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愚慫空論

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【教育】が阻害するもの

当記事も続き物。
前編はこちら (^o^)っ 『霊性とディープラーニング(前編)』
         (^o^)っ 『霊性とディープラーニング(後編)』


【教育】が阻害するもの。
結論から先に行きましょう。

それは霊性です。
そして〔自分の言葉〕。
〔自分の言葉〕を抑圧された〔人間〕は、欲望が他者の欲望になってしまう。
ジャック・ラカンが言ったように。

ぼくたち〔ヒト〕には心というものがあります。
生命の中核である《魂》と外界とを介在させる場。
人それぞれに異なる秩序を持つ場。
心理システムという秩序。
場に棲む生き生きとしたイメージが〈霊〉であり、それは言葉になる以前のもの。
言語学の用語でいえばシニフィエ。

霊性とは、〈霊〉の“生き生き”の厚さ。大きさ。




ディープラーニングとアナロジーするなら、中間層「n」の大きさ。

入力された感覚データが、幾層ものニューロン回路を通過してひとつの「特徴値」を出力する。
特徴値がシニフィエであり、〈霊〉です。
そうして生成されるシニフィエにシニフィアン(記号)が結合して言葉になる。

シニフィエとシニフィアンの結合には規則性はありません。



【教育】はディープラーニングを阻害します。
〔ヒト〕がディープラーニングを成して「特徴値」を出力するより先にシニフィアンを与えてしまうことによって。


記号は生き生きしたものではありません。
単なる記号が生き生きしたものになるのは、記号が与えられる「特徴値」が生き生きしたものになっているときだけ。

「特徴値」が生き生きする前に記号を与えられてしまって中途半端に成立してしまった【コトバ】。
【コトバ】とは「他人の言葉」です。
生き生きが特徴値にまで届いて、そこに記号が与えられることで成立した健全な〈ことば〉は、「自分の言葉」です。

【コトバ】の中のシニフィエを表記すると【霊】。
イメージはあっても生き生きとしていない。
生き生きとしていないからこそ、デタラメに結びつくとも可能になる。


あるクレタ人が「クレタ人はいつも嘘をつく」と言った



自己言及のパラドックスというやつです。

この文章は、前の「クレタ人」は生き生きとした〈ことば〉。後の「クレタ人」は【コトバ】であることが前提になっています。
〈ことば〉と【コトバ】に落差がある文脈であれば、この文章は何ら矛盾しません。
前後の「クレタ人」ともに【コトバ】になってしまった瞬間に矛盾が生じる。


3つのリンゴと4つのミカンを足すと、いくつになるか?



「リンゴ」と「ミカン」が〈ことば〉ならば、この問いの答えは「足せない」です。
「リンゴ」と「ミカン」が【コトバ】なら、答えは「7つ」。

どちらでも正解です。
が、正解だと見なされるのは後者です。
〔社会〕がそのように見なす。

〔社会〕がそう見なすと〔ヒト〕は適応します。
適応して後者のみを正解だと考えるようになる。
そうしうた適応を自然にできてしまう人たちがニューロティピカル。
が、できない人、あるいは過剰にできてしまう人もいる。エイティピカルです。


【社会】は【コトバ】によって秩序が維持されています。
顕著な例が法律です。
法律の条文を読んで、それらを〈ことば〉だと感じる人は少ないでしょう。

〈ことば〉は誰にも自然に使いこなすことができます。
ところが【コトバ】はそうはいかない。
リンゴとミカンの足し算でさえ、習得するのはトレーニングが必要です。
〈ことば〉を【コトバ】にするには【教育】が必要。
まして【コトバ】の塊である法律の条文を読みこなすことには。

【社会】は【コトバ】で秩序づけられ、【コトバ】を使いこなすには【教育】が必要。
【教育】を修了して技術者にならなければならない。
だから【社会】では官僚が権力を握ることになる。


第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



ご存知、日本国憲法9条です。

日本の保守的な護憲とは、この条文を〈ことば〉として読むことでした。
なぜそういうことができたかというと、「戦争」が〈ことば〉だったからです。
生き生きとしたリアリティのある〈ことば〉。
だから「平和」も〈ことば〉だった。
だから、この条文全体も〈ことば〉だった。

現在は、「戦争」はもはや【コトバ】です。
【コトバ】で読めば、この条文が現実の前に空疎であることは確かです。




非暴力を唱えたガンディーの思想を経済として捉えた書籍。
最終盤にガンディーがなそうとした教育についての言及があります。
その部分についての解説を、松岡正剛さんの『千冊千夜』からお借りしましょう。

こうしてガンディーの「ナイー・タリム」(新しい教育)が構想されていったのだ。学校児童に向けてのプログラムだった。

 「ナイー・タリム」はその原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。

もっと画期的なのは、「そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだ」としたところだ。これがすばらしい。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。

なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。

なんという卓見か。その通りだ。ダースグプタは、このガンディーの教育には「方法論的個人主義」が開花していると評した。




それにしても、なぜ、「経済」なのか?
貨幣もまた言語であり感覚であると考えれば、それは繋がっていくはずです。

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