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愚慫空論

霊性とディープラーニング(前編)

《魂》やら〔霊〕といった愚慫独自(?)の表記で指し示されている「なにものか」は、当『空論』のメインテーマです。
歴史についての思索も、すべてはここへ収斂します(する予定です)。


で。
当文章は前段がすでにあります。
こちらです。
(^o^)っ 『人工知能は人間を超えるか~ディープラーニングの先にあるもの』

もうひとつ。 (^o^)っ 『蜜蜂と遠雷』

当文章を書き始めるにあたって自分でも読み返してみましたが、例によって、わけがわからないだろうなぁ~(^_^;) という内容です。今回は、そこへさらに輪をかけることになると思います。


結論から先に行きましょう。
といっても、アナロジーでしかないのですけれど。



右側のディープラーニングの図における中間層。
左側のニューラルネットワークでは「中間層」となっていますが、ディープラーニングでは「中間層×n」となっています。
この“n”は、字義としては自然数(natural number)ですが、アナロジカルには、これこそが「霊性」です。
すなわち、n が大きいほど霊性が高いと言える。


ディープラーニングはニューラルネットワークの一種。進化形。
ニューラルネットワークは、多数の入力層でデータを受け取ります。
入力層とはセンサー、生物でいけば感覚装置。

感覚として入力されたデータが、幾層もの中間層を経て、とある「特徴値」を出す。
「特徴値」は、サピエンスいや生物においては、言語化される以前のイメージに相当します。
この「イメージ」はシニフィエ。
そして〔霊〕です。

そう、ぼくは今までずっと“シニフィエ”という学術的な言葉が存在する対象を勝手に〈霊〉などと読んでいたわけです。
これはバカバカしいことのように思いますけれど、ぼく自身、そう気がついたときにはバカバカしいことをしていたものだと思ったのですけれど、考え直してみるとそうでもない。

シニフィエの「厚さ」とでも呼ぶべき概念が存在しない。
いえ、これはぼくがまだ知らないだけなのかも知れないんですけれど。
とにかく今現在、ぼくが知らないことには間違いはないので、後に訂正する可能性は残しつつ、今は「霊性」と呼んでおくことにします。
というわけなので(?)、〔霊〕という記号も引き続き用いることにします。
「霊性とシニフィエ」より、「霊と霊性」の方が字面がいいですからね (^_^;)


言い訳のようになってしまいますが、ぼくが〔霊〕とシニフィエとを別物だと思い込んでいた理由は、そのまま霊性についての説明になります。
なので、言い訳をしてみます。


〔霊〕という言葉を使い始めたきっかけになったのは、この本です。



ここに「魂」という概念が提出されていた。
「魂」というのは、「人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと」

「運動」は動的平衡ですから、外に現れるものもあれば、裡に入れようとするものもある。
「裡なる欲求」というのは、裡に入れようとすることを捉えた“言い方”だとおもえばいいし、入れようとすることだって外に現れる形だということもできる。
そのような二重性に鑑みて、ぼくは《魂》という言い方をすることにしたわけです。


生まれたばかりのサピエンスは、《魂》だけの状態です。
《魂》だけのサピエンスは、ぼくの別の言い方でいえば〔ヒト〕。



〔ヒト〕は〔学習〕によって「人格」を成長させていきます。
「インターフェイス」に相当する部分は、「心理システム」という言い方をしてもいい。
〔ヒト〕が「心理システム」を待とうと〔人間〕になります。
「心理システム」は、乳幼児期⇒学童時期⇒思春期⇒成人期と発展する。

〔霊〕というのは、「心理システム」のなかにある概念。
愛情、お金、賞賛という現代人の心理システムを支える3本柱は、心理システム内の散逸構造だと考えることができると思います。


この三本柱のうち、ぼくの考えでは「お金」の存在は奇妙です。
なぜなら、サピエンスは貨幣なしでも生きていくことが可能だから。
サピエンスの誕生と共に貨幣があったわけではない。
貨幣は歴史の過程で誕生したものです。
それが、今や心理システムの最も大きな柱になっている。
愛情や賞賛も、貨幣に左右されてしまうことが多い。

ことによると、賞賛も不要かもしれません。
賞賛は〔社会〕的ポジションを確認するものですから。


では、その貨幣とは何か。
〔霊〕だいうのがぼくの直観です。
その直観にも基づいて、

 『霊から貨幣へ』

というシリーズを書き始めましたが、未完に終わっています。
このシリーズを書き始めた段階では、まだ思索が足りませんでした。

〔霊〕というのは、「インターフェイス」「心理システム」の中にあるリアルなイメージです。
それを〔霊〕と呼ぶのが良いかどうかは別として、リアルなイメージがぼくたちの中にあるのは疑いようのない事実です。
その事実は、その人にしかわからない共有不可能な主観的事実ですが、共有不可能だけれど、そうしたイメージがあるということは共有できる事実だろうと思います。

共有不可の事実が共有されているという事実。
これは「クオリア問題」と言われるものだと思っています。

このクオリアと正反対なのが、貨幣だろうというのがぼくの直観です。
リアルな具体的イメージはある。
けれど、生き生きとした感触は皆無です。
だからこそ、それを誰も主観的な事実だとは考えない。
考えないから問題にならない。


問題にならないところすっぽり忘れ去って構築したするのが経済学です。
でも、忘れているだけで、いえ、問題にするのを避けているだけで、実際の〔人間〕はクオリアのある〔霊〕によって動かされている。

今年のスウェーデン銀行賞(ノーベル経済学賞)は行動経済学の方が受賞したそうですが、行動経済学というのは、問題にするのを避けていた課題を、経済学の中に取り込もうとするものです。



長くなりそうなので、一旦、打ち切ります。
『後編』に続きます

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