愚慫空論

ド根性!

昨日見かけたフキノトウ。

フキノトウ


これ、フキノトウなんですよ。もう、トウが立ってしまって食べられないけど。いえ、食べられなくはないけど、固くておいしくない。

生えている場所は、山の斜面を切り崩して道を拓いた跡の、山側の崖。そこにコンクリートを吹き付けて崩落防止を施した法面(のりめん)。コンクリートのちょっとした窪みにたまった、落ち葉なんかの上に生えてる。


もうすこし早く見つけたら、食ってやったのに。

コメント

不健全な虚構。

 「もうすこし早く見つけたら、食ってやったのに」
 
 健全な虚構です。(笑)でも、これを人間同士の関係に適用する不健全な虚構があります。虚構が虚構であればよいのですが、事実化、行為化すると不健全になります。人間同士で殺しあうのは人間がふきのとうを喰うのと同じ。ライオンがシマウマを喰うのと同じ。だから、警察、軍隊などの恐怖で人間を抑圧し、圧倒することでしか殺し合いを防止することはできない。人間社会から殺し合いをなくすことはできない。警察、軍隊で押さえつけ、教育、宗教の虚構で洗脳し続けないと殺し合いが起こる。こんな虚構は漫画としての虚構であれば健全な虚構ですが、現実社会をどう変えていくか、どう事実を変えていくか見地からは不健全な虚構ですね。

 

雑草は強い

『ド根性!』ってあったので、つい「ど根性ガエル」を思い出してしまいました。(笑)

アスファルトの上で根をはって、草を生い茂らせる雑草もありますからね。たくましいもんです。
ただ、いくら食べられる草といっても、さすがに、コンクリートの窪みに生えたものは食べる気がしない・・・。(笑)

おふたりさん

こちらにもお揃いでコメントありがとうございます。
でも、ここでは互いに絡まないでくださいね。くれぐれもお願いしておきます。

*****

東西さん

>人間同士で殺しあうのは人間がふきのとうを喰うのと同じ

そうかなぁ? それこそ虚構では?

>警察、軍隊などの恐怖で人間を抑圧し、圧倒することでしか殺し合いを防止することはできない

もうしわけないですけど、先のおふたりのコメントはほとんど読んでいないのでおふたりの主張の内容を理解できていないのですが、それが東西さんのお考えなら、私は同意できないなぁ。私は人間性善説です。裸の人間同士が殺し合いをすることはないと思っています。

そりゃ、食料を巡っての殺し合いはあるでしょう。オンナの奪い合いもあるかもしれません。また、中にはトチ狂ったのもいるでしょう。こんなのは、いくら抑えつけようが教育しようが、無理ですよ。抑えきれない。だから虚構じゃない。

でも、人間が殺しあう理由はそれだけではない。国家のために人を殺す。金儲けのために人を殺す。自分は豊かでお腹いっぱいなのに、貧しくろくに食べることができない人たちを、殺す。これは虚構がなせる業だと思う。

虚構を纏わない裸の人間は、お腹が一杯なら殺しあうことはないと私は思いますが。

*****

わくわくさん

>さすがに、コンクリートの窪みに生えたものは食べる気がしない・・・。(笑)

だいじょうぶ、国産ですから。

食ってやるか

私も一瞬笑ってしまいました。娘がまだ幼いとき、近所の鶏肉屋のおばさんが、「鶏さんかわいそう」という娘に「鶏さんは食べて貰うのが嬉しいのよ」と説明していました。その心優しいおばさんを、私は好ましく思いました。生きるための虚構の第一歩です。

愚樵さんへ

 「虚構を纏わない裸の人間は、お腹が一杯なら殺しあうことはないと私は思いますが。」

 東西も愚樵さんと同じ健全な虚構を持っていますよ。書き方が変だったようです。東西や愚樵さんと正反対にある不健全な虚構を信奉している人がいるので、なかなか大変です。本気で、人間は殺し合う動物かもしれないという思い込んでいる悲観論者がいます。だったら、死ねばいいと東西が言えば、「は?お前らを犠牲にしてでも生きるよ」って返事が返ってきます。こうして、とことん団結、連帯することに敵対してくるのが不健全な虚構です。

 

志村さん

ケモノだけでなく食べられるものを見かけると、ついつい“美味しそう”と思ってしまう習性がついてしまっている私です。“腹がへった”“美味い”という感触も虚構でない真実ですが、“かわいそう”と感情を揺らすのもまた真実。虚構は、2つの真実に引き裂かれる人間の宿命が生み出した業なのかもしれませんね。

*****

東西さん

うん、でも、私は、その人自身が殺しあいたいわけではないと思ってます。殺しあわねばならないと悲観してしまってるだけでしょうし、それはまた、今の世の中を見渡してみれば、健全な反応でもあるんですよ。

みなみな、生きるために闘っています。それは虚構でない真実なんです。でも、無駄な闘いはしたくない。どこからが無駄な闘いか? その線引きの問題ではないですか。 無駄と思える闘いでも、相手から仕掛けられたら対応せざるを得ないというのもまた、真実ですし。

虚構と真実と

『虚構』も、それが「社会という、人間の中に確立されたもの」になったならば、『真実』になりますよね。でも、「思い」とか「考え」というのは、陰も形もないものですから、『虚構』を否定できるわけではない。

どれが健全でどれが不健全か、ということも、「健全」自身が『虚構』だと思います。明確な判断基準などないわけですから。

そもそも陰も形もない『虚構』を突き詰めていけば、結局「わからない」という壁にぶち当たるわけで、それゆえに「その『虚構』を前提にして語る」という「暗黙の了解」も出てくるんじゃないかなと。
それがいいとか悪いとかではなく、『こだわらず・でも、踏まえて』・『絶対の前提として・でも常に疑問を持つ』という矛盾を抱えながら徐々に進んでいくことが生きることなんだろうと思います。

愚樵さんへ

 「虚構を纏わない裸の人間は、お腹が一杯なら殺しあうことはない」

 「でも、人間が殺しあう。国家のために人を殺す。金儲けのために人を殺す。自分は豊かでお腹いっぱいなのに、貧しくろくに食べることができない人たちを、殺す。これは虚構がなせる業」

 「こんな無駄な闘いはしたくない。どこからが無駄な闘いか?その線引きの問題。無駄と思える闘いでも、相手から仕掛けられたら対応せざるを得ないというのもまた、真実です。」

 結局、裸の人間は共に生きていく存在であるのは疑いようもない厳然とした事実であるのに、これを根拠なく疑い、悲観し、虚構を生きる人物との闘いになるんでしょうね。オカルトの懐疑主義者こそが無駄な殺し合い、奪い合うのがん細胞なのは確実ですね。

 正当防衛と法の関係だと思います。線引き。

真実。

 人間は死ぬために生まれるんじゃないです。死ぬために生まれるなら死ねばいいし、生まれなくていいわけです。生きるために生まれる。では、どう生きるか?これが問題。子孫を残こすセックスをして生きるってのは正解で間違いないでしょう(笑)人類滅亡しますから。ともあれ、人間を死なせる、殺す行為はもっとも反人類的、非人間的な行為ですね。戦争、死刑、殺人、自殺、積極的安楽死、中絶。人類みんなが生まれてきたんだから寿命の限り、生きていける社会を創造する運動、活動は確実に人間らしいです。

言葉の迷宮

>どれが健全でどれが不健全か、ということも、「健全」自身が『虚構』だと思います。明確な判断基準などないわけですから。

あはは、わくわくさん。この文章は矛盾してますよ。

わくわくさんの言わんとするところはわからなくはないのですけどね。けど、この方向で思考を進めると、言葉の迷宮の中に迷い込んでしまいます。

「健全な虚構」といったときの「健全」とは、明確な判断基準がないことが十分認識されているということなのです。だから、健全か不健全かといった線引きをしてしまうこともまた、わくわくさんの仰るように確かに不健全なのですが、こうした方向に思考が進んでしまうのは、それは言葉の特性に惑わされているからだと思います。

私が言わんとしている「健全」とは、前のエントリーでも言及したとおり、“揺れ動くもの”なんです。つまりは動的なんです。だから、判断基準が明確にならないということにもなる。一方で健全か不健全か、といったときの「健全」は静的なものになってしまっています。言葉で表現するということは揺れ動く事象を切り取るということですから、ごく普通の言葉の特性としてはそれが静的になるのは当然のことなんですが、それは私が言わんとしてることとは違う。

>『こだわらず・でも、踏まえて』・『絶対の前提として・でも常に疑問を持つ』という矛盾を抱えながら

これが私が言わんとしているところの「健全」という状態なんですよ。矛盾とはつまり、動的ということでしょう?

はじめまして

他ブログでのコメントに惹かれてやってきました。
少しずつ過去エントリーも読ませてもらっています。
今回コメントを読ませてもらって「時間」というものに考えが及びました。
時間をすすめる、動的虚構、生、未完。
時間をとめる、静的虚構、死、完成。といったところです。
共同体が生きて動いてると考えた時に、それを支える虚構も生きて動かなければならないという愚樵さんに賛成です。骨になる虚構、肉になる虚構、強度の差は必要でしょうが、この強にあたる部分がしばしば完成されたものとして、静的虚構になってしまうのかなと思っています。実は骨すらも生滅しているという認識は必要だと思います。
「時間」の話を出させてもらったのは、愚樵さんが「時間」を無意識に感じておられても、あまり意識されてないのかなあと感じたからです。愚樵さんのイノシシの矛盾(実は矛盾と感じておられないのかもしれませんが)などは「時間」を使えばとけるような気がします(私の虚構の中ではとけました)。
すみません長くなりました。
愚樵さんの問題提起、思考、これからも楽しみにしてます。

言葉の迷宮

まず、私は愚樵さんの「健全」の定義を否定しているのではないのです。

ただし、私は「動的」「静的」という区分をつけていませんから、このような文章になります。もっといえば、「静的なもの」というのは、「動的」なものを、ある一点を捉えている状態だという認識です。従って、「静的」なものであっても、「そもそも動的なもの」であるという前提で考えています。

それがすべて正しいというつもりはありません。もちろん、愚樵さんの捉え方をとやかく言っているわけでもありません。一方が「正」としても、他方の「正」を踏まえているかどうか、ということでしかなく、そこには当然『矛盾』も発生しますが、その「矛盾」を抱えるのもまた、私は愚樵さんのいう「健全」に含めるべきだろうということです。

ただし、これを他人に理解してもらうというのは、かなり厳しいですし、愚樵さんの捉え方が一般的に共感されるものだとも思います。私も原則的にはそうです。

堂々巡りをしそうな議論ですが、それを抱えながらみんな生きているんでしょうね。

わくわくさんへ

言わんとされていることはとてもよくわかります。突き詰めていくと日常生活にも支障をきたすもので、今更りんごは赤い、赤くないといったところで仕方ないというのもわかります。
ただ、政治的、社会的観念(虚構)に関しては、本来的な人間を損なう性質があるように思えます。現状、ざっと見渡すと虚構にがんじがらめにされ、本来的な人間はとても少ないように思います。木でいえば、盆栽的な虚構なら、まだ好ましいと思えなくもないのですが、クマやウサギの形にまで刈り込まれるのは木の本分ではないでしょう。心身からはなれた虚構は十分疑う必要があるように思います。

消されたので

政治的・社会的観念は、仰るように「本来的には人間を損なう」性質があると、私も思います。そして、そうした『虚構』に縛られている。

しかし、ここで考えなければならないのは、「なぜ、こうした虚構が生まれ、そして維持されてきたのか」ということなんです。
私、とんぼのめがねさん、愚樵さん、3人とも、異なる環境、異なる人生、異なる特徴を持っているかと思います。

同質であれば、「経験」がありますから、理解し、納得し、同意するのは比較的容易です。
異質であっても、「目の当たりにしたこと」や「学んだこと」から、理解し、納得し、同意することができなくもない。

ところが、「生まれて初めて見た、聞いた、知った」ものは、理解も納得も同意も容易なことではありません。ましてや、価値観の違いや姿勢・態度の違い等は、自分に危害を加えんとする「恐怖心」を起こしますから、人は「自己防衛」のために、『攻撃』をすることもあります。
さらに、人間とは悲しい生き物で、マズローじゃないですが「さらなる欲求」を追い求めるケースも珍しくないため、それが元で『対立や葛藤』を生むことがあります。

『人間性を失う虚構』がなぜ続くのか、といえば、こうした「負の意識」をなんとか払拭しようという『人間の智恵』ではないだろうかと私は考えるのです。
人間を損なう結果を受容してでも、相互の繁栄や生存を確保する、あるいは、正当なものと「信じる」ことを追い求める。こうした人々の要請が「虚構」なのだろう、ということです。

もちろん、とんぼのめがねさんご指摘のように、心身から離れた『虚構』は、それが何の疑いもなく続き、それが社会規範として不動なものとなれば、どこかに歪みは生じてきます。従って、そうした『虚構』は、常に疑い続け、改善に改善を重ねていくことが求められると思います。

その上でひとつ踏まえなければならないことは、「人間性を損なう『虚構』もまた、実は『人間的なもの』である」という側面があるということです。別の言葉でいえば、「人間だからこそ、人間を損なう『虚構』が必要な場合がある」ということ。
ただし、それは「だから、虚構を放置せよ」というのではなく、「それを踏まえた上で、虚構に従いつつも、虚構を疑い続け、そして改善を重ねることが必要だ」ということです。

消えてますね?

わくわくさん、コメントが消えてますね? なぜだろう? 消した覚えはないのですが。 操作を間違えたかな。

メールに残っていた文章を転記しておきます。

******

とんぼのめがねさんへ

何をもって「本来的な人間」というのか、それは定義次第だとは思いますが、とんぼのめがねさんの話の線に乗ると、『ある意味、それも受容しなければならない場面もある』と思います。
そして、その「人間性を損ねる虚構を受け入れる」理由もまた『人間が人間的だから』ということになるんだろうということです。

人間の感情は、マズローじゃないですが、いろいろな段階での欲求があり、より上位ベースの欲求を満たしたいというものがあろうかと思います。
そして、人間は悲しいことに、自分が育った環境(自然、家庭、社会その他いろいろ)に影響されて価値観が育まれ、その価値観をベースにして自らの生存や繁栄を求め、そしてそれが『正しい』と信じて行動する。
『対立や葛藤』は、それがぶつかりあって起こるわけですが、具体的にぶつかることがなくても「ぶつかる怖れがある」と感じれば、それを「防ぐ」行為に及びます。従って、異なる価値観や概念を事前に排除しようという動きが起こってくる。言葉の違い、顔や目の色の違い等、「怖れ」の原因は尽きないわけです。

その「怖れ」を解決したり防止するには、相手を滅ぼすか、あるいは相互理解をするのか、ということになるわけですが、相互理解するにしても、元々が概念や価値観が異なり、相手方のそれを理解することが難しいわけですから、相手のそれを理解するために必要なもの、つまり『共通したもの』が必要となってくる。しかも、自分が元々理解しえないものを自らに理解させるわけですから、「目に見えるもの」でなければ苦しい。
そして、その『共通したもの』を通じて、建前であっても、葛藤や対立を防ぐことになるんだろうと思います。

その『共通したもの』が、法であったりマナーであったりするんだろうということです。「本来的な人間の欲求を抑制しないと、相互に生存も安全も保てない」という状況であれば、「人間をある程度損なう結果になろうとも、『虚構』を受容しなければならない」と思うわけです。

もちろん、とんぼのめがねさんが仰るように、合理的な、人々が納得できる理由がある『虚構』といえども、「人間性を損なう結果になる虚構」も当然あるのですから、心身から離れた虚構は、常に十分疑う必要はあるかと思います。
従って、愚樵さんやとんぼのめがねさんのご発言を「否定」も「批判」もしないという結果になるのです。

ここでひとつ注意しなければならないのは、『いかに人間的といえども、それが人々が理解し、納得し、受け入れるという確たる根拠がないものを押し切ること』は、避けなければならないということです。
卒業式での日の丸君が代の件に代表されますが、本来の人間的という観点でいえば、「嫌なら起立しない、斉唱しない」というのは、私は批判するものではないと思いますし、嫌な人に強制するのは人間的ではありません。

しかしながら、いかに人間的でなかろうが、それを実施しなければ逆に全体の調和が保てない等の「対立や葛藤を生む状態」であるならば、それはやはり受容しなければならない。
その上で、日の丸君が代について議論しあい、どうしていくのかという「共通言語」を見出していくべきだと思います。
曲がり間違っても、人々の間に『共通言語』が確立していない段階で、「式の進行を妨げたわけではない、ただ着席しただけだ」だとか、「嫌な人に強制すべきではない」だけで、卒業式で教師が日の丸君が代に反発する態度を肯定してはならないのです。

******

失礼しました m(_ _)m

とんぼのめがねさん、ようこそ!

虚構と時間のお話、とてもわかりやすいと思いました。

私は歴史に関心を持っています。歴史は生産手段の発展に伴って推移するなんてことを言った人がいますが、私に言わせれば歴史とは虚構の生滅の推移でもあります。つまり虚構は時間の経過とともに遷移していく、と考えているわけです。また虚構とは、別の人の言葉で言うと「バラダイム」という言葉に相当するのでしょう。

歴史の大きな流れで見ると虚構にも安定期と動乱期があるようで、現在は動乱期に入りつつあるというのが私の見立てです。偉そうですが(笑)。国旗国家に敬意を表することができない人間が多数現れるのも、新自由主義が跋扈するのも、虚構動乱期への兆候なんだろうな、なんて勝手に思っています。

なんて、たいそうなことを何の根拠もなく考えていたりしますが、よろしければまたお越しください。

>愚樵さんへ
ありがとうございます。
もともと論理的にものを考える性質でないゆえの鈍考、遅筆ご容赦願いたいと思います。また、あまりものを知りませんので言葉を探すのに四苦八苦しており、自身の考えを整理する意味もあってコメントさせていただいてますのでお見苦しい点もご容赦ください。
>現在は動乱期に入りつつある
私も、現在、安定期が臨界に達しているように思います。大きな災厄なく動乱期にはいれれば良いなと思っています。
>わくわくさんへ
大体私も同じようです。
違いは「人間性」を損なう基準と「人間性」というところかも知れません。私の考えでは「人間性」は身体と言い換えても良いかもしれません。
マズローという人を知らなかったので、欲求の組み合わせによって色々な傾向の人をつくれそうだなとおもしろく思いました。欲求の5要素とでもいうのでしょうか。ただ、これに順序をつけているのは異議ありで、その弊害も想像できますがここでは置いときます。
欲求は身体の思考と言えるかもしれません。この組み合わせの強弱が、後に心、虚構の体系をつくる種のようなものでしょう。こうした5要素の強弱から出来上がる自然な人間を想像すると山あり谷ありだと思います。また、ある人とある人では全く反対向きに山ができたりするでしょう。
今、世にあふれている様々な虚構の多くがその山を削り、谷を埋め、限りなく平らな人間をつくっているように思います。こうした虚構達を全て飲み込んでしまって、心身が平気でいられれば問題なしとして良いのでしょうが、現状を見ると問題ありとせざるを得ないように思えます。虚構を疑うことは虚構をはずすのと同じような効果があると考えており、大きな災厄を避ける意味でも、現在その必要性を感じています。

とんぼのめがねさんへ

特に反論するところはないですが、私は違う角度で物事を見ているのかも知れません。

「社会」とは、いろんな人が集まって成り立つものですから、そこには「葛藤と対立」は生まれます。「互いに尊重しよう」といっても、「では、『互いに尊重しあう』とは何ぞや?」ということが一致しているとは限らない。従って、特に葛藤や対立を欲しなくても、葛藤と対立が生じてしまう場面もあるわけです。特に「個人の自由が認められている」度合いが高ければ高いほど、その葛藤や対立は生じやすい。

このため、『葛藤や対立をなくすという条件の下に、各個人が最大の幸福を得る』ということが求められるわけで、それが「平らにする」というベクトルに『虚構』が生まれたのだと考えています。よって、『虚構を外す』ことは、おそらく「不可能」だと思います。

ただし、政治的社会的『虚構』は、そもそも「人間を損ないかねない」ものですから、「心身ともに平気」なわけがない。しかも、この「虚構」は、とんでもなく暴走する怖れすらある魔物ですから、とんぼのめがねさんが仰るように、虚構を疑うことは必要ですし、常に改善し続けていくべきだと思います。

とんぼのめがねさんに反論するような形になるかと思いますが、私ならば『虚構といかに付き合っていくか』ということが、現代に必要なものなのかなと思います。

わくわくさんへ

いいえ、ほぼ私も同じ考えです。
今ある多くの虚構が人々の必要から生まれてきたものだと思っています。近代合理主義、個人主義という指摘もできますが、やはり生活が都市化してしまった事が大きいのかなと思いました。言わば都市化のために公衆衛生が進んだのと同じように、精神的にも公衆衛生化されてしまったのかと。
根本的な解決には、近代が終わり社会が変わらなければどうしようもないと思っています。ただ現状、生きづらく感じている人が多いような気がします。こういった人ほど、「虚構といかに付き合っていくか」ということに気付けば、また世界が違ったように見え、少しは生きやすくもなるのではないかと期待しています。ただ、気付くだけでいいのだと思います。
PS 本文の文意にはあまり影響がなく上げ足取りのような失礼になるかと思いますが、「最大多数の最大幸福」を「最大多数の最低限幸福」にしたらどうかなと最近思っています。「人間の欲望には限りがない」というのもウソかなと思いました。今、世にはびこる欲望にこしらえもののような臭いを感じるからかも知れません。そこそこの幸せで人は十分満足できるのではないかと思っています。失礼しました。

ご参考

塔の立ったふきのとう、おいしく食べられます。
葉のついた茎を1センチくらいに葉をつけて切り、衣をつけて天ぷらにします。
ふきのとうよりも癖が少なくなってなかなかいけます。

おもしろい言葉です

>「最大多数の最大幸福」を「最大多数の最低限幸福」にしたらどうかなと最近思っています。

実現すれば、どちらでもほぼ同じような意味になるものと思いますけど(笑)、そもそも「幸福」の基準が人によってバラバラですから、「為政者が心得るべきスローガン」程度のものでいいんじゃないかなって思います。

>「人間の欲望には限りがない」というのもウソかなと思いました。

私は「限りがない」と思っています。
よく言われる「欲望」というのは、「垂直型」のものです。カネ儲け、出世、権力・・・。それはそれで努力のモチベーションになるので、私は肯定的ではありますが、こうしたものは、いずれ虚しくなるだけなので、ある程度のものが満たされれば、それで満足するんだろうなと思っています。

でも、「水平型」のものは、もっと貪欲になってもらいたいなと思います。これは、「元々幸せを感じることができる状態だし、とっくに欲望も実現したはずなのに、本人はそれに気づいていない。」ということでしょうか。
「明るい家庭」「学校の友達」「新しい発見」といった、とっくの昔に身近で実現されていた、というものですね。
元々あるものですから、こちらは「貪欲になって気づき、感じて欲しい」と思います。

>「為政者が心得るべきスローガン」
はい、公の概念です。これのもたらす政治は今とは随分違うややアナーキーに近い政治になると思います。
「水平型」の欲望というのは腑に落ちました。おそらく次の世界はこちらに向かうのかと思いました。ただ、これも人間の限界を超えると虚しくなるものだと思います。知性や観念はただの道具、技術だと見なしていますので、観念の作り出す欲望なぞはたかが知れていると見ているところもあります。そうした意味で「垂直」にも「水平」にも人間は有限のものだと思っています。

「気分」の問題ですよ

>そうした意味で「垂直」にも「水平」にも人間は有限のものだと思っています。

厳密に言えば、確かに「有限」だと思いますけど(笑)、でも、そんな『気分』だとおもしろくないじゃないですか。
第一、所詮は人間ですから、いかに「有限」といえども、全部を見つけきることなどできるはずもないわけで、そういう意味では「無限の可能性」があった方がいいと思います。この認識もまた「虚構を信じる」ってことなんでしょうけどね。

わくわくさんへ

私も大切なものだと思っています。創造、活力の源かと思います。今私が、無限と思っているものは、自然(人間、自分自身も含めて)との係わり合いかなと思っています。おそらく人によって千差万別、無限なもののように思えます。私が自身の虚構に分け入るのも、こうしてわくわくさんとお話しているのも、こうした冒険心を満たすためのものかなと気付きました。
ただ、これも有限のもの、虚構かなという予想はありますが「全部を見つけきることなどできるはずもない」ということに同意できるものであり、安心しているとこでもあります。

>知性や観念はただの道具、技術だと見なしています
自分で読んでも、誤解をまねきそうだなあ思いましたので、少しフォローさせていただきます。知性、観念を卑下したものではありません。モノづくりに例えると、手作りのモノと機械生産のモノの違いといったことです。手作りは自然そのものに働きかける技術なのに対して、機械生産の技術は出発は自然発なのは確かなのですが、技術が技術を産んでやがてできあがるものはなぜか虚しいといったイメージです。手作りの技術を素晴らしいものだと思えるのと同様に、手作り的な知性、観念を素晴らしいものだと思っています。失礼しました。

とんぼのめがねさんへ

>知性や観念はただの道具、技術だと見なしています
>自分で読んでも、誤解をまねきそうだなあ思いました

別に卑下したとは思えなかったですし、反論する内容がなかったので触れませんでしたが、「技術が技術を生む」という部分については、私はちょっと違うのかなって思う部分もあります。

「技術が技術を生む」には、必ず「人間の知性が介在」しなければならない。というのは、機械は機械によってメンテナンスはできても、機械自身の性能や技術を向上することができないからです。
田中耕一さんがノーベル賞を取った技術は、ある実験に失敗した試料を使って「遊んでいた」ところ、偶然見つけた高度な技術であり、その理論を解析して実用化したがゆえの功績であって、やはり「人間」が介在しています。

これを「技術が技術を生む」という言葉で表現することもできると思いますし、それを否定するというつもりは毛頭ありませんが、私は、たとえ虚構であっても、「人間がいたから生まれた」と思いたいところですね。特に小学生ならば、「知っているけど信じない」という気持ちになっていたかも知れません。

特に肩を張らないで、ごくごく自然に受け止めればいいんじゃないかなって思います。じゃないと、厳密に考えすぎたり、高い次元ばかりの目標を立てると、どうしても、感動が減りますから。まぁ、それ以上の意味はないですけどね。(笑)

早雲さん

ありがたいご指南です。さっそく試してみましょう。

わはは、食ってやれるぞ、ふきのとう。

わくわくさんへ

すみません、少し留守しておりました。
やはり、思考するということにおいては楽することは良くないことだと思いますよ。特に錯綜した虚構の上を歩くときには、薄氷の上を歩くような用心深さが必要だと思います。
感動については、感動する時には存分にそれを味わえば良いと思います。ただその感動も、後には疑われることが必要だと思っています。極端に言えば過去の自分と今の自分は別人だという感覚があるからでしょうか。言葉にするとぎこちないですが、わりと普通にできるものだと思います。弊害と言えば、とても忘れっぽくなったりしますが、残るものはしっかり残ってたりします。
>愚樵さんへ
少し山近くに行ってきました。自然界は冬の「安定期」から春の「動乱期」にはいったようですね。ふきのとうの苦さが春を迎えるために必要な合図であるなら、いま世界が味わっている苦さも同じようなものなのかも知れません。色んな虚構が溶け出す時も近いのかも知れません。

とんぼのめがねさんへ

>やはり、思考するということにおいては楽することは良くないことだと思いますよ。特に錯綜した虚構の上を歩くときには、薄氷の上を歩くような用心深さが必要だと思います。

これは批判でも反論でもありませんので、肩の力を抜いていただきたいと思います。
「虚構」は「人々が生きる知恵」として編み出されたものですが、それは同時に「納得しきれないもの」や「満たされないもの」をもたらすことが多い。そして、葛藤や対立をなくすために生まれたはずの「虚構」が、葛藤や対立を生んでいるという矛盾も生じてくる。
つまり、『楽している』と『見えている』のであって、実際は楽しているとは私は思っていないし、それどころか、用心深く歩いているんだろうと。これは、とんぼのめがねさんご自身もそうですし、周りの方々も同じじゃないのかなって私は思っています。

ゆえに、『それほど懸念することはないと思いますよ。なぜなら、あなたも含めてみなさん、ちゃんとできていますから。』と私は考えています。
その意味でも、肩の力を抜いても大丈夫だろうということです。

>ただその感動も、後には疑われることが必要だと思っています。極端に言えば過去の自分と今の自分は別人だという感覚があるからでしょうか。言葉にするとぎこちないですが、わりと普通にできるものだと思います。弊害と言えば、とても忘れっぽくなったりしますが、残るものはしっかり残ってたりします。

これも、特に「必要だ」という意識がなくても、自然とそうなると思います。
所詮、人間なんですよ。疑いたくなくても疑わざるをえないなんて、当たり前のように起こっていると思います。
従って、あえて『それぐらいのこと、あなたがそこまで考えなくても、あなたもみんなもやってるよ』と言わせていただきたい。これは批判や反論ではなくて、「人間である以上、それは信じてもいいと思う」という前向きな意味で言わせていただきたいということです。

わくわくさんへ

では、なぜわくわくさんは東西南北さんを理解できないのでしょう?同様のことは東西南北さんにも言えることだと思いますが。お二人がやりとりをするうちに自然と理解し合うにいたるとおっしゃるのでしたら、それはそれで楽しみに見させていただきます。

とんぼのめがねさんへ

東西南北氏は、独善的な主観のみの論、しかも思い切り間違っているわけなんですが、それを展開するだけならともかく、自分の間違いかつ独善的な主観のみの論に合致しないものを全否定するからです。

詳しくは、東西南北氏のブログをご覧なさればおわかりになるかと思います。

ちなみに、私に対してあれだけ噛み付くのは、別のブログですが、私に論破され、「わくわくには勝てない。だから、わくわくには言動させてはダメだ。排除せねば!」ということだろうと思います。

とんぼのめがねさんへ。

 わくわく44氏は、独善的な主観のみの論、しかも思い切り間違っているわけなんですが、それを展開するだけならともかく、自分の間違いかつ独善的な主観のみの論に合致しないものを全否定するからです。

詳しくは、わくわく44氏の発言をご覧なさればおわかりになるかと思います。

 さしあたり、以下をどうぞ。
 
 1:衝撃・これでお玉ブログから排除された。反省どころがお玉さんに報復措置のわくわく44氏の思い上がり(笑)
http://blog.goo.ne.jp/urmt/e/3ea77d087f0118c2fa930dc7eb267b4a

 2:わくわく44氏の本性は暴力主義。「敵前逃亡は有無を言わさず機銃掃射にすればいい」発言。こんな立場から被害者遺族の気持ちを利用し、死刑執行に賛成しているのだ(笑)
  
http://blog.goo.ne.jp/urmt/e/8c33b11d7b639b9e435ab669722667d4

 ちなみに、私に対してあれだけ噛み付くのは、別のブログですが、私に論破され、「東西には勝てない。だから、東西には言動させてはダメだ。排除せねば!」ということだろうと思います。

 これを証明しているのが以下です。しかも、東西にではなく、自分が論破させた時の条件反射がわくわくさんの体質なのです。

http://blog.goo.ne.jp/urmt/e/f01ba78f85638be70edee114c0519883

 排除しているのは、わくわく44さんです。東西はわくわく44さんのコメントもTBも自分のブログで拒否していませんが、わくわくさんは東西のコメントもTBも拒否してします。ちなみに、わくわくさんが排除されているのは東西のブログではなく、その他のリベラル系ブログです。最近は、お玉さんのブログから排除されました。その報復措置としてお玉さんのコメントもわくわくさんのブログでは拒否している模様です。

 

あれ?発言撤回?

冗談と本気を履き違える「行間を読めない愚か者」が何か駄文を展開しているようだけどね。

あと、昔の発言内容を掲載したみたいだけど、あれは100%私が正しいから。もっとも、私に無駄な抵抗をしてきた愚か者は、その後、私にことごとく論破されているので。

東西南北とかいう愚か者も、知識も良識もないし、証拠も根拠も提示できていないから同じようなものかな。

まぁ、「赤旗」を読む前に、まともな日本語を勉強してください。

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小浜市とオバマ氏 その2

きっかけは2006年12月。税関職員が「私は小浜市出身です」と冗談を言ったところ、「私は小浜からきました」というジョークだったそうだ。 あれ...

悪魔の法案『人権擁護法』と利権漁りの解放同盟

自立とか支援とか言えば、何と無く良いイメージがあるが、自民党政府の作った、其の二つが合わさった『障害者自立支援法』は障害者の自立を障害する為の法案だった。 人権とか民主主義とか言うと、誰でも、何んと無く良いイメージがあるし、人権と民主主義を守るために、...

国際金融家の“合理的政策”が19世紀末デフレと英国凋落の原因

「 成熟債権国家」への日本の挑戦―19世紀の英国の国際分散投資戦略に学ぶ(参考記事)へのコメントです。 国際分散投資戦略が英国拠点の国際金融家の貨幣的富増大に貢献したことや世界経済を活性化したことは間違いない。 彼らが蓄財の合理性を投げ捨て英国の国民経済

ミンククジラのお肉はダイオキシンだらけ(笑)

調査捕鯨船にまた妨害行為 シー・シェパード(朝日新聞) - goo ニュースについて.  公海上で米国の狂信者が騒ごうと,日本の Maritime Safety Agency が狂信者に仕返しをしようと,あたしには関係ない.ミンククジラの缶詰は昔の給食とは違って,確かに柔らかくて酒の

相次いだ謀略事件(松川事件等)と陰謀論

今現在の日本社会では、冤罪事件が幾つも発覚している。 今回の話は、結果的に最後には無罪になった話だが、冤罪事件ではなく謀略事件と呼ぶほうが適当だろう。 冤罪とは、捜査当局の捜査の不備や間違った見込み捜査等の能力不足の結果、無実の人を有罪と誤認して処罰し

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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