愚慫空論

孫正義の天才工場

早く『サピエンス全史』の続きを上げなければ焦ってはいるんですが
『その19』で予定しているまとめがなかなか難産でして。

ぼく自身の視点が一定していないというか、書き始めると別の視点が浮かび上がってきてしまって支離滅裂になるという...(^_^;) 
だもので、『サピエンス全史』の答えに当たる部分、『Homo:Deus』への批判に相当するような記事でお茶を濁すことになってしまうというか...


みたび『NewsPicks』より。



でもって、またしても有料記事です。



言い訳かもしれませんけれど、この記事の中身そのものは、お金を払って読む価値があるとは感じません。
上の画像から記事のページに飛んで、そこあるコメントに目を通せば、中身はだいたい予想がつく。
その予想を自分の目で確かめたいのならいいですけれど、予想でいいならそれで十分。
予想を裏切る発見がある記事でもありません。



いい話だと思うけれど、残念な話だとも思う。

孫正義さんが素晴らしい人だということはよくわかります。
「いい人」ですよね、孫さん。その上、お金も持っている。
だから素晴らしい。

けど、それは諸刃の剣でもあると思います。

孫さんが他人を支援するだけの余裕を持ち得たのは、彼が「いい人」だったからか? 
「いい人」がお金持ちになるというのが社会の法則だとしたら、今頃世の中は素晴らしいものになっているはず。

ところが、現状は真逆です。
真逆だからこそ、孫さんのような人が光る。

孫さんが個人的に果たそうとしている役割は本来は社会が果たさないといけない。では、国家が果たすべきか?

現在の常識ではそうなっていますが、これも現実を見ると、国家もその役割を果たせていない。

もうね、国家のような組織がそうした役割を果たすのは原理的に無理なんだと考えた方がいいと思います。

「いい人」が他人を支援できるような余裕を持つことができるシステム。
「いい人」であることが余裕につながるシステム。

人類はもはやそういうシステムを実現するに足る技術を獲得していると思う。
なのに実現できないのは、孫さんが素晴らしいから。
素晴らしいと思って、それを「正義」だと思ってしまうからだと思う。

そこが残念だと思う部分。
偏屈な意見だと自分でも思うけれど。



ぼくのコメントです。
いつもの主張です。

でも、言い足りないと思って、当記事をあげることにしました。


「いい人」が他人を支援できるような余裕を持つことができるシステム。

ここで連想したのがイスラームです。
イスラームはそういうシステムではないのですけれど、別の方法で他人への支援を実装しています。

それは"神からの命令”という体裁を取っています。
「喜捨」というのがそれです。


イスラームはすこぶる社会的な宗教です。
宗教が社会的なのは当然のことですけれど、イスラームはとりわけ社会的。

内心は問題にしない。
本心では神を信じていなくても、別に構わない。
まあ、「本心(内心)」などというものがあればの話ですが。

ムスリムはつねに外面的な振る舞いを問われる。

「内心」の存在を信じそこを根拠にするならば、それは個人的と言える。
「振る舞い」が根拠とされるなら社会的だと言える。
単純な区別だと思います。

ちなみにぼくは、心身一体の考え方を取るので、「内心」か「振る舞い」かいった問いそのものが無効だという答えになります。


孫正義さんは、この宣伝臭い記事を真に受けるならば「いい人」です。
「いい振る舞い」をする人物。
そしてその「振る舞い」は、宗教的に強要されたものではない。
だから彼の「内心」が「いい人」だろうという推測が成り立つ。

イスラームではそういう推測自体が無効です。
「振る舞い」が「いい人」で、それは神の命令に従っているという体裁になる。
この“体裁”こそが実は「内心」なんですけど。

つまり、「内心」は神への信仰という一点に集約されていて、それは「神のみぞ知る」という構造になっている。
神のみが知るわけだから、人間はそこを問題にすること自体が構造上不可のことになって、内心は問わないという「振る舞い」になります。
「神への信仰」は、「内心を問わない」という振る舞いとなって体現される。
その体現を為すことができる者、体現しようと自らの課す者たちがムスリムです。


これは非常に合理的なシステムだと思います。
入信してもいいと思うくらい。
ぼくが自分を日本教徒だと自覚していなかったら、入信したかもしれません。
幸か不幸か、日本教徒への自覚の方が先立ったので入信には至りませんでしたが。

では、日本教徒とは何か?
そのキモが“心身一体”です。
で、その本尊が(法身の)野口晴哉師という思考構造になっています。


その宗教心から出てくる発想が

  >「いい人」が他人を支援できるような余裕を持つことができるシステム

ということになる。
イスラームだとこういう発想にならないでしょう、おそらくは。

余裕がまず関係ありません。
この発想の前提が農耕社会的です。
共同体の成員がそこそこ経済的に平等という前提。
今では“理想”になってしまいましたが。

イスラームでは経済的平等という前提がない。
かの宗教システムは遊牧民&商人の経済が基盤ですから、そもそも不平等がデフォルトです。
でも、不平等のままだと共同体(ウンマ)が維持できないから、神が命令を下す。
喜捨せよ、と。



キリスト教にも喜捨の思想はあります。
イスラームと同じ、一神教の系譜ですから。
でも、日本教にはそれがない。

なので、経済の実態が遊牧民&商人“的”になってきてしまって、その経済に〔人間〕が適応してしまったときに、共同体維持の歯止めとなる歴史的・宗教的な基盤を持たない。

でも、逆に言えば、 そうした歯止めが必要のない経済がずっと維持されてきたとも言えます。


思いだすのは、ビデオニュースドットコムで宮台さんが師匠の小室直樹博士のことを語っていたことです。

小室氏は確か会津の出身で、生家はとても貧しかったという。けれど、子どもの頃から学才に恵まれていて、そのことを周囲の者たちが認めて期待をかけて、氏を学校へやる資金を提供したという。

明治時代の日本の農村が、貧しい家の子どもに学資を楽々提供できるほど余裕があったかどうかは疑問です。
明治期の農村は、為替政策の大失敗で金銀が国外へ流出してしまって、とても貧しいことになってしまっていた。

でも、そうした「マインド」は残っていたのでしょう。
明治期に先立つ江戸期では、そうした余裕がある経済であって、その経済に適応した宗教心とでもいうべきものがまだ生きていた。小室氏はそういう恩恵に、まだというか、辛うじて預ることができた。


ところが、現在は、経済が農村的なものから遊牧民&商人“的”なものになってきてしまっている。
そうした〔システム〕の元で暮らしを営む〔人間〕は、その〔システム〕に適応してしまって、かつて持っていた「マインド」が失われてしまった。

その代わりに登場してきたのは、孫正義さんのような人。
彼はムスリムではないけれだろうし、クリスチャンでもないだろうけれども、振る舞いとしてはそういう振る舞いをする。

そしてそれは残念なことだと思います。


なぜ残念に思うか、そう考えるかというのは長い説明を要します。


イスラームは遊牧民&商人の経済が生んだ宗教です。
現状の経済システムは、農民の経済が基盤になっている。
それがいつの間にか、遊牧民&商人“的”なものへと変質してしまっている。

孫正義さんは、経済システムを遊牧民&商人“的”へとさらに変貌させるのに大きな役割を果たしている人物です。
そのことが残念なこと。
意地の悪い言い方をすれば、農民的なものを収奪してきた人です。
そしてさらに、農民的ではない者(天才)を育成しようとしている。

この流れで社会は保つのか?
ぼくには疑問です。


では、その変質はどこで起きたか。
何がきっかけでその変質が生まれたのか。

ぼくが持ち合わせている答えは「科学」です。


さて、『サピエンス全史』を続けなければ。


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