FC2ブログ

愚慫空論

「共有できないはずの感覚」が信頼をつくる

ここのところ『NewsPicks』のハマってしまっていまして(^_^;)



ふと目に留ったオリジナル記事が読みたくて。



オリジナルだから有料の記事で、でも読みたかったから課金してしまいました。

「お金を支払う」というのは厄介なことです。
負担感があるので、正当化しようとするというか、取り戻そうとするというか。
せっかくだからということで、あちこち見て回ることになったのですが、これがなかなか面白い。

NewsPicksもSNSです。
自らがニュースのPickerになって、他のPickerをフォローすると、その人がPickした記事が自分のタイムラインに表示されていく。記事毎にどれだけPickされたかも表示される。

やっぱり人間のつながりで文章を読むというのは面白い。
加えて、Pickをする際にコメントを加えられるのがいい。
1000字という制約がありますが、記事を読んで思ったことを書き込めるのがいい。

「自らの考え」といったようなものは、何か定型のモノがあるわけではない。
「何ものかの反映」として浮かび上がってくる性質がある。
関心をもった記事をよんで、自分の文章を連ねていくと、「自らの考え」が相対的に見えてきます。

気に入った記事をブログで取り上げるということもいいのですが、同様の行為がずっと手軽にできて、それでつながるのだから、ぼくのようなアタマデッカチの人間にはぴったりな感じ。

まあ、そのうち飽きは来るでしょうが...


そうやって巡り会っている記事たちの中で、とびきり関心というより歓心を惹いたモノがありました。




山極壽一さんへのインタビュー記事です。
前編・後編の2回に別れています。

「チームワークを発揮できるのは、全動物の中で人間だけなんです」

 人間の五感は「オンライン」だけで相手を信頼しないようにできている


「チームワーク」と「群れ」の違い。

「チームワーク」とは、目的と計画性がセットにならなければならない。
ひとつの目的を全体で共有して、計画性に基づいて行動するのがチームワーク。

チームでは、個体が個別に異なる動きをする。
ひとつの目標に向かって各自バラバラに動くことができるのはサピエンスだけだというお話。


では、サピエンスはなぜそのようなことができるようになったのか?
熱帯雨林を出たからだ、というのが山極さんの答え。

熱帯雨林は類人猿の、いわばホームグラウンド。
ホームグラウンドから出る選択をしたサピエンスは、アウェイの場所で生き延びるのに「チームワーク」という選択をした。

サルは、一対一の関係のなかで、相手に合わせて振る舞いを変えます。サルは群れのメンバーを識別していますし、社会の複雑さに応じて、それぞれの個体によって適切な行動をするように脳を働かせていると言われています。

ですが、人間の場合はもっともっと複雑で、第三者、第四者との関係のなかで、「どう行動すれば目的を達成できるか」を考える想像力を持っています



第三者、第四者との関係。これは、言語構造にリカージョンがなければ不可能なことです。

正確に言うと言葉よりも先に音楽がありました。音楽を奏でて、遠くにいる仲間に直接的にメッセージを伝えたんです。



この指摘も面白い。
音楽は伝播性ということでは言語よりも高い。
それが先だったというのは、納得のいく話だと思います。

ピダハンたちの言語が音楽のようだといわれていることも思い出されます。

だけど、音楽では再帰構造を持たせることが難しい。
どこかで感覚構造の変化があって、認知革命が起こり、今日のリカージョンをもつ言語が生まれたのでしょう。

言葉ができる前は、人間も五感を通じて身体的につながっていたわけですよ。五感のなかで、一番リアリティをもたらすのは視覚と聴覚です。「見る」「聞く」は共有できる感覚ですから。



この指摘はちょっと違うような気がします。
視覚と聴覚とに最もリアリティを感じるのは、言語を習得した〔人間〕特有の現象ではないかと思います。
「見る」「聞く」が共有可能になったのは、言語が生まれて以降のこと。
言語が生まれて「見る」「聞く」が共有可能になったからこそ、視覚と聴覚にリアリティが生じた。
このリアリティは、そもそもからして社会的。

触覚や嗅覚、味覚は100%共有することはできません。(略)

ところがおもしろいことに、この触覚や嗅覚、味覚という「共有できないはずの感覚」が、信頼関係をつくる上でもっとも大事なものなんです。



とてもとても面白い。

ぼくは『身体的価値と言語的価値 (未完結編)』で次のように書きました。

 生物である〔ヒト〕には感覚があります。

 感覚は生存に関わる。
 ゆえに、感覚入力は主観的な実在感を惹起します。
 実在感に直結する1次の感覚は、触覚・味覚・嗅覚。

 視覚・聴覚は、実在感においては、2次の感覚になります。
 2次である証拠に、実在感のない視覚・聴覚がある。
 他人事のようにものを視たり聴いたりしている経験は、誰しも持っているはずです。

 言語は視覚と聴覚の複合感覚であり、3次。


生存に直接関わる1次の感覚は共有できない。
それは、生存はまず個別的・身体的だからです。

ですが、いえ、だからこそ、1次の感覚を共有することが信頼へとつながる。
「共有できない感覚を共有する」という、言語的には矛盾する行為が信頼を生む。
とても腑に落ちます。

言語的に矛盾してしまうという事実は、信頼は書き表せないという事実と付き合わせてみると、これまたとても腑に落ちるような気がします。



余談です。
ふと、思いました。
サピエンスに体毛がない理由です。

サピエンスが体毛を喪失したのは、「共有できないはずの感覚」のひとつである触覚を鋭敏にするためではないのか。

今のところは体温調整のためという説が有力なようだけれど、確かにサピエンス以外にも体毛をなくすことで体温調節をしている動物もいるけれども、類人猿たちは熱帯で暮らしていながらも立派な体毛を持っている...




サピエンスのチームワークは、「共有できないはずの感覚の共有」が基盤になっている。
チームワークの限界は150人。

チームワークの大きさが150を越えて〔社会〕となり、「共有できる感覚の共有」によって〔秩序〕が形成されていった――

これはぼくが常々主張しているところなので、ここで繰り返すのはやめておきます。


いずれは、脳だけでつながってそれを幸せと感じる人間も現れるかもしれないけど、今はまだ人間は身体でつながり合っている方が幸福だと思いますよ。



そうです。
今はまだ、です。

種の進化がさらに進んでホモ・サピエンスがホモ・デウスになるならいざ知らず、というか、そんなことはどう転んでも知りえないことです。
ぼくたちは身体でつながり合っているほうが幸せと感じるホモ・サピエンス。
いくらあがいても、その事実からは抜けだしようがない。

抜けだしようないなら、そのように生きるだけ。
そのように生きることを阻害するものを見つめて、あるいはやり過ごし、あるいは撥ねのけようとするだけ。


やり過ごすのか、撥ねのけるのかは、基本は個人個人の選択。
とはいえ、完全に個人とはいえなくて、環境が密接に関連する。

やり過ごせる環境にいるのであれば、やり過ごせばよい。
撥ねのけなければ生きていけないならば、撥ねのけて行かなければならない。

後者が多くなると社会は不安定になって、やがて大きな社会変革が起きる。
それは歴史が証明することだと思います。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/1051-e82308c4

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード