愚慫空論

「無」より生まれて「無」に帰すのでないなら

「有」は「無」からは生まれない。宇宙開闢のときは知らないが、何もないところから何かが生まれたりはしない。これが私達の世界の法則。物理の法則である。

私たちヒトは物理の法則に束縛されて生きているけれども、一方で、物理の法則から自由な世界も持ち合わせている。こころ、心、精神と呼ばれているものが、それ。この世界はヒトそれぞれの中に個別に存在して、私たちは、物理の法則の制約と心の自由の狭間で暮らしている。そして、心が個別にあるということが、私たちの社会を複雑怪奇なものにしている。

私たちは、心の世界が物理の世界とは別に存在していると感じている。では、この心はどこから生まれたのか? 何もない「無」から生まれたのか? そして、「無」に帰していくのか?



私たちは、私たち自身が「無」から生まれてきたわけではないことを知っている。両親から生まれてきたことを知っている。「有」から生まれたことを知っている。物理の世界の身体だけの話ではない。身体とは別個の私たちの心もまた、何ものから生まれでてきたことを知っている。いや、心のほうは“知っている”のではなく“感じている”としたほうが正しいか。私自身、この感じは年々歳をとるごとに深まっていくような気がしている。

万事科学的に物事を考える人は、こうした感じを錯覚に過ぎないというかもしれない。確かに、この物言いに確証をもって反論することはできない。が、だからといってこの物言いが腑に落ちることもない。科学はいまだ、“心とは何か”“心はどこから生まれてくるのか”という問い対して、科学的な形式に則った答えを用意できていないからだ。科学的にいうなら、心は“「無」から生まれて「無」に帰す”としか言いようがない。

物理の世界では、質量のないエネルギーが質量のあるモノ(私たちの実感としてのモノ)に変換する事実が確認されている。モノはどこから生まれてくるのかが解明されている。
生命の世界では、生命がいつどこでどのように生まれたかはわからないものの、生命は生命から生まれる、「有」から生まれることは確認されている。私たちがどれほど生命の仕組みを解明しようとも、生命を生命たらしめる「有」は作り出すことはできないのだ。

では、心の世界は? 私たち人間が一人一人宿している心は、どこから生まれたのか? 高度に発達したヒトの身体に付随する特性のひとつに過ぎないのか? 私たちの心の自由意志は、文明を築き、文化を発達させ、蓄積した知識は私たちの身体そのものにまでおよび、いまやその身体まで改造してしまおうという域にまで達している。また、私たちの周囲に目を向けると、私たちの生存条件を整えている環境をすら改変してしまうほどに、私たちの自由意志から発した文明の存在は大きなものになってしまっている。この事実からすれば、私たちの心、自由意志が身体に付属する属性に過ぎないとは、とても言えない。身体とは別個に存在しているとしか、言いようがない。

私たちの心は、錯覚ではない。何ものからか生まれてきた「有」である。私たちはモノの特性を解明し、その特性を上手く組み合わせて様々に新しいモノを創造する。たとえば、今、私の目の前にあるコンピュータ。このモノは、人間に替わって実に多様な思考を代行してくれるが、これとて「無」から生まれたわけではない。人間がこのモノに「有」を込めたから、このモノはうまく動作するのである。心も同じではないのか? 何か「有」が込められているから、身体とは別個に動作するのではないのか?

さらに、この「有」は誰が込めたのか? といったような問いも発することはできる。発すれば、創造神といったような答えも返ってこようが、その方面への深入りはよそう。


私たちは死を恐れる。それは、死が「無」であるように感じられるからだろう。生から死への道は一方通行だから、「有」である生の先の死が「無」なのか「有」なのかは、本当のところはわからない。わからないから「無」だと感じ、恐れる。けれど、よくよく考えてみれば、“わからないものを「無」と感じる”ことこそが、心の特性ではないのか? その特性が生み出したものが科学ではないのか? 

私は思うに、人間の心には“わからないものを「無」”と感じる特性のほかに、別の特性もある。それは“わからなくても「有」を感じることができる”特性だ。この特性からすれば、死もまた「有」である。霊とか魂とかいうと胡散臭く感じる人も多かろうが、これは生の後の死の時にも引き継がれる「有」の形に名前をつけたものに過ぎないのではないだろうか?


人間に限らず生あるものが死を迎えると、身体は朽ちて行く。その朽ち方はモノの特性に従い、肉質の部分のように早く朽ちるものもあれば骨質の部分のように比較的長く形を保つものもある。ひょっとしたら、心もまた同じようなものかもしれない。すぐに朽ちて行く部分と長く残る部分があり、その長く残る部分を霊とか魂とかと呼んだ。そうした霊や魂もやがては朽ちて行く。骨もいずれは朽ちて行くように。この死生観は日本人の古来からの死生観であるばかりでなく、一神教世界以外では普遍的に見られるものだろう。

朽ちて行くとはいっても、それは「無」になることではない。自然という大きな「有」に帰って行くことである。これはモノであっても心であっても同じなのではあるまいか。私たちは「有」から生まれ「有」に帰って行く。今、ここにいる私たちもまた「有」である。

私たちの今の「有」をよく感じることが、私たちが生まれたきた「有」、私たちが帰って行く「有」を感じていくことにつながる。歳とともに、そのよう感じることになってきた自分を自覚している。

コメント

無にして有

哲学的な話になりましたね。私が「今のところ一応」の結論にしているのは、次のようなことです。
 心とは精神作用の一部だろう。基礎になるのは脳細胞の電気信号。心はいろいろな判断をして、自分というものの存在を疑ったりするような、高度な芸当も演じることができる。だが脳細胞がすべて死滅すると、消滅せざるをえない。ただし脳が考えたことは、書いた本や、残した仕事や、接した人の記憶として残っている。だから形は変っても不滅とも言える。それを霊魂と呼ぶ人もいる。……常識的で、低俗ですね。

このエントリーを書く動機になったのは

志村さん、こんにちは。

このエントリーを書くきっかけになったのは、志村さんの記事です。「自死という生き方」のシリーズを拝見して触発され、自分の感じるところを文章に乗せてみようと思ったんです。

死が楽しみだね

こんばんは。
長くなるのTBにて、と思ったのですが、相変わらずTBが通りません。コメント欄にて失礼。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200803/article_5.html

光明と無明

わたしにとって『こころ』は、光明と無明の織り成すもうひとつの世界、物質界と互いに影響しあう『眼に見えない世界』の一部と感じられます。
その世界のわたしの意識・認知が届く範囲が『光明』、その先の見えない世界、通常は知覚不能な世界が『無明』で、その境界線は刻々移っていきます。
わたしの意識は言葉を紡ぐことで、無明に光を当てようとするのですが、その『言葉』がまた新たな無明を生み出していく…。生み出された言葉はそれ自体が、この『見えない世界』を変容させる力を有するからです。それが『言霊』です。
無とか有とかは良くわかりません。すべてが無であり、すべてが有であるようにも感じます。
すみません。ちょっとエントリーと話がずれていますね。

naokoさん

>わたしの意識は言葉を紡ぐことで、無明に光を当てようとするのですが、その『言葉』がまた新たな無明を生み出していく…

この感覚、よくわかる気がします。ただ、私がイメージしている『言葉』は少し違うかな。『言葉』は私のイメージでは“切り取るもの”なんです。意識の向こう側の世界から何かを切り取って、手繰り寄せてくるもの。でも、すべてを切り取り手繰り寄せることはできなし、切り取り方もひとそれぞれ。で、切り取る対象が「有」。いくら切り取っても切り取り尽くせない「有」。そんなイメージですかね。

おもしろいエントリーです

なるほどなぁ、って感じますね。
「私たちは、どこから来て、どこへ向かうのだろうか」という感じで考えていましたが、そういう考えもありますね。しかも、今現在を見つめただけでも、ということで。

愚樵さんの考えをお借りすれば、「運命」というのも同じようなものなのかな、って思ったりもします。
そうなると、別エントリーで話をしていた「虚構」というのも、その「虚構」が「機能する」ということもうなずける。

おそらく「無」と「有」とは、違うもののようで同じもので、でも違うもの、という不思議な何かなのでしょうか。
それを探っていくのが「科学」であり「宗教」であり、そして「人間」というのであれば、まだまだ学ぶべきものは多いでしょうし、もしかしたら、私たちが知っていることなど、1%もないのかも知れませんね。

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