FC2ブログ

愚慫空論

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

絶望的な希望

なんだか不穏で矛盾したタイトルですが...(-_-)

この記事は、『ばっちゃん ~子どもたちが立ち直る居場所~』 からの続きです。
そんでもって、とりあえず、最後の記事。




先の記事で敢えて伏せたところ。

『こんなに大変で、感謝されない事もあるのに、なぜ続けられるのですか?』
『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

取材している時に一番衝撃を受けた言葉を、番組のラストコメントにしました。



『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

この言葉をラストコメントにしたということについて、ちょっとした敬意を抱いています。
もちろん、この言葉を発したばっちゃんには大きな敬意を抱きますが、ラストコメントというかたちで番組にしたディレクターにも。

こういった言葉は、おそらくカメラを向けられていてはでない言葉だと思います。

幾度も投げかけた問いでしょう。
でも、ばっちゃんも上手く答えられなかったに違いない。
そういうものです。
この言葉は、ばっちゃんの生き方の「特徴値」がシニフィアンを獲得したもの。
信頼関係が醸成されないと出てこないであろう言葉。

その言葉に衝撃を受けたなら、カメラを向けて、今の言葉をもう一度、ということは出来たはずです。
それがテレビといったようなメディアに携る者の習性だろうと思う。
でも、そうではなくて、「ラストコメント」だった。

あるいは、そうお願いをしたけれど、ばっちゃんは承諾をしてくれなかったのかもしれません。
実際はわからないけれど、この「かたち」になったことに敬意を覚えます。
言葉が生まれるということの微妙さを察知し、そこに敬意を払っているような気配を感じます。


  ***


以下は、ラストコメントで思い起こしたぼく自身の体験です。

以前にぼく自身の体験を長々と文章にしてみたことがありました。

 ⇒ 『自身の恨みに愉氣をする』

ここではいろいろとぶっちゃましたが、それでもまだ言葉にできず伏せていたことがあります。
それがばっちゃんの言葉と重なります。

『子どもから面と向かって「助けて」と言われたことがない人には分からないんじゃないの?』

もう子どもと呼べる年齢ではありませんでしたが、自分の親(であるはずの人)に向かって「助けて」と、一度だけ言葉に出してみたことがあります。

父親は「わかった」と答えてくれた。
継母はそっぽを向いた。

このときの光景は、今でもよくよく覚えています。

自殺を試みたことがあるんです。
今、生きているということは、まあ、そういうことですが...

自傷して病院に搬送されて、治療を受けて。
病院のベッドで夜を過ごしたのは、今のところ、これが唯一の経験です。

朝、目が覚めると、看護師さんから両親が来ていると伝えられた。
意外でした。
そんなもの捨てたというか、捨てられたと思っていたから。

警察から連絡があって、飛んできてくれたらしい。
そうやって久しぶりに対面して、出てきた言葉といえば、やっぱり「助けて」しかなかった。


継母の「そっぽ」は、すぐに顕著な症状になって表れました。

傷は幸い急所を逸れていました。
入院は一晩で棲みました。
それで、とりあえず親元に帰ることになった。
それしか選択肢はありませんでした。

親元で過ごしたのは、3日だけだったと記憶しています。
継母が「発症」したので。
ぼくたち兄弟が子どもだった頃と同じです。
それで、また、居場所がなくなった。


今から思えば、ぼくは幸運だったと思います。
自殺を試みてみて、死ぬのはバカバカしいと心底思えた後だったから。
そうでなかったら、また試みていたかもしれません。

仕方がない。
諦めました。
すぐに親の家からは出ることにした。

不動産屋に行って部屋を借りて。
家財道具は何もないので、レンタカーを借りて、運びに行くことにした。
当時は静岡の富士宮で暮らしていました。
現在、一緒に暮らしている女性と所帯らしきものを営んでいた。
大阪から富士宮まで、レンタカーで往復することにした。

父親は付いてきてくれると言ってくれましたが、断りました。
母親の面倒を見ておいてくれ、と。
そしてひとりで富士宮のアパートに行き、ひとりで引っ越しをした。
その日がちょうど2001年の9月11日。

家財道具を車に積み込みながら、テレビを見ていました。
テレビは最後に運び出すことにして、搬出作業の合間にテレビを見ていた。


そうやって大阪に落着いて、しばらくして家内を迎えに行きました。
ここにも一波乱あったのですが、記すのはまた別の機会にしましょう。


  ***


ぼくがその継母に復讐を始めたことは、記しました。

 ⇒ 『復讐を為す、つまらない【我】』

そういったことを始めてみて、少し自分の中に腑に落ちないことが出てきました。
僕はなぜ、父親が死ぬのを待っていたのか?
父親が死ぬのを待って、復讐を始めたのか?

別に復讐は父親の生存中でも良かった。
というより、父親の生存中にうまく話をしていれば、復讐などする必要はなかったかもしれない。

にもかかわらず、ぼくは待っていました。
余命宣告を受けたと聞いてから北海道へ行ったのですが、その間もずっと心の隅で「待っている」感覚はありました。
「待っている」と意識すらしていた。

その意識を今になってもずっと反芻しています。
明かなのは父親は赦しているけれど、継母は赦していないということ。
よくわからないのは、なぜ父親を赦すことができているのか、です。

論理で追いかければ、父親も同罪です。
むしろ父親の方が罪は重いかもしれない。

父親はその義務を果たしていなかった。
継母が果たさないということに、心ならずもでしょうが、同意をしていた。
この同意こそが、継母をして「発症」せしめたと思ってもいます。

でも、ぼくは父親を赦しています。
なぜか。

あのとき「わかった」という一言を発してくれたからか。
それとも、ぼくに自我が成立する以前から父親だったからか。

まだ確信には至っていません。
確信を得るには、まだもっと自分に潜ってみる必要がある。
だけど、なんとなくですが、感触はある。
おそらくは後者です。


  ***

後者であろうというのは推論ですが、その推論を裏付ける傍証もあります。



ゴーダマ・ブッダは、なにゆえ「一切皆苦」と言ったか。
なにゆえ「一切皆苦」と言わなければならなかったか。
この疑問と、自身の子を「ラーフラ(障害)」と名づけたこととは一致します。

記憶にない時期のことには、赦す赦さないの選択がもともとない

つまり、ぼくが継母に復讐を始めることができたのは、それが記憶のある時期から始まったことだから。
もし仮に、自我が成立し始める以前から継母に育てられていたとしたら、ぼくにはたぶん、復讐という選択はなかった。

ということは、逆接的ですが、ぼくはまだ幸運だったということです。
そして、もしそうでなかったとしたら、絶望的だということ。
ゴーダマ・ブッダのように一次的な感覚を含めて根底から「苦」だと思い為すところにまで至らないと、救われない。

人間とは、本当に絶望的に社会的な生き物です。


   ***

冒頭に紹介したNHKスペシャルのドキュメンタリーには、少年院に入ることになってしまった若者が登場します。

彼は、ばっちゃんを親だと言う。

悲しい言葉だと思います。
そう思わずにはいられないということが、とても悲しい。
彼にはおそらくですが、ぼくが幸運にもつかんだような選択肢はないのでしょう。

この心理を突き詰めていくと、一切皆苦へと行く。
ばっちゃんを親だと思い為すことは、一切皆苦へと行ってしまわないように抵抗しているのだと、ぼくには感じられます。
ばっちゃんが与えているのは、抵抗のための足がかり。


皮肉な見方をすれば、ばっちゃんの献身も、せいぜいが「足がかり」でしかない。
でも、見方を変えれば、「足がかり」さえれば、〔ヒト〕は抵抗することができる。
ぼくが後者の見方を採用したいのは、言うまでもありません。


現在の【人間】がどうしようもないのは、歴史的な積み重ねだとぼくは思っています。
ちょっとやそっとで、どうにかなるものではとてもない。
けれど、〔ヒト〕は抵抗を諦めたわけではない。
ひとりひとりを観れば、それぞれに「苦」に抵抗しているのだと感じます。
「苦」に抵抗することが悦びなんだろうと、とも。

絶望的なのは、その悦びすら「手がかり」「足がかり」が必要だということです。
【システム】は、それらを貨幣経済合理的なものへと変換することによってシステマチックに無力化して行っている。
そして大半の【人間】は【システム】に拠らなければ生きていけない。

いえいえ、本当は生きていくことはできます。
偉そうに言ってみますが、ぼくは【システム】に頼らないでいきていく方法を識っている。
ぼくだけではありません。
そんな人は、ぼくの他にもたくさんいます。

たとえば、こんなふうに暮らしている人たち。



選択肢で言えば、ぼくにはこういった選択肢もある。
このような場所で役に立つ知恵も技術も持っているという自信もある。
そんなふうに役に立って生きるのは〈しあわせ〉だろうとも思う。

でも、それでは、なぜか物足りない。
たぶん〔復讐〕が足りないでしょう。
【システム】への〔復讐〕です。

継母が醜い「発症」をしてしまうような適応を強いた【システム】。
父親が継母の「発症」に同意するような適応を強いた【システム】。



仮に〔復讐〕がうまく行ったとしても、その時に辿るであろう経過を想像すると、心地はよくありません。
それはどうしても「子の病」を顕在化させることになるでしょうから。



そして、その「病」の相当数が根治不能なもの。
「手がかり」「足がかり」があったとしても、せいぜい抵抗するくらいのことしかできないもの。
そうした抵抗が頻発する〔社会〕は、剣呑な場になるに違いない。

それはおそらく、多くの者にとっては迷惑なことでしょう。
人類といえども、どうせ、いずれは滅亡する。
ならば、できるだけ苦しむことがないように知恵を働かせて、優しく逝く方がよい。
こちらの生き方の方がずっと妥当なのかもしれません。

こうした考え方の妥当性は認めつつも、でも、ぼくはこの考え方を採用しません。
そういう考え方を採用するように〈いのち〉はできてないと感じるから。


  ***


今日は11月14日です。
ぼくが20代の頃は、この時期になるとソワソワしたものです。
冬山の季節が始まるから。

冬の山はサピエンスの生存を許すような環境ではありません。
そうした場所に敢えて赴く。
生還を前提とした自殺行為というと言語矛盾ですが、的外れではないとも思います。
別の言い方をすれば、あえて生存不可能な環境に身を晒すことで〈生〉を確認する行為。
そこには、そうせずにいられない個人的内的理由がある。
少なくとも、ぼくはそうでした。

そういう場で時間を過ごしたことが在る経験からいえば、優しく逝こうなどという考えには〔ヒト〕はならない。
方法はいくらでも考えることはできます。

たとえば雪洞を掘る。
外は吹雪で荒れ狂っていても、雪洞の中は静かです。
外は氷点下を遙かに下回っていても、雪洞の中では零度近辺。
ロウソク一つで明るくなり、温かくなる。
シュラフと、水気を遮断するカバーがあれば快適でいられる。
しかも好都合なことに、徐々に酸欠に導いていってくれる。

でも、雪洞の中で過ごしながら、そんなふうに考えていたことは、一度もない。
いつも酸欠の心配をしていました。
そして、天候の回復を待った。
雪洞は自殺に合理的だと考えるのは、雪洞の中にいないときです。
雪洞にいればそんなことを考えないのが〈いのち〉というものです。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/1075-6164be25

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。