壊こそが、最大のダメージだと思う。だからこそ、そこに「お金」がいる。「再び正常な“絆”を取り結ぼうとは希望しない」人が回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が。その「支出」を押さえるための死刑存置だと私には思えて仕方がないのです。

ひとこと『ふざけるな!』としか言いようがないコメントである。
カネで解決できるなら誰も死刑など望みもしない。「カネなどいらない。あの人を返してくれ。」と叫ぶ被害者を君は知らないのか?この世のどんな黄金や財物でも換えられないものを奪われたからこそ、それを奪った犯罪者が「生きていること」が許せないのであって、言い換えれば「全財産全人生を賭けても、できることなら報復したい」と思う人さえ珍しいことではないぐらいのものだ。

それを『「生活」の破壊こそが、最大のダメージだと思う。だからこそ、そこに「お金」がいる。』『回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が。』『その「支出」を押さえるための死刑存置』というような経済的なものが理由だと『私には思えて仕方がない』などという人が、『「犯人を死刑にしてほしい」というのは、当たり前の感情。』『犯人の死刑を望む気持ちは、人間として当たり前の感情です。』などと思う資格も権利もない。そう思うのならば、被害者が受けた最大のダメージや、被害者の加害者に対する心情について経済的な要素を微塵も入れるな!(激怒)

>「私たちの社会が生み出した犯罪者」がしでかしたことへの慰謝料、という感覚がないのですよね。それが私には腹立たしい。

それが腹立たしいなら、被害者遺族への経済的サポートは君が全財産を賭けてやってくれ。それを容認しないなら、すべての発言を撤回せよ。

今回の水葉さんのコメントは、人間として激怒したので、管理人さんには削除の権限を行使せず、水葉さんに閲覧してもらってください。

被害者に対する財政支援は不可欠。

 結局、死刑を執行しても、自分で加害者を惨殺しても、被害者は戻ってこない。これが事実です。死刑を執行しても被害者遺族への財政支援が必要なのは変わりありません。

 にもかかわらず、エキサイトして金を出し惜しむ人の態度は卑劣を通り越して、吐き気をもよおします。

 被害者遺族への財政支援は絶対に必要なのです。政府は金を出せって当たり前の被害者感情じゃないでしょうか?

抗議文

>にもかかわらず、エキサイトして金を出し惜しむ人の態度は卑劣を通り越して、吐き気をもよおします。

おそらく私に対するコメントなのでしょうが、この人は日本語を読む力が決定的に欠如していると思われます。
誰も「金を出し惜しめ」とは言っていないし、「財政支援を少なくしろ」とも言っていない。

被害者遺族が受けた最大のダメージは、何物にも換えがたい大切な人を失ったことであって、経済的なものは二の次三の次である。これを前提に被害者感情を考えない愚かな考えは捨て去れということ。

それがわからない人に死刑について語る資格も権利もない。

わくわく44さんへ。

 おかしいですね。あなたは死刑執行賛成でしょ?だったら、あなたも謙虚になりなさい。

 加害者遺族が受けた最大のダメージは、何物にも換えがたい大切な人を失うことであって、経済的なものは二の次三の次である。これを前提に加害者感情を考えない愚かな考えは捨て去れということ。

 それがわからない人に死刑について語る資格も権利もない。

 わかりますか?無抵抗の加害者が社会から孤立し、首に縄をかけられて殺されるんですよ?あなたは死刑囚の気持ちを考えた方がいいのではないですか?もちろん、被害者も加害者もあなたと同じ人間なんですよ?

 っていうか、加害者感情、被害者感情を考えることにこだわるのは何故ですか?死刑執行を煽りたいだけじゃないのか?死刑執行賛成なんでしょ?あなたは。

日本語を理解しなさい

>あなたは死刑執行賛成でしょ?だったら、あなたも謙虚になりなさい。

死刑執行賛成がなぜ謙虚にならないといけないのか、その因果関係が成立する理由が明示されていない。
よって、この発言は不当である。

>わかりますか?無抵抗の加害者が社会から孤立し、首に縄をかけられて殺されるんですよ?あなたは死刑囚の気持ちを考えた方がいいのではないですか?

私のコメントは、被害者感情に関する水葉氏のコメントへの抗議であって、死刑そのものや加害者に言及したものではない。
よって、このような単に私を排除したいがためだけのコメントは、反論として成立しないばかりか、不当極まりないものである。よって、返答の責任を有しない。

>っていうか、加害者感情、被害者感情を考えることにこだわるのは何故ですか?

人間は感情の生き物である。感情を無視して実現することを「強制」と日本語で言う。ゆえに、理論的に正当なものであっても、感情を排除した論を理解し、同意し、受容することは困難を極める。

「日の丸・君が代」問題についても同様のことが言える。
このケースは、「卒業式で導入すべきだ」「卒業式で導入すべきではない」「全員で掲揚・斉唱すべきだ」「掲揚・斉唱したくない人はしなくても良い」というものに分かれるが、どちらを「正」として実現しても、もう一方にとっては「感情を無視されたものが実現された」ということであって、理解し、同意し、受容することは難しい。

ちなみに、これについて、私は逃げるつもりはない。
反対側が理解し、同意し、受容することが極めて困難であることを承知で、TPOを踏まえた上で「強制」を容認する立場であるので、東西南北氏から来るであろう不当な発言は、この時点ですべて却下とする。

なお、この記事で触れるべき内容ではないため、ここで「日の丸・君が代」の卒業式での掲揚・斉唱の正当性の有無については論じないので、これについての不当な発言も却下である。(不当な結論(=どちらか一方が正しい、あるいは民主的、人権擁護等)を決すること)

>死刑執行を煽りたいだけじゃないのか?死刑執行賛成なんでしょ?あなたは。

死刑執行賛成であっても、積極的な推進論と消極論では異なる。「煽る」のは積極的な論者であろう。消極論は「やむをえない」という態度である。死刑執行に前向きなのか、それとも極力回避するかの違いでもある。
もちろん、死刑廃止ではないので、「何が何でも回避」ではない。そこに死刑廃止との違いはある。
しかし、東西南北氏は、この「違い」も、「死刑判決を受け、死刑を執行される人にとっては同じである」ということで『同じ側』ということになるのであろう。
こういう人と連帯・団結する愚かな思想や思考に与する気は私には微塵もない。

水葉さんのコメントから考えたこと

 こんにちは。ロムに徹するつもりでしたが、ちょっとだけコメントさせてもらいます。
 死刑はがもっとも効果的な遺族感情の慰撫方法といえるのである、といえるでしょうか。例えば複数殺した人間に対して、一方の遺族は死刑を望み、もう一方の遺族は更正して社会復帰を願った場合はどうでしょう。刑罰に遺族感情の慰撫を求めることは適当とは思えません。
 死刑によって社会から犯罪者を抹殺することは最も安直な国の責任回避であると考えます。水葉さんのコメントにある「社会が生み出した犯罪者」であることを認識することが死刑を乗り越える一歩になると思います。だからこそ「回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が」必要になるという水葉さんのコメントを支持できるし(冤罪の可能性が「高い」かどうかは疑問ですが、ここでは関係ないので無視)社会が責任を持って対処すべきことでしょう。「死刑に処したんだから後は知らんよ」ってことにならないために。
 水葉さんのコメントは被害者だけじゃない、加害者の遺族や、死に至らない暴力の被害者や加害者の感情の慰撫を想定してらっしゃるのではないかと察するのですが。(もっとも愚樵さん、この程度のことは考察済みでの記事でしょうから、水葉さんと同じく空しい気がします。とほほ)

nobuさんへ

私が最も許せなかったのは『~~人が回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が。その「支出」を押さえるための死刑存置だと私には思えて仕方がない』という部分です。

誰も「加害者を死刑にすれば、それでいい。」なんて思っていませんよ。
それこそ、被害者遺族が、一刻も早く明るく前向きに暮らせるように、それこそ現金だけでなく現物(カウンセリングやサークル活動等も含めた)についても国や自治体が支援すべきだと思いますし、第一、これは加害者への刑罰とはまったく別の話です。

それを、あたかも「死刑存置論者は、刑罰と支援を混同し、加害者を死刑にすることで支援をしなくても済ませようとしている」という思考・発言、しかも「そうと思えて仕方がない」という他の可能性を排除した断定的な思考・発言をしたために、人間として激怒したわけです。

nobuさんが仰ることは、私はひとつの見解として、常日頃わきまえていることですので、批判も反論もありません。
ただ、「踏まえておいてもらいたいこと」はあります。
それは、『加害者を死刑にして欲しいという被害者感情と、真正面から向き合うこと。』です。
nobuさんの発言は、死刑を望む被害者遺族に反発を食らい、「人の気持ちを理解できない」と思われることが十分予測されます。このことについて、いろいろ発言したり、逃げの姿勢を示してはいけません。逆にそれを甘受する度量を持っていただきたいと思います。
死刑存置・死刑廃止どちらが正しいのかはさておき、いくら正しいことであっても、受容されにくいものについては、相当の辛抱と我慢を要するのです。これを踏まえない言動こそが「無責任な言動だ」と批判を受けるのです。

抗議文への抗議

わくわくさん。私はあなたが決して話の通じない人ではないと思ってます。思ってますけど、話が通じなくなぁ、と感じることもしばしば。今回の抗議文がまさにそれ。んでもって、東西さんはわざわざ、そんなときに限って絡むんだから(苦笑)。

水葉さんだって、もちろん、話の通じる人です。考えが違うというのと、話が通じるというのは違うのですよ。考えはみな、ひとりひとりそれぞれ違うし、だから他人の話の受け止め方も違う。

私も今回のエントリーに関しては、私がもっとも言いたかったことと水葉さんが受け止めたこととの間にギャップはあると思います。むしろ、私の言いたかったことはわくわくさんのほうがしっかり受け止めてくれたのだろうと思います(そこから出る結論は違いますけどね)。でもね、水葉さんは話が通じる人なんだから。対話すればいい。コメント欄はそのためのものなんだから。

わくわくさんの態度だとね、その対話が閉ざされてしまうんですよ。わくわくさんの態度は大臣の失言を追及する野党議員みたい。でも、ここは政治の世界じゃない。できるだけ、本音でいいたいことを言おうよ、という世界。少なくとも私はそのつもり。だから、わくわくさんの本音も認めるけれども、それが他者の発言を阻害するものになるなら、見過ごすわけにはいかなくなってしまいます。

公と個のギャップ

水葉さん、nobuさん

今回の私のエントリーは、公と個の立場で言うと、あくまで「個」の方に軸足を置いて考えてみたものです。

>死刑は「最も効果的な」遺族感情の慰撫方法ではなく「最も簡単で手間と金のかからない」ではないでしょうか。

「公」的にみればこれは正しいと私も思います。ですから「公」的制度の問題としての死刑廃止に賛成なんです。けれど「個」の問題としてみれば、答えはそれぞれ違う。nobuさんご指摘のようなケースもあるわけで、本文では話をいささか極端に進めすぎたかなと思わなくはないのですが、同時に、そうした極端なケースが今の日本では増えつつあるような気もするのです。つまり、「個」が持つことができる“絆”の種類や数が少なくなってしまっていて、それゆえ、ひとつの“絆”が失われてしまったことが致命傷になる、というケースが。

>「生活」の破壊こそが、最大のダメージだと思う。

の水葉さんの発言にわくわくさんは噛み付きましたが、私はこの姿勢こそが大切だと思っています。この姿勢は“絆”を失ってもなお、生きていこうとする高い生命力の表れです。「個」として、どのような問題があってもこの姿勢を失うことがなければ生き延びていくことができる可能性も高くなる。「公」からの援助を素直に受け取ることもできる。けれど、みながみな、そうした姿勢を維持することはできないんだ、数少ない“絆”を求めて辛うじて生きている者も多いんだ、という認識も私の中にはあって、今回はそこからの暫定的死刑賛成論でもあったわけです。

不思議なことに、人間はなぜか自殺という選択をすることができます。実際に死を選択しないまでも、戦争を望み、国家のために死にたいなどと馬鹿げたことを言うようになったりします。こうした現象は生命力の低下の表れですが、私は感情的死刑存続論もそこからくるのではないかと疑っています。そして、死刑という刑罰は遺族という「個」の生命力を高めることには貢献しても、日本人全体としての生命力を高める方向には作用しない、と思っています。

なにより、だれもが生きていかなければならないのですから。生きる権利があるのではない。生きる義務があるのです。生きる義務を免除してしまう死刑は、それこそ安易な処理方法だと思います。

わくわく44さんへ。

 あなたが死刑執行反対の立場から、「被害者感情を踏まえろ」と涙を流し主張するなら東西も十分に理解できるし、共感するのです。ところが、あなたは、死刑執行賛成の立場から「被害者感情をふまえろ」と主張する。まったく人間として卑劣です。ちがいますか?

 まさに、あなたは裁判制度を否定する挑戦をしているんですよ?わかるでしょう。被害者遺族が裁判制度という公的な絆を否定してまでも、惨殺された被害者との異常な絆を生きる原動力にして、その憎悪を復讐・報復の形で遂げることすらを追認、容認するあなたの態度は、どう考えても悪質であり、非人間的だと断じざるをえない。虐げられた日本人民がもう一度、日本国で暴力革命、人民裁判で為政者を死刑する事態をも容認、追認するのがあなたの態度ですよ。ちがいますか?戦争犯罪者を人民が死刑執行することと同じ態度です。仮釈放なしの無期懲役刑を導入すれば社会の安全は保障できるのです。死刑は単なる憎悪の哲学の現実化にすぎない。

まったく困ったもんだ

私がわくわくさんに向かって言うことは、同時に東西さんへ言ってることでもあるんですがね?

私はお二人の主張の内容に問題があると思っているのではない。問題があると思っているのは、そのスタイルですよ。相手を封殺しようとうするスタイル。

わかるでしょう、って? わかりませんよ。わかろうとしないんだから。

わくわくさんと東西さんに私は問いたい。自説を声高に主張したいだけなのか? それとも対話をしたいのか? 自説を主張したいだけなら、ご自分のところでどうぞ。対話をしたいのなら、それなりのスタイルでお願いします。

一度はお二人の非生産的な対話を放置しましたが、いくらなんでもあれをたびたび繰り返されたのでは、私も困ってしまいます。私自身が他の人と対話できなくなってしまう。

対話をしましょう、生産的な対話を。お二人ともそれぞれに勉強なさっているようだし、その勉強成果についての自負もあるようですけど、それが相手に伝わらなければ意味はないでしょう? あなた方は単に自分のマスタベーションを他人に見せびらかしたいだけですか? 違うでしょう。違うならば、伝え方も考えてみましょう。

これは知恵というものです。知識ではなく知恵。知識の集積がイコール知恵にならないなんてことは、あなた方だってご存知でしょう? このままおふたりともこのままのスタイルを維持されるならば、私はお二人を知恵のない者と断じて対話を打ち切ることを考えざるを得ません。知恵の裏打ちのない知識なんて、貴重なものでもなんでもない。まして他の知恵ある人との対話と引き換えにする価値などない。

おふたりとも、ひとりひとりとなら十分対話ができるのに。それがふたりで絡み合うと収集がつかなくなる。そりゃ、相性ってのもありますが。どうしても相手とあうスタイルを見つけられないなら、対話を避けるのも知恵。また、別に対決の場所を見つけるのも知恵。その程度の知恵は身につけてください。

愚樵さんへ。

 すみません。しかし、わくわく44さんは「わかっている」し「わかろうとしている」んです。ただ、「やらない」「連帯・団結しない」「態度は真逆」なだけなんです。それが何故かを考える必要があります。甘えです。ゆえに、厳しくいくべきなんです。ともあれ、東西は、ここではもう絡みません。

 愚樵さん。彼をよろしくお願いいたします。東西も彼の動向を見守っています。
 

愚樵さんへ

水葉さんの件について

水葉さんの言動は、被害者遺族に同情する人に向けての言葉じゃない。まるで「死刑を容認する人は、お金のために死刑を認めている」とでも言わんばかりのコメントでした。しかも「そのようの思えて仕方がない」とまで、自分の気持ちにいささかも疑問を感じていない。これだとさすがに侮辱された気分になります。
対話をするというのであれば、もう少し言葉を選んで欲しいところだ、ということですね。

東西南北については、知識なんてゼロですよ。間違った知識は満載ですけど、話にならない。しかも、自分の考えに合致しない態度や発言を「非人間的」「非民主的」と断じて、かつ、このブログでは、間違った論や持説の根拠を明示しないにも関わらず上から目線ですからね。勘違いや思い上がりも甚だしいの限度を超えています。それに対する反応です。


本当にすみませんでした。
私のスタンスとしては、理想と知識が合致しない方に対しては「こうしたらいいんじゃないだろうか?」というものです。このスタンスは、私の思想と反対側についても同じですが、これは、たとえ思想が反対であっても、気持ちを理解しようとしている、ということです。
もちろん、私が知識がないときはロムに徹するか、あるいはお聞きしたりします。

ただ、布引洋や東西南北のような、誤った知識で相手を批判・非難する輩を排除しないと、まともな議論はできません。

敗北を認めよ

>あなたが死刑執行反対の立場から、「被害者感情を踏まえろ」と涙を流し主張するなら東西も十分に理解できるし、共感するのです。ところが、あなたは、死刑執行賛成の立場から「被害者感情をふまえろ」と主張する。まったく人間として卑劣です。ちがいますか?

それは君の主観的な感想でしかありません。従って「違います」という答えしかこの世に存在しません。

>まさに、あなたは裁判制度を否定する挑戦をしているんですよ?わかるでしょう。

わかりません。裁判制度を否定している?何をバカなことを言っているのでしょうか?「死刑の判決を求めている」のであって、裁判制度に乗った上での話です。もちろん、必ず死刑になるわけではないですし、判決が下ればそれに従うわけですけど。

>被害者遺族が裁判制度という公的な絆を否定してまでも、惨殺された被害者との異常な絆を生きる原動力にして、

『惨殺された被害者との異常な絆』って、具体的に何のことですか?しかも「異常な」という評価を下すならば、「正常な」というものがあるのでしょうから、それを示してもらえますか?ちゃんと目視できる証拠を示して。示せないなら発言を撤回して自分の誤りを認めること。

>虐げられた日本人民がもう一度、日本国で暴力革命、人民裁判で為政者を死刑する事態をも容認、追認するのがあなたの態度ですよ。ちがいますか?戦争犯罪者を人民が死刑執行することと同じ態度です。

さっぱり意味がわかりません。

>仮釈放なしの無期懲役刑を導入すれば社会の安全は保障できるのです。死刑は単なる憎悪の哲学の現実化にすぎない。

だから何ですか?私は別に死刑制度を廃止しても「可」ですけど。ただ、死刑制度を何がなんでも廃止しろとまで思わないだけであり、また、死刑を求める被害者遺族に同情しているだけですが。

“絆”を失ったわくわく44さんへ。

 逆説的だが、「私」が死刑制度の存続を望み「かけがえのない者」を奪った加害者の処刑を望んでいることは、たとえ一時的であれ、「私」と社会との絆が「私」のなかに存続していると見ることもできる。もし、「私」が「かけがえのない者」を亡くしたことで社会との“絆”を完全に喪失してしまったとするならば、「私」が社会に対して死刑制度を望むこともないだろう。加害者をこの世から抹殺することが「私」の辛うじての存在理由であり、なおかつ社会に何のつながりも感じないのならば、「私」は社会からどのような処罰を科されることになろうとも、自分の手で加害者を抹殺することを選択するだろう。その選択をしない分だけ、まだ「私」は社会との絆を感じているとも言える。異常としかいいようのない“絆”のあり方だけれども、それが“絆”であることには変わりはない。死刑が廃止された社会では、「私」はそうした異常な“絆”でさえは社会と結ぶことができない。

 死刑廃止論者が考えるべきは、“絆”を失った人といかに向き合うか、という問題であろう。死刑廃止がどれほど理論体系的に整ったものであろうとも、その「制度」との“絆”を持つことができなければ、「私」にとって「制度」は何の意味もない。むしろ、邪魔であるとすら言える。もはや、死刑廃止論の論理的完成度の高さを云々している局面ではなかろう。

 だが、やっかいなことに、一度悲劇的な形で“絆”を失った人は、容易なことで再び正常な“絆”を取り結ぼうとは希望しない。いかに周囲が正常な“絆”を求めても、本人がその気にならなればどうしようもない。だから、社会が「私」の希望に沿って加害者をこの世から抹殺する死刑は、もっとも効果的な遺族感情の慰撫方法といえるのである。たとえ異常であってもそこにはまだ“絆”がある。“絆”があって初めて、異常な状態を正常に戻す可能性も出てくる。

 死刑廃止論者は、この“絆”の難問と対峙しなければならない。

 東西はわくわく44さんが公的な裁判制度と国家社会制度の正常な枠組みのなかで、その社会性、人間性を取り戻すことを願い、見守っています。

 ただし、あなたの甘えた態度には厳しくいきます。
 

敗北を認めよ

私が君に出した宿題は「正常な絆って何?」ということと「それが正常であるという具体的かつ明確な、目視できる証拠を出せ」ということであったはずだが。
それに対して、またしても君は、君の主観100%のものを出してきた。従って、すべて却下。

>東西はわくわく44さんが公的な裁判制度と国家社会制度の正常な枠組みのなかで、その社会性、人間性を取り戻すことを願い、見守っています。

私は、社会性も人間性も、微塵も失ってはいませんので。そのような不当なコメントは即撤回するように命じます。

>ただし、あなたの甘えた態度には厳しくいきます。

私は甘えておりませんので、君ごときが厳しい態度で臨む必要は微塵もございません。
だいたい、甘えきっている君ごときが、他人に対してそんなことを言う資格も権利もありません。発言を撤回し、猛省し、思想信条及び態度を改めるよう命じます。

なお、これに関する一切の抗弁権及び抵抗権は、東西南北氏には存在しませんので、無条件で行え。(激怒)

管理人様へ

またまた東西南北氏とやりあって、大変申し訳ありません。
このようなことがないよう、東西南北氏については、厳重注意をお願いいたします。

なお、別エントリーの記事は、大変興味深いですし、考えさせられるところもありますので、気軽にいきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

お願い

おはようございます。

TBさせていただいたのですが、何故か文字化けしてしまいました。目障りだと思いますので、そちらで削除して下されば幸いです。御手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

スタイルなんてすぐには改まらないもんだけど(苦笑)

まあ、わくわくさんはどうにも自意識過剰なようで。

水葉さんのコメントは、おそらくは法務省あたりの行政組織に想定したものなんだと私は想像します。遺族への共感から死刑を望んでいる一般の存続派ではなくて。そう考えれば彼女の思考のベクトルも理解できると思うのですが、どうですか? 

私はそれを確かめるために、対話をしたいんですよ、わくわくさん。でもね、あなたが高圧的な態度で意見を述べると、相手は出てこなくなるわけ。たとえ水葉さんが私と対話をしたいと望んでも、そこに対話不能なあなたが絡んでくると思うと躊躇する。それが大多数の人間の反応なんですよ。東西さんは例外的な方なんですよ。

だからね、管理人たる私のところに抗議が来るわけです。わくわくを排除しろ、とね。対話が妨げられる、とね。いまのところ、私はあなたの弁護に廻っていますけど、いつまでもそれは続けることもできない。お分かりいただけますか?

だいたいですね、自分の態度が相手にどのような心理的インパクトを与えるか、そこに考えが及ばない人間がいくら他人の感情を弁護するようなことを言ったって、信用ないわけです。言葉はいくらも繕えますが、態度はそうはいきません。たとえ文字情報のみのやり取りであっても、そうした態度は滲み出るものです。

許せない、なんて感情を爆発させるのは、それが自分に向けられていると思うからでしょう? 自意識過剰というより、被害妄想気味? 

冷静な議論を為そうとする者には、たとえ自分に向けられた批判であっても、それを自分から切り離して対応する資質が必要です。残念ながら、あなたはその資質に欠けるようですね。

わくわくさんが豊富な知識をお持ちのことを私は理解していますが、残念ながらその知識が正しいかどうか、判定するだけのものは私にはない。それは東西さんについても同じ。だから私が重視するのはその人が信用に値するかどうか。これは私に限らず、大多数の人間がそうだと思いますよ。人間が信用できなければ、その人が持つ知識も信用されない。本来は信用と知識は別物なんですけどね。知識を判定する知識がない以上、仕方がない。あなたはその信用を失う行為を延々と続けているわけです。

いずれにせよ、ぼちぼち私も決断をしなければならない時期にさしかかってきたように思います。その決断はしたくないのでいままで引き伸ばしていたのですがね。

この決断にはコメント承認制とアクセス拒否の二種類があります。常に管理ができるのならコメント承認制がよいのですが、私自身の都合上管理が行き届かないことも多々あるし、またブログごときに縛られたくないので、こちらの選択はなし。となる残る選択はアクセス拒否になってしまうのですが...。

でも、いきなりのこの強硬措置にも気が引けますので、その選択権はわくわくさんに委ねることにしましょう。私のエントリーに対するコメントは認めますが、他の方のコメントへのコメントは控えるようにしてください。どうしても書きたければ、ご自分のブログにて当該コメントを指摘の上、主張なさってTBなさってください。わくわくさんのコメントへコメントがあった場合、それへの返答は認めます。
もし、他の方へのコメントへわくわくさんがコメントなさった場合、その内容如何に問わずそのコメントは削除しますし、それが続くようでしたらアクセス拒否の措置もやむをえないと考えます。

DHさん

了解いたしました。

DHさんからのTBアドレス
http://blog.auone.jp/minzda/?disp=entd_p&EP=21613267

愚樵さんへ

長々と言うのも何ですので、ひとことだけ申し述べます。

『ガリレオの悲劇を学べ』

私を排除しろ、私を信用できないと思う人には、この言葉を差し上げます。

凡人の思い

済みません。私は何回も読んで感じたこと市かわかりませんが。人間は生きる義務がある。生命力の低下。被害者遺族にとって、加害者が遺族の望みどうり死刑になったとしても、自分が生きることに関してプラスにハならないでは?。むしろ加害者が死刑執行された後被害者遺族の心に残るものは何なのだろうかなというところが気になります。最近死刑判決をすぐ出すことに疑問を感じてます。ただし私は被害者遺族の立場に立ったことが無いので、被害者遺族の方にいうこともありませんが。山口県の妻子殺人事件の木村氏の現在の心のうちはどんな変化があるのかと気になります。それと死刑制度を国とか役人に簡単に利用されたくもありません。水葉様のおっしゃるとうりだと思いますが、わくわく44様の考え方をする人が多いのです。ただしわくわく様も被害者遺族の経験はないと思います。

わくわくさん

ガリレオの悲劇を学べ、ですと?

わはは、あなたらしい言い方ですね。
ま、けれど、これだけは指摘しておきましょう。

もしガリレオの悲劇も対話がなかったならば悲劇でもなんでもない。悲劇として認知されるどころか、愚かな異端者の戯言して記録されるに過ぎないのが関の山だったでしょう。

*****

農婦さん

わくわくさんのように考える人が多いというのは、理解しているつもりです。そうした考えがまた、善意から出てくるものであることも。
しかし、ご指摘のとおり、いくら善意から出た遺族への同情、共感であろうとも、それは遺族そのものの悲嘆ではない。遺族の悲嘆は共有できません。理由は、奪われた「かけがえのない者」は遺族にとってはそうであっても、その他の者にはそうでないからです。

遺族の悲嘆を共有することはできない。ここをよく注視する必要があると考えます。

一つだけ

人間は未完成であるとすると、何をもって「完成」と見なすのか?

ここは、明確に示すべきかと思います。

「より悪くない」人間というのはいるかもしれませんが、完成品としての人間はどうしても聖人君子を想定することになる気がします。

確かに、死刑には論理的必然性はありませんね。あとは、廃止に踏み切った国で残酷または非道な犯罪がどう増減したかですね。

どんな悪者でも、コストの問題で生命を論じるべきでないとは思っていますが…。

農婦さんへ

確かに私は被害者遺族の経験はありません。
「もし、私が被害者遺族なら」というオーバーラップをしているだけだとは認識しているつもりです。
もちろん、私も「何が何でも死刑にしろ」という考えではありません。死刑廃止そのものに反対というわけでもありませんから、死刑廃止論そのものを否定する気も批判する気もまったくないのです。

死刑制度の問題については、加害者への処罰のあり方と同時に、被害者遺族の救済というアプローチもなければならない、ということですね。
もちろん、物理的な面や理論的な面では、加害者に死刑を執行しても・・・というのはわかります。しかしながら、被害者遺族の救済「死刑を望む」という方々にとっては、理論的や物理的な面だけで救済が図れるわけではないというのもまた事実であり、これとどう向き合うのか、ということに取り組むことを避けて、単に「死刑は非人道的である」とか「死刑は国家による殺人」とか、そういうの「だけ」で述べるのはどうかな、ということです。

非常に難しい話ですし、これはおそらく解決しないことかも知れません。ただ、死刑廃止に同調するならば、この側面をきちんと理解し、死刑を望む被害者遺族の非難を真正面から受容するだけの覚悟を持て、ということです。これはリスクを背負えというのではなく、『完全な解決などありえない』という前提で、「それでも最大公約数を求めていく」ということを認識して欲しいということでもあります。
私はまだその覚悟ができていないのかも知れませんね。

利益保護のために

ガリレオが「悲劇」として認識されたのは、「対話」以前に「ガリレオの論が真実であり、ガリレオを排除していた人の思想が間違っていた」ということが、理論的に明らかになったからです。
従って、それが認識されるまでは「愚かな異端者」として扱われたわけです。

私も、もし、排除されることになれば、それと同じ状態になります。

びっくり。(@_@)

えらいことになってますねぇ。
でも、途中で読むのを断念しました。すぐ喧嘩腰になる人ってキライ。ねちっこい男もキライ。

>死刑という刑罰は遺族という「個」の生命力を高めることには貢献しても、日本人全体としての生命力を高める方向には作用しない、と思っています。

後半については共感しますが、前半は私も「そうか~?」と思います。
遺族の生命力が高まるのは、死刑が執行される「まで」ではないでしょうか。

私の発言は、愚樵さんご指摘の通り「法務省あたりの行政組織に想定したもの」です。でも、イラク人質事件の時の「帰国費用を払え」バッシングを思い出すのも事実です。

わくわくさんへのお返事としてTBを送らせていただきます。多忙につき、申し訳ありませんが、これ以上のお返事はできかねますのでご了承ください。私のブログにコメントを頂いても同様です。

殺人なんて悪いことをしたヤツが生き延びるのは許せない、と思うなら、死刑囚の待遇もお調べになったらいかがでしょうか。服役囚よりもずいぶん恵まれた生活をしているようですよ。私が死刑に反対なのは「死刑など生ぬるい」それが最大の理由です。

TBです。

水葉さんへ

>殺人なんて悪いことをしたヤツが生き延びるのは許せない、と思うなら、死刑囚の待遇もお調べになったらいかがでしょうか。服役囚よりもずいぶん恵まれた生活をしているようですよ。私が死刑に反対なのは「死刑など生ぬるい」それが最大の理由です。

死刑囚の待遇がどうとか、死刑が厳しいか生ぬるいか、という話じゃなくて、私が水葉さんを批判したのは、「死刑存置の意見に対する態度」ですよ。死刑制度の存廃そのものをどうこう言っているわけじゃないんですけどね。
こういう反論をしてくることが、死刑廃止論者の『論の弱さ』だということに、早く気づいてもらいたいと思います。

わはは、面白い人ですねぇ

死刑制度の存廃そのものをどうこう言わなきゃ始まらない話でしょうが。

こういう反論をしてくることが、「あなた」の『論の弱さ』だということに、早く気づいてもらいたいと思います。笑

しばらくネット環境から離れますので、これで本当にさようならです~。ごきげんよう。^^

わかっています?

水葉さん。

『「再び正常な“絆”を取り結ぼうとは希望しない」人が回復するための時間と専門家の支援、それを支える「お金」が。その「支出」を押さえるための死刑存置だと私には思えて仕方がないのです。』

私があなたに怒りを感じたのは、このあなたの表現ですよ?それをわかっているんですか?

『感情的に死刑を望むが制度としてはダメ』という人もいます。
『いや、制度としても死刑は残すべきだ』という人もいます。
『死刑を望むこと自体、人間として恥ずかしい』という人もいるでしょう。
また、それ以外の考えを持つ人もいます。
それをあなたは、「死刑を望むのはカネのためだ。死刑で終わらせればカネがかからない。だから死刑を残すべきだと言っているのだ。私はそれ以外思いつかない。」と言うようなことを述べているのです。
それが、死刑の存廃のジレンマに悩んだ上で消極的に死刑制度に賛成している人や、被害者遺族に同情を寄せる意味で死刑を望んでいるだけの人をどれほど侮辱しているのか、それをわかっているんですか?

あなたは、死刑存置論が何ゆえに死刑存置なのか、それをわかろうともしていない。その時点で、水葉さんが唱える死刑廃止論はすべて無効です。今度という今度は、本当に激怒しました。

根本的な認識に瑕疵がある。

原則論から言えば、刑事法が被害者感情を考慮する必要などない。何故なら、刑事法は被害者を当事者とはしていないからである。
刑事法の当事者は公権力と被疑者・被告人である。
刑罰とは、公共治安の動揺を回復させるため、あるいは犯人の再犯防止のための所作であり、その目的達成の為に妥当な範囲内で、最低限度の法益侵害を選択しなければならない。
被害者が自身の感情を慰撫したいのであれば、自身の意思と責任において訴訟を提起し、何らかの成果を得ればよい。
死刑とは、その選択を奪うことであり、その意味からも不当である。

被害者が犯罪行為によって絆を失い、それを何らかの形で修復するの必要があるというならば、それを行うべきは公権力ではなくて被害者自身である。その際、被害者(既に新たな行為者であるが)が法の範囲を踏み越えて何らかの行為を行うことは、当然許されない。
これは被害者の切捨てではない。正当な権利を行使せよと要求しているのだ。公権力に自身の感情を委託するのは、権利の放棄にも等しい。

解決にならない

sutehunさんへ

理論的には間違いは特に見当たらない本文若干、「法が機能する」という観点が欠けているため、指摘しておく。

>被害者が自身の感情を慰撫したいのであれば、自身の意思と責任において訴訟を提起し、何らかの成果を得ればよい。
>これは被害者の切捨てではない。正当な権利を行使せよと要求しているのだ。

訴訟を行えるかどうかは、被害者遺族の精神力に関わる話である。無論、理論的には、そうした感情を配慮する必要はなく、また、「法理論からすれば、被害者切捨てではない」といえるわけだが、「生命」という「最大の絆」を失った被害者遺族に対して、実際問題として、それだけの精神力を要求するのは、場合によっては、「実際上は、被害者切捨てとなりかねない」のである。
こうなると、「法への信頼」という「法の支配を実効ならしめるもの」が欠如する怖れがあり、法が法でなくなるリスクが発生する。法治国家を法治国家として機能させるには、純粋に法理論だけを展開すればよいというものではない。貴殿の発言は、その点に瑕疵があると指摘せざるを得ない。


>公権力に自身の感情を委託するのは、権利の放棄にも等しい。

これは一方からはその通りであるが、別の観点からすれば「適切な発言とはいえない」のである。
『権利』は、行使でき、保護されて、はじめて『権利として意味を成す』ものである。
つまり、国民は、自己の権利を行使し、その行使に関する身体的保護や財産的保護を保証されなければ、実質的に権利を有するという状態とは言い切れないのである。
憲法は、基本的には私人間には効力を有するものではないが、場合によって私人間効力を有するのは、まさに『権利の享有に実効性を持たせる』ためである。
そして、『権利の行使』は「感情」に依拠することを全面的に肯定してはいないが、否定もしていない。

以上のことから、公権力に自身の感情を委託するのは、権利の放棄ではなく、むしろ権利の保護として考えるべきケースもあり、貴殿の発言のように断言することはできないのである。

これは法理論ではない。

なぜなら、私は論理的な主張を行おうと勤めてはいるが、少なくとも主観的にはどのような理論も展開していないからである。
これはどちらかといえば、政治哲学である。
断り終了。
以下本文。

イエス。
動揺した治安への信頼を回復させることが刑事手続きの機能であることを考えれば、権利の代行もまた、目的達成のための有効な手段である。

唯一つ。
>公権力に自身の感情を委託するのは、権利の放棄ではなく、むしろ権利の保護として考えるべきケースもあり

これを死刑存知の根拠と据えること。ここに、許しがたい飛躍がある。処罰を望むことと、死を望むこととは違う。遺族の悲嘆が余りに深いからこそ、死は他をもって代え難い選択ではない。遺族は誰もが、『他の方法だってあっただろうに、なぜ命を奪ったのか』と言うのだ。この悲嘆を、刑死者の遺族のみに飲み込めという非道な主張は、私にはできない。
自身の感情を委託した結果が、被告人の死であってはならない。それは『法への信頼』を崩壊させかねない。
近代民主国家において法が殺人を禁じる以上、その法の下で殺人を肯定する論理は導かれないからである。
何らかの理由によって殺人を是とすれば、この問題はたんなる『理由』の程度問題に堕ちてしまう。幸いにして現状の社会においては、共通認識として殺人行為の正当性は概ね否定されているが、これがいつ崩れるとも限らない。
『被殺害者にはその行為を肯定させるに充分な理由が存在した』という行為者の主張を許さないため、どのような理由においても殺人は肯定するべきではなく、そしてその行為様態において、死刑は紛れもない殺人行為である。

追記:解決しないのは当然である。感情に軸足を置く以上、解決は得られない。私の経験的知見でしかないが、感情が求めるのは自身の昇華である。

それは苦しいと思う

>>公権力に自身の感情を委託するのは、権利の放棄ではなく、むしろ権利の保護として考えるべきケースもあり
>これを死刑存知の根拠と据えること。ここに、許しがたい飛躍がある。処罰を望むことと、死を望むこととは違う。

『許しがたい』というのは、あくまでも貴殿の「価値観」であって、死を望む望まないという「感情」についてどちらが「正しい」かを判断する根拠はない。
また、私の発言内容を理由に死刑を存置したいという人はいるが、私自身は被害者遺族の心情を理由に刑罰を設定することには懐疑的である。(もっとも、それを本当にしていいかどうかという「判断」となると、苦慮するわけだが。)

>遺族の悲嘆が余りに深いからこそ、死は他をもって代え難い選択ではない。遺族は誰もが、『他の方法だってあっただろうに、なぜ命を奪ったのか』と言うのだ。この悲嘆を、刑死者の遺族のみに飲み込めという非道な主張は、私にはできない。
>自身の感情を委託した結果が、被告人の死であってはならない。それは『法への信頼』を崩壊させかねない。

これも貴殿の「個人的価値観」の領域を超えるものではない。物理的な存在の有無は目視できる「証拠」があるために、二者択一は容易に行いうるわけだが、死刑制度のような「コンセンサスによって醸成されたもの」は、「あるべきだ」「あってはならない」の選択において、いずれか一方が絶対的に正しく、他の一方が絶対的に否認されることはない。

>近代民主国家において法が殺人を禁じる以上、その法の下で殺人を肯定する論理は導かれないからである。

そんなことはない。
「人権は、多数決をもってしても制限されない」というのもまた「概念」であり「コンセンサスによって醸成されたもの」である。社会は人々の動きや営みによって成立している以上、物理的な存在の有無ならばともかく、「論理を導き出せない」ということはない。無論、その論理自身が説得力を持つか持たないかは別の話である。

>何らかの理由によって殺人を是とすれば、この問題はたんなる『理由』の程度問題に堕ちてしまう。幸いにして現状の社会においては、共通認識として殺人行為の正当性は概ね否定されているが、これがいつ崩れるとも限らない。

思想教育の重要性は、まさにそこにある。
概念や法が機能しているのは、まさに『共通認識』によってなされていることであり、殺人の正当性を否認されているのもまた「共通認識」以外に成立する要素がない、極めて脆い土台の上に成立しているのが現実である。
そうである以上、常に「殺人は、人々から正当化を認められないものである」という『教育』を必要とする。

>『被殺害者にはその行為を肯定させるに充分な理由が存在した』という行為者の主張を許さないため、どのような理由においても殺人は肯定するべきではなく、そしてその行為様態において、死刑は紛れもない殺人行為である。

これはおかしい。
問答無用で一方的に殺害するならば、確かにその論は成立する。しかし、刑罰は、死刑に限らず、行為実行者の実行の正当性の有無を判断してから行うという「担保」がなされているのであって、刑の執行の前に行為の正当性を主張する機会はある。
もっとも、それが十分といえる状況かどうかは、これも「価値観」に左右される世界なので、私は断定はしない。

>解決しないのは当然である。感情に軸足を置く以上、解決は得られない。私の経験的知見でしかないが、感情が求めるのは自身の昇華である。

1.どのような状態を「昇華」というのか、それも極めて曖昧である以上、目標設定としては否定しえないのは事実だが、実際問題としてそれを唱えるのは、被害者遺族に対しては「傲慢」と見えても致し方ないところであろう。
2.解決ができないことが問題なのではない。解決できないが、解決に向けて努力するという姿勢が重要なのだと私は思う。

sutehunさんへ。

 死刑が執行になって人命が世界から消える。人殺しによって消される。この事実が「主観」「価値観」と断じる人との合意形成は、ほとんど不可能ですよ。極めて悪質です。

 人が生きていること自体が主観的であり、価値観があるから生きているという人は完全に暴力主義です。人が生きていること自体が客観的であり、主観的な評価に関係なく生きているというのが事実、客観ですから。これを尊重することが科学なんですが、主観100パーセントの人は主観によって人を殺すことを正当化するし、主観によって人を生かすことを正当化する。まさに、主観によって人命を殺したり、死なしたりするんです。狂ってますね。

困りました。

あきれ果てたので、その態度の不誠実さを断じてから消えるつもりだったのですが、どうやら私よりもお怒りな方がいらっしゃるご様子。
とりあえず、その怒りに感謝の意を表してから消えることにします。
ありがとうございました。

ブログ主様。閲覧者の方々。
不毛な応酬を繰り広げてしまい、まことに申し訳ありません。
深くお詫び申し上げます。
では。

困る必要はない

私はsutehunさんの論を全否定しているわけではないことにお気づきだろうか?
なぜ全否定していないのかといえば、「それも成立している」からである。ただし、それと異なるものも成立しているのであって、それゆえに、全面的に肯定をしないだけである。

日本国憲法が日本国の最高法規であるのも、日本国憲法が日本国の最高法規であるという『位置づけがなされた、認知されている』からであって、それ以外に根拠はない。
どんなに理想的な条文であっても、それが「最高法規として位置せず、認知されていない」のであれば、『最高法規』として機能もしないただの文字の羅列でしかない。

sutehunさんの論は、上記の私のコメントを前提として述べられなければ、ただの自己中心的な主観の羅列にしかならなくなってしまう。
ゆえに、私の態度が不誠実と断じるだけの根拠もなく、また、「あきれ果てる」時点で、もはや『いくら理想的な論であっても、実際に機能することがない論でしかない』ことも承知しておいた方がよろしかろう。

sutehunさんは、論そのものよりも、持論の正反対の論とどう向き合い、どう融和していくのか、ということに注力なさった方が、より持論を豊かにしてくれるものと私は思う。

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