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愚慫空論

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『サピエンス全史』その23~征服の精神構造

『その22』はこちら (^o^)っ リンク

 


ヨーロッパの帝国主義は、それまでの歴史で行われた諸帝国のどの事業も完全に異なっていた。それ以前の帝国における探求者は、自分はすでにこの世界を理解していると考えがちだった。征服とは単に自分たちの世界観を利用し、それを広めることだった。一例を挙げると、アラビア人は、自分たちにとって何か未知なものを発見するためにエジプトやスペインやインドを征服したわけではなかった。ローマ人やモンゴル人やアステカ族は、知識ではなく、富と権力を求めて新天地を貪欲に征服した。それとは対照的に、ヨーロッパの帝国主義者は、新たな領土とともに新たな知識を獲得することを望み、遠く離れた土地を目指して海へ乗り出していった。

このような考え方をした探検家はジェイムズ・クックが最初ではなかった。15世紀と16世紀のポルトガルやスペインの航海者は、すでにそのような思考をしていた。




たびたび難癖をつけますが、科学革命以降のハラリさんの記述はどうにも中途半端に感じます。事実を直視することを避けているように感じる。

上記引用のような書きぶりだと、ヨーロッパの帝国主義者は何よりも新たな知識の獲得を求めていたように思えてしまいます。

そのような人がいたことは事実だろうと思います。
でも、そのような人はヨーロッパ帝国主義者だけではないはずです。

たとえば、イスラーム世界には、イブン・バットゥータという大旅行家がいました。
当時(14世紀)のイスラーム世界は広大でしたが、彼はそこに留まらず、非イスラーム世界も旅をした。

イブン・バットゥータは「旅行記」を記しました。
タイトルは『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』というのだそうです。

ぼくはまだ、この本をひも解いたことはありません。
だから確信をもっては言えないけれど、このタイトルからだけでも、バットゥータは新たな知識を獲得することを求め、それだけなく、この本の読者は新たな知識を獲得を欲する者だと想定していると言っていいでしょう。

バットゥータがそうした想定ができたのは、彼の空想に過ぎないのか?
まさか、そんなはずはないでしょう。
ただ、バットゥータはヨーロッパの帝国主義者とは違って、「同時に領土の獲得」を求めはしなかった。

古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。その場合、必要な知識を得るためには、誰かもっと賢いひとに尋ねさえすればよかった。まだ誰もしらないことを発見する必要がなかった。(中略)

第二に、伝統全体が重要でない事柄に無知な場合。当然ながら、偉大な神たちや過去の賢人たちがわざわざ私たちに伝えていないことは、何であれ重要ではない。(中略)これが人間の繁栄と救済にとって必要な、重要極まりない情報だったら、紙は聖書に広範囲に及ぶ説明を含めていただろう。



バットゥータが獲得し、新しい知識を獲得することを欲する者たちに提供した知識は、イスラーム社会の繁栄にとって必要な、重要極まりない情報ではなかったのでしょう。

それは、なぜか?
イスラーム社会が豊かだったからです。
知識を純粋に知識として楽しむだけの豊かさが社会にあった。
ヨーロッパにはそれがなかった。

その意味では、ヨーロッパは科学革命への準備が整っていたといっていいのかもしれません。
準備が整ったところに、コロンブスの「発見」があり、大量の金銀が見つかった。
ゆえに、知識の発見が、人間の繁栄――いえ、「ヨーロッパの繁栄」と正確に言うべきです――にとって、重要極まりない情報になった。





以前取り上げたマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』です。



映画に先立って原作のほうも取り上げました

マーティン・スコセッシと遠藤周作の違いは、井上筑後守の造型に現れていたように思います。
スコセッシ監督の造型した筑後守は悪人です。
イライラした不機嫌な人物。
が、ぼくが原作を読む限り、そうは感じなかった。
苦悩の人物であると感じています。

この違いはどこから来るのか?
侵略か、そうでないか。

原作の筑後守は、イエズス会の布教を純粋なただ単なる布教だとは思っていなかった。
日本という国を造り変えようとするものだと認識していた。
少なくともぼくの読解では。

でも、国(と表記するより「邦」の方がいいかも)は造り変えることはでない。
日本の風土はキリスト教が生まれたところとは違う。
キリスト教は、日本に根を下ろせば「日本のキリスト教」になって、それはもはやキリスト教ではない。

主人公の結末については、原作も映画も到着点は変わらないと見ています。
彼らはキリスト教は捨てたが、イエスは捨てなかった。そして日本人になった。でも、日本人になったのなら「日本のキリスト教」に改宗するという手もあったろうとも思う――が、これは余談。

スコセッシ監督にとって、なぜ井上筑後守は不機嫌な人物でなければならなかったか?
それはおそらく、そうでないと彼のアイデンティティが犯されるからでしょう。
そしてそれは、ハラリさんのそれと同じだと想像します。
西洋人としての【アイデンティティ】。

その【アイデンティティ】が、肝心なところを見えなくする。
「新大陸」を征服したコンキスタドールたちは「金の病」にかかっているとハラリさんは指摘していました。
「新大陸」から大量の銀が出たことも、その銀でヨーロッパが【力】をつけたことも、彼の博学なら知識の範疇に入っていない方が不思議というもの。なのに、科学の発見は偶然だとする。


この「隠蔽の構造」こそが「征服の構造」です。

征服は、征服する側にとっては正義でも、される側にとっては侵略です。
正義とは、【人間】にとって重要なことを為すこと。
アフロ・ユーラシア大陸で暮らす人々にとって、金銀は「重要なこと」でした。ハラリ自身が最強の征服者だと指摘しているとおり。そして、現在は全世界が征服されています。

コンキスタドールは【重要なこと】を為しただけ。
それが結果として征服になったのは、「そこに銀があったから」に過ぎません。
そこに金銀がなければ【重要なこと】はなされなかっただけのこと。

中国やイスラームは、外にてなくても【重要なこと】をなし得た。だからしなかった。当時の世界システムの辺境に位置して、【重要なこと】を内部で十分に満たすことができたなかったヨーロッパだったからこそ、外に【重要なこと】を求める欲求が高まっていた。そして、それは「発見」された。

発見の地に暮らしていたのは【重要なこと】を共有しない者たちでした。
【人間】は【重要なこと】を共有しない者を〔ヒト〕だとも〔人間〕だとも見なしません。
これは歴史的な事実です。
だからこそ、侵略と布教とが同時に起きる。
布教とは、【人間】にとって【重要なこと=正義】を共有させようとする【善意】に基づく行為です。


『その24』へ続きます。

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