愚慫空論

Josef Krips/Mozart - Symphonies 21-41

音楽の話題を (^_^)/



ヨゼフ・クリップスの指揮でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が演奏するモーツァルトの交響曲たち。

ネットいうものは本当にありがたいと思います。
こんな音楽に出逢えるなんて。


クリップスの名前は知ってはいました。
最晩年にモーツァルトの交響曲を録音したことも。
それが、なかなかの演奏だということも、聞いていた。
というか、どこかで見た。

でも、興味はそそられなかった。
クリップスはメジャーな指揮者ではなかったから。


人間というのは可能性がないことには興味を持ちません。
可能性がないと思い込んでいることも含めて。

何にでも興味を持つというのは理想的なことではあるけれど、
実際のところは時間も資源も有限だから、
興味を持たないと(無意識的に)判断するのは合理的ではあります。

音楽を聴くのがCDだった時代だったら、ぼくはクリップスを聴いていないでしょう、恐らくは。
別の出逢いがあれば話は別ですが。
それはたとえば、クリップスを好きな人と出逢って、その人が強く勧めてくれるとか。

以前なら、クリップスに出逢うには、もうワンクッションは必要だったということです。


でも、技術が発達して、そのワンクッションが必要ではなくなった。
いまや音楽は、CDを購入しなくても聴くことができるから。

ぼくはパソコンに向かっているときは音楽を掛け流し状態ですが、
それは若い頃から変わらない習慣ですが、
音楽はCDを購入して聴くのが当然だった時代は、どうしても手持ちの音源からということにならざるを得ない。
手持ちの音源を増やすことには主に経済的な理由で限りがあるので、興味は自然、限られたものになってきてしまう。

ところが、ネット上に存在する音源をとっかえひっかえ掛け流しできるようになっている現在では、自然に、興味の範囲は広がります。
自分でも気がつかないうちに、広がっている。


といって、少し前もぼくだったら、クリップスには惹かれなかったとも思います。
これは快楽の音楽ではない。
愉楽の音楽。
スゴイ音楽ではなくて、ただただ、心地よい音楽。

いやいや、スゴイ音楽であるんですよ。
でも、それ以上に、心地よい。


快楽というのは、スゴイことの方が心地よいことよりも優っている楽しさです。
なのでしばしば、心地よくないことをスゴイがゆえに楽しいと感じてしまうような逆転現象が起きる。

この【逆転】は、自己愛との共振です。
【逆転】は、自己嫌悪を隠蔽するのに都合が良い。

クリップスの音楽には、そうした「都合の良さ」が見当たりません。


ことに気に入ったのは、38番。『プラハ』と副題が付いている音楽。

この曲にはずっとひっかかっていたんです。
なるほどスゴい音楽だけど、でも、39、40、41よりは見劣りがするように感じられる。
軽やかさでは39に、深刻さでは40に、迫力では41に、それぞれ劣るように思う。
良いのは良いけれど、別になくてもいいかも?――な音楽ではあった。

今は違います。
なくてはならない音楽になった。
第一楽章の込み入った対位法も、ただただ愉楽のため。
愉しみながらパズルをパズルを組み立ているような。




べートーヴェンも聴いてみました。
予想通り、曲によっては物足りない。
たとえば、『運命』と題されている5番とか。

良い音楽です。でも、それだけ。
ドラマがない。
こういう音楽は、ドラマがないと良い音楽に聴こえない。

でも、これはある意味で悲しいことです。
良いものがそのままでは良いと感じられないなんて。


話は跳びますが、クリップスのベートーヴェンを聴きながら連想していたのは老荘の儒教批判です。
その儒教は孔子の思想とはちょっと違うものですけれども。

儒教は「孝」と「忠」を重んじる。
老荘は、重んじることに至る構造を批判します。

「孝」と「忠」が重んじられるのは、それらが蔑ろにされる構造があるからです。
「孝」と「忠」は大切なことというより、当たり前のこと。
当たり前のことは、ただただ当たり前であって、とり当てて重んじられる必要はない。
重んじられることが大切だと考える思想は、深層で蔑ろにする構造を大切だと考えている。
そうでないと「重んじる」ということそのものが浮かび上がってこないから。


老荘の儒への批判は、ちょっとばかり的を外しているように思っています。
当時は「進化」や「発展」、環境適応という概念がなかったので、致し方なかったとは思いますが。

儒も老荘も、それぞれ環境適応です。
老荘は古く、儒は新しい。
老荘は古い分だけシンプル。

クリップスは、どちらかといえばもちろん老荘でしょう。

老荘もクリップスも、愚慫の概念でいうと〔人間〕より〔ヒト〕に近い。
ぼくは〔人間〕は〔ヒト〕に還るのがいいと考えていますが、それは〔ヒト〕と〔人間〕を価値判断して軽重を測ってのことではありません。

〔人間〕の中に〔ヒト〕はある。
だからこそ【社会】に適応して【人間】になろうとしていくことへの〈反撥〉がある。
儒の「孝」「忠」は、もともとはその反撥だった。少なくとも孔子の中では。
儒教となって確立され得た時点では、【人間】への適応経路になってしまいましたが。

大切なのは〈反撥〉です。
〔社会〕はどうしても【社会】になろうとする力学が働きます。
〔社会〕の中で生きる以上は〈反撥〉は欠かせない。

〈反撥〉が存在する場は、これもまた愚慫の言葉でいうと「剣呑」です。


クリップスはいい。
でも、剣呑ではない。
だからモーツァルトには似合うけれど、ベートーヴェンだと物足りない。
ベートーヴェンはやはり剣呑な人物です。


※ 追記

>それは〔ヒト〕と〔人間〕を価値判断して軽重を測ってのことではありません。

これはウソではないけど、ちょっと前まではウソでした。(^_^;)

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