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愚慫空論

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呼吸をするだけで幸せ

『NewsPicks』にハマっているのは、ご報告申し上げたとおりです。

で、今回もまた、『NewsPicks』より。
スミマセン、有料記事です。m(_ _)m



 【佐山×藤田×松山】禅マスターに聞く「欲は悪いことですか?」

 【佐山×藤田×松山】禅マスターに聞く「幸せとは何ですか?」

 【佐山×藤田×松山】禅マスターに聞く「いかに生きるべきか?」


「禅マスター」という言葉がおかしくて、読み始めました。
上級市民(w)の間で流行しているという“マインドフルネス”への違和感に触れられているかもという期待もあって。


期待どおりでした。
“マインドフルネス”を「もったいない」と断じています。


期待以上の収穫もありました。

 「呼吸をするだけで幸せ

という言葉。
第二回の「幸せとは何ですか?」に出てきます。
感受性が高ければ、と限定がつくんですけれど。

まさにこれです。

憚りながら申し上げますが、ぼくが今、居るところ。
もう、毎日毎日が楽しくて仕方がない (^o^)/

朝、目が醒める。
時刻は結構まちまちですけど。
まだ暗かったり、もう明るくなっていたり。
寝られる時刻に寝て、目が覚める時刻に起きる。
早朝から仕事があったりする日もありますが、十分に余裕を持って目が覚めます。

疲労が残っていることを感じる朝も、ないわけではない。
でも、それが不機嫌にはならない。

 「ああ、今、ぼくの身体はそういう状態なんだな」

と思うだけ。

 「じゃあ、どうするか?」

目が覚めてから身体が覚醒していく過程も楽しい。
動かせば身体は動きますけど、それは必ずしも覚醒ではないんですね。

まず、自覚するのは、尿意です。
それと渇き。

出すものを出して、欲するものを入れてやる。
出る感覚。
入る感覚。
毎日体験するけれども、色褪せません。

出すものを出して、緊張していた身体が緩んでいく感じ。
欲するものを入れて、それが身体と一体化していく感じ。

当たり前なんだけど、その当たり前がどれほど幸せなことか。
汲めども尽きない。
この幸福感はそういうものなんだという確信がある。


ぼくはこの感覚を〈愉悦〉という言葉に置き換えることにしています。

〈愉悦〉が明確に判れば、幸福とされているもののうちで、そうでないものも判ります。
それを〔快楽〕と言うことにしました。

多くの人が知っていて、求めるのは〔快楽〕のほうです。
でも、こちらは汲んでしまうとと尽きてしまうもの。
だから、〔快楽〕で幸せを感じようとし続ければ、新たな〔快楽〕を求め続けなければならない。

〔快楽〕で幸福を求め続けようとするならば、地球はいくつあっても足りません。
ということは、生命はそもそもそういう風には出来ていないということです。


〈愉悦〉の目で人間以外の生き物を眺めてみれば、見えてくるのは、動物でも植物でも、みな〈愉悦〉で生きているということです。

芭蕉の俳句が取り上げられています。

 よく見れば なずな花咲く垣根かな

これは〈愉悦〉です。
静かな〈愉悦〉。
でも、〈愉悦〉は静かなだけはありません。
むしろ、騒がしいものだというのが、ぼくの感じているところです。



〈愉悦〉をベースに生きることができるようになると、もちろん、ぼく自身が変ります。
ぼくの変化は周囲に変化を及ぼします。

まず変ったのは、一緒に暮らしている犬たちです。

以前、犬たちとの関わりについて、このような文章を書きました。

 ⇒『懺悔しなければならない』

我が家に棲息するフクとブー。
彼女らは、今では【敵】を探そうとするようなことはしません。

高齢だからそれだけの元気がなくなっている、という推測も成り立たなくはありません。
でも、観察のかぎりでは、上の文章を書いたころよりも元気なくらいです。
さすがに最盛期に比べれば、持久力・瞬発力は衰えているけれど、まだまだイケる。

一昨年くらいから発情期に見られる反応が薄くなってきて、それに比例するように生命力が衰えていっていた感はありました。
でも、今年に入ってから、むしろ生命力が復活してきたように感じる。
なのに、敵対的行動がなくなってきた。

それになにより、ブーに顕著だった怯えが見られなくなった。
同じ空間で暮らしながら、ぼくとは絆が薄かったブー。
絆が強くなったというわけではありません。
今でも彼女は家内の子です。
でも、それと「怯え」の消失とは関係はなさそうです。

彼女の「怯え」が消失したのは、ぼくの【怒】がなくなったからでしょう。
そうだと思うし、そうだと思いたい。
ぼくから【怒】がなくなったのは、自分の【怨】の在処を自覚できたから。
自覚ができれば対処を取ることが出来る。
それを「直」と言います。

 ⇒ 『復讐を為す、つまらない【我】』

今、ぼくにはフクとブーが愛おしくて仕方がありません。
以前から、彼女たちを可愛いと思っていたのには間違いがありません。
でも、なんというか、一枚ベールがかかっているというか、隔靴掻痒というか、可愛いと感じきれない自分にもどかしさを感じてもいました。


このもどかしさを顕著に感じた出来事を思いだします。
粟島で生活しているときのことです。

とある縁で、ぼくは粟島浦村で企画された山村留学立ち上げの仕事に関わることになりました。そして、そのまま、山村留学にやってくる子どもたちを受け入れる寮を管理する仕事に携った。家内は寮母として参加することになった。

この仕事。
立ち上げのほうは、及第点をもらえるかな、と今でも思っています。
けれど、引き続き受けた管理人のほうは落第でした。
もっとも肝心な要素が抜けていたから。

上に書いた「ベール」というのが、その要素を阻害するものです。

参加者の中にはひとり、小学生がいました。
当時、四年生の女の子。
その子を、どういう理由だったか、いえ、どういう状況だったかも忘れましたが、家内が一生懸命、足をさすってあげていたことがあった。
季節は、そう、ちょうど、今頃です。
もう寒くなり始めて、ストーブを点けるようになって。
ストーブの前で、家内が女の子の足をさすってあげていた。

その様子を眺めながら、ぼくは、「これはぼくにはできない」と思っていた。
無理してやれないことはないだろうけれど、その無理はきっと相手に伝わるという確信はあった。
無理が伝わると、相手の身体は強ばりますから。
さすってあげることの意味がなくなってしまう。

あとで家内に言いました。

 「よくやれるね」

と。家内の返事は、
 
 「親にそうやってもらっていたから、別にふつうのこと」

というもの。まあ、そうなんでしょう。

でも、今はそれをやれる自信があります。
記憶にはないところでは、やってもらっていたと思うから。
いえ、「思うから」ではない。「思えるから」です。
本当にそんな事実があったかどうかは、わからない。

もっとも、もっと深くオノレを探っていけばわかるのかもしれません。
が、こちらは今はスルーしておくことにしましょう。


変な話ですが、今では、その「ベール」があってよかったと思っています。
というのは、「ベール」があってこそ「ベール」が剥がれ落ちた感触もあるからです。

今から思えば、「ベール」がまとわりついていたことは、

 「呼吸をするのが苦しかった」

そう、ちょうど、マスクをしてような感じです。
何かから自身を守るためにマスクをするのだけれど、そのマスクが息苦しくて。
メガネをかけていると呼気で曇るし。

もちろん比喩ですが、その「何か」とは【怯え】でしょう。
これも比喩ですが、現代人には教育で獲得した知識体系(教養)という「メガネ」が必須で、
その「メガネ」をいかに歪みのないものにしても、自らの呼気で曇ってしまってはもったいない。

この「もったいない」は、まさに“禅マスター”とやらが“マインドフルネス”とやらに感じるそれと同じだと思います。

今となっては、以前の苦しい感触も貴重な財産です。
この感触から、いろいろと感じられることがあるから。


感じられると、自然に〈からだ〉は動こうとします。
自然な〈からだ〉の動きを阻害するのは【怯え】で、その【怯え】がもはやないとは言いませんけど、【怯え】の在処はつかんだと思う。
そうなれば【怯え】を怯える必要がなくなる。
自らの【怯え】の元になっているところへアクセスして、【怯え】を解除すればいいわけだから。

もうひとつの財産は、【怯え】をどうにかしようとして藻掻いて間に獲得した「メガネ」です。
「メガネ」を曇らせるもの――禅でいえば「小欲」――がわかれば、これを拭き取る方法もわかる。

手前味噌で申し訳ないけれど、『サピエンス全史』を下敷きに展開している私見は、そうしたぼくの「メガネ」です。
ぼくに【怨】を受け付けた者もまた【怨】を抱いていた。
その【怨】はどこからどのように始まって、どのようにすれば解消すればできるのか?

この問いは【怨】に苛まれている最中に捕まえようとした「藁」のようなものですけれど、解放されたからといって手放す必要はない。
手放す必要があるどころか、財産です。

あ、「藁」が「メガネ」です。
比喩はころころ移りゆくのでわかりにくいかもしれません。(^_^;)

ただ、せっかくの「メガネ」も「曇り」を拭き取る手つきがまだまだおぼつかなくて、ぎこちなく攻撃的になってしまうのですけれど、それも熟れてくるだろうと楽観することができます。
それもこれも、みんな楽しい作業だから。

この作業は、あくまでぼく自身が愉しむためのものです。
だから、それが他の者にとって役に立つかどうかは二の次です。
役に立てば、望外の悦び。

でも、せっかくだから、なるべく役に立つ形に整えていきたいとは思っています。
それも楽しいことに違いないという確信はあります。


確信があれば、あとは、もう、投げ出すだけ。(^o^)/

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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