愚慫空論

『サピエンス全史』その20~科学革命が起きた理由

『その19』はこちら (^o^)っ リンク

 



さてさて、やっと、科学革命に斬り込んでいくことになります。
正しくは、斬り込み直しというべきか。
『その17』で一度、斬り込みかけていますから。

『その17』は “科学革命という名の「正当化」”というタイトルでした


すみません、今回も、もう一度、同じことを違った表現で記述して見たいと思います。


斬り込み直しの出発点は、第13章「歴史の必然と謎めいた選択」とタイトルされたチャプターから。

ここについては、『その16』で取り上げています。
そのときのタイトルが“歴史における絶望”
ぼくはこの文章に、ハラリさんの絶望を見たような気がしました。

13章は第3部の最終章です。
第3部は、「人類の統一」というタイトル。
人類を統一する征服者として、帝国、宗教、貨幣が示された。


正直、ぼくは第13章がここに置かれている意味がよくわかりませんでした。


(前略)歴史学者はあれこれ推測することができるが、確実なことは何も言えない。彼らはキリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかを詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものになったかは説明できない。

「どのように」を詳述することと「なぜ」を説明することの違いは何だろう? 「どのように」を詳述するというのは、ある時点から別の時点へとつながっていく一連の出来事を言葉で再現することだ。一方、「なぜ」を説明するというのは、他のあらゆる可能性ではなく、その一連の出来事を生じさせた因果関係を見つけることだ。



このような文章がなぜ、第4部の直前に置かれているのか?
文章の内容からいえば、冒頭でもいいし、最後でもいい。
個人的には最後の締めにふさわしい文章のように思います。


上に書かれているように、「なぜ」は確実なことをいうことが出来ません。
なぜ、ハラリさんがこの場所にこの文章をおいたのか、当のハラリさんも把握していないかもしれない。
けれど、文章の批評といったものは、その「なぜ」に肉薄しないと意味がない。


「絶望」と「正当化」は裏返しです。
「正当化」とは「絶望」の隠蔽行為だからです。

ぼくがこの章に読み取った「絶望」を読み取ったのは正しいかどうかはわかりません。
だけど、そう読んだとするなら、それが「正当化」であることにも気がつくべきでした。

では、何の正当化か?

それは『その17』に示したものです。


ハラリさんが言うとおり、歴史における「なぜ」は、絶対的にはわかりません。
ですけれど、人間は「なぜ」を問わずにはいられない生き物です。
歴史もまた、その「なぜ」の問いかけの一形態。
歴史は「どのように」の詳述に終始するものではありません。

それは『サピエンス全史』という本にしてからが、そうです。
『サピエンス全史』という本は「どのように」を詳述した本だと、たとえ著者のハラリさんが主張したとしても納得する人は少ないでしょう。


ハラリさんが卓越しているのは、その「なぜ」の問い方が慧眼に満ちているから。


古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。その場合、必要な知識を得るためには、誰かもっと賢いひとに尋ねさえすればよかった。まだ誰もしらないことを発見する必要がなかった。(中略)

第二に、伝統全体重要でない事柄に無知な場合。当然ながら、偉大な神たちや過去の賢人たちがわざわざ私たちに伝えていないことは、何であれ重要ではない。(中略)これが人間の繁栄と救済にとって必要な、重要極まりない情報だったら、神は聖書に広範囲に及ぶ説明を含めていただろう。




この記述は、「どのように」の記述ではありません。
「なぜ」の記述です。
どのような「なぜ」の記述かといえば、“科学革命以前の人間は、なぜ無知を発見しなかったのか”という「なぜ」です。

このようなことも記述されてあります。

ただし実際には、物事はそこまで単純ではなかった。どの時代にも、たとえばどれほど敬虔で保守的な時代にも、自分たちの伝統全体が無知である重要なことがらが存在すると主張した人はいた。だが、そのような人々は、たいてい無視されたり迫害されたりした。あるいは、あらたな伝統を創造し、自分たちこそ、知るべきことをすべて知っていると主張し始めた。(後略)



この記述も、“科学革命以前の人間は、なぜ無知を発見しなかった(できなかった)のか”についての記述です。


もちろん、この「なぜ」への問いと回答が絶対的に正しいわけではありません。
ないけれども、そのように「なぜ」を問うたならば、それに引き続く「なぜ」があって然るべき。

歴史の事実は、ハラリさんの見解によると、上述のような「なぜ(理由)」があったにもかかわらず「無知の革命」が起きた。
では、その「なぜ」は問えないのか?

いえ、問えるはずです。
ハラリさんが展開してみせた「なぜ」を反転させてればいいだけのこと。

重要でないとされていたことが実は重要だと思い為さしめる出来事があった。
その出来事とはもちろん、新大陸「発見」です。

では、新大陸「発見」は、一体、何を改めて重要だと思い為さしめたのか?
金が重要。
しからずんば銀が重要。

コロンブスは、自らが「発見」した大陸がインド大陸だと思い込んでいました。
それが事実であったならば、「無知の革命」は起きなかったかもしれません。
起きたとしても、ヨーロッパではなかったろうと思います。

コロンブスは、計4回、「インド」に遠征しています。
2度目からははやくも金を探索しています。
金を探索して、原住民を虐殺している。
が、コロンブスは望むものを見つけることができなかった。

コロンブスの「願望」を実現したのは、コロンブスのあとに続いたコンキスタドールたちです。
コルテスはアステカから、ピサロはインカから、「望むもの」をせしめた。
その「成功」が「望むもの」の探索をさらに動機づけた。
そして実際、「望むもの」は大量に見つかった。
メキシコにも、ポトシにも銀山が発見された。
その銀がヨーロッパに繁栄をもたらした。

そのような土地が、実はインドではない未知の土地だということが明らかになった。
つまり、ここで、桁外れに儲かる行為が、未知のものを探索する行為であったことが明らかになった。
未知が「人間の繁栄と救済にとって必要な、重要極まりない(無)情報」だということになった。


宗教の教義が逆転した。
そのような出来事が生じるのは、「奇跡」があった場合だというのが歴史の答えです。
正確にいえば、歴史だと認定された場合。

たとえばキリスト教。
イエスの復活は事実だったとしても、それだけでは「奇跡」になりません。
それが広く認定される必要があった。

コロンブスのは「発見」は「奇跡」だったかもしれません。
だけど、コロンブス自身が自らが「奇跡」を為したとは思っていなかった。
新大陸「発見」を奇跡だと認定したのは、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーです。
キリスト教で言うならば、ヴァルトゼーミュラーはパウロでしょう。

その「パウロ」が、「奇跡」を為したのはアメリゴ・アメリゴ・ヴェスプッチだとした。
だから新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるようになった。
皮肉なようですが、コロンブス自身が「奇跡」だと思っていなかったのだから、べつにかまわないでしょう。


皮肉というならば、むしろハラリさんかもしれません。
なぜ、科学革命の「なぜ」を問わなかったのか?
自身が立てた「なぜ」とその答えを反転させればよかっただけなのに。
問いさえすれば、答えを見出すだけの材料は自ら調えたのに。
不思議なことです。

その「なぜ」のなぜを問うならば、ハラリさんがヨーロッパ人だから、というのが順当な答えであるような気がします。
もっとも、他に可能性があることは、言うまでもありません。



『その19』で、ぼくは次のように書きました。

世界宗教に共通する特徴は“救済”です。
なぜ世界宗教は「救済」を希求するのか?

救済を希求する者がいるからですが、〔ヒト〕はそもそも救済を求めていない。
救済を求めるのは〔人間〕です。
〔しわよせ〕を受けるからこそ、救済が必要になる。


新大陸「発見」という「奇跡」が起こしたのは、新たなる〔しわよせ〕です。
新大陸と呼ばれた人に以前から暮らしていた住民たちが〔しわよせ〕を喰らいました。
その〔しわよせ〕は今、なお続いています。

科学革命の萌芽になった「無知の革命」は一部のヨーロッパ人を〔しわよせ〕から一時的に解放したという意味では宗教の代替手段になったといえます。
いえ、代替手段ではなく、別の形態の宗教になったと言っていいのかもしれません。


『その21』へと続きます。

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