愚慫空論

5金スペシャル映画特集~ロクでもない世界の現実を映画はどう描いているか

面白いです。
圧倒的に面白い。
とくに後編。





5金ということで無料の配信。
時間があるならもちろん両方観るのがオススメですけれど、後編だけでもいいかもしれません。


まずは個人的な所感。

宮台さんのことは、かつては嫌いでした。
考え方は勉強になると思っていましたけれど。

それがだんだん好きになりかけてきて、今回は決定的に好きになりました。


彼はもともとから「疎外されている者へのまなざし」を持っている人です。
それは、彼も「疎外された者」だったから。
そこはぼくと同じ。

でも、だからこそ、ぼくは彼を好きになれなかった。
彼は「疎外されたこと」を「立場を獲得すること」で乗り越えようとしていたから。

 「社会学者の宮台真司です」

彼はいつもそのように名乗ります。
社会学者であることがこの人の【アイデンティティ】なんだよなぁ、といつも感じていました。

このように【アイデンティティ】を持つ人の振る舞いは攻撃的になります。
口では“包摂な”どと唱えながら、でも、振る舞いはそうではなかった。
ぼくはそういう彼の振るまいが嫌いでした。


なぜ嫌いだったのか、いまではよくわかります。

ぼくもそうだったからです。
ぼく自身の自己嫌悪を見せつけられているように感じていた。


「疎外されている者へのまなざし」は、自身の自己嫌悪を隠蔽するための手段です。
その隠蔽はしかし、自分ひとりだけでは完結しません。
周囲からの承認があって初めて完結する。
【立場】を獲得し、【アイデンティティ】を確立することで完結する。

この完結は、しかし、あくまで言語上のもの。
【アタマ】の領域です。
〈からだ〉の領域では完結できない。
それは原理的に無理なことです。

宮台さんの自己嫌悪は、その「振る舞い」から漏れ出ていました。
同類であるぼくは、そこに感応せざるを得ない。
そして、自分自身の自己嫌悪を宮台さんを通じて見せつけられてしまう。

だから嫌いでした。


でも、今は違います。
宮台さんは【自己嫌悪の軛】から脱したようです。
そのきっかけは、子を為して家庭をもったことだろうと想像しています。

ぼくも脱しています。
ぼくの場合は「復讐」を始めたことがきっかけでしたが。



後編の映画批評を観ていて強く感じたのは、【自己嫌悪の軛】から脱したことから生まれた自由。
徹底的な〔虚構〕の相対化です。

法外にこそ「人間の本当のところ」がある、と。


いつものように偉そうに言わせてもらいます。

「人間の本当のところ」。
これはぼくが言うところの〔ヒト〕です。

〔虚構〕を学習することによって〔ヒト〕は〔人間〕になる。
【虚構】は〔システム〕を構築し、〔システム〕は【システム】となってしまっているから、
〔人間〕もまた【人間】になってしまう。

“ロクでもないやつら”とは【人間】のことです。
“ロクでもない世界”とは【社会】のことです。


宮台さんの映画批評は、そもそもからして文明批評だったろうと思います。
追いかけてきたわけではないので、確信はありませんけれど。

その文明批判は、これまでは【批判】でした。
けれど、〔虚構〕の相対化を経た今は、〈批評〉になっています。

【批判】と〈批評〉の違いは、前者には「絶望」があり、後者は「希望」があるということです。
絶望も希望も、ともに〔わたし〕の反映です。

自己嫌悪を抱いている者は絶望を。
自愛にたどり着いた者は希望を。

それぞれ、自身の〈からだ〉の振る舞いとして出てくる。



ロクでもない世界になるのは必然。
が、それはそのような条件が成立しているからである。
では、どのようなファクターをコントロールすれば、そこから脱することができるのか?

この問いは「魂の脱植民地化」の問いとまったく同じものです。


そのファクターとは【ハラスメント】です。
〈学習〉を阻害すること。
けれど、まだ、宮台さんにはそのことを認めるのを阻害する心理的障壁があるらしい。

そのことが観て取れるのがここのところ。



神保さんの問いに宮台さんは真っ直ぐ答えない、この場面。
こういう振る舞いにはわけがあります。



最後にもうひとつ、気になったところを指摘しておきます。
ここのところ。



ぼくたちは未来を選択できると考えている。
この時間感覚が始まったのは定住社会だと、柄谷行人さんの主張に同意をしています。

が、これは、誤りとは言わないまでも、重要なところを見落としているように思います。

「未来は選択可能」という時間感覚が、農業革命を経て定住するようになった文明社会のものだということは同意できます。けれど、文明社会においても長らく「未来は選択不能」という感覚は生き残っていて、最近まではそちらの方が支配的だったとぼくは考えている。

「未来は選択不能」という感覚の極点が宗教です。
近代化の前夜に生まれたプロテスタンティズムの「予定説」などは、まさにそれです。


「未来は選択可能」という時間感覚が支配的になったのは科学革命があったからです。
経済的な条件が成立したことによって科学革命が生じた。
その条件は定住文明でなければ生まれなかったものですが。


このことの理解へと至るには、貨幣へ【アイデンティティ】が障壁になります。
つまり、オノレ自身の今の暮らしを顧みることができないと、理解ができない。

理解とは感覚の発達です。
感覚の発達は意志によって成し遂げることができる。
もちろん限界はありますが。
意志は知性に下支えされ、知性は理性によって際立つ。
自身の暮らしを顧みるのは理性に他なりません。

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